半坪ビオトープの日記

2018-02-16 ヴェッキオ宮殿

[][][]ヴェッキオ宮殿 21:16

f:id:hantubojinusi:20170101135237j:image

フィレンツェ市役所として使われているヴェッキオ宮殿は、教会など全ての観光施設が休みの元旦でも午後3時には開いていて、便利なFirenze-cardも売っている。事前に予約していたが中庭で多少は並んだ。天井や壁、柱の装飾は、フランチェスコ1世が1565年にオーストリア皇帝の娘、ハプスブルグ家のジョヴァンナと結婚する際に、ヴァザーリが改装したものだという。右の壁にある玉々の紋章は、メディチ家の紋章である。真ん中の噴水に立つ像は、ダ・ヴィンチ師匠だったヴェロッキオが作った「イルカを抱いた天使」のレプリカであり、本物は3階にある。

f:id:hantubojinusi:20170101152203j:image

中に入ると小さな「最後の晩餐」の絵があった。有名なダ・ヴィンチの「最後の晩餐」はミラノのサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会にあるが、今回の旅では残念ながらミラノは訪れなかった。

f:id:hantubojinusi:20170101154430j:image

ヴェッキオ宮殿の2階に上がると、500人を収容できる「五百人広間」(Salone dei Cinquecento)と呼ばれるフィレンツェ共和国の市民評議会会議場だった部屋がある。フィレンツェのピサとシエーナに対する勝利とコジモ1世の礼賛のために天井も周囲の壁面もヴァザーリとその弟子たちによる絵画で埋め尽くされた。3階から眺めると、天井画を間近に見ることができる。

f:id:hantubojinusi:20170101152917j:image

天井にはコジモ1世の生涯の大切なエピソードを描いた天井画が39枚、豪華な縁取りで並んでいるが、その中央にはヴァザーリに装飾を命じた、コジモ1世が礼賛されている絵が描かれている。

f:id:hantubojinusi:20170101152704j:image

五百人広間に並ぶ彫像は、もっとも有名なミケランジェロ作の「勝利像」の他に、ヴィンチェンツォ・デ・ロッシ作の「ヘラクレスとケンタロウス」や「アマゾン族の女王を倒すヘラクレス」など「ヘラクレスの功業」の6像が並ぶが、これはジャン・ボローニャ作の「ピサを征服したフィレンツェ」である。フィレンツェは毛織物業と金融業で財をなし、トスカーナの大部分を支配してフィレンツェ共和国首都となったが、わずか80kmほど離れたピサは、海運国家として貿易で栄えたが各地の海運国家と戦いが絶えなかった。フィレンツェとピサも覇権争いで仲が悪く何度も戦っている。15世紀頃でいうと1409年と1509年の二度フィレンツェがピサを征服している。

f:id:hantubojinusi:20170101152808j:image

大会議場は幅23m、奥行54m、高さ18mあり、右の壁面にはヴァザーリにより描かれた「シエナ攻略」の壁画が3枚並んでいる。

f:id:hantubojinusi:20170101152758j:image

左の壁面にはヴァザーリにより描かれた「ピサ攻略」の壁画が3枚並んでいる。

f:id:hantubojinusi:20170101152902j:image

左壁面の「ピサ攻略」の一番右の壁画「マルチャーノ・デッラ・キアーナの戦い」の裏側に、レオナルド・ダ・ヴィンチの幻の壁画「アンギアーリの戦い」が隠されていると、2007年5月にイタリア文化庁が発表した。この壁画の中央上部の緑色のフィレンツェ軍旗に「CRECA TROVA(探せ、さらば見つからん)」との聖書の言葉をヴァザーリが書き残してあるという。1505年頃、フィレンツェ共和国ダ・ヴィンチとミケランジェロにこの部屋の壁画を競作させたが、いずれも未完となった。ミケランジェロの「カッシーナの戦い」は彼の才能を妬んだバルトロメオ・バンデネッリにより切り刻まれたが、ダ・ヴィンチの壁画「アンギアーリの戦い」は、その上にヴァザーリが絵を描いたので幻とされていたのであった。

f:id:hantubojinusi:20170101153054j:image

ここはレオ10世の間。メディチ家の出身で、彼が教皇になったためにメディチ家フィレンツェの君主として返り咲くことができた。

f:id:hantubojinusi:20170101153238j:image

ここもレオ10世の間。人間と鳥や植物・動物、なびくリボンなどが繰り広げる不思議な模様は、グロテスク文様という。古代ローマの地下遺跡(グロッタ)で見つかったためにイタリア語で「グロッテスキ(grotteschi)と名付けられたのが起源といわれる。

f:id:hantubojinusi:20170101153459j:image

これは四大元素の間のフレスコ画で、ヴァザーリが「ヴィーナスの誕生」を描いている。

f:id:hantubojinusi:20170101154647j:image

ここは、コジモ1世の妃、エレオノーラ・トレドの礼拝堂で、この祭壇画「ピエタ」のほか堂内の絵画全てをアーニョロ・ブロンズィーノが描いている。

f:id:hantubojinusi:20170101155124j:image

こちらはチャペル・オブ・プリア(カッペッラ・ディ・プリオーリ)という礼拝堂であり、装飾はギルランダイオによる。

f:id:hantubojinusi:20170101155050j:image

これは3階にあるダンテのデスマスク。ダンテはフィレンツェ出身の詩人、哲学者、政治家で、代表作は「神曲」。13世紀当時のイタリアはローマ教皇庁と神聖ローマ帝国が対立し、グェルフィ党(教皇派)とギベリーニ党(皇帝派)に別れて反目し合っていた。ダンテはフィレンツェのグェルフィ党員として市政に参加し、カンパルディーノの合戦にも参加している。合戦には勝利したが教皇派は二つに分裂し、ダンテは白党の三人の統領にも選ばれた。だが後に黒党の政変によって白党幹部はフィレンツェから追放され、罰金も払わなかったダンテは永久追放となり、一生フィレンツェに戻ることはできなかった。「神曲」の中でもその恨みつらみは表現され、彼がいかにフィレンツェを愛し、戻りたかったかを知ることができる。1911年にデスマスクがヴェッキオ宮殿に寄贈された。

f:id:hantubojinusi:20170101155145j:image

ここが謁見の間。共和国時代には総督の会議や法廷として使われた場所で、格天井や大理石の入口なども豪華である。当時のメディチ家の財力が遺憾なく発揮されている。

f:id:hantubojinusi:20170101155259j:image

謁見の間の隣にユリの間がある。天井や壁にユリの紋章が散りばめられている。百合フィレンツェのシンボルだそうだ。壁画はギルランダイオの作である。

2018-02-09 シニョリーア広場、ヴェッキオ橋

[][][]シニョリーア広場、ヴェッキオ橋 21:17

f:id:hantubojinusi:20170101161404j:image

大聖堂(ドゥオーモ)からヴェッキオ宮殿のあるシニョリーア広場に向かうと、狭い路地にダンテの家という建物がある。フィレンツェ出身の詩人であり、哲学者、政治家でもあったダンテ・アリギエーリの生家といわれる場所に3階建ての博物館として公開されている。ダンテが生きた13世紀の建物ではなく、約100年前に改築されたゴシック様式の建物である。中に入るとダンテの生活や亡命の紹介、当時の貴族の衣装の展示などがある。

f:id:hantubojinusi:20170101113008j:image

ヴェッキオ宮殿の手前の小さなサン・フィレンツェ広場に面して、荘厳なオラトリオ教会(聖フィリッポ教会)が建っている。1640年にローマから来た聖フィリッポ会の修道士たちが当時のローマ法王ウルパーノ8世から、このフィレンツェの古い歴史地区を教会建設のために寄贈された。ここに聖フィリッポ修道会は教会や礼拝堂、修道院などを建てていった。1749年にはザノービ・デル・ロッソにより、石造りのファッチャータ(正面装飾)がバロック様式で建設された。2012年までフィレンツェの裁判所として利用されていたが、いまはフィレンツェ市が開催する展覧会などの会場に使用されたり、挙式セレモニーなどに利用されたりしている。

f:id:hantubojinusi:20170101113159j:image

オラトリオ教会(聖フィリッポ教会)前からドゥオーモの方向を振り返ると、左手にバディア・フィオレンティーナ教会の尖塔が見え、その右側にバルジェッロ国立博物館の建物が見える。元はポデスタ宮殿と呼ばれ、その後、バルジェッロ宮殿となり、1865年より博物館となった。ミケランジェロ作の『バッカス像』、『聖母子像』『ダヴィデ像』や、バルテッロ作の『ダヴィデ像』など貴重な彫刻が展示されている。時間が許せばぜひとも見学したいところだ。

f:id:hantubojinusi:20170101113312j:image

狭いサン・フィレンツェ広場からゴンディ宮殿を回り込むと、広いシニョリーア広場に出る。東側のヴェッキオ宮殿前から西をみると、右手にはコジモ1世の騎馬像があり、左手には大きなネプチューン像が立っている。真向かいの建物の1階にはシャネルの店がある。

f:id:hantubojinusi:20170101113442j:image

広場の南にはメディチ家コジモ1世の騎馬像の先にヴェッキオ宮殿がそびえている。ヴェッキオ宮殿は、1299年から1314年にかけて、アルノルフォ・ディ・カンピオによって建設され、初めはフィレンツェ共和国の政庁舎として使われ、一時、メディチ家もピッティ宮殿へ移るまで住居とした。1550年から1565年の間にジョルジュ・ヴァザーリにより部分的に改築された。現在でもフィレンツェ市庁舎として使われている。高さ94mの塔は、ヴェッキオ宮殿の建築家アルノルフォ・ディ・カンピオにちなんでアルノルフォの塔と呼ばれている。

f:id:hantubojinusi:20170101113449j:image

コジモ1世の騎馬像は、息子フェルディナンド1世が、最初のトスカーナ大公であった父親を讃えるために発注した。騎馬像の作者ジャンボローニャは、それまで鳥や魚などの小動物の像ばかり作っていたので、大喜びした。馬は約4.5トン、騎士が約2.5トン、像全体でアフリカ象一匹の重さに匹敵した。数年要して製作された騎馬像は評判となり、ジャンボローニャに注文が殺到したという。宮殿前の海神ネプチューン像は、バルトロメーオ・アンマナトティ作のネプチューンの泉の中央に立ち、足元に4頭の馬を従えている。コジモ1世がオスマン帝国に対抗するため1562年にピサの南リヴォルノ港に海軍を創設した記念に造られたという。右手に見えるのは、ランツィのロッジアである。

f:id:hantubojinusi:20170101115906j:image

ランツィのロッジア(回廊)は、シニョリーナ回廊とも呼ばれる。ランツィとは、コジモ1世治世下でこの建物をランツクネヒト(ドイツ人傭兵)が使ったことに由来する。幅広いアーチの3つの開口部はコリント式柱頭のある束ね付柱で支えられている。1376年から1382年にかけてベンチ・ディ・チョーネとフランチェスコ・タレンティにより建設された。屋根はあるが事実上、古代及びルネサンス美術の野外彫刻展示場となっている。左端の区画には、ベンヴェヌート・チェッリーニ作の銅像『ペルセウス』があり、左手でメドゥーサの首を意気揚々と掲げたギリシア神話の英雄を描いている。ロッジアの柱の左手には、1865年にピオ・フェンディが制作した『ポリュクセネーの陵辱』という群像である。柱の右脇にはフィレンツェの象徴であるマルゾッコ(大理石の獅子像)があり、一番右の彫像『パトロクロスを抱きかかえるメネラウス』は、古代ローマの彫像を復元したものである。

f:id:hantubojinusi:20170101115942j:image

右端に見える彫刻は、フランドル出身のジャン・ブローニュ(ジャンボローニャ)による『サビニの女たちの略奪』というマニエリスムの群像である。ヨーロッパの彫刻史上で、三人以上の群像の最初のものといわれる。他にもロッジアにはいくつかの大理石製彫刻がある。

f:id:hantubojinusi:20170101130343j:image

ヴェッキオ宮殿のすぐ南隣りにはウフィツィ美術館があるが、翌朝鑑賞する予定で通り過ぎると、その先でアルノ川河畔に出る。右手下流にはヴェッキオ橋(ポンテ・ヴェッキオ)が見える。イタリア語で古い橋の意の通り、フィレンツ最古の橋であり、先の大戦を生き延びたフィレンツェ唯一の橋である。アルノ川のもっとも川幅の狭いところに架けられた橋だが、長さは85mある。三つのアーチ状の橋桁を二つの頑丈な橋脚で支える形は、当時のヨーロッパでは初めての試みだったという。

f:id:hantubojinusi:20170101130617j:image

ヴェッキオ橋は河川の氾濫などで何度か立て直されており、現在の橋は1345年に再建されたものである。橋の上に宝飾店がずらりと建ち並んでいることで知られる。プッチーニのオペラ『ジャンニ・スキッキ』のアリア「私のお父さん」「お父様にお願い」で娘のラウレッタが「お父さん、もしリヌッチと結婚できないなら、私、ポンテ・ヴェッキオからアルノ川に身投げしてしまうから」と脅すのでも有名である。

f:id:hantubojinusi:20170101130814j:image

ヴェッキオ橋の上は、両側に彫金細工店や宝石店が並び、東側にはヴァザーリの回廊が伸びているのだが、中央のテラスからはアルノ川の眺望が楽しめる。東の上流左手にはウフィツィ宮からヴェッキオ橋を渡ってピッティ宮まで約1kmも続くヴァザーリの回廊が認められる。肖像画のコレクションで有名だが、改築のため閉鎖中であった。

f:id:hantubojinusi:20170101132745j:image

展望が開ける橋中央のテラスは見物客で溢れかえっている。西側にある胸像の前で記念写真を撮る人が特に多い。この胸像は、先ほどシニョリーア広場に面したランツィのロッジアで見た、『ペルセウス』像の作者、ベンヴェヌート・チェッリーニである。チェッリーニは元金細工師の職人出身であり、1800年代にヴェッキオ橋の上の金細工師の労働組合が「金細工師の父」を記念して胸像を建造したという。

f:id:hantubojinusi:20170101132634j:image

西の下流を見やると、トリニタ橋が眺められる。ヴェッキオ橋の上からトリニタ橋を望む夕焼けは、フィレンツェでも有名な絶景とされる。トリニタ橋は、長く苦難の歴史を持つとされる。1259年、木造の橋が壊れ、石造りで再建された橋が1333年の洪水でヴェッキオ橋とともに流され、1415年にようやく再建されたが1557年にまたも流された。1570年に再建された橋も1944年に他の橋と同様、連合軍の進撃を止めようとしたドイツ軍に地雷により破壊された。大戦後の1958年に再建され、1608年に橋の四隅に置かれた四季を表す4体の像も、1961年には揃って元の位置におかれた。

f:id:hantubojinusi:20170101131524j:image

ヴェッキオ橋を渡ると、アルノ川の左岸にあるルネサンス様式の広大なピッティ宮殿に至る。元旦はどこも閉館なので、ここも中には入れないが、二日後にまた訪れる予定で、ここで引き返すことにする。

f:id:hantubojinusi:20170101131858j:image

ピッティ宮殿の斜向かいにある、マーブル紙で有名な店の扉の上に、「ドストエフスキーがここで1868年から1869年の間に『白痴』を完成させた」というプレートが貼ってあった。

2018-02-02 フィレンツェ、サンタ・マリア・ノヴェッラ教会、サンタ・マリア・デ

[][][]サンタ・マリア・ノヴェッラ教会、サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂(ドゥオーモ) 21:52

f:id:hantubojinusi:20170101105212j:image

元旦は朝早くからフィレンツェへ移動した。サンタ・マリア・ノヴェッラ駅近くのホテルに荷物を預け、早速観光に出かける。駅前にサンタ・マリア・ノヴェッラ教会が建っているが、北から背面を見ると逆光である。寄木細工のような美しいファサードは南向きで、こちらからは見えない。

f:id:hantubojinusi:20170101105811j:image

14世紀にドメニコ派の説教の場として造られた。内部には、マザッチョ(マサッチオ)による『三位一体』やロッビアの彩色テラコッタによる洗礼盤、左側のゴンディ家礼拝堂にはブルネッレスキの十字架、内陣部にはドメニコ・ギルランダイオによる『マリアとサン・ジョバンニの生涯』のフレスコ画などがある。

f:id:hantubojinusi:20170101110041j:image

サンタ・マリア・ノヴェッラ教会には、礼拝堂を含め元日とクリスマスは入れないが、どういうわけかこの小さな礼拝堂だけ入ることができた。

f:id:hantubojinusi:20170101110239j:image

サンタ・マリア・ノヴェッラ教会の東側には、ウニタ・イタリアーナ(イタリア統一)広場があり、中央にはオベリスクが建っている。イタリア統一戦争の戦没者慰霊碑で、戦没者へ贈る言葉の石版や銅版が各面にはめ込まれている。ここから東へ市内観光を始めるのに都合よく、集合場所によく使われているそうだ。

f:id:hantubojinusi:20170101110524j:image

最初に目に入るのはメディチ家礼拝堂である。サン・ロレンツォ聖堂に付属する「君主の礼拝堂」と「新聖具室」と呼ばれる2棟の建物の総称であり、16世紀から17世紀にかけて拡張建設された。八角形で高さ50mの「君主の礼拝堂」は、すでに政治権力を失ったメディチ家がその富と虚栄を誇示すべく建てた礼拝堂で、歴代トスカーナ大公家の墓所である。壁面は大量の彩色大理石と半貴石で豪華に飾り立てられている。ミケランジェロの設計による「新聖具室」は、ロレンツォ2世とジュリアーノの霊廟で、それぞれミケランジェロによる『夕暮』と『曙』、『夜』と『昼』の彫刻で装飾されている。

f:id:hantubojinusi:20170101110934j:image

メディチ家礼拝堂に続くサン・ロレンツォ聖堂は、4世紀頃に聖ラウレンティウスに捧げられた教会で、フィレンツェで最古の教会の一つに数えられる。イタリア人建築家フィリッポ・ブルネッレスキが、トスカーナ大公家で聖堂のパトロンでもあったメディチ家の依頼で15世紀に改築して以後、メディチ家代々の菩提寺となっている。旧聖具室にはドナテッロ作の胸像があり、2階にはミケランジェロによるラウレンツィアーナ図書館がある。

f:id:hantubojinusi:20170101110923j:image

聖堂脇には、ジョバンニ・デッレ・バンデ・ネーレ像がある。16世紀前半のメディチ家の一人。初代トスカーナ大公コジモ1世の父。イタリアの傭兵隊長で、イタリア戦争では勇猛に戦い、後年「ルネサンス最後の傭兵隊長」と賞賛され、通称バンデ・ネーレ(黒隊長)と呼ばれる。

f:id:hantubojinusi:20170101111438j:image

サン・ロレンツォ聖堂の先にフィレンツェの象徴といわれるドゥオーモがあるのだが、その前に美しい八角形の洗礼堂がある。サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂(ドゥオーモ)付属の建物で、サン・ジョバンニ洗礼堂という。ロマネスク様式のもっとも重要な集中形式の教会建築の一つであり、その起源は4世紀から5世紀に遡る。現在の建物は11世紀に起工された。軍神マルスを祀ったローマ神殿が、洗礼者聖ヨハネのために奉納され直したと信じられていたという。屋根部分全体は1128年、司教座のある内陣は1202年に完成した。ここで洗礼を受けたダンテ・アリギエーリは、『神曲』地獄篇で「わが美しき聖ジョバンニ」と言及している。

f:id:hantubojinusi:20170101111748j:image

内部の床は一面のモザイク模様、壁面は外装と同じく大理石による幾何学模様が施されている。天井は13世紀のモザイク画『最後の審判』の他、聖書にまつわる多くのモザイク画で飾られている。この東側の扉はロレンツォ・ギベルティにより1452年に完成したが、のちにミケランジェロが「天国の門」と呼んで賞賛したといわれる(レプリカ)。扉の上の彫刻『イエスの洗礼』はアンドレーア・サンソヴィーノの作である。

f:id:hantubojinusi:20170101111814j:image

洗礼堂の南側の向かいには、ビガッロのロッジア(回廊)がある。1352〜58年にかけて、捨て子を保護するために建てられた。子供を育てられない人がここにその子を寝かせておけば、共和国が引き取り手を探してくれた。15世紀になってメディチ家がサンティッシマ・アンヌンチアータ広場に捨て子養育院を造ったが、それも同じような目的だった。

f:id:hantubojinusi:20170101111623j:image

サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂は、フィレンツェの大司教座聖堂であり、ドゥオーモ(大聖堂)、サン・ジョヴァンニ洗礼堂、ジョットの鐘楼の三つの建築物で構成される。教会の名は花の聖母教会の意である。巨大なドームが特徴の大聖堂は、イタリアにおける晩期ゴシック建築および初期ルネサンス建築を代表するもので、石積み建築のドームとしては現在でも世界最大である。二重構造のドームで互いに押し合う設計になっていて、木枠を使わずに煉瓦を積み上げて製作している。1296年から140年以上かけて建設され、外装は白大理石を基調とし、緑、ピンクの大理石により装飾され、すこぶるイタリア的なゴシック建築に仕上がっている。クーポラとランターン(採光部)は初期ルネサンス、19世紀に完成したファサードはネオ・ゴシックによる混成様式である。全長153m、最大幅90m、高さ107m、聖堂の大きさとしては世界第4位で、約3万人が一堂に会することができる。

f:id:hantubojinusi:20170101111730j:image

1876年から1887年にかけて建設されたファサードは、エミリオ・デ・ファブリスの設計による。随所に精巧な彫刻も施されていて、幾何学的な外観を眺めるだけでも時間がかかる。銅製の巨大な扉は1899年から1903年にかけて製作された。内部はゴシック様式で簡素とはいえ、ギベルティらが1432年から1445年にかけてデザインしたステンドグラスやベネデットマイアーノの十字架、ロッビアの彩色陶版による美しいレリーフなどで飾られている。大聖堂付属博物館にはミケランジェロによる『未完のピエタ』などが展示されている。

f:id:hantubojinusi:20170101112121j:image

ファサードの右脇には、ジョットの鐘楼がそびえている。これは大聖堂の右側からみたところである。高さ84m、大聖堂と同じく赤、白、緑の大理石で作られたゴシック様式の鐘楼である。1334年に工匠頭に任命されたジョットは、アルノルフォ・ディ・カンピオの構想にあった鐘楼の計画に専念し、すぐに建築を開始したが基底部分ができた時点で死去し、以後は弟子のアンドレア・ピサーノ、1350年以降はフランチェスコ・タレンティが引き継いだ。1387年に塔は完成したが、当初計画された尖塔は造られなかった。象嵌や彫刻で飾られた基底部はジョットの構想によるもので、56枚のレリーフと16対の彫刻で飾られている。2階部分はピサーノ、さらに上の3つの階はタレンティの指揮による。特定日以外は塔の屋根部分まで上れる。

f:id:hantubojinusi:20170101111907j:image

右側からサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂を見て回ると、後ろに大きなクーポラが見上げられる。ブルネッレスキの設計による高さ90mのクーポラ頂上展望台まで、日曜日や特定日以外なら上れる。

2018-01-26 サンタ・マリア・アンジェリ教会、サンタ・マリア・マッジョーレ大聖

[][][]サンタ・マリア・アンジェリ教会、サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂 21:20

f:id:hantubojinusi:20161231143719j:image

バルベリーニ宮殿から共和国広場へ戻る途中、ベージュの濃淡の横縞模様がユニークな教会がある。19世紀の終わりにコスモポリタンな教会としてローマの中心地に誕生した、セント・ポールズ・ウィズイン・ザ・ウォールズ教会という。通称「ローマのアメリカンチャーチ」と呼ばれ、世界の有名人も憧れる安らぎの場としても知られ、高い天井の響き渡るパイプオルガンの音色も美しく、大理石の回廊にバラ窓のステンドグラスから差し込む七色の光に祝福されて行う結婚式が、華麗でしかも荘厳そのものと人気があるそうだ。

f:id:hantubojinusi:20161231144056j:image

共和国広場の中心にはナイアディの噴水がある。元市長のフランチェスコ・ルテッリの曽祖父でパレルモ出身のマリオ・ルテッリによる。ナイアディとは、ギリシア神話に登場する妖精(ニュンペー)で、この泉では「湖の妖精」「川の妖精」「大洋の妖精」「地下水の妖精」が表現されている。広場の向こう側に見える建物は、サンタ・マリア・デリ・アンジェリ・エ・ディ・マルティーリ教会である。ディオクラティアヌス帝が造った大浴場の翼廊を利用して、ミケランジェロの設計で立て直されたといわれる教会だが、彼はすでに86歳の高齢だったため完成を見ずに亡くなった。最終的には18世紀半ばにルイージ・ヴァンヴィテッリにより完成した。マルティーリとは殉教者という意味である。

f:id:hantubojinusi:20161231145403j:image

この教会はイタリア政府の教会なので、国葬を行う場合は必ず、この教会で行われる。正面の扉は、ポーランドの彫刻家、イゴール・ミトライの2006年の作品で、ブロンズ製。扉の重さは、二つ合わせて3トンもある。右側の扉は受胎告知を表し、大天使ミカエルが聖母マリアに神の子を宿したことを伝えている。左の扉には、人間の罪のあがないに十字架上で苦しみを受けたキリストの姿がある。このキリストは力強くて、十字架上の死を超えた復活を表している。キリストの左下には、ミトライお得意の包帯に巻かれた頭部と手のひらの彫刻があり、他の殉教者を表している。

f:id:hantubojinusi:20161231144522j:image

教会の中に入ってすぐ左にある聖ペテロ礼拝堂には、洗礼者聖ヨハネの頭部の彫刻がある。この彫刻もイゴール・ミトライの2006年の作品である。カッラーラの大理石を使っている。

f:id:hantubojinusi:20161231145029j:image

内部は縦と横の長さが同じ、ギリシア正十字形となっている。ローマの教会はほとんど縦長のラテン十字形なので、横に長く伸びる回廊が特徴的で広く感じる。ここが中央祭壇の入り口である。

f:id:hantubojinusi:20161231144852j:image

ここが中央祭壇の正面である。堂内には祭壇画が随所に展示されている。多くはサン・ピエトロ大聖堂から移設されたという。

f:id:hantubojinusi:20161231144926j:image

翼廊の礼拝堂にある大きなパイプオルガンも趣向が凝らされている。天井も非常に高く、堂内随所に立っているローマの赤御影石も美しい。だが、この教会で最も有名なのは床に施された日時計と子午線といわれるが、堂内の広さと天井の高さに気を取られて見逃してしまった。

f:id:hantubojinusi:20161231144734j:image

公共浴場跡やローマ国立博物館へ通じる出口のところは中庭になっているが、そこにも現代のものと思われる彫刻が見られた。

f:id:hantubojinusi:20161231150604j:image

丸二日のローマ市内観光の終わりに、ホテル近くのサンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂に立ち寄った。サンタ・マリア・マッジョーレ(聖母マリアの聖堂)という名称には二つの意味がある。一つは世界の聖堂の中でも特に重要な教会、まさに母なる教会ということ。第二にカトリック信仰において古代より尊重されてきた聖母マリアへの崇敬を表す聖堂であるということ。世界中に聖母マリアに捧げられた聖堂があるが、その中で最大のものがこのサンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂である。

サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂の創建は356年の夏で、法皇リベリウスが見た夢のお告げ「数日のうちに雪が降る地に聖堂を建てよ」によるものといわれている。

北西側のこちらは、エスクイリーノ広場から見た大聖堂の後陣である。

f:id:hantubojinusi:20161231153635j:image

アヴィニョン捕囚からローマ教皇がローマに戻った後、ラテラノ大聖堂が荒れ果てていたため、一時的にサンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂が教皇宮殿として用いられていた。のちにバチカンに教皇宮殿が造られ、教皇はそこに移って現代に至っている。1929年に結ばれたラテラノ条約によって、イタリア政府は、バチカン市国外であってもサンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂におけるバチカンの特別な権利を認めている。

サンタ・マリア・マッジョーレ広場から見る大聖堂の正面は、18世紀に作られた柱を多用したファサードの上に彫刻が施され、右奥には15世紀に造られた鐘楼が高く聳える。

f:id:hantubojinusi:20161231154130j:image

大聖堂の内部は3身廊に仕切られ、中央廊は36本の大理石の柱で仕切られている。壁面の彫刻やモザイクも天井画も厳かに設えられている。金色に輝く格子天井の枡から、毎年8月5日のミサでは雪に見立てた白い花びら「真夏の雪」がまかれるそうだ。

f:id:hantubojinusi:20161231155834j:image

主祭壇は、フェルディナンド・フーガ作の荘厳な天蓋で覆われている。祭壇下には、ベツレヘムでキリストが誕生の際に眠ったといわれる「飼い葉桶の木片」が聖遺物として収められている。主祭壇の手すりの外側の床には、バロック最大の巨匠でローマで活躍したバルニーニの墓がある。

主祭壇の左手奥の後陣のアーチ(四角い祭壇画の上の薄暗い円形の中)には、13世紀末のローマで名高かったヤコポ・トッリティ作「マリアの戴冠」という優美で色彩豊かなモザイクがある。13世紀に法王ニコラス4世は創建当時の後陣を取り壊し、新たに後陣と左右に翼廊を増築させた。この後陣のモザイクはその時、5世紀創建当時のモザイクの断片を集めて作ったとされる。

f:id:hantubojinusi:20161231154245j:image

ここは洗礼堂。正面には聖母被昇天のレリーフがある。

f:id:hantubojinusi:20161231154216j:image

大聖堂の翼廊には、豪華なシスチーナ礼拝堂とパオリーナ礼拝堂があるのだが、残念ながら撮影禁止であった。堂内には随所に祭壇画があり、また中央廊の列柱上部の5世紀のモザイクなどもあるので時間があればゆっくり見学したいものだ。

f:id:hantubojinusi:20161231182256j:image

サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂だけでなく、大晦日のローマの夜は随所でライトアップが行われて町中が美しく彩られていた。

2018-01-19 バルベリーニ絵画館

[][][]バルベリーニ絵画館 20:53

f:id:hantubojinusi:20161231131057j:image

トレヴィの泉から北東に進むと、ベネト通り、バルベリーニ通り、トリトーネ通りなど主要な通りが交差するバルベリーニ広場に出る。広場中央にはバロック彫刻の傑作として知られるベルニーニの噴水「トチトーネの泉」がある。4頭のイルカに支えられた貝殻の上で法螺貝を吹いているのは、海神ポセイドンの息子トリトンだという。貝殻の下にはバルベリーニ家の紋章である3匹の蜂が彫られている。

f:id:hantubojinusi:20161231132429j:image

バルベリーニ広場から南東の坂を上がるとバルベリーニ宮殿がある。ローマのバロック建築の中でも際立って堂々とした宮殿で、ウルパヌス8世(フィレンツェのバルベニーニ家出身)の命により、1625年から9年かけて、カルロ・マデルノ、ベルニーニとポッロミーニ(マデルノの甥)という「イタリア・バロックの3大建築家」が協力することによって完成された。1949年に政府の所有となり、現在は国立古典絵画館となっている。コレクションは1893年のコルシーニ家からの寄贈に始まり、1949年以降コロンナ宮のコレクション、バルベリーニ家、キージ家所有の絵画などが追加されてきた。主に12世紀から18世紀のコレクションを展示している。1953年の映画『ローマの休日』において、登場人物のアン王女が滞在及び脱走する某国大使館の門は、バルベリーニ宮殿の門が使用された。

f:id:hantubojinusi:20161231133514j:image

1階には主に宗教絵画が展示されている。これは13世紀頃にルッカで活動した画家の『彩色磔刑像』である。

f:id:hantubojinusi:20161231133828j:image

これはフィリッポ・リッピの『受胎告知と二人の寄付者』(1435頃)。

f:id:hantubojinusi:20161231133921j:image

これはラファエロ・サンツィオの『若者(青年の顔)』。

f:id:hantubojinusi:20161231134426j:image

こちらはマルコ・ビジオの『パルカイ3姉妹』。ローマ神話の運命の三女神は、ノナ、デシマ、モルタである。

f:id:hantubojinusi:20161231134710j:image

2階にはラファエロ、カラヴァッジオなどの名品が揃っている。これはラファエロの『フォルナリーナ(粉屋の娘)』(1518-19)。

f:id:hantubojinusi:20161231135204j:image

こちらはヤン・マチスの作品群である。真ん中の絵は、『ホロフェルネスの首を持つユーディト』。ユーディト(ユディト)は旧約聖書外典の一つである『ユディト記』に登場するユダヤ人女性。

f:id:hantubojinusi:20161231135719j:image

これはカラヴァッジオの『ホロフェルネスの首を斬るユーディト』(1598-99)。ユーディト(ユディト)を題材にした画家は、ほかにもボッティチェッリ、クラナッハ、クリムトなどがいる。f:id:hantubojinusi:20161231135832j:image

こちらはカラヴァッジオの『ナルシス』(1597-99)。ナルシス(ナルキッソス)は、ギリシア神話で、水鏡に映った自分自身を愛してしまった美少年である。

f:id:hantubojinusi:20161231135924j:image

こちらはエル・グレコの作品。左は『キリストの洗礼』、右は『牧者の礼拝』(1596頃)。

f:id:hantubojinusi:20161231140402j:image

2階の大サロンの幅15m、奥行25mにも及ぶ天井画は迫力がある。ウルパヌス8世がピエトロ・ダ・コルトーナに描かせた『神の摂理の勝利』(1633-39)。ローマ教皇ウルパヌス8世は、ガリレオ裁判に関わった教皇として知られるが、芸術の守護者としても知られる。ガリレオの親友でもあったバルベリーニ枢機卿は、裁判時にはローマ教皇ウルパヌス8世になっていたが、ガリレオを保護することはなかった。

f:id:hantubojinusi:20161231140421j:image

バルベリーニ家の栄光が、一族の紋章でもある3匹の蜂とともに華やかに描かれている。