カオスの脅威ばかり煽る「コスモセントリズム」の反ハシズム

 「劇化する政治過程・カオス化する社会(内田樹の研究室)」を読んだ感想です。反ハシズム陣営の人は、政治的意志で破壊しようとする部分だけに注目して、政治的に放置され破壊もしくは排除されていっている部分には無関心のようです。ネオリベラリズムの政策論の是非ではなく、ネオリベ信者の精神状態を否定する議論ばかりが目立ちます。「劇的破壊展開(カオス)」という脅し文句はいい加減にしてもらいたいものです。

際だった失政がないにもかかわらず、「劇的に」支持率が低下したのは、有権者たちが今政治過程に求めているのは、「劇的なもの」それ自体だからである、というのが私の提出する仮説である。
彼らは「劇的に支持率が低下した」という事実そのもののうちに、「政治過程に期待するもの」をすでに見出して、それなりの「満足」を得ている、というのが私の仮説である。
「劇的な破綻」、「劇的な制度崩壊」、「劇的な失敗」・・・そういうものが「緩慢な破綻」や「進行の遅い制度崩壊」や「弥縫策が奏功しない失敗」よりも選好されている。
人間的諸活動のtheatricalization (劇化)と呼んでもいい。
社会制度が破綻することによって自分自身が「いずれ」受けるはずの苦しみよりも、社会制度が劇的に破綻するのを「今」鑑賞できる愉悦の方が優先されている。

天下を狙うポピュリストやデマゴーグがわらわらと出てきて、総選挙報道は諸勢力の合従連衡を論じて、ヴァラエティショー的な興奮で沸き立つだろう。
人々は「それ」が見たいのである。その気持ちは私にもわかる。
でも、そんな政治過程の「劇化」をおもしろおかしく享受している間、日本の政治過程は停止し、傷みきった制度はさらに崩れてゆく。
そのことについては、誰も考えないようにしている。考えても仕方がないからである。それよりは「目先の楽しみ」だ。
とりあえず長い間社会の柱石であった諸制度ががらがらと壊れて行くさまを砂かぶりで見ることだけはできる。
屋根が崩れ、柱が折れたあと、どうやって雨露をしのぐのか、それについては考えない。それよりも屋根が崩れ、柱が折れるのを眺める爽快感を楽しみたいのである。
制度が崩れるのを見る権利くらい自分にはあると思っている人が増えている。
「制度はオレに何もしてくれなかった。だから、そんなものが崩れたって、オレはすこしも困らない」そう思っている人たちがたぶん増えている。

 劇的な変化は、秩序(コスモス)移行期のバックアップを用意しないから、カオスしかもたらさない。中立を気取ったマスコミが、政治を他人事のように劇場報道するように、各々の国民が既存体制破壊がもたらす不幸に気づいていないと言いたいようです。

 古いコスモスを破壊して、新しいコスモスを作ることが、模索するカオスしか生み出さないように言っていますが、政治的意志として決めたものは尊重して欲しいものです。少なくとも、新しいコスモスを定めている限りは、カオスを許容することはできるはずです。しかも、歴史を遡って現行のコスモスを否定するものではなく、時代に合わなくなったコスモスの中心を修正する程度の改革です。

 三位一体のように分化していても、あらゆるコスモス(秩序)には中心原理と呼べるものは必ずあります。その中心原理によって、得をしている人とあまり得をしてしない人が存在して、社会の変化に応じて得する度合いが大きく変化します。得をしている人とあまり得をしてしない人の両方が利己的な欲望(嫉妬など)を持っており、お互いの利己的欲望を実現させるための共有できる中心原理を築こうとします。

 共有が出来なくなれば、ある中心原理によって得をしてしない人が、得をしている人への怒りによって、役割交代などのコスモス転換を迫られます。「必要は発明の母」と言われますが、社会は得をしていない人によって改革されていくものです。

 そして、古いフォーマットを捨てようとする移行期において、何らかのバックアップシステムなどが大きく役に立つことなど見たことがありません。商品やサービスの世代交代には、常にカオス(フォーマットの乱立など)が生まれますが、移行期のバックアップシステムは言い訳程度の役割しか果たせないものばかりです。新たなコスモスへの方向性が定まっているので、カオスへの理解が高まり、不平不満が小さくなるというものでしかありません。つまり、移行期のバックアップシステムは幻想であり、大抵のものは捨てるしかないのです。


 「コスモセントリズム」という言葉がありますが、グローバリズムのように、コスモスは押し付けの一つでしかありません。グローバリズムが生み出す不幸についてはよく報道されますが、納得いかない理由で出来たコスモス(秩序)によって、支配されている不幸もあるのです。究極的にいえば、人々は納得いかない評価にさらされて生きているのであって、誰かにとってのコスモスが、誰かにとってのカオスでもあるのです。

 あるべきコスモス論を展開せずに、カオスの危険ばかり煽る主張は、ある人(既得権益者)にとってのカオスが、全体のカオスのように印象操作しているだけにすぎません。TPPなどへの参加を煽る人は、グローバリズム秩序(コスモス)に追従しないと不幸になると叫びますが、こうした中身のない議論とカオス脅威論は全く同じです。

 ネット空間は、カオス状態で大部分を占めていますが、誰もが全て危険なものとは思っていないはずです。誰かにとってのカオスが、誰かにとってのコスモスになっている場合があるからです。世代間格差などの問題を隠蔽して、カオスの危険ばかり煽る「コスモセントリズム」はやめてほしいものです。