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天使も踏むを恐れるところ

2012-09-17

映画で見る団地50年史

00:16




「駅前シリーズ」

61年、映画はカラーになったばっかり。俳優は森繁久彌、伴淳三郎、フランキー堺。舞台は増設中の喜劇駅前団地と百合ヶ丘団地。洋館型を敷き詰めたほうがたくさんの人が住むことができるけど景観重視なのでスターハウスポイントハウス(アクセントになる変わり種の建物)を間あいだに挟んでいる。団地住民層の実態がまだしっかり把握できていないのであえて表現されていない。そのせいで住民がほとんど出てこない映画になっているけどその反面団地のシーン以外で登場する成金層については細かく描かれている。時代背景が高度経済成長の頭なのでちょうど都市人口が農村人口をこえる頃。63年にバカンスブーム、レジャーブームがあったため映画の脚本で主人公が箱根に行きがちになる傾向があった。












「無責任シリーズ」

植木等が出世する話。舞台は荻窪団地、「死ぬまでここにいるわけじゃないから〜」と雑に作られた内装と狭い廊下の独身者専用棟。独身団地というと今見ると矛盾があるがこの頃はこのタイプの団地が多かった。映画業界がさすがにテレビの勢いを無視できなくなってきていた時期で、これまで根付いた「映画会社についた俳優はテレビに出れない」という暗黙の了解を打ち破った作品。すみれガ丘駅という架空の駅が出てくる。一般人がコーラを飲める様になったのは62年、それまではリゾート地で外国人が飲むものだったが、植木等がハッスルコーラという名前のコーラを一般家庭向けに商品化しようという提案を社内会議で持ちかける。商品化検討のために試飲でマッスルコーラを飲んだ途端に白黒映画からカラー映画になる演出。ただしコーラの効果がきれると再び白黒に戻る。トルコ風呂とロマンスカーのシーンを喜んで映画会社が使いたがっていた時代。









「下町の太陽」

山田洋次監督。映画が階層の低い人の娯楽だった時代。団地に住んだらオーディオを買うのが当時のモダンライフのあり方で、消費生活としての団地住まいだった。ホワイトカラーつまり精神労働者の青年が「青空の見える煙突のない郊外に住もう」とわざとらしく嘘くさいセリフに続けてプロポーズをする。団地を否定するが文化的生活の否定というよりは下町の肯定であり、寅さんの六年前なので、早すぎるモダニズム批判。(ただ、「狭い部屋で化粧をして帰りを待つのは嫌だ」というセリフだけは団地の否定というよりは単なるマリッジブルーなのでは?)結婚してしまってから遅すぎるライバルが「今の俺は出口を塞がれた溶鉱炉だ!」と訳のわからないセリフと共に登場。ライバルはブルーカラーの肉体労働者で心なしかホワイトカラーの主人公よりもイケメン。精神労働者の団地男vs肉体労働者の工場男で女の子を奪い合い、最終的にライバルの工場男が略奪愛に成功して工場のシーンでエンドをむかえる。公害に対する意見がない時代だったからこその工場肯定。









「しとやかな獣」

62年、川島英夫監督(アイディアを持ってきたのは新藤兼人)。団地映画の最高峰。団地の中だけで全ての物語が完結している映画。オープニングとエンディングが能の音楽で本編には一切BGMがない。ずっとドアが開けっ放しになっているところは当時を忠実に再現している。飛行機の音が近い、つまり大きな高い建物に住んでいるというアピールでもある。第二次対戦後世界は若さに寛大すぎる。世代論や文明批判はこの頃から盛んになる。






「秋刀魚の味」

64年、小津やすじろう監督。映画業界はカラーになって3年目。嫁が嫁ぐストーリーだけを延々と書き続けた集大成。嫁が嫁ぎガランとした部屋に姿見だけを残して置く演出がお決まりのラストシーン。机やふすまを中心にシンメトリーで水平垂直な位置にカメラを必ず設置するというこだわりが全てのシーンに適応されているがこの姿見だけ水平ではない。「おまえの演技より俺の構図が大事だ!」という考えの監督だったため役者が構図、間取りの邪魔をしないようセリフを棒読みにさせていた。ただし酔っ払いのシーンのみに迫力をもたせている。普通お夕飯のをつくっていて材料が足りなくなった際お隣に借りに行くのは塩や味噌と相場が決まっているものだけど、それだと監督の美学に反するという理由から調味料類ではなくトマトをふたつ借りるシーンがあっておもしろい。現実的に考えると不自然なのに映像全体として見ると廊下の奥に消化器、手前赤いバケツを配置するなど赤の対比が行われているためまとまりがある。映画の中にまるでCMのように新しい家電を紹介するシーンがある。サラリーマンの社用文化としての接待ゴルフやボーリングは60年代から存在していた。









「団地妻、昼下がりの情事」

72年、日活ロマンポルノの一作目。ニューアクションの中にあった映画なので音楽が革新的。モダンジャズ(フリージャズ?)がBGMで使われている。浮気をする場所は決まって連れ込み宿。事件や進展は団地を出て川を渡った先で起こるという点が団地は日常の舞台でしかないということを象徴的に表している。浮気相手の家はマンション、エレベーターがあってブランデーを飲んでいておまけに演出としてソフトフォーカスまでかけることで団地はいいところではないというイメージを露骨に表現。トンネルを抜けるとそこは濡れ場というエンディング、カーオーラルセックスをしたままクラッシュして崖から落ちる。お金がかかっているので車が崖から落ちていくシーンのシャクが長い。下まで転がり落ちた車が爆発して「終」というテロップがでるという今ならコメディでしかない終わり方を素でやっていた時代。交通事故をフェティッシュに描くというのを一番最初にやった映画。







80年代になるとアダルトビデオの主流が団地妻ものから痴漢ものに変わる、つまり性のシーンが変わる。こじつけるとするならば女性の社会進出の影響。ちなみに痴漢ものを最初に撮ったのは山本晋也監督。80年代は家族崩壊ブームのまっただ中で、小説や映画の中でどんどん家庭が崩壊していった時代。(家政婦は見た等。)

団地妻は2010年にリメイク版がでたけど別のものになってしまっている。浮気相手が訪問販売で売りに来る物がディルドから洗浄機に代わり、撮影現場が美しい間取りのお茶の間からキッチンになり、リフォームまでされている。浮気相手の方が格下の家に住んでいて浮気特有の華やかさは微塵もなくなくひたすら暗い。オリジナルとは完全に真逆。買い物のシーンが団地の中の商店街ではなく駅前の商店街になっている。70年代にはあり得ない「会社をやめて農業をはじめる」ということを夫が言い出す。妻の浮気がバレる場面では72年はとりあえず夫がぶん殴っていたのに対して2010年は「知ってるよ」と穏やかに言うだけ、しかも夫の方からゴメンネと口に出してしまうので浮気の対処の仕方が全く違っている。女が出ていくシーンで男はあとを追わなくなる。オリジナルのラストシーンでは妻と浮気相手のふたりで車で箱根を走っているが2010年版は女が一人でママチャリに乗って家の外を走る。オリジナルで団地妻役をだった人を作中で団地妻になれなかったおばさん役として出演させているシーンがある意味一番の名シーン。このシーン以外は団地妻じゃなくて森ガール。セールスマンの男性をさがして団地住民側が団地内を彷徨うめずらしいシーンもある。全部セリフで喋っちゃう説明しちゃうのでそのせいで台無しになっているフシが強い。ただ、最後の最後はかなり良い。







その他メモ

東京は地図の改竄が激しい。

シネフィルムは「広がりがない」「映画ファンは凝り固まる」「違う文脈で映画にふれようという姿勢」など認識がやぶれかぶれ。

家族ゲームのラストシーンはしとやかな獣ラストへのオマージュでは?

浦安の団地はディズニーの洗濯が案外干してない、スヌーピーが多い

浮かれ電飾文化、イルミネイターSNSというものがあり八月は誰もログインしないが十月から頃から急に栄える。




00:49




ジョン・カサヴェテス「チャイニーズブッキーを殺した男」

インディペンデントの父。あまのじゃくな編集と翻訳にはむかない英語のせいで意図した誤解と意図しない誤解が同時に生まれている日本語訳版。たとえば「美しい名前だ」ではなく「その名前を呼ぶときのこの響きが美しい」が本当。公に出した際スタンディングオベーションがおこったことに不満を感じた監督が発表後更に映像をけずったせいで、なぜ主人公がマフィアと関係を持ったのか、チャイニーズブッキーが何者だったのか、マフィアはチャイニーズブッキーを消してどうしたかったのかという軸となるところは一切わからない。事件の断片がそこにあるだけ。







ウォン・カーウァイ「欲望の翼」

本当の母親を知らない、一番愛した女が誰なのかわからない。登場人物が目と鼻の先にいるようなアングルが続くのでだらだらとした湿気と男女間の隙間風が伝わってくるような映像。すれ違えばすれ違うほど色っぽくなる皮肉な男性像。








2012-02-24

上がる口角下がる口角

01:03




  • 作家と万年筆展




万年筆展というよりは生原稿展だった。筆跡はもちろん誤字の訂正のしかたに各々の個性がでていて面白い。黒いインクで書いてある上から改稿する箇所のマスだけ青インクできっちり塗りつぶしてあるものや、井伏鱒二なんかは殴るように消してあったり。ひとりひとり銀塩写真が飾られていて、特に目を引いたのが立原正秋。芥川龍之介の自殺を報じる新聞や各作家の代表作が置いてあり展覧会としてはかなりのボリュームだった。







2012-02-23

建築の予感

22:09










田中一光さんのポスター展を見に銀座グラフィックギャラリーへ。1階と地下1階のツーフロアに自分の身長ほどの大きさのポスターが161枚も飾られていて大迫力。実際に見るまでは1980年代以前のほうが好きだと思っていたけれど、その考えはがらりと変わって入場料代わりに購入したパンフレットも後半の作品集を購入。フォント製品モリサワの明石という書体で地名をズラーッと書いてそこに「絶景かな」と添えているポスターが印象的。













2012-02-17

魂を解釈すること

01:22




荻窪六次元で行われた谷川俊太郎さんと田原さんのイベント『魂を解釈すること』に行ってきた。トークライブと未発表の詩の朗読をたっぷり二時間。基本的に谷川さんがおっしゃっていたことを中心にざっくり箇条書きで。


  • 「人が大勢居るねえ、ただいま」といいながら谷川さん入場。繊細そうな人かと思っていたけど乾いた皮肉で人を笑わすのが得意な人だった。日本の貧乏な詩人はあまり大切にされていないから道端に詩人を置いといて誰でも話しかけられるシステムにしたら皆嫌でも大切にするのでは?という話題がひとつめ。

  • 好きな動物はヤマネ、群馬の森でヤマネと目があったとき自分の前世はヤマネだと思ったそう。しかし似ているのは動物より植物らしい。

  • 田原さんいわく、「多くの詩人は社会的存在にとどまってしまったので時代をこえないし時間をこえないが谷川さんはその反面宇宙的な作家だといえる。しかしそれでも本人からしたら生活第一詩は第二というスタイルなのでめずらしい」

  • 女性を神格化すると人間としての本質を見失う。谷川さんにとって女性は「はじめての他者」。

  • 大正時代にはもうマザーグースが翻訳されていたり日本は児童文学が昔から豊かだった。

  • ビデオで一年間庭を撮り続けたのは萩原朔美の腐っていくリンゴに影響されたため。

  • 地震についての詩を書いて欲しいと頼まれ実際に書いたが現場に居ない限り「地図の言語」になってしまうのでつとめて現実的なものを書いた。

  • 震災の話から自殺者が多いという話にそれたときは、田原さんが「中国のことわざに『どんな良い死でもどんなに悪い生より悪い』というものがあるが日本は昔から自殺が美学だという面があるから自殺が多いのでは?」という意見を言っていた。しかし最近は中国でも自殺者が増えているのらしい。

  • ギンズバーグが詩を鈍らせたという意見もあるがヒッピーにうつる時代で口語的な詩をよしとする風潮があったためそれが当たり前だとも言える。

  • 翻訳という行為は作者の声を自分の中に取り入れ自分の声として出すということで、それに向いていない中原中也さんの詩は中国、アメリカ、フランス等の海外で三流の詩として扱われている。言葉遊びという点では外国語のほうが韻を踏むのは簡単だが外的リズムだけが遊んでしまう。普遍性に欠け、同時に音声的すぎたせいだと言われている。

  • 谷川俊太郎さんが佐野洋子さんと付き合っていたときのラブレターはかなり普遍的な詩になっていて、離婚してからそれを本人に伝えたらラブレター返してあげると言われて笑ったらしい。しかしコピーはあらかじめとってあった、というところで会場がわく。

  • 終了間際に質問など出来る時間があったので挙手をし、父が谷川さんの詩を胎教に使っていたので母のお腹の中にいた頃から聞いていたことになる詩を書いた方に実際にお目にかかれて嬉しいですという旨と、私の一番好きな「クレーの絵本」について何か思い出や思い入れがあったら是非聞かせて欲しいということを伝えた。

  • 回答は、「若い頃からパウル・クレーの絵というより題名の付け方が好きで生で見に行ったりしていたので喜んで書いた。詩をつけて本にする話は著作権料が高すぎて一度話が流れたが安くなったときに実現させた。スイスの大自然の中にあるクレーセンターで詩を朗読したこともあるのが思い出深い。」とのこと。

  • 質問するときはすらすらと言えたけどその質問への答えを聞いているときにかなり手がふるえた。少し離れた席に座っている私の目を見て答えてくれたのでなおさら。



朗読された詩については未発表なので他言厳禁とのこと。狭い店内で二十数名にむけて近距離で読まれる詩は朗読特有のかしこまった雰囲気や非日常感やある種のわざとらしさがほとんどなく、話し手も聞き手もその他の雑談の延長線上のような感覚でストンと場の雰囲気におさまっいてた。田原さんは中国人なので中国国籍のお客さんも何人かいて、日本語で谷川さんが読んだ詩の中国語訳を続けて田原さんが読むといった形式。しっかりと生の中国語を長時間聞くことも珍しいのでいい機会だった。




2012-02-12

ビリージーンは俺の彼女じゃない

00:37





BillieJeanの歌詞の和訳。





彼女は映画に出てくるような美しい女王以上に綺麗だった

俺は別に気にしないと言ったけど

俺こそがその人だってどういう意味だったんだろう

誰が君と踊るのか

彼女は俺と踊りたいって言ったんだ


彼女はビリー・ジーンだと名乗った

騒ぎはそこから始まった

彼女と踊りたがっていた奴らの顔と目がこっちに向いたんだ


いつも行動に気をつけろってみんなが言う

若い子の心を弄んじゃダメだって

母さんはいつも俺に言っていた

恋愛には気をつけろって

行いには注意を払えと

嘘が本当になることがあるんだからと


ビリー・ジーンは俺の彼女じゃない

彼女は俺が悪いって言ってるだけの女だ

子供は俺の子じゃない

彼女はおれが悪いって言う

だけどその子は俺の子供じゃない


40日と40夜

法は彼女の味方だった

彼女に求められたら誰が断れる?

彼女の企みと計画

俺たちがフロアで一緒に踊ったからって

俺の忠告を聞け

常に一度は考え直すんだ


彼女は俺たちが夜中の3時まで踊ったと子供に言っている

そして俺の方を見て

子供の泣いている写真を見せた

その目は俺に似ていた

嘘だろう、ただ踊ったと言うだけで


いつも行動に気をつけろってみんなが言う

若い子の心を弄んじゃダメだって

彼女は甘い香りをまとって俺の傍に近付いてきた

そしてすぐに事態は起こったのさ

彼女は自分の部屋に俺を呼んだんだ


ビリー・ジーンは俺の彼女じゃない

彼女は俺が悪いって言ってるだけの女だ

子供は俺の子じゃない

彼女はおれが悪いって言う

だけどその子は俺の子供じゃない

ビリー・ジーンは俺の彼女じゃない

彼女は俺が悪いって言ってるだけの女だ

子供は俺の子じゃない

彼女はおれが悪いって言う

だけどその子は俺の子供じゃない

ビリー・ジーンは俺の彼女じゃない