人生の勝負服

NHKの朝ドラ『カーネーション』を日課のように観ていた。ファッションデザイナー、小篠綾子さんをモデルにしたストーリーだ。綾子さんには、亡くなる半年ほど前に、私が関わっていた女性の会主催のト−クショー「肝っ玉かあさんの一代記」に出演していただいたことで親近感があった。多くの女たちのためにミシンを踏み、三人の娘たちを世界的なデザイナーに育てた『おかあちゃん』の細腕繁盛記に感銘を受けた。
私が子どもの頃は、ものの無い時代で、洋服や着物がリフォームされたり、夏の簡単服(ワンピース)やセーターは母の手作りだった。それでも、家に仕立て屋が来て、洋服を作ってもらった覚えがある。三人姉妹に年齢差や個性は無視されで、同じお揃いの洋服を着せられた。長女の私は、妹たちと同じよそゆきで出かけるのがとても嫌だったが、父の好みだからと我慢させられた。妹たちは、さらに悲惨で姉から下りた同じ型の服を何年も着せられていた。洋服を自分で選んで着られなかった少女時代がうらめしい。
私が自分の意思で作った初めての洋服は『シャネル スーツ』だ。フランスのデザイナー、ココ・シャネルのデザインした上着とスカートのツー・ピースで、襟がなくスカート丈も短めで活動的、「女性が人形のようだった前時代的な生き方をファッションを通して否定する」というシャネルの主張がこの実用的で着やすく自由な服で表現された。そのころ、この服は、アメリカのウーマンリブ運動の勃発と重なり、アメリカ女性たちに圧倒的な支持を得た。テキサス州ダラスで凶弾に倒れたケネディ大統領、その傍らにいたジャクリーヌ夫人が着ていたのも、ピンクのシャネルスーツだった。
その後、ヨーロッパに逆輸入され世界的なファッションになった。日本にも流行ってきてフランス製でなくても、その型のスーツを総称してシャネルスーツというほどだった。私は貧乏学生で、家庭教師のバイトの小遣いでは、憧れのスーツに手がとどかない。成人式に着物なんか要らないといったら、『母はそういっても成人式にでるんだから、好きな洋服でもつくれば』とお金をくれた。私は、迷わずシャネルスーツをあつらえた。黄色いツイード地に茶色の淵飾りがついて、スカートは膝丈、袖丈もくるぶしより短く機能的で動きやすかった。相手は忘れたが、初デートのときも着ていった。
アメリカ在住のとき、赤と紫のツィードのシャネルスーツを買った。既製服なのに太った身体にぴったり合った。新品のスーツを着てさっそうと出かけたパーティ。な、なんと会場にまったく同じ服を着た女性がいた。七十代くらいの長身の美人でブロンドの髪に派手なスーツがよく似合っている。スーと血の気が引いた。相手も同じ思いだったろう。私たちは、申し合わせたように、距離を置き、互いに背を向けて立ち、視野に入らないようにしていた。かわいそうにスーツには何の罪もないのに、それからしばらくクローゼットで眠っていた。
15年ほど前、選挙に立候補したことがある。リーフレットやポスターに使う写真を六本木のスタジオオで撮った。私のためにと赤いスーツが用意されていた。スタイリストが髪を整え化粧をし、カメラの前に立った。彼はジャケットの襟が気に入らないという。「顔は変えられないが、服は自分で選べるのだから、『あなた』を表現し人間性を伝えることができる。襟ひとつでも、顔を駄目にもし、引き立てもする」と、ハサミでジョジョキと襟を切り落とした。あっというまに真っ赤なシャネルスーツに早変わり。彼のいうとおり、看板のポスターの私は素敵に写っていたが、選挙には落ちた。
まだ、人生が終ったわけではないから、性急すぎるかもしれないけれど、シャネルスーツは私の人生の勝負服だったように思う。もし、十年以内に逝くことになったら、ちょっと修整して葬儀用写真として使って欲しい。