[寺社][風俗] 本郷 根津界隈(1)−2 根津権現社と根津遊郭

昔から年寄りの一癖に「意地悪じいさん」などと云われる方が居りました。私も真似をする訳ではありませんが、本郷湯島から根津を歩いて見ますと若いお方に馴染みのない、懐かしい歌を思い出しましたので、自分勝手にロマンを楽しみます。
先ずは本郷湯島とくれば小畑 実さんの、……佐伯孝夫 作詞 清水保雄 作曲”湯島の白梅”
     <JASRACの作詞削除>
前回の岩崎邸下の無縁坂十字路旧道を更に東大病院不忍池門を過ぎ更に歩くと竹久夢二美術館、弥生美術館、などあります。 竹下夢二に因んで…… 
”宵待草”  詞 竹久夢二  
 ♪ 待てど暮らせど こぬひとを 宵待草のやるせなさ
         こよいは月も出ぬそうな ♪

今回は根津が目的地ですから美術館方向には行かず、右手、覚性寺を右折、道ナリに進むと不忍(しのばず)通りにでます。 昔の根津宮永丁です、江戸時代も、ここから根津神社まで大路になって根津遊郭の八重垣町仲通りです。新吉原の仲の町通りにあたります。 
この大路は根津権現社の門前町で、現在の言問通り不忍通りの交差点、根津一丁目(善光寺坂下)には廓の惣門(上野戦争で焼失)があり、遊客はここから刀、脇差し無しの丸腰で廓に入る掟でした。 道路の話になりますが、この遊郭仲通りを根幹として北と南を延長したのが現在の不忍通りです。 昭和20年敗戦後の八重垣町仲通りは東京空襲にも焼け残り、くすんだ大正時代の建物が建並び画材や額縁の店が多く目につき、都電線路は上野山下不忍池畔へと通じていたのです。
根津といえば権現様あっての根津でございますから、順序からも遊郭は後回しとしてお社に向かいます。 
左手の向ケ丘に東京大学農学部、更に昔は第一高等学校でした。…御年輩のお方でも一高は駒場だろうと仰いますが?、では一高寮歌をどうぞ……
第一高等学校寮歌  詞 矢野勘治  曲 楠正一      

♪ 嗚呼玉杯に花うけて 緑酒に月の影やどし
     治安の夢に耽りたる 栄華の巷低く見て
             向ケ丘そそり立つ 五寮の健児意気高し ♪

ついでに、サトウハチロウ邸も昔は高台にありましたので、……
”若い二人”  詞 サトウハチロウ  曲 古賀政男
 <JASRACの作詞削除>     
      



不忍通り根津一丁目交差点(遊郭惣門跡)から約300m程先を左に入ると根津権現神社、……五代将軍徳川綱吉は世継ぎに恵まれず実母桂昌院お玉の方(三代家光側室)の篤い信仰心の影響か?、帰依する僧侶に前世殺生の因果を諭され、『生類憐れみの令』を実践したとされますが、願いは成就できず、兄徳川綱重甲府宰相)の子綱豊を養世嗣として宝永二年(1705)に迎えます。
根津権現さまの場所は甲府徳川家の下屋敷で綱豊(六代将軍徳川家宣)が生まれ育った土地でした。 将軍綱吉は綱豊を世嗣に迎え、この下屋敷跡に産土神千駄木村の根津社を遷座し今の根津権現社を宝永三年(1706)に創建します。この華麗な建物は天下普請と言われ諸大名を動員し僅か一年で完成したそうです。  現存の楼門、唐門、拝殿。透かし塀、などは国指定重要文化財になっており、そのほか広い境内には多数の小社や貴重な事物がそんざいします。
なお、大きな声では言えないのですが! アメリカB29の空襲で、なんと御神体の本殿だけが焼失して居ります。…きっと、神様は出雲にでも御出張中だったのでしょうか!……  御祭神はスサノオ命とされますが明治政府の廃仏希釈の強制で、実は十一面観音が本地佛、基をただせば牛頭天王の習合でしょう。
権現様もよいが、根津遊郭はどうなってるのか!、と御心配の向きも居られる事ですから、私としては心為らずも遊里の始末へ移ります。…
根津権現造営の大工事には延べ数十万人の職人が集められたので、酒食を商う店が集まり女を置いた事で公許新吉原遊郭から岡場所取締りの催促があった事からも三百年前の宝永三年頃とされた門前町遊郭(岡場所)です。
以後の経過を先にしますと、幕末に幕府に公認され、維新後明治7年には新吉原や四宿、品川、新宿、千住、板橋並の公許遊郭に認められました。が、明治20年を以って廃止命令、翌年深川洲崎埋立地に移転した歴史です。 江戸時代の遊客は主に大工などの職人さんと谷中のお寺さんから坊さんが多かったようで、川柳があります。……
不思議の町根津 森まゆみ ちくま文庫(川柳岡場所孝 大曲駒村)
< さひがねを預けて揚る根津の客 >< 根津の客雨の降る日は群れてくる >< 根津の客まあ腹掛けを取りなんし >
意味深の句ですが…?
 < 細工場がとんだ広いと根津の客 >
三浦坂下には谷中に帰る朝帰りの坊主が振り返る見返り橋が在ったそうです。< 大方は俗名で来る根津の客 >
商人の評判は? < 商人は細(こま)っかしいと根津でいひ >

今東光(僧侶、作家)さんは根津の遊郭や岡場所について触れています。……
吉原哀歓 今東光 徳間書店
……その部屋は四畳半で、次の間は六畳。それに縁がついていて其所から上野の山が一望に望まれた。右手を眺めれると池之端七軒町の町並がまるで波のように起伏してるのが見られ、はるかに不忍池の冬枯れの景まで見えるのだ。左の方は根津権現の森を越えて千駄木の高台が模糊として目に入って来るのだ。
脚下は藍染町で瞳を凝らして見ると其所に住んだ比丘尼長屋は網膜に浮かんで来るのだ。徳川時代にはその比丘尼が歌を歌って歩きながら売春を行っていたという名高い歌比丘尼の所在地だ。もしかすると今でもその流れをくんだ妖しい女が居るような気がするのだ。…
……明治十七年頃の記録にも江戸から東京と改称された首都に私娼の出没する場所、十有個所を記しているが、その中に本郷根津と明らかに指しているのはこの根津権現神社を中心としたその周辺。とりわけ藍染橋から谷中へかけての貧民窟まがいの一画には家の格子の間から襟首に厚く白粉を塗った女が手招きしたと報じている。…
……画学生だった僕が真島町の画熟に通う途次、行き帰りに袖を引張られた覺があった。溝臭い藍染川に沿って歩いていると媒けた長屋が続き、往来に面した格子窓の中で昼間でも裸電球が点いているのだ。ランプが電気に代わっただけ文明開化になった証拠だろう。その格子先を歩いていると不意に、「兄哥(にい)さん」と幽(かすか)に声をかけてくる。…

根津遊郭は明治の公許遊郭時代でも周囲には岡場所が散在、引継がれていたようです。……本郷加賀藩邸跡に東京帝国大学が設置され、これに伴い深川洲崎の地に追放移転された経緯や明治を代表する教養人が帝大学生時代に根津遊郭の娼妓とのロマンス成就の話は次回 。……次回へつづく…   ……前回へ戻る

《本郷 根津界隈》
(2) 根津遊郭と東京帝国大学
(1) 根津権現社と根津遊郭