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ランデヴー・ランデヴー

2016-06-28

近視

00:45 |



2012/03/28



 綺麗とか汚いとか良いとか悪いとかそういうことを超えちゃうと視野は狭まるし口の中は酸っぱいし三割増で愛おしい、恋愛は感情と語彙の近視、目と鼻の先の点滅だけがずっとまぶしい、遠くがよく見えない。わたしは相変わらず値段がはって量の少ない食事が好きだけど、一緒にできないことは一人ですればいいだけの話だった。何の問題もないように感じなければいけないのだと思った。よくわからないことをよくわからないままにしておけば当面すべてうまくいく、何の問題もない、でもそれは




2008年に好きだった女の子について2012年の私が書いた日記

01:35 |



 2008年の夏、お互いの誕生日が近いことを口実に一度だけ横浜のデートコースをいっしょに歩いた。彼女は最近夢中になっているらしいブランドの新作のワンピースを着ていて、体格に不釣り合いなくらい大きな鞄を肩から下げていた。育ちの良さからにじむ特有の行儀の良さと性格の悪さ、それによって際立つ顔の造形の美しさ。

 「ブログに書いていたお気に入りの日傘は今日は持ってこなかったんですね」とわたしが言うと、彼女は「日傘をさすと並んで歩くときに距離が開いちゃうから、だから人と会うときは日焼け止めクリームを塗るだけにするの」と屈託なく答えた。ニュースキャスターも苦笑いするような真夏日の中、そんな理由から白い肌を太陽にあてる彼女を思うと今でも息がつまる。そして日傘のない分だけ彼女と近距離で肌を焼いていたわたしのことを思っても、また同様に息がつまる。ひたいの汗はそれぞれのハンカチで速やかに拭われる。

 港の見える丘公園を抜け、外人墓地に寄りかかりながら共通の友人についてなにかを話し、高級住宅街の木陰でくつろいでいる毛並みのいい猫に携帯のカメラを向け、それからお茶を飲むために白い壁の喫茶店に入る。彼女はウェイターに「本日のパイはなんですか?」と尋ね、アップルパイだという返事を聞くと、わかりやすく顔に出して迷ってから「それでお願いします。」と目を見て言った。わたしが何をオーダーしたのかはもうおぼえていない。

 頼んだものが出てくるまでの時間を使いお化粧室に髪を結いにいった彼女を、現実味のわかないままひとりで待っていた。赤いチェックのテーブルクロス、結露するグラス、セミの声。胸まであるロングヘアを手の込んだ三つ編みのアップにしてきた彼女に心底みとれ、うつむき、似合っているという月並みの感想をなんとか口にした。しかしテーブルに並んだアップルパイを丁寧につつきながら彼女がまたもや屈託なく言うのだ。「そのネックレス可愛いね、わたし金属アレルギーだから、彼とペアリングつけられなくって。」





2016-06-27

思えば遠くにきたものだ

17:01 |



2016/03/11




 3月11日、東京に越してきてからちょうど5年がたった。震災のあったその日は父も地元から出てきていて、新居に届いた家具を組み立てながら口論をしているときにグラっと揺れた。泣きじゃくるわたしを父がなだめ、口論は帳消しとなった。

 夜、すでに東京で暮らしていた当時の恋人がわたしを心配してアパートの前まで来ていることを知り、通信網の混線から「父がいるから帰ってほしい」とすんなり伝えることもかなわず、いま思えばあの日いちばんひやひやしたのはこんなくだらない瞬間だった。状況が把握出来ていない分、そして5年という若さの分呑気だった。


 後日スーパーに行ってみるとまさに目の前で食料の争奪戦が行われていて、全体的に品薄となった棚からふた切れで300円というやたらと高価な食パンと、うずらの卵だけを買って帰った。ひとり暮らしでのはじめての自炊は、贅沢なのかひもじいのかよくわからないものになった。


 計画停電というものの存在を知ったときには、すでに近所には懐中電灯が見当たらず、そのことをツイッターに書くとなんと夜中だというのに板橋の友人がスケボーで今から届けてくれるという。わたしは板橋からはかなり遠いところに住んでいた。「朝を待って始発で来たほうが早く着く距離だし、いますぐ必要というわけではないので、明日以降にしましょう。おやすみなさい。」とメールを打ち、それから友人のツイッターをのぞいてみると「あの娘に明かりを届けに行くんだ」と書いてあり、そしてそれ以降の更新がない。だけどメールを読んでくれるだろうと思い早々に就寝した。しかし翌朝目がさめると、「駅の何番のコインロッカーに預けておきました。Suicaで開錠してください。」というメールが届いていた。意味や効率はともかく、突飛なことが好きな人だった。いまさら急いでもなんの意味もないくせに、走って駅に向かった。コインロッカーを開けると、小ぶりな黄色い懐中電灯と、電池がふたつ入っていた。共通の友人のツイッターには、「僕の友人が今から〇〇に住んでる女の子にスケボーで懐中電灯を届けに行くらしいんだけど、その子はいまから寝ちゃうそうです、せつないですね」という投稿が数時間前にされていた。

 ひどい話なんですが、だけど結局わたしの住んでいた地区では計画停電は行われなかったのです。板橋では計画停電があったんでしょうか。その友人とは今でも仲が良いけれど、そういえば確かめたことは一度もない。友人はわたしのことをときに「青春」と呼び、わたしと会う日のスケジュール帳にも「青春」と書くのだそうです。薄暗い高校生活を終えたわたしに「青春がこなかった人は、青春がこなかった人の青春になれるから。」と言ってくれた人。



 あれから5年、思えば遠くにきたものだ。毎年まいとしが節目だったように思う。そしてきっと今年も。2016年の3月11日は、chelmicoのまみこちゃんとお茶をした。先日わたしが彼女たちのオリジナルグッズである洋服の写真を撮影したので、そのお礼にとトレーナーを受け取った。わたしがまみこちゃんと知り合ったのは彼女がまだ16歳のころだったので、彼女と知り合ってからだってそろそろ4年が経つということになる。彼女とはじめて会ったときの衝撃は筆舌に尽くしがたいし、いまでも肉眼で見た中でいちばんの美少女だと思っている。2年ほど前に突如chelmicoの片割れとしてラッパーデビューを果たし、いまでは精力的にライブ活動をしている。「思えば遠くに〜」ではないけれど、彼女こそなんだかすごく遠いところに行ってしまいそう、むしろ行ってしかるべきだという印象を会うたび即座に払拭させる彼女の人当たりの良さは、容姿同様天性のものだとしか言いようがない。



わたしは音楽ができない

17:13 |



2016/03/09



 カラオケという遊びをしている人々がどうやらいるらしいということは知っていたけれど、最近になってはじめてその遊びで盛り上がる友人たちを周りに持ち、わたしにとってはそれが「草野球ってほんとうに存在するんだ」と同列の衝撃だった。


 昨年の夏に人が歌うのを聞きにはじめてカラオケボックスに入り、その後も自分で歌いにおとずれたことは一度もない。思えばわたしは物心がついてから一度も歌ったことがないような気がする。わたしの通っていた中学校の音楽の授業では、日直のひとが中心に立ち、そして他の生徒は壁に沿ってぐるりと並び、そしてみんなで一曲歌うという喉のウォーミングアップが最初に行われていた。日直の生徒は口が大きく開いている順に生徒の名前を呼び、呼ばれた人から座っていくというシステムだった。しっかり歌おうとすると口があまり開かず、ほとんど最後まで座ることができないとわかってから、わたしはまだみんなが立っていて個々の声が目立たないうちに全力で口パクをし、早い段階で名前を呼んでもらうようにすぐに仕向けるようになってしまった。苦痛な時間だった。それからは授業だけでなく合唱コンクールでも似たような凌ぎかたをしてきたので、最後にまともに歌ったのは小学生のころということになる。

 これはほとんど呪いのようなもので、いまわたしが人前で歌うのは、酔っ払った帰り道、誰かと駅に向かっているときくらいのものだ。歌いたくはないけれど、歌えたいとは思っている。わたしがマイクを持って歌って、そして誰かがそれを聞いていることを想像するだけで叱られた子供のように舌がもつれるけれど、そんな簡単なことを当たり前に楽しめないということを情けなくさえ感じる。ピナバウシュの映像を見たときもどうしてわたしは踊れないんだろうと思って悲しくなったものだけど、歌うことはきっともっと身近なことのはずなのに、踊れない代わりに、歌えない代わりに、わたしには目を見る以外にできることがひとつもない。歌ってほしい歌があって、それを歌ってほしい人もいるけれど、わたし自身には歌いたい歌がひとつもないということもなんだか寂しく感じる。映画『ワイルドアットハート』で「ラブ・ミー・テンダーを私のために歌って欲しい」と言って泣いたルーラの気持ちはわかっても、ラブ・ミー・テンダーを歌うセイラーの気持ちがわからない。


 音楽といえばわたしはギターを弾くこともできない。むかしわたしにギターを教えようとしてくれたひとがいたけれど、一週間たってもEマイナー以外のコードがひとつも鳴らず、「どうしよう、だめだ、わかんない」と教えていたひとのほうが先にぐずりだしてしまったことがある。漠然とした焦りではあるけれど、いまわたしは音楽に対する呪いをときたいような気がしていて、そしてわたしは馬鹿げた思い付きであればあるほどそれに従わないといけないような気がしてしまう性分なので、個人的には歌ってみることよりもハードルの低いギターを弾くことに、なんと再チャレンジしようと思っている。できなければできないままでも構わないことだけど、この呪いの根本は全く別のことろにあるのだということもわかってはいるけれど、清算したい後ろめたさのたったひとつの枝葉からでも遠く離れて、くだらないことを忘れたい。


 練習する曲もすでに決まっています。もしもその曲が弾けたなら歌の一曲くらいだって練習したりするのかな、わからないけれど、まずは伸ばした爪を切りそろえ、そして願わくばいずれ音楽の授業中のわたしを救いにいこうと思います。中指立ててゴー。




2012-09-17

映画で見る団地50年史/memo

00:16 |





「駅前シリーズ」
61年、映画はカラーになったばっかり。俳優は森繁久彌、伴淳三郎、フランキー堺。舞台は増設中の喜劇駅前団地と百合ヶ丘団地。洋館型を敷き詰めたほうがたくさんの人が住むことができるけど景観重視なのでスターハウスポイントハウス(アクセントになる変わり種の建物)を間あいだに挟んでいる。団地住民層の実態がまだしっかり把握できていないのであえて表現されていない。そのせいで住民がほとんど出てこない映画になっているけどその反面団地のシーン以外で登場する成金層については細かく描かれている。時代背景が高度経済成長の頭なのでちょうど都市人口が農村人口をこえる頃。63年にバカンスブーム、レジャーブームがあったため映画の脚本で主人公が箱根に行きがちになる傾向があった。
















「無責任シリーズ」
植木等が出世する話。舞台は荻窪団地、「死ぬまでここにいるわけじゃないから〜」と雑に作られた内装と狭い廊下の独身者専用棟。独身団地というと今見ると矛盾があるがこの頃はこのタイプの団地が多かった。映画業界がさすがにテレビの勢いを無視できなくなってきていた時期で、これまで根付いた「映画会社についた俳優はテレビに出れない」という暗黙の了解を打ち破った作品。すみれガ丘駅という架空の駅が出てくる。一般人がコーラを飲める様になったのは62年、それまではリゾート地で外国人が飲むものだったが、植木等がハッスルコーラという名前のコーラを一般家庭向けに商品化しようという提案を社内会議で持ちかける。商品化検討のために試飲でマッスルコーラを飲んだ途端に白黒映画からカラー映画になる演出。ただしコーラの効果がきれると再び白黒に戻る。トルコ風呂とロマンスカーのシーンを喜んで映画会社が使いたがっていた時代。












「下町の太陽」
山田洋次監督。映画が階層の低い人の娯楽だった時代。団地に住んだらオーディオを買うのが当時のモダンライフのあり方で、消費生活としての団地住まいだった。ホワイトカラーつまり精神労働者の青年が「青空の見える煙突のない郊外に住もう」とわざとらしく嘘くさいセリフに続けてプロポーズをする。団地を否定するが文化的生活の否定というよりは下町の肯定であり、寅さんの六年前なので、早すぎるモダニズム批判。(ただ、「狭い部屋で化粧をして帰りを待つのは嫌だ」というセリフだけは団地の否定というよりは単なるマリッジブルーなのでは?)結婚してしまってから遅すぎるライバルが「今の俺は出口を塞がれた溶鉱炉だ!」と訳のわからないセリフと共に登場。ライバルはブルーカラーの肉体労働者で心なしかホワイトカラーの主人公よりもイケメン。精神労働者の団地男vs肉体労働者の工場男で女の子を奪い合い、最終的にライバルの工場男が略奪愛に成功して工場のシーンでエンドをむかえる。公害に対する意見がない時代だったからこその工場肯定。












「しとやかな獣」
62年、川島英夫監督(アイディアを持ってきたのは新藤兼人)。団地映画の最高峰。団地の中だけで全ての物語が完結している映画。オープニングとエンディングが能の音楽で本編には一切BGMがない。ずっとドアが開けっ放しになっているところは当時を忠実に再現している。飛行機の音が近い、つまり大きな高い建物に住んでいるというアピールでもある。第二次対戦後世界は若さに寛大すぎる。世代論や文明批判はこの頃から盛んになる。









「秋刀魚の味」
64年、小津やすじろう監督。映画業界はカラーになって3年目。嫁が嫁ぐストーリーだけを延々と書き続けた集大成。嫁が嫁ぎガランとした部屋に姿見だけを残して置く演出がお決まりのラストシーン。机やふすまを中心にシンメトリーで水平垂直な位置にカメラを必ず設置するというこだわりが全てのシーンに適応されているがこの姿見だけ水平ではない。「おまえの演技より俺の構図が大事だ!」という考えの監督だったため役者が構図、間取りの邪魔をしないようセリフを棒読みにさせていた。ただし酔っ払いのシーンのみに迫力をもたせている。普通お夕飯のをつくっていて材料が足りなくなった際お隣に借りに行くのは塩や味噌と相場が決まっているものだけど、それだと監督の美学に反するという理由から調味料類ではなくトマトをふたつ借りるシーンがあっておもしろい。現実的に考えると不自然なのに映像全体として見ると廊下の奥に消化器、手前赤いバケツを配置するなど赤の対比が行われているためまとまりがある。映画の中にまるでCMのように新しい家電を紹介するシーンがある。サラリーマンの社用文化としての接待ゴルフやボーリングは60年代から存在していた。













「団地妻、昼下がりの情事」
72年、日活ロマンポルノの一作目。ニューアクションの中にあった映画なので音楽が革新的。モダンジャズ(フリージャズ?)がBGMで使われている。浮気をする場所は決まって連れ込み宿。事件や進展は団地を出て川を渡った先で起こるという点が団地は日常の舞台でしかないということを象徴的に表している。浮気相手の家はマンション、エレベーターがあってブランデーを飲んでいておまけに演出としてソフトフォーカスまでかけることで団地はいいところではないというイメージを露骨に表現。トンネルを抜けるとそこは濡れ場というエンディング、カーオーラルセックスをしたままクラッシュして崖から落ちる。お金がかかっているので車が崖から落ちていくシーンのシャクが長い。下まで転がり落ちた車が爆発して「終」というテロップがでるという今ならコメディでしかない終わり方を素でやっていた時代。交通事故をフェティッシュに描くというのを一番最初にやった映画。










80年代になるとアダルトビデオの主流が団地妻ものから痴漢ものに変わる、つまり性のシーンが変わる。こじつけるとするならば女性の社会進出の影響。ちなみに痴漢ものを最初に撮ったのは山本晋也監督。80年代は家族崩壊ブームのまっただ中で、小説や映画の中でどんどん家庭が崩壊していった時代。(家政婦は見た等。)

団地妻は2010年にリメイク版がでたけど別のものになってしまっている。浮気相手が訪問販売で売りに来る物がディルドから洗浄機に代わり、撮影現場が美しい間取りのお茶の間からキッチンになり、リフォームまでされている。浮気相手の方が格下の家に住んでいて浮気特有の華やかさは微塵もなくなくひたすら暗い。オリジナルとは完全に真逆。買い物のシーンが団地の中の商店街ではなく駅前の商店街になっている。70年代にはあり得ない「会社をやめて農業をはじめる」ということを夫が言い出す。妻の浮気がバレる場面では72年はとりあえず夫がぶん殴っていたのに対して2010年は「知ってるよ」と穏やかに言うだけ、しかも夫の方からゴメンネと口に出してしまうので浮気の対処の仕方が全く違っている。女が出ていくシーンで男はあとを追わなくなる。オリジナルのラストシーンでは妻と浮気相手のふたりで車で箱根を走っているが2010年版は女が一人でママチャリに乗って家の外を走る。オリジナルで団地妻役をだった人を作中で団地妻になれなかったおばさん役として出演させているシーンがある意味一番の名シーン。このシーン以外は団地妻じゃなくて森ガール。セールスマンの男性をさがして団地住民側が団地内を彷徨うめずらしいシーンもある。全部セリフで喋っちゃう説明しちゃうのでそのせいで台無しになっているフシが強い。ただ、最後の最後はかなり良い。










その他メモ
東京は地図の改竄が激しい。
シネフィルムは「広がりがない」「映画ファンは凝り固まる」「違う文脈で映画にふれようという姿勢」など認識がやぶれかぶれ。
家族ゲームのラストシーンはしとやかな獣ラストへのオマージュでは?
浦安の団地はディズニーの洗濯が案外干されてない、スヌーピーが多い
浮かれ電飾文化、イルミネイターSNSというものがあり八月は誰もログインしないが十月から頃から急に栄える。



00:49 |





ジョン・カサヴェテス「チャイニーズブッキーを殺した男」
インディペンデントの父。あまのじゃくな編集と翻訳にはむかない英語のせいで意図した誤解と意図しない誤解が同時に生まれている日本語訳版。たとえば「美しい名前だ」ではなく「その名前を呼ぶときのこの響きが美しい」が本当。公に出した際スタンディングオベーションがおこったことに不満を感じた監督が発表後更に映像をけずったせいで、なぜ主人公がマフィアと関係を持ったのか、チャイニーズブッキーが何者だったのか、マフィアはチャイニーズブッキーを消してどうしたかったのかという軸となるところは一切わからない。事件の断片がそこにあるだけ。









ウォン・カーウァイ「欲望の翼」
本当の母親を知らない、一番愛した女が誰なのかわからない。登場人物が目と鼻の先にいるようなアングルが続くのでだらだらとした湿気と男女間の隙間風が伝わってくるような映像。すれ違えばすれ違うほど色っぽくなる皮肉な男性像。








2012-02-24

作家と万年筆展

01:03 |











万年筆展というよりは生原稿展だった。筆跡はもちろん誤字の訂正のしかたに各々の個性がでていて面白い。黒いインクで書いてある上から改稿する箇所のマスだけ青インクできっちり塗りつぶしてあるものや、井伏鱒二の原稿の場合殴るように消してあったり。ひとりひとり銀塩写真が飾られていて、特に目を引いたのが立原正秋。芥川龍之介の自殺を報じる新聞や各作家の代表作が置いてあり展覧会としてはかなりのボリュームだった。








2012-02-17

魂を解釈すること

01:22 |







荻窪六次元で行われた谷川俊太郎さんと田原さんのイベント『魂を解釈すること』に行ってきた。トークライブと未発表の詩の朗読をたっぷり二時間。基本的に谷川さんがおっしゃっていたことを中心にざっくり箇条書きで。

  • 「人が大勢居るねえ、ただいま」といいながら谷川さん入場。繊細そうな人かと思っていたけど乾いた皮肉で人を笑わすのが得意な人だった。日本の貧乏な詩人はあまり大切にされていないから道端に詩人を置いといて誰でも話しかけられるシステムにしたら皆嫌でも大切にするのでは?という話題がひとつめ。


  • 好きな動物はヤマネ、群馬の森でヤマネと目があったとき自分の前世はヤマネだと思ったそう。しかし似ているのは動物より植物らしい。


  • 田原さんいわく、「多くの詩人は社会的存在にとどまってしまったので時代をこえないし時間をこえないが谷川さんはその反面宇宙的な作家だといえる。しかしそれでも本人からしたら生活第一詩は第二というスタイルなのでめずらしい」


  • 女性を神格化すると人間としての本質を見失う。谷川さんにとって女性は「はじめての他者」。


  • 大正時代にはもうマザーグースが翻訳されていたり日本は児童文学が昔から豊かだった。


  • ビデオで一年間庭を撮り続けたのは萩原朔美の腐っていくリンゴに影響されたため。


  • 地震についての詩を書いて欲しいと頼まれ実際に書いたが現場に居ない限り「地図の言語」になってしまうのでつとめて現実的なものを書いた。


  • 震災の話から自殺者が多いという話にそれたときは、田原さんが「中国のことわざに『どんな良い死でもどんなに悪い生より悪い』というものがあるが日本は昔から自殺が美学だという面があるから自殺が多いのでは?」という意見を言っていた。しかし最近は中国でも自殺者が増えているのらしい。


  • ギンズバーグが詩を鈍らせたという意見もあるがヒッピーにうつる時代で口語的な詩をよしとする風潮があったためそれが当たり前だとも言える。


  • 翻訳という行為は作者の声を自分の中に取り入れ自分の声として出すということで、それに向いていない中原中也さんの詩は中国、アメリカ、フランス等の海外で三流の詩として扱われている。言葉遊びという点では外国語のほうが韻を踏むのは簡単だが外的リズムだけが遊んでしまう。普遍性に欠け、同時に音声的すぎたせいだと言われている。


  • 谷川俊太郎さんが佐野洋子さんと付き合っていたときのラブレターはかなり普遍的な詩になっていて、離婚してからそれを本人に伝えたらラブレター返してあげると言われて笑ったらしい。しかしコピーはあらかじめとってあった、というところで会場がわく。


  • 終了間際に質問など出来る時間があったので挙手をし、父が谷川さんの詩を胎教に使っていたので母のお腹の中にいた頃から聞いていたことになる詩を書いた方に実際にお目にかかれて嬉しいですという旨と、私の一番好きな「クレーの絵本」について何か思い出や思い入れがあったら是非聞かせて欲しいということを伝えた。


  • 回答は、「若い頃からパウル・クレーの絵というより題名の付け方が好きで生で見に行ったりしていたので喜んで書いた。詩をつけて本にする話は著作権料が高すぎて一度話が流れたが安くなったときに実現させた。スイスの大自然の中にあるクレーセンターで詩を朗読したこともあるのが思い出深い。」とのこと。






朗読された詩については未発表なので他言厳禁とのこと。狭い店内で二十数名にむけて近距離で読まれる詩は朗読特有のかしこまった雰囲気や非日常感やある種のわざとらしさがほとんどなく、話し手も聞き手もその他の雑談の延長線上のような感覚でストンと場の雰囲気におさまっいてた。田原さんは中国人なので中国国籍のお客さんも何人かいて、日本語で谷川さんが読んだ詩の中国語訳を続けて田原さんが読むといった形式。しっかりと生の中国語を長時間聞くことも珍しいのでいい機会だった。