[地域] 芝浦港南地区 (2)−4 東京都水再生センター … 糞尿譚(4)−6 東京下水道物語

2011年の新年はお蔭さまで東京近辺は穏やかな年明けでした。 但し日本国の新春は藪の中、”鬼が出るか蛇が出るか”経済の低迷など総ては政治(国政)衰退の結果でしょう。……
と云う事ですが、お寄り下さった方々には『新年開運』間違いない”糞尿譚”の締めくくり「下水道のお話」です。
臭い汚い物質は貴方が造った張本人、運は付きます、、付かせます!!。
今回は埋立地、明治の時代は海の中、芝浦地区最大施設、東京都下水道局芝浦水再生センターです。
下掲航空写真は東京都都市整備局の開発プロジェクト推進室の計画である”東京サウスゲート”計画(平成18年9月)の品川、田町駅周辺630haの概範囲を示す地図に、「芝浦と畜場」、「芝浦下水処理場(旧名)」、「東京海洋大学」のロケーションをプロットしてみました。
     
都市整備局のこの地域の基本計画として、
①環境→建物の形状配置、排熱削減、未利用エネルギーの活用。
②土地利用→ホテルなど国際的拠点の形成、運河や歴史資源を活用した街ずくり。
③土地整備基盤→土地利用転換などに対し公共空間整備。
以上指針として示されておりますが、上記地図を検証しても品川駅前地域の再開発適地は既に見当たりません。
この地域最大の占有者芝浦水再生センターが地域将来のキーポイントになることは地図上からも明確かと思われます。③項目に『公共空間整備』とさり気無く書かれておりますが、今後の品川発展のキーワードでしょう!。
しかし残念ながら私にはこの下水処理施設が水再生センターと改称し革新技術が導入されている化学、機械、電気、バクテリヤ。 ウイルス対策など生物学の先端技術の理解は不可能でその業務の詳細、展開はご説明が出来ませんが、この施設が街ずくりの障害ではなく、むしろ高層市街地区の土地空間再利用として支障なく受け入れられる存在になっている事実から話が始ります。
また”東京都芝浦と畜場”についても空間整備計画が浮上するのかも知れません。国の施設、東京海洋大学キャンパスについては現状でも地域の環境に寄与する存在と云えるのでしょう。
将来の品川地域はリニア新幹線の始発駅にも決定し、東京都構想の”東京サウスゲート”地区として更に発展が予想されますが、現状での推移は、徐々に土地利用転換が周辺地域に浸透して行く方向性が大勢かと考えられますが、
ただし、各施設の将来プランによっては巨大土地(公共空間整備)が出現する可能性が、既にスタートしております。
最近水再生センターの既存沈殿地を地下雨天時貯留池に改造して地上部空間を利用して商業ビル建築計画が決定し、『芝浦水再生センター再構築に伴う上部利用者公開募集』では平成21年3月”NTT都市開発(株)”に落札決定しました。
このビルは地下2階、地上32階の高層環境モデルビルとして下水再生水、下水熱源をトイレ用水、空調熱源とするものです。
水再生センター再構築という重要なキーワードは構内施設の広大な曝気、沈殿池もいずれ地下化し上部空間利用を示唆しているのではないでしょうか。 更に”と畜場”も、その可能性が生じ、将来、新橋汐留地区を凌駕する”東京サウスゲート地区”出現も考えられます。
この地区の更なる展望をイメージすれば、公共空間整備と公共施設再構築の範ちゅうには地区最大のJRヤードも含まれるのか?、予断は出来ませんが!、現代の科学技術の革新性を常に考慮せずには都市発展のスピードに付いていけないかも知れません。
     

では、本題に戻りまして芝浦水再生センターの歴史経緯の概要、
 1922 大正11 三河島汚水処分場運転開始
 1930 昭和5  砂町汚水処分場運転開始
 1931    6  芝浦汚水処分場運転開始
 1952   27  東京都水道局下水課から下水部へ
 1953   28  下水処分場から下水処理場へ改称
 1962   37  東京都下水道局発足
 1977   52  下水汚泥資源利用協議会発足
 1981   56  全処理場に水質総量規制適用
 1982   57  芝浦、砂町水処理センターに改称
 1983   58  汚泥処理専用基地(南部スラッジプラント)運転開始
 2004平成16  水再生センターに名称変更 
 2009   21  水再生センター構内に商業ビル建設決定

本来の下水処理場という基本に戻れば、戦時、戦後の一時期、汲取り屎尿の大部分が都市農村間にリサイクルされた事実と、また現代にいたり、トイレ排水が生活下水の6、7割を占めるわけですが、かの糞尿は何処へ消えてたしまったのだろうか? と運河に注ぐ水再生センターの巨大排水口にクラゲが群れ泳ぐ様を見ながら考えました。

”平成糞尿譚”という切り口から現代に至る経過と時代風潮を追跡してみましょう。
”江戸東京の下水道のはなし” 東京下水道史探訪会編 技報堂出版の記事から引用。
《明治、大正時代》
明治39年時事新報の社説 
「下水道の構築」では『東京市下水道の仕末、不行き届き至極にして病毒蔓延の源をなす、下水道の設備無き都市は厠を備えざる家と同様。 
そして外人が本所割下水や浅草のオハグロどぶをみたら何というか、帝国ホテル側の掘割が臭くて投宿をみあわせた者がある』とし、外国の合流式や沈殿処理など説明して下水道の促進を論じている。

大正2年9月朝日新聞
東京市の下水設計は近郊農村に打撃を与える。 下水道そのものには賛成するが、その利用を考えるべきである。日本の風習の便所が改まらない限り衛生問題は解決されない。市は品川沖へ下水を放流することを計画しているが、10年間で200〜300万円の価値がある人糞尿を海にむざむざ流すのはもったいないことである。何とか利用すべきである。
石井明男 「下水道文化研究」第5号”新聞の見出し”から。
大正時代に入ると、洋式の建物がたくさんできて、水洗トイレがかなりつくられ始めた。 しかし、その多くが近くの池とか堀に未処理で流していたのが実態であった。
1916(大正5年)の新聞のタイトルをみると、「猿真似洗浄便所、小さな清潔から大きな不潔」、「タレ流しまかりならぬ…警視庁水洗便所を厳禁す」、「大問題だ近視衛生」、等々で、夏になるとお堀の囲りはくさくて歩けないといった記事もある。 マスコミを通じてだんだん社会全体が下水処理の必要性を感じだしてきたことがうかがえる。

大正11年(1922)東京市第1号の三河島汚水処分場の完成以前の逸話。
大正時代に入りますと都市問題がでてきます。日露戦争を明治37年(1904)に勝った後、産業も発展し、近代的なビルもホテルもできてきました。 そしてそれらの建物に水洗便所もつくられたんです。 ところが、本格的な下水道がまだ布設されていないので、外堀や内堀に垂れ流しの状態で汚水が流入して、夏は臭くて歩けなかったそうです。 このことは新聞にも書かれています。
大学を出て三菱地所に勤めた人が最初にさせられた仕事が、ビルの地下の汚物槽の汚物を作業員が取り出し、運ぶのを監視することだったとあります。 ビルに水洗便所をつくってもその終末がなかったからです。…

《昭和、平成時代》
砂町、芝浦にも昭和5年、6年と相次いで汚水処分場が完成しますが満州事変、支那事変(日中戦争)、第二次大戦と敗戦をへて昭和39年(1964)の東京オリンピック開催後の発展期までは東京都も財政難で建設は進んでおりません。以後飛躍的に下水道工事が進捗し今日の状態に発展しました。
現在40代以上の方はバキュームカーの作業をご存知かと思いますが私の覚えていることは、さらに以前の事です。 東京都の作業員が、各家の便所の汲み取り口から柄杓で汲み取り木樽(たる)に移し、天秤棒で担いで道端一箇所に集めます!。
常時どこかの道端には東京都のマークを焼印した樽(たる)が集めてあり臭いを発散しておりました。 当時子供の私は東京都のマークがオワイ樽の印と勘違いしていた時期もあります。 
…野戦を転戦し日本を占領した米軍も樽の中身の行き先を知っていたらしく、日本の野菜を調達せずに調布の陸軍飛行場跡に急遽、水耕栽培の大設備を作っており、東京都の樽には歴戦米軍も恐れていたのでしょう。
今では、分身の如き身近な物質が一旦排泄されるとその行く末さえ不明確な遠き存在になりましたが、日本人と糞尿との濃密な付き合いは神代の時代にまでさかのぼり、天照大御神(あまてらすおおみかみ)にも関係があります。 古事記より糞尿譚のくだり。
”神話から歴史へ” 井上光貞 中公文庫より
……宇気比に勝った須佐之男命は、心からおごり、種々の暴行を働くようになった。 大御神(おおみかみ)の常田(つくだ)の畔(あぜ)を切り、溝を埋め、大御神の聞(き)こしめす大嘗(おおにえ)の殿に屎(くそ)を散らした。
大御神は、あえてこれをとがめようとしなかったが、……天(あめ)の斑馬(ふちこま)の皮をはいでおとし入れ、服織女(はたおりめ)を驚死さすにおよんで、さすがの女神も怒り、天の岩戸にかくれてしまった。 そのため天地はまっくらやみになった。…

人間より糞尿に身近な神様のお話でした!。 
それでは私達の排泄物の結末を追跡してみますが、大雑把な概要であり、街角ランブラーの私には技術的な解明などは不可能です、悪しからず。
なお、芝浦水再生センターの処理地域は千代田、中央、港、新宿、、渋谷の全域、世田谷、品川、文京、目黒、豊島の一部です。
《家庭生活排水》の流水順序
①トイレ
  屎尿排水 
②下水道管
  勾配をつけて自然流下 
ポンプ場
  下水道管の傾斜距離による深度を調整し地表近くの下水道管まで
  揚水して再び流下させる。処理場までの距離によりポンプ場の数がきま
  る。…水再生センターに流入
《水再生センター》の処理順序。
④沈砂池
  下水の”ごみ”を除いたり土砂類を沈殿させる。
⑤第一沈殿池
  下水を2〜3時間流しながら含まれた汚れを沈殿させる。
⑥反応槽
  微生物の集塊を加え空気を送り込み6〜8時間程度攪拌して汚れを微
  生物が分解し、細かい汚れは微生物に付着して塊(活性汚泥)を形成
  する。
⑦第二沈殿池
  反応槽で出来た活性汚泥(微生物の塊)を3〜4時間かけて沈殿させ上
  澄み(処理水)を汚泥と分離する。
⑧A→塩素接触槽で第二沈殿池の処理水を消毒して東京湾高浜運河
    どに放流する。
  B→各ステージで分離した汚泥を脱水して汚泥処理専用基地”南部スラ
    ッジプラント”にパイプラインで圧送する。
結構、時間と手間をかけて生活排水は放流あるいは、更に高度処理によるビル用水、工業用水に転化されましたが、我等が糞尿の確たる転化物は何でしょうか?。
反応槽の産物、有機物を分解した微生物の塊、活性汚泥かと推定しました!。初期段階で発生する無機物の含まれた汚泥とともにスラッジ(汚泥)としてスラッジプラントにパイプ圧送されます。
《南部スラッジプラント》  大田区城南島
芝浦水再生センタ−からのスラッジ(汚泥)を焼却し焼却灰は加工して建材、または埋め立て処分となります。 
私は過っての都市、農村間の屎尿リサイクルが頭にあり下水汚泥の肥料(コンポスト)化を期待したのですが、工場排水の有害金属含有問題があり、芝浦水再生センターのスラッジは全量焼却処分でした。 しかし技術革新は日々進歩します既に下水道から希少金属(金など)を抽出回収する自治体もあるとか聞きます。無限の資源!東京都の下水汚泥の肥料化は将来あるかも知れません。
昨今、世界の国々の中でも日本は清潔な国のイメージが定着いたしましたが、それにしても約3,40年の短期に広大な地域の屎尿処理、下水道整備が都市環境へ驚くほどの波及効果を及ぼした事実は下水道関係者の努力にもあるのでしょう。 ……次回へ続く…  ……前回へ戻る…   

《糞尿譚》……次へ続く…  ……前へ戻る

参考引用資料)
 江戸東京の下水道のはなし 東京下水道史探訪会編 技報堂出版
 日本の歴史1 神話から歴史へ 井上光貞 中公文庫
 品川周辺地域都市居住環境整備基本計画  東京都市整備局

Web)
 芝浦水再生センター 東京都下水道局
 南部スラッジプラント 東京都下水道局
 wikipedia下水処理場

《糞尿譚》
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