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半熟-更新日記 このページをアンテナに追加

2017-06-09 応召義務のスマートな回避方法 このエントリーを含むブックマーク

「先生と呼ばれるほどの馬鹿でなし」なんて言葉もありますが、医師は「聖職者」というくくりで認識されていることが多いわけです。

 医師に本当に聖職性があるか?と問われると口ごもる私ですが、ただ、普通の職業と違うんやで?という一端として「応召義務」というのがあります。皆さん、応召義務って知っていますか?医師法で決まっているわけですけれども、

診療従事する医師は、診察治療の求があつた場合には、正当な事由がなければ、これを拒んではならない。

医師法第19条第1項)

 要するに普通の仕事の場合は、「あーつかれた、もう切り上げます。閉店です」という形で、業務を終了することができるわけなんですけれども、医師は、応召義務で、こちらの理由で業務を終了できない、という、ちょっと考えると恐ろしいルールなわけです。

 これを拡大解釈すると、電通なんてめじゃないブラック労働環境が容易に生まれてしまう。

「応召義務」があるかぎり、医師は、プロレスラーのように相手がかけた技は一旦受けてから返さなきゃいけない。よけちゃダメなんですよね。

 ちなみにアメリカには「応召義務」なんてありません。

* *

 勿論、どんな人間だって、 40時間くらい診療を続けることが常態化すると、ぶっ壊れます。また、休日が全くない状態でフルタイムで半年働き続けても、ぶっこわれます。ですから、本音と建前っつーものがありますね。中にはプロレスラーよろしく、一切技をよけないストロングスタイルの医師もいます(特にメジャー科)が、愚直に「応召義務」に準じていたら身がもたないですから要領よく休息をとっているのがまあ実情。 *1

 ただ、仕事を切り上げようとしているところで「診ろいや診ない」みたいな押し問答になったとして「応召義務があるじゃないか」みたいに葵の御紋のように持ち出されると、議論するのも面倒くさいので、おそらく多くの臨床医はため息をついて診療することを選ぶでしょうね。そういう「建前」上は最強のカード、それが応召義務です。 *2

患者が貧困であるという理由で、十分な治療を与えることを拒む等のことがあってはならない。

 医師法第19条にいう「正当な事由」のある場合とは、医師の不在又は病気等により事実上診療が不可能な場合に限られるのであって、患者の再三の求めにもかかわらず、単に軽度の疲労の程度をもってこれを拒絶することは、第19条の義務違反を構成する。

 医師が第19条の義務違反を行った場合には罰則の適用はないが、医師法第7条にいう「医師としての品位を損するような行為のあったとき」にあたるから、義務違反を反覆するが如き場合において同条の規定により医師免許の取消又は停止を命ずる場合もありうる。

休診日であっても、急患に対する応招義務を解除されるものではない[3]。

休日夜間診療所、休日夜間当番医制などの方法により地域における急患診療が確保され、かつ、地域住民に十分周知徹底されているような休日夜間診療体制が敷かれている場合において、医師が来院した患者に対し休日夜間診療所、休日夜間当番院などで診療を受けるよう指示することは、医師法第19条第1項の規定に反しないものと解される。ただし、症状が重篤である等直ちに必要な応急の措置を施さねば患者の生命、身体に重大な影響が及ぶおそれがある場合においては、医師診療に応ずる義務がある

厚生労働省通達より)

 ほらね。相手が金持っていないことが明らかであろうが、休診日であろうが、専門外であろうが、診療は拒否できないんです。なかなかしょっぱいルールだと思いませんか? *3

 ただこれがあまり問題にならないのは、前述のとおり、医者はいろんな意味でタフで要領がいいので、うまいこと休んでいるというのが一つ。(それでも研修医で鬱で休職とか自殺というのは結構な頻度で発生している)

 もう一つはこの「応召義務」のデメリットをまともにかぶっているのは、田舎の赤ひげ先生みたいな、僻地とか地域医療の先生なんですけれども、大体は事業主を兼ねているから、被雇用者としてのブラック労働には該当しないから。被雇用者の労働は労働基準法で規定されますが、事業主の労働というものは、制限されません。なぜなら事業主には業務裁量権があるからです。ブラックなのは好きで働いてるからやんな?みたいな解釈で。

でももっと大きい枠組みの「応召義務」には労働裁量権を認めてないわけで、これってやはり矛盾よね。

 というわけで、疲れている時にその言葉を聞くと、死神に心臓をぎゅっと掴まれたような気になる。それが応召義務。

 普段、スマートにひらりひらりと仕事をしていても、その言葉ひとつで、右の頬を打たれたら左の頬を差し出せ精神、攻撃はよけずに受けなきゃいけないという呪わしき運命を思い起こさずにはいられない、それが応召義務です。大げさだけど。

* *

 最近私の住んでいる地方都市広島県福山市。人口40万人)でも、同年代の先生で、最近開業された先生が何人かいらっしゃいますが、例えば岡山に居を構えて、そこから通う、とか、そういう方が何人もおられます。

また、診療所そのものはまあまあ辺縁地区にあるのだけれども、自宅は駅前のタワーマンションにある、とか。

 職住近接ではないパターンが最近多いわけです。

 最初は「うーん、お子さんの教育のこともあるしなあ」と思っていたんですが(地方都市であれば、学校の選択肢が限られるため、教育熱心な奥様は、住みたがらない)、診療所に住み込まずにオフタイムには帰宅するなら応召義務に応じることは現実的に不可能。つまり応召義務を免責できる。そのメリットははかりしれんよなあと気づきました。

 昔ながらの地域診療は、診療所と自宅を併設するのが当たり前でした。それは地域社会に溶け込む点では意義深いとは思います。地元の名士を目指すのであれば今後もこのスタイルでしょうね。ただ「応召義務」は職住近接に潜在的リスクを抱えることになる。

 職住をわけると、地域との一体感というのはなくなりますが、昼間の診療で、親切でしっかりした診療をしていれば、患者さんは来るわけで、それで十分経営が成り立てばそれでいいんでしょうね。

ただ、地域の医師会へのコミットは、どうしても薄れる。大都市圏における医師会の参加率の低迷も、こういうことが要因の一つになっているんでしょう。

私は、地元に帰って父の病院を継いだので、そういう選択肢を検討すらしなかったわけですが、職住を離す選択をされた先生は、どうなんすかね?そういうことについて意識的なんでしょうか、無意識下に最適な選択をしているんでしょうか。

*1:医者っていうのは受験強者なわけで、まあどっちかというと要領がいいし、要領がよくないと潰れる。医者の学会なんて、単位とったら、結構する会場離れて割り切って観光したり、っていうのもまあまあ見るけど、看護とか栄養士学会とかって、医者では考えられないほど真面目で、会場も溢れんばかり、誰もサボらない。

*2:もちろんそういう言い争いに長けた医師もいますが、大抵そういうやつは口先ばっかりで仕事ができないので、超過の仕事を割り当てられません。医療も他の業界と同じく、仕事のできるやつに不公平に仕事は割り振られるものです

*3:ここには専門外ルールは明記されていませんが、専門外であっても初療を行い、診療可能な医療機関を紹介する、という義務が発生する、と何かに書いてありました

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2017-04-15 「100まで生きたい」と言われたら このエントリーを含むブックマーク

100まで生きたい、という患者さんは結構いる。

診察室で「あたし(おれ)100まで生きたい」っていうのは今まで何度か耳にした。

これについて、どういう返事をかえすべきか?医師のみなさん、どうしてます?

* *

若い頃は、普通に「100までですか… それは、なかなか難しいんじゃないですかね?」

とか言っていました。まあストレートな球をストレートにかえしていたわけです。

しかし、これって「つまらないものですが…」って手土産をもってきた人に「つまらないものですか。そうですか」って言っているようなものだよね。日本的文脈を完全に無視した、いささかアスペルガー的な答えでさえある。

 今にして思えば、この頃は医者としてもかけだしであったため、とにかく「医学的な正確さ」とか「科学的であること」が自分の意識の前面にでていたような気がする。

「うそは、いっちゃいかん」と、多分思っていた。

 また、この頃は、深刻な医療不信や医療過誤裁判などがあった頃でもあり、医師が患者さんにいう言葉というのに細心の注意を払ってたように記憶する。リップサービスにしろ適当なことを言って言質をとられたらかなわん、という意識もあったのかなあ……と今では思います。

* *

で、そこから少し時代が下って。大学院が終わり基幹病院でガシガシと診療をしていたころ。10年前くらいのことですかね。この頃は、

「そうですか、100まで生きたい?はっはっは。いいじゃないですか。

 なんなら 120まで生きましょうよ!」

 みたいに返してた。いわば、さらに話を「盛り」返しているわけです。100まで生きたい、の「生きたい」の部分を、抽出して強調していると言える。

 患者さんがいう「100」というのは、具体的な100歳ということを意味するわけではない。ニュアンスとしては「千代に八千代に」に似ている。今風に言えば「フォーエバー」だ。つまりずっと生きていたいということだ。

 だから「自分は長生きをしたい」という本人の思いに他愛のないうそで答えている。少なくとも患者さんの気持ちには寄り添っているし、笑い飛ばす意味でも120と「盛り」返すことは、それなりに効果があったような気がする。

 この頃は(ま、今もだけど)「外来はできるだけ楽しく」ということを一番に考えていたと思う。

 ただ、さすがに120といえば、医師としての正確さ、妥当性は欠いている言辞であることは一目瞭然だ。ただ、前述の反動もあってか、医学的な妥当性よりも、気持ちを汲み取ることこそが重要と思っていたんですね。

 ただ、今では、こういう言い方はあまり使わない。

 一つには、やはり明確な嘘であること。医学的な妥当性・正当性には欠けた言辞、自分でリップサービスにすぎないのがみえみえな言葉を繰り返すと、心のキャリブレーションが狂うのである。

 多分、飲み屋のおねーちゃんの「また来てくださいね〜」と同じで、心無い。 *1

 ちょっと力んだ空回りのようなものを、今は感じる。

* *

 で、今では、どう対応しているかというと。

 前述のごとく、100まで生きたいと言っている人の心情の要諦は「今が幸せだ。この幸せがいつまでも続けばいいのに」という現状肯定にある。苦しみが多く、現状否定の場合「100まで生きる」という言葉は、普通は出てこない。

 だから、幸せな人がいう「もういつ死んでもいい」と「100まで生きたい」は対極ではなく、案外紙一重なのである。

ということで、今はシンプルに現状肯定の部分にしみじみ共感している。

もしご家族の付き添いがあれば

「○○さん100まで生きたいんですって!(大抵家族は苦笑する)

 これって、今がとっても幸せだっていうことなんですよね。

 みなさんがとってもいいように生活を整えてくれてくれているからですね。

 実際に100まで生きられるかどうかは神様が決めることですけど、みなさんが

 心を砕いてお世話している証拠だと思います。

 すごい孝行をされていますねー」

と言っている。本人だけの時には

「○○さん、100まで生きたいの?そりゃあ、今が幸せだってことだねえ。

 ご家族にも恵まれたのかなあ。

 今までいい時も悪い時も頑張ってきたおかげだねえ。

 こっちも注意深くみていきますから、身体に気をつけてね」

みたいなことを言っています。

まあ、渇いた心でみたら、これもリップサービスです。でも嘘偽りのない本心です。

「100まで生きたい」と思わしめる周りの環境設定って、すごくない?

あと、こうやって発することによって「ああ、100まで生きたいって思っているってことは、あたし幸せなんだ今」ということに気付いてもらうこともできる。周りとの関係性がよくなると、みんなもっともっとハッピーになれる。

* *

 ちなみに、100まで生きたいという言葉の多くは現状肯定から発せられていることを忘れてはいけない。あくまで100まで生きる、ということをクライアントの要望ととらえると、ニーズを読み違えることがある。

 今の状態が損なわれてまでも長生きをする、というのは、多くの人は望まない。

 高齢者の多くは可塑性が失われているので、変化にはなおさら耐性がない。

 例えば、まあまあな癌が見つかるとする。

 年齢的には厳しいが根治手術ができなくもない。

 結構大きな手術だけど、どうする?みたいな事例はしばしば発生する。

 すごく悩ましい。

 常日頃より100まで生きたい、という発言をされている場合、そりゃ根治手術をして長期予後を確保すべきだろ、と医者なら考えがちである。僕も今までそういう考え方で、ちょっと無理な手術をすすめたりもした。

 うまくいくこともあったし、行かないこともあった。

 しかし最良の結果でさえ、術後ADLをやはり大きく落としがちではある。

 医者としては「要望にこたえた」と思いはしたが、本人は必ずしも幸せそうではなかったような気がする。

 ただ、一律に手術しないのがいい、とも思わない。

 これについてはまだ答えがでていないが、「100まで生きたい」という本人の言にあまり引きずられすぎない方がいいような気がする。

*1:まあ、僕の心の師匠高田純次なので、まあそういうのが前面にでた言ではあると思う。

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2017-03-09 ダイエットの話 このエントリーを含むブックマーク

ところで、最近の私のダイエットは、というと、

これがはかばかしくないのです。

* *

2010年から2011年頃までは自転車にのって、結構快適にダイエットしていました。

事故を二回やったので(http://d.hatena.ne.jp/halfboileddoc/20110704)自転車はやめて、仕方がなくジョギングを始めたわけです。

旅ランと、家の周り。

月に60km、一番いいときは100kmくらい走っていました。

ガーミンのGPS Watchを使っていましたが、それが、Fitbitの体活動計になり、日々の運動量はそれなりにコントロールしていました。しかしFitbitは汗のためなのか、一年持たなくて、何回買い替えました。割と消耗品でした。

去年より携帯を iPhoneに変え、ライフログモニターがFitbitからApple Watchに変わったわけです。充電をこまめにしなければいけないことはともかくとして、まあ、Fitbitよりはラフに使えますね。Fitbitの一番安いやつ相当頻繁に壊れてましたからね。

* *

しかしデバイスを替えると、飛躍的に運動量が増えるかというと、そういうわけでもなく。

これは性的に倦怠期の夫婦がセクシーランジェリーを買ってみる…みたいなもんで、まあ物欲と新奇さから運動欲を喚起と思ってもそんなにそそられはしなかった。

というわけで、だんだんとお腹周りがあかん感じになり、服着るとまるで『浮き輪」みたいにウエストのところに肉が乗ります。「さぼったリング」と僕は呼んでいますけれど、さぼったリングまくりなわけです。それどころか、太もものせいで、ズボンの内側が擦れてきたりとか、後頭部の皮膚に脂肪が乗ってきたり、大変残念な事態に。

 不眠というか「床で寝る」というのが常態化したこともあって(http://d.hatena.ne.jp/halfboileddoc/20160119)、なかなか朝起きて運動、というのができないわけです。仕事の上でも院長とか医師会とかの活動とかで、会食が随分増えて、ますます脂が乗ってきたわけです。仕事に脂がのるならいいけど、皮下に脂が乗りきってはねえ…

というわけで、昨年の2月、フィットネスジムの契約をしました。

* *

今は週に1〜2回、ジムでエアロバイクをやったりマシントレーニングをしたりしています。

プライベートでは僕はコミュ障なので、ジムのグループレッスン、ダンスとかボクササイズとか、そういうのようしません。とりあえず軽くマシンでアップして、エアロバイク5kmくらいやって、マシンちょっとやって終わり。ささやかなもんです。こんなんでは痩せはしませんね。でもまあやらないよりはマシ。

ジムにはいいこともあります。たとえばジムで運動した日は、まあまあよく寝られます。やっぱ体も疲れますから、ジムの日はリビングでダラっとせず、ちゃんと寝床に入れば、朝割とすっきりすることに気づきました。

逆にいろいろ仕事や発表前の準備でテンパっている時って、ジムに行く時間もないわけですが、そういう時って、肩こりもひどいし、かえって日中は疲れやすい。だからちょっといろんなことがリセットできるんでしょうね、運動って。

あと、ジョギングは下半身だけだったんですが、ジムワークだと、上半身の筋力トレーニングをするようになったので、少し腕と胸板ががっしりしました。これで、脂肪を燃やせばいいんですが、なかなかそうはいかない。

「もう少しやせたらいいスーツを買おう」と、言って、もう3年になりますが、胸板の部分と、ウエストの部分のサイズの差をドロップと言うんですが、ドロップが大きい方が逆三角形でかっこいいわけですけれども、筋肉を増やそうとすると、ドロップだけでなく、肩と胸板のところも発展途上、という風になるので、よりスーツを買うことから遠ざかっています。計画的にパンプアップできればいいんですけれども。

* *

余談ですが、今の40代、特有のシニカルさを多分にもつこの世代にとって、ダウンタウン松本の今のありようは、「あの松本さんがやっているなら…」ということで、ワークアウトという行為につきものの含羞に対してずいぶん免罪符的な効果があると思います。僕がそうです。

* *

 それにしても、フィットネスってやつには筋肉ヒエラルキーみたいなものが厳然としてあって、そんな中でトレーニングするのは、なんかいやだなあと思っていたのだが、もう慣れた。

 低い体脂肪率と見事な筋肉をもつ人達は、かなりの頻度でジムに来ているので、まあ目立つ。きっとホモセクシャルか、すごいナルシストか、もしくはそのいずれかなんだろうなと思うけど、やっぱり少しうらやましいな、とも思う。

 女友達に訊いてみても、ああいうマッチョは全然ダメって言うけどね。

* *

そして、最近の私のダイエットは、というと、

これがはかばかしくないのです。

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2017-03-04 10周年 このエントリーを含むブックマーク

このはてなダイアリーに、それまで書いていた日記的なやつを移したのが、今さかのぼってみると 2007年の3月なんですね。気がついたら10年経っているんだ。その間ブログもたいして更新はしてないんですが、時々はなんか力の入ったこと書いてるわ。過去の僕。

もうちょっと更新頻度を上げると、点が線につながるのかもしれないけど。まあ最近はちょっとエッジの効いたこと書いたらすぐ炎上とかしますし、こういう閑散としたサイトにも、そのよさがあるんだと思う。そう思いたい。

ところで、昔に僕のこのBlog読んでくれてた人って、今でも読んでくれているんだろうか?アクセス解析とかしない(できない)んでよくわからないんですけれども。昔は掲示板なるものがあって、交流してましたよね。もしまだ見ている人いれば、リアクションください。

今はリアクションのないホワイトノイズを前にしゃべっているかのようです。まあ、これが僕のスタイルで、それはそれでいいんですけど。

むしろ、このブログブログとして不特定多数に公開されているわけですが、自分に近しいつながりはTwitterFacebookなどでフォローいただいているので、そういうリアクションはありますけどね。

昔のインターネットにあった「アマチュア無線感」世界の全然知らない人と、突然窓が開く、みたいな感じは今のネットにはないですよな。

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2017-03-03 診察での会話 このエントリーを含むブックマーク

診察室では、とりあえず会話の糸口となる、どうでもいい話をします。

まあ、よくあるのは天気とか、天候とか。

* *

ところで、1月には大寒波がきたりしましたが、その後、一進一退しつつだんだん暖かくなってきました。

このごろはさすがにあたたかくなってきました。先週の東京マラソンの日、僕も東京に出張だったけど、冬用のコートもウールの厚いスーツも、もう今シーズンは最後かなあと思いましたね。

そんなことを踏まえて、昨日の外来では

「いや〜なかなか暖かくなりませんけど、最近はさすがに暖かくなってきましたね〜」

みたいなことを言うていたわけです。まあそんなどうでもいい話ですから、そこから話は広がりゃしませんが。

そんな感じで午前中の外来を終え、午後になってもおんなじ調子で話をしていたら、

ある患者さんが「いやー先生、今日は陽は照ってるけど、風はけっこう冷たいよお」とおっしゃるじゃないですか。

窓から見えている陽光はぽかぽかしているけど、確かに外に出たら、結構肌寒い。部屋の中だったからわからなかった。

あれー?!えー?

じゃあ午前の外来の患者さんは

「あーあの先生トンチンカンなこというてるわ〜、まあええやろ」と許してくださっていたのか……

みんなごめん!

* *

 上述のごとく、私は外来の患者さんに恵まれているな、と思う。

 みんな優しいのよ。僕の患者さん。

 人生の含蓄を教えてくれる人、私の知らない世界のことを教えてくれる人。病気になったときの心のゆらぎ・不安から、症状も細かく教えてくれる。おかげで、医師になりたてでは教科書でしかわからないような病気の実のところを、患者さんからの聞き伝えで、だいぶ詳しくなることができた。

 簡単なことで、訊いてみりゃいいんだよ。

 患者さんは僕のこと「先生」なんて呼んでくれるけど、人生でも先輩だし、いろいろ本当に教えてくださるわけです。

 先生なんてとんでもない。

 もっとも、これは北風と太陽、みたいなもので、心を開くと、患者さんは心を開きかえしてくれる。

 心を閉ざした診療だと、やはり親密な交歓にはならない。

「患者はつまらない」という先生には患者さんはつまらない態度しかとらないです。

 そりゃそうでしょ。医者と患者を離れて、人同士でもそうでしょ。

* *

 勿論、そんなきれいごとだけでは済まなくて、すごく消耗するような外来もあるし、終わってから、カルテを壁に投げつけたくなるような(今は電子カルテだから、そういうことはできないけど)気持ちになるような診察もある。

 でも、自分に引きうつして考えると、多くの患者さんは腹も立てずに辛抱強く待っているし、辛いこと、痛いことにもよく耐えていると思う。

 「僕ならムリやなあ、偉いなあ…」と思う。

 そして、それを実際に患者さんに言っちゃう。

 多分、そこから、キャッチボールが始まるのかもしれない。

* *

 まあ、そんな超優等生なことばかり言ってないで、実利的なことを言います。

 例えば、まるで、相手の反対側からさかさ方向、つまり患者さんから見た方向に、すらすらっと完成度の高い絵を描く。

 かのごとくに、患者さんの知識に合わせて医学的な説明をする。そういう能力に関して言えば、僕はかなり得意な方です。医者になってその部分はかなりトレーニングしました。

 

 簡単な説明を望んでそうな人には簡単に。

 機序とか知りたい人には機序を詳しく。

 数字が欲しい人には数字を。

 そのあたりの当意即妙さ。このあたりの「合わせていく」能力はジャズの演奏の方法論に近いような気がしますね。

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