Hatena::ブログ(Diary)

Classic 8-bit/16-bit Topics

Classic 8-bit/16-bit Topicsでは、海外での出来事を中心に、旧世代のコンピュータ/ゲーム機に関する雑多な話題を書き散らしています。ただしゲームミュージックやチップチューンなどに関してはVORCで専門に扱っていますので、ご興味がおありのかたはそちらもどうぞ。

2014/05/29 長年放置しておりまして、申し訳ございません。ここやVORCで書いていたような研究は現在、主に各種『ゲームサイド』誌に書き綴っております。よろしければご覧くださいませ。またそのほか最近の動向に関してはtwitter:@hallyvorcにてお知らせしております。いずれ更新を再開したいとは思っております。



2004 | 01 | 02 | 03 | 04 | 05 | 06 | 07 | 08 | 09 | 10 | 11 | 12 |
2005 | 01 | 02 | 03 | 04 | 05 | 06 | 07 | 08 | 09 | 10 | 11 | 12 |
2006 | 01 | 02 |
2014 | 07 |
2015 | 12 |

09.30.2004

[] Iggy Drougge氏のはてなダイアリー 始動

VORC開設当初からいろいろとお世話になっているスウェーデンの旧世代機研究家・イッギ・ドルーゲ氏が、日本語によるはてな日記をスタートしておられます。多ヶ国語を使いこなす氏は、欧米のパソコン/コンシューマ各機種のみならず、80sエレポップや「トランスフォーマー」についても非常に広範な知識とコレクションをお持ちで、またインターネット接続にもアミーガを使用しているという、気合の入ったアミーガユーザでもあります。その懐からどんな話題が飛び出しますか、今後の展開に期待です。

09.27.2004

[2004.09.29追記]

前々回はエキシディの歴史とあわせて、世界初の3Dヴィデオゲーム「ナイト・レーサー」の誕生から、1970年代3Dの集大成ともいえる「スター・ファイア」が登場するまでの、3Dゲーム揺籃期について言及しましたが、今回はその後から、セガの体感ゲーム誕生前夜までを追ってみましょう。

[] Vector Scanの時代 (1977-1983)

アーケードにおける3D表現を大きく前進させたのは、ヴェクタースキャン (ランダムスキャン) ディスプレイという新技術でした。いや、新技術と書くと語弊がありますね。よく知られているように、ヴェクタースキャン・ディスプレイは原理的にはオシロスコープと同じもので、一般的なテレビモニタ (ラスタースキャン) よりもっと原始的な技術です。じっさいアーケードのヴェクタースキャン時代到来と前後して、コンピュータ・グラフィックスの世界では逆に、ヴェクタースキャンからラスタースキャンへの移行が進んでいました。それにも関わらず、アーケードが先祖返りを始めた理由は、まさに原始的であるがゆえに、当時のプロセサの限られた処理速度でも、高速・高精度の描画が可能だったためです。この利点は、画面の塗りつぶしがほとんど不可能という欠点を補って余りあるものでした。また半導体価格がまだ高かった当時にあっては、キャラクタをアニメーションさせるにあたってラスタースキャンほど大量のメモリを必要としないということも、重要なポイントでした。

アーケードにヴェクタースキャンを持ち込んだ最初の作品は、シネマトロニクスから発表された「スペース・ウォーズ」(1977) というゲームでした。これはMITを卒業したばかりのラリー・ローゼンタールという人物がシネマトロニクスに売り込んだもので、彼はこのヒットのあとにヴェクタービーム社を立ち上げ、第二作「スピードフリーク」(1978) で、さっそくヴェクタースキャンによる3Dゲームに挑戦しています。

「スピードフリーク」は「ナイトレーサー」以来の一人称視点ドライブゲームでした。立体的に描かれた路面や対向車のリアリティは、それまでのドライブゲームと一線を画するものだったのですが、商業的な成果はさっぱりで、わずか700台を出荷したきり、ヴェクタービーム社は暗礁に乗り上げてしまいました。この会社は結局、すぐにシネマトロニクスに再吸収されてしまいます。

ヴェクタースキャン黄金時代を支えたのは、実質的にこのシネマトロニクスとアタリの二社でした (ただしシネマトロニクスの開発陣は1981年頃にこぞってセガ傘下のグレムリンへ移籍し、一部はさらにゴットリーブへ行っています)。ヴェクトレックス/光速船もまた、あきらかにシネマトロニクスの薫陶を受けています

ヴェクタースキャンを3Dゲームに応用することにかけては、アタリのほうが圧倒的に貪欲でした。彼らは1980年から1981年にかけて、「バトルゾーン」「レッド・バロン」「テンペスト」の3作を投入しています。その急ピッチな開発を可能にしたのは、ジェド・マルゴリン氏が1978年に開発した「マスボックス」と呼ばれる3D演算システムでした。これのおかげで、戦車や飛行機で仮想空間を自在に行き交うという、それまで考えられなかった奥行きのあるゲームの開発が可能になったのです。しかしこの段階では、まだ「マスボックス」の真価は発揮されていません。これが全力稼動することになるのは、アタリのヴェクタースキャン最高傑作として名高い「スター・ウォーズ」(1983) や、未完の大作「ザ・ラスト・スターファイター」(1984) においてです (後者はラスタスキャンですが、とても1984年の作品とは思えない圧巻のグラフィックスを実現していたそうです)。

実際のゲームデザインを担当したのは、「バトルゾーン」と「レッドバロン」がエド・ログ氏。「アステロイド」のプログラミングも手がけたベテランのプログラマです。「バトルゾーン」はこれら3Dゲームのなかで特に評価の高かったもので、のちに米軍の軍事シミュレータにも転用されました。逆に「レッドバロン」は大不評で、わずか300台しか生産されませんでしたが、このゲームとの出会いが「ガンシップ」や「F-15 ストライクイーグル」を始めとするフライトシミュレータで名を馳せたマイクロプローズ社設立のきっかけになったといいますから、何が幸いするか分かりません。

「テンペスト」は「ミサイル・コマンド」で名高いデイヴ・シューラ氏の作。これはアタリ屈指の人気作であると同時に、ヴェクタースキャン史上初のカラーゲームでもあります。彼は1984年には、世界初のポリゴン・ゲームとして知られる「アイ・ロボット」を手がけています。

ヴェクタースキャンは、技術としてはあっという間に陳腐化してしまったわけですが、プリミティヴな技術が逆に表現の幅を押し広げることがあるという、「枯れた技術の水平思考」を如実に見せつけた功績は、いつまでも色褪せることはないでしょう。

[] Raster Scanの逆襲 (1981-1984)

アタリがヴェクタースキャンに熱を上げていたころ、これと対照的に、ラスタースキャンによる擬似3Dゲームの開拓に力を入れていたのが、セガ/グレムリンでした。彼らにもシネマトロニクスから受け継いだヴェクタースキャンの技術があったわけですが、それを活用した3Dゲームは、「スタートレック」「タック/スキャン」(ともに1982) など、ごく僅かしか出ていません。

セガ/グレムリンがラスター方面で見せた最初の成果は、「スペースタクティクス」 (1980) と「ターボ」 (1981) です。それぞれ「スペース・インベーダー」と「モナコGP」を強引に3D化したような作品ですが、リアリズムよりもダイナミズムを優先するという、のちの体感ゲームシリーズに通じる思い切りのよさの萌芽として、注目に値します (ただし開発はどちらも海外のようです。1982年までのセガ作品は、大半がグレムリン系スタッフによるものでした)。

とくに「ターボ」は、スムーズな拡大/縮小処理でそれまでにないスピード感を生み出し、北米では好成績を記録したわけですが、この方法論をもっと洗練された形に仕立てたのは、セガではなくナムコでした。彼らの生み出した「ポールポジション」(1982) は、いうまでもなく、ポリゴン以前のあらゆる3Dレースゲームの原型といえる作品です。セガ/グレムリンはこの頃、むしろ「サブロック3D」「ズーム909」といったシューティング路線に力を注いでいました。「ズーム909」はSF映画「バック・ロジャース」を題材としたもので、海外ではその名で発売されています。このゲームには「スペース・ハリアー」の原点ともいえる要素が随所に散りばめられていました。

同時期のセガの功績として、もうひとつ忘れてはいけないのが、池上通信機と共同開発した斜め見下ろし視点の新感覚3Dシューティング「ザクソン」(1982.5) です。「ザクソン」は北米で大人気作となり、これに続いて同年10月には「Q*BERT」(ゴットリーブ)、翌年1月には「コンゴボンゴ」 (セガ) と、変わった視点のゲームが次々とヒットを飛ばしました。この路線ではアタリも大いに奮闘し、「クリスタル・キャッスルズ」 (1983) 「マーブル・マッドネス」 (1984) 「ペーパーボーイ」 (1984) といった特色ある作品を残しています。もっともジャンルとしての特殊視点ゲームは、アメリカのアーケード不況到来とともに一度息切れし、以降は思い出したようにぽつぽつ現れる程度になっていきます。

1983年から1984年にかけては、ハードウェアのヴィデオ処理能力がかなり進歩し、また半導体価格も急降下したので、ヴェクタースキャンは斜陽を迎えます。そしてまさにこの時を待っていたかのように、多くのメーカーがラスタースキャンの3Dゲームに挑戦しはじめるのです。コナミは「ジャイラス」「ジュノファースト」で怪気焔をあげ、テーカンは「センジョウ」で複雑な奥行き処理を実現。また任天堂は「パンチアウト!」で一人称視点スポーツゲームの基礎を築きました。日本で3Dゲームが注目を集めるようになったのは、この時期以降です。

[] なぜ初期の3Dゲームは日本で受けなかったのか

日本では1985年まで、「ポールポジション」を例外として、不思議なほどに平面ゲームばかり支持される傾向がありました。事実今回取り上げたゲームの半数以上は、日本ではマニア層にしか認知されていません。この差はよく「リアリティに対する国民性が違うせいだ」と片付けられてしまいますが、それ以上に注目すべきことは、基本的にアタリもセガも、米国でのマーケティングに重点を置いていたことでしょう。

1983年から1985年にかけて、アタリとセガのマーケティング体質は大きく変化しています。アタリ製ゲームの認知度が国内で急上昇したのは、1985年にナムコ傘下に入ってからでした。そして同様に、セガの日本市場への積極性も、米国ガルフ・アンド・ウエスタン傘下の時代 (1969-1983) と日本CSK資本の時代 (1983-2003) では根本的に異なっています。国民性どうこう以前に、1980年代前半の日本は、まず3Dゲームの推進母体を欠いていたわけです。

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/hally/20040927

09.22.2004

[] Classic 8-bit/16-bit BBS 開設

はてなのコメント欄では本題から外れたところで盛り上がりにくいというご意見をいただきましたので、試験的に掲示板を設置してみました。とりあえず、まったり雑談などにご活用ください。ついでにネタなども提供していただけると幸いです。

[] PONGMECHANIK

ニクラス・ロイ氏の主宰するドイツの珍発明グループ・Cyberniklasは、あの「ポン」を、なんとディスプレイ装置を使わずに (つまりエレメカとして) 完全再現してしまいました。「Photos」および「Video」セクションで、その姿を確認することができます。操作がパドルでなくジョイスティックという点だけが惜しいですが、その他の再現ぶりは見事なものです。効果音発生装置 (ムービーの4:35前後) が泣かせます。

いやはや、それにしてもドイツ人というのは、「ペインステーション」といい「ブリンケンライト」 (ビル窓をディスプレイに用いたゲーム/デモ) といい、「ポン」を素材にした実験が好きですねえ。

Cyberniklasは他にも、本物のワイヤーフレームからワイヤーフレーム映像を生成するエレメカ・Grafikdemo (外装はなぜかコモドールCBM) なんてものも作成しています。これを本当にゲームで活用できたら素敵なのですが。

from slashdot

[09.23追記]

メカニカルタイプの「ポン」は、PONGMECHANIKよりもはるかに昔から存在していたことが分かりました。ヨネザワの「スクリーン・テニス・ゲーム」、マークス・トイズの「TVテニス」(1974)、そしてトミーの「ブリップ」 (1977) などです。前二者の詳細は不明ですが、「ブリップ」は基本的にゼンマイ式で、電池はダイオードの点灯にだけ用いるというから筋金入りです。

寺町寺町 2004/09/28 02:12 電人です。トイズマガジン’75年の玩具見本市座談会で、テレビテニスの記事が(初)登場するんですが、そこに米沢玩具のエレクトリック・テニスというのが出展されております。モノクロの実演写真が載っているんですが、こちらでもどういう仕組みなのかよくわかりません。コメントには「(テレビテニスと)精度は別としてほぼ似たような仕組みだが、どちらもやってみてけっこうおもしろい。問題は価格だね」とあるので、やはりブリップのようなものなのかとも思います。価格は6,000円、スペイン製だとか。

hallyhally 2004/09/29 02:22 これは貴重な情報どうもです。いろいろ出てくるものですねえ。当時としては、単なる廉価版というより、これもひとつの方法論という認識だったのでしょうね。「インベーダー」以前の時代を調べるにつけ、エレメカゲームがいかに可能性に富んだものだったか思い知らされます。

pgarypgary 2004/09/29 09:30 メカニカルなポンを子供のころ遊んでいた記憶があったので、情報がないかGoogleで検索していたのですが、どうにも見つけきれませんでした。こちらの写真を見て、おそらく、ヨネザワのスクリーンテニスゲームだったのではないかと思います。1970年生まれなので、時期的にも合います。ただ、私の記憶の中では筐体は黒ではなく白(クリーム)でした。動作は電池とモーターでガーガーと相当な音を立てて動きます。夜遊ぼうとして怒られました。緑色の半透明のプラスチックカバー(コート)の下を電球が動き、ボールに見えるようになっていました。

hallyhally 2004/09/30 16:45 おお、実際にプレイしていた方からのコメントは大変ありがたいです。喧しいのだろうなとは思っていましたが、そこまでとは…。ボールのスピードや打ち返し角度は、わりと融通の利くものだったのでしょうか? あと当時の子供の感覚でどの程度面白く感じるものだったのかとか、いろいろ気になります。

pgarypgary 2004/09/30 21:59 かなり長いこと実家の倉庫に放置されていた記憶があったので、電話して聞いてみたのですが、さすがに処分されてしまっていました。カバーを開けて動かしたことがあったのですが、壁やパドルにボールが当たると、スイッチが切り替わって、移動方向が逆になるだけの単純な仕組みだったと思います。パドルに当たる位置で角度が微調整できるようなことはありませんでした、ただ跳ね返るだけです。Pongという名前の由来のしゃれた音も無く、ただひたすらガーガーと五月蝿いものでした。その当時は物珍しさから遊んではいたものの、五月蝿いのと単純なので、夢中になって遊んだという記憶はありません、どちらかというと野球盤やサッカーゲームの方がはまりました。その後、TVにつなぐタイプのテニスゲーム(殆ど内容は同じのホッケーゲームやバレーゲームも出来る)が出て、そちらの方は割と遊んでいました。

hallyhally 2004/10/09 00:59 これは詳細にどうもです。なるほど、似た仕組みを作るだけで手一杯という感じだったのですね。同じアーケード由来でも、野球盤やサッカーゲームなんかは家庭向けアレンジのツボをよく心得ていたと思います。なかなかああはいかないですね。

pgarypgary 2005/01/03 01:33 壊れていましたが、実家の納屋から見つけ出しました。写真を以下のページに載せました。
http://hpcgi2.nifty.com/gary/wiki.cgi?ScreenTennis

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/hally/20040922

09.21.2004

[][] 語られざるヴィデオゲームの革新者―――エキシディとハウエル・アイヴィ

前回エキシディについて少し触れましたが、この会社に関する系統だった解説は、考えてみるとまだ誰も著していないのではないでしょうか。日本では一連の残虐ゲームと「サーカス」くらいしか知られていないメーカではありますが、卓越した技術力で1970年代を突きぬけていったエキシディの功績は、本来もっと高く評価されてしかるべきものです。彼らなくしては「ブレイクアウト」も「スペース・インベーダー」も、おそらく存在しなかったでしょうから。

一般に語られるアーケードの歴史は、「ポン」の誕生と「スペース・インベーダー」のヒットの狭間にある約五年間を、驚くほど軽視しています。こと日本では「ブロックくずし」を唯一の例外として、この時期のゲームは黙殺にも等しい扱いを受けているとさえいえるでしょう。はなはだ残念なことに、これらを体系的にまとめた資料はいまだ存在していません。『業務用TVゲームの歴史』が出版されれば、その空白は埋まることになるかもしれませんが、現時点で読み応えのある考察を展開しているのは、私の知る限り「Takaさんの洋ゲー研究所」くらいしかないという状況です。

1973年から1977年にかけて誕生したゲームのなかには、たしかに爆発的といえるほどのヒット作はありませんでした。もっともよく売れた「スペース・ウォーズ」でもせいぜい3万台程度だったといいますから、市場そのものが低迷していたことも否定できないでしょう。しかしそれでも、この時期にはヴィデオゲーム史の非常に重要なターニングポイントがいくつも埋もれているのです。画面のカラー化、キャラクタの複雑化、マイクロプロセサの導入によるゲーム内容の高度化、シューティングやカーレースなどの新ジャンル台頭、それに伴なう操作系の多様化、一人プレイ可能なゲームシステムの発展…この時代に成し遂げられた革新と多様化は、枚挙に暇がないほどです。そしてその大半は、ヴィデオゲームの創始者アタリではなく、アタリを追って急成長を遂げた、新しいヴィデオゲームメーカたちの手で実現したものでした。

この時期の最重要メーカとしては、エキシディのほかに、タイトー、グレムリン、ユニバーサル・リサーチ・ラボラトリーズ/エレクトラ・ゲームズ、シネマトロニクス、そしてミッドウェイ傘下のデイヴ・ナッチング・アソシエイツなどを挙げることができます。今日まで生き残っているのが唯一タイトーだけというあたり、先カンブリア紀にも似た趣がありますが、エキシディはこのなかで、アイデアと技術力のバランスが特に秀でた存在だったといえます。

エキシディのルーツは、1971年に創業したラムテックという会社にあります。ラムテックはもともとグラフィックディスプレイを中心とするコンピュータ周辺機器メーカだったのですが、「ポン」ブームが勃興するやその技術を活かしてヴィデオゲーム市場にも進出。「ホッケー」「サッカー」といった「ポン」の亜流ゲームを次々に送り出しました。このラムテックでマーケティング担当重役を務めていたのが、H.R.「ピート」カウフマン氏です。彼は1974年にヴィデオゲーム専門の会社を設立しようと決意し、何人かの仲間とともにラムテックを抜け、エキシディをスタートしたのです。

エキシディとは「ダイナミクスにおける素晴らしさ」(EXcellence In DYnamics) を略した造語です。おそらくカウフマン氏は、ヴィデオゲームの革新者たらんとする意気込みを示したのだろうと思いますが、その理想に叶うようなゲームデザインが現実のものとなるのは、ある男を招き入れてからでした。その男とは、カウフマン氏と入れ替わるようにしてラムテックにやってきた新人ゲームデザイナで、名前をハウエル・アイヴィといいます。

[][] Clean Sweap

1974年6月、ラムテックはアイヴィ氏の手がけた最初のヴィデオゲームを世に送り出しました。このころアタリ以外のメーカはまだ「ポン」の亜流作りに終始していたのですが、アイヴィ氏はその枠に収まらないユニークなゲームをいちはやく完成させています。のちに「ブレイクアウト」(ブロックくずし) 型ゲームの原型として知られることになる「クリーン・スウィープ」です。このゲームの原点は、フライヤが示すように、ピンボールをヴィデオゲーム化しようという着想にあったようです。じっさいこれをよりピンボールに近付けたものが、のちにエキシディから「TVピンボール」というタイトルで登場しています。こちらはさらに「ブレイクアウト」に似ており、バンパー (ブロック) に当たったボールがランダムに跳ね返るという処理も施されていました。

「クリーン・スウィープ」はまた、ROMとRAMを組み込んだ最初のヴィデオゲームでもありました。ROMを使用したのはアタリ/キー・ゲームズの「タンク」が最初ではなかったかと思われるかもしれませんが、じつは「クリーン・スウィープ」は「タンク」より半年ほど先にこれを実現していたのです。それにもかかわらずアイヴィ氏の功績がほとんど知られていないのは、「クリーン・スウィープ」の注目度が低かったために他なりません。このゲームはあまりにも難易度が高く、プレイヤたちを長期的に惹きつけるには至りませんでした。しかしその斬新さは、さしあたりカウフマン氏の目を惹くのには十分でした。「ワイプアウト」「トリヴィア」といったゲームを手がけたあと、アイヴィ氏はエンジニアリング部門の責任者としてエキシディに引き抜かれることになりますす。

[][] Death Race

アイヴィ氏がエキシディで手がけた最初の作品は、「デストラクション・ダービー」 (1975) です。これはアタリが同年にリリースした「クラッシュ・アンド・スコア」 (1975) にヒントを得たと思われる、見下ろし視点のカー・アクションでした。「クラッシュ・アンド・スコア」は画面内のあちこちに現れるコーンに、制限時間内で何回追突できるかを競うというゲームですが、「デストラクション・ダービー」ではこのコーンをランダムに動き回るコンピュータ・カーに置き換えて、いっそうスリリングな内容に昇華させていました。

今日の視点から見ればどうということのないシンプルなゲームですが、これがヴィデオゲームにマイクロプロセサが用いられるようになる以前の作品だということは、念頭に置いておかなければなりません。マイクロプロセサを使わずして、コンピュータ・カーのような自動移動するキャラクタを実現することは、並大抵の苦労ではありませんでした。1975年までのゲームは大半が対戦式だったことからも、その困難が分かります。当時このような技術を持ち合わせていたメーカは、ほかにはタイトーとエレクトラ・ゲームズ、そしてアイヴィ氏の古巣ラムテックぐらいしかなかったのです。

エキシディはのちにこのゲームの権利を、ピンボール大手のシカゴ・コインに売り渡しています。ところがシカゴ・コインがロイヤリティの支払いを拒んだため、エキシディはこのゲームから十分な利益を得ることができなくなってしまったのです。報復措置として、エキシディは「デストラクション・ダービー」のキャラクタ改変版を作ることにしました。これならライセンス問題をこじれさせることなく、シカゴ・コインに対抗することができるというわけです。こうして生み落とされたのが、かの問題作「デス・レース」 (1976) でした。

「デスレース」は映画「デス・レース2000」にヒントを得たものです。アイヴィ氏は追突する相手を車から人間型キャラクタに置き換え、これにヒットすると悲鳴が上がるという演出を加えました。開発段階では「ペデストリアン」(歩行者) という仮名が充てられており、映画と同様あからさまに殺人行為を意図した内容だったのですが、それではさすがにまずいだろうということで、プレイヤが殺すのは人間ではなく小鬼であるという設定が用意されることになったわけです。

しかしプレイヤの大半は設定など気にしません。非常にシンプルなグラフィックで描かれたスティックマンは、何も知らなければ人間にしか見えないものでした。こうしてエキシディの思惑とは関係なく、「デス・レース」は残虐ゲームとしての風評をどんどん高めていったのです。やがてその暴力性に対する批判記事が、雑誌などにも掲載されるようになりました。エキシディは暴力行為を推奨するような意図はないとの声明を発表しましたが、それもむなしく、ついにはゴールデンタイムの人気ニュースバラエティ番組「60ミニッツ」で特集が組まれるような騒ぎになります。

とはいえショッキングなものほど消費者の興味を惹きつけるのは世の常です。「デス・レース」に対する非難が高まれば高まるほど、皮肉なことにエキシディの売り上げは増加していきました。生産台数は当初予定の1000台を大きく上回り、最終的には1万台にも達しました。しかしその後、騒ぎが撤去運動にまで発展したため、「デス・レース」は大半が打ち捨てられる結果となりました。現在では数十台の現存が確認されるのみだといわれています。この撤去騒ぎは、1978年に日本にも飛び火しているので、ご存知のかたも多いでしょう。

[][] Circus

「デス・レース」の翌年、アイヴィ氏はマイクロプロセサの使用技術を身に付け、さらなる成果を披露しています。そのひとつが、「デス・レース」とならぶエキシディの代表作、「サーカス」でした。

「サーカス」は一般的には「ブレイクアウト」(ブロックくずし) から派生したように認識されていますが、ここまでのアイヴィ氏の経歴を見れば、派生品はむしろ「ブレイクアウト」のほうであって、「サーカス」こそ「クリーン・スウィープ」から正統進化したものだったということがお分かりいただけるでしょう。このゲームは「風船割り」の通称で、とりわけ日本で人気を集めました。タイトー営業部はこの「風船割り」のヒットに目を留めて、「ブロックゲームと風船割りゲームの特徴を持ったヒット商品を是非提案して欲しい」(『電視遊戯大全』より引用) と西角友宏氏に要望。これが「スペース・インベーダー」開発の発端となりました。

「サーカス」はまた、電子メロディによりインパクトを与えた最初のヴィデオゲームであるともいえるでしょう。メロディの演奏そのものは、すでにアタリの「スティープル・チェイス」 (1975) が実現していましたが (最近まで「サーカス」が最初だといわれていましたが誤りです)、これは競馬のファンファーレをゲーム開始時に演奏するだけで、「サーカス」ほどに強迫的な存在感を持つものではありませんでした。

なお、アイヴィ氏は「サーカス」とほぼ同じ頃に、「ロボット・ボウル」というボーリングゲームも手がけています。これはおそらくヴィデオゲーム史上最初のボーリングゲームではないかと思いますが、それ以上に特筆すべき点はありません。おそらくアイヴィ氏にとってはマイクロプロセッサの小手調べのような作品だったのではないかと思います。

[][] Car Polo

「サーカス」「ロボット・ボウル」に次いでアイヴィ氏が手がけたのは、4人同時プレイ可能なカー・サッカー「カー・ポロ」 (1977) です。それほどヒットはしなかったようですが、これもなかなかの意欲作でした。わずか4キロバイト未満のプログラムを駆使して、マイクロプロセッサによるヴィデオゲームの可能性を、当時としては最大限に引き出しています。複数のコンピュータ・プレイヤが人間と競りあうゲームは、アタリの「スプリント2」とならんで、これが最初のひとつでした。シビアになりがちなコンピュータの動作が、適度にあいまいに調整されているのも、なかなか見事です。

「カー・ポロ」はまた、はじめてRGBカラー (8色) を実現したゲームでもありました。ヴィデオゲームのカラー化は意外に歴史が古く、ナッチング・アソシエイツの「ウインブルドン」 (1973年春頃) にまで遡ることができますが、「カー・ポロ」以前のゲームは、基本的にブロック単位での配色で、カラーの重ね合わせを処理することはできませんでした。これをいち早くやってのけたのがアイヴィ氏だったわけです。

(ちなみにパソコンゲームのカラー化もわりあい早く、1975年にはクロメンコ社よりアルテア8800互換機用の8色グラフィックスカード「ダズラー」、およびこれに対応した「スペースウォー」や「タンクウォー」といったゲームが発売されていました。アップルIIがドット単位のカラーを実現したのも「カー・ポロ」の直後です)

「カー・ポロ」を最後に、アイヴィ氏はゲームデザインの表舞台から遠のき、以後はハードウェアの設計と管理に専念しています。1981年には一時的に戦線復帰し、のちの「ガントレット」にも通じるアクション・アドヴェンチャの秀作「ヴェンチャー」を手がけていますが、これが実質的に彼の最終作品となりました。

[] Star Fire

アイヴィ氏が一線を退いて以降も、エキシディの快進撃はしばらく続きました。1978年、米国に「スペース・インベーダー」が上陸したのとほぼ同じ頃、エキシディは技術の粋を凝らした鮮やかな擬似3Dシューティングゲーム・「スター・ファイア」を送り出しています。もっとも、このゲームは外部からの持ち込み作品で、エキシディのスタッフは筐体デザインくらいにしか関与していません。

「スター・ファイア」は、当時としてはまだ珍しい、3D空間を表現したヴィデオゲームのひとつだったわけですが、擬似3Dもまた、マイクロプロセッサが可能にした技術革新のひとつでした。その嚆矢となったのはデジタル・ゲームズ社が1976年に完成させたドライブゲーム・「ナイト・レーサー」です。のちにアタリとミッドウェイにライセンスされ、それぞれ「ナイト・ドライバー」「280 Zzzap」として登場しているので、名前としてはこれらのほうがよく知られています。そして、「スター・ファイア」は、このゲームの開発中心人物であるテッド・ミション氏が手がけたものなのです。

デジタル・ゲームズ社は「ナイト・レーサー」の発表後、すぐに倒産しています。ミション氏はその後フリーランスとなっていました。ある日彼は、映画「スター・ウォーズ」を鑑賞して大きく感銘を受け、その世界をゲーム化したいと考えるようになります。おりよくミッドウェイから仕事を請け負ったミション氏は、大学の後輩であるデヴィッド・ロルフ氏をソフトウェア担当に招いて、その開発をスタートしました。彼らはカリフォルニア工科大学のPDP-10にアクセスしながら、ミション氏の自宅で「スター・ファイア」を完成させています。

開発の動機そのままに、このゲームには「スター・ウォーズ」の影響が色濃く映し出されています (必要ならばライセンスを獲得するか、デザインを変更するつもりではあったそうです)。「スペース・インベーダー」と同期のゲームとは思えない、RGB32色カラーの華々しい映像も、映画的な雰囲気を支えるのには一役買っています。ゲーム内容にはいささか単調なところがありますが、それでも全体的なインパクトは十分に大きなものでした。

しかしミッドウェイは「スター・ファイア」の出来に満足せず、そのリリースを拒絶しています。ミション氏らは落胆しましたが、それからたった二週間のあいだに、三つもの会社から「スター・ファイア」をリリースしたいと声が掛かりました。熟慮の結果、彼らはエキシディを選びます。エキシディはこれを世界初のコクピット型筐体で商品化し、数千台を製造 (*アップライト筐体版も含む)。ミション氏の証言に拠れば「二年以上にわたってアーケードのトップ10リストにランクインしていた」そうです。

「スター・ファイア」は、ヴィデオゲーム史上はじめてネームエントリを導入したゲームでもありました (しかも特定イニシャルによる隠しメッセージ付き)。これはプレイヤがゲームから何か獲得できるようにする方法はないだろうかという議論から、ロルフ氏が思いついたアイデアだったのですが、当初はどうやって文字を入力させればいいのか、ずいぶん悩まされたそうです。コントローラとボタンによるネームエントリという、いまから見れば当たり前のアイデアが完成するまでにも、苦労の積み重ねがあったわけですね。

(ちなみに宇宙を舞台にした擬似3Dシューティングは、「スター・ファイア」が最初ではありません。それより一年ほど前に、アタリが「スターシップ1」というゲームを完成させています)

[] Sorcerer

エキシディは家庭用ヴィデオゲームにはまったく興味を示しませんでした。しかしパーソナル・コンピュータ産業が勃興すると、これにはいち早く呼応し、1978年にZ80ベースのなかなかユニークなマシンを送り出しています。それがここでご紹介するソーサラーです。

日本ではまったく無名のパソコンですが、ソーサラーはROMカートリッジ・スロットを装備したはじめてのホームコンピュータとしてよく知られています。エキシディはこれを介して、BASICやワープロといった基本システムを供給していました (ゲームカートリッジは出していません)。また拡張ユニットを接続することで、アルテア8800互換のS-100バスマシンとして使用することができるという拡張性の高さも持ち合わせていました。白黒ながら精緻なキャラクターグラフィックスも注目に値します。このあたりはアーケード方面で培った技術の賜物だと思いますが、512x240ドットという、当時としては最高の解像度を達成していました (アップルIIは280x192, TRS-80は256x144)。

ソーサラーはアップルIIとTRS-80のほぼ中間、895ドルという価格で提供されました。しかし商業的には大苦戦を強いられています。エキシディは1980年に、CPUをZ80Aに置き換えた後継機・ソーサラーIIをリリースしていますが、旗色の悪さは覆すべくもなく、1982年3月26日に、生産打ち切りを決定しています。こんな感じで、北米市場ではさんざんだったソーサラーですが、意外にもヨーロッパでは思わぬ大活躍を演じることになりました。ヨーロッパではオランダのコンピュデータ・システムズがソーサラーを代理販売していたのですが、彼らは1979年に、オランダ教育放送・TELEACから、思いがけない大口の発注を受けることになったのです。

この当時、イギリス国営放送・BBCは、テレビ放送によるコンピュータ教育の浸透を図るべく、その公認コンピュータ (のちのBBCマイクロ) の策定を急いでいました。TELACもこの動きに感化され、同じように公認コンピュータ計画を推進しようとしていたのです。当初はベルギーのデータ・アプリケーション・インターナショナル社 (DAI) がその開発を請け負っていましたが、なんらかの事情でTELEACの要求を満たせなくなり、その代替として急遽ソーサラーが選定されたわけです。

エキシディ自身は、1980年にはパソコン事業からの撤退を決心していました。しかしヨーロッパでのセールスは順調に伸び続け、ついにコンピュデータ自ら、オランダの自社工場でソーサラーの製造を手がけるまでになります。1983年にIBM-PC互換機路線をスタートするまで、ソーサラーはコンピュデータの主力商品であるとともに、オランダでもっとも有名なパソコンでもあり続けました。ちなみにコンピューデータは、のちに社名をチューリップ・コンピュータに改めています。現在コモドール・ブランドの所有者として知られる、あのチューリップです。

[] その後のExidy

1980年代のエキシディは、もう一人の鬼才、ラリー・ハッチャーソン氏をゲームデザインの主戦力とし、「マウス・トラップ」ほかいくつかのヒット作を残しています。「チラー」を初めとするガンシューティング路線を支えたのも彼でした。しかし残念ながら、彼の時代のエキシディについて、あまり多くの資料は残っていません。

エキシディは1984年の米国アーケード不況はなんとか乗り越えたものの、1986年に事業破綻しています。その後の経緯は定かではありませんが、1988年までは新作ゲームを作り出していました。一説によると現在もまだXidyという社名で存続しており、子供向けの乗り物などを製造しているといいますが、たしかなことは何も分かりません。なおアイヴィ氏は1986年にエキシディを去り、セガに合流。のちにはセガ・アミューズメントUSAの代表に就任しています。近年はSystems 99 LLCという会社を興して、「ドラゴンズ・レア」を復刻したりもしています。ハッチャーソン氏はエキシディのゲームを最後まで手がけたあと、ミッドウェイに移ってスポーツゲームを多数製作しています。

mormor 2004/09/24 13:23 はじめまして。Exidy社についての情報が得られるとは思いませんでした。大変興味深く記事を拝見しました。私のサイトでもExidy社のSTAR FIRE を扱っております。(HISTORYコーナーです)
http://www4.airnet.ne.jp/mor/olion/

hallyhally 2004/09/28 17:48 おお、これは熱い…、大いに勉強になります。とくに、OLIONの開発者が実際にSTAR FIREに狂っていたという証言は、3Dゲームの系譜を筋道立てるのにも、非常に貴重だと思います。ただ、僭越ながら、パソコン方面でこのタイプのゲームを語るとなると、EpochやHadronに先行するものとして、やはりSTAR RAIDERS (1979) は欠かせないかもしれませんね。直接的な影響はないにせよ、この開発者もやはりSTAR FIREは意識していたみたいです。

replicornreplicorn 2005/06/06 07:54 やっとここまで辿り着きました。やはりブレイクアウトはピンボールのビデオゲーム化を目指したものだったんですね。私は「間に障害物のあるPong」であるワイプアウト系のゲームかと推測していたのですが、クリーン・スウィープという大元があったのですね。参考にさせていただきます。

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/hally/20040921

09.14.2004

[] アタリの古典がスロットマシンで復活

アメリカのスロットマシン業界でも、日本のようなキャラクタ商売が必要とされているとは知りませんでした。調べてみるとバリー系列からは、すでにベティ・ブープを素材にしたスロットが出ていたのですね。インターナショナル・ゲーム・テクノロジもここ数年、「エイリアン」「ターミネーター」ほか有名映画をフィーチャたヴィデオスロットでかなり売り上げを伸ばしているようです。それから、ちょっと路線は違いますが、WMS (旧ウィリアムス) も「モノポリー」関連のマシンを看板シリーズとして挙げていますね。レトロとギャンブルの急速な接点強化は、あちらでも日本に負けず劣らずのようです。

[] Ultracade

ウルトラケードをご存知でしょうか。合法エミュレータを内蔵し、過去のアーケードゲームをまとめて提供するという、ある意味で夢のような業務用筐体です。ただし海外限定で販売ライセンスを得ているものなので、残念ながら日本国内では触れる機会もなく、ほとんど話題にもされないまま今日に至っています。独自開発のOSやエミュレータを使用しているので、当初は再現性に若干問題があったようですが、最近は大幅に改善されているとのこと。目だった悪評も聞きません。

現在の発売元はウルトラケード・テクノロジ社。しかしもともとはPC用グラフィックカードで知られるQuantum3D社の製品でした。彼らにはミッドウェイやセガなどのアーケード用ハードウェア開発にも深く関わってきた前歴もあり、その方面での人脈と経験を活かして、ウルトラケードのようなビジネスを具現化させるに至ったわけです。

ウルトラケードの出荷は2000年7月、タイトー、ジャレコ、カプコンからライセンスを獲得した約50本のタイトルとともにスタートしました。開発グループはすぐにハイパーウェアという子会社に移り、ここでウルトラケードのサポートに集中。最終的には東亜プラン、ユニバーサル、ジャレコ、スターンなどの作品を加え、約60作品を利用できるまでになったのですが、ビジネスとしての成果は芳しくなく、2002年11月にハイパーウェアは事業を凍結、ウルトラケードは一度命脈を絶たれることになります。

しかし開発グループはウルトラケードのサポートを継続するべく、ひっそりとウルトラケード・テクノロジーズを興していました。再起を図る彼らの動きは、今年になって急速に本格化。新たなライセンスも少しずつ増加し、現在ではテクモやユニバーサルなどのタイトルを含めた86作品が標準で利用できるようになっているほか、アタリやミッドウェイのタイトルを含む追加ゲームパックも続々登場しています (少し前まではナムコのゲームも利用可能だったのですが、契約がこじれて取り止めになったようです)。さらにウルトラケードの家庭用バージョンとしてアーケードレジェンズという廉価システムもリリースされており、レトロゲーム人気が加速するいま、ふたたび注目を集めつつあります。

[] Death Race (Exidy) がアーケードに復活

そして8月27日、往年のエキシディ作品がこのウルトラケードで復活するという発表がありました。1970年代の最重要メーカのひとつでありながら、8-bitリバイバルの潮流から完全に取り残されていたこの会社に、いよいよ光が当たる時が来ました。

まず追加パック第一弾として「デス・レース」「ヴェンチャー」「ペッパーII」「マウストラップ」「スペクター」の五本をリリースするとのこと。かつて殺人ゲームとして社会問題にまで発展したあの「デス・レース」が、28年ぶりにアーケードに戻って来ます。まるで戦犯釈放を見るような気分ですね。

そしてこれに続くガンシューティングパックには「チラー」「コンバット」「クロスボウ」などが収録されるそうです。「チラー」(1986) は知る人ぞ知る徹底的に悪趣味な残虐ホラーゲームで、こっちは「デス・レース」と違って今見ても相当ショッキングな内容ですが、面白いことに「デス・レース」のような非難を浴びたことはありません。というのも、欧米では大半の店舗がこのゲームの設置を自主規制したためで、それゆえ設置場所は東南アジアや南米などが中心だったといいます。ウルトラケードで復活となると、オペレータは何も考えずにインストールしてしまいそうな気がしますが、大丈夫なのでしょうか。

from Play Meter Aug.27th

baddybaddy 2004/09/14 18:43 「ウルトラケード」ではないですが、同種のマシンが少数ながら国内でも稼動してまして、少々疑問に思っていたところです。(http://www.cristaltec.com/prod01.htm)(http://www.safarigames.com/Japanese/Gamecristal.html)
「ウルトラケード」と何か関連あるんでしょうかね? 収録ラインナップがカプコンCPS1/2と、SNKのMVSに限られるようですが、国内メーカーがちゃんと許可を出したようには全く見えないところが恐ろしいマシンです。インターフェイスや再現度にも問題はありますし、いっそ「ウルトラケード」が日本に上陸してくれることを望みます。
(毎度的外れな発言っぽくてすいません。)

hallyhally 2004/09/14 22:40 ヨーロッパにはウルトラケードとは別に、非合法な同種のマシンが多数存在していることが知られています。これに関しても限りなく怪しいとは思いますが (ラインセス締結のプレスリリースがどこにも見当たらない)、仮に許諾を得ているとしても海外限定のものでしょう。日本で流通させるのはまずいのではないのかなあ。

HayashidaHayashida 2004/09/15 00:22 はじめまして。いつも楽しく拝見させていただいてます。
件のアーケードエミュレータ内蔵筐体ですが、”ArcadeVGA”(http://www.ultimarc.com/avgainf.html)等を使用すれば比較的簡単にオペレータ(OP)が自作出来てしまうので、そうしたカタチでの亜流は今後も増えつづけると思います。
が、日本のアーケードビデオゲーム市場においては「レトロゲームムーヴメント」は90年代後期でとっくに終息してしまっているので、今後、類似マシンの設置台数が増えるとは思いません。「レトロゲームは商売にならない」というのが多くの国内OPの認識だと思いますし、僕もそう考えています。
単純に言えば、非合法マシンを稼動させるリスクに見合ったインカムは得られないという事です(それでも設置している店舗は、何も考えていないか、自制心の無いゲームマニア店員の暴走を放置しているだけだと思います。無論、こういった行為が許されるべきでないことは当然の話ですが)。

hallyhally 2004/09/15 23:14 なるほど、趣味のMAME筐体製作みたいな記事はいたるところで目にしますが、思っていた以上に手軽なようですね。日本のゲームセンターでのレトロ人気が終息しているというのは消費者感覚でもよく分かります。アーケードの温度差は、海外と日本の8-bitリバイバルでもっとも違いの目立つ部分でしょうね。あちらは逆に90年代後期に端を発するようですが、基本的にギャラガとMs.パックマンを軸に展開してきたという点で、かつての日本での漠然とした回帰とは様相が異るように思います (この二作には新作ゲームそっちのけで列が出来たりすることもあるそうです)。こういう風に、特定タイトルの人気が再燃するようなことがあれば、また風向きも違ってくるかもしれませんね。

BKCBKC 2004/09/15 23:57 日本国内ではレトロ人気云々よりもゲーセン自体の状況がよくないという話も(^^;
アーケード機と家庭用ゲーム機の差がつきにくくなったことなどが原因で、ゲーセンに人がこない→ゲーセン閉店→ソフト供給の減少と悪循環が起きているようです。
日本では8bit時代のものは単純すぎていまいち受けていない気がします。それよりも16bit時代の方が充実していた気がするので、その時代の隠れた良作、名作を稼動させるとよいかもしれません。家庭用ゲーム機に移植されていないソフトも沢山ありますし(^^;

idrouggeidrougge 2004/09/16 19:34 あのウルトラケードとやらはやっぱり嫌いです。今頃訪ねたアーケードやビリヤード館は皆持つようになったみたいですが、やっぱり遊びたくないんです。エミュレータで遊びたければうちでマメで充分じゃないですか。

idrouggeidrougge 2004/09/16 19:53 BKCさん、日本だけじゃなく欧州のゲーム誌でもアーケード不振/不況が話題になっています。BKCのいうとおり、家庭用とアケード用のゲームの差がつけにくくなりつつありますね。要するに、かつてのセガ家庭用ゲームのほとんどは小型化されたアーケード機でしたが、今日のアーケード機が全台XboxやDCなどを基にしていますよね。こんななか、ジョイスティック以外に差がなかろう。

BKCBKC 2004/09/18 00:29 欧州でもアーケードの経営状態がよくないというのは意外です。日本ではゲーム機の性能以外にも「ジャンルの偏り」というのがあって、ひとつのゲームが流行ると似たようなものが次々出てくるんですよね。
そして、経済的なものを追求した結果、冒険を拒絶して、似たようなものと続編しか出さなくなったんですよね。
ただ、日本ではエミュレータというよりはType-Xなどの中身がPCなアーケードゲームなどが出てきていますが、この動きが気になりますね。

idrouggeidrougge 2004/09/20 22:05 Hallyさんが何ヶ月前の報告によると、ロンドンのセガワールドはもう閉館しているそうなんです。ここのアーケード営業には日本のような若い女性客層も来ていないんです。プリクラや音楽ゲーム流行りがないんですから、欧州のアーケード会は一層酷い目にあっていると言えますが。更に、筐体はみんな和製ですから、「流行ると似たようなものが次々と出る」という同じ状況ですよ。残念ですが、ヨーロッパにアーケードゲーム産業ということは全然無いものです。

hallyhally 2004/09/21 17:53 BKCさん: ゲーセン不況はアメリカでも相当深刻ですよ。2001年のミッドウェイ完全撤退は、何よりそれを大きく物語っています。ピンボール方面もすでにスターン一社が残るのみですしね。イッギさんのおっしゃるように、幅広い客層を開拓してこなかったことが、海外アーケード市場のアキレス権に大きく響いているようです。あちらで通用する日本製品は、基本的には今もって格闘ゲームとガンシューティング、あと大型筐体物だけですから。日本はなんだかんだいってもまだ幅広いです。アメリカのレトロ回帰は、アーケードに限っていえば、こうした閉塞感と表裏一体で進んでいるように見えますね。

日本のゲームセンタで8bit時代のものがいまいち受けていないとすれば、それは単純さのせいよりも、むしろブームの芯を形成するものがないせいではないでしょうか。ゲームセンタの外では、ファミコンミニがあれだけ売れたわけですしね。

hallyhally 2004/09/21 17:53 idrouggeさん: うわ、スウェーデンではもうそんなにウルトラケードが浸透していますか。MAMEで十分という気持ちはよく分かりますし、正直ウルトラケードよりもStarROMsに頑張ってもらいたい気持ちで一杯なのですが、著作権保有者がこうした事業に理解を示す状況を作り出したこと自体は高く評価したいです。

家庭用とアーケード用の差がつけにくくなったという問題については、私はわりと楽観視しています。なにしろ家庭用でいくらでもプレイできるレトロゲームを、あえてウルトラケードでプレイしたがる人がいるわけで、このことはまさに、模索するべき点がハードウェアの性能以外にもいろいろあるということを物語っています。またここ二年ほどで、国内のアーケード・ヴィデオゲーム市場で専用筐体が目立ってオペレーション売上高を伸ばしていることにも注目すべきでしょう: http://www.jamma.or.jp/sangyou/

BKCBKC 2004/09/24 19:04 idrouggeさん:日本の一昔前のゲームセンターがそういう雰囲気だったと思います。日本では、そういうお店は21世紀になるかならないかのころ、そのほとんどがつぶれてしまいました。今現在、ゲームセンターと呼んでいるのは、アミューズメントパークなどという名前で呼ばれるような、既に別物だったりします。もしかしたらヨーロッパも日本の現在のゲーセンのような雰囲気のようなところは違うのかもしれないですね。

BKCBKC 2004/09/24 19:19 hallyさん:ファミコンミニが売れたのは、ただそのまま再販したわけではなく、エミュレータと、形式のコンバートという部分があるので、単純に8bitブームなのかなというと微妙かもしれません。また、ファミコンミニでも、マリオとかは素晴らしい売上ですが、他のソフトは微妙なものも…。
 売上に関しては昨今の景気横ばい・回復基調と共にあるという感じはしますね。しかし、専用筐体を買う体力のあるところがどれほどあるのかは気になります。縮小均衡のように推測される小さなゲームセンターなんだろうかと。

09.09.2004

[][] アタリ・フラッシュバック・クラシック・ゲーム・コンソール 発売決定

欧米のプラグ・アンド・プレイ復刻ブームは、ついに本家アタリブランドを動かすところにまでやってきました。アタリ (旧アンフォグラム) は9月7日付で、アタリ2600および7800の20作品を収録した「アタリ・フラッシュバック・クラシック・ゲーム・コンソール」をこの11月に発売すると発表しています。形状はこんな感じで、アタリ7800を小型化したものになります。価格は44.95ドルを予定。収録タイトルは以下の通りです。

  • Adventure
  • Air Sea Battle
  • Asteroids
  • Battlezone
  • Breakout
  • Canyon Bomber
  • Centipede
  • Crystal Castles
  • Desert Falcon
  • Food Fight
  • Gravitar
  • Haunted House
  • Millipede
  • Planet Smashers
  • Saboteur
  • Sky Diver
  • Solaris
  • Sprintmaster
  • Warlords
  • Yar's Revenge

気になるのは、やはり初の復刻となる7800タイトルの再現性ですね。強調表示したものが7800からの移植になりますが (スクリーンショットのページには何故かCharley Chuckの名前も挙がっていますが…?)、市井の7800エミュレーションはまだ再現性十分とはいいがたいので、オフィシャルならではの成果を期待したいところです。

2600のタイトルは一部Atari 10-in-1と被りながらも、それなりに美味しいところを押さえている感じですが、正式に発売されたことのない「サボタージュ」がリストアップされているのは興味深いところです。これはつい最近になってアタリ愛好家たちの手によって試作品が発掘されたもので、今年のPhillyClassic開発者承諾のもと少数販売されました。現在のアタリは、旧時代の物理的資産をほとんど何も継承していないはずですから、こういったコミュニティとも深い付き合いがあると見てよさそうです。

idrouggeidrougge 2004/09/09 22:08 とりあえずデザインが気になります。7800の形の印象がよく伝わっていい感じですね。いつもどおり、再生方法は問題あふれてますよね。
ところで、旧アンフォグラムじゃないんですか。

hallyhally 2004/09/09 23:35 あら、うっかりしてました>アンフォグラム。
修正させていただきました。
形状面では、アタリ仕様のジョイスティックがそのまま使えそうに見えるのが気になりますね。

idrouggeidrougge 2004/09/10 05:39 それもよさそうですね。僕はよく7800型ジョイスティックをアミガ等で使ってますし、本物が丈夫な遊び道具です。新型ジョイが同じ質素だったら、あれだけを得るためにフラシュバックを手に入れようとするといいかも…

09.04.2004

[] ビル・ゲイツがジェネラル・モーターズに挑んだ理由

かつてビル・ゲイツはこんなことを言ったそうです。「もしGMがコンピューター業界のような絶え間ない技術開発競争にさらされていたら、私たちの車は1台25ドルになっていて、燃費は1ガロン1000マイルになっていたでしょう。」

これに対し、GMは次のようなコメントを出したと言われています。「もし、GMにマイクロソフトのような技術があれば、我が社の自動車の性能は次のようになるだろう。」

  1. 特に理由がなくても、2日に1回はクラッシュする。
  2. ユーザーは、道路のラインが新しく引き直されるたびに、新しい車を買わなければならない。
  3. 高速道路を走行中、ときどき動かなくなることもあるが、これは当然のことであり、淡々とこれをリスタート(再起動)し、運転を続けることになる。
  4. 何か運転操作(例えば左折)を行うと、これが原因でエンストし、再スタートすらできなくなり、結果としてエンジンを再インストールしなければならなくなることもある。
  5. 車に乗ることができるのは、Car95とかCarNTを買わない限り、1台に1人だけである。ただその場合でも、座席は人数分だけ新たに買う必要がある。
  6. マッキントッシュがサンマイクロシステムズと提携すれば、もっと信頼性があって、5倍速くて、2倍運転しやすい自動車になるのだろうが、全道路のたった5%しか走れないのが問題である。
  7. オイル、水温、発電機などの警告灯は「general car fault」という警告灯一つだけになる。
  8. 座席は、体の大小、足の長短等によって調整できない。
  9. エアバッグが動作するときは「本当に動作して良いですか?」という確認がある。
  10. 車から離れると、理由もなくキーロックされてしまい、車の外に閉め出されることがある。ドアを開けるには、
    1. ドアの取ってを上にあげる、  
    2. キーをひねる、  
    3. ラジオアンテナをつかむ、
    という操作を同時に行う。
  11. GMは、ユーザーのニーズに関わらず、オプションとしてRandMcNaly(GMの子会社)社製の豪華な道路地図の購入を強制する。もしこのオプションを拒否すると、車の性能は50%以上も悪化する。そして司法省に提訴される。
  12. 運転操作は、ニューモデルが出る毎に、はじめから覚え直す必要がある。なぜなら、それ以前の車とは運転操作の共通性がないからである。
  13. エンジンを止めるときは「スタート」ボタンを押すことになる。

これは1998年から1999年にかけて、おもに電子メールを介して世界じゅうに広まった「マイクロソフトVSゼネラルモーターズ」というジョークです。私はリアルタイムで知った口ではない (というか、こういう類の愛嬌あるジャンクメールが存在すること自体最近まで知らなかった) のですが、日本語版も結構出回っていたそうなので、ご記憶のかたも多いと思います。これにはいろいろと変種があって、ものによって項目が増えたり減ったり、あるいは「GMはこれをプレスリリースとして出した」なんていう信憑性を高めるような記述が追加されていたりするのですが、日本でもっともよく知られているのは、上記の比較的シンプルなバージョンでしょう。

それにしてもこの作者は、どうしてGM経営の信奉者として知られるビル・ゲイツに、こんな文句を言わせようなどと考えたのでしょうか。というかそれ以前に、このジョークの最初の発信者はいったいどういう人間だったのでしょうか。無性に気になっていたのですが―――どうもこれは、いち個人によるオリジナル作品ではないようだということに、ある時ふと気がつきました。あれこれ調べていくうちに、多くの人間の手を渡り歩きながら、かなり長い年月をかけて醸成されてきた、非常に古い歴史を持つものであるらしいことが分かってきたのです。

そうして先日、ついにそのルーツを突きとめたのです。発端となる一文はなんと、まだパーソナルコンピュータの歴史が幕を開けたばかりの1970年代後半に記されたものでした。

コンピュータと自動車のアナロジーは、パーソナルコンピュータ産業の勃興とともに、誰ともなく使いはじめたものだったようです。これを大衆に向けて最初に紹介したのは、イギリスの神経心理学者にしてコンピュータ学者、クリストファ・エヴァンス氏でした。

今日の自動車は、第二次大戦直後のものからずいぶんと変貌を遂げました。しかし、自動車産業がコンピュータと同じだけの期間をかけて、同じだけの割合で発展していたとしたら.どうなっていたか、ちょっと想像してみてください。現行モデルはどれだけ安く、どれだけ高性能になるでしょう? この喩えを聞いたことがない人は、答えに強烈な衝撃を受けますよ。ロールス・ロイスの価格が1ポンド35ペンス、燃費は1ガロン300万マイル、その馬力はクィーンエリザベスII世号を動かすのにも十分なものとなるのです。小型化のほうに興味を向けるなら、ピン先に半ダース置くことだってできたでしょう。

これはエヴァンス氏が逝去する直前、『コンピュータ社会の展望』 (英宝社, 1979) という書籍に記したものです。BBCがこの書籍を元にしたテレビシリーズを制作したこともあって、彼の言葉は、かなり広く知られるようになります。このロールス・ロイスの比喩は、時間が流れるにつれ、古臭くなるどころか、むしろどんどん迫真性を強くしていきました。それとともに雑誌や新聞などで孫引きされる機会も増え、よくできた格言にはありがちなことですが、原典の行方は次第に忘れられていくことになります。

エヴァンス氏が発した段階で、すでに「マイクロソフトVSジェネラルモーターズ」の塑型は出来あがっていたわけですが、この時点ではまだ後半部分、すなわち自動車業界からの反論が登場していません。この発想にオチを加え、エヴァンス氏の言葉をユーモアへと変質させたのは、『コンピュータ帝国の興亡』 (Ascii books) の著者として知られるロバート・X・クリンジリ氏が最初でした。彼は長年『インフォワールド』誌で「フィールドからの覚書」というコラムを連載しているのですが、1989年3月6日号では、こんなことを記していました。

きっと私は臆病で、きっと歳を取っただけなんだろうと思います。しかしコンピュータ・テクノロジの進歩状況は、私のような古いPDP-8ユーザーには本当に驚異的で、恐怖を感じることさえ少なくありません。自動車がコンピュータと同じサイクルで発展していたらロールス・ロイスは100ドルになって、燃費は1ガロン100万マイルになっていたかもしれないけど、年に1回爆発して誰も彼も殺してしまうだろうな、なんていう考えが、MCA N-10 (i860) ボードをこれ見よがしに振りかざすIBM社員を眺めているあいだ、ふと頭を過ぎりました。

新たに登場した「年に1回爆発する」というフレーズは、のちに「1日に2回クラッシュする」(※日本語版の「2日に1回」は誤訳) という言いまわしへと変形していくわけですが、クリンジリ氏が皮肉ったのは、OSの不安定ぶりなどではなかったことに注意しなければなりません。これは彼がIBMの最新鋭プロセサ・i860の発表会に出席したとき抱いた感想なのです。OSは何の関係もありません。この言葉で表現したのは、こんな凄まじいCPUをパーソナルコンピュータに導入するのは、一般車にロケットスレッドのエンジンを搭載するようなものだということでした。つまり、速度を飛躍的に向上させることは、問題発生時にユーザー側へと跳ね返って来るダメージも膨大なものにするのではないかという不安を述べているのです。

しかしやがて、クリンジリ氏の文章は、文脈を外れてひとり歩きしはじめます。1993年1月3日、ノースカロライナ大学のジョン・リーチ氏 (現シリコン・グラフィックス社員) は、ジョーク専門のニュースグループ・rec.humor.funnyで、こんな小噺を紹介しました。

うちの大学にある非常に重要な (しかし見事なくらい使えない) DECサーバの一台が毎日クラッシュするという事態が、3回か4回続けざまに起きました。そして、やり場のない怒りに震えるユーザのひとりが、ローカルニュースグループにこう書き込んだのです。

いぜん友達がこんなことを言ったっけな。「もし自動車産業がこの30年間にコンピュータ産業と同じように歩んでいれば、ロールスロイスは1台5ドル、燃費は1ガロン300マイルになっていたかもしれないけど、年に1回爆発して、乗っている人を皆殺しにするだろうね

リーチ氏に確認したところ、これは彼の創作ではなく、当時本当にあった話なのだそうです。伝言ゲームを重ねるうちに、自動車の爆発がシステムダウンに対する比喩へと転化した様子が、ここに凝縮されているといえるでしょう。こういった解釈は、あるいはもっと早くからがあったのかもしれませんが、広く認知されるようになったきっかけがこの投稿だったことは間違いありません。新解釈が定着するにしたがって、クリンジリ氏の名前もまた、忘却の彼方へと葬り去られていきます。

『アメリカン・サイエンティスト』誌のライタであるブライアン・ヘイズ氏は、この新解釈 (あるいは、その漠然とした記憶) に基づいて、さらに洗練されたアレンジバージョンを捻り出しました。彼は1995年3-4月号に発表した「コンピュータ騒乱」という記事の冒頭部で、これを披露しています。

シリコン・ヴァレーは、自分のところの成功ぶりを見せつけるにあたって、デトロイトを引き合いに出します。こんな具合に比較するのです。「もし自動車が過去数十年にわたってコンピュータのような絶え間ない技術開発競争にさらされていたら、今頃V-8エンジンの代わりにV-32エンジンを推進して、最高時速10,000マイルを達成していたでしょう。あるいは重量30ポンドのエコノミー・カーを作ることで、燃費は1ガロン1000マイルになっていたでしょう。どちらにしても、新車の店頭価格は50ドル以下です」

こういった煽りすべてに対し、デトロイトはこう返します。「そうでしょうね。でも、1日2回クラッシュする車を運転したいなんて、本気で思いますか? 」

ここに至ってロールスロイスは姿を消し、ついに「1日2回クラッシュ」という、システムダウンの直截表現が登場するわけです。シリコン・ヴァレーとデトロイトという、擬人化された登場人物の誕生も注意すべき点でしょう。このふたつの特徴から、「マイクロソフトVSジェネラルモーターズ」の実質的な出所が、ヘイズ氏の文章だったと分かります。

しかしニュースグループやBBSで何度も孫引きされるうちに、このジョークの出典はまたも失われてしまうことになります。すでにクリンジリ氏やリーチ氏のジョークが知られていたために、作者としてヘイズ氏の名前を挙げることを、引用者たちが意識的に避けたのかもしれませんが、いずれにせよヘイズ氏の名前は、ネットワーク上ではほぼ完全に黙殺されました。以降このジョークは事実上、都市伝説化することになります。

そうしてここから、何千何万のネットワーカーたちによる改変と再編成が始まるのです。まず「シリコン・ヴァレー」という語句が、「ビル・ゲイツ」に置き換えられることになります。Windows95の普及が急速に進んでいた時節柄、シリコン・ヴァレーの象徴として引っ張り出すのにぴったりな人間だったためでしょうが、ヘイズ氏の生み出した「1日2回クラッシュする」というフレーズが、どうしようもなく不安定なWindows95の挙動を連想させたことも無関係ではなかったでしょう。話の辻褄あわせとして、「デトロイト」もその地の象徴的存在である「GM」へと、付随的に置き換えられました。「マイクロソフトVSジェネラルモーターズ」のジョークは1997年ごろ、この形で一応の完成 (?) を見ます。

「ビル・ゲイツ」への置き換えは、それから間もなく、別に存在していたもうひとつの「マイクロソフト自動車」ネタを引き寄せることになります。

マイクロソフトが参入していれば自動車業界はこう変わった・トップ10

  1. 同じ機能がすでに数年前から他社製品にあったことを忘れて、人々はマイクロソフトの新車に熱狂するようになる。
  2. ユーザーは、道路のラインが新しく引き直されるたびに、新しい車を買わなければならない。
  3. 何の理由もなくときどき動かなくなることもあるが、運転者は不可解にもこれは当然のことと受け容れて、リスタート(再起動)しなければならない。
  4. 車に乗ることができるのは、Car95とかCarNTを買わない限り、1台に1人だけである。ただその場合でも、座席は人数分だけ新たに買う必要がある。
  5. 車をアップグレードしなければいけないというプレッシャーに、絶えず駆りたてられる。
  6. サン・モーターシステムズは太陽電池で動く、もっと信頼性があって、5倍速くて、2倍運転しやすい自動車を作るだろうが、全道路のたった5%しか走れない
  7. オイル、水温、ガス、発電機などの警告灯は「General Car Fault」という警告灯一つだけになる。
  8. 米国政府はいち自動車会社に助成金をもらえるようになる―――与えるのではなく。
  9. 誰もがマイクロソフト・ガソリン(tm)に鞍替えしなければならない。
  10. 新しいシートは、誰の尻も同じサイズであることを要求する。

このトップ10は、ちょうどWindows 95の発売前後からネットワーク上で出回りはじめていたものです。原作者 (あるいはグループ) はまったく不明なのですが、同じ時期には「Windows95を待つ間にすべきこと」とか「もしWindows95が口をきけたら」とか「Windows95の95が真に意味するのは」とかいったような、Windows95をネタにしたトップ10形式のジョークが大量発生しているので、そうした潮流を意識したうえで生み出されたことは確かでしょう。「マイクロソフトが参入していれば自動車業界はこう変わった」は、『インフォメーション・ウィーク』誌1995年12月18日号で紹介されたことで、一気に有名になり、さまざまな場所で引用されるようになりました。

1995年前後は、自動車産業とコンピュータ産業のアナロジーが、これまでとは別のかたちで注目されるようになった時期でもありました。「今日では10の会社がマーケットの50%を支配しているが、1996年中頃までにその数はたった5社にまで減るだろう。PC産業は自動車産業のようになろうとしている」―――ヒューレット・パッカードのPC部門責任者が発したこんな台詞 (『ビジネス・ウィーク』誌1995年3月20日) が、反響を呼んでいます。「マイクロソフトが参入していれば自動車業界はこう変わった」は、そういった時代の空気を反映して生まれたものともいえそうです。

ところでこのトップ10に挙げられている項目は、のちの「マイクロソフトVSジェネラルモーターズ」のリストと半分くらいしか一致していないことにお気づきかと思います。これは、あとから新しいアイデアが次々と加えられ (翌年2月の時点で26項目)、統合と整理が繰り返されたためです。新アイデアの追加は1998年頃まで盛んだったようで、最大で44項目を数えるまでになっています。そういう流れの中で、1998年初頭のある日、どこかの誰かが、ふとこのリストに「1日2回クラッシュする」という古くからあるネタを加えてみたくなったのでしょう。そしてそのときに、本文のほうも導入部として使えそうなことに気が付いた―――現在見られる「マイクロソフトVSジェネラルモーターズ」の基本パターンは、たぶんそんな経緯で完成したのだろうと思います。

パーソナルコンピュータの進化を皮肉ったこのジョーク自体、パーソナルコンピュータの歴史のなかで育まれてきたものだったという事実。なかなか示唆に富んでいると思いませんか。

(引用箇所では、後の記述に連なる部分を強調表示しました)

参考: Car Balk (Urban Legends Reference Pages)

[附記]

内容的には「マイクロソフトVSジェネラルモーターズ」と直接関係ないのですが、マイクロソフト自動車ネタの先駆けとして、「オペレーティングシステムで自動車を店まで走らせたら」というジョークが存在していたことを付け加えておきます。

オペレーティングシステムで自動車を店まで走らせたら

MS-DOS: 乗車したはいいが、まず鍵をどこに置いたやら思い出さなければいけない。

Windows: 乗車したはいいが、店までの運転は遅々として進まない。背後に貨物列車を引きずっているからだ。

Mac System 7: 店までいこうと乗車すると、教会に連れていかれる。

UNIX: 乗車したらまず「grep store」とタイプする。途中時速200マイルまで達するが、行き着く先は理容院。

Windows NT: 乗車したらまず「go to the store」と手紙を書く。そして車を降り、手紙をダッシュボードに投函する。

Taligent/Pink: 「いつか君を小型ジェットで店まで連れて行けたら素敵だな」と語るリカルド・モンタルバン (訳注:ラテン系の二枚目俳優) に付き添われて、店まで歩いていくことになる。

OS/2: 6,000ガロンもの燃料を注入してから乗車。護衛バイクとマーチングバンドの行列を従えて店に向かうが、途中で自動車は爆発。町は阿鼻叫喚の巷となる。

S/36 SSP: 乗車して店に向かったのはいいが、途中で燃料が切れる。車を降りて残りの道のりを歩いていると、途中で子供の運転する原付に轢かれる。

OS/400: 添乗員に車にのせてもらい、鍵もかけてもらい、店まで運転してもらう。しかしそこでは、人々がフィレミニヨンを買うのを眺めることしかできない。

例によって初出は不明ですが、『ニュース3X/400』誌1992年10月号に掲載されたことがきっかけで広まったジョークのようです。これは一躍人気となり、「OSがテレビだったら」「OSが航空機だったら」「OSがビールだったら」…果ては「OSが『うる星やつら』のキャラクターだったら」など、無数のパロディを生みました。

xornxorn 2004/09/07 00:59 本題とズレる気もするがこんなのもある。
http://www.page.sannet.ne.jp/mnagai/msj/msbuiltcars.htm
http://www.page.sannet.ne.jp/mnagai/msj/osiscar.htm
Automotive Industries誌への投稿が元らしいが諸説あり。

xornxorn 2004/09/07 01:02 NOKIA[N-ゲージ]出荷数100万台突破 http://hotwired.goo.ne.jp/news/news/business/story/20040903105.html

hallyhally 2004/09/09 01:09 ”Car & Driver”誌96年2月号を最初に、自動車雑誌方面でも取り上げられるようになったようですね。N-Gageについては、基本的にこの雑記の範疇外なのでノーコメントということで…。

09.02.2004

[][] アクレイム倒産


先月あたりから急速に雲行きを悪化させていた米・アクレイム社が、8月30日付でついに倒産を発表しました。近年はお抱えヒット作の権利を次々と失っていたので、予想された結末ではありましたが、かつての北米市場を支えた最大手のひとつであるだけに、やはり衝撃は大きいようです。

アクレイムといえば、日本のクラシック界隈ではとりわけメガドライブユーザーの間で有名な会社です。「マキシマム・カーネイジ」など末期のソフトが巻き起こしたさまざまな波紋は、ご存知のかたも多いでしょう。しかしこの会社は、もともと任天堂の申し子ともいうべき存在で、海外初のNESサードパーティとなる目的で設立されたというのが、そもそもの起源だったりします。

アクレイムのCEOを務めたグレゴリー・フィッシュバッハ氏は、その前にはアクティビジョン国際部門の代表者でもありました。アタリVCS市場が崩壊した1984年にアクティビジョンに参加、最初は経営コンサルタントとして辣腕を振るい、のちアクティヴィジョンがヴィデオゲーム市場からパソコンゲーム市場へ舵切りするさいに大きく貢献しました。その後RCAレコードに移籍し、やはり海外部門を任されていたのですが、そのときふとしたきっかけで、もう駄目だと思っていたヴィデオゲーム市場でNESが急成長しているのを知ることになります。アクティビジョン時代に培った日本市場の知識があればこそ、フィッシュバッハ氏は任天堂の真価をいち早く認めることができたのかもしれません。彼はかつての同僚らと組んでその可能性に賭けてみることにしました。そして1987年3月、アクレイムをスタートします。

アクレイム自体は当初ゲーム開発能力を持っていませんでした。そこでまず既存のゲームメーカーからライセンスを掻き集め、9月に「スター・ヴォイジャー」(アスキー, 邦題「コスモジェネシス」) 「タイガー・ヘリ」(タイトー)「3-D ワールドランナー」(スクウェア, 邦題「とびだせ大作戦」) 「ウィンター・ゲームス」(エピックス) をほぼ同時にリリース。デヴィッド・シェフ氏著の「ゲーム・オーバー」によると、これらには最も強気の予測をも上回る注文が殺到したといいます。「ウィンター・ゲームス」はコモドール64からの移植で、ほぼ同時期に任天堂がリリースした「スラローム」(レア社) とともに、最初の海外製ファミコンゲームのひとつに数えられます。

以後アクレイムはパック・イン・ビデオの「ランボー」をリリースしたきり、日本製ゲームとは疎遠になっていく (というより日本の各社が自社流通を強化する) のですが、プチ任天堂的なパブリッシャーとしての性質はさらに強まり、のちにはさまざまなサードパーティを糾合して、あらゆるメディアを利用した販促キャンペーンを展開するまでになります。1990年頃までのアクレイムは、北米サードパーティの牽引力ともいうべき存在だったのです。

アクレイムはその後ミッドウェイと契約、幾多のアーケードヒットを家庭用に移植する権利を獲得しました。1992年、ミッドウェイ最大のヒット作「モータル・コンバット」が登場すると、この移植権はたちまちアクレイムのドル箱と化しました。この頃北米市場はNES全盛時代から脱皮し、セガ・ジェネシスと任天堂・SNESの激しいデッドヒートに突入していたわけですが、「モータル・コンバット」の移植の出来は、両者を比較する格好の材料にされます。ハードウェアのスペックでいえば、もちろんSNESに分があったはずなのですが、セールス的にはジェネシスに軍配が上がりました。よく知られているように、任天堂がこのゲームの残虐表現に対して強い規制をかけたためです。この「モータル・コンバット」戦争の惨敗により、任天堂は暴力表現のありかたについて再考せざるを得なくなります。

その後も「テュロック」(ニンテンドー64) を筆頭にいくつかの大ヒットを生み出していたアクレイムですが、近年になって「モータルコンバット」や「NBAジャム」シリーズの移植権がミッドウェイの手元に戻り、さらに「テュロック」のイグアナ・エンターテイメントが離反を起こすなど、急速にパブリッシャーとしての訴求力を低下させつつありました。

ライセンスで財をなし、ライセンスで没落していったアクレイムの姿は、現在のアタリやミッドウェイのように、ブランドネームで切り盛りしている他のヴィデオゲーム企業の命運にも、不吉な影を落としているに違いありません。

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/hally/20040902
旧世代機専門ニュースサイト (日本語) :