Hatena::ブログ(Diary)

Classic 8-bit/16-bit Topics

Classic 8-bit/16-bit Topicsでは、海外での出来事を中心に、旧世代のコンピュータ/ゲーム機に関する雑多な話題を書き散らしています。ただしゲームミュージックやチップチューンなどに関してはVORCで専門に扱っていますので、ご興味がおありのかたはそちらもどうぞ。

2014/05/29 長年放置しておりまして、申し訳ございません。ここやVORCで書いていたような研究は現在、主に各種『ゲームサイド』誌に書き綴っております。よろしければご覧くださいませ。またそのほか最近の動向に関してはtwitter:@hallyvorcにてお知らせしております。いずれ更新を再開したいとは思っております。



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05.26.2005

[][] Atari VCS 完全復活

今月はじめにお伝えしたATARI FLASHBACK 2.0について、たいへん興味深いコメントをいただきました。

# T 『Flashback2.0はいわゆるファミコンチップ使用のまがいものではなく、ちゃんとした2600のハードを内蔵しています。

内蔵ゲームもオリジナルのままなので再現度は文句無しでしょう。大いに期待したいですね。

joystickもATARI互換(というかATARI純正ですな)で、取り外せるので、VCS用の愛用パドルを付けてpongを遊んだりもできます。

さらに、内部にはカートリッジコネクタまで隠されて(!)おり、保証は切れますが(って日本じゃ無意味ですが)ケースを開ければ所有しているカートリッジで遊ぶこともできます。

要するに最近たくさん出ている、おもちゃPnP機とは一線を画す製品かと。

何故か日本では全然注目されていませんので、いまさらですがあえてここに書かせてもらいました・・・』

なんとなんと。カートリッジコネクタがあるということは、実質的にはアタリVCSの復刻版そのものではないですか。いつのまにこんな仕様に…と思ったら、どうも先日のE3で詳細が発表されていたようですね。ClassicGamingに突っ込んだ特集記事が出ていました。内蔵ソフトの一覧も参照できます。意外なことに、今回はアタリだけでなくアクティヴィジョンの作品も収録される様子。これならアタリ初心者にもお勧めできそう………なのも嬉しいですが、それより気になるのは「ヤーズ・リターン」という謎のタイトル。なんですかこれ。あの快作「ヤーズ・リヴェンジ」の続編?

Flashback 2.0の開発を指揮しているのはアタリ・ヒストリ・ミュージアム主宰のカート・ヴェンダル氏とのことで、とことんユーザサイドに立った設計にも納得です。なおカートリッジコネクタを使用可能にするためには、基板を一ヶ所パターンカットして、内蔵ROMへのアクセスを遮断しなければならないようです。内蔵ゲームも必要という人は、スイッチを自作してやる必要がありますね。

[] 平沢進がAmigaOS 4.0のサウンドを担当

ついに平沢進がアミーガの公式なサウンド担当に選ばれました。ブート時ジングル他2曲が、近々リリース予定のAmigaOS 4.0 CDに収録されるそうです。

idrouggeidrougge 2005/06/03 21:55 へぇ、もうフラシュバックをあきらめたのに、こんなことが出るとは。C64DTVと同じ水準の出来のようですね。しかし、これは完全な新復刻版というわけでしょう、それとも昔のアタリ製ワンチップ2600を内蔵しているのかね。

hallyhally 2005/06/03 22:27 そうですね、RP2A10使ってるとは考えにくいので、厳密には完全とはいえないかもしれませんが、公式にここまでやる心意気を買って、ちと大袈裟に見出しを打ってみました^^; そういえばC64DTVの続編が来るかどうかも気になるところです。

05.24.2005

[] Commodore 64公式エミュレータ 登場

チューリップ・コンピュータによる商標取得以来、今かいまかと言われ続けてきた公式コモドール64エミュレータが、ついに登場しました。PocketPC版は少し前から利用可能になっていたようですが、現在はWindows版も用意されています。価格はともに$24.95。エミュレータのみでこの値段というのはちょっと割高な感じがしなくもありませんが、とりあえず5分間の無償トライアル版で、購入に値するかどうかを確認してみるとしましょう。ちなみにWindows版は要DirectXです。

起動―――まず気になるのはインターフェイスですが、これはなかなかいい線行っているのではないでしょうか。ドラッグ&ドロップ非対応なのはいただけませんが、わりと直観的に使用できるとは思います。

次に肝心の再現性ですが―――残念ながら、まだいろいろ不備を抱えています。目立つのは画像まわりで、ざっと試してみたところ、一部のデモで明らかに画面が崩れました。色調の調整も全体にあまい気がします。コモドール64エミュレーション最大の難関であるサウンドについては、さすがに完璧は期すべくもありませんが、一応フィルタ効果も再現しようと頑張っています。フィルタのオン・オフをスイッチひとつで設定できるのは面白いですね。それから擬似ステレオ設定が可能というのも、他には見られない特色です。

しかしこのエミュレータのもっとも興味深い箇所は、なんといってもBIOSです。ここに公式の意義が集約されているといってもいいでしょう。実をいうとコモドール64は、ZXスペクトラムやアタリ800といった同世代の他の人気機種と違って、これまでインターネットから合法的にBIOSを入手する手段がありませんでした。しかしこの公式エミュレータは、無論合法のBIOSとともに提供されているのです。公式リバイバルの実質的なお膝元であるアイアンストン・パートナーズは、既存のコミュニティを弾圧するつもりはないという意思を表明してはいますが、やはり完全に合法なエミュレータが存在するという安心感は大きいのではないでしょうか。

さてこのBIOS。これまでリリースされたさまざまなバージョンのみならず、なんとこのエミュレータ用に開発された新型まで含まれています。どのような新機能が実装されているのかはまだ分かりませんが、起動直後に "COMMODORE 64 BASIC X2" という見なれない文字を見たときにはびっくりしました。これを解析するためだけに購入してしまう人も、強者ぞろいのC64シーンには大勢いそうです。

ところでチューリップは昨年暮れに、ヤーロニモという会社にコモドール関連の権利を売り渡したはずなのですが、なぜこのエミュレータのページにはチューリップのマークがあるのでしょう。謎めいています。

[] コモドール・ワン用VIC-20コア 登場

コモドール関連でもう一件。去年の7月に「コモドール・ワンがアムストラッドCPCに変身?」という話題をお届しましたが、同様にC-OneをVIC-20互換機として使用可能にするコアが公開されました。MikeJ氏のワンチップVIC-20を応用したものということです。しかし可能性が広がるのは結構ですが、いつベータテスト段階から抜け出すのでしょうかね、C-Oneは。

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05.20.2005

2015.11.15 ストレイチイのドラフトについて追記しました。

[] バベッジのゲームマシン (5)

「機械にチェスをプレイさせてみたい」という研究者たちの願望は、ハードウェアの完成前にチェスプログラミングの方法論が確立されるという、一種異様な事態を生み出しました (前回参照)。しかしこのようなソフト先行の時代は、それほど長くは続きません。ちょうどシャノンの論文「チェスをプレイするコンピュータのプログラミング」が発表された1949年3月に、実用段階に到達したといえるはじめての現代型 (プログラム格納式) コンピュータが、テストプログラムの実行に成功しています。

2種類のコンピュータが、期せずしてほぼ同時にこの快挙を成し遂げました。ひとつは英ケンブリッジ大学EDSAC。そしてもうひとつは、米エッカート・モークリイ・コンピュータ社のBINAC。最初にゲームをプログラムする試みが行われたのは、このBINACでした。プログラマの名はエリザベス・ジーン・ジェニングス。ENIACの最初のプログラマとなった6人の女性コンピュータ (当時それは計算手に与えられた職業名だった) のひとりです。BINACが稼動した直後の社内レポートに、彼女がチェスやジンラミーのプログラミングに時間を割いていたという記述があるようです。しかしそれらが本当に完成したのかどうかは、いまのところ不明です。

[] 甦るチク・タク・ツー・マシン

実際に動作したことが確認できる最古のゲームプログラムは、意外なことに、死んだかに思われていたACEプロジェクトから生まれました。実はチューリングが去ったあとも、プロジェクトは少しずつ前進していたのです。そして1950年5月には、遅まきながら試作機を完成させ、簡単なテストプログラムを走らせるところにまで漕ぎ着けていました。

チューリングの不在を補うべくACEプロジェクトに奔走したひとりに、ドナルド・ワッツ・デイヴィスという新進気鋭の物理学者がいました。彼はチューリングと入れ替るようにしてプロジェクトにやってきたわけですが、すでにチューリングには大きな影響を受けていたようです。バベッジに興味を持つことになったのは、おそらくはそのあたりが縁だったのでしょう。彼はプロジェクトの合間を縫ってチク・タク・ツー専用コンピュータを製作し、ACEのお膝元である国立物理研究所で毎年開催される子供向けパーティに、それを提供します。この小さなパーティこそ、バベッジの挫折以来ほとんど忘れられていたチク・タク・ツー・マシンが、100年の時を経てついに復活を遂げた瞬間でした。かつてバベッジが目論んだとおり、それは子供向けのエンターテイメントでありながら、同時に大人たちの注目も集めます。1949年5月には王立協会の科学展示会に出展され、デイヴィスは翌年これについて論文を執筆しました。

チク・タク・ツー・マシンの成果は、ACE試作機が完成すると、すぐにそちらにも反映されたようです。この頃チューリングと共同でハンド・シミュレーションをやっていたドナルド・ミッキーは、1950年にACE試作機を見学し、ACEによるチク・タク・ツーの完全プレイが来訪者たちの目を釘付けにする様子を見ています (これには彼自身も勇気づけられました)。しかしデイヴィス自身は、これ以降ゲームに関する研究を行っていません。彼の興味はコンピュータの用途拡大というより広範なテーマへと向かい、やがてインターネット誕生の先駆的業績を達成することになります。ゲームプログラム研究においてデイヴィスのあとを継いだのは、クリストファ・ストレイチイ。コンピュータに趣味でプログラミングすることを許された最初の市民のひとりです。

[] ホビー・プログラミングの曙

ストレイチイはもともと通信工学に精通した技術者であり、戦時中は真空管の研究に携わっていました。それが縁でアナログコンピュータに興味を持ったりもしていたのですが、戦後は一線を退いて教職に就き、コンピュータとは無縁の生活を送っていました。彼に再び火を点けたのはウィーナの「サイバネティクス」です。これを読んで以来デジタルコンピュータへの興味が抑えきれなくなり、彼はつてを辿ってどうにかコンピュータに触れる機会を掴もうと画策しました。ついに念願叶ったのは1951年初旬頃で、以後彼は空き時間を使ってACE試作機でプログラミングすることを許されるようになったのです。

ストレイチイがACE試作機で感銘を受けたのは、なんといってもデイヴィスのチク・タク・ツー・プログラムでした。ぜひ自分でも同じようなものを作ってみたいという情熱に駆られて、ストレイチイのプログラミングスキルは急速に熟達することになります。そして1951年5月からドラフト (チェッカー) というチク・タク・ツーより数段複雑なゲームのプログラミングを開始しました。しかしこのコーディングはなかなかうまくいかず、動作こそしたものの、試行錯誤するうちにハードウェアの仕様が変更されるという災難にも見舞われ、結局プログラム全体が使いものにならなくなってしまいます。いずれにしても局面評価の方法に納得いっていなかった彼は、いったん開発を断念します。

[] ケヴェドを超えて

それから少し遅れて、マンチェスタ大学でもゲームプログラミングへの挑戦が始まりました。マンチェスタ大学のマークIは、実用化こそBINACやEDSACに少し遅れを取ったものの、試作機 (Baby) まで含めれば世界で最初に動作した現代型コンピュータです。同大学で自動チェス研究に勤しんでいたチューリングらハンド・シミュレーション一派は、じつはこの試作機の段階から、自分たちのアルゴリズムをプログラムする機会を窺っていたのですが、マークI開発チームのトム・キルバーンに反対され、断念せざるを得なくなっていました。どうもキルバーンには貴重な稼動時間の無駄遣いと判断されたようです。

そういうわけで、実用型マークIの完成後、ゲームプログラミングに挑戦する許可を最初に与えられたのは、ハンド・シミュレーションとは無関係な人間になりました。ディートリヒ・プリンツというフェランティ社 (マークIのスポンサ) から出向してきた研究者です。ケヴェドのアヘドレシスタに詳しかったというプリンツは、汎用コンピュータでさらに高度なアルゴリズムができるかどうかを試そうとします。そしてチューリングの記したプログラマーズハンドブックを頼りにプログラミングに取り組みました。彼のプログラムは1951年11月に完成しましたが、それはニ手詰めのプロブレムを解くソフトで、ゲームをプレイする段階には到達していません。解決には15分を要したといいますが、プリンツは結果に満足し、少し改良を施したあとチェス研究から離れています。

[] ストレイチイの再挑戦

プリンツがチェス研究を終えようとしていた頃、ストレイチイはマンチェスタ大学を訪れていました。彼は旧友のチューリングと彼のプログラマーズハンドブックに励まされながら、マークIでもう一度ドラフトにチャレンジしようと決心します。移植と改良は驚くほど迅速に終わったそうで、一夜にして完成したという説もあるほどですが、ともかくストレイチイは遅くとも1952年の6月までに、高速かつ完全なルールでドラフトをプレイするプログラムを動作させることに成功しました。一手指すのに要した時間は2分程度だったといわれています。

ストレイチイはこのプログラムを携えて、その年の9月にカナダ・トロントで開催された第2回ACM会議に出席しました。こうして彼の快挙は北米にも知れ渡ることになります。当時IBM社員だったアーサー・サミュエルは、完成したばかりのIBM 701を使って、さっそく同様のプログラムを作成しました。彼はその後何年にもわたってこのプログラムを改良し続け、やがてジョン・マッカーシイやマーヴィン・ミンスキイらとならぶ初期人工知能研究の重鎮となります。

ドラフトの開発と前後して、ストレイチイは学習型アルゴリズムを持つニムなどもプログラムしていたそうですが、その後やはりゲーム研究から遠ざかっていきます。専門家以上のプログラミングスキルを身に付けた彼は、もはや単なるアマチュアではいられなくなってしまっていたのです。かくてストレイチイは再び現場復帰することになり、後年はプログラミング理論の大家として名を馳せました。

ところでストレイチイのドラフトにはもうひとつ大きな特徴があるのですが、それについては次章で触れましょう。

(参考まで………マークIにはチューリングの提案によって、乱数発生装置が取り付けられていました。スタン・アウガルテン著「BIT by BIT」には、マークI開発チームを率いていたフレデリク・ウィリアムズが、これを使って簡単なギャンブルプログラムを走らせていたという記述があります。0-9までの数からどれかひとつを選んで、それが何回カウントされるかを当てるというものだったそうで、開発時期は不明ですが、これが汎用コンピュータで動作した最初のゲームプログラムだった可能性もありそうです。ちなみにウィリアムズは自分の好きな数字が出やすいようプログラムに細工していたとか。アウガルテンに言わせれば「これこそ世界最初のコンピュータ犯罪」ということです)

[] コンピュータ・ビデオゲームの誕生

ストレイチイのドラフトと同じ1952年に、EDSACにもコンピュータゲームが登場しました。こちらはアレクサンダ・シャフト・ダグラスという大学院生の手がけたチク・タク・ツー・プログラムです。

プログラミング環境整備の重要性にどこよりも早く気付いていたケンブリッジ大学では、1950年頃からEDSACのサブルーチン開発要員として、数人の院生たちによるエキスパート部隊が編成されていました。彼らはハードウェアの奥底にまで通じた、いわばEDSACハッカーとなり、普通のユーザなら考えつかないようなプログラムをいろいろと考案しています。ダグラスのチク・タク・ツーもそのひとつといえるでしょう。

いやもちろん、チク・タク・ツー・プログラムそのものに目新しさはありません。ドナルド・デイヴィスの業績は、ケンブリッジ大学でも知られていたはずです。その翌年には、同大学の機関誌で、ワイヤーと空き缶で自作できる6ポンドのチク・タク・ツー・マシンなんていうものが紹介されたりもしていました。いまさらチク・タク・ツーをプログラムしたところで、誰も驚きはしません。

しかし彼のチク・タク・ツーは、他のコンピュータゲームとは決定的に異なる特徴を備えていました。これはストレイチイのドラフトも同様です。それまでのゲームプログラムは、盤面あるいは駒の移動に関する情報を、テレタイプで紙面に出力していたのですが、このふたつのゲームは、盤面をブラウン管モニタに表示し、入出力すべてをコンピュータだけで完結させていたのです。すなわち世界ではじめてのコンピュータ・ヴィデオゲームになっていたのです。

ブラウン管出力を備えた最初のコンピュータは、定説ではWhirlwind (1951) ということになっているので、ヴィデオゲームの起源がそれ以前のマシンにまで遡るといわれても、にわかには信じ難いかもしれません (なにしろEDSACの開発者であるモーリス・ウィルクスさえ、コンピュータゲームの元祖は「スペースウォー!」だと信じているくらいです)。しかしWhirlwindがはじめて備えたのは、あくまでグラフィックス専用のブラウン管出力であって、それまでのコンピュータにも別目的でブラウン管出力が用意されてはいたのです。

    

EDSAC操作部。EDSACは約2キロバイト相当のメモリを持っており、オシロスコープ1台で560ビット分を監視できた。中央に見えるのは光電式の紙テープ読み取り機。写真はComputer Laboratory Archive Photos (Universit of Cambridge) より引用。

最初期の汎用コンピュータは、まだメモリ素子の信頼性がそれほど高くなかったために、メモリの状態をブラウン管に映し出して監視してやるのが一般的でした (あるいはウィリアムズ=キルバーン管のように、ブラウン管がメモリそのものだった)。メモリはドットの集合で表されていたため、そこに展開される映像は、今日いうところのビットマップ・グラフィックスになっていたのです。ただしもちろん、解像度はとてつもなく低く、EDSACの場合だとわずか35x16ドットしか表示できません。当然ながらカラーは単色でした。

EDSAC完成後まもない頃に、誰かがこのドットを使って絵を描いていたと、ウィルクスは自伝で証言しています。また原始的なアニメーションプログラムも、非常に早い段階で作成されていました。ダグラスがチク・タク・ツーを組む頃には、ドットで絵を描くという行為もそれほど突飛なものではなくなっていたと考えられます。彼がこのようなグラフィックスをチク・タク・ツーと結びつけたのは、人間とコンピュータの相互関係について論文を執筆するためだったといわれています。しかしその論文が具体的にどのような内容だったのかは、よく分かっていません。

ストレイチイのドラフトが映像方式だったことは、最近明らかにされました。ダグラスの功績は、近年EDSACシミュレータが登場するまで、海外のヴィデオゲーム史研究者の間でもまったく認知されていませんでした。ダグラスに関する研究はその後もあまり進んでおらず、彼がほかにゲームを開発していたかどうかは分かりません。ただ、このチク・タク・ツー・プログラムに言及している文献がほとんど見当たらないという事実は、彼の功績が (少なくともケンブリッジ大学の外では) それほど話題にならなかったことを意味しているといえそうです。

「スペースウォー!」より9年早かったコンピュータ・ヴィデオゲーム。いったい何故これが人気を集めなかったのでしょうか? ダグラスを最初に評価した一人であるデヴィッド・ウインタは「EDSACがケンブリッジ大学にしか設置されておらず、したがって大学外にプログラムが出回らなかったからだ」と主張しています。しかしこれは誤りで、実際のところEDSACにはLEO Iという兄弟機もありました。またすでに述べたように、チク・タク・ツーのプログラミング自体はすでに目新しいものではなかったのですから、他機種で同じものを組むことも難しくはなかったはずです。けっきょく、ただ画面を使用するだけではアピール不足だったということなのでしょう。ブラウン管ならではの表現内容を持つまでに至らなかったことが、このプログラムを埋もれさせてしまった要因ではないかと思います。    
EDSACシミュレータで再現したダグラスのチク・タク・ツー。シミュレータではダイヤルを使って配置場所を指定するが、ダグラスの証言によれば、実際には紙テープの読み取り装置に手をかざし、光線をさえぎることによって移動させていたという。

[] その後のコンピュータゲーム発展史

バベッジのチク・タク・ツー・マシン構想は、かくしてヴィデオゲーム時代の幕開けにまで連綿と受け継がれたわけですが、では彼の本来の夢、すなわちチェスをプレイするコンピュータは、結局いつ頃実現したのでしょうか? 簡単にその足取りを追って、締め括りにしたいと思います。

もっとも早かったのはおそらくソ連です。1956年、ソ連のBESMが動作させたというチェスプログラムについてのわずかな情報が、アメリカにもたらされました。これは故意でなければ人間が負けることはないという程度の腕前だったそうです。具体的な仕様は今日なお解明されていません。いっぽうアメリカでも、この年はじめてチェスをプレイするプログラムが、MANIAC Iで動作しました。まだ6x6に縮小したチェス盤でしか戦うことのできないものではありましたが、初心者相手なら勝利を収めることができたそうです。そして1958年には、MITのアレックス・バーンスタインという研究者がIBM 704を使って、ついにアマチュア級の強さを持つ完全ルールのプログラムを実現します。ここからチェスプログラムの研究は米ソ冷戦の、そしてチェス世界チャンピオン争いのもうひとつの舞台ともいうべき様相を見せながらヒートアップしていき、やがてあの「ディープ・ブルー」を生み出すことになるわけです。

このような状況は、とくにアメリカにおいて、ゲーム研究の正当化を後押しすることになったといえるでしょう。職場や研究機関でおおっぴらにゲームを開発していても非難されなかったアメリカの環境は、相当に特殊なものだったといえます。少なくともそれは、他のコンピュータ先進国 (イギリス、日本、フランスなど) では考えられない状況でした。冷戦はまた、シミュレータというコンピュータゲームのもうひとつの起源を育むものでもありました。冷戦、サイバネティクス、そしてバベッジ。アメリカでコンピュータゲーム文化が産声をあげる環境を準備したのは、つきつめればこの三要素だったといえるかもしれません。

[参考リンク]

おことわり: 20世紀以降のイギリスでは「チク・タク・ツー」より「ノーツ・アンド・クロシズ」のほうが一般的な名称になっていますが、本文中では便宜上「チク・タク・ツー」で統一しました。

(完)

山根山根 2005/05/26 13:35 お疲れ様でした.

シャノン論文とか,サミュエルのチェッカーとかいろいろなことがバベッジの系譜につなげられ,たのしく読ませていただきました.

人工知能研究のわかりやすいテーマとしてチェスが注目された経緯についてコメントです.
人工知能(Artifitial Intelligence)プロジェクトと冷戦については
Paul Edwards
http://www.si.umich.edu/~pne/cw.htm
の「クローズド・ワールド」
http://www.asahi-net.or.jp/~QJ5S-FKY/cwj.html
にも書かれていたかと思いますが,
早い段階に人工知能研究がテーマとして設定されたのが決定的だった.

さらに人工知能批判側もゲームに注目していたのがアメリカの特徴だと思います.
とりわけLevy の「ハッカーズ」に描かれているように,「コンピュータチェ
スは人間には勝てない」と断言した哲学者が登場したのも大きかったと思いま
す.あれでチェスが人工知能のベンチマークだと社会的に認定された.
現場のゲーム研究者にとっての仮想敵はソ連よりも哲学者の人工知能批判
だったんじゃないでしょうか.
そういうすばらしい学者はアメリカ以外の国には出現しませんでした(^^).

hallyhally 2005/06/02 11:38 御労いありがとうございます。「クローズド・ワールド」は未見でして、人工知能の批判史にも疎いのですが、ドレイファスやサールを育んだのもまたアメリカであるというのは確かですね。イギリスでの批判は、たぶん神学的な段階で止まってしまいました。またソ連では批判を飛び越えて弾圧に向かってしまいます。日本では批判以前に、1970年代まで人工知能というのは何か比喩的な言葉くらいに思われていた。こうやって並べてみると、アメリカでの批判が等身大だったことがよく分かります。

ソ連と哲学と、どっちが本当の敵だったかは分かりませんが、現場レベルでのソ連の影響は確かに大きなものがありました。とくに1966年にMITのチェスプログラムがソ連のプログラムに負けた一戦は、コンピュータ史におけるスプートニク・ショックとしてかなり尾を引くことになります。少なくともこの時点で、アメリカのチェス研究は決定的に後戻りできなくなってしまいました。

replicornreplicorn 2005/06/07 17:28 Tic Tac Toeはそういう経緯があったのですね。グラフィック版 〜 Space War!の9年もそうなのですが、Space War! 〜 Computer Spaceの9年も気になります。コンシューマ機はラルフ・ベアが1966年から着手していますが、確か単純な図形の表示だけで、Computer Spaceは明らかに描画センス(回転計算したドット表示)で一線を画しているような気がします。まだまだ間にまだゲームがありそうですよね。もしかしたらピンボールなどの電光表示にヒントがあるのかも、と思っています。(ピンボールの歴史には手が回っていないので憶測ですが。)

hallyhally 2005/06/08 14:07 グラフィック版「Tic Tac Toe」から「Space War!」の間の空白期は、イギリスを中心に綿密な再調査が必要だと思っています。いろいろゲームが埋もれているのは明らかなのですが、まだそれを発掘する動きはありません。

「Space War!」から「Computer Space」の間の空白期には、コンピュータグラフィックスが飛躍的な進歩を遂げた時期でもあるので、影響があったとすればピンボールよりもこちらではないかなと思います (当時はピンボール禁止条例下の暗黒時代ですし)。まあでもいちばん大きいのは、「Spacewar!」というゲームそのものが、方向が分からないとお話にならないシステムだったということでしょうね。

replicornreplicorn 2005/06/08 20:03 なるほど。イギリスにはまだまだ色々ありそうなのですね。Pongゲーム機のほうはドイツが多くてイギリスは少なくてブームも遅れて入ったらしいのであまりチェックしてませんでした。

 ピンボール禁止条例というものがあったのですか! ピンボールのほうもメチャクチャ興味沸いてきました。コンピュータグラフィックの発展も大きい時代だったのですね。そちらも当たってみます。ありがとうございます。

 Space War!はそうですね。Space War!自体はMITで開発されていたSAGEシステムの画面表示にヒントがあったのかな、と思っています。

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05.18.2005

[] バベッジのゲームマシン (4)

ニューヨーク万博で話題をふりまいたニモトロン (前回参照) は、人間と互角以上の「知性」を見せた最初の機械でした。しかしこれがバベッジの思い描いたゲームマシンだったといえるでしょうか? ニモトロンは、あまりにもニムというゲームに特殊化しすぎていました。それ以上には発展させようがなく、他のゲームにも応用が利かないものだったのです。その意味で、チク・タク・ツーの向こうに万能ゲームマシンの姿を見ていたバベッジの理想には、まだ及んでいなかったといえます。

バベッジの先見性を語り継ぐ者は、1930年代にはすでに見当たらなくなっていました。しかしニモトロンが誕生する数年前くらいから、バベッジ再評価の芽が息吹いてはいます。デジタルコンピュータ時代の先駆となるふたりの重要人物が、この頃それぞれ別個にバベッジの解析機関を再発見し、そこから多大な影響を受けていたのです。ひとりは英米におけるプログラム式汎用計算機の実質的な開祖、ハワード・エイケン。彼がハーヴァード・マークIとして知られる最初の汎用マシンを完成させたとき、自らをバベッジの後継者に喩えた話は有名です。しかし真にバベッジの後継者と呼ぶに相応しいのは、理念においても行動においても、そしてゲーム研究の姿勢においても、もう一人のほうでしょう―――そう、アラン・チューリングです。

この時代に至っても、バベッジを輩出したケンブリッジ大学だけは、なおバベッジの記憶を留めていました。ここでは彼の (おそらくは暗号解読に関する) 功績を、数学の講義を通して教えていたのです。チューリングがバベッジについて知ることになったのは、まさにそのおかげでした。彼は解析機関にヒントを得て、いわゆるチューリング・マシンを発想したと考えられています。1936年の論文ではじめて示されたこの「思考する機械」は、今日ある汎用コンピュータのモデル像をいち早く示したものでした。

[] ハードウェアなきチェスプログラミング

第二次世界大戦中から終戦直後にかけて、興味深い現象が起こっています。まだ今日的な意味でのコンピュータが誕生していないにも関わらず、チェスをプレイするためのプログラムがいくつか考案されているのです。先陣を切ったのは、プログラム制御の汎用計算機を世界ではじめて完成させたドイツのコンラッド・ツーゼでした。彼は1945年ごろ、構想中の新型マシン・Z4のためにPlankalkülというプログラミング言語をまとめあげ、それを使ったチェス運行用プログラムを書いています。

ツーゼは最初のマシン・Z1を完成させたあとで、はじめてバベッジの解析機関について聞き及んだというくらいで、他国におけるコンピュータ開発事情にはほとんど無頓着でした。アヘドレシスタやニモトロンのようなゲーム機についても知識は持っていなかったことでしょう。彼のプログラムはゲームを攻略するという段階までは到達しておらず、ルールに矛盾しないよう駒を動かすので精一杯というものでした。

チューリングもツーゼとだいたい同時期に、チェスの自動プレイについての考察をはじめていました。彼は戦時中、ドイツ軍の暗号解読に従事していたのですが、その当時に同僚たちと、ゲーム木から最善手を探す方法について議論していたそうです。学生時代からチェスを嗜み、またバベッジを愛読していたというチューリングですから、自動チェスマシンへの憧憬はたぶんもっと早くに抱いていたに違いありませんが、暗号解読の現場に身を置くことで、思考に弾みがついたのでしょう。彼は暗号解読に自動チェス研究との共通性を見出していたといいます。

チューリングは大戦後期から、より高度な暗号を解読するための専用コンピュータ・COLOSSUSに接し、これを通して電子式デジタルコンピュータの具体的な原理と性質を体得しました。そして戦後、この経験を活かしてACEと呼ばれるイギリス初の汎用コンピュータ開発計画を立案指揮します。しかしプロジェクトは予算に恵まれず、ACEの独特すぎる設計も仇になって、間もなく計画は頓挫しました。チューリングはプロジェクトを抜け、1948年秋にマンチェスタ大学数学部へ講師として赴任しています。

[] ハンド・シミュレーション

ちょうどその頃アメリカで、チェスマシン研究に重要な転機をもたらすことになる、一冊の書物が出版されました。ノーバート・ウィーナの著した「サイバネティクス」です。同名の学問を確立したことで有名なこの大著のなかで、ウィーナはチェスをプレイする機械を作ることが可能かどうかについても論じ、そのための新しい方法論を示したのです。

この頃すでにノイマンが、チェスはミニマックス法によって完全攻略できるゲームであるということを解き明かしていたのですが、同時にミニマックス法を使用するチェスマシンの開発は、その当時の技術では不可能だということも分かっていました。現代のスーパーコンピュータをもってしてもまるで足りないほどの、途方もないメモリ量が必要となるからです。バベッジが100年前に直面したのと同じジレンマに、この当時の自動チェス研究もまた突き当たっていたわけです。

ウィーナが気がついたのは、ミニマックスのようなパーフェクト戦略だけがすべてではないということでした。彼のサイバネティクとはつまり、機械で人間を超えるのではなく、真似ようとする考えかたです。人間ならばチェスに勝ちもすれば負けもする。まずは普通の人間と適度に渡り合える程度の強さから始めてみるのも、無意味なことではない―――それが彼の論理でした。研究者たちはこれによって、必勝という呪縛から初めて解放されたのです。

ミニマックスに代わる手段として、彼は評価値という考えかたを提案します。先読みするのはせいぜい2〜3手先までにしておいて、そのなかで相手の駒を取ったりチェックをかけたりできる有利な手には高い得点を与え、その逆に不利な手には低い得点を与える。そうしてもっとも高い点がついた手を選ばせるという方式でした。これなら必要なメモリ量は現実的な範囲で抑えられます。

この方法を最初に実践したのがチューリングでした。彼はほんの数年前まで、機械が人並みにチェスをこなすようになるまでには100年以上かかるだろうと考えていましたから、ウィーナのアイデアには目から鱗が落ちる思いだったに違いありません。「サイバネティクス」が出版された直後から、チューリングはマンチェスタ大学の仲間たちとともに、1手のみの先読みに基づいて局面評価を行うチェス対局アルゴリズムを組み始めています。

彼らはほどなく、ふたつのアルゴリズムを完成させました。しかしマンチェスタ大学にはまだそれらを走らせることのできるコンピュータがありません。そこで彼らはアルゴリズム中の演算をすべて手作業で行い、人力で「動作」させるという荒業に打って出るのです。チューリングがハンド・シミュレーションあるいはペーパーマシンと名付けたこのやり方は、一手指すのに30分以上を要するという気の遠くなるようなものでした。しかも、そうまでして実行した最初のアルゴリズムたちは、決着をつけることができずに終わってしまいます。ですが彼らは挫けることなくアルゴリズムの改良を進め、1952年にはハンド・シミュレーションと人間の対戦を実現するところにまで漕ぎ着けています。

[] CAISSAC

おそらく「サイバネティクス」を刊行した直後あたりに、ウィーナはケヴェドの業績を発見しました。今から30年以上も前に、部分的とはいえチェスをプレイする機械が実在していたという事実は、研究者たちを多かれ少なかれ驚かせ、そして勇気づけたことでしょう。これこそ思考機械への最初の挑戦であるとして、ウィーナはアヘドレシスタを高く評価したそうです。

アヘドレシスタのプレイを見学するノーバート・ウィーナ (左)。このアヘドレシスタはレオナルドの息子ゴンザロ・ケヴェド (右) が1920年に製作した2代目で、磁石によって駒を動かすよりスマートな設計になっている。写真は1951年のもので "From Analytical Engine to Electronic Digital Computer: The Contributions of Ludgate, Torres, and Bush" (Brian Randell, 1982) [PDF] より引用した。

「サイバネティクス」出版から一年あまりのち、ウィーナの同僚だったクロード・シャノンは、「チェスをプレイするコンピュータのプログラミング」(Programming a Computer for Playing Chess) という論文を発表します。ターク、アシェレシスタ、ニモトロンといった過去のゲームマシンたちの意義を辿りながら、汎用コンピュータ時代のゲームプログラミングにおける指標を示したこの論文は、またゲーム研究が意思決定の必要な他の分野にも役立つはずだと指摘し、そこに学術的な正当性を与えようとしている点でも興味深いものといえます。

この論文の主要な関心は、ウィーナが提唱した評価値の要素をさらに掘り下げ、具体的に評価関数化することにありました。これはすぐにもプログラミングに応用できるものでしたが、チューリングのケースと同様に、やはりまだ汎用コンピュータそのものが存在していません。そこで彼は1950年ごろ、CAISSACと呼ばれるチェス専用コンピュータを組んでいます。このコンピュータがどういう仕組みでどのようなアルゴリズムを動作させていたのか、シャノンは詳細を一切公表しませんでした。ただいずれにせよ、チェスを完全にプレイすることはできず、最大6駒までの終盤ゲームにしか対応していませんでした。CAISSACは、いってみればさらなる複雑化を遂げたアシェレシスタだったわけです。おそらくは評価関数の挙動を確認するための実験機として製作されたのでしょう。
    

当時の高名なチェスプレイヤであるエドワード・ラスカ (左) にCAISSACを紹介するシャノン (右)。写真は「コンピュータチェス―世界チャンピオンへの挑戦」 (David Levy/Monty Newborn, 翻訳:飯田弘之/吉村信弘/乾伸雄/小谷善行, サイエンス社) より引用。CAISSACはおよそ150個のリレースイッチを使って組まれており、サイズは100x100x150cm。電磁石によって駒の位置を検知するが、自動で駒を移動させることはできない。縦横軸に配列されたランプの示す位置に、手を使って駒を移動してやる必要があった。

シャノンはその後も継続的にゲーム研究を行っており、1953年には「チェスプログラムは自分の失敗と成功を学習できるか?」という次なる課題に取り組んでいます。そしてこの研究のために、ジョン・マッカーシイとマーヴィン・ミンスキイというふたりの助手を雇いました。彼らはシャノンとの研究を経て人工知能という新しい学問分野を確立し、のちにはMIT第一世代ハッカーたちの育ての親ともいえる存在になっていくのです。「スペースウォー!」を手がけたスティーヴ・ラッセルもまた、マッカーシイの門下生でした。このシャノンから続く潮流に身を置いていなければ、彼もコンピュータをゲームマシンにしようというアイデアには辿り着かなかったかもしれません。

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05.11.2005

[] バベッジのゲームマシン (3)

バベッジのゲーム研究 (前回参照) に追随しようという動きは、彼の死後何十年ものあいだ不在でした。その間「ターク」の焼き直しのような人形がいくつか作られているくらいですから、時代は停滞するどころか、むしろ逆方向に進んでいたといったほうが適切かもしれません。

しかし20世紀はじめごろになると、なぜかいきなり世界各地から、ゲームプレイの数学的考察が同時多発的に登場することになるのです。この背景には19世紀後半に起きた、イギリスを中心とする一大パズルムーブメントがありました。このなかでパズルを数学的に解こうという試みがいくつも生まれ、やがてその面白さが「アリス」でお馴染みのルイス・キャロルによって大きくクローズアップされることになります。同じ頃には、数学と結びつきの深いパズルとして有名な「ハノイの塔」が考案されたりもしています。こういった数学パズル研究の隆盛が、やがて対象をゲームにまで拡大していったわけです。バベッジ以降の思考ゲーム研究のいくつかが、ゲームとパズルの中間形態ともいえるチェス・プロブレム (詰め将棋) の考察から出発していることは、その証左といえるでしょう。

プロブレム研究からチェス研究への発展は、まずロシア領ラトヴィアで起こっています。ここではテオドール・モリーンという若き数学者が、1898年にチェス終盤のゲーム展開に関するさまざまな数学的研究を発表していました。これらがどのような内容のものだったのかはすでに分からなくなってしまっているのですが、フリードリヒ・アメルングという同国のチェス雑誌編集者に大きな影響を与え、彼もまた1900年ごろからチェス終盤の勝率を統計学的手法で分析しはじめています。のちにソ連では、世界に先駆けてコンピュータによる初めから終わりまでのチェスプレイが実現するわけですが、ひょっとするとモリーンやアメルングの仕事がその先駆的役割を果たしたのかもしれません。

同じ頃、アメリカでも動きがありました。ハーヴァード大学の数学助教授だったチャールズ・ボウトンは、1901年にニム (三山崩し) という中国発祥と伝えられる思考ゲームと、その数学的攻略法を紹介しています。彼にとってニムの研究は目的ではなく、あくまでひとつの手段でした。ボウトンが興味を持っていたのは2進数演算の有用性であり、それを研究するうちに、ニムが2進数演算によって必勝法を導き出せるゲームであることを発見したのです。2進数で解けるとなると、すぐにも電気回路と結びつきそうに思えますが、そうした発想が出てくるまでにはさらに40年近い年月が必要になります。

[] Leonardo Torres y Quevedo

いっぽう20世紀初頭には、解析機関の具現化にチャレンジする人々も、何人か現れていました。バベッジの実子である退役軍人ヘンリーや、アイルランドの会計士ルドゲイトなどです。そのなかでただ一人、バベッジのゲーム研究にもスポットを当てたのが、スペインの発明家レオナルド・トレス・イ・ケヴェドでした。彼は解析機関に挑む前に、世界初の自動チェスマシンを完成させています。

日本では名前さえほとんど知られていないケヴェドですが、ヨーロッパではなかなかの著名人で、自動計算機の発明者としてだけでなく、飛行船設計の第一人者、無線コントロール技術の開拓者、ケーブルカー普及の功労者…と、さまざまな功績で名を残しています (彼の設計したケーブルカーは今日もナイアガラの滝にて現役稼動中)。バベッジがチク・タクー・ツー・マシンに挫折して間もないころの1852年に生まれ、少年期をスペイン北端のサンタンデルで過ごした彼は、科学と数学に長けたシビルエンジニアである父の影響を受け、やがて自らも同じ道を志すようになります。24歳までは各地の大学で研究に勤しみ、この間フランス、スイス、イタリアを巡って、科学技術について見聞を深めました。スペインは産業革命に立ち遅れていたため、各国での刺激は大きかったらしく、急速な発展を遂げようとしていた電気工学には特に驚かされています。

スペインに帰った彼は、さっそく計算機の研究に着手します。1885年には最初のアナログ式計算機を組み上げました。3項式の根を求めることができたこの装置は、スペイン科学史上に残る快挙であるとして大いに賞賛されたといいます。彼はそのあと無線コントロール技術の研究を通して、電気とリレースイッチによる機械制御に熟達し、やがてそれを応用したデジタル計算機の構想を抱くようになります。このときケヴェドは、必然的にバベッジの業績を再評価することになりました。そしてバベッジの時代にはまだ定着していなかった電気工学という新しいテクノロジを用いて、彼の追い求めた「思考する機械」の夢を継ぐことに熱意を燃やすようになるのです。

ケヴェドが手始めにゲームマシンを開発したのも、彼がバベッジに強く共鳴していたがゆえでしょう。前回述べたように、それは解析機関のミニチュア的性質を備えるのみならず、もっとも簡潔かつ魅惑的に「思考」能力をデモンストレーションできる機械でもあったのですから。もちろん実用性に欠けるという欠点はあるわけですが、ケヴェドはさいわいにして、バベッジのように採算性に悩まされるような立場にはありませんでした。当時彼はマドリード王立精密科学アカデミの院長という役職に就いており、最先端電気工学の可能性を、思う存分追求することができたのです。そして1912年、ついにアヘドレシスタ (スペイン語で「チェスプレイヤ」の意) というゲームマシンが完成することになります。

[] Ajedrecista

   

Ajedrecista (初代). 実物は現在もマドリードの高速道路・運河・港湾エンジニア協会に可動状態で保存されているという。写真は "From Analytical Engine to Electronic Digital Computer: The Contributions of Ludgate, Torres, and Bush" (Brian Randell, 1982) [PDF]より引用。
アヘドレシスタは左の写真に見られる通り、部品を剥き出しにした武骨なマシンです。メカニズムの詳細はよく分かっていませんが、リレースイッチをベースにしたデジタルな設計だったと考えられており、駒の位置を電気センサーで感知し、機械のアームで駒を移動させることができたそうです。また人間がどこに駒を置こうと必ず対応することができ、ルール違反があれば警告を発するなど、今日いうところのインタラクティヴィティを感じさせる仕掛けになっていました。

チェスプレイヤと名乗ってはいるものの、これもまだ完全にチェスをプレイできるものではありません。ルークとキングだけになった最終局面に対応しているのみです。この状態だとアヘドレシスタはただ追い詰められるばかりで、いずれ必ず負けることになるため、ゲームとして成立しているとはいいがたいかもしれません (何手詰めにできるか競う、別の楽しみかたはありますが)。しかしそれでもチェスのいち局面をプレイしていることは確かです。

思考アルゴリズムはバベッジのそれとはまったく異なっています。というより、単にキングを逃げさせるだけなので、ミニマックス法を持ち出すまでもなかったというのが正解でしょう。しかしいかに単純とはいえ、それは機械が先読みしていると感じさせるのに十分なものでした。もっともケヴェドは当時、それはただそう感じさせるだけのものであるということを、はっきり注意しています。「思考が本当に必要とされるのはどういう範囲内でなのか、もっとうまく定義する必要がある。オートマトンには一般に思考に分類される多くのことができるが、それも何らかのルールに基づいて、特定の状況で特定のことをやっているだけだ」

アヘドレシスタは1914年のフランス・リヨン万博にも出展され、喝采を浴びました。しかし残念ながら、当時の興奮がいかほどであったのかを今日窺い知ることは困難です。万博開催から数ヶ月後に第一次世界大戦が勃発し、ドイツがフランスに宣戦を布告。はたしてこの万博が会期終了まで無事開催されていたのかどうかさえ、今ではよく分からない始末です。

ケヴェドはその後も解析機関の研究を続け、汎用型でこそないものの、さまざまなリレー式計算機を開発しています。1980年に彼の業績を発掘したブライアン・ランデルは、もし需要があったなら、彼はリレーを使って完全な解析機関を実現していただろうと評価しています。幸か不幸か、スペインは第一次世界大戦の戦火に呑み込まれませんでした。したがって弾道計算や風洞実験に緊急を要するような状況も生まれなかったのです。「第二次世界大戦への兵器の実験場」と呼ばれたスペイン内乱が、彼の死去する直前に始まっているのは、歴史のアイロニといえるかもしれません。

二度の大戦と言語の壁に阻まれて、ケヴェドの功績はやがてスペイン以外の国では忘れ去られてしまうことになります。

[] Ernst Zermelo のチェス定理

話は少し逸れますが、アヘドレシスタが披露された翌年には、「チェスには先手必勝か、後手必勝か、必ず引き分けになる戦略が存在する」ことを証明した、エルネスト・ツェルメロのゲーム定理も発表されています。ツェルメロはチェスのプロブレムが数学的に検証できることを踏まえ、チェスそのものにも同じことがいえるかどうかを突き止めようとしました。彼が興味を持ったのは、必勝状態なら何手以内で勝つことができるかということであって、どうすれば勝つことができるかではなかったということには、注意しておく必要があるでしょう。その考察はしたがって、戦略アルゴリズムや局面の評価とはまるで無縁の内容になっています (彼はゲーム木を逆から辿るのに似た後方帰納法と呼ばれる方法で証明を行ったと信じられていますが、近年の調査によってそのような事実はなかったことが明らかにされています)。こういった純論理的なゲーム研究は1920年代から盛んになり、やがてノイマンらによる近代ゲーム理論の基礎を形作ります。

[] Nimotron

ゲーム専用コンピュータ開発の動きは、アヘドレシスタ以来長く途絶えていました。次なる成果が現れるのは、第二次世界大戦直前の1939年に開催されたニューヨーク万博においてです。このイベントにはニムをプレイする機械が登場しました。その名はニモトロン。インターフェイスも含めすべてを電化した最初のゲームマシンです。

ニモトロンが誕生する前年の1938年には、クロード・シャノンがデジタルコンピュータ開発の起爆剤となる重要な論文を発表しています。それはリレースイッチのオンオフだけで、どんな論理演算も可能になることを知らしめたものでした。この発表を契機に、あちこちで演算回路の研究が始まっています。完全リレースイッチ制御のニモトロンも、おそらくはその影響下で設計されたものだったのでしょう。ニモトロンはボウトンによるニム研究の成果を、ごく素直に電気回路に直したものであり、バベッジやケヴェドのゲーム研究にはほとんど (あるいはまったく) 影響を受けていなかったように見受けられます。

開発チームの中心はエドワード・ユーラー・コンドン。原子物理学の専門家で、後にも先にもコンピュータやゲームの開発史には名を見せない人物です。そんな彼が一時だけゲームマシンの開発に携わることになったのは、ちょうどこの時期にウエスティングハウス・エレクトリック社の研究ディレクタを務めていたためでした。ウエスティングハウスはニューヨーク万博にもっとも意欲をみせた民間企業のひとつで、ほかにも世界初のタイムカプセルや、会話するロボットといった未来感覚あふれる展示で、人々を魅了していました。
   

関連特許に示されたNimotronの全体像。上部の電球群に現在の配置状況が示され、 プレイヤは筐体のボタンを押して消灯する電球の数を指定する。この電球群をドット式表示装置と見倣してよいなら、ニモトロンこそ世界初の映像式ゲームマシンといえるかもしれない。

ニモトロンはこの万博でおよそ10万回の対戦を行っています。「石」の配置パターンはたった9種類しかなく、しかもそのすべてが理論的には先手 (プレイヤ) 必勝の構成になっていました。真剣に攻略を考えれば必ず人間が勝つはずだったのですが、それにも関わらずニモトロンの勝率は90%に達しています。当時の観客は本当に勝てるのか疑いさえしたそうです。

ニモトロンの公開期間はニューヨーク万博開催中の2年限りでしたが、戦後イギリスのフェランティ社が同じくニムの対戦を行うコンピュータ・ニムロドを作成し、1951年の英国博覧会やベルリン貿易博覧会に出展したりもしています。このときの人気も大変なものだったらしく、観衆は飲み放題のバーさえ無視してニムロドに殺到し、地元警察が群集警備に協力しなければならないほどだったというエピソードが伝えられています。

ちなみにコンドンは開戦後MITに赴いてレーダー研究に携わり、のちマンハッタン計画にアシスタント・ディレクタとして参加。しかし軍部の締めつけの厳しさに嫌気がさして2ヶ月で辞任したそうです。戦後は米軍の要請でUFO研究に関わることになり、その筋では有名な「コンドン報告」をまとめたりもしています。

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05.06.2005

[] バベッジのゲームマシン (2)

バベッジが自動チェス人形「ターク」と対面したのも、やはりメルツェルによるイギリス巡業 (前回参照) においてでした。このときバベッジは28歳。王立協会の特別メンバーとして、さまざまな数学/物理学研究に勤しんでいた時期です。当時発表した論文のなかには、「ナイトツアー」と呼ばれるチェス駒を使ったパズルを、微分方程式によって解く方法の紹介などもあります。学生時代以来の熱心なチェス愛好家であり、幼いころからのオートマトン愛好家でもあった彼が、「ターク」に興味を覚えるのは、ほとんど必然だったといえるでしょう。

バベッジは「ターク」と二度対決しましたが、どちらも敗北に終わりました。しかしどこかで人間が操作しているということは確信しており、人形の後ろに隠し扉があるに違いないと推理したりしています (これはまったく的外れでしたが)。

[] Tit-Tat-To

「ターク」の虚実は、バベッジにとってそれほど切実な問題ではありませんでした。彼はそれよりもむしろ、自分なら実際に自動チェス人形を作ることができるかどうかという問題に興味を持ちます。バベッジが「ターク」に影響を受けてゲーム研究を始めたことを示す直接的な証拠は残されていないのですが、思考ゲームに関する彼の最初のエッセイが「ターク」との対戦から一年以内に記されているのは、たぶん偶然ではないでしょう。このエッセイ以前には、思考ゲームを数学的に攻略しようという試み自体存在しないも同然でした。となると、「ターク」の影響が小さかったとは考えにくいのです。

エッセイは未発表のもので、研究対象としてチェスではなく、子供たちの間で遊ばれている名もないゲームを取り上げていました。のちに「チク・タク・ツー」とか「ノーツ・アンド・クロシズ」といった名前で知られることになる、いわゆる三目ならべ (○×ゲーム) です。ゲーム研究をはじめてすぐ、彼はチェスが研究材料としては複雑すぎるということに気付き、まずとことん単純なゲームを材料にして、機械が人間の対戦相手になりうることを検証しようと考えたのです。そうして探し当てた、もっとも単純な思考ゲームがこれでした。

バベッジのゲーム研究は、ここで一旦中断します。彼の考案した階差機関の開発に対して、国家から資金援助が行われることになり、その完成が最優先されるようになったためです。階差機関はメカニズム面ではゲームプレイとなんら接点を持たないプロジェクトだったわけですが、彼にいわせればこれもまた「人間のもっとも低級な知的活動を代わりに行う機械」でした。この自動計算機への取り組みが、やがてゲームをプレイする機械とも接点を持つようになっていくことを、このとき彼が予見していたかどうかは、定かではありません。

しかし階差機関の開発にはさまざまなトラブルが付きまとい、計画は思うように進展しませんでした。開発は1820年代前半に始まりますが、1830年代前半には金銭問題のもつれから製作中断を余儀なくされ、1840年代前半にはついに政府からの資金援助も打ち切られることになります。ここで計画は完全に破綻しました。

[] 解析機関

バベッジは階差機関の挫折と前後して、プログラム方式を採用した次世代の自動計算機、すなわち解析機関の設計に着手しています。そのパーツを一通りデザインし終えたあと―――それはちょうど政府が階差機関を見放した頃でもあるのですが―――彼は20年前にやりかけていたゲーム研究を再開しました。これまでの蓄積を活かして「ゲームをプレイする機械」を具現化できるかどうか試そうと考えたのです。

そもそもチェスをはじめとする思考ゲームは、本当に人間の理知がなければプレイできないものなのか。彼はまずこの点を明らかにするべく、あらゆる階級・年齢層の人々に意見を求めています。「そりゃもちろん必要だろう」というのが、ほとんどの回答でした。「そうでないと、オートマトンにもプレイできてしまうじゃないか」とわざわざ付け足す人もいたそうです。こうした認識の背景には、10年近く前に出版された「自然魔術の書」の影響もあったのでしょう。数学に精通した人のなかには、機械が優秀な対戦相手になり得る可能性を認める者もわずかながらいたそうですが、それもあくまで可能性だけの話であって、彼らもまた、実際に機械を設計することなど、いかに単純なゲームが対象でも不可能だと考えていたそうです。

しかしバベッジ自身は、周囲の意見に囚われることなく、「ゲームをプレイする機械」の実現に向けて、着実に歩を進めていきます。1844年には対戦型の思考ゲーム全般に共通する法則を論文として発表し、世界ではじめてゲーム木を使ったゲーム分析を行いました。そしてこのゲーム木から局面に応じて最良の手を探し出すアルゴリズム―――今日いうところのミニマックス法―――を用いれば、機械でも人間に勝利しうることを論証してみせるのです。あまり知られていないことですが、彼はまたゲーム理論の父でもあったのです。

(ちなみに歴史上はじめてミニマックス型のゲーム戦略に言及したのはバベッジではなく、フランスのジェームス・ウォルドグレイヴという人物で、1773年に「le Her」と呼ばれるカードゲームを二人でプレイする場合の解法を記していたそうです。しかし彼はこれを「確率に左右されるカードゲームでは通常役に立たない戦略」と結論し、他の思考ゲームへの応用を考えることなく終わっています)

このときまでに、解析機関の基本設計は大部分まとまっていました。バベッジにいわせれば、解析機関は「記憶」し、それに基づいて「先読み」できる機械です。そして彼は先の論文で、思考ゲームに必要な知性を、このふたつの能力に還元することに成功しました。ここまできたら、あとは実際にゲームマシンを設計するだけです。

[] オートマトン時代の終焉

バベッジの当初の目標は、むろん機械にチェスをプレイさせることでした。しかしミニマックス法でチェスをプレイする場合には、膨大なメモリが必要となります。フルスペックでも1000個の数値 (10進数50桁) しか記憶できなかったとされる解析機関は、明らかに能力不足でした。こうなるとチェスは諦めざるをえません。

しかしバベッジはチク・タク・ツーなら、わずかなメモリしかなくても人間と互角に戦えることを突き止めています (チク・タク・ツーの最適戦略について記した直筆メモ)。実用的な解析機関の開発には莫大な資金が必要でしたが、ゲームプレイに特化したミニチュア版解析機関であれば、実現の見込みは十分にありました。

チク・タク・ツー・マシンの設計を大雑把にスケッチし終えたとき、ふとバベッジの頭に、これは解析機関の開発資金稼ぎに使えるのではないかというアイデアが閃きます。チク・タク・ツー・マシンをオートマトンに仕立てて興行に出せば、かつて自分を魅惑した銀製バレエダンサーのように、そしてケンペレンの「ターク」のように、世間の注目を集めるに違いないと考えたのです。

彼が思い描いたのは、子供の姿をした2体の人形が、人形どうしで対戦するというオートマトンでした。子供たちの傍には小羊と雄鶏の人形が置かれ、勝負がつくと雄鶏が勝ち鬨をあげて勝者が拍手し、次に小羊が哀れっぽく泣いて敗者が腕を組んで泣く、という子供向けの演出を盛り込んだエンターテイメントになるはずだったそうです。対人型のゲームマシンにしなかったのは、設計を簡略化するためだったのか、それとも人形が勝敗を認識しているという要素を強調するためだったのか。真相はよく分かりません。人間がプレイに参加できたのかどうかも気になるところですが、これについては言及がありません。しかしその余地はあったと考えるのが妥当でしょう。機械どうしの対戦しかできないのであれば、「あらかじめ決められた手順に沿って打っているだけではないのか」という疑いを免れることができないからです。

このようなオートマトンの製作は、技術的にはそれほど困難なことではなかったようです。解析機関に比べて格段にシンプルに設計できたことを、バベッジは強調しています。もっとも障害がまったくなかったというわけではなく、条件分岐と乱数発生の実装には手間取ったという記述も見られます。条件分岐の処理方法については、すでに解析機関の設計段階で十分考察されていたはずなので、ここで問題になったのはたぶん迅速・効率的な実装の手段でしょう。

厄介なのはむしろ乱数発生のほうでした。まったく同等に有効な手がふたつ以上ある場合、どうやって機械に選択させればいいのか。乱数テーブルを用いれば解決する問題ではありますが、バベッジはこれを潔しとしませんでした。代わって思いついたのは、これまで勝利した回数を記憶させておき、それを有効手の数で除算し、余りの数で決定させるという仕組みでした。余り0なら手順Aへ、余り1なら手順Bへ…といった具合です。いまや機械は偶然すらも作り出せる―――ラプラスの言葉「偶然とは人間の無知の現れである」を引用して、バベッジは自らの成果を誇らしく語っています。彼はラプラスと親交を持ち、自然現象はすべて数学で読み解くことができるという彼の決定論的世界を信奉していました。これはチューリングやノイマンといった100年後のパイオニアたちとのもっとも大きな隔たりといえるかもしれません。

チク・タク・ツー・マシンの実用化まではあと一歩でした。しかしバベッジはマーケティングリサーチの結果、このオートマトンの興行を断念しなければならないことを悟ります。計画の初期段階では、商業的成功は間違いないものに思われました。調査の結果、子供だけでなく大人たちも大きな興味を示すことが分かったのです。これなら親子連れの見物客から大いに収益を上げられそうでした。しかしいざ興行予定を立てようという段になって、バベッジはオートマトンに対する世間の興味が急速に醒めてしまったことに気付かされます。ラテン詩を作成する機械や、音声合成で話す機械など、精巧なオートマトンたちの興行が最近次々と商業的不振に陥っていることが判明したのです。一体何が起きたのでしょうか?

原因はアメリカからやってきた「親指トム将軍」でした。近代サーカスの祖として知られる稀代の興行師P.T.バーナムの演出によって、この「親指トム将軍」のショウが他を寄せつけない爆発的な人気を誇るものになっていたのです。しかもバーナムの興行を境に、即物的で肉体的な見世物が、オートマトンに取って代わるようになってしまいました。「親指トム将軍」のヨーロッパ巡業開始は1844年。バベッジがゲーム研究の論文を発表したのとまったく同じ年だったというのは、なんとも皮肉な巡り合わせであるという他ありません。バベッジの研究着手が1年でも早ければ、コンピュータゲームの歴史は、まったく違ったものになっていたかもしれません。そしてオートマトンの事業化が成功していれば、その収益で解析機関が完成していたのかもしれません。オートマトン計画の挫折とともに、彼は解析機関の製作そのものも凍結してしまいます。

機械仕掛けが見世物として復権を果たすためには、コイン式マシンの誕生と、それを専門に扱う施設、すなわちペニー・アーケードの登場を待たなければなりませんでした。しかしそれはバベッジの死後何十年も経ってからの話です。

寺町電人寺町電人 2005/05/09 00:39 毎度精力的な研究お疲れ様です。ありがたく勉強させていただきます。

山根山根 2005/05/10 08:58 たのしみにしております.
http://www.media.is.tohoku.ac.jp/~s-eitaro/babbage.html
(最終更新日 2001年)でも触れられていますが(「賭博師的側面」...),そもそもバベッジの全著作にアクセスできるようになったのが最近で,そしてようやく個々の研究が横断的につながりはじめた段階だと言えると思います.

hallyhally 2005/05/12 01:53 寺町さん: 御労いありがとうございます。何かのお役に立つようでしたら幸いです。

hallyhally 2005/05/12 02:27 山根さん: そうですね。近年は経済学者としてのバベッジ像もだいぶ見通しがよくなってきたようですし。しかしバベッジのゲーム研究にかぎっては、まだまだ個々の研究さえ数少ないです。全体像を見通せるようになるまでには、時間がかかりそうですね。

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05.03.2005

[] バベッジのゲームマシン (1)

コンピュータはゲームマシンとして使うことができる―――この事実に最初に気がついたのは、コンピュータの父チャールズ・バベッジその人でした。彼が解析機関というプログラミング可能な自動計算機を設計していたことは有名ですが、それとは別に解析機関の機構を応用したゲームプレイ専用の機械も設計し、あと一歩で事業展開できる段階にまで行っていたことは、あまり知られていません。

残念ながら、ゲーム研究者としてのバベッジ像は、まだほとんど認知されていないのが現状です。しかしバベッジのアイデアは、スペインの発明家ケヴェドに受け継がれ、そこからシャノンやチューリングのコンピュータ・チェス構想にも間接的な影響を与え、ひいてはACEコンピュータによる世界最初のコンピュータゲームソフトに行きつくという、歴史的に見てたいへん興味深いものなのです。そこで今回から数回にわたって、バベッジを起点とするコンピュータゲームの知られざる発展史を追ってみたいと思います。

[] メルツェルの象棋さし

バベッジが「ゲームをする機械」にこだわるようになった背景には、当時さかんに製造されていたオートマトンと呼ばれる精巧な自動人形たちの存在があります。あたかも生命あるもののように振舞う人形たちの姿は、少年期のバベッジに終生忘れえぬほどのインパクトを与えました。のちに彼は当時お気に入りだった銀製バレエダンサー人形をオークションで買い求め、ひとかたならぬ愛情を注いだほどです。

学生時代のバベッジは、発明の才を磨く一方で、数学にも熱心に取り組んでいます。やがてケンブリッジの名門トリニティ・カレッジに入学し、卒業後は先進的な数学者として頭角を表しはじめました。その頃に彼は、ふとしたきっかけで再びあるオートマトンに強い興味を抱くことになります。それは完全自動でチェスをプレイする「ターク」と呼ばれる人形でした。

「ターク」―――トルコ人の姿を模していたためそう渾名されたこの人形は、ハンガリーの発明家ウォルフガング・フォン・ケンペレン男爵が生み出した、世紀の問題作でした。ミステリ通のかたには「メルツェルの象棋さし」と述べたほうが分かりやすいでしょう。エドガー・アラン・ポオが正体解明に知力を尽くしたことで知られるこのオートマトンは、ベンジャミン・フランクリンやナポレオン・ボナパルトなど、当時の一級の頭脳たちを次々と打ち破り、18世紀後半から19世前半にかけて大変な物議を醸していました。青年バベッジもまた、これに興味を惹かれたひとりだったのです。


ケンペレン生没200年を記念して製作された「ターク」のレプリカ。写真は2004年4月12日付のChessbase Newsより引用。

「ターク」は本当のところオートマトンではありません。じつは内部に隠れた人間によって操作される、見せかけだけのチェス人形だったのです。奇術の専門家にいわせれば、大型装置を使った奇術の元祖にあたるのがこの「ターク」らしいのですが、複雑な機械仕掛けで巧妙にカムフラージュされたケンペレンのトリックは、初公開以来50年を経ても完全に見破られることはありませんでした。

後世、詐欺師のように語られもしたケンペレンですが、彼自身は問題の人形が「自動チェス装置」だなどとは一度も述べていません。そもそもこれは、オーストリア皇帝マリア・テレジアに娯楽として供するために作られた見世物だったのです。彼の言葉でいえば「ありふれたメカニズムによるイリュージョン」に過ぎないものでした。しかしありふれているはずのそのメカニズムが、誰にも解明できなかったわけです。

「ターク」は1769年に、オーストリア宮廷一の腕利きチェスプレイヤをねじ伏せて、華々しいデビューを飾りました。これが大きな評判を呼び、以降ケンペレンは人形とともにヨーロッパ諸国を巡業することになります。人形は行く先ごとに評判を呼び、とくにパリやロンドンで大きな話題となりました。

この人形と接した人は誰もが、どこかに人間が潜んでいるに違いないと疑ったわけですが、ケンペレンはそう主張する人々に「ターク」の中身を調べさせ、逆に人の潜む余地などないことを確認させています。そこまで見せても仕掛けが分からないというのですから並大抵のトリックではありません。見物人たちの多くは、人形が思考していると信じざるを得ませんでした。

ならばその仕組みはいかに? 純然たる機械の仕業と信じるには、この人形はあまりに人間的すぎました。なにしろチェスの対戦相手になるだけでなく、人々の語る言葉まで理解し、チェス盤を指差して質問に答えたりもしたのです。見物人のなかには、悪霊の仕業に違いないと口にする人さえいる始末でした。いずれにせよ、この時点で科学的究明の動きはまだ見られません。

ケンペレンの死後、「ターク」はメトロノームの発明者として知られるドイツ人、ヨハン・メルツェルに売り渡されます。彼は1818年から一年あまり、イギリスで巡業を行いました。「ターク」の謎は、産業革命たけなわのこの国で、「そもそも機械がチェスをプレイすることは原理的に可能なのか」という、より抽象的な懐疑へと結びつくことになります。この疑問を誰よりも真摯に追及したのがバベッジでした。

[] 機械は判断しない

19世紀初頭のイギリスでは、精巧なオートマトンに対して、単なる物珍しさ以上の関心が集まっていました。完成度の高い人形は、東インド会社を通して高値で中国に売り捌くことができたからです。ケンペレンの人形に対してこの国で一歩踏み込んだ研究がなされたのは、このようなオートマトンによる実益と、産業革命による工学の発展とが、がっちり噛み合っていたためでもあるのでしょう。

当時イギリスで数多く出された「ターク」研究のなかで、とくに大きな影響力を持つことになるのが、ロバート・ウイリスという若い数学者の記した匿名のパンフレットでした。彼は「ターク」が見た目以上に大きな空間を隠し持っていることと、不必要に大きなノイズを出して動作していることに気付き、内部に人間を隠す方法を多角的に検証しました。そしてそれだけでなく、そもそも機械には特定の入力に対して特定の結果しか返すことができないのだから、さまざまなゲーム展開が想定されるチェスに巧く対応することなど不可能であるという原則を述べています。今風にいえば、機械はインタラクティヴにはなりえないというわけです。ピアノを弾くオートマトンもあれば、文字も書くオートマトンもある。しかしチェスをプレイするオートマトンは、そういうものとは根本的に違う。こればかりは人間の知性だけに許された領域に踏み込んでいる。彼はそう断言したのです。これは当時としては、きわめて説得力のある論理でした。

それから10年ほどのち、万華鏡の発明者として知られる光学の第一人者、デビッド・ブルースタ卿は、俗信・迷信の類を科学的に解剖した「自然魔術の書」という当時のベストセラーを著しています。ウィリスの説はこれに引用され、広く一般に知られるところとなりました。

「自然魔術の書」が出版された1835年、「ターク」はおりしも全米ツアーに出ていたところでした。この頃までにヨーロッパでの人気は下火になっていましたが、アメリカではいまだ人気衰えず、自動チェス人形は偉大な発明であるとして、多くの街で驚きをもって迎えられました。アメリカではかなりの知識人たちまでもが、純粋に機械であると信じてしまったようです。このころ雑誌編集者としてのキャリアをスタートしたばかりだったエドガー・アラン・ポオは、そんな状況を苦々しく見つめながら、ブルースタの「自然魔術の書」に目を通していました。

「自然魔術の書」もまだ十分に正体を解明しきれていないと考えたポオは、「メェルゼルの象棋さし」という有名なエッセイを執筆し、さらに一歩踏み込んだ謎解きを披露しました。「ターク」のトリックをめぐる論争は、このエッセイの発表をもってひとまず落ちついたようです。しかしポオの謎解きも、結局はウイリス流の「機械は判断しない」という主張に沿ったものに過ぎませんでした。

ポオはこのエッセイで、最高に高度な知的機械の代表として、当時イギリスで国家プロジェクトとして開発が進んでいたバベッジの階差機関 (彼の最初の自動計算機) を引き合いに出し、これすらも「ターク」に比べればはるかに下等なことしかしていないということを強調しています。皮肉なことに、バベッジがウイリスとは正反対の結論に達しようとしていたことを、ポオは知らなかったのです。たしかに階差機関自体は、単なる特定目的の計算機に過ぎません。しかしポオが「メェルゼルの象棋さし」を著したのと同じころ、バベッジはチェスのプレイまで可能にするであろう新型計算機・解析機関の構想を真剣に考えはじめていたのです。

krackmaniakrackmania 2005/05/03 23:14 >>自動チェス装置

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4320028988/

記録薄いんですがこの本で、(もっと別の本だったきがしますが)
初期の頃で、チェスの大幅にルールを簡略したものが、
少数のリレーで本格的な思考ルーチンを
再現って読んだ事ありますね。

うーん何の話だったんだろうか。

hallyhally 2005/05/03 23:31 それはたぶんケヴェードのチェスマシンでしょうね。次々回あたりで触れる予定です。

krackmaniakrackmania 2005/05/03 23:55 楽しみにしてます。

ごちひごちひ 2005/05/06 02:45 個々の事象は耳学で少し知ってましたが、小人とか、しかし、それらの事が有機的に継ながってる認識がありませんでした;同時代なんですネェ〜皆な生きてたんだナァ・・・。

hallyhally 2005/05/07 03:56 私も調べながら驚いています^^; 文中には書ききれませんでしたが、ケンペレンは他にもジャカード織機や電話など、さまざまな近代発明に隠れた影響を及ぼしています。何がどこで繋がっているやら油断なりません。

みきみき 2006/03/28 13:30 大学院でAIについて研究しています。ケンペレンで検索してこちらのサイトにたどり着きました。明日、AIゲームについてのプレゼンをするので、参考にさせていただきます。

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05.01.2005

[][] ATARI FLASHBACK 2.0 発売決定

昨年12月に、アタリのプラグ・アンド・プレイ復刻機「7800フラッシュバック・クラシック・ゲームコンソール」ちょっと苦戦気味な様子をお伝えしましたが、結局メインターゲットであるカジュアルゲーマー層にとって移植精度はたいした問題ではなかったらしく、これまでに55万台が消費者の手に渡ったといいますから驚きです (おそらく同時期発売のC64ダイレクト・トゥ・TVと比べてもそれほど悪い数字ではないでしょう)。

さて、アンフォグラム=アタリは家庭用「ポン」生誕30周年を記念して、今年初夏にこのフラッシュバック・コンソールの第2弾を発売します。今回は初代アタリVCS (木目調) の外観を模したもので、収録タイトル40本 (前作比2倍)、価格30ドル (前作比2/3) という大胆なコストパフォーマンスが特徴。あまりお徳感を強調されてしまうと、また移植精度がなおざりにされるのではないかという懸念が涌きますが、「2.0はオリジナルのアタリ2600と同じ画面、サウンド、アクションをお届けするとお約束します。信頼性確保のため、アタリはオリジナル版ゲームのツールとコードを巧みに処理し、現代のチップ技術で復元します」と、ワンチップ2600の採用を臭わせるコメントも。今度はかなり本気みたいですね。

収録決定タイトルには「ポン」「アステロイド」「センチピード」「ミリピード」「ルナランダー」「ブレイクアウト」「ミサイルコマンド」「コンバット」の名前が挙がっています。前作収録タイトルばかり目立つのは気になるところですが、「これまで家庭用に移植されたことのないアーケードクラシックも含まれる」ということなので、何が来るか注目したいところです。

[] 海外プラグ・アンド・プレイ機の販売動向

海外プラグ・アンド・プレイ機市場でどういうものが売れているのかは、もうひとつ把握しにくいわけですが、あちらでも市場動向を分析した資料なんかはまだ出てきていないようです。そこで試しにamazon.comの販売ランキングをリスト化してみました (Computer & Video Games部門, 2005/04/29調べ)。amazonの動向がすべてでないことは言うまでもありませんが、なかなか面白い傾向が見て取れるのではないかと思います。

順位 商品名 価格 発売元
137Namco II: Ms Pac-Man with 5 TV Games$19.99Jakks Pacific
403Disney 5-in-1 TV Games$9.98Jakks Pacific
474Spider-Man Controller with 5 TV Games$19.99Jakks Pacific
625Namco TV Games$19.99 Jakks Pacific
955TV Poker Blackjack & Video Poker$34.99Senario
1178Plug and Play Classic Arcade Pinball$19.99 Jakks Pacific
1747Star Wars Episode 3 Plug and Play TV Games$19.99Jakks Pacific
1856Sega Genesis Arcade Legends Plug N Play$29.99Radica Games
1999World Poker Tour$19.99 Jakks Pacific
2001Activision 10 in 1 TV$19.99 Jakks Pacific
2153Frogger TV Arcade$19.99Majesco Sales
2182Atari Flashback Game System$29.95Atari
2360Mortal Kombat TV games$24.99 Jakks Pacific
2386Space Invaders Arcade Legends Plug N Play$19.99 Radica Games
2513XAVIX Port$79.99SSD Company
2858Atari Paddle Controller with 13 TV Games$19.99 Jakks Pacific
3208XaVix Bowling$49.99SSD Company
3218EA Sports Platinum Series with Madden 95 and NHL 95 - 2 Player Set$29.99 Jakks Pacific
3232XaVix Baseball$49.99SSD Company
3382XaVix Tennis$49.99SSD Company
3477SpongeBob SquarePants Dilly Dabbler TV Games Activity Pack$19.99 Jakks Pacific
3602Atari 2-Player Paddle Controller with 13 Games$29.99Jakks Pacific
4295Tetris Arcade Legends Plug N Play$19.89Radica Games
4665Arcade Legends Sega Genesis Vol 2$34.99Radica Games
4748Namco Mini Portable Pac-Man Pocket Edition$19.99 Jakks Pacific
5185Commodore 64: 30 Games in One JoystickN/ATulip Computers
5543Blues Clues Coloring With Blue$19.99 Jakks Pacific
6165Sega Genesis Street Fighter 2$39.99Radica Games
6350Dragon Ball Z Controller with 3-in-1 TV Games$19.99 Jakks Pacific
6647Tele-Doodle$19.99 Jakks Pacific
7513Ms Pacman 7-in-1 Wireless TV Game$39.99 Jakks Pacific
8951Super Silly Makeover 10-in-1 Joystick$19.99 Jakks Pacific
11285EA Sports Platinum Series with Madden 95 and NHL 95$29.99 Jakks Pacific
16535WWE TV Games$19.99 Jakks Pacific
N/AAtari Classics 10 In 1 TV Games$19.99 Jakks Pacific
N/ASpongeBob SquarePants TV Games$19.99 Jakks Pacific
N/ABatman TV game$19.99 Jakks Pacific
N/ADisney Gamekey Compatible TV Game$19.99Jakks Pacific
N/APlug N Play TV Star Wars Gamekey 1$9.99Jakks Pacific
N/AMS Pacman Gamekey Compatible$19.99Jakks Pacific
N/ABatman Gamekey Compatible TV Game$19.99Jakks Pacific
N/ASpiderman Gamekey Compatible TV Game$19.99Jakks Pacific
N/APlug N Play TV Ms Pacman Gamekey 1$9.99Jakks Pacific
N/AMortal Kombat Gamekey Compatible TV Game$24.99Jakks Pacific
N/ATV The Apprentice$49.99Senario
N/ATV Big Bonus Slots$34.99Senario
N/APlay TV EA Interactive Madden Football Game$39.99Radica Games
N/APlay TV EA Interactive Monster Truck Game$19.98Radica Games
N/APlay TV Rescue Heroes$46.95Radica Games
N/AKonami TV Arcade$19.99Majesco Sales
N/AGolden Nugget TV Arcade$19.99Majesco Sales
N/AGM Corvette Racing Steering Wheel$19.99Mammoth Toys
N/AGM Hummer Racing Steering Wheel$19.99Mammoth Toys
N/ATiger TV Mission Paintball Game$39.99Hasbro
N/AIntellivision 25 Video Game System$24.89INTV
N/ATV BUZZTIME TRIVIA ACCESSORY BUNDLE$29.99Cadaco

発売から1年を経ても依然トップに君臨し続ける「ミズ・パックマン」の勢いには恐るべきものがありますが、逆にいうなら、これを超えるヒット商品を出せないところに市場の頭打ち感が見えなくもありません。事実レトロ勢はのきなみ苦戦していていて、むしろ版権ものやポーカーなどのほうが上位に来るという意外な展開になっています。他に目立つのはスポーツゲームの弱々しさでしょうか。スポーツゲームが強いはずの海外で、ここまで伸びない原因は何なのか、ちょっと気になるところです。

TT 2005/05/24 23:04 Flashback2.0はいわゆるファミコンチップ使用のまがいものではなく、ちゃんとした2600のハードを内蔵しています。
内蔵ゲームもオリジナルのままなので再現度は文句無しでしょう。大いに期待したいですね。
joystickもATARI互換(というかATARI純正ですな)で、取り外せるので、VCS用の愛用パドルを付けてpongを遊んだりもできます。
さらに、内部にはカートリッジコネクタまで隠されて(!)おり、保証は切れますが(って日本じゃ無意味ですが)ケースを開ければ所有しているカートリッジで遊ぶこともできます。
要するに最近たくさん出ている、おもちゃPnP機とは一線を画す製品かと。
何故か日本では全然注目されていませんので、いまさらですがあえてここに書かせてもらいました・・・

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