半坪ビオトープの日記

気多大社、本殿


日本で唯一、車で走れる砂浜、千里浜なぎさドライブウェイを左に見ながら、金沢からのと里山街道を30kmほど北上すると、能登半島の付け根、羽咋市北方に日本海に面して気多大社が鎮座している。

大鳥居を入ってすぐ左に、折口父子の歌碑がある。右の折口信夫の歌碑は、「気多のむら若葉くろずむ時に来て 遠海原の音を聴きをり」。昭和2年、折口が藤井春洋ら学生を伴い初めて口能登を探訪した時に詠んだ歌である。
左の藤井春洋の歌碑は、「春畠に菜の葉荒びしほど過ぎて おもかげに師をさびしまむとす」。昭和19年、春洋が金沢駐屯中に面会した師の折口を思い詠んだものという。
羽咋市出身の春洋は、折口の門弟で国学院大教授に就任するも、太平洋戦争で召集を受け硫黄島に着任。それと前後して折口の養子になるが、翌年硫黄島方面で戦死した。折口父子の墓は、近くの羽咋市一ノ宮町にある。

気多神社は、古くから能登国一宮とされ、延喜式内社の名神大社に列している。旧国幣大社であり、現在は神社本庁に属さない単立神社である。別名、気多大神宮という。
神門は、安土桃山時代(社伝によれば天正12年(1584))に造営された。切妻造平入りの四脚門で、国の重文に指定されている。

檜皮葺きの屋根は、反り増し付きの軒桁、化粧棟木、化粧垂木などで、軒先は真反りとなって快い曲線を見せている。木割も太く、袖柱の面も大きく、柱頭は頭貫でつなぎ、挙鼻をつけ、柱上は三斗組の組物を置き、中備も三斗組として桁を受ける。妻は虹梁の上に板蟇股、大斗実肘木で棟を受けている。

神門をくぐると大きな拝殿が構えている。桁行3間、梁間3間で、屋根は入母屋造檜皮葺き妻入である。軸部は、粽のある円柱に頭貫・台輪をのせ、柱上・柱間ともに阿麻組の組物で軒先を支えている。柱間には長押を付けず、正面と背面中央には藁座を付けて桟唐戸を建て込むなど、唐様を主調とした建造物である。小屋梁の墨書により承応2年(1653)から翌年にかけて建立されたと知られる。建仁寺流の加賀藩御大工山上善右衛門嘉広の作と伝わる。

拝殿の左奥には、摂社の若宮神社本殿が祀られている。祭神は事代主命を祀る。1間社流造檜皮葺きの社殿は、永禄12年(1569)能登守護畠山義綱により再建されたもので、国の重文に指定されている。
気多神社縁起」によると、第8代孝元天皇の御代に大己貴命が出雲から300余神を率いて来降し、化鳥・大蛇を退治して海路を開いたという。
「気多社祭儀録」では、祭神は第10代崇神天皇の御代に勧請とし、神代からの鎮座とする説もあると記される。

拝殿の後ろに続く本殿は、桁行3間、梁間4間の両流造りで、正面に1間の向拝を付け、4周に高欄付きの縁を廻らせている。両流造りは、このほか厳島神社にしか見られず類例が乏しい。外陣・中陣・内陣の3室に分け、内陣は奥の2間とし、その前方1間を囲って神座とし、後方の1間を御納戸と称する特異な形態をとり、神仏習合の影響を濃厚に伝えている。
棟札より天明7年(1787)の建立と知られ、大工は清水次左衛門峯充である。