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12.09.2006

[]真琴シナリオの気持ち悪さについて 真琴シナリオの気持ち悪さについてを含むブックマーク

カノンの沢渡真琴シナリオについて。

あれは気持ち悪いシナリオであると思う。

もちろん、泣けるという感想はわかる。アニメとしてのできはいいし、とても共感を抱きやすいシナリオになっていると思う。が、それを感動できたというのは何か間違っていると思うのだ。


問題としたいのは、あの状態の真琴に対して、一緒にいたいと思えるかどうか、だ。


祐一や、秋子さんだって、そしてあれを見ている視聴者だって、あの状態の真琴が好きだなんて感じているのだろうか?

「あー」とか「うー」とかしか言わず、一日中病人みたいな状態の人間と一緒に過ごしていたりして楽しいと思えるのなら別に文句は言わない。けれど、そういうタイプの人間はあまりおるまい。そんなの、白痴好きの特殊な趣味を持った人間くらいだ。


あの話の中には、真琴に対する同情と義務と都合のいい共感しかない。可哀想な彼女をみて、感傷的な気持ちを抱く自分に酔っているだけなのだ。だから、真琴は一週間やそこらという短期間で死ななければならない。延命などは望まれてはいない。


もちろん、延命をまじめに願っている人はいるだろう。けれど、本当に一年や二年三年真琴が生き延びたとしたらどうなるか? そんなの、寝たきり老人の介護問題なんかを見ていればよくわかる。

働くこともできず、動くこともできず、意思疎通すらもろくにできない。特に誰かが常に見ていなければならないような存在で、しかも、一緒にいて楽しいと思えることもない。そしてそのくせ、ふつうの人間と同じか、むしろ多い生活費がかかったりする。言ってしまえばお荷物だ。

だから、ああいう感動のさせ方はあんまりよいことではないと思う。


作品としてのKanonは素晴らしいと思う。そして、共感させて泣かせるのを目的にする場合、あのシナリオと演出はずるいくらいに正しい。そしてなんであれ感動するのはいいことだと思う。

けど、感動したあとにちょっとだけ、そういう問題も考えてみて欲しい。

本当にきちんと感動できるものにするのであれば、安易で都合のいい感傷に落とすのではなくて、どうやったらそういう状況の真琴とうまく付き合っていけるかを考えなければならないはずだ。

そのあたりの齟齬をどうしたらいいのか、そんなあたりを。


さておき、京アニ版のKanonについてはけっこう楽観もしている。ゲームでは五本の別シナリオという形で話が進むので、真琴シナリオはただの感傷だけでお話が終わってしまうのだけど、アニメでは前までの流れを踏まえて話が進むだろうからだ。

五人のシナリオのうち、真琴のシナリオが一番最初に来たというのにはけっこう意味があるような気がする。Kanonでは、唯一真琴だけが不幸な終わり方をして、ほかの四人はけっこう幸せな終わり方をする。その途中の流れにおいて、祐一が真琴に何にもできないで終わったことがなんか意味をもってくれるはず。くれるといいなぁと思っている。

特に、栞とあゆの境遇はある意味では真琴のおかれたものと似ているので、そこらへんで大きく関わってくるんじゃないかなぁ、なんて。





追記。

突っ込みをいただいた部分について、自分でも確かに話が飛んでるなぁと思ったので修正しています。ごめんなさい。



追々記。

たんに僕は、長生きされると困ってしまう物語構成というのは嫌だなぁ、と。ただそれだけをいいたかったのかもしれない。

kande-takumakande-takuma 2006/12/10 08:12  なるほど。違う視点からの意見というものはいろいろと参考になります。
 ただ、1ヶ月弱とはいえ、一緒に暮らした「人間」の姿をした相手に対して、それが楽しくないから嫌だ、ほっぽりだそう、とはなかなか思えないかな、と。水瀬家の二人はそんなことを言い出す性格じゃないし、祐一はそもそも真琴が自分に会いに来たことについて責任を感じてますし。
 あと、私の家にも要介護者はいます。でもみんな介護がしんどいな、と思っても、それはほっぽり出したいとは思いませんし、長生きしてほしいと思います。だから客観的には「お荷物」であったとしても主観的には最後まで楽しみながら生きて欲しい、と祐一達が思ったとしても、それは自然な感覚であり綺麗事を並べただけではない、と思います。
 これも主観的な意見に過ぎないのですが、一言だけ。それでは。

絆 未来絆 未来 2006/12/10 11:22  えーと、京アニ版のKanonを観れていないのに言うのも何なのですが、「共感させて泣かせるのを目的にする場合、あのシナリオと演出はずるいくらいに正しい」と評しているのに「本当にきちんと感動できるものにするのであれば〜中略〜ならないはずだ」と続くのは少し変な気がします。
 特攻シーンの例なんかもそうですが白翁さんの言いたい事は「(その作品が)感動できるかできないか」ではなく「(その表現が)倫理的に正しいかどうか」という事なのではないですか?
 倫理的に正しくない不謹慎な(ものに感じられる)描写を見て、気持ち悪く思ったりそのせいで作品を素直に感動したり楽しんだりする事が出来ないというのはよくある事なので、そういう作品に対して「これじゃ感動できない」と不満に思ったり批判したりするのは全く自然な事だと思います。それに、ある作品に対しその表現の「倫理」を問う声が挙がるというのは、作品にとっても作り手にとってもその作品が属する文化自体にとってもいい事だとも思います。(ただし「倫理」というのは必ずしも誰にとっても一律なものではないので公にそれを問えばどこかで必ず衝突が起こります。表現の倫理を問う声が挙がるのが「いい事」だと私が書いたのはそこまで含めての事なのであって、当たり前ですが一部の人間の倫理によって表現が一方的に抑圧される事まで肯定している訳ではありません)
 ですが、この記事の書き方だと京アニ版Kanonの真琴シナリオに白翁さんが感動できずむしろ気持ち悪さを感じてしまったのは「技術的/描写的に洗練が足りなかった」所為だという風に読めてしまうと思うのです。(白翁さんがじっさい感動できなかったのであれば)確かに言っている事は間違ってはいないのですけれど、果たしてそれで問題にしたかった事をきちんと伝えられるのかなとおせっかいにも思いついこんな長いコメントを書いてしまったのでした。ごめんなさい。
 そうそう、これ以上文が長くなるのは心苦しいのですが付け加えておくと、真琴シナリオは別に「長生きされると困ってしまう物語構成」とは言えないと思います。ヒロインが寝たきりで言葉が喋れなくても話を続ける方法は幾らでもありますし、最後消えずに生き残らせて「僕達は一緒に生きていく」みたいな事主人公に言わせてかっこよく幕を閉じる事も別にそんなに難しい訳ではないですから。まあ実際「ヒロインが最後に死ぬ事を前提にした物語構成」であるのは間違いないと思うのでニュアンス的には間違ってないと思うんですけども一応書いておきます。

hakuohhakuoh 2006/12/10 16:59 >kandeさん
介護については、その家庭の裕福度、介護の費用、介護に関わってくれる人の人数、介護労力、親族のしがらみ、将来発生するであろう都合など、がいろいろ関わってくるので、必ずしも成立しないわけではないと思います。とはいえ、お金と人を集めて、そしてみんなで仲良くやるのって難しいんですよね。
でも一番大きいのは、要介護者がどれくらいの重度であるか、どれくらい反応を返してくれるのか、であると僕は考えます。ぐったりとしたままで言葉をしゃべれないような状態だったりするとどんどん辛くなりますよ。
あとそこまでいかなくても、まずいのは祐一になにか夢などやりたいことができた場合や、ほかの女性を好きになってつきあいはじめたりした場合ですね。同じ土地に骨をうずめる覚悟は、高校生でできる人はほとんどいないと思います。うまく解消できないまま変に二律背反を背負い込むと、「真琴さえいなければ」という方向に向かいかねません。
そういや、このあたりは「半分の月がのぼる空」で扱われているテーマでした。もし真琴の命が長期化したとしたら、解答の一つはあれなんだろうと思います。



>絆 未来さん
すみません。あれは「ひっかかるところなしに素直に感動させるようなものにするにはああではいけない」という意味合いでした。
それと、真琴シナリオは、ふつうに見ている分には悲しい気分になって感動できるんですけど、つっこんで考え出すとなんか気持ち悪いものが見えてくるな、という意味でタイトルをつけています。あとは、釣りのための部分も多々。
今回のエントリについては、異論反論をなんかたくさん聞いてみたかったらしいのです。

倫理については特になんとも思ってはいません(ああいう展開におかれたら、誰だってああいう行動をするだろうと思いますし)、けれど元の製作者であるkeyにたいしては、安易な気持ちからああいうシナリオにしたんじゃないかなぁと思えてしまって仕方がないです。
ああでも、特攻隊の話とはそうすると意味が異なりますね。消しておきます。

kande-takumakande-takuma 2006/12/11 01:21  丁寧な反応ありがとうございました。
 その上でもう少し私の主観の意見を書かせていただきます。
 まず、介護についてですが、真琴がぐったりとしたままで言葉をしゃべれないような状態で生き延びた場合、祐一及び水瀬家に多大なる負担が生じるのは間違いありません。
 その状況の中で「真琴さえいなければ」と一度も思わないとしたら、それは逆に人間的ではないとさえ言えるかもしれません。しかし、幾度か「真琴さえいなければ」と思うことがあっても、祐一の心の中の半分以上は、「それでも真琴には生きていてほしい」、と願っているだろうと思うのです。その心の動きはそれほど気持ち悪いものでしょうか。
 また、祐一に夢などやりたいことができた場合や、ほかの女性を好きになってつきあいはじめたりした場合についてですが、当然それは起こり得ることですよね。
 ただ、その時に、同じ土地に骨をうずめる覚悟というものは、果たして必要なことなんでしょうか。
 そこで短絡的に真琴をほっぽりだすしか選択肢が無いのであれば、確かにそれは気持ち悪いことかもしれません。しかし、祐一の出来る範囲で真琴の面倒を見ることは可能だと思います。当然一人で全てを賄うことは不可能ですから、介護士等他の人の手を借りることになると思いますが、祐一は精一杯のことは出来るし、しようとすると思います。
 その状況もまた、私にとっては真琴シナリオを気持ち悪く思う原因にはなりません。
 祐一が真琴と結婚式をしたのは確かですが、まず、あれは真琴の願いを叶える、という祐一の思いの象徴という意味合いが強く、一般的な意味での結婚式とは意味合いが少しずれると思います。また、あれをして一般的な意味での婚姻と捉えたとして、その後の事情により婚姻状態が破棄されることもまた、一般的な意味での離婚としてあり得ることだと思います。その後離婚することになるカップルの結婚式の際に感動で涙を流したとしても、それは何もおかしいことではない、と思います。その後の離婚時と感動した時点ではあらゆる状況が違っている可能性があるからです。そして、真琴シナリオではその後の状況が変わった時点についての描写は全くありません。だから、その後のことに関して真琴シナリオを批評することの意義自体が薄いのではないか、と個人的には感じます。
 ただ、あくまでこれは私の主観に過ぎませんし、白翁さんがその点にこだわられることも、文章を拝見してある程度は理解できるのかな、とも思っています。
 ですが、それでもどうしても引っかかる部分がありましたので、それについて書かせていただきました。長文失礼いたしました。

hakuohhakuoh 2006/12/11 09:50  まぁ、お互い主観の話なのでなんとも言いがたいですね。
 たぶんですが、現在進行形で介護をなさっているkande-takumaさんと、過去に親族の介護をし、そして途中のいざこざで鬱に追い込まれてギブアップしてしまった自分との立場の違い、というのが意見の相違を作っているのだと思います。
 僕としてはkandeさんの意見を認めるわけにはいかないし、kandeさんも僕の意見を認めるわけにはいかない。認めるといろいろと酷いことになるので、それはそれでいいのだと思います。
 想定している要介護の度合いの違いでもあるのかもしれません。


 もちろん、みんなでうまくやっていけるのであれば、それが一番です。僕としてもそれが理想だと思います。
 でもそのために必要なもの──お金と人を整えるのはなかなか難しいんですよね。これはどれくらいの要介護なのかということにも拠るので、軽いケースならあまり大した問題ではないのかもしれません。でも重いケースというのはタチが悪いです。

 以下、すみませんが自分の話になります。
 医療用の装置が必要なくらいに重度の患者の場合、四六時中様子を見ていないといけませんし、二三時間おきにいろいろな作業を行わなければならないです。もちろん夜も含めて。この徹夜の部分がかなり辛いです。
 昼間については専門の介護の人に頼むということもできるのですが、夜中や早朝についてはそうもいきません。このため、親族でどうにかするしかないんですが、これが各家庭には各家庭なりの事情でうまくいかないし、集まっても文化が異なる人間が同じ場所にいるせいで大小の軋轢が起こってストレスだらけの環境になったりします。渡る世間は鬼ばかりだし、親族ほどタチの悪い人種はないと思います。
 でも怖いのは、ストレスそれ自体ではなくて、それによって人間の心が変わって言ってしまうということです。辛いばかりの状態に置かれた人間だんだんと心がすさんでいきます。相手を大切にしたいという気持ちよりも、相手を邪魔だと思う気持ちの方が強くなって、最終的には塗り換わります。特にやりたいことが抑圧されているのであれはなおさら。
 そんなになると、あとはもう義務感で動くしかなくなるんですが。でもそうなると人間潰れてしまうんですよね。ポップスを聴いただけで涙がとまらなくなるなんて、何かが壊れたとした思えません。


 ま、そんな経験をしたせいだと思うんですが、義務感や同情で人と付き合うというのはしてはいけないと思うんですよ。それはやはり自己犠牲と同種のものだと思いますし、そうなるといずれ無理が溜まって破綻してしまうので。
 kanonの話に戻りますけれど、あの中では、真琴のことをただ可哀想だ、とする以外の描写はなかったように思います。祐一が秋子さんや名雪に、ありがとうやすみませんを言っているところからして、客観的には真琴が迷惑をかける存在だということを認めているように思えます。その辺が僕には受け入れ難い。「衰弱しててもちゃんと真琴らしさは残っているから大丈夫」とか、「何も苦しいことなんてない。むしろ真琴と一緒にいれて嬉しいと思っている」というようなシーンがあればこのような思いは抱かなかったはずなんですが、あれでは死に掛けの他人を可哀想がっているだけです。あれでは長続きしない。
そんなふうに考えていくと、あの話は、真琴はまだいろいろできたはず/できたかもしれないのに死んだのではなくて、生きていたらなんにもならないから死んだという気になります。
 だから安易に視聴者の共感心を呼ぶためにkeyがああいう構成にしたのじゃないかと思えてきてしまって、まぁ、いろいろ困ったり憤ったりするわけです。そんな感じです。


 追記ですが、ちょっとでも「真琴さえいなければ」と思ってしまうのなら、それはもういけない道に入ってしまっているということなんだと僕は思います。
 うまくいろんな人の手を借りれていて、しかも金銭面での問題もないのであれば、たぶんそんな思いは最初から抱かないのだろうと信じているのかもしれません。

ちょっぱーちょっぱー 2006/12/11 19:23 はじめまして。突然の書き込み失礼いたします。
話題となっているお話ですけど、これ、介護問題とかそういう話じゃなくて、『アルジャーノンに花束を』をやりたかっただけだと思うんですが。

hakuohhakuoh 2006/12/11 20:41 書き込みありがとうございます。
ああ、確かにそういう気もしますね。ただ、あちらだとチャーリーはそれからも生きなければいけなかったのに対して、真琴は肉体ごと消えてしまったので、「なんか都合いいなぁ」と思えてしまうんです。まぁ、勝手な思い込みなのでこんなこといってもしょうがないのは違いないんですが。

kande-takumakande-takuma 2006/12/12 07:10  再び丁寧な反応ありがとうございました。お手間を取らせて申し訳ありません。
 白翁さんの立場、スタンスについてより理解を深めることができたと感じております。
 白翁さんも書かれてるように、私も二人の立場の違いをよりはっきりと認識しました。
 互いに相手の考えをすんなりと受け入れることが出来ない理由がある。だから意見がぶつかる。そして、私もそれはそれでいいと思います。
 また、想定する要介護の度合いもまた、違っていたことを認めます。実際私の家にいる要介護者は言葉を喋ることが出来る状態ですので。
 そして私の事情についてもまた、項を改めて書かせていただきたい、と思います。
 それについては私自身のブログの方で書かせていただいた方がいいかもしれませんね。

絆 未来絆 未来 2006/12/12 07:11  私の嫌がらせみたいな長さのコメントにもお返事して頂いてありがとうございます。こちらも上手く意図が伝わっていなかったようなので少し補足させて下さい。

>真琴シナリオは、ふつうに見ている分には悲しい気分になって感動できるんですけど、つっこんで考え出すとなんか気持ち悪いものが見えてくるな、という意味で
 えっとですね、私が言った「倫理」というのはまさにこの「ふつうに見ている」と「つっこんで考え出す」間の部分の事なんです。白翁さんの中ではこの二つの状態は少なくとも京アニ版Kanonを見る際には自然に繋がったものとして認識されているのだろうと思うのですが、それは必ずしも自明な事だとは言えないと思うんです。
 フィクションの中の出来事についてどの程度「真面目に考える」のか、というのは人によって違うのはもちろん作品のジャンルなんかでも違ってくる訳ですが、Kanonの場合、現代日本(おそらくは)を舞台としながらも非現実的な事が多々起きる一種のファンタジーとして描かれてもいるのでその辺り人によって認識に結構な差がありそうな気がします。
 更に言えば、娯楽作品については表面的で単純な理解だけでも構わないむしろその方が気楽に見られる分楽しみやすい、と思っている人は意外と多いのではないでしょうか。ましてや原作ゲームは娯楽の中でも最も快楽に対する指向性の強いポルノグラフィーとして作られた作品だったわけで、尚のことその傾向は強かった筈です。
 あとこう書くと怒られるかもしれませんが、「働くこともできず、動くこともできず、意思疎通すらもろくにできない。特に誰かが常に見ていなければならないような存在」と一緒に暮らすと言う事がどういう事なのか、ある程度の実感をもって考えられる人というのは――Kanonのゲームやアニメを好きな人の中には特に――それほどたくさんは居ないのではないでしょうか。お恥ずかしい話ですが私もそういう(実感の無い)人間の一人です。
 別に統計を取った訳ではないので断言は出来ませんが、もしこの作品に対し「つっこんで考え」る人がそれほど多くなかったのであれば、そして「ふつうに見て」「悲しい気分になって感動」した人が相当数いたのであれば、「ひっかかるところなしに素直に感動させるようなものにするにはああではいけない」という論理は必ずしも正しいとは言えなくなる筈です。私が、この話を「技術」の問題に見えるように語る事は得策ではないと言ったのは、つまりそういう理由からです。
 人は自分の想像が及ばない自分に直接関わらない領域についてはどこまででも冷酷になれる生き物だと思いますし、「娯楽」というのは良くも悪くも人間の心の有様に忠実に作られるものです。ですから時として信じられないくらい残酷な表現が描かれる事もある訳で、だからこそ表現の倫理を問う声が挙がる事を私は歓迎するのです。
 ああっ今度こそは短く収めようと思ったのですが結局長くなってしまいました。重ね重ねですがお詫びいたします。ごめんなさい。

 ……って今見直してみたらブクマコメントに予想通りの反論が来てますね。ほんとに律儀な人達だ。

あうーあうー 2006/12/12 13:30  そもそも真琴は、はじめて出合った時の真琴に「なった」のだから。
 もう一度あの頃の真琴になって欲しいとあれこれするのは当然というか、あがくと思う。どうやってついたかわからない家電が壊れて、あっさりあきらめるか、もう一度つかないか方法を探るか。あきらめる人はあきらめるし、どうにかしたいと探る人はどうにかしようとするだろう。しかし、あきらめた人が残念だったり悲しくなかったりするかは、分からない。多分残念だったり悲しかったりする人のほうが多いだろう。
 奇跡が一度起こっている状態の真琴であるから、カノンの物語として連ねられているのだと思う。

白翁白翁 2006/12/15 00:44 ごめんなさい。なんか長文だらけでへたれて死んでいます。
そういうわけで、短めにいきます。ごめんなさい。

>かんでさん。
サイトの方、拝見させていただきました。
なるほど、……というしかないように思います。体験としてそれだけ印象的(想像が追いつかないので、理屈としてイメージするしかないのですけれど)な経験をしていると、思考のルールが変わってしまうのでしょうね。僕の場合もそうですけれど、まぁ、そうなってしまうのも仕方がないかなと思います。

>絆未来さん
きずなさんのいう倫理について理解しました。
どうせファンタジーなんだからいいじゃんか、というのは実際真理だと思います。現実の世界だとお金の扱いがものすごく大きくなるのでエントリについてああだこうだ書きましたけど、きっとあの世界なら何年経とうがお金に困ることはないんだろうな、と思いますし。
表現について、というかこの場合は物語の主要目的になるんですが、それに突っ込んで考える人は仰る通りあんまりいないと思います。
ま、なんていうか、伏線好きが伏線が回収されているだけで満足できるようなもので(逆に、放り出されている伏線があると怒る)、僕は目的とその動機とその解決に価値を置いて物語を見ているのかもしれません。だからそういうところが気になってしまうのかと。そういうわけで、あんまり体験に関する実感は関係ないような気がします。


>あうーさん
僕が気に入らないのは、あがいたり、あきらめたり、とかそういうことではなくて、麻琴があっさり奇麗に消えてしまったことになんか製作者の都合をみてしまうからで。ええと……別に、カノンにふさわしいかどうかということは考えていないです。

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