半坪ビオトープの日記

2018-04-16 ジェノヴァ、赤の宮殿、白の宮殿

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ジェノヴァヴェネツィアとともに海洋貿易で栄え、全盛期の16〜17世紀には豪壮な館が競うように造られた。王宮のあったバルビ通りから東にガリバルディ通りへと続く、昔の栄華を伝える豪華な邸宅群はストラーデヌオーヴェと呼ばれる。そのガリバルディ通りに面して、赤の宮殿、白の宮殿、トゥルシ宮、ドーリア宮などの重要な建物が並ぶ。赤の宮殿は、建築家ピエトロ・アントニオ・コラーディにより設計され、1671年から1677年の間にブリニョーレ・サーレ家の兄弟により建築された。宮殿の名称はファサードに使われている赤い石材に由来する。1874年、ガルリエーラ公爵夫人マリア・ブリニョーレ・サーレが芸術振興のためにジェノヴァ市に宮殿とコレクションを寄付し、現在は美術館として活用されている。

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当初はガルリエーラ公爵夫人が所有していた肖像画などが大半を占めていたが、現在ではこれらに加えて、アンソニー・ヴァン・ダイク、ヴェロネーゼ、デューラーなど著名な芸術家の作品も数多く収蔵されている。

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この絵はキリストを描いたものと思われるが、題名も芸術家名も失念した。

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これはグエルチーノの「クレオパトラの死」。グエルチーノ(1591-1666)はボローニャ近郊のチェントに生まれた宗教画家で、カラッチ兄弟、カラヴァッジョなどとバロックという一時代を形成した。

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こちらの牛など家畜が集まる絵も詳細不明である。

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この肖像画は、アルブレヒト・デューラーの「若者の肖像」。ドイツ美術史上最大の画家ともいわれるデューラー(1471-1528)は、ニュルンベルクの生まれで、皇帝マクシミリアンの宮廷画家となっている。「アダムとイヴ」や「四人の使徒」が有名である。

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こちらはヤン・ウィルデンスの「氷上のスケート」。17世紀バロック時代に名声を轟かせたルーベンスは、アントワープに大規模な工房を組織して数々の名作を生み出したが、その工房で働いた画家との共同制作も多い。そうした画家では、のちにイギリスの宮廷画家として有名になるヴァン・ダイク、動物画を得意としたスネイデルス、花を得意としたヤン・ブリューゲル(父)、風景画家のヤン・ウィルデンスなどがいる。この「氷上のスケート」によく似た「雪中の狩人」という作品は、日本でのピーテル・ブリューゲル展でよく見かけるが、氷上ではスケートのほかカーリングで遊ぶ姿も描かれている。

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赤の宮殿の向かいには、白の宮殿とトゥルシ宮が並んで建っている。白の宮殿は、1530年から1540年の間に、ルーカ・グリマルディのために建造され、18世紀にバロック風のファサードやトゥルシ宮と繋がる中庭が造られた。1884年にマリア・デ・ブリニョル・サレ公妃により市に寄贈され、建物の一部は市庁舎として使用されている。17〜18世紀のジェノヴァ派とフランドル派の絵画を展示する市立美術館にもなっている。

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中庭には噴水があり、その向こう左手が白の宮殿で、右手の建物がトゥルシ宮だが、ここからトゥルシ宮へは行けない。

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白の宮殿の入り口付近には古代ローマの人物像の彫刻が睨みを聞かせている。

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ここには「祝福を受けるキリスト」というハンス・メムリングの絵があるのだが、残念ながら見逃してしまった。この絵は、カラヴァッジョの「エッケ・ホモ」である。ヨハネ福音書の中で、これから磔にされるキリストを前に、侮辱し騒ぎ立てる群衆に向けて、ポンティウス・ピラトが「エッケ・ホモ(見よ。この人だ)」と発した場面である。

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こちらの絵も詳細不明だが、弓矢を受けて殉教する様子なので「聖セバスティアヌス」であることがわかる。

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この絵の題名も画家も書き留め忘れてしまったので不明である。

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この絵の題名は「受胎告知」だが、画家の名は不明である。

2018-04-10 ジェノヴァ、王宮、アンヌンツィアータ教会

[][][]ジェノヴァ、王宮、アンヌンツィアータ教会 22:39

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翌朝、フィレンツェからジェノヴァに向かい、ピサで乗り継ぐ時にピザを食べ、ジェノヴァには2時過ぎに着いた。半日だが急いで旧市街地に出かけた。最初に西外れの王宮を見る。鮮やかな赤とクリーム色のコントラストが美しい王宮は、ジェノヴァ共和国時代の17世紀に、バルビ家の館として建築が着手された大邸宅で、17~18世紀の建造物の中ではジェノヴァで最大といわれる。19世紀のサルディーニャ王国時代にはサヴォイア家の宮殿として使われた。宮殿のバルコニーからは活気に包まれたジェノヴァ港が見渡せる。

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現在、王宮は貴族の家具調度品、ヴァン・ダイクやバッサーノらの絵画を展示する美術館となっている。最も圧巻なのは鏡の間。鏡の間に通じる廊下の天井も素晴らしいが、左右の壁際には古代ローマ時代の彫刻がたくさん並べられている。

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鏡の間の隣の部屋の天井や壁も、スタッコ(漆喰細工)やフレスコ画で装飾されている。

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こちらはアドラツィオーネ・デイ・パストーリの絵で、題名は確か「イエス誕生」だったはずだ。

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大きな部屋の壁には、豪華なタペストリーが飾られていた。

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こちらの絵では、首を持つ戦士がいるので何かの事件の場面だったと思う。

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左の建物が美術館になっている王宮で、右に向かい合う建物は大学宮殿という。古くから宮殿を大学に利用していて、現在のジェノヴァ大学である。

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王宮と大学宮殿に挟まれたバルビ通りを東に進むとすぐ広場があり、そこに面してアンヌンツィアータ教会が建っている。正式には、サンティッシマ・アンヌンツィアータ・デル・ヴァスタート教会(Basilica SS. Annunziata del Vastato)という。この教会は、1520年にフランシスコ修道会により建設が始められたが、1537年に停止され、1591年にロメッリーニ家がタッデオ・カルローネに依頼して建設が続行された。17世紀初頭、ドームを含む豊かなバロック様式の装飾は、アンドレア・アンサルドにより作成された。現在の新古典様式のファサードは、1830〜40年代にモンテカルロ・バラビーノにより設計された。第二次世界大戦中に爆撃を受け、礼拝堂の多くが破壊された歴史を持つ。

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内部はバロック様式だが、身廊の天井装飾と天井画は豪華絢爛、迫力満点で、誰もが見上げて立ち止まってしまうほどだ。

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壮大な天井画は主祭壇に向かってクーポラまで続いている。

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主祭壇手前の天井も荘厳に装飾が施されていて、この教会がジェノヴァ随一の美しさを誇るといわれることが頷ける。

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翼廊の祭壇には、祭壇画に見えるが実際には彩色された立体の彫刻があり、とてもリアルに掲げられていて見とれてしまう。

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立体の祭壇彫刻は随所にあり、右から左へと前を行き来して出来栄えの見事さに感心させられる。

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この「キリスト降架」も演劇の一場面のようにリアルに仕上げられている。祭壇画ではなく、祭壇彫刻とでも呼べるのではないか。

2018-04-02 生きていたアカガエル

[][]生きていたアカガエル 21:57

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先日、庭の大きな火鉢にアカガエルが浮いているのを見つけたので、網ですくいバケツに保護した。

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カエル池と称して仕切られた一角の外側には、手入れもされず雑草の生い茂る開放的な庭があることにはあるが、小さな池が一つあるだけでカエルが住むのは難しい。その外れに大小二つの火鉢があって、メダカを飼っている大きな火鉢の方は一度入ったら二度と出ることができない。見つけなければいずれ溺れ死ぬところだった。

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カエルは5cmほどの大きさの成体で、背側線がほぼ真っ直ぐなので、明らかにニホンアカガエルだ。昨年の春にニホンアカガエルのオタマジャクシを小さなカエルまで育てて、カエル池に放したが、そのカエルが一年でここまで育つはずがない。すると3年前の2015年にカエル池に放した2cmほどのニホンアカガエルが生き延びて育っていたことになる。

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何れにしてもダンゴムシやアリぐらいしか餌のない庭で生きていたとは驚きだ。ひょっとしたら、昨年放した子ガエルが餌となったのかもしれない。急に暖かくなって冬眠から覚めて、餌や水場を求めてさまよった挙句、水草がたくさん生えている火鉢の水の匂いに誘われて、30cm以上もある火鉢に飛び込んでしまったのだろう。カエル池と称しても、なかなか居つかないカエルが、なんとか生き延びていた姿を見つけて、久しぶりにたいへん喜んだ。

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鬱蒼と草の茂るカエル池に放したが、浮き草が繁茂していたので多少掃除した。いずれ池の周りの草木も刈らないと、カエルが歩き回る隙間もない。

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一方、室内の大型水槽で飼っているアカハライモリに久しぶりに餌をあげようとしたら、イモリ一匹の腹が膨れて、ぷかぷか病(浮遊病)になって浮いているのを発見し、バケツに隔離して様子を見ることにした。ほとんど動かず、餌の赤虫も食べない。

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90×45cmの大型水槽では、13年前に長野県の山間で捕まえたアカハライモリ4匹を飼っていたが、1年半前に「シマ」と名付けた1匹が痩せ細って衰弱死したので、現在は3匹が生き続けている。

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これは腹の赤い川状の模様が比較的広いので「アカ」と名付けたイモリだ。この12年で黒い部分が増え、赤色がやや薄れて朱色となり、側面にある朱色の点の数がかなり増えている。

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こちらは腹の模様がほとんど黒いので「クロ」と名付けたイモリだ。こちらも黒の部分がかなり多くなった。

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ぷかぷか病のイモリも水を浅くして2日、バケツに隔離して様子を見ていたら、少しはゲップを吐いたようにも見えた。ほとんど動かないが、写真を撮るために持ち上げたら体をよじったので、まだ生きていることが確認できた。この腹の模様から「テン」とわかる。12年前には顎から下に黒点が多かったのだが、8年前には下腹部の黒地がかなり増えていた。

アカハライモリは体の太さに変化があっても、背中側は真っ黒で差はない。だが腹模様は極めて個性的で、その模様から名前を付ければ間違えることはない。

2018-03-26 パラティーナ美術館、サンタ・マリア・ノヴェッラ教会

[][][]パラティーナ美術館、サンタ・マリア・ノヴェッラ教会 22:54

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ルーベンスの作品があるマルスの間の中には、数えきれないほどいくつもの絵が掲げられているが、入口や出口の周りにも困るほどたくさんある。一般公開されている絵画だけでも800点以上あるそうだ。

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こちらはグイード・レーニ(1575-1642)の「クレオパトラの死(1635頃)」。ラファエロ風の古典主義の絵。ゲーテに「神の如き天才」と称えられたという。紀元前31年のアクティウム海戦でクレオパトラとアントニウス連合軍は、オクタヴィアヌス軍に惨敗し、クレオパトラはアレクサンドリアの王宮で自殺を決意する。天を仰ぐクレオパトラは何を思っているのか。イチジクの籠に忍ばせて自室に運んだ毒蛇に、右の乳房を咬ませる最後の場面である。

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こちらはティツィアーノの「青い服の婦人の肖像(ラ・ヴェッラ、1536)」。ナポレオンによってパリに持ち去られ、1799年にルーブル美術館所蔵となったが、「会議は踊る」で有名な1814年のウィーン会議の決定で、フィレンツェに無事戻ってきたという。

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ここからは、歴代のトスカーナ大公や国王が住まいにしていた君主の居室が続く。この赤で統一された「王座の間」は、19世紀後半、混沌としていたイタリアを統一し、一時フィレンツェ首都を置いたイタリア王国の初代国王ヴィットリオ・エマニエーレ2世のために調えられ、緋色のシルクの壁や絨毯、日本製や中国製の磁器などの調度が豪華な雰囲気を作っている。

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君主の居室はピッティ宮殿2階の中庭を挟んだ右側に位置する一連の部屋で、壁や天井、調度品まで豪華絢爛で、歴代のファミリーの肖像画の並ぶ部屋もある。

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いくつも続く部屋には、大きなシャンデリアや豪華な調度品が並ぶ。歴代大公やその家族たちが暮らした時代もそれぞれ違うので、バロック様式や、ロココ様式など贅を尽くした家具も趣の異なる装飾が施されている。

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君主やその家族たちのための小さいが豪華に飾られた礼拝堂の部屋もある。

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ピッティ宮殿の一角からフィレンツェ市内を眺望できる。北西に見える高い尖塔は、サント・スピリト教会(聖堂)の塔である。この教会はイタリアルネサンス初期を代表する建築家、フィリッポ・ブルネレスキ(1377-1446)が1436年に設計したが、建造途中で彼が亡くなったため彼の後継者が建造を引き継いだ。建造期間は1441〜1487年。内部は荘厳で、フィリッポ・リッピの「聖母」などがある。

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豪商ピッティ家によって建てられ、16世紀半ばからメディチ家所有となったピッティ宮殿の裏手には、付属するボーボリ庭園が展開する。イタリア式古典庭園の最高傑作といわれるボーボリ庭園は、約4万5千平方メートルもの広大な庭園で、メディチ家所有となってから、通称トリボロと呼ばれたニッコロ・ペリコリの指揮のもとに造園が始まった。その後、フィレンツェの著名な彫刻家たちに委ねられ、「ネプチューンの噴水」や「ブオンタレンティの洞窟」なども造られた。2ケ所の噴水広場のほか、園内随所に彫刻やオベリスクが配置されている。

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広大なボーボリ庭園を見て回る時間は取れないので、ざっと眺め渡してピッティ宮殿に戻る。3階建ての2階にパラティーナ美術館と国王夫妻の居室があり、3階には衣装美術館、1階には銀器博物館と馬車博物館がある。1階の外周りには花壇がある。2階を見るだけで最低2時間はかかるので、それ以外も含めるとピッティ宮殿で1日潰れてしまう。

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ピッティ宮殿の脇からフェレンツェ市内を見渡すと、サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂(ドゥオーモ)とその左のジョットの鐘楼が見え、それらの右手にヴェッキオ宮殿の高い塔が認められる。

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フィレンツェローマに劣らず見所がいっぱいあって、この後もバルジェッロ国立博物館、サンタ・クローチェ教会、考古学博物館、メディチ・リッカルディ宮などの見学を計画していたが、年甲斐もなく頑張りすぎて疲労困憊となり断念した。宿に戻る途中、サンタ・マリア・ノヴェッラ教会のスペイン人大礼拝堂の中だけ見た。正面ファサードの写真は夕方息子が撮ってきてくれたものだ。この美しすぎるファサードは、ルネサンス以前に建設が開始され、ようやく1920年に完成した、フィレンツェルネサンス期の最も重要な建築作品の一つである。最上部アーキトレーブ(三角形の下の帯状部)には「パオロの息子、ジョヴァンニ・ルチェッライ、1470年」と刻まれている。ファサードには、1572年にドメニコ会修道士で天文学者のエニツィオ・ダンティが取り付けた、右側のグノモン(日時計の影を投げる指時針)と左側のアーミラリー天球(渾天儀)という二つの科学的装置がある。

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サンタ・マリア・ノヴェッラ教会の前身はサンタ・マリア・ヴィーニェ教会である。1219年、12人のドメニコ会修道士がボローニャからフィレンツェに来て、二年後にその教会を手に入れた。その後改築に着手し、14世紀半ばに教会が、1470年に最初のファサードが完成した。1565年以降、ジョルジュ・ヴァザーリ等により幾度も改装・改修され、1920年に完成した現在のファサードも2008年に修復された。

サンタ・マリア・ノヴェッラ教会は、フィレンツェにおいてゴシック建築が適用された最初の建築物であり、全長99.2m、幅23.2mで、翼廊は最大61.54mある。

聖堂内部には、1290年頃制作のジョットの「キリスト磔刑」やジョルジュ・ヴァザーリの「キリストの復活と四聖人」、マザッチョの「三位一体」、ブルネッレスキの「十字架」などが数多く安置されているが、残念ながらスペイン人大礼拝堂の中だけしか見られなかった。この礼拝堂は1566年、トスカーナ大公コジモ1世の妻でスペイン人だったエレオノーラのために、宗教行事の場として、当時のスペイン人コミュニティに譲渡されたため、スペイン人大礼拝堂と呼ばれている。

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壁面の装飾は、アンドレア・ボナイウートにより1365-67年に制作されたフレスコ画である。最下部左手にはドメニコ派の修道士が描かれ、背後に見える建物は、まだ計画のみだったフィレンツェのドゥオーモで、ブルネッレスキがクーポラの設計をする50年以上前に、その形を見事に予言している。

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まだルネサンスが開花する前の時代の作品だが、様々な人物表現のフレスコ画が見られて興味深い。

2018-03-16 ピッティ宮殿、パラティーナ美術館

[][][]ピッティ宮殿、パラティーナ美術館 21:42

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フィレンツェ3日目にピッティ宮殿の中に入る。アルノ川の西岸に位置するピッティ宮殿は、ルネサンス様式の広大な宮殿で、1587年にフェルディナンド1世が即位して以降、ヴィットーリエ・エマヌエーレ3世によってイタリア国民に移譲されるまで、トスカーナにおける宮廷の役割を果たし続けた。約400年にわたりメディチ家を中心として収集された絵画や宝飾品のコレクションは膨大な数に上る。

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1457年、フィレンツェの銀行家ルカ・ピッティはピッティ宮殿の建設に着手した。ピッティは、後に「祖国の父」と呼ばれるコジモ・デ・メディチのライバルであり、メディチ宮よりも優れた建物を作りたいと思っていた。だがコジモの子ピエロ・ディ・コジモに対する陰謀発覚によって工事は中断され、完成を見ることなくピッティは死去した。その後、1550年頃、初代トスカーナ大公コジモ1世が宮殿を買い取り、建設が再開され、その後完成した。1580年以降、コジモ1世の家族はこの宮殿で過ごすことになった。

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現在、ピッティ宮殿にはパラティーナ美術館や銀器博物館、衣装博物館、陶磁器博物館などが併設され、まとめてピッティ美術館と呼ばれる。ピッティ宮殿の2階にあるパラティーノ美術館では、コジモ2世により1620年頃から収集が始められ、1833年から公開が始まった。

館内に入るとすぐ天井画に目がいく。ローマ神話の戦の女神ミネルヴァであろうか。兜を被った女神が戦を指揮している様子。

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壁一面にずらりと額に入った絵が並んでいる。これはヤコポ・ダ・ポントルモの「百万の殉教」。ヤコポ・ポントルモ(1494-1557)は、マニエリスム期の画家で、代表作はピッティ宮殿のすぐ近くにある、サンタフェリチタ聖堂の「受胎告知」と「十字架降架」。

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こちらは、ラファエロ・サンティの「大公の聖母(1504頃)」。ラファエロがフィレンツェに活動の拠点を移した頃に描かれ、メディチ家が断絶した後にトスカーナ大公を継承したハプスプルグ家のフェルディナンド3世が所有したことから「大公の聖母」と呼ばれた。フェルディナンド3世は、この作品を寝室にかけて、旅行中も携帯して手放さなかったという。

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こちらは、ラファエロの「バルダチーノ(天蓋)の聖母」。1507年頃の作品である。高さ3m近い大作で、初期の集大成とも称される。教会の祭壇画として依頼されたが、残念ながら未完といわれる。

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「バルダチーノの聖母」の下に掲げられているのは、同じくラファエロの「アニョーロ・ドーニの肖像」とその妻の「マグダレーナ・ドーニの肖像」。フィレンツェの裕福な商人夫妻の肖像で、夫人のポーズはモナ・リザに基づくとされる。1506年頃の作品。

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こちらも同じくラファエロの作品で、「ピッピエンナ枢機卿の肖像」。1516年頃の作品。ピッピエンナ枢機卿はレオ10世の元家庭教師にして秘書。レオ10世が教皇になる時のコンクラーベで活躍したという。

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こちらがラファエロの「小椅子の聖母」。1514年頃のローマ期の作品。生涯に数多くの聖母子像を描いた、ラファエロの作品の中でも代表作とされるほど熱狂的に愛されている。そうなるといつも話題になるのがモデルは誰かという問い。ここでも威厳のある聖母というより、人間的な親しみやすさに満ちた顔つきは、ラファエロがキージ・ファルネーゼ荘のフレスコ画を描いていた時に知り合った近くのパン屋の娘マルゲリータ・ルティであろうといわれている。

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こちらは「ヴェールを被った女」。1516年頃の作品。こちらもモデルは、ラファエロの生涯の恋人・パン屋の娘マルゲリータという説が有名である。ラファエロがビッビエーナ枢機卿から紹介された、枢機卿の姪マリア・ビッビエーナと結婚することを決意し別れたため、実現できなかった思いを込めて婚礼の衣装を身に着けて描いたのではないかと考えられている。マリアと婚約してもなかなか結婚までに踏み切れずにいるうちに、マリアは病気を患い亡くなってしまった。ラファエロは生涯妻を娶らず、マルゲリータとの愛を貫いたといわれるが、若くして病に倒れ、37歳の誕生日に息を引き取った。

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こちらはアンドレア・デル・サルトの代表作「受胎告知(1512頃)」。同じく代表作の「ノリメタンゲレ(我に触れるな)」、「聖三位一体についての議論」とともに、サン・ガッロ聖堂の祭壇画として制作されたが、1529年に同聖堂が壊されると、メディチ家の別荘などを転々とし、最後にパラティーナ美術館に収蔵された。天使たちの右手頭上には、父なる神の三位「聖霊」が描かれている。

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こちらはかつて玉座の控えの間として使われた部屋、マルスの間(第30室)の天井画。ピエトロ・ダ・コルトーナが1643〜47年に制作。愛の女神ヴィーナスの手から引き離され、太陽の神アポロンに運命を示唆されたメディチの王子が、軍神マルスに導かれ敵を倒して権力を手にしていく場面。天井画の中央にはメディチ家の紋章が大きく描かれている。

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こちらはピーテル・パウル・ルーベンスの「四人の哲学者」。1611年に他界したルーベンスの兄フィリップの追悼のためにその頃描かれた作品。右から人文学者のウォヴェリウス、有名なストア哲学者でありフィリップの師であったリプシウス、そして兄フィリップがモデルとなっていて、背後に立つのはルーベンス自身である。リプシウスを中心に哲学的な議論を交わしているが、その右手上方にはセネカの胸像が掲げられている。

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こちらはルーベンスの大作(206×345cm)「戦争の惨禍(1637-38)」。ルーベンスが手がけた政治的寓意画の最高傑作の一つとされる。当時のトスカーナ大公フェルディナンド・ディ・メディチのために、大公の宮廷画家ユストゥス・シュステルマンスの依頼によって制作された。ヤヌスの神殿の開いた扉から出てきた軍神マルスが、恋人のウェヌス(ヴィーナス)の制止を振り切り、調和や愛、文化、学問、芸術などを蹂躙しながら、復讐の女神アレクトや戦争によって引き起こされる疫病や飢饉の怪物に導かれ邁進していく姿を描いている。画面左のベールを裂かれ宝飾具を一切身に着けない黒衣の女性は、度重なる略奪や争いに見舞われた悲惨な欧州の寓意的表現であり、そのアトリビュートとして隣の天使(精霊)が、キリスト世界を象徴する十字架と組み合わされた地球儀を手にしている。当時の三十年戦争などの欧州の国際情勢の悪化に対する、ルーベンスの政治的な声明を込めた最後の作品といわれる。