使わないと伝えられない(1)

スティーブ・ジョブスの短い伝記的なテレビ番組を観た。情報としては受動的に受け取りやすいのだが、その情報は希薄になってしまう、それがテレビらしいと言えばらしいのだが。

昔子供のころ読んだSF小説(タイトルもストーリーも覚えていないが)で、未来社会(だと思うが)に科学者らしき人物が出てきてその人が自転車に乗って登場するのだが、古臭い乗り物ということで周囲から変人扱いされていたくだりを思い出していた。先のテレビ番組で登場人物がジョブズの夢について語っている部分を観ていて連想したのだが。夢としてジョブズがみんなが自由に音楽や絵を描くベースとしてのコンピューターの使い方を述べていた時、なるほど道具というものはそうしたものなのかと思いつつ、なにか違和感を感じていた。基本的にコンピューターやインターネットがつくる文明に対し懐疑的に思っているからかもしれないが(そのくせその世界に十分嵌まっているのだが)。便利で手軽。それだけが道具の役割なのか。道具はそのように使っている人間に対象として隷属的なのか、と。だとすれば針供養とか車を手放すときにわざわざ洗車して写真を一緒に撮る行為とかはどうなのだろう。なぜカーネーションの主人公は亡くなった旦那さんのミシンの供出を頑なに拒否したのか。

もうひとつなぜ車とか電化製品とかそうした製品は毎年あるいはもっと短いと毎季節ごとに新しい製品をリリースしなければならないのか。それは単に「消費者」のニーズに対応したものなのだろうか。あるいは、消費行動のこの付和雷同的な、人が持っているものを自分も持ちたいという欲望、の部分と人とは違う、微妙な差を求める心理はどこから来るのだろうか。iphoneに色違いがあるのはなぜなのか。なぜI型フォードは売れ、そして売れなくなったのか。

少し前までは写真は乾板の上に感光したものであって限られた人々の技術によって成り立っていた。それがフィルムの登場によって気軽に撮影することが出来るようになり、さらにデジタルカメラによって現像作業からも解き放たれ、大衆化していった。
道具の発達は職人の技能に頼らざるをえない部分を減らし、誰でも一定程度のスキルがあればそれを行うことが可能な方向へとシフトさせた。誰もが気軽に写真を撮ったりビデオを撮れる。昔は8ミリカメラを持っているのは裕福な家であったのが、今では大抵の家がハンディカメラを持ち子供の運動会を撮っている。これは道具の値段が下がったことが大きいのだろうが。
プロとアマチュアの差が減じていき、あるいは両者が混同していく。プロとアマチュアの差を証明するものが、それを収入の手段とするかしないかの違いのみに変化していく。
それに反比例するようにカメラそのものはますますブラックボックス化していき昔なら多少のことはカメラ屋で修繕が出来たのに工場へすぐ返送されてしまう。製品のブラックボックスの開け口には勝手に開けたらそれ以降はあなたの責任です、保証は出来かねますと記されている。プリウスのエンジンは故障すると全部取り換えてしまうと聞く。消費者は所有するがただそれだけである。空虚な所有がそこに生じている。商品の絶対的な商品化をした姿がそこにあるとでも言えばいいか。そこにあるのは完全な一歩通行である。

人々は商品のブラックボックス化で簡単さを、考えなくてよいことを手にすることが出来た。ニコンFMを使うときには少なくとも焦点と絞りを設定することを、考えざるをえなかった。シャッターの機械制御から電子制御への移行はカメラを使う時に必要なこうした過程から人々を自由にした。ただしその自由は、機械という力の伝わり方が視覚的で明確なシステムに替って電子制御というブラックボックス、目に見えないシステムへの移行によって得られたものであった。

この電子制御には弱点が、もっと拡げて電化製品には基本的な弱点がある。それは電気というものがないと動かないということである。震災のあと人々はファンヒーターやIHヒーター・オール電化・テレビというものの致命的な弱点に気付かされた。(にもかかわらず放送局は放映を続けたし、アナログからデジタルへの移行も続行された。)ケイタイも震災には無能であった。それに対しひとつ前の時代の製品、灯油ストーブ・ラジオの価値が再認識されたのはなんとも皮肉なことだった。
長らく商品の成り立つ前提が忘れられていたのである。電化製品だけではない。こうした製品はそれをなんと総称していいのかわからないが、そこには自立できない前提がある。自動車はガソリンがないと動かず、ケイタイは中継塔がないと繋がらない、テレビは電気がないと映らない。
今、商品にはこう注意書きをするべきかもしれない。

「注意:これは○○○がないと動きません。」と。