緋友禅(2003)

北森鴻
「冬狐堂」シリーズの短編集である。
「狐罠」の時「この世界に対する掘り下げ方が尋常ではない」と書いたが、短編集でも同じである。
陶器、埴輪、友禅、円空仏(これのみ中編)
唖然とするばかりである。
そしてそれに絡む切ない人間模様は、もうミステリーの枠を超えているといえる。
ちなみに「狐罠」に登場した個性的な刑事二人も登場する。

瑠璃の契り(2005)

北森鴻
「冬狐堂」シリーズの短編集である。
今回、宇佐美陶子は網膜剥離の恐れのある飛蚊症にかかる。前にも書いたがどれだけ陶子をいじめるのよ(笑)
でも、そのおかげでミステリーの謎が解けたりするのだが。
今回のテーマは、和人形、洋画、瑠璃ガラスの切り子碗、ビスクドールの生き人形(これのみ中編)
短編集の最後は中編というパターンなのかな?
出版されている「冬狐堂」シリーズはこれで終わり。北森鴻、次は何を読もうかな。

なぜ城が二つ

先日の地方紙の読者欄に「駅で観光客に「城はどこですか」と聞かれ「二つありますがどちらですか」と答えると「どうして二つあるのですか」と聞かれてちょっと困った」といった内容が投稿されていた。
要は、観光客の質問にも答えられるように、地元の事をもっと勉強しましょう、という話なのだが、ちょっと考えてしまった。
この観光客は「城」を目当てに来たわけである。それも(その後の記述によると)「根城(ねじょう)」という天守閣の無い城である。天守閣は元々戦国後期以降に作られるようになったもので、それ以前は、柵と館があればそれで「城」だった。
そもそも一つの藩に城が一つというのは江戸幕府による「一国一城令」以降のことである。
戦国時代はそれぞれの国の要所要所に城があるのがあたりまえ。
また、江戸時代には「藩主」と「家臣」の関係は絶対主従になったが、戦国時代以降は、他国からの侵略を防ぐための小大名の寄り合い所帯で、その中で(合議的に)代表として「殿様」を選んでいたというのが現実である。なので、城持ち家臣などというのは当たり前(というか、家臣はそれぞれが、その領地を治めていたのだ)
しかし、江戸幕府以降となるとそうはいかない。将軍が「殿」で「藩主」が家臣だから、その末端である「藩主」の殿と「家臣」の関係を絶対にしておかないと、江戸幕府そのものが成り立たなくなるからだ。(その流れに逆らったのが九戸政実
そうして、いくさの心配も無い。城は殿様だけが住む、となって「一国一城令」となる。
よって、廃棄された城はいっぱいある。
次に「根城」であるが、江戸時代まで残りその後廃棄されたものの、本当の価値は「根城」が南北朝時代に作られた城であるということで、現在史跡として発掘されたり復元されたりしているのは、この時代の城だという事が貴重だ、という事からなのである。
なので、同じ八戸市内に八戸藩の城である「八戸城跡」と「根城跡」が並存するわけである。
さて、ここで話は戻る。この観光客はわざわざ「根城」を尋ねてきたわけである。
一般的には「城=天守閣」であるが、そういうイメージをもつ、さほど歴史に詳しくない人が「一国一城」が当たり前と思って「なぜ二つあるのか」と聞くなら、まだわかる。
しかし天守閣の無い城「根城」を尋ねてきた、という事は、ある程度城について知っていて「城=天守閣」のレベルではない人だと勝手に想像する。そんな人が「なぜ二つあるのか」等と聞く事自体がちょっと信じられないわけだ。

おおざっぱな南部氏と根城、八戸城の歴史

鎌倉時代、幕府の命により南部光行(源義光の玄孫)が甲斐南部から八戸:糠部へ入る
南北朝時代、南部師行(南部光行の五代あと:陸奥守北畠顕家に従う)が八戸:根城を作る。その後北朝を支持した南部氏宗家は衰え、南朝を支持した南部氏が根城南部氏(八戸氏)の始祖となる
その後の経過は不明だが三戸に拠点をおく三戸南部氏(盛岡南部氏)の勢力が強まり(根城南部氏の支族と思われるが一説によると北朝を支持して衰えた南部氏宗家の末裔)が南部氏の中心的存在になり根城南部氏は、尊重されるも勢力は衰えてくる。
この後豊臣秀吉の天下統一に伴い、「藩主」と「家臣」の絶対主従の流れに従って、根城南部氏は三戸南部氏の家臣に位置づけられてしまう。(逆らった九戸政実は秀吉軍に一族皆殺しにされる)
江戸時代になり三戸南部氏は三戸から盛岡へ居城を移す(盛岡南部氏)
それに伴い根城南部氏は遠野へ移封となる(遠野南部氏)
三戸南部氏の支城として八戸城が建てられ、根城は廃棄となる。
南部重直が嗣子無く亡くなった後、幕府裁定によりその弟二人に南部藩を分割して相続させ、八戸藩が創設されて八戸城は八戸藩の藩庁となる。