橋下独裁にうひひひひ

 橋下は嫌いだけど公務員はもっと嫌い。区役所での職員の横柄な態度を思い出しただけでもむかむかする。いいか悪いかは別にして、今現在、公務員が悔しがってると思うとそれだけでうひひひひひ…と笑みがこぼれる。痛快だ。
 大阪市内に住んでいるが、橋下側の選挙カーが通るのを見たこと(聞いたこと)がない。平松側の選挙カーはよく通っていたし、近くで共産党が演説していたこともある。有名人の名前を列挙して、かなり嫌らしい感じの演説だった。ポストに投げ込まれていたビラも平松側のものばかり。橋下側のは1枚もなかった。それでも勝ったのだから面白い。

BLシンポジウム「JUNE小説を書く女性たち 〜「中島梓の小説道場」の時代」に行ってきた。

 連日のイベントで楽しい週末でした。
 野村史子(中野冬美)さんのインタビューがあり、家族のことややおい小説を書いた動機、リブ活動に入った動機など話されていた。野村さんにはお姉さんがいて、「姉ちゃん大好きだった」とのことで、お姉さんが行けなくなったリブの集会か何かに、お姉さんの代わりに行ったのがリブ活動に入るきっかけだったそう。
 中野冬美さんのことは直接少し知っているのだけど(やおいではなくもともとはフェミ方面で)この話を聞いて少し腑に落ちた思いがした。彼女は常に女性に全幅の信頼を置いており、女性への愛と信頼はゆるぎないものがあると私はつねづね思っていた。私はといえば、むしろ女嫌い。世代や運動の影響が大きいのだろうと思っていたけど、もともとの家族の影響もあるのかもしれないなとインタビューを聞いていて思った。
 フェミ方面から言わせればきっと、女が自分の性を嫌うことやそう仕向けられることへの気づきを、みたいな話になるのかもしれないが、私の場合、もしかしたらもっと単純な話なのかもしれない。要するに自分の姉(姉と呼ぶ気はすでにないが)が女の嫌らしさ指数100%であった。姉らしく妹を守ってくれることなどなく、むしろ自分が妹より男をひきつけることを喜び、「美人は得に決まってるやんか」などと臆面もなく言うような、人間としてちょっとアレな人であった。そして小学校で陰湿ないじめをするのはほとんどが女の子であったことも大きいかもしれない(見て見ぬふりをする男の子がいいとは言わないが、女の子の陰湿さはすさまじいものだった)。
 根っこの部分で合わないのも仕方ない気がする。まあ、合わなくても認めていたらいい話なのですが。フェミの人は「女嫌い」を認めないだろうけど。

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 あとの飲み会でSさんとMさんと話をしていて、最近の若い人はマンガもあまり読まない、買わない、持たない、という話になった。お二人はどちらもマンガの専門家で大学でも教えておられる。お家には膨大なコレクションがあるはず(と思う)。お二人によると、今の学生は皆、モノを持たないようになっているとのこと。私など最近、大量の荷物を抱えて生きるのがばからしくなり、発想を変えなければいけないと思っているのですが、若い人は最初からそういう感覚を持っているということですか?と聞いたら、モノを持つのは金持ちだけだと思っているのだとのこと。基本的にデジタルデータ。モノを持つのは金持ち、なんだとか。
 逆に年寄り連中はモノを手放したがるので、文学の全集とかやたらめったら安くなってるんだとか。
 一昔前はまんだらけヤフオクでけっこうな高値で売られていたものが、今ヤフオクで見たら普通の古本の値段。その頃2500円とかで見たものが今は100円だったり。断捨離(この言葉は嫌い)ブームのせいかねえ。

また小谷野さんにからまれた。

 なんで気になるんかなあ。バカにしてるならほっとけばいいのに。
 「そういうことが念頭に浮かばないのかなこういうことを書く人は」って、念頭にうかばんかったらわざわざ「日本は」って書くわけないじゃん。そういうことが念頭にうかばないのかなあ。
 「どこでも同じ」っていったい何人の日本人から聞いてきたことか…。最も抑圧的な言葉のひとつ。その悪しき平等主義こそがまさに日本的。

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(10月4日追記)私個人ではなく「こういう人は」なんて言い方、バカにしてなきゃできないじゃん? 取り繕う必要なし。それも2回目だし(前も確か「こういう人はいたるところにいる」と見下した言い方をしていた)。どこに「西洋人」「どこかに天国のような国がある」と書いてあるのかな。「どこでも一緒」「みんな大変なんだ愚痴を言うな」的なものいいは「日本に」あふれていて、心底うんざり。みんなもっと愚痴や文句を言えばいい。「日本人は」文句言いなさすぎ。

「セミナー 星野智幸さんをお招きして」に行ってきた。

 いい人だった。変な話、こんないい人でも作家ってできるのか、なんてアホなことを思った。いつも狭い業界を意識しながらものを書いているので、こういう場で作品を語り合ってもらえるのがとても嬉しい、というようなことを言われていたのが印象に残ってます。
 休憩時間に聞いた話なのでここに書いていいかどうかわかんないけど(別にプライベートなことでもないのでいいかと思う)、新人賞の選考委員をしているが、ある時、非正規雇用のことを扱った作品が集中したことがあり、自分としてはそれらを読んで、非正規のことを扱うのはいいが「手前」だなと思った。なのに他の人たちには評判が良くて、「手前」なのにな〜、でも、いいと思う人がいるってことはそれで意味があるのかもしれないしなー、と複雑な思いをした、とのこと。その場にいた研究者の方が「大学も同じです」と。

いじめ社会日本

ネットが暴いた記者クラブメディア暴言事件の顛末

強きを助け弱きをくじく大マスコミ
記者クラブの力をかさに社名・氏名を名乗らずに、前大臣にヤクザ言葉を浴びせる。ノンキャリ役人など人とも思っていないかのような口のきき方をする。
ところが相手が強大だとうって変わって下手に出る。これも大手メディア記者の特徴だ。福島第一原発の事故で東京電力の記者会見には多数の記者が詰めかけ、乱暴な言葉で質問を繰り返していた。ところが3月28日を境に社名と氏名を名乗らなくてはならなくなった。
その途端、別人のように記者たちの言葉が丁寧になった。東電を問い詰めるような質問さえ出なくなった。特に民放記者はおしなべて借りてきた猫に変身した。巨額の広告費を頂く東電の機嫌を損ねることは重罪に値するからだ。(略)
強者には揉み手ですり寄り、弱い立場の者、弱った相手はリンチも同然に叩く。これが記者クラブである。

 記者クラブが最悪なのはわかる。しっかしなあ…。これってそれほど異常なことかな。すごく、馴染みのある光景にも思えるんだけど。昔から、どこででも目にするような…。
 この「大マスコミ」の姿は、どうにも日本人の象徴という気がしてならないんですよね。いや、日本人って小学生でもわりとこういう社会ですよ、じっさい。DNAから染み付いたかのようないじめ社会。いい人もいるでしょうが、そういう人もいじめを傍観してるだけ。出る杭は打たれるから、見て見ぬふりをするしかない(この記事の中でも「フリーが出禁になるから余計なこと言うな」と同じフリー記者から怒られたというし)。
 しかも、いじめがあった場合、いじめられた方に非がある、と言っちゃうんですよね、この社会は。「そりゃこういう性格だからいじめられて当然だわ」とか「それじゃどこに行ってもいじめられるわ」などと、いじめの被害者の方を追い詰める。いじめられた子供がどういう性格であっても、どんな場合でも、いじめは悪で、いじめた方が悪いのだ。そういう正義がない社会。またこの「いじめ」が陰湿というのも特徴…。
 「日本人は本当に優秀ですよ」と強調する知人がいました。日本人って誰のこと? 日本民族のこと?(日本民族の定義は?) それとも日本国籍を持つ人のこと? 誰よそれ、と突っ込みを入れたかったけど、友人の集まる友好的な場で、しかも酒が入って気持ちよく話している人に、そんなこと言っちゃだめだ、と思ってしまった(こういう気の使い方をしないといけないから、私は酔っ払いが嫌いだし、酒の席じたいあまり好きじゃないのだ)。
 もしかしてハイエンドの知性(誰のことか知らないけど)を見て言ってたのかもしれないけど、東京大学の教授が「プルトニウムは飲んでも大丈夫」って言う国ですよ。そういう人を排除できない国なんですよ…。
 「強者には揉み手ですり寄り、弱い立場の者、弱った相手はリンチも同然に叩く」 どう考えても、私の周りではこういう人の方が社会的に成功してるし、幸せにやってるよ(実際大マスコミ社員は高級取りの社会的勝者だ)。これをどう考えるか。もう、宗教しかないでほんま。

ブルーグラスは日本人好み

 何週間か前、ピーター・バラカンのラジオで「ビル・モンロー生誕100周年記念特集」という、お勉強好きなこの番組らしい特集をやっていた。その中で、ピーター・バラカンとゲストのブルーグラス雑誌編集長の人が言うには、ブルーグラスは日本人には人気があるのだそうだ。ブルーグラスという音楽ジャンルの小ささに比べて、日本ではブルーグラスのバンドが妙に多い。それはなぜかというと、そのミソは「楽器の技術の追い求め」にあるのではないかと。「めちゃくちゃ早い」とか「あと一歩でプログレ」であるとか。バラカン氏によると、「日本人はプログレも好きだけど、やっぱりあの、技の細かさが好きな人が多いという印象がある」。
 学生の時、知り合いでブルーグラスをやってる人がいた。楽器はバンジョー。その頃私はブルーグラスなんてほとんど聞いたこともなくて、なぜいまこの日本においてブルーグラス?と、すごく訝しく(?)思ったのを覚えている。カントリーならみんな知ってるしまだわかるけど、なんでブルーグラス?と。カントリーよりもうひとつディープなアメリカの心、としかその時はとらえていなかったのだ。それを日本人がマネしてどないなるねん、と、口には出さなかったけど思ってた。それをいえばロックだって同じだが、ロックはもっと混血度が高いし、グローバル化の度合いが比較にならない。
 その時はその子はきっと「人と違うものがしたい」「ルーツミュージックが通っぽくてかっこいい」ぐらいの理由でブルーグラスなんだろうかね?ぐらいに勝手に思っていた。私淑しやすい人だったから、上の世代の誰かに師事して、というのもあったみたいだし。
 「技の細かさ」か、なるほどなあ…。長年の謎(というほどでもない)が解けたよ。バラカンさんありがとう。プログレというより、ヘビメタやハードロックを日本人が好む心と似てるような気がする。ヘビメタの人も見かけと違ってすごく礼儀正しかったりして、まじめで練習ばっかりしていたというし。なんとか奏法、とか細かい技をマスターすることに燃えるし。
 ルーツミュージックといえば、ブルースも日本人で好きな人が多いけれど、これは落語好きとも似てる気がする。実際、ブルース好きと落語好きが重なる人も多いし。もうひとつ言えば、ジャズ好きとプロレス好きが重なる人も多いのだ(オジサン以上の年齢の人になるけど)。ミソは「技の細かさ」だと思えば、すべてがすっと理解できる。