イーヴリン・ウォー 『ブライヅヘッドふたたび』

『ブライヅヘッドふたたび』(吉田健一訳、ちくま文庫1990)
『回想のブライズヘッド(上下巻)』(小野寺健訳、岩波文庫2009)

Evelyn Waugh Brideshead Revisited (1945)

あの素晴しい愛をもう一度

 いきなり唐突だけど、「あの素晴しい愛をもう一度」という歌を知っているだろうか。僕はどこでこの曲を知ったのだろう…たぶん、中学校の音楽の授業で歌ったか、きっとそんなきっかけだったのではないかと思う。今でもメロディーをしっかり覚えているくらいだからとても印象的な曲だし、実際、かなり多くの人によく知られていて、日本の歌謡曲では名曲の一つだろう。

命かけてと誓った日から
素敵な思い出残してきたのに
あの時同じ花を見て
美しいと言った二人の
心と心が今はもう通わない
あの素晴しい愛をもう一度
(作詞:北山修、作曲:加藤和彦

 しかし、この歌詞がしみじみと感じられるようになったというのは、僕も年を取ってきたということではないか。少なくとも過去にこういう経験をある程度していないと、この歌詞の味わいは心に響かない。だから中学生では絶対にわからない。学校で歌わされたのは教師たちの感傷に依存するところが大だと思う。

 二十世紀のイギリス文学を代表する作家を挙げろと言われたら、イーヴリン・ウォーは絶対に欠かせない一人だ。また今回、岩波文庫から新訳が発売になったことをきっかけに読み返した『ブライヅヘッドふたたび』は、ウォーの代表作であるばかりではなく、僕自身としては、二十世紀を代表するイギリス小説のひとつだと思っている。表面的には20年代や30年代のイギリス上流階級の豪奢な暮らしぶりが描かれている小説だ。でも明らかにこの本は、第一次世界大戦から第二次世界大戦にかけての大きな時代潮流の変化、いやもっと広く言えば、二十世紀以前から連綿と続いた「古き良き時代」が終わり、大きく変化している時代の様子を、ブライヅヘッドというカントリーハウスを通して象徴的に描き出したもの。

 ここで「暴論」との批判を十分覚悟した上で言えば、僕は『ブライヅヘッドふたたび』が「あの素晴しい愛をもう一度」の曲のイメージみたいだなと感じている。小説の主人公チャールズ・ライダーは(そして作者のウォーもきっと)、失われつつある「古き良き時代」にノスタルジーを感じ、新しい世代の到来を素直になれない気持ちで眺めている。僕がこの小説とこの曲が似ているというのは、例えば、チャールズとセバスチャンとかチャールズとジューリアの愛情が失われたことがこの曲の歌詞の内容とシンクロしているとか、そういう具体的なことで言っているわけではない。ノスタルジー溢れるこの小説全体のテイストが、「この素晴しい愛をもう一度」のイメージと似通っているということだ。ウォーの作品にしては残酷なブラックさのほとんどない素直な内容、そして耽美的とも言えるくらい美しく描かれた小説であることも(人によっては少々甘ったるいと思うだろう)、聴きやすく耳に残る美しいメロディーを持つ「この素晴しい…」と共通した印象を残しているのかもしれない。

タイセイ老いる

 しかし、この本が今の僕にとてもしみじみと心にしみわたるのには理由がある。イギリスを代表する小説だからとか、そういう世の中の評価とは全く関係がない。それはうまく伝えづらいことがらだけど、「時間」ととても関係がある。

 ここでいったん話は変わるが、僕が世の中で一番愛着を感じている小説は今でもトーマス・マンの『魔の山』で変わらない。この本に出会ったのは二十歳の頃。主人公のハンス・カストルプ(色白でほっそりとした華奢な青年)は二十歳代はじめと設定されていて、僕とほぼ同い年だった。ハンスはこの本のサナトリウムであれやこれやの七年間を過ごし、そして第一次大戦に参加して戦死してしまう。僕もまた折々にこの小説を読み返すことで、ハンスとそのままいっしょに年を取っていくことになった(ハンスは本の中で、僕は実人生で)。

 そして…いつの間にか僕のほうは三十歳代を迎えて、ハンスよりも長生きしてしまった。僕自身もまた細身で色白だったのに、どんなに注意していても、だんだん年齢相応の外見に変化しつつあることは認めざるをえない。ともあれ、かけがえのない二十歳代の時間の多くを『魔の山』と、とくにハンス・カストルプと(精神的に)一緒に過ごしたわけなのだから、今でもこの小説には分かちがたいものを感じている。愛情と言ってもいい。

 一方、『ブライヅヘッドふたたび』もまた、大学生の頃に出会い、読み始めた一冊だ。大学生活が描かれていることからもわかるとおり、主人公のチャールズ・ライダーもまた僕と同じく二十歳くらいだった。でも、この小説は後年になってライダーが過去を回想するという形式で描かれているから、同じ年頃ではあっても『魔の山』のハンスに対するときのように、チャールズ・ライダーに友人のような親近感を覚えることはなかった。三十歳代後半のオジサンに二十歳そこそこの僕がなんらかの共感や友情を覚えるはずがない。

 しかしそれから十五年が経過。今や、この僕自身が三十歳代後半を迎えている。チャールズ・ライダーはずっと年上だと思っていたのに、いつの間にか、僕自身がライダーと同年代になってしまった。するととても不思議なことに、チャールズの感じたり考えたりする気持ちに、妙に親近感を覚えるようになってきたのだ。それは要するにまあノスタルジーなのだけど。その証拠に、以前までは『ブライヅヘッドふたたび』を読んでもそれほどの深みを感じなかったが、今回はちくま文庫版も岩波版もそれぞれ二回ずつ読み、それでも飽きてしまうということがなかった。これまでこの小説のカトリック信仰に関する部分は、なんだか面倒なことが書いてあるなあ、くらいの感想だったが、今回は興味深く読めたと思う。

 ときどき、「つまらないと思っていた本も、時間が経てばおもしろいと感じるようになる」といった説明の類を見かけるけど、僕のこの『ブライヅヘッドふたたび』のような経験を踏まえると、これはあながち間違いではないのかもしれない。読書にも「時間」が重要な役割を果たしているのがわかる。だからこそ、ほんとにみんな若いうちからいろいろ本を読んでおいたほうがいいよ、と忠告したくなる。こんなことを感じるなんて、僕も本当にオジサンになったものだ――あの素晴しい世界をもう一度。

メルヴィン・ブラッグ『英語の冒険』

(三川基好訳、講談社学術文庫2008)
Melvyn Bragg The Adventure of English: The Biography of a Language (2003)

退屈な文学史

 どの大学に入学したとしても、イギリス文学を専攻すると、イギリス文学史が必修科目になるのだろうと想像する。これは、最終的に個別の作家や特定の作品を研究することになるにしても、せめて全体を俯瞰する視野くらいは最低限身につけてほしいという教育サイドの意図なのだろう。これはこれでよい。

 問題は、その「イギリス文学史」の授業が往々にしてつまらない、刺激に欠ける内容になってしまっていないか、という点だ。自分の母校を悪く言うつもりはないのだけれど、僕の学んだ英文学史の授業は、残念ながら、かなり退屈だったと思う。ベオウルフ、チョーサー、シェイクスピア、ミルトン、スウィフト…何回も耳にする名前だから、きっと重要なのだろう。でも、なんだか興味が沸いてこない。朝の一限という、夜型学生にはつらい時間割に加えて、出席のチェックがあった。さらに、日本語の「イギリス文学史」なる教科書に加えて5冊組のアンソロジー(これまた1冊ごとがやたらに分厚くて重い)まで持参することが求められていたから、こういう環境的な要因からも、授業に対してやる気まんまんという気分にはなれなかった。

 でも、やっぱり授業の中身に問題があったと思う。理想的な文学史の授業というのは紹介された作品を「ぜひとも読んでみたい」と思わせるようなものだろう。ところが、『ベオウルフ』なんてちっとも読みたいと思わなかったし(これが本当に英語か!?という綴りや語彙の問題)、『カンタベリー物語』もなんだか少々エッチな話らしい、くらいの認識で通過(こういう面が読書の積極的な動機になる人も、いることはいる)。シェイクスピアについては、事前に入手した「過去問」によると、「英語で作品名を5個記せ」とか戯曲を「書かれた順に分類せよ」とか、そういう愚問対策ができればOKのようなので、だったらべつに授業に参加するまでもない。

 実際のところ、ある本を読んでみたいと感じられるようになる理由は様々にあると思う。これを読めばあなたは間違いなく大金持ちになれますと宣言されれば、じゃあ読んでみよう、と思うかもしれない。好きな人が愛読している本があると知れば、それなら僕もぜひ、と思うかもしれない。でも一番反応が良いのは、実は単純なことで、その本を心から褒めてくれることではないだろうか。

ティンダルの文章はいくらほめたたえても十分ではないほどだ。すばらしいリズム感、簡潔な表現、その水晶のように透明な言葉は、今日世界のどこで使われている英語であろうと、その土台に深く浸透している。(p.167)

 こんなふうに褒めてあったら、思わず、「どんな言葉で書かれているだろう」と確かめたくなってしまうではないか。実際のところティンダル英訳の聖書を読むのは僕にとってはかなり大変だとしても。ということで、理想的なイギリス文学史の授業は、極端に言えば、作品を歴史順にひたすら絶賛していけばよいわけだ。もちろん、効果的な褒め言葉というのは連発せず、出し惜しみしなくてはならないのだが、それはまた別の問題。

命懸けの冒険

 メルヴィン・ブラッグのこの本は、そのタイトルの語るとおり『英語の冒険』であって、『イギリス文学の冒険』ではない。だから、この本が取り扱うのは、正確には「文学史」ではなくて「英語史」なのだけど、でも英米文学史のテキストとして十分に使えると思う。まあ確かに現実的には、これを教科書にしましょうというのは難しいかもしれないが、せめて副読本くらいに使ったほうがよい。もし僕がこの本を一度読み、その上で母校の「英文学史」の授業を受けていたら(もちろん「英語史」の授業でも)、きっと参加意欲は全く違っていただろうと思う。そのくらい興味深く、面白く読める一冊だ。例の、問題のチョーサーだって、こういうふうにわかりやすく褒められている。

チョーサーがしたことでもっともすばらしいのは、それぞれの物語とその語り手に合わせて言葉を選び、形作ったことだ。どんな言葉を使うかによって人物の持つ雰囲気を表わし、人物に肉付けするのは、現代の作家なら当然のことだ。だからチョーサーのしたことがどれほど驚嘆すべきものであったかを理解するのはむずかしいかもしれない。(p.119)

 メルヴィン・ブラッグによるこの本のすぐれた点のひとつに、この引用でも見られるが、現代人から見たときの視点を忘れていないということがある。僕たちのような普通の読者からすればどう感じられるかという立場を忘れずに書いている。上の場合、イギリス文学史に精通している専門家ならば、「チョーサーのしたこと」は素直に驚嘆できるのだろう。でもあえて、ブラッグは「むずかしいかもしれない」と率直に認めている点が僕はいいと思う。

 ところで、『英語の冒険』の中で一番読み応えのある部分は、聖書の英訳に多くの人の生命が失われたという経緯なのだけれど、これもまた現代からの視点をふまえて考えないと、英訳ということの重大さが理解できない。聖書をラテン語から英語にするだけのことなのに、これがいかに命懸けで、大変に無謀な企て(「みずから銃口の前に進み出たのと同じこと」p.135)であったのか。聖書を英訳した有名な二人、ウィクリフとティンダルの例を挙げれば、当時の教会はウィクリフ憎しの一念で、既に埋葬されていた彼の墓をあばき、骨を取り出し、それを焼いて灰は川にまいたのだった。ティンダルもまた合法的な英訳聖書が前年に完成していたにもかかわらず、絞首刑に処され、その遺体は火刑柱で焼かれたのだった。

 この本の中では他にも、英語の方言やバリエーションがいつから「上流階級」や「下層階級」なるものを示すようになったのかという点もおもしろい。また、アメリカ大陸をはじめ、西インド諸島、インド、オーストラリアなど、世界中に広がった英語の経緯も興味深い(西インド諸島の英語について説明された一章でジャマイカの女流詩人、ミス・ルウによる詩「規則は殺す」が紹介されるが、これがまた素晴らしい)。

 最後に、この本とは関係ないがついでに言えば、メルヴィン・ブラッグは小説家なのだから、彼の小説のほうもいずれは翻訳されればいいと思う。The Soldier's Return(1999)とか、ちょっと読んでみたい。

 いったい何をしていたのか。

 すっかりご無沙汰になってしまっていた、かわいそうなこのブログ。今年はなかなか更新されず、書き手はいったい何をしていたのだろう。

 読書なしでは生きていけないので、いつも何かしらの本を読んでいるのは間違いないけど、どうもブログに書いてまとめるまでには至らなかったらしい。ということで、最近は一冊の本を長々とまとめる元気がわいてこないので、この秋以降に読んでいたものをただ羅列していってみるつもり。ちょっとなげやりだけど、これが2008年の総集編。タイセイブログ版、「今年を振り返って」の巻。

新井潤美さんの新書四部作

 実際には、ブログにまとめてみようと思って、パソコンの前に座るところまで進んだ本が何冊かあった。例えば、新井潤美さんの新書シリーズ。きっかけは自負と偏見のイギリス文化 J・オースティンの世界』岩波書店岩波新書、2008年)が発売されたので読んでみたことから始まった。新井さんは岩波文庫から『ジェイン・オースティンの手紙』を出している先生でもあるので、この新書はそうした手紙類から敷衍したオースティンについてのあれやこれやが説明されている、といったところ。だから、小説自体について述べられている部分は、別段目新しいことがあるわけではない。でも、この著者が本筋から脱線し始めるとなかなかおもしろくなってくる。つまり、オースティンの小説自体ではなくて、その小説から読み取れる当時の社会事情とか、現代におけるオースティンの受容とかが語られると、なんだか内容が「本領発揮」みたいな感じになってくる。

 このわけは、続いて読んだ『へそ曲がりの大英帝国平凡社平凡社新書、2008年)で納得した。新井さんはイギリスで育ったということもあって、やっぱり現代のイギリス文化・イギリス事情について書かかせると、俄然説得力が出て読みごたえがある。ついでだから、『階級にとりつかれた人びと 英国ミドル・クラスの生活と意見』中央公論新社中公新書、2001)と『不機嫌なメアリー・ポピンズ イギリス小説と映画から読む「階級」』平凡社平凡社新書、2005)も読んだ。案の定、おもしろかった。というのも、私たちには必ずしも判然としないこんなことを、自信を持って聞き分ける耳を持つ著者だからだ。以下は、映画版の『ブリジット・ジョーンズの日記』で俳優たちが演じる英語の微妙な違いについて述べた部分:

テキサス出身の女優レネー・ゼルウィガーは、この映画のためにイギリス英語の特訓を受けたのであるが、彼女の英語がじつにうまくブリジットの階級をあらわしている。同じミドル・クラスでも、ダーシーを演じるコリン・ファースや、悪役ダニエルを演じるヒュー・グラントがまぎれもないアッパー・クラスのアクセントを用いるのに対して、ブリジッドの英語にはロウアー・ミドル・クラス/ミドル・ミドル・クラスの微妙な訛りを聞くことができる。(『不機嫌なメアリー・ポピンズ』p.55)

 もし僕が大学のイギリス文学の先生だったら、これからイギリスの近現代文学を勉強しようとする学生には、春休みにでも、「この四冊を全部読んでこい」と宿題を出すだろう。ちょっと「階級」ということにこだわりすぎることになってしまうかもしれないけど、イギリス人の生活の一側面を知るにはとても良いイントロダクションになると思うし、すでにイギリスの小説にあれこれ親しんだ人にとっても、これらの新書はかなり示唆に富んでいる。そしてもちろん、四冊全部まとめて読んだほうが、著者の主張について体系的な理解ができる(これはつまり、同じことが何度も繰り返し述べられている、ということだけど)。

その他のイギリス文学

 今年2008年は、僕自身の中ではヘンリー・ジェイムズ・イヤーだった。読んだのは『大使たち』(青木次生訳、岩波文庫)、『黄金の盃』(青木次生訳、講談社学芸文庫)、『ある婦人の肖像』(行方昭夫訳、岩波文庫)の三篇。なんだか最近はジェイムズのような、こういうふうにとても歯ごたえのあるような小説じゃないと「ああ、満足した」という気にならない。『鳩の翼』(青木次生訳、講談社学芸文庫)も手元に用意したけど、これを読み終えてしまうと、もう読むものがなくなってしまう…そう思うと読み始められないでいる。しかし、こんなふうに文学中の文学とも言える作品を気軽な文庫本で読めるなんて幸せだなあと実感する。

 ところで、ヘンリー・ジェイムズの良さって何?と質問されたら、僕は、その「読みづらさ」だと思う。読者の興味をひきつけて、ページをめくらせるためだけに、明快にわかりやすく次々と出来事が起こっていくような、そんな小説はなんだか読む気があまりしない。もちろんジェイムズの小説だって「このあと、いったいどうなるのだろう?」という興味で読み進めていくのだけど、ジェイムズが書き表した言葉の表面をなぞるだけではなくて、あえて明確に書かないことや、暗示的に示されるだけのことを「解読」していくおもしろさがある。極端に言えば、一語一語について気を抜いて読むことができない。だから「流して読む」ということができないわけで、ある意味疲れる読書ではあるけど、読み終わったときの充足感はそこらへんの本では得られないものがある。

 こういうふうな読書の楽しみを満喫しているから、その一方でなんとも不幸なことに、その他のイギリス小説が大変軽薄に感じられてしまうという問題も生じている。最近、エリザベス・ギャスケル『女だけの町(クランフォード)』小池滋訳、岩波文庫)を読んだけど、あまりにあっさりしすぎている内容だったので、ちょっと残念だった。確かに普通におもしろい小説なので時間つぶしに読むにはいいけど、読書の醍醐味としてはちょっと該当しない。ただ、上で書いた新井さんの述べるようなイギリスの「階級」を、文学を通して実地で調べてみるという点では、この作品はおもしろい題材になるとは思う。階級がひとつのキーワードとも言える小説だったから。とはいえ、ギャスケル夫人はオースティンの後継者的な位置づけにあることもあるけど、しかしこの『クランフォード』を読む限りでは、まだまだ及びませんな、という感じ。

 あと、本来このブログの中心分野だったイギリスの戦後小説については、このところあまり読んでいないので残念ながら書くことがない。2008年一年間を通して振り返ると、1月に読んだグレアム・スウィフト『ウォーターランド』と3月に読んだイアン・マキューアン『贖罪』が一番良い読書経験だったと思う。どちらも「歴史」にかかわる小説なのが興味深いところ。これはきっと僕の好みを多分に反映している。

塩野七生ばんざい!

 ヘンリー・ジェイムズはあらかた読み終わり、近現代のイギリス小説とも最近は疎遠…じゃあ、最近の僕はいったい何を読んでいるのか。それは…そう、やっぱり「歴史」もの、とくに塩野七生さんの作品のあれやこれやについて。今年の10月くらいからは、一昨年完結したローマ人の物語シリーズ全十五巻(新潮社)を最初から最後まで読み返した。何度読んでもおもしろい。その後、イタリア遺聞新潮文庫)、ルネサンスとは何であったのか』新潮文庫)を読み、ますます塩野作品から離れられなくなった。そしてこんな具合であれこれ読みかさねるうちに、僕は気がついたのだった…ヴェネツィア共和国一千年の歴史について書かれた『海の都の物語』(中公文庫)を読まなくては、塩野七生を「読んだ」などとは全く言えないことを。今でこそ『ローマ人の物語』が彼女の代表作だが、このシリーズが発売になる前は『海の都の物語』こそが彼女の代表作だったのだ。

 しかしそれにしても、ヴェネツィアというのは、何と興味深い歴史をもっていることか! 僕はゴンドラの街としてしか知らなかったのだが、あの街の起源は、ローマ帝国末期の蛮族進入から始まるのだという。つまり、追い詰められた人びとは海の干潟に逃げこむしかなかったのだ。そして、共和国、つまり世襲君主のいない政治体制が建国以来ずっと続いていたことも注目に値する。さらに、狭い国土と人口なのに、オリエントとヨーロッパを結ぶ海運・商業で目覚しい繁栄を遂げたこともますます興味深い。商人たちが、このヴェネツィアという都市国家をあたかもひとつの企業を経営するかのように統治していたのだった。『海の都の物語』について言えば、塩野七生の作品にふさわしく、ヴェネツィアを中心に語りながらも、周辺領域への言及・配慮(たとえば、この本を読めば、ジェノバやピサといった他の海運国家の状況や、アラビア世界の動きも一緒に理解することができる)にも事欠かないし、当時の船(ガレー船)がどのようなもので、いかに航行していたのかというようなディテールもちゃんと説明が行き届いている。

 そして、2008年も年末の12月21日、塩野七生の最新刊『ローマ亡き後の地中海世界(上)』(新潮社)が発売になった。回教徒の海賊がいかに中世のヨーロッパに影響を与えたか、という内容だ。中世の地中海を語るにあたり、ヴェネツィアを語らないわけにはいかないから、そういう点でもこの本が発売される前に『海の都の物語』を読んでおいてよかったと思う。ところで『ローマ亡き…』の中で一番印象的だったのは、内容もとても良かったけれど、実は巻末のカラー写真だった。海賊の来襲を見張るための塔がいまでもイタリア各地に残っていて、その写真を集めたものなのだが、しかし、僕はそこに映し出されていたイタリアの海岸の美しさに目を奪われた。陰鬱な中世の歴史と、この写真の美しさ・鮮やかさとのコントラストがとても印象に残る。というか、イタリアにとても行きたくなった。

今後の見通し

 来年は…まあ、簡単にいえば、あまり期待しないでください、と書くしかない。きっと書きたくなったらまた一生懸命書くでしょう。「この本を読んだ印象をぜひとも書き残したい!」という衝動に近いものがないとダメなわけだ。「ぜひとも」と思わせるような本があるかどうかにもかかっているし、もちろん、パソコンの前で長々と座って、パチパチとキーボードを叩いていられるかどうか、僕の忍耐力にもかかっている。

 リック・ゲコスキー 『トールキンのガウン』

(高宮利行訳、早川書房2008)

 現在、僕の本棚には何冊の本があるのだろう。数えてみたことがないからわからない。たぶん、「本好き」を称する人間としてはあまり多くないのではないかと思う。興味のない本は買わないし、買ったとしてもやがてブックオフに持っていってしまうから。だから、手許に残しているものは容易に手放したいとは思わない大切に感じられるものばかり。

 部屋の中で山積みになっている本の中には、少し貴重と思われるものも混ざっている。ところで、僕が集めているのは「20世紀」の「イギリス」の「小説」で、日本語に翻訳され出版されたもの、という規準。もちろん、小説ならなんでもいいというわけではなくて、僕なりに読む価値があると思う作家・作品に限られる。だから、「貴重」とはいっても僕と同じような嗜好の人にとってしか価値はない。それでも、アマゾンの古書部門にも、各種古本サイトにもまったく在庫が表示されないような本をいくつか持っているのが、僕のささやかな自慢ではある。(もちろん中身もちゃんと読んでいます。)

 逆に、確かに翻訳されて出版されてはいるけど、どうしても入手できない本もある。あの作家のあの本とか…どうすれば手に入るのだろう。具体的な例を挙げると、今年になって復刊してしまったので古書としての価値はなくなったが、それまではドリス・レッシングの『黄金のノート』はどこを探してもずっと見つからなかったものだ。(一度だけ、わずかな期間だけ在庫が表示されていたが、まもなく売り切れになってしまったということがあった。)こんふうにインターネットで調べても全く在庫なしの本が、もし一冊だけ自分の手に入ることになったら、いくらまでお金を出すだろうか。何万円と言われても、バカらしいと思わず真剣に考えてみたくなってしまうとしたら、僕同様あなたもまた十分にコレクターの資質があるということになる。

 おかげさまで僕の蒐集している分野はあくまでも翻訳本なので、原著者のサイン入りなどというものは(たぶん、ほとんど)存在しない。そもそも内容を読むことが購入する狙いなので、本の美的状態にもあまり考慮したことがない。同じ値段ならばきれいなもののほうがいいけど、高い金を払ってまで極美品を買う必要はないと感じている。どんなものでも読めば一緒なのだから。しかし、世の中には初版本や有名な作者のサイン入り献辞の入った本をこの上なく貴重なものとして取り扱う人もいる。ましてや、献辞の送り先がこれまたこんな著名人だったりしたら:

グレアム・グリーン様、ウラジーミル・ナボコフより、1959年11月18日」

 このような献辞とナボコフが自分で描いた蝶の付けられた『ロリータ』は(ナボコフは蝶集めが趣味)、2002年のクリスティーズのオークションで26万4千ドル(約2700万円)の値がついたのだ。リック・ゲコスキーの『トールキンのガウン』は、20世紀英米文学のこのような稀覯本の四方山話をディーラーたる著者が書いたもの。この『ロリータ』についての経緯も本書に紹介されている。

* * *

 しかし、どういう本がいくらくらいの金額で売れたかという点よりも、この作者ゲコスキーが著名な作家たちと接するエピソードがとても興味深いし面白い。グレアム・グリーンから手に入れたイーヴリン・ウォーの献辞付き『ブライズヘッドふたたび』が、グリーンから買い入れた値段よりも大幅に高く売れそうになってしまったときのこと。ゲコスキーは本が売れたら追加した金額の入った小切手を送りますと電話でグリーンに申し出た。以下はその場面の引用:

「心配御無用」と彼〔グリーン〕は言った。「あの価格で折り合ったのは、自分が得る金額で満足したからだ。君がそれ以上の金額で売れるというのなら、それは君にとって大変結構なことじゃないか」
 なんて世才にたけて、寛大で、賢明なことか。(p.164)

 こんなふうにして、グレアム・グリーンの実際の人柄の一端に読者もまた触れることができる。また、ウィリアム・ゴールディングの人柄もまたとても興味深い。『蝿の王』で有名なこの作家も、ノーベル賞を受賞したからといって君子のような人物ではなく、ゲコスキーからすれば「横柄な」とか「反抗的で辛辣な」といった形容詞で表現されるわけだ。ところで、このゴールディングの章にはE.M.フォースターが『蝿の王』について語った言葉が引用されているが、個人的にはこれがとても印象的だった(僕自身がフォースター賛美者であるせいでもあるけど)。気に入ったので、思わず引用してしまう:

 「ラルフを支持し、ピギーを敬い、ジャックを制御し、人の心の闇を少し照らすことで、大人が独りよがりにならず、もっと情け深くなるのに役立つだろう。現時点で、個人的な見解を述べるとすれば、最も必要なのはピギーへの尊敬だ。我々の指導者にはそれが見られないから」(p.56)

 このコメントは1962年に出されたそうだが、1954年に『蝿の王』が出版された際、その年の自薦ベスト小説としてフォースターが『蝿の王』を選んだことが、この小説の大ブレイクのきっかけとなったそうだ。

 また、ちょっとメロドラマチックな内容をお好みのかたにも、この本は満足させられる内容がある。ジョン・ケネディ・トゥールの『劣等生の共同謀議』(A Confederacy of Dunces)についての一章だ。現在ではアメリカ南部文学の代表的作品の一つとされるこの本も、出版に至るまで長いストーリーがある。ゲコスキーの言葉をそのまま使えば、「二十世紀出版史上で最も興味深く、悲劇的で(後になって)心温まる物語」なのだが、まったくその通りで、後に傑作と評されることになるこの本の原稿が出版されないことに意気消沈した作者トゥールは、1969年、三十一歳で自殺してしまったのだった。(そして僕たちにとってさらに悲劇的なことには、このとても興味深い本に翻訳がない。たぶん。)

* * *

 個々のエピソード自体も大変興味深くて面白いが、この本を魅力的にしているのは、間違いなくディーラーであり著者であるゲコスキーの文学的センスの良さ、目の確かさだと思う。この本を読むだけで、20世紀英米文学への理解が深まる――という書き方よりは、感性が磨かれる、というべきか。『ユリシーズ』や『動物農場』、『ライ麦畑でつかまえて』といった有名な本がどのように出版されたのか、その経緯を知るだけでもおもしろい。そして詩の分野に関しても、シルヴィア・プラスやT.S.エリオット、フィリップ・ラーキンが紹介されていて、「20世紀の文学」として語られるのにあたり、遜色のない内容だと思う。

 さらに、最近の大現象J.K.ローリングの「ハリー・ポッター」シリーズにも一章が割かれている。「高尚なレベルで人を嘲る女流小説家」(と、ゲコスキーは紹介する)A.S.バイアットのコメントはなかなか手厳しいが、この意見に賛成か反対かと言われたら僕は賛成だと言うだろう。また、ゲコスキーは彼の元に持ち込まれた「ハリー・ポッター」の校正刷りを当然のように購入しなかったが、これも彼の「ハリポタ」シリーズへの態度をよく表している。彼は言う――「もしローリングのほうがトールキンより優れた作家だと思うなら、あなたはきわめてうぶな子供か、大ばか者のいずれかだ」

 僕が思うに、この本は今年出版された書籍の中で、今のところ一番評価できる本だが、残念なことにひとつ欠点がある。それはタイトル。僕はトールキンの「指輪物語」とか、彼のファンタジー作品にはほとんど興味がない。だから、タイトルに騙されてしまい、この本をすっかり見逃してしまうところだった。イギリス文学とアメリカ文学の知識を広げられるせっかくの良書なのに、タイトルにも副題にもそのような言及に乏しいのはどうかと思う(副題の「稀な本、稀な人びと」ではあまりピンとこない。古書流通業界の単なる裏話かと思ってしまう)。まあ、逆にこのせいで、全く期待せず本を手に取って、目次を見た時の嬉しい衝撃は今でも忘れられないものとなったけれど。

 ウィンストンの飲むワイン

 お正月とか親戚の結婚式とか、お酒が供される機会に子供も同席することがある。あるいは父親が風呂上りにテレビを観ているときかもしれない。いずれにしてもそんなとき、大人たちはビールをいかにもおいしそうに飲むので、子供は誰でも一回は試したくなるわけだ――ビールとはいったい、どういうふうにおいしい飲み物なんだろうか。好奇心から「ひと口ちょうだい!」とせがんで試飲する(まずは泡をペロリと舐める)。するともちろん「まずい!」だ。あの苦みに驚いてしまう。大人はどうしてあんなに苦くてまずいものを飲むのだろう!――こんなふうに期待して落胆することは子供にとっては一種の通過儀礼と言ってもよさそうだ。しかし、不思議かつ興味深いことに、それから十年余りの時間が経過すると(少なくとも現在の僕にとっては)、喉が渇いているときのビールほどおいしい飲み物はないと思うようになってしまう。

 では、ワインはどうだろう。ワインではなく「ぶどう酒」という名前で考えると、ぶどうという果物自体のみずみずしくて甘い味わいが思い浮かぶ。それにアルコールが加わったような、つまり、スーパーとかで売っているぶどうジュースがお酒になったものかな、なんて想像する。そういえば、中学生か高校生のときにこんな漢詩を習った:

葡萄美酒夜光杯 (葡萄の美酒 夜光の杯)
欲飲琵琶馬上催 (飲まんと欲すれば、琵琶 馬上に催す)
酔臥沙上君莫笑 (酔うて沙上に臥すとも 君 笑うことなかれ)
古来征戦幾人回 (古来 征戦 幾人か還る)
(王翰「涼州詞」)

 このときも、「葡萄の美酒」がなんともエキゾチックでいかにもおいしそうではないか。「昔からこの僻地へ戦いに出かけた兵士のうち、いったい何人が帰還できたというのですか」という、命が保障されない環境の下、砂漠にゴロンと寝転んでしまうくらいゴクゴク飲みたくなるような、きっとそんな、いかにも甘美な味わいなのだろうと。

* * *

 ジョージ・オーウェルの『一九八四年』の中に、一箇所、登場人物たちがワインを飲む場面が出てくる。ウィンストンとジュリアがオブライエンの住む高級マンションを訪れたところだ。ウィンストンやジュリアのような「党外局(Outer Party)」のメンバーには全く手に入れることができない飲み物で、その名前を聞いたことはあっても飲んだことはなかったのだった。そして、ついにウィンストンはこの禁断の飲み物を口にする:

ウィンストンはある種の熱っぽさに駆られてグラスを持ち上げた。葡萄酒は彼が今まで本で読み、一度は飲んでみたいと夢に見たものであった。ガラスの文鎮やチャリントン氏のうろ覚えの歌詞と同じように、それは消え去ったロマンチックな過去、彼が心ひそやかに好んで呼んでいた古き良き時代に属していた。ある理由から彼はずっと、葡萄酒が黒イチゴのジャムのようにひどく甘い味がして、すぐに酔いが回ると考えて来た。ところが実際に飲み干してみると、その中身にはまぎれもなく落胆させられてしまった。 (ハヤカワ文庫版、p.225)

 子供にとってのビールがおいしい飲み物ではなかったように、ワインもまたぶどうジュースのような飲み物ではなかったのだ。ウィンストンが感じたこの期待と落胆の場面が、僕にとってはとても印象的だ。それに、人が初めて飲むワインをこんな具合に描写したオーウェルもさすがだ。ワインを生まれて初めて飲んだ人が最初の一口から「なんておいしいんだろう」と思ったりしたら、それこそ変だと思う。あの若干の苦味を伴う芳醇さは、ぶどうジュースと違って、ちょっと飲んだだけでは理解できないだろうから。

 ところでこの場面のワインだが、ウィンストンとジュリアにはオブライエン宅を直接訪れた「おもてなし」であることは間違いない。でも、ワインがキリスト教の聖餐――信者という立場を確認する儀式――で使われることを考えると、このワインにも「兄弟同盟」という地下組織のメンバーに加入する「聖餐」的な意味合いが感じられる。ウィンストンとジュリアはオブライエンが勧めたワインを飲むことで、兄弟同盟のメンバーとして認められたと読むことが可能。

 さらに言えば、そのワインの味が落胆するようであったという点が、その地下組織自体にいずれ落胆させられてしまうことの密かな象徴になっていると思う。ウィンストンが逮捕されてから明らかになることだが、兄弟同盟なるものは存在せず、オブライエンもまた純粋に体制派の人間だったわけだから。ワインが期待はずれだったウィンストンは、兄弟同盟もまた期待はずれだったことをいずれ知る。

* * *

 『一九八四年』にはビールも登場して、これまたなかなか印象的だが、それはまたいずれ書いてみたい。それともちろん、有名な(悪名高い?)「勝利ジン」についても。

 ダフネ・デュ・モーリア 『レベッカ』

(大久保康雄訳、新潮文庫1971)
(茅野美ど里訳、新潮文庫2008)
Daphne du Maurier Rebecca 1938

 不安にかられる瞬間がある。家を出るのが遅くなってしまったが、約束の時間に間に合うだろうか――マイペースな僕はこの種の不安には、残念ながらよく襲われる。また、出かけるということでいえば、こんな格好で出てきてしまったけど、果たしてふさわしい服装だっただろうかという不安にとらわれることもある。着ている服が似合う/似合わないという問題もあるが、ちょっと改まった場所に向かう際などは、襟がついている服のほうが良かったかな、とか、いっそのことスーツが良かったかなとか、いろいろ考え始めるときりがない。こういう場合は、「誰も僕の服装なんか注目しないから大丈夫、自意識過剰になるな」と自分を諫めて不安を解消させることにしているが。

 おかげさまで方向感覚はしっかりしているほうなので、道に迷うことはほとんどない。知らない地下鉄の駅から地上に出るときも、ちゃんと構内の地図を見てから外に出る。でも、人によっては、道に迷うとか、目的地にたどり着けないというのも大きな不安の原因になるだろう。あともちろん不安といえば、仕事がうまくいくかどうかという不安感は常に少しずつつきまとっている。自分に責任のある会社の取り組みが果たしてうまくいくかどうか――まあこれは、学生時代の試験勉強に近いものがある。やるべき準備をしっかりやって本番に臨む、これしか不安を解消する手はない。あと、ちょっと(かなり?)お気楽な僕としては、こうも考える――べつにこの仕事に失敗したとしても命を失うわけじゃないしさ、と。

 でも、服装だとか、約束の時間に間に合うかとか、方向感覚とか、こういった不安感に日々さいなまれるとしても、まだまだたいしたレベルではないのかもしれない。人によっては、お金がないとか、さらには、食べるものがないとか飲む水がないとか、住む家がないとか、そういう生存にかかわる不安に直面している人だっているのだから。手を差し伸べたくなる事態である。しかしさらに一歩進んで、巨大隕石が地球を直撃するとか、UFOに連行されるとか、ブラックホールに吸い込まれるとか、そういうとてつもない不安感に恒常的に悩まされている人もいるようだが、ここまで至ると僕にはその不安解消のためにお手伝いしたいという同情の気持ちは、あまり湧き上がってこない。大きな不安でも些細な不安でも言えることだが、不安がっている人を客観的に見た場合、第三者からはおもしろおかしく見えてしまうことがある。つまり、不謹慎だが、不安にかられている人が少し滑稽に見えてくることがある。

 ダフネ・デュ・モーリアの『レベッカ』は、若い女性の主人公(最後まで名前は明かされない)がいつも不安にかられている小説ともいえる。私はこんな立派な人と結婚してよかったのだろうか、こんな立派なお屋敷に住んでいいのだろうか、この屋敷の女主人としてどのように振舞えばいいのだろうか、どういう服を着ればいいのだろうか、何を話せばいいのだろうか、云々。こうした主人公の不安感を幾度も繰り返し表現し、その感覚を読者にも伝播させることで、なんだか読んでいるほうもちょっと不安になっていく――これがゴシック・ノベルとしての『レベッカ』の作戦なのだろう。ところで、ゴシック小説とかゴシック・ノベルというものはいったい何ぞやという問題があるのだが、僕個人としては、怖くておどろおどろしい印象を読者に与えようとしている小説のこと、くらいに考えている。

 でも、デュ・モーリアが主人公の不安感を書き連ねたからといって、読者のすべてがそのゴシック小説的効果を真に受けるとは限らない。上に書いたように、不安に駆られている様子が、場合によっては滑稽に見えてしまうこともある。『レベッカ』の若い女性主人公は、結婚し、立派なマンダレーという名前の邸宅に暮らすようになってから、あれこれ不安にかられて常に動揺しまくっている。そして動揺のあまり、いろいろな失敗をしでかしてしまう。ここではその三つ列挙してみる:

1. つまずく

食堂を出ようとして、わたしは、ぼんやりと、あらぬ方に目を走らせていたので、階段につまずいて、よろよろとよろめいた。するとフリスが駆けよってきて、わたしのからだをささえ、落ちたハンカチを拾ってくれた。カーテンのかげに立っていた若い従僕のロバートが、笑い顔をかくすために、あわてて向こうをむいた。(大久保康雄訳、上巻p.161-162)

2. グラスを倒す*1

わたしは、すぐに立ち上がったが、あわてていすをどける拍子に、食卓をぐらつかせて、ガイルズのぶどう酒の杯をひっくりかえしてしまった。(同p.195)

3. 陶像を壊す

わたしは、その書物を、書卓のいちばん上の列にならべた。書物は、たがいによりかかりあいながら、あぶなっかしくゆれた。わたしは飾りぐあいを見るために、すこしうしろのほうに身をひいたが、たぶん、わたしの動きかたが早すぎたので、ぐらついたのだろう、いちばん前の一巻が落ちると、他の書物も、そのあとからすべり落ちてしまった。そのために、燭台をのぞくと、それまで書卓の上のたった一つの飾りであった小さな陶器製のキューピッドが、ひっくりかえった。そして、床に落ちると、紙くず籠にぶつかってみじんにこわれてしまった。(同p.284)

 きっと僕が素直ではないせいかもしれない。主人公はおどおどしているあまり、このようにつまずいたり、グラスをひっくりかえしてしまったり、物を床に落として壊してしまったりするのだろう。それはそうなのだが、僕にはこれらの失敗が、なぜかかなりおかしく、ユーモラスに思えてしまう。以前、子供のころにテレビの『8時だよ、全員集合』を毎週楽しみに観ていたが、ドリフターズのメンバーたちがするコントも、ずっこけたり、壊したり、粗相をしたりという内容が多かった。『レベッカ』からドリフターズを連想したりして、作者のデュ・モーリアには申し訳ないような気がするけど、でも、主人公の振る舞いには絶対にコメディーの要素が混じっている。少なくとも僕自身はそう感じ取ってしまった。それにそもそも、主人公が階段でつまずいたときに従者のロバートが思わず笑ったと書いている点からすれば、デュ・モーリアだってこのようなコミカルな側面に気がついていたのだろう。

 不安を煽ったり、真剣に怖がらせようとすると、かえって滑稽に見えたりユーモラスに感じられてしまうということが他の小説でもあるのだろうか。他のゴシック小説を読んでみると、意外と笑える要素があったり、ツッコミどころ満載だったりするのかもしれない。ジェイン・オースティンの『ノーサンガー・アベイ』は、当時流行していたゴシック小説をオースティン流にかなり皮肉った小説だが、主人公のキャサリンがアベイ(修道院)だったお屋敷で、嵐の夜中に一人で謎の箪笥を検分していたら隠れた引き出しが見つかり、その引き出しから何か不思議な紙の束が見つかった!!というところで、ランプが消えて明かりがつかなくなってしまう。いったいあの紙束は何なのだろう、何かいわくつきの由来のある古文書なのでは、と興味で悶々としながらやっと寝付いたキャサリンは、翌日、朝日の下でその紙をチェックしてみると、それはなんと、単なる洗濯物の請求書だった、というかなりズッコケる展開。こんな小説を書くくらいだから、オースティンもまた間違いなく、ゴシック小説の笑えてしまう側面を見抜いていたのだと思う。

*1:じつは主人公は以前、モンテカルロでマキシムに出会う際、ホテルのレストランのテーブルでも花瓶をひっくりかえしてしまうという失敗をしている。これがきっかけで、主人公とマキシムの交際が始まった。ただし僕個人としては、主人公のこの粗相は意図的なもので、有名人と知り合い近づきになりたいという主人公の意識的/無意識的な願望が、ヴァン・ホッパー夫人以上にいやらしい形で実行されてしまった一例と解釈してみたい。

今回はインターバル

照明が明るくなって

クラシック音楽のコンサート会場のイメージ。プログラムの前半が終わり、ここで二十分間の休憩。

この時間をずっと座ってプログラムを眺めていてもいい。立ち上がって足を伸ばし、誰か知り合いでもいないかきょろきょろ見回してもいい。あるいは、次のプログラムの演奏中にお腹が鳴って恥ずかしい思いをしないように、売店まで出向いて何か軽く食べるのも悪くない。連れ合いと一緒にグラス一杯のワインを傾けながら(もちろん立ち飲みだ)、前半の演奏の感想や、後半のプログラムの期待を語ってみるのも素敵かもしれない。

コンサートという何となく祝祭的な場には、とくにクラシック音楽のコンサートなのだし、すっきりとした白ワインでも濃厚な赤ワインでもきっとおいしく感じられるに違いないが、この場合、後半の曲目には注意したい。僕について言えば、シェーンベルクなどの傾向の音楽を長々と演奏されると、深い眠りに陥る危険性が高い。

――なんて書き出したけど、ここでちょっと一緒に座席から立ち上がり、ざわざわと賑やかな休憩時間のホワイエに出て、ちょっと気軽におしゃべりしましょう――今回のブログはそんなイメージ。最近あまりにも更新できないし、次に何かの本のことを書き終えるまでにもあとまだ少々かかりそうな見込み。なので、ここでちょっと一息入れてみる。幕間。ないしは、間奏曲。

これまでの読書状況

さて…2008年に入ってからまだ四回しか更新していないけど、それもまともに取り上げた小説は『ダブリンの人びと』と『ワイズ・チルドレン』だけだけど、もちろん実際にはもっとたくさん読んでいて、順繰りにここで取り上げようと思っている。ご存知の方もいると思うが、この二月から通勤時間が一時間半かかることになってしまい、良くも悪くも読書がはかどってしまう。

で、実際に読んだ本を羅列してみる:

ディヴィッド・ロッジ 『楽園ニュース』(一月)

グレアム・スウィフト 『最後の注文』(一月)

グレアム・スウィフト 『ウォーターランド』(一月)

ヘンリー・ジェイムズ 『黄金の杯』(二月)

J.B.プリーストリー 『イングランド紀行』(二月)

ジェイムズ・ジョイス 『ダブリンの人びと』(二月)

ダフネ・デュ・モーリア 『レベッカ』(三月)

トマス・ハーディー 『日陰者ジュード』(三月)

イアン・マキューアン 『贖罪』(三月)

と、このような具合。このリストを見て、あなたはどう思うか。僕ならこう思う――まさしくゴージャス!――なんだか自画自賛だが、イギリス文学的にはなかなか充実したラインナップではないか。しかし、豪華ラインナップだからこそなかなかブログに書けないのかもしれない。ちなみに二月に紹介したアンジェラ・カーターの『ワイズ・チルドレン』は昨年中に読んだものだった。言い訳がましいが、このブログに本の感想をまとめるには、頭の中で内容を発酵させるための熟成期間が必要なのかとも思われる。

せっかく書き出したのだから、それぞれの本について少しずつコメントを。まずは、ディヴィッド・ロッジの『楽園ニュース』。この本を僕が初めて読んだのは、ちょうど今から十年くらい前のこと。当時住んでいた街の図書館で借りて読み、その面白さと味わい深さがとても印象に残った。その頃読んだロッジの小説の中で僕は一番この本が好きだと思った。そして今回久しぶりに読んでみて、その記憶を新たにした次第。でもなぜ今頃再読したかというと、一月は寒い時期なので、なんだか暖かそうな小説が読みたいと思った(楽園ニュースの「楽園」とはハワイのこと)――という、なんとも不純な動機で読み出した一冊。

グレアム・スウィフトの二冊についてだが、これまた知っている人は知っていると思うが、毎年一月の後半、僕は連休を取って、もはや恒例行事となった「とある場所」への海外旅行に出かけるのだが、その際に携えたもの。なぜオーランドに(隠さず書いてみた)出かけるのにグレアム・スウィフトなのか――この動機も不純だった。この二冊は新潮社のクレストブックシリーズから発行されているが、このシリーズの本はとても重さが軽い。大きさは単行本くらいあるのだが、ペイパーバックのように軽く仕上がっている。だから、旅行に持っていくのにいい思った。旅に重い荷物では出かける前からうんざりしてしまう。ところで、このグレアム・スウィフトの二冊は、その軽い体裁にかかわらず、内容はしっかりしていて大変によろしかった。とくに『ウォーターランド』のほうは、僕が読んだ現代イギリス小説の中でも、間違いなくかなり良い作品。

二月に入って『黄金の杯』――ヘンリー・ジェイムズが実は好きになってしまった。僕は読書スピードがかなり速いほうだが、ヘンリー・ジェイムズだけは、どうしても読むのに時間がかかる。ちゃんとしっかり丁寧に読まないと内容がつかめない。つまりこれは、かなり回りくどい言い回しで書かれているという意味だ。でも、これぐらい歯ごたえがある小説じゃないと、なんだか最近は刺激が足りなくてさ――と、中毒症状気味の僕は思う。ということで、『大使たち』と『鳩の翼』も、これから読む小説のリストに入っている。

でも、ヘンリー・ジェイムズと大格闘したあとは、J.B.プリーストリーの『イングランド紀行』のような読みやすい紀行文に僕は癒しを求めた。ところで、癒されることを望んだわりには、なかなか読んでいて面白かった。本当に良い紀行文とはこのような本のことを指すのだろう。国語の教科書で読んだ紀行文とはだいぶ趣を異にする。

『ダブリンの人びと』は無事にブログにまとまったので、次は『レベッカ』について。ダフネ・デュ・モーリアだ。この小説は、つまらないと思う人と、面白いと思う人に分かれると思う。でも、つまらないと思う人も実際に読んでいるときに限っていえば、きっと興味津津でかなり引き込まれていたのだろうと想像する。この本には人に読ませる力がある。僕は主人公にはなんだかいらいらしてしまったが、でも、読み物としてはとても楽しめた。

ハーディーの『日陰者ジュード』。久しぶりに「古い」小説を読んだが――ちなみに、僕の中では自動車が登場しない時代の小説は「古い」小説とみなされる――これまたなかなか興味深かった。この時期(ヴィクトリア朝後期)の小説は、以前ジョージ・エリオットの『ミドルマーチ』を読んで以来だと思う。この小説は当時の社会から大反発を引き起こしたそうだが、この程度で反感を買ってしまうというのは、どうなんだろう。ヴィクトリア朝の道徳感にも、やれやれという感じがしてしまう。個人的には、全体的には突出して際立って良い小説とまでは感じなかったけど、ときどき印象に残るような場面もあったりして、そういうところはブログで紹介してみたいと思った。

そして、マキューアンの『贖罪』。以前から読もう読もうと思っていたのだけど、突然文庫本で発売になったので早速購入。要するに、今度この小説の映画が公開される(タイトルは『つぐない』だそうだ)のだけど、これに合わせて文庫化されたようだ。世の中結局商売ですな。とはいえ、単行本よりお安く購入できた僕としては大満足。そして、内容もなかなか満足。個人的にはスウィフトの『ウォーターランド』のほうが好きだが、これに匹敵するかなりのできばえの小説。内容の構成に関しては、このような話の展開のしかたは、ちょっとズルくないか、と感じさせないこともないが。でも、味わい深くて印象的な読書体験は約束できる。

予鈴が響き渡って

さて――後半の演目の始まりを知らせる予鈴が鳴り出した。ホワイエで談笑していた人びとも席に戻り始めている。僕たちもここで先程まで座っていた座席に戻り、次の演奏を待つことにしよう。ホール内の照明は、まもなく暗くなる。