[交通流通][歴史] 醤油の街野田市 (2)−3 人車鉄道という物流

野田の市街には醤油醸造の経過を物語る貴重な文化財が散在し東京近郊では異色の街である事に気が付きます。云い換えれば、典型的な田舎町の風情と昔の醤油富豪の遺構邸宅、文化財などと使用人、職人、樽屋などの住んだ下町的な区域の混在は、街角ランブラーをワクワクさせる貴重なところです。……

豆相人車鉄道 (葛飾区郷土と天文博物館)

先ず、著名な寺社仏閣遺構もない、この街の散策探訪はマニアックな部類に入ります。そこで、伝来の醤油醸造家の実態を解明する早道は、その屋敷の見学です。 野田市には一般公開されているキッコーマン印醤油の創業家、旧茂木佐平治邸の住居庭園と茶室の国登録文化財があり、サーモンピンクの土塀に囲まれた珠玉の文化財といえるでしょう。この邸の中には醤油の街探訪に必須の野田市立の郷土博物館があり、予備知識に是非とも利用して街歩きを楽しんでください。
では醤油醸造蔵の物流として異色の人車鉄道を切り口に始めます。 人車鉄道は1世紀も前のお話ですが、土木作業用のトロッコなどは昭和1桁生れの私も身近な懐かしい存在です。整地など工事現場の花形で子供の憧れの的、一度は押してみたい、坂を疾走したいと夢見たものです。敗戦後の昭和20年代までは利用されておりました。

               野田市街略図、赤線は人車鉄道線路
……「トロッコ」と云えば芥川龍之介の作品を思い出しますが、この話は明治33年(1900)に開通した小田原、熱海間の旅客用の豆相人車鉄道工事現場のお話でトロッコと土工に拘る幼い少年の心理描写の素晴らしさに感動して未だに脳裡に残っております。
……野田人車鉄道線路の概要図を書いてみました。この線路略図から野田市メインの「本町通り」商店街は実は各醤油醸造蔵からの物流路で人車線路の引込み線が蔵へと櫛比しており醤油醸造家によって構成されて行った街の性格がひと目で分るでしょう。なお、この地域では唯一キノエネ醤油が健在で、昔の見世を残し盛業しております。 
     
醤油醸造蔵作業
醤油樽運搬人車鉄道茂木勇右衛門画、郷土博物館冊子より

          
江戸以来野田の醤油は江戸川河岸から高瀬船を利用して消費地江戸東京や上州に出荷しており原料の大豆は常陸、上野、下総、小麦は相模、塩は瀬戸内の赤穂、十州(以上、万延元年、1860の記録)のもので総て舟運で江戸川河岸に荷揚げされました。  人車鉄道線路とは江戸川河岸と各醸造蔵を繋ぐ地域内物流路で、施設は明治33年から大正14年廃止までの25年の間です。人車の動力は車丁2人が醤油樽で70本(2トン)を積載運行しています。しかし物流近代化を求める野田醤油醸造組合は舟運の不便解消を県に要望、資金提供して明治44年(1911)千葉県営軽便鉄道 野田、柏駅間が開通し、国鉄へ乗り入れて全国に鉄道貨車輸送が成就します。
この路線を核にして北総鉄道のち総武鉄道(共に現鉄道会社とは無関係)が軽便鉄道を買収して柏、船橋間と野田市、大宮間の鉄道を施設し現在の野田線の形態を整えましたが、昭和19年に戦時企業統制か? 東武鉄道と合併し、現在に至りました。
過っては田舎町野田の醤油醸造が千葉県の基幹産業として大きな存在であった所以が鉄道開通と線路名、東武野田線として引き継がれているのです。
更に戦後の経済発展は道路整備の充実で物流近代化”トラック輸送”に切り替わり野田町貨物駅は廃止されました。
現今のキッコーマンのロジステックの進化は私には分りませんが、キッコーマン本社(野田市)内の国際食文化研究センターでは文献図書の閲覧公開され、情報収集が出来るかも知れません。…
…市街地散策は次回に、……次につづく… ……前へ戻る

《醤油の街野田市
(3) 醤油の街を散策
(2) 人車鉄道という物流
(1) 世界の調味料「醤油」