[産業][地域] 皮革産業木下川 (1)−6 東墨田皮革産業の今昔

15年程前、皮から革にする産業地帯、墨田区東墨田地区を探訪いたしましたが、この地域産業が昨今はどのように変化しているのか再訪してみました。
先ず、地続きの墨田区北部一帯は永井荷風さんの濹東綺譚で有名な玉の井の「抜けられます」と同じように入り組んだ路地で構成された街並みです、特に隣接の八広町は何度行っても方向を失い目的地には出られませんでした。
     

Photo…タンニング初期行程ドラムと生皮
しかし東墨田地域には大きな運動公園など公共スペースや都営住宅、ゴルフ練習所などが存在しますが、実はタンナー(革なめし業)産業衰退の実証で大中企業の撤退跡地です。…ここの典型的な下町路地は家業のタンニング(皮なめし)に必要な有機的構成のラインの役割を果たしております。明治初期に浅草地域などからの移住者により始った皮革産業は膨大な軍需を支えに大規模な地場産業に成長した過程がありましたが戦後の景気の浮沈により大中企業工場が撤収して、昔に戻り盛業時の1/10の規模です。それでも国内のピックスキン(豚革)生産の7,8割が東墨田地区なのです。……聞いた時には”なに、それ…”と矛盾を感じましたが皮革の輸出入から地場産業の現状、高級ピックスキンは服飾用にフランス著名ブランドなどと取引した高度技術製品の話などは後述として、路地の探訪結果に移ります。……

Photo…ドラム(別名タイコ)
以前来た時は天気が良いのに道がビショビショで路地に面した狭い工場はそれぞれ開け放たれ、直径3,4メートルの木製ドラムが回転しているのが見えました。 これは”と畜場”から来た生皮を処理して"鞣す最重要過程で薬品処理し水洗いされた皮を次の工程に運ぶ車から洩れる水なのでした。…移動する理由とは……東墨田の皮鞣(かわなめし)業の行程を大別すると…鞣し→染色→絞り→張皮→皮漉き→計量など各行程がそれぞれ独立専業化し密集した街が生産ラインとして機能し完成品に至るのです。現在は複数の工程をこなすのか、一企業内でライン化処理するのか、道は乾いておりました。今回は念入りに迷路を歩きますと、ドラム(タイコ)が回りアフリカ系の作業員が働き、部分的には昔日の光景が道路脇に存在しています。 
前回と異なる点は随所で皮を乾燥する光景が見られなかった事です、工場建物の屋上の乾燥場には皮は一軒も乾してありません。休日だからとも考えましたが技術革新なのか不明。今回の路地歩きで得た知識はドラムの操業と処理した皮の積んである光景とタンニングの副産物油脂類の処理工場の操業ですが、この油脂工場はかなりの産業臭を発生しておりました。…企業の脆弱体質の改善策が必要なのかも …ところが、この業界は動物の骨、屑皮、生脂などを原量として生産物は精製油脂(ラード等)、コラーゲン、ゼラチンなどで石鹸原料や現代女性のお世話になる先端の化粧品、薬品の原料ですが、更にゼラチン、コラーゲンを必要とする関連食品を列記してみます。……アイスクリーム、ババロア、プリン、マシュマロ 、ケーキ、生クリーム、シャーベット、ぜりー、ヨーグルト、キャラメル、あられ、柿の種、せんべい、ハム、ソーセージ、スープ、日本酒ワインなどが東墨田地場産業のお世話になっています。 …… なお、ゼラチン、コラーゲンは大企業ニッピ(旧日本皮革)などが精製信頼できる原料として販売され、更にお薬のカプセル、ハムソーセジのケーシングなどにも利用される生活密着型の原料です。……
と云う事で東墨田の産業と私達の接点が分りましたが、残念な社会問題が存在するのです。……
特に江戸時代顕著であった身分差別が一部の人々に未だに尾を曳いて存在する事です。有名な長吏頭浅草弾左衛門(弾直樹)の特権事業として幕府に認められて来た皮革製造売買は明治の御一新で自由化され配下の従業者はそれぞれ独立、家業として浅草近辺で皮鞣業を始めました、が政府の命令で明治25年(1892)木下川地区(東墨田)に強制移転させられ現在の地場産業”皮鞣業”の核となり関西方面などからも事業者、人材が集まったのです。 その様な経緯からか?、台東区墨田区などでは同和問題、人権侵害にたいする公的機関のキャンペーンが目に付きます。 ま、未だに民主主義が理解できない政治家や人々も結構居る日本国とは云え究極の人権侵害が存在するのは看過出来ない事です。……次回は東墨田の皮革製品ピッグスキンの詳細を調べてみましょう。 ……先へつづく

《皮革産業木下川》
(6) 戦後の盛衰
(5) 東墨田木下川地区の成立
(4) 東墨田木下川地区の発祥
(3) 東墨田木下川地区とは
(2) ピッグスキンの将来は…
(1) 東墨田皮革産業の今昔