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旧聞アトランダム

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2012-05-10

[人物][歴史]渋沢栄一(4)−5 実業社会へ、大蔵官僚辞職の顛末(2017 02 20 訂正部分あり)

前回に続き、…大蔵省出仕後、日本の近代銀行業務発足の端緒となる大きな仕事を手掛ける事になりました。
おりしも廃藩置県が実施され統一国家としての行政の諸問題が発生し特に通貨の門題は徳川時代の貨幣から維新の過度期に太政官札(新政府発行)を初め各藩の藩札発行で混乱し早急な解決が迫られました。
栄一が改正掛長のとき大蔵小輔の伊藤博文の指示でアメリカの紙幣に関する調査の建議書作成から関与し、通貨に関して兌換券製造発行で統一する段取りなどに尽力します。 上司の井上馨(大蔵大輔)はアメリカから得た調査結果の国立銀行条例を日本で施行する為に歳入より正貨を蓄積して準備を整え栄一に国立銀行条例の実施調査を専任させ、上申し明治五年(1872)の八月二十五日に政府布告に辿り着きました。
注)正貨→、金貨のほかに金地金・金為替を含む意味(金本位制度下)で用いられる。
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海運橋 国立第一銀行     広重三代
ちょっと、寄り道……兌換紙幣の記憶…私は少年時代の昭和十年代になぜか壱円札を手にとって見た記憶に”此券引換ニ金貨壱圓相渡可申候也”と紙幣に書き込まれていたのですが、多種の紙幣が在ったのかも?… 
更に奇態な経験は敗戦直後です。 昭和21年(1946)にはインフレ対策として全国民の預貯金が封鎖され同時に旧紙幣の流通を廃止して各世帯に割り当てた金額に対して月々新円発行しました。新円が間に合わない間は旧円に証紙、郵便切手を細長くした様な紙を貼り使用し、封鎖した旧円は第一封鎖と第二封鎖に別れ、限度以上の金額は第二封鎖とされ昭和23年7月まで解除されません。この間インフレ率は過去2年間で20倍、10年間で80倍となり、更に第二封鎖の10万円以下5%、11万円に30%、50万円に65%、順次累進の高額財産税が課税され結果、国民は莫大な第二封鎖預金を放棄させられた事になにました。 
国が国民の預金を合法的に収奪する方法。(2017.02.20訂正)
……青山脳病院長で歌人で有名な斉藤茂吉の次男で小説家、医師の北杜夫の著書「ドクトルマンボウ青春記」に父茂吉の敗戦直後の逸話10万円が消えた話で(訂正部分……松沢病院長で随筆家の斉藤茂太さんは著述で新円切り替え時、第二封鎖に大金10万円を預金したのが無価値になった話をされております。なぜか?、私にも出来る計算をしてみましょう。昭和21年に預金し封鎖解除は昭和23年です。その2年間のインフレ率は20倍でしたから、10万円の価値は5千円に下落です。更に、この預金額10万円に対して高額財産税は5%ですから5千円です。…如何でしょう。見事に10万円は消えてなくなりました。……)……課税率表を参照しますと10万円超→11万円以下 25%です。…が、第二封鎖預金は昭和23年(1948)7月に封鎖解除されたので納税する訳ですが、その時点でハイパーインフレ進捗による通貨価値の下落を勘案する事になります。…インフレ指数……昭和21年(1946)1.6 倍  昭和22年(1947)10 倍  昭和23年(1948)32 倍 が示され、封鎖期間の3年足らずのインフレ率概算を約40倍と致しますと、……納税後手許に残った75.000円の通貨価値は1/40の実質1.875円の購買力しかありません。
しかし、この措置もインフレ抑制の効果は半年位だったのです。国家経済の破綻の一つのパタンを体験した事になります。
一寸気になるのは戦後世代の方々の御存じない悪性インフレーションが国民の財産、生活を破壊する実態はデフレの比ではないのでは?、いま気軽に云われるインフレ誘導景気対策には違和感があります。……
では、渋沢栄一が経済究極の真理《入るを量りて、出すを為す》”量入為出”を理解できず蔑ろにする政治家に愛想を尽かし退官する経緯から…
…新天地でも栄一は才能を遺憾なく発揮して明治四年(1871)には大蔵大丞(現在の局長あるいは次官)に昇進しますが、その頃の大蔵卿(現、大臣)は大久保利通なる明治新政府の大権力者でしたが歳入額が集計出来ぬうちに陸海軍を初め各省庁の要求を引き受け理財には全く才がなく、下問された渋沢はいまだ新政府の歳入が全く解明されない状況から反対しますが大久保は理解せず、
……「それならば歳入の統計が明瞭になるまでは陸海軍へは経費を支給せぬという意念であるか」とのまことに意外な詰問が出たから、自分はさらに言葉を継いで、「いや決して陸海軍の経費を支出せぬという意味ではありません。 もちろん、陸海軍がなくては国を維持することのできぬということも存じております。 
しかしいま大蔵省は一年の歳入統計ができぬ前に支出のほうばかり心配して、しかも巨額の定額を立てるのは、第一に会計の理にもとって、すこぶる危険な処置であろうと思い腹蔵なく愚見を述べたのであります。
もとより御採用の有無は大蔵卿の御胸中にありましょう」といってその席を退きましたが、このときからまた官途を辞するという念が再開しました。……
(雨夜譚)
明治六年になっても大蔵省と各省との軋轢は激しく、司法卿の江藤新平の意として語られた象徴的な話ですが、、
『だいたい井上はけしからん人物だ。 ただただ各省を詰めるばかりで、そして自分が大蔵省を専横すろというのはじつに不埒だ。 もしこのままにして打ち捨てておくときにはどこまで跋扈するかもしれぬ』(雨夜譚)
この政府内の状態から井上馨は「もはや大蔵省の事務には絶望した。結局この分かりやすい正当な道理が行われぬというのは政府において井上を信任せぬのであるから、…」と辞意を表明する井上に渋沢栄一は「貴君の御辞意もさることながら、拙者もまた思う仔細があるからこの際貴君とともに辞表を呈しましょう。 思うに拙者の職を辞するともうすのは今日発意したわけではない。 すなわち一昨年以来胚胎していることで、辞意を請願したのもすでに再三のことだから貴君も御熟知のとおりであります。……」共に両人は政府に辞表を奉呈し、経緯から、やがて”依願免出仕”の辞令を手にします。
それから”Bank”を”銀行”とする邦訳は大蔵省改正掛の渋沢栄一が識者の意見収集の末決定した明治時代の造語といえるそうです。
やっと渋沢栄一の人生の本番が兌換紙幣発行銀行の第一号株式会社国立第一銀行が明治六年に誕生し総監役から頭取として新天地を切り開き成功します。
この日本最初の銀行は旧海運橋の際(現、日本橋兜町4番地)みずほ銀行兜町支店の敷地にあたり、建物には「銀行発祥地」のレリーフが填め込んであります。東京証券取引所の裏手に近い場所で、海運橋跡の川筋は首都高速の高層道路と化し付近はなんの変哲も無い都市景観です。
渋沢栄一の着手した数多事業の中で次に取り上げたいのは王子製紙株式会社です。
……次回へつづく… ……前回へ戻る…  

《渋沢栄一》
(5) 王子飛鳥山
(4) 実業社会へ、大蔵官僚辞職の顛末(2017 02 20 訂正部分あり)
(3) 新政府出仕と従兄弟達の彰義隊始末
(2) テロリストから幕臣への道
(1) 幻の16代将軍徳川昭武と渋沢栄一

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