Hatena::ブログ(Diary)

色は匂えど半覚斎

2012-06-03

「勝利の方程式(笑)」

08:28

仏法は勝負である」と日蓮は言った、と私は聞かされた。まだそのあたりをうろうろしているのであれば、哀れな話だ。そこまで力まなくとも仏法にはそもそも勝負するに足る相手はないのだから。

「あなたの神であるエホバの名を覚えなさい」と言う、見知らぬ中年女性がふたり訪ねてきた。確信はあるのか。どうもそうは思えぬ話しぶりだった。もし確信を持っているのだったら追い返すのだが。…ところで私は半覚斎。エホバ君というと、どこの生まれかな?

憑依霊

08:06

憑依するものは、何らかの利得を与えるという形で近寄ってくる。狐であろうと狸であろうと…。その甘言に眼が眩み、場合によってはそれに感謝し、それを崇め、それを祀ったりもする。憑依するものは獣だけではない。人もあるのだ。親切を装い、手を貸す素振りをしながら相手の弱みにつけ込んでくる。始末が悪いのは、それが騙す目的ではないことだ。憑依するのは、相手の心に入り込むことであって、その思想・行動を都合よく支配すること。
人の姿をした生霊ほど、たちの悪いものはない。死霊によるコントロールは多くの場合限定的なものであるが、生霊はその本来の他者の姿を顕わしながら、つまり社会性を維持しつつ憑依してくるので、憑依された当人ばかりか周囲までもが感化される。
憑依とは、低級な霊によって支配されることだ。憑依する対象に拠り所を求め、もたれかかることである。寄生である。それが低級な霊であるが故に、支配の仕方は、いかにもみみっちく、醜悪なものでありながら、それほどだいそれたことができない。それでいてしつこい。
獣の霊であれば、その本性を注意深く隠さなければ、ただちに馬脚をあらわすことになるが、これが人の、しかも生霊の場合、取り付かれた側にも、その周囲にも、これを責めることはむずかしい。いくら理詰めで諭そうが、すでに憑依され、その支配下にある者を翻意させることはできない。逆にますます憑依したものを頑なに守ろうとすることになるだけだ。たとえそれをうまく追い出したとしても、そこには精神の空洞が残る。あたかも別の憑依を希求するかの如き状態に陥る。ひどいときには、そこを目指して何体もの霊が入り込む。ただそこに安住の地たる宿主を求めるだけの、ほとんど霊力も持たぬものが、わさわさと同居していたりする。多くの場合それらは死霊である。死霊の意識は過去に拘泥しているので、生霊のように宿主を都合よく利用する支配はできない。安住が脅かされる場合に限り、抵抗を示す程度である。ただ他の霊の動向には敏感で、人の死期を予言したりする。

「霊について」で書いたように、すでに「霊」という概念が存在する以上、それは存在しないなどと言ってみても、存在を否定したことにはならないのだ。せいぜい「それはあるが、ここにはない」程度の半端なものになってしまうからだ。だったらここまで言ってしまえ、というのがこれを書いている動機。書き始めてどうしようもない嫌な気分になった。特に前半の「生霊」。こういう事例はいくつでも見られるものではないか。たとえば「愛」だの「善意」だのと、小奇麗に飾った言葉で表わされること。それこそが憑依の実体ではないのか。

如来寿量品の意味

06:34

聖徳太子以来の法華経解釈の誤りを正そう。

「今は永遠に今である。」

これが如来寿量品の意味だ。

2012-06-02

「幸福」

07:41

絶対の「幸福」というものはあるか。「不幸」の存在なしの「幸福」はあるか。「不幸」がすべて消え去ったなら、それは「幸福」か。

2012-05-29

霊について

06:35

仏教では(真正の仏教には)、霊(あるいは霊魂)について一切の言及はない。それは仏教の教義上、全く関わりのないものだからである。「釈迦霊魂の存在を否定した」という解説を、いつかどこかで読んだことがあるが、これには疑問が残る。否定するということは、その存在を認めることになるから…。だがもし「釈迦霊魂の存在を否定しなかった」と書けば、話はもっとひどいことになる。…言っていることの意味がわかるだろうか。
釈迦霊魂の存在を否定した」のであれば、釈迦は「霊魂」という言葉の具体的なイメージを持っていたのだ。これが「無記(回答せずに捨て置くこと)」であったなら問題はない。…半覚斎ならもっと面白いことを書くだろうという期待にそぐえぬことは残念ではあるが、前回の文章の下に「除霊」がどうとかの案内があって、見てみると塩を身体にかけて熱めの湯に浸れとか書かれているので…。実は半覚斎、除霊ということを考えていた。それは大雑把に言えばこういうことだ。「霊とは実体がなく影響を及ぼすもの」であるとして、それは「形になり得なかった想念」なのか「形を失った想念」なのか。…ね、「霊」という言葉があって、それを知っている以上、それは存在(形があろうと無かろうと)する。それがたとえ存在しようとしなかろうと、それは仏教(真正の仏教)にとって、何の関係もないこと。仏教はそういうことを説く教えではない。…だから「霊」があるとか無いとかはどうでもいい、というよりそういう言葉がある以上「霊」はないと言ってみたところで、上記の釈迦の答えのように、すでに「霊」という概念はあるのだから、だったらあっさり認めたほうが面倒がない、と…。
じゃ、それをどう扱うか。…あくまで「人」としてね、仏教には関係のないことなのだから。では「人」としてそれにどう対処すべきか考えていた。ま、ここでは今は詳しくは書かないけど。

2012-05-26

07:10

そこに何を見たいのか。そこに何が見えてしまうのか。

2012-05-20

「愛」あるいは…

03:51

「閑時種」に「愛」に関する文章を書き始め、もうそろそろここまで、と思ったときに急に排便欲求を感じた。「うんこ」に関する諸々を書き連ね、最後に「うんこ」という言葉を「愛」に変換すれば、それはそれで十分「愛」を語ったことになるような「ひらめき」があったが、ま、その試みは今はやめておこう。

所願皆是妄想也

17:03

正しからざる想念を妄想という。この場合の正しいとは、例の「人として」というやつ。…「人の道」だね。
もうひとつの解釈がある。合理的根拠に基づかざる想念が妄想である。こちらには「正しい・正しくない」というような主観は入ってこない。あくまで論理的法則性に適合するものか否か、それだけである。

「所願は皆これ妄想なり」…こう言い切ってしまうとき、そこにどういうイメージを浮かべるか。ストイックな「人の道」か。
「浮かべる」…「浮かぶ」…「生ずる」とは浮かぶこと。生ずるより以前にそれはあるのか。生じたなら、それはあるのか。
「浮かぶ」とは水面に顕われること。

大きな枠組みで言うなら、仏教は「拝火教」との対立姿勢を無意識的に内包している。