Hal Tasaki’s -<log p>

2005-12-17

[]水は答えを知っている

関連する項目をまとめた、「水からの伝言」を信じないでくださいというページを作成しましたので、そちらもご覧ください(2006年11月)。

末尾の付録に、「水からの伝言」関係の簡単なリンク集があります。

水は答えを知っている―その結晶にこめられたメッセージ

水は答えを知っている―その結晶にこめられたメッセージ

いろいろな方がこの書評をご覧になるだろうから、最初にひとこと注意を。私は相当に批判的な立場からこの本を読み、以下にもまったく否定的な(しかし、わたしが一人の人間として正直に感じた)感想を述べている。この本がすなおにお好きで、否定的な見解をみると不快になるという方は、この書評をお読みにならない方がよいかもしれない。ただし、あなたが学校の先生で、この本を生徒にすすめよう、この本の内容を(道徳や総合学習の(そして、万が一にだが、理科の))授業に活かそうとお考えになっているのであれば、是非とも、以下の私の感想に目を通していただきたい。そして、もう一度、教育にとってなにが重要かをお考えいただくようお願いしたい。

背景、そして、私はなぜこの本を読んだか

いわゆる「水からの伝言」をめぐる物語をご存知ない読者もいらっしゃるだろうから、そのあたりから話をはじめよう。なぜ私がこの本を手に取ったかの説明にもなる。

本書の著者の江本勝氏は、株式会社 IHM の設立者(現在は、会長)。IHM は、「波動と水を科学する」というキャッチフレーズを掲げて、出版や「波動医学」関連の商品(たとえば、波動測定器(189万円))の販売をおこなっている会社のようである(私に詳細な知識はないので、詳しくはリンク先のページをご覧いただきたい)。明らかに「ニセ科学」の要素のはいったご商売だと思うが、ここでは、その点は問題にしない(「ニセ科学」については、大阪大学の菊池誠さん(私の友人の物理学者)の「『ニセ科学』入門」という文章をご覧いただきたい)。

話の発端になるのは、この会社が出した「水からの伝言」という氷の結晶の写真集である。単に氷の結晶の美しい写真を並べた本ならば、とりたてて話題にすることはないのだが、これには、「『ありがとう』という文字をみせた水」と「『ばかやろう』という文字をみせた水」の結晶なるものの写真がのっているのだ。前者は美しい六角形の結晶で、後者は結晶になりそこなった醜いばらばらのかたまり。つまり、水は「よい言葉」に反応して美しい姿を見せるというのである。

これだけなら、ただのおとぎ話だと思えばいいのだろうが*1、おどろくべきことに、これらの結晶の写真が小学校での授業に使われているというのだ(そのような動きに IHM がどこまで関わっているのかは私は知らない)。これについては、天羽優子さん(山形大学の物理学者)によるまとめが詳しいが、簡単にいえば、子供たちに美しい結晶と汚い氷の写真を見せ、それぞれが「ありがとう」と「ばかやろう」を見せた水の結晶だと教える。そして、人体の大部分も水なのだということを強調した上で、単なる水でさえ「ばかやろう」を見るとこうなってしまうのだから、お友達に「ばかやろう」というのはやめよう、「ありがとう」と言おうね --- と道徳のお話にもっていくということのようだ(好意的な実例報告のページ)。残念ながら、いったい何校くらいの小学校でどの程度の規模の授業がおこなわれたのかというデーターはないが、私の知人の息子さんの小学校でも授業があったらしいし、同僚のお子さんの幼稚園では母の会で江本氏の著作が(もちろん好意的に)回覧されたそうだ。ネット上での報告を見ていると数を過大評価してしまう危険があるのだが、このように直接の知り合いから事例が聞けるということは、かなり浸透していることの表れだといっていいと思う。

私はいわゆる「ニセ科学」の類にはどちらかというと寛容な方なのだが、「水からの伝言」が小学校での授業に用いられているということを知って、つよい衝撃を受けた。このような動きは、教育への大きな脅威であり、決して認められないことだと考えている。科学者、教育者として、というより、一人の人間として、そのようなまちがった教育が広がっていくことを食い止めるために、何かをしなくてはならないという思いを抱いている。

多くの読者には無用な説明だろうし、上にあげた天羽さんのまとめと重複するところもあるが、念のために、「水からの伝言」を道徳の教材に用いることについて、根本的でかつ深刻だと思える問題点をまとめておこう(菊地さんが小学校の先生に配ったレジュメも簡潔で役に立つ)。これらの点のいくつかについては、この先でもより詳しく議論する。

  • 現代の科学の知見と照らし合わせたとき、「水の結晶の形が文字の意味内容の影響を受ける」ということは、かぎりなく確実に、あり得ない。「科学では未だ解明されていない」だけなのではないかという主張を聞くことがあるが、そうではない。この場合は、単に「科学的に(ほぼ確実に)あり得ないこと」あるいは「膨大な経験にもとづく科学の知見とまったく整合しないこと」に過ぎないのだ。

「『ばかやろう』と言うのはいけないことだ」ということを子供たちに手っ取り早くなっとくさせたいという動機はわからないでもない。しかし、たとえ都合のいい結論がでてくるからといって、事実ではあり得ない(ことがきわめて確からしい)理由付けをしてはいけない。さらに、「文字の内容が自然現象に影響を与える」というのは、相当にねじまがった人間中心の自然観だと感じる。幼い子供たちをそのような自然観に接触させることは、子供たちがこれから自然とどうかかわりながら成長していくかを考えたとき、とんでもない害になりうると私は考えている。

さらに、この話には、道徳としての側面だけをみても、大いに問題があると思う。

  • 何が「よい言葉」で何が「悪い言葉」かというのは、人間の心にかかわる深い問題だ。それは、人間が、自分の心と頭でしっかりと感じ考えて、時間をかけて答を出していくべき問題のはずだ。だが、ここでは、水に見せてやることで言葉のよしあしが決まることになっている。それなら、人間は自分で道徳的・倫理的な判断をしなくても、水に答を聞けばいいということになってしまう。誰か(何か)に聞けば答がわかるというのはもっとも安直で薄い道徳ではないだろうか?
  • また、「水からの伝言」では、無反省に、形の整った美しい結晶がよい言葉に対応するとされる。「形の整ったものがよいものだ」などということを道徳で教えてしまっていいものなのか? ものごとを見た目だけで判断してはいけないというのは、道徳の大切なテーマの一つではないのだろうか?

このような授業が多くの小学校でおこなわれたという事実、そしてそれ以上に、少なからぬ小学校の先生が「水からの伝言」は適切な教材だと判断したという事実に、私はつよい衝撃を受けたのだ。誰もが日常的に、インターネットや携帯電話を利用し、宇宙から眺めた地球の姿を目にする時代に、ある程度以上の教育を受けた知識人・教育者が、このような真性の「ニセ科学」と薄っぺらな道徳の混合物に疑問を感じなかったことに、つよい恐怖を感じたのである。これは、単に「水からの伝言」を取り上げた教師たちを批判すれば片がつくような問題ではない。科学がいよいよ「魔法」のように見えてくる時代にあって、いったい理科教育は何をしてきたのか、そして何をすればいいのかという重い疑問をつきつけてくる問題だと思う。もちろんこの書評でこの問題に深入りする気はない。これは、私たちが長い時間をかけて考えていかなくてはならない課題だ。

感想文の前書きに相当する部分もようやくおわりに近づいてきた。

私は、小学校の教室にまで広まった「水からの伝言」とはいったいどういうものか、ともかく(本業である教育と研究の合間の時間を割いて)この目で確かめようと思い、書店の「ヒーリング」のコーナーに平積みになっていた本書を購入した。これは江本氏の文章と彼らが撮影した氷の結晶の写真をあわせて掲載した本で、「水からの伝言」に関わる物語を知るには格好の読み物のようである。1600 円+税というやや高めの本だが、帯によれば、日本国内で20万部突破、世界18カ国語に翻訳されて、計50万部突破という大ベストセラーらしい。カラー図版も多く、やわらかい文章ですらすらと読める本だったので、そのまま通読した。そして、半ば予期していたことだが、これを読んだからといって、何かがわかるわけでもないし、次に何をすべきかが見えるわけでもないことをはっきりとなっとくした。また、プロの科学者が本気になってあら探しや批判をするような本でもないということも、読んでみて痛感した。そして何よりも、この本の内容に気楽に共感してしまった教育者がたくさんいたという事実にあらためてつよい無力感をおぼえた。

ともかく、以下、これがどういう本であるか --- より正確にいえば、私の目にはどういう本と写ったか --- を紹介してみようと思う。

この本を貫く「わかりやすさ」

プロローグを読むだけでも、本書を(そして、おそらくは、江本氏の「思想」を)貫く一つの特徴が見えてくる。まず、現代は「カオスの時代」で人々は誰もが疲労困憊しているという嘆きにつづいて、

だれもが、このアリ地獄のような世界の中で、救いを求めています。だれもが答えを求めているのです。その一言で世界が救われるような、シンプルで決定的な答えを、さがしつづけているのです。(p.11)

と問題提起をする。

しかし、人類が長い歴史の中で失敗をくり返しながら学んできたのは、すべてを解決する魔法の一言などは存在せず、われわれが世界をよりよくしていくためには、試行錯誤しながら(時には絶望しながらも)ひたすら地道な努力を続けていく以外にはないということだったと私などは信じている。江本氏も当然そういう話をつづけるのかと思ったのだが、それはあっさり裏切られた。

私は、ここで、それ*2を提示したいと思っています。それは、人間の体は平均すると七〇%が水である、ということです。(p.12)

江本氏は単純明快な答えがあるという。そして、それは、人体の主成分は水であるというきわめて即物的な事実だというのだ。

これを読んだだけでも、江本氏の「思想」になにか危険なものを感じる人は少なくないと思う(あるいは、そう願う)。シンプルな答えがあると言い切ってしまうことは、往々にして、人々が、考え、悩み、工夫しながら、よりよい方向を目指して努力することを妨げてしまうと私は信じる。さらに、彼の用意した答えが「主成分が水」という、きわめて物質的なものだという事実には、すなおに驚いた。私は、人間を人間たらしめているのは、その成分などではなく、人間を構成している無数の要素のきわめて複雑な絡み合いだと信じている。「主成分が水」であることが重要だというのは、ずいぶんと人間を馬鹿にした結論のような気がするのだが。

いずれにせよ、

  • 単純な結論(らしきもの)を提示する
  • それは、きわめて即物的だ

というのが、本書を貫く一つの流れなのである。本書が大いにもてはやされているという事実は、悲しいかな、こういった議論を「わかりやすい」と感じる読者が多いことを意味しているのだろう。しかし、「シンプルな答えがある、それは主成分が水であることだ」という主張を、自分の人生と生活に即してほんとうに理解しなっとくするのは、とてつもなく難しいことなのではないのだろうか? この「わかりやすさ」は、単に、見た目と聴き心地の「わかりやすさ」であって、本当に深い何かが「腑に落ちる」という真の「わかりやすさ」ではないはずだ。

実際、本書では

あふれんばかりの愛と感謝で世界を包みましょう。それは、すばらしい「形の場」となって、世界を変えていきます。(p.142)

といった美しい「教え」がくり返される。しかし、その「愛と感謝」の実践については、「あなたが水を前にして、それに愛をこめ、感謝の言葉を投げかけるとき(p.142)」といった、どちらかというと「人間味」のない記述しかみられない。「愛と感謝」を大切にして生きていきましょうという提案はすてきだと思うが、そういう美しいお題目を、現実の人生にどうやって活かしていけばよいのかはまったく当たり前ではない。というより、古来から、多くの宗教の実践者が、宗教の理想と複雑で泥臭い現実との折り合いをどうやってつけていくかについて、苦しみ、模索をつづけてきたのではなかったのか? 愛と感謝を実践しながら貧しくも清く生きてきた民の土地に、強い軍国が攻め込んで支配と搾取をはじめたとき、愛と感謝の民はいったいどうすればいいのか? あるいは、テレビの人生相談にでてくるような、誰が悪くて誰が正しいのかわからないような、ぐちゃぐちゃの人間模様に出会ったとき、どうやって愛と感謝を貫き、生きる道を決めていくのか? 本書には、そういう「泥臭い」人間の話はまったくといっていいほど登場しないのだ。おそらくは、そういう具体的なテーマについて話しはじめれば、いくらじょうずに話をすすめても、少なからぬ読者が「いや、世の中、それほど簡単じゃないでしょ」といった感想を持つようにになるのだろう。水を前にして愛と感謝を抱けば世界が変わっていくというシンプルな物の言い方は、読者に深い疑問を抱かせず、「わかりやすい」と思わせるのかも知れない。しかし、それで本当に人生や世界についての何かが「わかった」ことになるのだろうか?

単純で即物的で、いっけん「わかりやすい」説明は、これ以外にも、本書にたくさん登場する。たとえば、人間とそれ以外の生き物(みんな水が主成分だと思うが)の違いについては、

高等生物になればなるほど、体内にある元素の数はふえていきます。植物がもつ元素の数は、人間にくらべて極端に少なくなります。元素が少ないとどうなるのでしょうか。おそらく、感情がそれだけ少なくなってしまうのではないかと思います。痛いという感覚は他の動物にもあるでしょうが、悲しいとか感動したといった高度な感情は、人間とそれに近い動物しかもちえないのではないでしょうか。(p.106)

という説明がある。これは、もはや科学としての誤りを批判するといったレベルの文章ではないと思うのだが、いずれにせよ、私たちの感情を元素という基本的な素材に還元してしまうという発想は究極の「即物的なわかりやすい説明」だろう。いうまでもなく、感情というのは、私たちの脳(ひょっとすると、脳と体)が複雑な過程の末につくりだす何物かであって、決して、元素に対応するようなものではないというのが、多くの人の考えである。ちなみに、バクテリアから人間にいたるまで、すべての生物の体の質量の約 98 パーセントは、炭素、水素、窒素、酸素、リン、イオウというたった六つの元素からなっているそうだ。残りの部分の元素の豊富さが生物の種類によってどれほど異なっているのかは知らないが、少なくとも感情の有無とは関係がないと信じている。

また

私は、多くの人の健康相談にかかわってきた経験から、病気とはネガティブな感情によって引き起こされるものなのだと思い知らされました。原因となっている感情を消せれば、だれもが健康を取り戻すことができるのです。それには、努めてポジティブな感情をもつようにすることが大切です。(p.116)

というくだりは、「病は気から」という諺を徹底的に押し進めたものだが、単純な説明の好例だろう。

そして、きわめつけだと思ったのは、私たちの魂の起源という、ある意味で究極の宗教的・哲学的難問への実に「シンプルな」答えだ。

魂はどこから来たのでしょう。宇宙の果てから水にのってやってきたことは、いままでみてきたとおりです。(p.204)

水の結晶について

つづいて、小学校の授業でも取り上げられることになった水の結晶にかかわる部分をみることにしよう。

水の結晶写真を撮るために私が行っている具体的方法はこうです。

水を一種類ずつ五十個のシャーレに落とします(最初の数年間は百のシャーレでした)。これをマイナス二〇℃以下の冷凍庫で三時間ほど凍らせます。そうすると、表面張力によって丸く盛り上がった氷の粒がシャーレの上にできあがります。直径が一ミリほどの小さな粒です。これを一つずつ、氷の盛り上がった突起の部分に光をあてて顕微鏡でのぞくと、結晶があらわれるのです。

もちろん、五十個全部に同じような結晶があらわれるわけではありません。まったく結晶をつくらないものもあります。これらの結晶の形を統計にとり、グラフにしてみると、明らかに似た結晶があらわれる水と、まったく結晶ができない水、あるいは、くずれた結晶しかできない水など、それぞれの水のもつ性質がわかるのです。(p.21)

実験の詳細はわからないし、「統計にとり、グラフにしてみる」というのがどいういことかも、この記述からはわからない。もちろん、彼らは科学の論文を書いているわけではないし、理科の教材を作っているわけでもないから、厳密に科学的な実験をしてそれをきちんと記述しろなどと要求するつもりはない。

いずれにせよ、上の記述だけからでもうかがえるのは、これが、きわめてデリケートで再現性の低い実験だということだ。つまり、たとえ同じ条件(のつもり)で同じことをくり返したとしても、(湿度、温度、光の当たり方などなどの)ごく微妙な条件の違いのために実に様々な結果(つまり、結晶の形)が現れると考えられる。また、結晶の寿命は短いらしいので、それを人が顕微鏡でみつけて写真を撮るとなると、どういう写真が撮れるかは撮影する人の腕や心持ちにも大いに依存する可能性がある。

ともかく、彼らは、こうして水の結晶の写真を撮り、都市の水道水は結晶をつくらず自然水は美しい結晶を作るという結論を出したと主張する(この結果にも、私は不信感をもっている)。つづいて、水に音楽を聴かせて(本当に、スピーカーから聴かせるらしい)そのあとに作られる結晶をみるという実験の話になり、美しいクラシック音楽を聴かせた水は美しい結晶をつくり、ヘビーメタルの曲を聴かせた水はばらばらに壊れた結晶しか作らなかったと結論する(私はこの結論は信じない)。そして、きわめつけの、言葉を書いた紙を(ちゃんと水に見える向きにして)水を入れたガラス瓶に貼り付けておき、その後で水の結晶をみるという実験に話がうつる。

この結果は、まさにおどろくべきものになりました。「ありがとう」という言葉を見せた水は明らかに、六角形のきれいな形の結晶をつくりました。それに対して「ばかやろう」の文字を見せた水は、ヘビーメタルの音楽と同じく、結晶がばらばらに砕け散ってしまいました。

同じように、「しようね」という語りかけの言葉を貼った水は形の整った結晶になり、「しなさい」のほうの水は、結晶をつくることができませんでした。

この実験が教えてくれることは、私たちが日常口にしている言葉がいかに大切か、ということです。よい言葉を発すれば、そのバイブレーションは物をよい性質に変えて行きます。しかし悪い言葉を投げかければ、どんなものでも破壊の方向へと導いてしまうのです。(p.24)

前にも書いたように、今日の科学の知識と照らし合わせたとき、このような結果があり得ないことは断言できる。もともと実験がデリケートで結果にばらつきが大きいところに、実験をする人・データを整理する人の思いや希望などによるバイアスが自然にはいって、このような結論が浮かび上がってきてしまったと考えるべきだろう。別に意図的な捏造をしているといっているわけではない。捏造をする気がなくても、ある種の結論を期待していると、ついつい、それに一致する現象を余分に重みをつけてみつけてしまうのが、人間の性(さが)なのだ*3

このように書くと、「しかし、科学は万能ではなく、科学によって理解できないこともあるはずだ」とか、「『水の結晶が言葉によって形を変える』というのは新しい現象であって、これはまだ科学で解明されていないことなのだ」といった反論をする人がでてくるかもしれない。それらの疑問にまじめに答えておこう。

まず、「科学は万能ではない」というのは、まさに、そのとおり。科学というのは、簡単に言えば、この世界を少しでもきちんと理解しようと、できる範囲内であらゆる努力をして、少しずつでもわれわれの知識と理解を深めていこうという営みのことだ。幸いにも、この世界はそう簡単に理解できるものではなかったので、未だにわからないことが山積みで、私たち科学者が人生をかけて挑戦する余地がたくさん残っている。「科学によって理解できないこともある」どころか、われわれのまわりは「科学で理解できないことばかり」と言っていいくらいだ。

そうは言っても、科学によってほぼ確実に理解できていることもある。たとえば、地球がおおよそ球形をした物質のかたまりであること、太陽は大きな光り輝く星であり、地球などの惑星は大ざっぱには太陽のまわりを楕円軌道を描いてまわっていること、などは、膨大な観察・実験・考察によって、ほとんど疑う余地がなく確立されている。もちろん、この世の中には絶対ということはない。たとえば、大地は亀の背中に乗っている丸い板で、太陽は空のレールを走っていく火の玉であり、宇宙船から地球をみた映像はみんな CG のインチキ、地球を一周して飛行機が飛べるというのも航空会社の詐欺・・・といった可能性が本当にゼロだと言い切ることは誰にもできない。しかし、そんな可能性が猛烈に低いことは誰が考えても確実だろう。

それとほとんど同じことで、科学の中のきわめて確実な部分を総合して考えれば、「水の結晶が言葉によって形を変える」可能性が猛烈に低いと結論するしかないのである。結晶の形成は純粋に物理的なプロセスであり、そこに「言葉」が入り込む余地はない。これは単に科学者の信念や信仰ではない。人類の歴史をとおして蓄積されてきた膨大な経験事実にもとづく、どうしようもない事実なのだ。科学(の確実なところ)というのは、単なるバラバラのお話の集まりではなく、異なった部分どうしが互いに矛盾なく深く関係し合い補強し合っている実にしっかしりた建造物なのである。その一部分だけを、都合に応じて気楽に入れ替えたり修正したりということは、易々とはできないようになっているのだ(実際の自然がそうなっていたことの反映だと考えられる)。もし「水の結晶が言葉によって形を変える」ということを科学に取り込まなくてはならないとすると、自然科学の根幹にまでおよぶ全面的な大手術が必要になるだろう。もちろん、「水の結晶が言葉によって形を変える」ことが真実だという十分な証拠が本当に得られるというようなことになれば、われわれ科学者は、(おそらくは大喜びで)科学の大変革に取り組むだろうと思う。しかし、そういうことがおきる可能性は、「亀の背中説」が復活するのと同程度にあり得ないことなのだ。

ここから先、さまざまな言葉をみせた水の結晶についての説明と、たくさんのカラー写真が並ぶのだが、それらをいちいち説明するのはやめておく(IHM のこちらのページでいくつかの例をみることができる)。それよりも、江本氏によるこの現象の説明をみておこう。

では、言葉を紙に書いて水に見せても結晶が変化するというのは、どのように解釈したらよいのでしょうか。書かれた文字自体にその形が発する固有の振動があり、水は文字のもっている固有の振動を感じることができると考えられます。

水はこの世界にあるすべての振動を忠実に写しとって、私たちに目に見える形に変えてくれます。水に文字を見せると、水はそれを振動ととらえ、そのイメージを具体的に表現するのです。文字というのは、言葉を視覚的に表現する発音記号のようなものだと考えられます。(p.73)

「発音記号って文字の一種なのでは?」というツッコミはともかく、ここに示された世界観には唖然とさせられた。紙の上のインクの濃淡のパターンでしかない文字列が、それを日本語(ないしは他の人間の言語)に従って解釈したときにもつ意味に相当する「波動」を発している。そして、その「波動」が、水に影響を与えて、文字列の意味と相関するような形の結晶をつくらせる、というのだ。

これは、もはや、科学的とかそういうレベルの話ではない。言葉が摩訶不思議な力をもち、ふわふわした神秘の存在が世界を動かしている、ファンタジーの世界だ。くり返すが、科学は気ままですてきなお話の集まりではない。こういう物語が科学的な世界の見方と共存できる可能性は完全にゼロだと言い切っていいだろう。本書のこの部分を読んだ上でも、「水からの伝言」を小学校の教材に使おうと考える人がどれくらいいるのだろう? さすがにそんな人はいないと考えたいのだが。

水の起源についての説に関しても、江本氏はファンタジーをふくらませる。まず、地球の水は宇宙空間から彗星によって供給されているという説(これは別にオカルト説ではないが、それほど信憑性は高くないようだ)を彼なりに紹介したあと、こうつづける。

水なしで生命が誕生しないのは、周知の事実です。生命の源である水が宇宙から届けられたということになると、私たち人間を含む生命は、みな地球外生命だということになってしまいます。(p.91)

たとえ水が惑星誕生の後に外からもたらされたものだとして、生命はあくまで地球で発生・進化した(そのことは江本氏も認めているようだ)のだから何故「地球外生命」ということになるのだろう? そもそも、地球を構成するすべての物質は、もともとは初期宇宙で合成されたもののはず。水の起源などという以前に、地球をつくっているすべての物質は宇宙から届けられたといっていいはずだ。

そんなことを思いながら続く段落を読むと、驚きが待っていた。

しかし、水が地球外からやってきたという説をとるなら、水のもつ数々の不思議な性質というものも理解できるのです。

なぜ氷が水に浮かぶのか、なぜ水がこれほどまでに物質を溶かしやすいのか、あるいは、タオルのすそを水に入れておくと、重力にさからって吸い上がってくるのはなぜか。こういった水の不可解なふるまいは、水がそもそも地球の物質ではないという観点から解釈すると、すんなり納得できるのです。(p.91--92)

氷が水に浮くように、ある物質の固体が液体に浮かぶというのは、実はそれほど珍しい話ではない。たとえばコンピューターの頭脳を支える物質であるシリコンの場合も、シリコン固体がシリコン融液に浮かぶことが知られている*4。タオルを水がのぼっていく毛細管現象は、多くの液体でみられるはずだ。だから、これらの性質はとくに「不可解」ではないのだ。しかし、この文章が驚きなのは、そういう理由からではない。

仮に水が「不可解」な性質をもっているのだとして、江本氏は、水の起源が宇宙にあると思いさえすれば、その不可解さが納得できると言っているのだ。ここまで来て、ようやく、彼が水の宇宙起源説にやたらと肩入れする理由がわかってきた気がする。おそらく、彼は、地上の物質と天上の物質とでは、その素性も性質も本質的に異なっているという世界観をもっているのだ! 言うまでもないだろうが、今日の自然科学では、地球は宇宙のなかの特別な場所ではなく、地上の物質も宇宙の物質も、同じ原子から作られ、同じ物理法則に従うという立場をとる(これも、絶対とはいえないわけだが、さまざまな証拠に支えられたきわめて確実に近い仮説だ)。もちろん、天上と地上を質の違う世界だとするファンタジーを思い描くことは自由だ。でも、それは、もはや科学と接点を求めるとか、いずれ科学的に証明されるかも知れないといった話の登場する余地のない、正真正銘のファンタジーに過ぎないのだ。

ついでにコメントしておけば、「不可思議なのは宇宙から来たからだ」というのも、江本流のいっけん「わかりやすい」(けれど、よく考えるとあまりよくわからない)シンプルな説明のよい例だろう。

最初の方で引用した

魂はどこから来たのでしょう。宇宙の果てから水にのってやってきたことは、いままでみてきたとおりです。(p.204)

という部分も、神秘なものは宇宙から来たというシンプルな世界観にもとづいて読んでこそ意味があるのだろう。

「波動」なるものについて

江本氏のバックグラウンドには、よく耳にする「波動」なるものがあり、「水からの伝言」をめぐる物語も「波動」によって理論的に裏付けられるとされているようだ。以下、ごく簡単に「波動」についての記述もみておこう。

まず、「波動」の基本について、

すべての存在はバイブレーションです。森羅万象は振動しており、それぞれが固有の周波数を発し、独特の波動をもっています。(p.67)

という説明がある。この部分は物理の言葉で解釈できないこともないが、そうすると、要するに物体は小さくみると振動しているというだけの話になってしまう。とりたてて「独特の波動」などとというべきおもしろい話にはならない(さらに、一般の物体はきちんと定まった固有の周波数はもたない)。しかし、それは物理学者の勝手な思いこみで、「波動」というのは科学者の知らない何か摩訶不思議な何物かだと思う方がしっくりくる。

そう思って読んでいるのだが、残念ながら、すぐあとに

しかし、いま量子力学などの科学の世界では、物質とは本来、振動にすぎないということが常識になっています。物を細かく分けていくと、すべては粒であり、波でもある、という不可解な世界に入っていくのです。(p.68)

という説明が登場してしまう。念のために断っておくと、私はプロの理論物理学者で、量子力学にもかなり深く精通している。たしかに、量子力学の直感的な説明のなかで「すべての粒子は、粒子と波の両方の性質をもつ」といった言い方があらわれるのだが、そこから「物質とは本来、振動にすぎない」などという結論はでてこない。量子力学というのは厳密な数学をつかって書き表される物理学の理論であり、何かわけのわからないことを正当化してくれるようなおとぎ話ではないのだ*5。もともと、「すべての物は目に見えない何物かを発している」というファンタジーを語りたいのだから、量子力学など持ち出す必要はまったくないのだ。とはいえ、そのすぐ先には

さて、万物が振動しているということは、どんなもので音を出しているといいかえてもよいでしょう。(p.72)

と書いてあり、こちらとしては「けっきょく、音かよっ!」とつっこむことしかできなくなってしまう(もちろん、量子力学で「すべての粒子は波でもある」というときの「波」と音は何の関係もない)。

「波動」がらみの話は、江本流の滅茶苦茶のオンパレードの感がある。ここにも、

私が日本で初めて紹介した波動測定器は、このことを見事に証明してくれました。波動測定器とは、物質がおのおのもっている固有の振動を測定し、水などに転写する機械です。

私は、この機械を使って多くの人たちの波動を測定してきました。それによって、人間のネガティブな感情の波動が、それぞれの元素のもつ波動と対応しているということがわかったのです。

たとえば、いらだちの感情は水銀と同じ波動であり、怒りは鉛、悲しみやさびしさはアルミニウムとほぼ同じ波動でした。同じように、心配、不安はカドミウム、迷いは鉄、人間関係のストレスは亜鉛などが、お互いに結びついていたのです。(p.107)

というように、人間の感情を元素に結びつけてしまうシンプルで「わかりやすい」説明が登場する。この話が、量子力学とも、音波の物理学とも、それ以外のいかなる科学とも結びつかないことはもはや言うまでもないだろう。ここに登場した「波動測定器」というのも当然ながら実に怪しいものなのだが、この書評ではそこまでは議論しない*6

こうしてファンタジーの世界にどっぷり浸かっているかと思うと、江本氏は、例によって断片的に科学を引用する。たとえば p.110 では逆位相の音波を人工的に発生させて騒音を軽減する技術の話を紹介している。これは実際に研究され応用されているまっとうな技術の話だ。そこからファンタジーへの飛躍は、波の物理を知っている人にはちょっと笑える。やや不謹慎だけど、書き写しておこう。

人間の感情も同じことがいえます。ネガティブな感情には、それと反対のポジティブな感情があるのです。次のような二つの感情が、正反対の波形をもちあわせているのです。恨み--感謝、怒り--やさしさ、恐怖--勇気、不安--安心、いらいら--落ち着き、プレッシャー--平常心(p.111)

波を打ち消せるのは同じ振動数で逆位相の波。異なった感情の「波動」は異なった振動数をもつはずだったんだよね --- などと、ファンタジーにつっこむのは野暮だとわかってはいるのだが・・・

さいごに

「水からの伝言」をめぐる物語は、どんなに大目に見ても、ただのファンタジーでしかない。「実験」とか「量子力学」といったキーワードがばらまかれているために科学的だと誤解する人がいるのかもしれないが、これは、しっかりと確立した科学と照らし合わせれば誤りであるとしか考えられない物語なのである*7

もちろん、ファンタジーのなかに「実験」とか「科学」とかいう言葉を使ってはいけないという法はないし、科学者にそういうことをやめさせる権利などない。しかし、教育者・科学者として(それ以前に、科学と知性を大切に思う一人の人間として)、私は、「水からの伝言」の物語は、いかなる意味でも科学ではないことを断言する。そして、未熟な知性に誤解を与えかねないこのような本を、どんな形にせよ、教育の現場で用いることにつよく反対する。すでに「水からの伝言」を何らかの形で教育にもちこんでしまった先生方には、この物語をめぐる風景を、もう一度ゼロから(できるかぎり批判的に)考え直されるよう、心からお願いしたい。

さいごに、個人的な感想を述べれば、この物語はファンタジーとして見ても、決してすぐれたものだとは思えない。「水は答えを知っている」というタイトルにはっきりと現れている「わかりやすさ」は、人生の本当の知恵を与えてくれる「わかりやすさ」ではない。水に聞けば「答え」がわかるというのは、人がよりよく生きるために、悩み、感じ、考えることを放棄させる悪しき道徳だと思う。さらに、「人間の主成分は水」という即物的な事実にもとづいて人の心までをも特徴づけようという考え方には、なにか空恐ろしい不毛さを感じる。人の心というものが科学によって理解される日が来るにせよ来ないにせよ、それは、人間の脳(+肉体)の実に複雑で精妙なはたらきが生み出した驚異的な何物かであろう(あるいは、(私はそうは思わないが)もしかしたら「魂」というプラスアルファがいるのかもしれない)。それを水や元素といった「人間の成分」に還元してしまおうという考えは、人の心への冒涜であるとさえ感じられる。

付録

関連するリンクなどをまとめておきます。本文中で言及されているものも、あらためて載せておきます。


*1:ただし、IHM がきわめて高価な波動関連の商品を販売していることを思えば、これをただの素朴な「おとぎ話」とみなすのは困難なのだが。

*2:この文章の「それ」は、正確には、直前の文の「地球上に住むどんな人にも適用でき、だれもが納得する、そしてこの世界をシンプルに説明することができる、たった一つの答え(p.12)」を指すが、基本的には、上の引用での「その一言」「シンプルで決定的な答え」と同じものであろう。

*3:このようなバイアスは、実験やデータ処理をする人にはサンプルの素性を教えないという盲検(ブラインド)という方法によって取り除くことができる。江本グループではブラインドを採用しているという記述が 194 ページにあるのだが、その後の江本氏のインタビュー(AERA 2005.12.5 p. 35)には「撮影者には、こういうことをした水だという情報を与えている。」とブラインドでないことが明記されている。

*4:ただし、シリコンの融点は 1414 度ととても高いが。

*5:量子力学の解釈をめぐって物理学者のあいだでも今でも色々な議論が続いているが、それはファンタジーの正当化とはまったく無縁な次元の話である。

*6:興味のある方は、菊地さんの「『ニセ科学』入門」を参照していただきたい。

*7:上にも挙げた 2005 年のインタビューで、江本氏は「水からの伝言はポエムだと思う。科学だとは思っていない。」としながらも、「科学で分かっていることはほんの数%。95%は分からない。今後、周りの研究者によって科学的に証明されていくと思う。」とも語っている。また「水は心の鏡だという。撮影者の意識が働いてきれいなものになるということはある。量子力学の世界ではそうなっているようだ。」とも述べているが、少なくとも、われわれの知っている量子力学の世界では「そうなっていない」ことを断言しておこう。