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2011-05-09

任天堂失敗列伝〜第四回〜「マリオ64の巻」

 ずいぶん前から書くよ書くよと言っておいて延々書かないでいた失敗列伝第四回ですが、ついに書きます。ってかこのブログを読んでる皆はもう、このブログ任天堂失敗列伝っていうシリーズ記事を書いてるって忘れてるよね。


 まあ簡単に説明しちゃうと任天堂が過去にやらかしたことを後出しジャンケン的に検証するっていう嫌らしいシリーズなんだけど、任天堂って失敗から学ぶ会社だから長期的に見るとあの失敗が今になって活きてるよねってことも確かめていくシリーズでもあります。まあ第三回のバーチャルボーイの回を書いた時は3DSが出るなんて夢にも思ってなかったんだけどね。過去の回のリンク貼っとくんで良かったら読んでみて下さい。


任天堂失敗列伝〜第一回〜「64DD版MOTHER3の巻」 - 枯れた知識の水平思考

任天堂失敗列伝〜第二回〜「ポケモンスナップの巻」 - 枯れた知識の水平思考

任天堂失敗列伝〜第三回〜「バーチャルボーイの巻」 - 枯れた知識の水平思考


 ってことで前口上はこの辺にして、シリーズ第四回目になります今回取り上げるのは、スーパーマリオ64(以下マリオ64)です。第四回目にして大ネタ中の大ネタの登場でございます。


1996年、スーパーマリオ64発売

 マリオ64は96年にニンテンドウ64ローンチタイトルとして発売されたタイトルである。マリオ64を語るということは、ニンテンドウ64を語ることを避けては通れないと思う。ニンテンドウ64は日本国内においては絶対的な王者として君臨していた据置ハード、スーパーファミコンの後継機として登場したハードだ。そして、誰もが当初はそのまま王位継承が行われると思いながらも、新興ハード、プレイステーションに王座を奪われるというまさかの転落を喫するハードでもある。この辺の95年から97年あたりに起こった出来事ってのはまた非常に興味深いし、リアルタイムにその時代を経験した当事者の一人として語っておきたい時代ではあるのだけど、この辺のことは何時か書くであろう任天堂失敗列伝「ニンテンドウ64の巻」でまとめて書くので、今回はマリオ64というソフトの中身に絞って話を進めようと思う。


失敗作として振り返るマリオ64

 マリオ64を失敗作として振り返る、ってこれだけで色んなところから矢のような反論が多数飛んできそうだが、まあ落ち着いて欲しい。確かにマリオ64と言ったら、名作、傑作としてゲームの歴史上に名を残すタイトルである。マリオ64が傑作中の傑作であるという評価自体には、僕自身異論はない。だが、ここで、マリオ64の制作者の発言を振り返ってみたいと思う。その制作者とは、他でもない、マリオ64でディレクターを務めた、宮本茂の発言である。


ぼく、3Dアクションゲームってほんとに面白いかな?って

思ってるんですよね、

自分で作っておいて、言うのもなんですが(笑)。

 

「3Dアクションゲームの時代だ!」とか言って、

みんなをその気にさせたのはぼくなんやけども、

みんなも「そっか。これからは3Dアクションか!」って思って、

それで実際に3Dアクションゲームをつくってみたら、

たいへんだった、という思いをしてると思うし、

そのわりには意外と面白くならへんかったって、あれ?って。

だったら、マリオのことを、なんで面白いと思ったんやろ?

って言って、もう1回してみたら、

やっぱり意外と面白くなかったとかね(笑)。

あのね、ほんとにそういうものだと思っているんです。

作るほうにとっても難しいし、遊ぶほうも

難しく感じることが多いの。

つまり、3Dアクションというだけで面白がる時期は

終わったと思います。

3Dゲームにすることで面白さが引き立つ、

ゲーム性の「アイディア」が中心にならないと、

だめなんでしょうね。

宮本茂が語る。〜今思うこと、5年後のこと〜 第6回 宮本茂が語る、「DK64」と「MOTHER3」。


 この記事がほぼ日にアップされたのは1999年の11月19日、今から10年以上前の発言である。意外と知られてない事実なんだけど、傑作、マリオ64に誰よりも厳しい目を向けているのは、他ならぬ宮本茂自身だったりするのだ。これを書いてる自分ですら反論したくなるほどである。ってかこの記事を書くにあたって久々にマリオ64を再プレイしてみたんだけど、やっぱ面白いですよ宮本さん! でも、この引用した発言をよくよく読んでみると、宮本茂は、マリオ64という単体のソフトのみならず、3Dアクションそのものに対して疑問を抱いているのがわかる。


 制作者である宮本茂を含めて、なぜ、我々はかつて3Dアクションに夢や新しい可能性を見たのだろうか?そしてその夢が具現化したマリオ64という傑作3Dアクションに、なぜ宮本茂自身が真っ先に見切りを付けてしまったのだろうか?マリオ64を失敗作として振り返るこの記事を通して、これらの疑問に対する自分なりの答えを提示したいと思う。


カメラの発見

 マリオ64を開始し、冒頭でピーチ姫からの招待があり、次に画面に映し出されるキャラクターは、なんとジュゲムである。マリオでなければクッパでもない。Lさんに至っては最初から最後まで出てこない。なぜ、単なる雑魚キャラに過ぎなかったジュゲムがこのような扱いをされるのかと言えば、彼が、カメラを携えているからである。


 マリオ64というゲームはゲームの冒頭からカメラの存在、そしてカメラを操作する必要性をプレイヤーに宣言することから始まるゲームなのだ。まだ3D時代が始まったばかりの黎明期と呼べる96年にこれほどまでにカメラの重要性に着目していたという時点で、宮本茂は本当に傑出したゲームデザイナーと言えるだろう。彼は、3Dゲームを作るにあたって、カメラというものをキャラクター化し、それを操るのもまたゲームの一部としてゲームをデザインしようとしたのだ。この時、ゲームに自意識がもたらされたのであるとか言うとカッコいいかもしんないけど、あまり意味もないかもしれない。


 なぜ、ゲームが3Dになるまで、ゲームにおけるカメラの存在、及びカメラワークの重要性が意識されていなかったのかといえば、当然のことではあるが、カメラが自由に移動できる空間を用意することが出来なかったからである。多くのゲームが2Dだった頃、大抵のゲームは、プレイヤーキャラクターと常に一定の距離を置いて、横や縦方向にしか動くことが出来なかった。


 ここで一つ注意してみたい。かつて多くのゲームが2Dだった頃、我々は、ゲームにおけるカメラをどのようにして操作していただろうか?


 おそらく、2Dのゲームを遊ぶ時、私たちはカメラの存在というものすら想像していなかったのではないか。プレイヤーキャタクターが右に動けば画面全体が同時に右に動くのは当然だし、上に移動すれば、画面全体が上に動くのは当然のことであると。


 実は、2Dの頃でも、そこには、カメラの存在があったのである。スーパーマリオブラザーズで、我々は、マリオを右へ右へと操作するのと全く同時に、マリオを一定の距離から撮影してくれるカメラも操作していたのである。強制スクロールのゲームとは、カメラが一定の時間で移動するのに合わせて、プレイヤーキャラクターを操作するゲームだし、ドラゴンクエストは、真上からプレイヤーを映し、前後左右プレイヤーの移動に合わせてカメラも操作するゲームなのだ。


 なぜかつて我々がカメラの存在に全く気付かないでゲームを無邪気に遊べていたのかと言えば、それは、十字キーやレバーの操作一つで、キャラクターとカメラを同時に、全く問題なく操作出来ていたからだ。そこにカメラがあるということにすら全く気付かないほどに、洗練され尽くした操作体系のゲームを遊んでいたからである。


 おそらく、宮本茂は、マリオ64においても、そのようなスティック一つで、プレイヤーキャラクターであるマリオと、マリオを映すカメラを同時に操作できるようにしたかったのではないか。だからこのゲームは、カメラがかなりの部分において、自動的に動く。それらの試みは成功している部分もかなりある。96年の時点でこのクオリティーを実現していただけでも、賞賛に値するだろう。しかし、あらゆる位置にプレイヤーが移動出来、あらゆる角度からカメラ撮影が出来てしまう3D空間に置いて、完全に自動制御されるカメラが完成していたとも言い難い。改めてマリオ64をプレイしてみても、マリオの位置や空間が把握し辛いカメラワークが散見される。


 だからこそ、このゲームの冒頭では、ジュゲムマリオにカメラの存在を告げるのである。今までマリオと完全に一体化していたカメラは、ついに分離しますよ、と。場合によってはマリオとカメラを別々に操作しなさいよ、と。


 このマリオ64冒頭におけるジュゲムのカメラ宣言は、任天堂の3Dゲーム史に置いても非常に重要な宣言で、任天堂の3Dゲームの歴史ってのはカメラとの苦闘の日々だと言っても良いのだけれど、まあこの辺を掘り出すとまた長くなるので、また別の機会に触れよう。ちょろっとだけ触れておくと、マリオサンシャインにおいては、カメラ操作をかなりの部分のユーザー側に委ねるようにして、マリオギャラクシーでは完全な自動制御になっているんだね。マリオギャラクシーのカメラワークが現在の所の到達点なのだけれども、次のマリオではどうするかってのがまあ気になるところなのですが、多分マリオギャラクシーともまた変えてくるんじゃないかと思うんだけど…。なんせ3DS立体視が可能になったわけで…。


 話を戻すと、マリオ64における宮本茂のカメラへの着眼、とカメラ制御のアイディア、地道な工夫の数々は非常に優れたものだ。しかし、カメラを発見し、カメラを意識してしまうことで、逆に2Dのゲームの操作体系が如何に洗練されていたのか、如何にゲームに適した画面処理をしていたのかってことをこれ以上なく明らかにしてしまってもいるのはなんとも皮肉な話だ。自意識の目覚めが必ずしも幸福なことであるとは限らないのである。なんつってな。


空間把握の変化

 次にカメラとも関係のある問題だが、3Dになることによって変化した、空間の情報量、空間の把握の仕方の変化について考えてみよう。


 まずは、空間の情報量についてだが、2Dから3Dになることで、一画面内の情報量は劇的に向上した。何より奥行きのある空間を描写出来るようになることで、「遠く」と「近く」を一つの画面内に描写することが可能になった。

そして、かつては画面の上下左右にしか移動できなかったプレイヤーキャラクターが、画面の奥や、画面の手前にまで移動出来るように変化した。


 まあゲームが3Dになるってことはそういうことなんだけど、そうなることでマリオ64はどのようなゲームに変化したか? 結論を言ってしまえば、3Dになることで、マリオ64は「迷う」ゲームになってしまったのである。あらゆる方向に移動が可能ってことは、ゴールとは別の方向に進んでしまってはいつまでもゴールに辿りつけなくなるってことだからだ。3Dになることで、「迷う」自由を得たと言ってもいいだろう。


 2Dのマリオは、基本的には、右へ右へと移動していれば、ゴールに辿りつくことは出来た。そのシンプルな構成こそが、マリオというゲームの大きな美点だったし、だからこそ、2Dのマリオはここまで数多くの人達に支持されたと言っても過言ではないと僕は思う。「迷わない」ゲームであった筈のマリオが、3Dになることで、「迷う」ゲームになってしまうことで、マリオ64はめでたく駄作となり、失敗作になりましたって話になれば話は単純なんだけど、困ったことに、「迷う」自由を得ることで、それはそれで別種の面白さを産み出しちゃってるのも確かなのである。でもその面白さはどちらかと言えばマリオとは表裏一体の関係にあると言えるゼルダの伝説に近いの面白さなんじゃないかなと思うんだな。「探査型」の面白さというか。ゴールめがけて一直線の「到達型」のマリオと別の方向に進んでしまったというか。だから「迷う」自由を得たという変な言い回しをしたのだけれども。


 もう一つ、3Dになることで起きた大きな変化として、かつては奥行きの無い「線」の上を移動していたマリオが、広大な「面」を駆け回るようになったということが挙げられる。


 「面」の上を縦横無尽に駆け回ることが出来るということは、マリオ64の大きな魅力の一つだ。ニンテンドウ64のコントローラーに搭載された3Dスティックの操作感とも相まって、自分の身体の一部の如く精妙な操作を楽しむことが出来る。


 そのような魅力が発生するのと同時に問題もまた発生する。マリオの代表的なアクションであるジャンプで敵を踏んづける難易度が劇的に向上してしまったのである。


 「線」の上に存在する「点」をジャンプで踏んづけるという「点」のアクションで攻撃することと、広大な「面」の上に存在する「点」を「点」によって攻撃すること、どちらが難しいかと言えばそれは言うまでもなく後者である。それに加えて、TVゲームは基本的には、平面のTV画面に映像を映しているため、どうしても3Dの奥行きが把握し辛い。銃器のような、瞬間的に距離感を縮めてくれる武器ならまだしも、マリオ64のような肉体を駆使するジャンプアクションと、3Dアクションとの相性は本質的に非常に悪いのである。


なぜマリオ64は失敗作か

 以上、カメラワーク、とそれに伴う空間把握の変化について考えてきたが、これらをまとめて結論を出してしまえば、マリオ64は2Dマリオよりも複雑化、繁雑化してしまったので、失敗した、ということになる。シンプルさを身上とするマリオに3Dはそもそも合わなかった、と。


 しかし、なぜ、こうやって文章にしてしまえば、至って単純な結論を出すのに、ここまで時間がかかったのだろう。自分の思考の遅さであり怠惰さと言ってしまえばそれまでなんだけど、どうも単純に切って捨てられないような迫力がマリオ64にはある。これまで考察してきたように、3Dアクション、特に3Dジャンプアクションは、ゲームの根本に非常に大きな問題を抱えているジャンルである。それらの問題に対症療法的な処置をしたとしても、根本に問題を抱えてしまっていることには変わりはない。


 僕が考えるに、マリオ64が失敗作である理由、それは、マリオ64がそのゲームを支える根本に大きな問題を抱えながらも、ゲームの歴史に残る傑作になってしまったということなのではないかと思う。


 もしマリオ64がもっと簡単に切って捨てられるような駄作になっていたとしたら、3Dとジャンプアクションの相性の悪さを決定的にユーザーに教えてしまうような失敗作になっていたとしたら、ゲームの歴史はもう少し違ったものになっていたかもしれない。まあ単純な話が64の時点でNewマリオwiiに相当する作品が出てたかもしれないっていうかね。今更このようなことを振り返っても仕方がないことではあるが。


 では、マリオが3Dになることで、得たものはあるのだろうか?マリオに限らず、ゲームが3Dになることで良いことはあったのだろうか?


 ゲーム全般を振り返ってみれば、3D化の恩恵は決して少なくはなかったとは言えるだろう。海外のFPSTPS等は、3Dが前提であるようなゲームだし(ちなみにFPSは3Dにおけるカメラ問題にほぼ完璧な解答を提示している希有なジャンルである)、レースゲーム等も大きな恩恵を受けたと言える。バーチャファイター鉄拳などのような精彩な「動き」を必要とするゲームも3Dでなければ実現は難しかっただろう。


 この時期の任天堂の不幸は、3D化が様々なジャンルに恩恵を与えているのに、マリオ64にとってはかなり逆風として機能してしまっているところにある。マリオに限らず、ニンテンドウ64っていうハードは3Dバブルにほとんど乗れなかったハードでもあるんだけど、まあこの辺はおいおい振り返ります。


 実は、マリオ64にも3Dになることで、シンプルに良くなった、変わった部分が一つある。それは、ゲームの開始直後、ピーチ姫のお城へ入るまでの空間である。スーパーマリオシリーズはこれまで、常に背後で流れる音楽と共にあるシリーズだった。しかし、マリオ64では初めて音楽が流れず、環境音のみの状態からマリオを操作できるようになる。マリオが動けばパタパタと足音がするし(マリオの足音がするのはマリオブラザーズ以来、スーパーマリオシリーズでは初)、移動した場所ごとに鳥のさえずり、虫の鳴き声、川のせせらぎが聞こえてくる。音楽を鳴らさなくても、そこには確かにかつては無かった豊かな「世界」がある。3Dゲームの幕開けに相応しい美しいオープニングだと思う。


 ゲーム業界を代表する天才クリエイター宮本茂の最後のディレクタータイトル「スーパーマリオ64」。任天堂の歴史の中でも、最も特異な位置に存在するであろう据置ハード、ニンテンドウ64の歩みは、この多くの問題点と、新たな可能性を同時に孕んだ傑作と共に始まる。


第四回おしまい

そして任天堂失敗列伝〜ニンテンドウ64編〜のはじまり

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