エリザベス・テイラー 『エンジェル』

小谷野敦訳、白水社2007)
(最所篤子訳、ランダムハウス講談社2007)
Elizabeth Taylor Angel  1957〕

強い情念の世界

 僕が思うに、物事にクールで、何事にも執着せず達観して生きていけるような登場人物は、小説にはふさわしくない。主人公が「別にどうだっていいじゃん」とか「なるようになるさ」と割り切れるような性格では、それ自体は格好良いかもしれないけど、読者にとって読みがいのあるストーリーになるとは思えない。他の人からすればどうでもいいようなことであっても、心底からこだわり、粘着質なまでに追及するキャラクターこそが、フィクションとしてはよろしい設定ではないかという気がしている。

 だから、僕は『源氏物語』の六条御息所が、他のきれいなだけのお姫様連中よりもずっときわだってすぐれたキャラだと感じるし(もちろん、みんな多かれ少なかれ光源氏には悩まされるのだけれども)、落語『真景累ヶ淵』の豊志賀が「七人目まで殺す」とまで書き残すすさまじい情念こそ、この落語を名作たらしめている一因ではないかと思う。

 最近のイギリス小説でいえば、フェイ・ウェルドンの『魔女と呼ばれて(The Life and Loves of a She-Devil)』(1983)がこの傾向を顕著に見せている作品の一例。自分のもとから離れていく夫を見返してやろうと、主人公のルースは徹底した自己改造を進めていく。激しい嫉妬心と、相手や世の中を見返してやりたいという強い執着心。男性キャラクターがこのような心情にとらわれた場合、なぜか行動を起こさず、お酒に走ったり、自殺したりしてしまうものが多いような気がする。これは「男はクールに成功すべきだ」みたいな世間の既成観念のせいだろう。男がネチネチと嫉妬にとらわれて苦しみ、努力するなんてちょっとどうなのだろうか、男らしいといえるのかどうか…という否定的な見方のせいだ。(だからこそ、敢えてこういうキャラクターの小説を成功させることができるなら、本当は画期的なのだろうけど。)

 というわけで、嫉妬心やら執着心にとらわれる情念的キャラクターは女性の設定であることが多いような気がするが、こういう心情にとらわれたときの女性登場人物の振る舞いかたは、時代によって当然異なってくる。女性の立場が世間的にまだそれほど認められていなかった時代の作品、たとえばジェイン・オースティンの『マンスフィールド・パーク』とか、シャーロット・ブロンテの『ジェーン・エア』の主人公たちは、『魔女と呼ばれて』のルースとは全く異なる振る舞いかたをする。『マンスフィールド・パーク』のファニー・プライスは、ひたすら耐える。「おしん」のように(たとえが古い)耐えて耐えて耐え忍ぶ。いずれは自分の時代が来ると信じて。『ジェーン・エア』のタイトルと同名の主人公は、かなり反抗的で生意気だけど、具体的なアクションはあまり起こさない。やっぱりなんだかんだいって、この時期の小説では女性はまだまだ受動的な振る舞いしかできない。ところが、『魔女と呼ばれて』のルースは非常に積極的に行動する。我慢して待っていても自己実現はできないのだ(「運命などというものが本当にあるかのように、身に起こることをただ受け入れる」のではなく「人生とは奪い取るもの」なのだとルースは語る*1)。そしてこういう女性を許容する社会が、この二十世紀後半には成立していたということでもある。

 知られざる名作家エリザベス・テイラーの『エンジェル』(1957)でもまた、嫉妬心と見返してやりたいという強い気持ちにとらわれた女性が登場する。主人公の少女エンジェル(アンジェリカの愛称)が嫉妬し見返そうとするのは、男ではなくて、社会全般というところがユニークなのだけれど、低い社会的出自の彼女は小説を書くことによって、経済的・社会的成功を得ようと夢見る。そして、自らの能力と努力でそれを実現してしまう。ただひたすら待ったり、耐え忍んだりするのではなく、行動と才覚で成功を手にするというストーリーはなかなか現代的で、この小説はそういう面でも十分評価されていい。結局のところ、エンジェルは成功するだけではなくて、やがて時代の変化とともに没落してしまうのだけれど、読んでみるとわかるが、べつにこの展開は彼女の積極的行動を否定しているわけではない。むしろ小説としてはこのような顛末のおかげで、栄枯盛衰というか、諸行無常というか、なんとも味わい深い印象を残すことになる。

ユーモアと現実

 では『エンジェル』が真面目な小説かといえば、まあ、真面目なのだろうけど、きっと作者エリザベス・テイラーはけっこう楽しみながら書いたのではないかと想像できるくらい、かなりユーモアに富んだ小説でもある。なんといっても、主人公エンジェルのキャラクターがとても奇矯でおかしい。貧しい家の出身の彼女は、公爵とか伯爵夫人とかが頻出する小説を勝手に想像して書き上げてしまうのだが、なにせ自分で経験したことがないことを想像するわけだから、折々に登場人物がおかしな間違いを犯してしまう(たとえば、シャンペンを栓抜きで開けるとか)。エンジェルが創作するこうした『レディ・イラニア』などの作品は、結局、無知な少女の夢物語ということになっている。でも、この「豪胆で誇張に満ちていた」小説が大衆の間で爆発的な人気を得て、見事彼女は流行作家の地位を手に入れる。

 エンジェル自身は、自分のことを一流文学の大作家だと思っている。現実を直視しない、このような彼女の勘違いぶりもおかしい。エリザベス・テイラーの表現だと、こんな具合で楽しめる:

まだエンジェルには崇拝者たちからかなりの数の手紙が届く。毎朝、エンジェルの本が人生の転機になったとか、心を動かされたとか、辛いときのなぐさめになったとかいう人々から手紙が何通かは舞い込んだ。エンジェルはこういう手紙に何度も目をとおし、必ず返事を書く。どことなく恵みをたれる女王然とした手紙は、のたくるような筆跡で、すみれ色のインクで書かれている。エンジェルはそうした手紙の行く先を想像する。受け取った相手は雷に打たれたようになり、感謝と驚きで倒れ伏すだろう。そして手紙は人々の間で回し読みされ、一家の誇りとなり、子々孫々まで伝えられていくのだ。時折、それとは違う種類の手紙もあった。聖職者たちがエンジェルの考え方に異議を申し立ててくるのだ。若い人を堕落させないでいただきたい、彼らはそう言ってエンジェルを断罪した。こういう手紙を受け取ると、自分にはそういう力があるのだと感じ、うきうきと手紙を読んだ。坊さんたちを刺激するのはもっともだけど、あたしは子供のための本を書いているのではないのだ。そして花が咲く季節を間違っているとか、オリオン座は八月の夜空には現れないとか、ギリシアの神々を取り違えているとかいう、あら探しと批判ばかり並べた手紙は、評論家のしわざだということにされた。あいつらのあたしに対する陰謀の一つ、というわけだ。(最所訳、p.318-9)

 いっぽう、この小説はいったん成功して夢を現実にした主人公が、逆にこんどは、自分の思いどおりにならない現実に次々と直面していく物語でもある。憧れ描いていたお屋敷「パラダイス・ハウス」は、実際には寂れた館になってしまっていたし、エスメとの新婚生活も決してうまくいかなかった。もちろんエンジェルは持ち前の強気な性格なので、こうした現実を受容するなんてことは決してない。自分の思いどおりに記憶や考えを変更してしまう。僕個人としては、作者テイラーがエンジェルに対して、ただ単に成功や栄華を与えるだけではなく、むしろ次々と現実問題に直面させて主人公を困惑させているところが興味深いと思った。エンジェルが書き上げる本は非現実的な夢物語なのに対して、テイラーは二度の世界大戦という実際の歴史をもふまえた、現実重視のストーリーを進めている。『エンジェル』がイギリスの小説らしい、地に足のついたリアリティーとユーモアという枠組みがある一方で、その小説の内部では、強烈なキャラクターと夢見心地の本が登場するという、相反するものの組み合わせがおもしろい。

お屋敷小説

 主人公のエンジェルはまだ小説を書き始める前の学校時代、「パラダイス・ハウス」に住むことを夢見ていた。その後、この邸宅に住む住人は没落し、お屋敷は荒れるままになっていたが、大金持ちになったエンジェルがこの家を買い取り、きれいに修理して、ついに実際に住むことになる。再び人が暮らすことになったパラダイス・ハウス。ところが、エンジェルの小説が売れなくなり、またエンジェル自身も執筆をしなくなってしまったため、エンジェルの財政は火の車、さらに、世の中も第二次世界大戦の窮乏期を迎え、せっかくのこのお屋敷も、またほころびが目立つようになってしまう。こんなパラダイス・ハウスを中心に語られるストーリー展開を考えると、『エンジェル』もまた、いわゆる「お屋敷小説」なのだなあと思う。

 「お屋敷小説」というのは、僕が勝手に考えた用語なので適当に受け流してもらえればいいのだけれど、いわゆるイギリスの邸宅を物語の中心にすえた小説のこと。その建物が実は小説の陰の主役になっている。イーヴリン・ウォーの『一握の塵』とか『ブライヅヘッドふたたび』、カズオ・イシグロの『日の名残り』、E.M.フォースターの『ハワーズ・エンド』など、「家は城」というお国柄だけあってこの手の小説はいろいろある。ある一軒の邸宅と、そこに住む人々の栄枯盛衰の物語。イギリス小説が好きなら、『エンジェル』をこういう角度から楽しんでも良いと思う。そして二十世紀ということでいえば、こういうお屋敷が衰退し、歴史の表舞台から消え去っていくことが常に物語られる。『エンジェル』でいえば、エンジェルの死後、晩年の彼女を時々訪問していたクライヴはパラダイス・ハウスをこのように考える。時代はもう第二次世界大戦後を迎えている。

彼(クライヴ)は片田舎でときどき見かける荒れ果てた家々のことを思った。黒ずみ、焼き焦げているものもあり、ただ見捨てられたものもある。これまでそれを気味の悪い、呪われた場所のように思っていた。しかし、パラダイスハウスは、もうずいぶん昔から見捨てられてきたのだ。ノラが去れば、誰も莫大な負担を抱えてこんな廃墟を引き受けるものはいまい。家は谷に飲み込まれていくだろう。木々の枝が四方から包みこみ、覆い隠していく。戸外のものたちが家の中にしのびこんでくる。まず、蔦が隙間から入り込み、そろそろと割れた窓や崩れかけた石に這いのぼる。こうもりがガラスの落ちた半円形の明かり取りから入ってきて、ホールの天井にぶらさがる。壁にはえたきのこが風変わりな飾りになるだろう。柔らかなクモの巣がよろい戸を覆う。そして最後には、あの緑の谷の、強靭な植物たちがこの家を埋め尽くすだろう。(最所訳、p.433-4)

エンジェルの壮大な夢の結果であるパラダイス・ハウスは、彼女の壮絶な(荒唐無稽な?)著作同様に、このようにして人々の眼前から消え去っていく。

*1:『魔女と呼ばれて』集英社文庫p.388-9