[地域][歴史] 豪徳寺(世田谷区)周辺(1)−2 彦根藩主塋域と井伊直弼

前回の松蔭神社の吉田松陰墓地から西へ僅か900m離れた世田谷2丁目の巨刹豪徳寺には奇しくも「安政の大獄」を指揮して斜陽幕府の回天を計り、凶刃に倒れた井伊直弼の墓があります。 
”去る者は日々に疎し”と云われる世の中ですが、さすが幕末動乱の分岐点であった、このお方の存在感は現代にもインパクトを与え、歴史的人物として考察すると、安政の大獄事件の本質が見えて来るように思えます。
今回は世田谷区豪徳寺2丁目にある大溪山豪徳寺と井伊家塋域を拝観いたしました。 
     
豪徳寺仏殿
先ずは「豪徳寺の招き猫」?、 私は子供の頃、当地に程近い経堂町に住んでいた事があり、豪徳寺と云えば招き猫の話はよく知っていましたが、日本全国どこでも招き猫の置物はよく見かけますが、豪徳寺の招き猫がオリジナルなのか?、さらには彦根のユルキャラ”ひこにゃん”との関係など、わからない事が多いのです。……、


井伊直弼
では、豪徳寺招き猫のお話とは…、彦根藩第2代藩主井伊直孝が鷹狩りの途次ささやかな寺の門前で猫が手招きする仕草を見て、殿様は寺に入り茶を所望しますと、一天俄かに掻き曇り雷雨が襲い来ました、偶然殿様一行は濡れずに済んだと云う話なのですが、接待した住職を気に入った殿様が寄進して寺を建て直し、井伊家の江戸の菩提寺にしたと云うお話しです。 貧乏寺を隆盛させた招き猫さんは、その後、福招きの縁起物として人々の評判の置物になったようで、お寺にはお猫さんのお堂まであります。…以来直孝の法名「久昌院殿豪徳天英居士」から豪徳を寺名としたものです。 ではその猫の居た貧乏寺とは?、豪徳寺の隣に世田谷城址公園がありますが、この城は秀吉の小田原攻めで敗れた北條氏に仕えた吉良氏の居城でした。清和源氏を祖とする下野足利氏の傍流武家で、後北條は敗れてこの城も廃城になるのです。 過っての世田谷城主の吉良氏建立のこの寺が時代を経て一転し井伊家の菩提寺となったと云う縁起です。 この城址公園も昔の片鱗が保存された貴重なものです。

世田谷城址
さて、豪徳寺の広大な境内の特徴は歴史遺構の仏殿と、特に彦根藩主井伊氏の塋域では往時の佇まいが現代に継承保存されている感動があります。林立する巨大石塔をよく観察してゆきますと、特に正室など女性の墓が多いのが特徴で藩主や正室、側室、子女など家族、藩重臣は概ね生涯の大半を江戸暮らしで終えるのでしょう。


豪徳寺彦根藩主井伊家塋域
江戸に菩提寺が必要な事、また徳川幕藩体制の根幹は諸藩の中枢を江戸一極に集中させ監視出来る権力維持機能が垣間見えてまいります。
豪徳寺もう一つの歴史遺構の仏殿は豪徳寺創始者2代藩主井伊直孝の娘「掃雲院」が父の菩提を弔うため寺の整備を手掛け仏堂も延宝5年(1677年)に建立寄進され、堂前の石塔も当時のものです。 堂裏には広大な新築本堂があります。……
……なお、世田谷には彦根藩主井伊家のお話に欠かせない貴重な建築遺構が、もう一つあるのです。 豪徳寺に近い玉電上町駅南の程近くのボロ市通り(旧大山街道)には茅葺古色蒼然とした井伊家世田谷領の代官屋敷や小田原北条氏が奨励した楽市の名残で世田谷名物”ボロ市”が年末年始に恒例で市がたちます。 この一帯は世田谷の歴史ゾーンを形成しているのです。   
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《世田谷豪徳寺(2) 代官屋敷とボロ市
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