[寺社] 将軍家霊廟増上寺 (3)−5 江、秀忠墳墓の経緯と増上寺 その3

寛永3年(1626)崇源院お江与の方霊廟建立で始った増上寺徳川将軍霊廟は明治10年(1877)皇女和宮静寛院が逝去、宮内省の手で14代将軍家茂宝塔に並べて葬られる迄の251年間利用された事になります。昭和20年の東京空襲で焼失、昭和33年の西武鉄道堤康次郎氏に売却されホテル建設のため将軍霊域は発掘改葬され、新たに増上寺境内の新霊域に集約されました。……
では誰が歴史的遺構徳川将軍霊域の持ち主だったのでしょうか?…発掘にあたり学術調査した報告書”増上寺徳川将軍墓とその遺品、遺体”(東京大学出版会)に『増上寺徳川将軍家”矢島恭介』の記載があります。
……明治の世に改まって、徳川氏の所領は、明治政府の収めるところとなった。 明治2年になって、徳川氏の祖先の廟墓の地は、以前のとおり返還された(法令全書明治2年2月9日、東叡山)「増上寺徳川氏廟墓下附、新三位徳川家達宛。増上寺有之候祖先廟墓地、二万七千八十坪余、別図面(今欠之)朱線之通、今般経界相成定下渡候事」(記事類纂、明治辛末四年四月八日)(東京府)などの記事によると、増上寺境域と、徳川氏の廟墓の地の経界が定められたことを知るのである。……
明治維新以来徳川将軍家を継承した徳川宗家が存在いたしますが、上記文書は将軍霊廟地の所有権は徳川宗家を示唆しており、この上記学術調査報告書は発掘後発表されたものですから徳川宗家が増上寺将軍霊廟地を売却したと考えられますが如何でしょうか!。従いまして上野寛永寺の将軍霊廟地も同列の扱いでしょう。しかし直接、間接、名義などその取引の形態はわかりません。
注)…上記土地売買で東京府下付の増上寺と徳川宗家の境界図面が紛失していれば売却時に境界トラブルで寺の不服提訴が在ったかも知れません。……
ではここで、差し支えのない極く一端のお話。上記、調査報告書に記された銅棺内の将軍遺体は公家風の装束で座棺形式です。これは総ての将軍家の人々の共通ですが、唯一明治時代に死去した14代家茂正室皇女”和宮”(静寛院)のみ寝棺形式でした。
戻ります、下図は将軍遺体の冠の中、髷(まげ)の形状と結い方のスケッチです。なお日常生活は、ちよんまげ(丁髷)のようです。

上、6代徳川家宣 中、12代徳川家慶 下、14代徳川家茂
増上寺徳川将軍霊廟の遺構建造物が解体され西武鉄道の手で狭山に一旦集積され主要文化財等は不動寺に保存されましたがその他膨大な石灯篭、墓石塔、石材類は西武球場建設前の敷地にむなしく放置されて居りました、その中には天親院、広大院、天英院など三人の将軍正室の宝塔やメジャーな歴史遺物が多数含まれていたのです。
その後西武球場建設構想が発展し、先ず敷地内の歴史遺産の処置が問題となります。そこで西部鉄道が撰んだ解決抜本策として希望者に無償譲渡案が実行されます(詳細条件は不明)。その結果将軍正室、側室の宝塔と寄進諸侯の銘入りの巨大石灯籠約一千基余りが希望者に引き取られ各地に離散してゆきました。…お江与の方”崇源院”の土中埋没していた当初の宝篋印塔(高さ5.17m)、並んで建っていた夭折長男”長丸”秋徳院(2歳)の宝篋印塔は共に行方不明です。
(注)”散在宝塔” 天英院 6代家定正室清瀬 長命寺) 広大院 11代家斉正室清瀬 長命寺) 天親院 13代家定正室(狭山 不動寺
まず狭山不動寺ですが西武鉄道堤康次郎氏が増上寺将軍霊廟の残存文化財遺構を保存するお寺として建立、西武球場駅正面道路に面した、台徳院廟(2代将軍秀忠)勅額門を入ると丘上にかけて増上寺将軍霊廟の重要文化財が多数が保存されております。 
ところで、貴重な文化財を焼け跡整理の雑事程度に処分した『土地売却者』のうそ寒い心情に驚愕しましたが、用地取得者の西武鉄道は歴史遺構を曲りなりにも散逸を防いだ努力は後世で更に評価されるものと思います。……次へつづく…  ……前へ戻る

徳川将軍家霊廟増上寺》 
(5) 増上寺将軍霊廟宝塔の行方と清瀬市長命寺 
(4) 狭山不動寺の将軍家甕棺は何方のか 
(3) 江、秀忠墳墓の経緯と増上寺 その3 
(2) 江、秀忠墳墓の経緯と増上寺 その2 
(1) 江、秀忠墳墓の経緯と増上寺 その1