半坪ビオトープの日記

2015-01-30 香嵐渓、待月橋

[][][]香嵐渓、待月橋 21:25

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頭が切れて残念だが、道端に依田秋圃の歌碑があった。東京出身の秋圃は名古屋に住み、木材関係の仕事でこの山野を愛したという。

ほろほろと時雨すくらし一しきり 小夜やましくれ谷わたるらし 秋圃

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もみじのトンネルは巴川沿いをゆるやかに上っていき、右に川沿いへの道を分けると、もみじの間から眼下に待月橋を見下ろすことになる。

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待月橋(たいげつきょう)は、香嵐渓のシンボル的存在で、撮影スポットとしても大変人気がある場所である。

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帰りがけに橋を渡ることにして、一段高い道を辿って木々の合間から見過ごしていく。

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道端にはアキチョウジ(Plectranthus longitubus)の花が咲いていた。茎先や葉腋から円錐花序を出し、細毛の生えた花柄の先に唇形の花を横向きに咲かせる。和名は秋に丁字形の花をつけることによる。近縁種のセキヤノアキチョウジ(P. effusus)とよく似ているが、セキヤノアキチョウジは花枝が長く、萼の裂片が尖っている。従前は、アキチョウジは岐阜県以西に分布するとされていたが、最近は愛知県以西に分布とされ、愛知県以東に分布するセキヤノアキチョウジと三河あたりで混在しているといわれる。見た感じでは中々見分けがつかないが、花柄が短いと思われるのでアキチョウジとする。花期は8〜10月で、すでに盛りは過ぎて青い花色はかなり色褪せている。

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こちらの花は、シュウカイドウ(Begonia grandis)である。中国大陸及びマレー半島原産の多年生草本球根植物で、日本には江戸時代初期に持ち込まれ園芸用として栽培されてきた。花期は8〜10月。耐寒性が高く、同属の中で唯一日本に定着し野生化している。

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遊歩道から左に折れると香積寺参道となり、参道の左手に大きな風外碑が建っている。風外碑とは風外禅師碑のことで、25世住職の風外本高は書画に堪能で多くの作品を残し、秋のもみじ祭りの期間中だけ収蔵されている書画を拝観できる。風外碑の手前に服部承風の漢詩碑がある。愛知が生んだ現代の代表的漢詩人といわれる。

来尋風外寺 初地蘚苔芳 巴水劃塵境 楓林擁佛堂 衣添紅葉色(略)

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風外碑の前を進んでいくと、豊栄稲荷大明神の赤い旗がたなびく道を左に分けて香積寺の広い参道に出る。

2015-01-29 香嵐渓、太子堂

[][][]香嵐渓太子堂 21:09

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松平郷から同じ豊田市足助町にある香嵐渓に向かった。江戸時代、足助尾張三河信州伊那谷を結ぶ伊那街道(中馬街道)の宿場町として大きく発展したが、明治以降には過疎化の道をたどった。だが、国道が宿場町をはずれたため、伊那街道沿いの街並みが今でも残されている。今回は訪ねなかったが、昔ながらの玉田屋旅館や旧紙屋鈴木家、旧三嶋館、中馬館などの古い建物や、足助資料館もある。足助での昼食は、国道沿いで評判のうなぎ屋・川安に決めた。

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メニューはうな重と鰻丼4種だったが、朝早く出かけて腹ペコだったので、ご褒美がてらうな重を頼んだ。鰻には甘み抑えめのタレがたっぷりかけられ、しっかり焼かれているが、食べてみると柔らかくて香ばしい。久しぶりの鰻が予想通り美味しくて満足した。

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足助町の国道に架かる巴橋の上から、東海随一の紅葉の名所といわれる香嵐渓の全景を見渡すことができる。左の飯盛山(255m)に囲まれて大きく屈曲する巴川の渓谷は、香積寺の「香」と嵐気の「嵐」の文字から香嵐渓と名付けられた。紅葉の見頃は11月中旬から12月初旬ということなので

11月中旬に訪ねたのだが、まだ紅葉が始まったばかりで10年ほど前に見た全山紅葉真っ盛りの景色ではなかった。

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巴橋から上流を見て左側に飯盛山がある。森林公園にもなっている飯盛山には、平安時代から南北朝時代にかけて足助一帯を支配した足助氏の居城があった。飯森城址は現在でも曲輪や空堀など中世城砦の形態をとどめ、西三河高原の代表的な遺構とされる。森林公園入り口には六地蔵が祀られている。別名延命地蔵とも呼ばれているそうだ。ここから飯盛山に登り始めるとすぐに、カタクリの群生地がある。

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巴川沿いに香嵐渓のもみじのトンネルがあるが、まだ色づき始めたばかりである。

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まだ緑のもみじの間に桜の花が咲いている。香嵐渓から1時間ほどの小原には、年に2度咲くという四季桜の名所があるというから、これも四季桜だと思われる。

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香嵐渓には多くの紅葉が植えられているが、このもみじは寛永年間(1624~44)に香積寺11世三栄(参栄)禅師が参道に植樹したのが始まりとされる。三栄本秀は、般若心経を一巻読むごとに楓や杉を1本ずつ参道に植え、「もみじの開祖」と呼ばれる。その後、大正・昭和の初めに地元住民の手によって植えられ、現在では約4000本の紅葉があるといわれる。

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巴川沿いの道から見上げると、上に太子堂が建っている。法隆寺の夢殿のような六角堂で、中には聖徳太子像が祀られている。太子堂の裏手からも飯盛山に登ることができる。

2015-01-28 高月院本堂、松平家墓所

[][]高月院本堂、松平家墓所 21:06

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山門を潜ってすぐ右手に枝垂れ桜が植えられている。樹高8m、胸回り1.7m、根回り4mで、元信君(家康)御手植えという。

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高月院本堂は名月でも名高く、中秋の名月を眺めながら月見の会が催される。

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高月院の収蔵展示室には、市指定文化財の高月院文書、室町時代初期の弁財天女画像、三尊来迎仏画像、伝家康八才書、野外用の携帯茶道具「野風炉」などが収められている。

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本堂左手前には、鐘楼堂が建っている。高月院の1日は、6時15分の梵鐘と6時30分からの朝勤行により始まる。

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鐘楼堂のさらに左奥には、弁財天が祀られている。

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松平東照宮と高月院境内、松平城址、大給城址の四ヶ所は、国指定史跡「松平家遺跡」になっている。本堂の左手奥に進んでいくと、松平家墓所がある。

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石段を一段上がった右側には、代々の住職の墓が並んでいる。

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一番高い石垣の上に松平家の墓所がある。葵の紋が刻まれた石塀及び石扉の中に、初代親氏、二代泰親、四代親忠夫人の墓がある。この墓所は文政年間(1818~30)に11代将軍家斉が、明治23年(1890)には大和郡山藩主であった柳沢保申が修築している。

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初代親氏の墓塔を中心に、宝篋印塔三基が祀られている。三基とも室町時代中期から後期のものとされる。四代親忠夫人の墓があるのは、知恩院の住持にもなった親忠の第四子・超誉存牛上人が高月院第七代住職であるため、母を祖先の墓域に葬ったと考えられている。

以上が松平郷訪問記であるが、初代親氏と二代泰親が松平家の祖先であったかどうかについて、かなり疑問視する説があることも付け加えておきたい。

2015-01-27 高月院、山門

[][]高月院、山門 20:38

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松平東照宮から松平氏の菩提寺である高月院にかけての2haが、歴史と自然の郷「松平郷園地」として整備されている。高月院に至る道の右側には園地の入り口があり、園地に入ると、松平八代を象徴する七対の石柱と初代親氏の銅像が設けられている。

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高月院に至る道沿いには「室町塀」や「冠木門」があり、室町塀の内側には、親水緑道の「あやめ恋路」がある。これは振り返ってみたところである。

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高月院は元々「寂静寺」という修験の寺だったそうで、貞治6年(1367)足助次郎重宗の子・重政(寛立上人)が松平郷主・在原信重(親氏の妻の父親)の援護を受けて建立したといわれている。

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初代松平親氏が、永和3年(1377)に本尊阿弥陀仏をはじめ、本堂、方丈、山門、庫裡などを寄進してから「高月院」と改め、松平氏の菩提寺になったと伝えられている。

法然上人三河二十五霊場第1番にもなっている。

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慶長7年(1602)寺領100石を徳川家康より下賜され、以後幕末に至るまで、時の将軍によって将軍家先祖の菩提所として厚遇されてきた。高月院の住職は幕府によって選任され、10万石待遇で江戸参府の際には駕籠での往復が許されていた。

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高月院は浄土宗で、正式には本松山高月院という。山門手前の参道左手に三十三観音菩薩が祀られている。その右には百度石が立っている。お百度参りの時には、この石を基点に本堂までを100回往復する。

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山門の左手には仏足石が安置されている。仏足石は釈迦の足跡で、インドでは釈迦の代理を意味する。足裏には千輻輪相という図が描かれている。

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現在の山門や本堂は、寛永18年(1641)に徳川家光によって再建されたものである。

2015-01-26 松平郷館

[][]松平郷館 21:00

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松平東照宮の手前右側に、松平郷館が建っている。館内には松平家と徳川家にまつわる歴史的な資料が数多く収められている。

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館内に入るとすぐ左手に、松平氏の発祥コーナーがあり、初代の松平太郎左衛門親氏から東照宮を建立した9代尚英まで、3代信光を初代として本家から分かれた松平宗家の9代家康までの系図などが細かく説明されている。松平宗家は三河全域まで勢力を拡大していったが、支配力が弱体化した8代広忠時代の天文11年(1542)に9代家康が岡崎城で生まれた。天下和順で始まる漢文は、親氏の願文である。

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家系図から順に時計回りで見ていくと、まず最初に木造松平親氏坐像が目につく。高さ30cm、寄木造黒漆塗り、目は玉眼細工の僧形。松平郷へ入る前の徳阿弥という時宗の僧の姿である。坐像の右には、親氏が松平城築城に使用されたと伝わる鉄の玄能が展示されている。

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松平家に伝わる太刀の右には、親氏の護身仏と伝えられる仏像がある。松平家の守護神として、また八幡神社の御神体として奉祀されていた。

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その右にも松平家に伝来する像高22cmの阿弥陀如来像がある。

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さらに右には、松平家秘蔵の弁財天、徳川家康像、朱塗黒糸威具足と続く。弁財天は産湯の井戸の奥に奉祀され、井戸の守護神ともいわれていた。家康像は晩年の姿である。具足は松平太郎左衛門家9代尚英が、関ヶ原で勲功があったため家康よりいただいた具足で、大坂の陣での刀傷の跡もある。

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入って正面の左手には、徳川家康誕生と江戸幕府のコーナーがあって、将軍家の家系図、家紋、家康公二十将の説明があり、黒皮糸威具足や三輪紋足軽具足、馬印(うまじるし)などが展示されている。馬印とは、戦国時代の戦場で、武将が己の所在を明示するため、馬側や本陣で長柄の先につけた印である。旗印から発展したもので、馬標、馬験ともいう。三方向から見えるこの馬印は、松平太郎左衛門家のものである。

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正面右手には、松平太郎左衛門家に伝来する、長柄の槍や刺股、火縄銃や太刀などの武具が展示されている。

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入って右側の壁には、殿様作曲家といわれた松平信博のコーナーがある。松平太郎左衛門家20代の信博は、明治生まれで大正・昭和と映画音楽などの作曲を多数手がけたことで知られるという。

2015-01-25 松平東照宮、産湯の井戸

[][]松平東照宮、産湯の井戸 21:32

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11月中旬に東海随一の紅葉の名所といわれる香嵐渓を訪れた。愛知県豊田市足助町香嵐渓に向かう途中、松平町にある松平郷に立ち寄った。松平郷は三河国の戦国大名から江戸幕府の将軍家へと発展する松平氏・徳川氏の発祥地である。一帯に残る館跡、城跡等は松平氏遺跡として国の史跡に指定されている。松平東照宮の敷地自体が松平氏館跡で、現在でも石垣や濠などが残されている。

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鳥居の左横に「松平氏遺跡」「松平氏館跡地」の碑がある。塀に囲まれたこの区域は、松平太郎左衛門家が代々居館を構えた館跡である。伝承によれば、南北朝の動乱期、東国から諸国を流浪してこの地にやってきた時宗の遊行僧徳阿弥は、当地を拠点としていた土豪在原太郎左衛門信重に見込まれ女婿となって家督を継いだ。松平郷主太郎左衛門家を継いだ徳阿弥は、還俗して松平太郎左衛門親氏と名乗り、ここに松平氏の基礎を築いた。その後、2代泰親・3代信光の代に岡崎平野に進出し、当地には信光の兄信広が留まった。松平郷松平家は、関ヶ原の戦いと大坂の陣で軍功をたてた9代尚栄が領地440石を安堵され、以後1万石以上の大名に準ずる扱いを受けた。鳥居の手前の石垣を巡らした水堀は、尚栄が整備したといわれている。

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元和5年(1619)9代尚栄が氏神であった八幡宮(現、奥宮)に東照大権現(家康)を合祀して松平東照宮となった。現在地に社殿が造営されたのは明治になってからである。昭和40年、松平氏の始祖親氏を合祀した。拝殿はあいにく工事中であった。

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東照宮の右手には奥宮の門がある。しっかりとした構えであり、この中に産湯の井戸もある。

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奥宮の右手前にある産湯の井戸は、在原信盛が掘ったといわれ、松平家代々の産湯として用いられた。

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天文11年(1542)竹千代(家康)が岡崎城で誕生した際、この井戸からくみ上げた水を竹筒に詰めて早馬で届けたといわれている。奥に建つ小さな社には、弁財天が祀られている。

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奥宮の拝殿の柱には「産八幡の宮」の札が掛けられている。

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拝殿内部には徳川家康と松平親氏が祀られているようだ。

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奥宮の手前には二の井戸、三の井戸がある。昔は七つ井戸があったといわれる。

2015-01-23 アサリの入った豆腐チゲ

[]アサリの入った豆腐チゲ 20:59

アサリを加えた豆腐チゲのレシピを探した(4人前)。

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 生姜1片、ニンニク2片をみじん切りにし、ニラ1束を4cmに切り、ネギ1本を斜め切りにする。

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◆‘蕕砲瓦淕大1をひき、生姜ニンニクを熱し、香りが出てきたら、豚肉200gを炒める。

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 アサリ200gは砂抜きし、よく洗っておく。

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ぁ‘蕕某600ccを沸かし、煮立ってきたらアサリとほぐした舞茸80gを入れる。

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アサリが開いたら、細かく切った白菜キムチ200gとニラを加える。

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Α〆討喙冦ったら、豆腐1丁とネギを加える。

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А,気蕕北A溝脾押△垢蠅瓦淆脾押▲ΕДぅ僉次蔽羃撻后璽廖紡脾韻魏辰┐襦

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─々イ澆砲茲螳賁唐辛子豆板醤(小1)を加え、味を整えて出来上がり。

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* 肉は鶏肉や牛肉でもよい。好みで卵を落としてもよい。

2015-01-22 甘くないスペアリブ

[]甘くないスペアリブ 21:57

スペアリブは甘く料理することが多いので、ハーブの効いた甘くないスペアリブのレシピを探した(3人前)

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 クミンシード小1、クレージーソルト小1、ニンニク1片、胡椒少々をすり鉢(またはミキサー)ですり潰し、オリーブオイル大3を混ぜ合わせペースト状にする。

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◆‘スペアリブ600gに,離據璽好箸鬚垢蟾み、10分以上寝かせる。

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 ニンジン2/3本、セロリ1/2本、玉ねぎ1個を大きめに切る。

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ぁ´△瞭をフライパンで焦げ目がつくまで両面とも焼く。焦げ目がつけば中に火が通らなくてもよい。

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ァ‖冉皿にローズマリー、マジョラム、タイムなどのハーブとの野菜を並べ入れる。

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Α´イ両紊豊い瞭をのせ、赤ワイン200ccを加え、コンソメ1個を砕いて入れる。

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А200℃に温めたオーブンで40分焼いて出来上がり。塩味が足りない場合は、塩胡椒で調整する。

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* ニンジンはさらに半分に切った方がよい。

2015-01-21 吹割渓谷

[][]吹割渓谷 22:27

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吹割の滝の上流にも遊歩道が続き、中洲千畳敷にはススキが生えている。その先には浮島があって川は二分され、浮島橋と吹割橋の二つの橋が架かっている。

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浮島橋の上から下流を眺めると、浅瀬が広がる千畳敷の左側に遊歩道が認められ、彼方の吹割の滝に川は吸い込まれてゆく。

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浮島橋から上流を眺めると、川を二分している左の浮島がかなり大きいのがわかる。紅葉も始まったばかりで、もう少し経つと絶景になるだろう。

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浮島には浮島観音堂が建ち、左甚五郎作という浮島如意輪観音像が祀られている。その先の吹割橋から上流を眺めると、こちらの分流は流れが穏やかで、右側とはまるで違う景色が見える。

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吹割橋の下流には広い浅瀬の千畳敷が見えるが、その手前にあるはずの夫婦岩は確認できなかった。

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吹割橋を渡り終えると真っ赤な紅葉が待ち受けていた。休憩スペースとトイレのある広場の先には、片品川の右岸を巡る遊歩道がさらに1kmあまり続く。

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人影がほとんどなくなった緩やかな坂道をひたすら登っていくと、500mほどで第一観瀑台にたどり着く。木々の合間から見下ろす吹割の滝は、一味違う光景でダイナミックな水の流れが手に取るように鳥瞰できる。

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木々に覆われた第三観瀑台からは吹割の滝はほとんで見えず、主にその下流の獅子岩般若岩の奇岩や鱒飛の滝が見える。

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遊歩道の終点近くから階段を下り続けると、ようやく十二様とも呼ばれている十二坐神社に出る。神社脇に橙色から赤色にすっかり色付いた紅葉を見つけることができた。

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遊歩道も終わり、国道に架かる吹割大橋から上流を眺めると、鱒飛の滝は認められないが、その下流に名もなき滝がいくつも続いているのがわかる。吹割渓谷遊歩道の散策は、吹割の滝も含めて2km強、1時間弱で一周できるので四季それぞれの景色を楽しめるが、秋の紅葉の時期が最もよいと感じた。

2015-01-20 老神温泉、吹割の滝

[][][]老神温泉、吹割の滝 21:16

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昨秋は例年に比べて数多く紅葉狩りに出かけた。まず初めはいつもの遊び友達と11月初旬に群馬県沼田市の老神温泉を訪れた。赤城山の北麓、片品川沿いに温泉街が広がる老神温泉には、開湯伝説がいくつもある。その昔、赤城山の神である大蛇と、日光の二荒山(男体山)の神である大ムカデが神域をかけて戦っていた。日光戦場ヶ原の戦いで、日光ムカデ神の軍勢が放った矢に大蛇神が負傷し、後の老神温泉付近まで逃げてきた。ここで大蛇神が体に刺さっていた矢を抜いて地面に刺すと、暖かい湯が湧き出した。その湯に浸かり傷が癒えた大蛇神は、力が漲りムカデ神を見事に日光へ追い返した。そこで「追神」温泉と命名され、後に転じて「老神」温泉となったという。

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春から秋にかけては名物の朝市が開かれ、秋には老神渓谷のライトアップが催される。まだ紅葉が始まったばかりの11月初旬だったが、内楽橋より光に照らされた老神渓谷を眺めると、幻想的な光景にしばし見とれてしまった。

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老神温泉から1.5kmほど上流の片品川に、日本の滝百選に選ばれている吹割の滝がある。土産物屋の並ぶ遊歩道に沿って、片品渓谷(吹割渓谷)の水際まで下ると、まず現れるのは鱒飛の滝である。高さ8m、幅6mの滝で、遡上してきた鱒が越えることができずに止まってしまうことから、かつては鱒止の滝と呼ばれていた。

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遊歩道を進むと、獅子岩とか般若岩と呼ばれる奇岩・岩壁が次々と現れ、赤く色付いた紅葉もちらほらと見えるようになる。

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吹割の滝は、高さ7m、幅30m余に及び、国の天然記念物に指定されている。この滝は900万年前に起こった火山の噴火による大規模な火砕流が冷固した溶結凝灰岩が、川床上を流れる片品川の清流によって岩質の柔らかい部分を侵食され、多数の割れ目を生じ、あたかも巨大な岩を吹き割れたように見えることから、その名が生まれた。

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大きく抉られたV字谷に向かって、三方から河川が流れ落ちる姿から、「東洋のナイヤガラ」とも呼ばれる。水の侵食により1年間で約7cm上流に向かって遡行しているという。

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昔から吹割の滝の滝壺は龍宮に通じていると言われ、村で祝儀がある度に滝壺にお願いの手紙を投げ入れて龍宮からお椀やお膳を借りていた。ところがあるとき、一組だけ返し忘れてしまい、それ以来二度と膳椀を貸してもらえなくなったという。東北から九州までに広く分布する「椀貸し伝説」の一つで、貸借の場所は淵、池、井戸、岩、塚など異郷や他界との接点であり、膳椀の持ち主はそこに住む龍神、乙姫、河童、狐など霊威的な存在である。由来としては、木製食器を作りながら各地を巡った「木地屋」の存在が想定されている。

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V字谷の正面から滝壺を眺めると、水しぶきを上げて轟々と落下する様は、吸い込まれるように壮観である。滝壺近くに小さく人影が認められ、吹割の滝の大きさがよくわかる。

2015-01-19 魚のアラとアサリとキャベツの蒸し煮

[]魚のアラとアサリキャベツの蒸し煮 21:14

スズキの切り身を買ったら、アラがついていたので蒸し煮にした(4人前)。

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 ゝのアラは分量外の塩をきつめに振り、30分後に熱湯を掛け、塩コショウする。

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◆‘蕕オリーブオイル50ccを入れ、ニンニク2片のみじん切りを加え、弱火で炒める。香りが出たらアラを加えて白ワイン50ccを振りかけ、蓋をして4分ほど蒸し煮する。

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 ざく切りしたキャベツ150gと、砂出ししたアサリ200gを加え、蓋をしてアサリが開くまで3分ほど蒸し煮する。

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ぁ ̄コショウで味を整えて出来上がり。

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* あればパセリのみじん切りを散らすとよい。

2015-01-18 横浜中華街、関帝廟

[][][]横浜中華街、関帝廟 20:56

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川崎大師参拝の後、昼食のため横浜中華街に向かった。横浜中華街は、約0.2平方キロのエリア内に500店以上の店舗があり、日本最大かつ東アジア最大の中華街となっている。みなとみらい線元町・中華街駅から中華街入口に出ると、鮮やかな青色の朝陽門が建っている。日の出を迎え、街全体に繁栄をもたらすとの意味があり、東門とも呼ばれる。清龍が守護神である。

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南門シルクロードを南下し、テーマパークの横浜大世界の前で右に折れると関帝廟通りに入る。

入口に建つ門は天長門という。天のとこしえ(永久)なることを表す。

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関帝廟の手前の香港路にある保昌という小さな店で食事をした。テレビにも取り上げられ、ネットでも牛バラカレーなどで人気のある店である。料理はどれも美味しかったのだが、皿が小さかったのでいく皿も注文することになった。

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関帝廟は横浜中華街の中心だけあって、きらびやかに飾られていた。

中華街の歴史はかなり古い。安政6年(1859)に横浜が開港すると外国人居留地が造成され、欧米人とともに中国人も来住した。貿易商も来住し居留地の一角に関帝廟や中華会館などを建てていった。これが中華街の原型だが、まだ中華料理店は少なかった。関東大震災で欧米人の多くが帰国した後に、徐々に中華料理店も増えて中国人中心の街へと変わっていった。昭和30年(1955)に中華街大通り入口に牌楼門が建てられ、門の上に「中華街」と書かれたことで、それまで南京町と呼ばれていたこの街が次第に中華街と呼ばれるようになっていった。

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関帝廟の始まりは、文久2年(1862)一人の中国人が関羽の木像を抱いて現在の地に小さな祠を開いたことによる。明治4年(1871)には華僑たちの募金で本格的な関帝廟が建立された。当時の華僑は1000人余りだった。その後、改築が加えられたが関東大震災で倒壊し、大正14年(1925)に二代関帝廟が再建された。昭和20年の横浜大空襲で焼失後、昭和22年に三代関帝廟が竣工したが昭和61年に火災で焼失した。平成2年に四代関帝廟が通りに面して建てられた。

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関帝廟の主神・関聖帝君は、西暦160年前後の後漢、三国時代にかけて活躍した実在の武将である。姓は關、名は羽、字は雲長という。後漢末期は悪政のため飢餓と貧困が蔓延し、黄巾賊の反乱が世の中を騒がせていた。乱世をただすため、関羽・張飛・劉備の三人は義兄弟の杯を交わし、義勇軍に参加し黄巾賊征伐に立ち上がった。関羽は武勇に長け、劉備に対する忠誠心も絶対で、常に弱い民衆の味方であったため、戦死した後も代々の朝廷から関帝として祀られ、民衆からも篤く崇拝され続けてきた。

天井には豪華な装飾が施されている。無形の「天」を具象化したものが「玉皇上帝」であり、万物の根源として位置づけられている。宇宙の創造者であり、絶対な支配者でもある。天空に住んでいるとされる玉皇上帝を拝むために、廟内の祭壇の前に天を仰ぎ見る天井を作っている。

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関羽は武将として理財にも精通していたため、商人は「財神」すなわち商売繁盛の神としても信仰している。武将にとっても商人にとっても一番大切なものは信義・信用とされるからである。

柱でよく見えないが、関聖帝君の左手には地母娘娘が祀られている。地母娘娘は、中国の古代天地創造の神話に由来する神で、除災・健康など人間守護として篤く信仰されている。 

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関聖帝君の右手には観音菩薩が祀られている。ほかにも福徳正神も右斜め後ろに祀られている。福徳正神とは、中国古代の原始的農耕社会から生まれた自然神の地神で、土地公とも呼ばれる。

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関帝廟通りの出口には地久門が建っている。地のとこしえなることを表している。中華街には他にも延平門や玄武門、朱雀門などがあり、すべてで10基の門(牌楼)を数える。

帰りがけに矢向の志楽の湯にのんびりと浸かって、初詣を終えた。

2015-01-17 薬師殿、経蔵

[][]薬師殿、経蔵 21:06

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鐘楼堂から八角五重塔の裏手に回ると、大本坊が建っている。戦災で焼失し、同時に大本堂も失ったため、一部改造・荘厳を施して大本堂再建まで仮本堂として使用された。

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大本坊には、主に職員や僧侶が所属する事務所が存在する。廊下の途中には稚児大師が祀られており、一般信徒でも観ることができる。

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大本坊の右隣には信徒会館が建ち、その前に先ほども眺めた不動堂が建っている。元は明治23年の創建であった。堂内には成田山新勝寺の本尊不動明王の分躰が勧請・奉安されている。

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大本坊の左手に進むと、つるの池があって、やすらぎ橋が架かっている。

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やすらぎ橋を渡ると金色の釈迦如来像が安置されている。つるの池は釈迦が沐浴した尼蓮禅河を表し、周りの樹木は悟りを開いたウルビルバーの森を表現している。釈迦如来像の背景に見える薬師殿の塔屋がブダガヤの大塔に準えられ、釈迦が成道した情景を想起することができるという。

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釈迦如来像の先を回り込むと大きな薬師殿が建っている。薬師殿は、当山開創880年記念として平成20年に落慶した。堂内には薬師瑠璃光如来尊像、それを信仰する人々を守る武神である十二神将が奉安されている。

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また、右手前には薬師瑠璃光如来の分身・なで薬師が奉祀され、撫でることにより身体安全・病気平癒が祈念できる。

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境内を一通り回って大本堂前に戻ると、左手に経蔵が建っているのに気づいた。平成16年大開帳奉修記念として落慶した。

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経蔵には、中国最後の木版大蔵経といわれる「乾隆版大蔵経」7240巻が収蔵されている。本尊である説法釈迦如来の手前には巨大な五鈷杵が安置されている。

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経蔵の天井には、韓国人間国宝・李萬奉による「双龍」が、その周りには仏画家・染川英輔による「飛天」図が荘厳されている。

経蔵の落慶により、川崎大師には七堂伽藍が整い、戦後復興が完了したといわれる。

2015-01-15 大本堂、八角五重塔

[][]大本堂、八角五重塔 22:44

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大山門を潜ってすぐ右手奥に聖徳太子堂が建っている。昭和41年に奉納された聖徳太子像が安置されている。

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大山門の正面には、これまた大きな大本堂が建っている。平安期の建築様式に近代的感覚を盛り込んだ大伽藍の鉄筋コンクリート造で、昭和39年に落成した。

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川崎大師平間寺の縁起をひもとくと、今を去る880余年前、崇徳天皇の御代、平間兼乗という武士が無実の罪により生国尾張を追われ、諸国を放浪した挙句ようやくこの川崎の地に住み着き、漁猟を生業として貧しい暮らしを立てていた。兼乘は深く仏法に帰依し、夢枕に立った高僧のお告げの通り海から弘法大師の木像を引き上げた。兼乘はその像を草庵に奉り日夜信仰していたが、諸国行脚の途中に立ち寄った高野山の尊賢上人と一緒に太治3年(1128)にお堂を建立し、平間寺と号し、本尊を厄除弘法大師と称したのが始まりである。永治元年(1141)近衛天皇により勅願寺となり、江戸時代になって徳川将軍家も帰依した。

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この一対物の長提灯は、江戸町火消第二区が昭和33年に奉納したものである。

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本堂内には本尊の厄除弘法大師を中心に、不動明王・愛染明王、稚児大師、救世観音、金剛界曼荼羅、胎蔵界曼荼羅が奉安されている。堂内では毎日護摩修行が行われ、檀信徒も同席して祈りを捧げる。

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本堂の左手から境内を眺めると、一番奥には背の高い信徒会館が建っている。金色に輝く宝塔は、本尊厄除弘法大師のご誓願宣揚と正法興隆を目指す根本道場の象徴である。信徒会館の手前の大きな屋根のお堂は、昭和39年に建立された不動堂である。不動堂の右手前の小さなお堂は、福徳稲荷堂である。境内諸堂の内唯一、昭和20年の空襲での焼失を逃れた建物である。

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不動堂の向かい、平間寺境内のほぼ中心に八角五重塔が建っている。昭和59年弘法大師1150年遠忌を記念して建立された。毎月第一日曜日と21日の縁日に限り内部が拝観できる。二層に恵果和上像、弘法大師像、興教大師像、両界曼荼羅を安置している。初層に真言八祖の図像、金剛界五智如来像、地下の大師地区慰霊堂には釈迦如来が奉安されている。

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八角五重塔の北には不動門が建っている。昭和23年に福島県の有縁の地より山門として譲り受け、現在の大山門建立に伴いこの場所に移築された。

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不動門から見てやや左手に、鐘楼堂が建っている。これも不動門とともに有縁の地より譲り受けたもので、当山の戦後の復興を記念する建築物である。

2015-01-14 川崎大師、大山門

[][]川崎大師、大山21:08

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今年の初詣は、川崎大師にでかけた。京急大師線川崎大師駅北口に降り立つと、駅前左側に表参道が見える。川崎大師への参詣客を輸送する目的で1899年に開業した大師電気鉄道は、現在の京浜急行電鉄の基となったという。

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駅から歩いて900mというが、表参道の右手には川崎大師の建物が見えるので、境内を大回りしていることがわかる。数件のくず餅屋のあと、たこやき、からあげなどの屋台がずらっと並ぶ参道を多くの参拝客が進んで行く。

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表参道の左側に小さなお堂がある。今から370年以前に創建されたとされる馬頭観音堂である。本尊は木像の馬頭観音である。この辺りが参詣の際の馬止めの場所で、参拝者がお堂の格子に馬をつなぐとどんな暴れ馬でもおとなしくなったそうだ。そこで赤い布に好きな人の名前を書き、格子に結んで良縁を願うようになったという。

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表参道を右にUターンすると、仲見世となる。

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仲見世に入ると、せき止飴、とんとこ飴を売る店がいくつも並んで威勢良くトントン音を出している。だるまや甘酒を売る店もある。

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仲見世の突き当たりには、大きな大山門が建っている。右手前にある大きな久寿餅屋にはくず餅を買い求める客が並んでいる。

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大山門の左手には、大本山平間寺の寺号標が立ち、その奥に五重塔が垣間見える。川崎大師とは通称で、正式には真言宗智山派大本山金剛山金乗院平間寺(へいけんじ)という。

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尊賢を開山、平間兼乗を開基とする。川崎大師の建物はほとんど戦火で焼失し、この大山門は開創850年記念で昭和52 年(1977)に落慶した。上層部分は経庫になっている。

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山門の四方(東西南北)には、京都東寺の国宝・四天王を模刻・鋳造した持国天、増長天、広目天、多聞天が奉安されている。これは南にある増長天像である。

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大山門は鉄骨鉄筋であるため木造よりも十分軒を出すことができているが、やはり組物は実際に突き刺さった感じが出ないという。それでも上層の高欄のデザインは独特の意匠となっている。

2015-01-13 鶏モモ肉のオニオントマト煮

[]鶏モモ肉のオニオントマト20:37

鶏肉のオニオントマト煮が美味しそうなので作ってみた(4人前)。

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 .織泪優2個を縦に2つに切り、筋に直角に薄切りにしておく。

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◆〃椒皀眛大3枚を4つ切りし、塩コショウする。フライパンにサラダ油小1を熱し、鶏肉を皮から強火で焼き、両面焼いたら取り出しておく。

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 鍋の内側を水でぬらし、タマネギの半量を平らに敷き、△両討い新榮を皮を上にして並べ入れ、残りのタマネギをのせる。

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トマトジュース小1缶、ウスターソース大2、トマトケチャップ大2、赤ワイン50cc、カレー粉小1/2を加えて火にかける。

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ァ,呂犬瓩篭火、煮立ってきたら中火にして蓋をし、約20分煮る。

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Α‥喘罎念貪戞⊂絏爾鬚劼辰り返し、味を整えて出来上がり。

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* 焦げないように注意し、途中で煮汁が足りなければワインを足すとよい。

2015-01-12 慈照寺

[][]慈照寺 20:50

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三社神社の東約1kmに曹洞宗の慈照寺がある。東南には富士山がよく見えることから、山号は有富山という。創建年代は不明だが、「甲斐国社記・寺記」によれば当初は真言宗寺院で、延徳元年(1489)に真翁宗見が当地に再興し、曹洞宗寺院に改宗したという。中興開基は武田信昌の六男といわれる諸角昌清(豊後守、室住虎光)で、「寺記」によれば川中島の戦いで戦死したと伝わる。境内には法堂を中心に山門、庫院、開山堂など多数の堂宇が建ち並び、法堂裏手には庭園がある。

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参道石段を上った石垣の上に立つ山門は、入母屋造銅板葺き3間1戸の楼門で、法堂前に位置する。10世景岫長和の時代にあたる寛永16年(1639)の建立。桁行3間、梁間3間で、上層は挿肘木により支持された腰組に切目縁が四周し、内部には釈迦如来像1躯と五百羅漢像339躯が安置されている。釈迦如来像の造立は室町時代とされ、五百羅漢像の造立は寛文3年(1663)とされる。

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初層は吹き放しで、中央1間を通路とし、門扉は設けない。蟇股・木鼻・実肘木の形式が桃山時代の特徴をよく伝えており、均整のとれた優雅な建築物である。

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山門を潜ると正面に、曹洞宗寺院に特有の方丈形式の法堂が建っている。寺院の中心的建物で本堂とも称する。桁行12間、梁間8間、一重寄棟造銅板葺き。内部は桁行4列、前後2列の8室。建築様式から桃山時代から江戸時代初期の建立と推定されている。法堂に安置される本尊の釈迦三尊像は室町時代の院派仏師の作。禅宗寺院本尊として特徴的な宝冠釈迦如来像を中心に脇侍として文殊菩薩と普賢菩薩を配する釈迦三尊像である。

また、慈照寺文書という貴重な古文書も保存されている。永正12年(1515)から慶長年間にわたる16通の古文書で、武田氏の寄進状・安堵状をはじめ、徳川氏・浅野氏・今井氏などの中世・近世文書が含まれている。

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法堂の右手には庫院が建ち、法堂と庫院の間には竜王水が湧き出ている。慈照寺境内の湧泉で、「竜王」の地名の由来ともいわれる。水源地は東西2.1m、南北1.75m、深さ0.5mの規模で、赤坂台地と呼ばれる茅ヶ岳火砕流の末端部に出現した湧水であり、古くから地域の重要な水源として利用されてきた。伝承では、慈照寺中興開祖の真翁宗見は釜無川竜王湍と呼ばれる深淵に住む悪龍を済度し、その謝礼として本堂前に清水を湧き出させ、これを「竜王水(竜神水)」と称したという。

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法堂の左手に建っているこの建物が開山堂と思われる。

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法堂前から境内を見返ると山門の左手に鐘楼堂が建っている。

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鐘楼堂に吊られる梵鐘は、高さ1.38m、直径0.75mで、刻銘によると正保4年(1647)に奉納されたものである。

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帰りは勝沼ぶどうの丘に寄り、土産にワインを買い求め、山梨名物のほうとうも味わった。これはレスベラトロールブドウの皮や葉に多いポリフェノールの一つ)入りほうとう麺である。

2015-01-11 信玄堤、三社神社

[][][]信玄堤、三社神社 21:29

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戦国時代、御勅使川は信玄橋から芦安へ向かう県道甲斐芦安線上を流れていて、地元では前御勅使川と呼ぶ。古くから暴れ川として有名で、大雨が降ると洪水を起こし、釜無川を押し出して甲府盆地中央部に大きな水害をもたらした。天保10年(1541)に国主となった武田信玄は、この御勅使川・釜無川の治水事業に着手したといわれる。「甲斐国志」(1814)には、信玄が駒場、有野に石積出を築いて御勅使川の流れを高岩のある北東へ向け、六科に将棋頭を築いて水勢を二つに分け、釜無川との合流地点に十六石を置いて御勅使川の流れを弱め、竜王に信玄堤を築いて甲府盆地中央部を守ったという。しかし、信玄堤以外は証拠資料がないため構築期は不明だとされる。

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御勅使川が盆地に流れ出す扇頂部に設けられた堤防が、この石積出である。一番堤から五番堤まで残され、これは二番堤である。堤防の底は現在の地面の下はるか深くにある。

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御勅使川の流れを上流の石積出で北へはね、その流れを二つの将棋頭で受け止め、次に河岸段丘を切り開いた堀切で御勅使川の洪水の流れを高岩へ導いて勢いを弱め、弱まった流れを信玄堤がしっかりと受け止めている。一般に信玄堤と呼ばれるのは、この竜王の堤を指す。天正11年に着工され、弘治3年(1557)に竣工したとされる。その後も幾度となく改修され、築堤当時の原形ははっきりしないが、日本の土木技術史でも一級の価値があるとされる。川沿いには三角形の聖牛が並んでいる。

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聖牛とは、水流を弱めるために考案された古い河川工法の一つで、木材を三角に組み立て蛇籠に石を詰めて載せたものである。戦国時代の甲州が発祥の地といわれる。聖牛は大きさで「大聖牛」「中聖牛」「聖牛」の三つに分類されるが、復元展示されているこの聖牛は「中聖牛」である。

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信玄堤のある土手の手前に、三社神社が建っている。神社の台輪鳥居の石鳥居は、室町時代後半(16世紀後半)のものと考えられていて、高さは296cm、幅は244cmである。

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古来から水難場では堤防の安全を祈念する川除祭礼が行われているが、「甲斐国志」によれば、天長2年(825)に甲府盆地を中心に大水害が発生したことから、甲斐国一宮浅間神社、二宮美和神社、三宮玉諸神社が勧請されて三社神社が設置されたという。しかし、竜王河原宿は16世紀後半に形成されたので、その後と考えられている。御幸祭り(大御幸、三社御幸、おみゆきさん)は現在まで引き継がれて行われている。三社の御霊が竜王の地に集まり、信玄堤を練り歩き、三社神社において神事が執り行われる。その際、一宮浅間神社の祭神は木花開耶姫命なので、いつの頃からか神輿の担ぎ手は赤い長襦袢などで女性の格好をしなければならなくなったという。ちなみに二宮美和神社の祭神は大物主命であり、三宮玉諸神社の祭神は大国主命である。

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拝殿の中を覗いてみると幣殿はなく、拝殿の中から本殿を拝む構造となっている。

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三社神社の現在の本殿は建立棟札から、御旅殿の名で貞享3年(1686)に建立され、また改修棟札から宝永4年(1707)に三社大明神社として修造されていることが判明している。桁行3間、梁間2間の3間社流造で、一宮、二宮、三宮を祀るための規模を持ち、細部の装飾に意匠が凝らされ、屋根の構成も千鳥破風や軒唐破風を配し、破風の上に小さな屋根が付いて鬼面が設えられるなど華やかな外観となっている。屋根は昭和41年に檜皮葺から銅板葺に葺き替えられている。

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拝殿の脇には、小さな石祠や地蔵菩薩と思われる石仏が安置されている。

2015-01-09 長谷寺

[][]長谷寺 21:23

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芦安から南アルプス街道を南下し、甲府盆地に出て信玄堤の手前南に、真言宗智山派の長谷寺がある。

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八田村から旧白根村にかけての一帯には、平安時代後期以降、八田牧といわれる広大な牧が展開していた。当初は大和国長谷寺に倣って豊山長谷寺と名付けられたが、この土地が八田牧(後の八田荘)になったことから、山号は八田山と改称され現在に至っている。

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ちょっと小振りだが厳つい形相をした仁王像が、仏敵が寺院内に入り込むことを防いでいる。

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甲斐国社記・寺記」によれば、天平年間(729-49)に行基が甲斐国の治水事業のためこの地を訪れた際、自彫の十一面観音菩薩を安置し、大和国長谷寺を模して創建したという。

本堂は観音堂とも称する。単層入母屋造、檜皮葺き形の銅板葺、方3間。正面3間に両折桟唐戸を立て、両側面は3間のうち前寄りの1間のみ舞良戸とする。四周に擬宝珠高欄付の切目縁を廻し、1間の向拝を付す。本堂は、解体修理の際の墨書により、大永4年(1524)に再興されたことがわかった。

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本堂内部は中央の方1間に四天柱を立て内陣とし、来迎壁の前に禅宗様の須弥壇を構え、上に厨子を置く。厨子は入母屋造妻入板葺きで、室町時代の作である。

本尊の木造十一面観音菩薩立像は本堂厨子内に安置され、「原七郷の守り観音」として古くから篤く信仰されてきた。原七郷は御勅使川扇状地にあるため、旱魃に悩まされてきた地域で、湧水点にあたる長谷寺では古くから雨乞いの祈祷が行われてきた。十一面観音像は33年に一度開帳されるだけの秘仏であり、本堂前に写真付の案内板がある。像高169.3cm、桂材の一木造で、長身ですんなりとした姿をしている。行基作と伝わるが、実際の造立は平安時代と推定されている。本堂も厨子も国の重文に指定されている。

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本堂右手には鐘楼が建っているが、造りは簡素である。

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鐘楼の奥に、門と塀に囲まれた別の寺院らしきものがあり、その門前に大きな梵鐘が安置されている。

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塀の中を覗いてみるとやはり本堂のような建物が見えるが、梵鐘も建物も詳細はわからない。

2015-01-08 芦安温泉

[][][]芦安温泉 20:23

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急な上り一方の岩殿山では汗だくになったので、早めにひと風呂浴びたく甲府盆地の西、南アルプス市の芦安温泉に向かった。

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南アルプス白鳳渓谷の入口、夜叉神峠の麓に位置する芦安温泉は、釜無川の支流、御勅使川(みだいがわ)に架かる真っ赤な瀬戸大橋の向かいにある、岩園館の前後にいくつかの宿が散在する。橋の脇で水を落している「芦安堰堤」は、セメントを使用した堰堤としては日本で最初の砂防堰堤で、国の登録有形文化財に指定されている。

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温泉は源泉掛け流しで、大岩露天風呂は開放的で木々の緑に囲まれてゆったりと寛ぐことができる。

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芦安温泉から夜叉神峠に向かってまもなく、南アルプス芦安山岳館が建っている。山岳文化の発掘・継承、自然保護や安全登山の普及、南アルプスや芦安地域の自然などの紹介をしている。

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興味を引くのは、道祖神や民話にまつわる史跡などの文化財マップである。

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山岳館の近くで、アジサイ(Hydrangea macrophylla)の花を見つけた。アジサイには多くの品種があり区別が難しい。このアジサイは野生とすれば、関東以西に自生するヤマアジサイ(H.m. var. acuminata)であるが、園芸品種ガクアジサイ(H.m. form. normalis)に酷似しているともいえる。どちらにしても色がとても鮮やかである。

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山岳館の脇で、イタドリ(Polygonum cuspidatum)の花が咲いていた。日本全土の山野のいたる所に生える多年草で、高さは0.5m〜1.5mになる。茎は太く中空で、葉は互生し、長さ6〜15cmの卵形〜広卵形で先は急に尖る。雌雄異株で、花被は5裂する。雄花には雄しべが8個あり雌しべは小さい。雌花には3個の花柱があり雄しべは極小さい。花期は7〜10月。雄株と雌株では花穂の出方が違う。上に伸びるのが雄株で、垂れ下がるのが雌株である。天にも届こうと勢いよく上に伸びている雄株の姿は清々しい。

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帰りがけの道端で、タマアジサイ(Hydrangea involucrata)の花を見つけた。福島県関東地方中部地方の山地の谷川沿いに生える落葉低木で、高さは1〜2mになる。8〜9月、枝先に散房花序を出し、小さな両性花多数を白い装飾花が取り巻く。和名は、開花前の蕾が球形であることに由来する。

2015-01-07 岩殿山城跡

[][][]岩殿山城20:57

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ふれあいの館が建っているのは丸山山頂で、標高が444.4mある。そこから南を眺めると菊花山があり、その右裾の彼方に富士山が見える。富士山の右には高川山が同じ高さに見え、その右に大久保山、さらに右手に三ツ峠山と続く。

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ふれあいの館脇から階段状の登山道を登っていくと、道端にマメ科コマツナギ(Indigofera bungeana)の花が咲いていた。本州〜九州の草地や川の土手、道端などのやや乾いたところに生える落葉小低木で、高さは40~80cmになる。葉腋に総状花序を出し、淡紅紫色の花をやや密につける。花期は7〜9月。

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なおも進むと、途中の木々の隙間から鏡岩の絶壁が見える。すべすべしているので岩登りにも向かないだろう。右手に見える赤い花は、中国南部原産のサルスベリ(Lagerstroemia indica)である。

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つづら折りに登っていくと徐々に険しくなって分岐点となる。左にカブト岩、稚児落しへの道を分けた後に、巨大な自然石で作られた城門である揚城戸跡に出る。第二の関門と呼ばれていた。

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まもなく番所跡に出る。雨露を避けるための建物で、番兵の詰め所であった。

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番所跡で折り返すとすぐに馬屋跡となり、先は開けて三の丸頂上広場が見えてくる。

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頂上広場には岩殿山634mの標識が立っているが、厳密にいうとここは鏡岩の絶壁の上にある三の丸跡の頂で、岩殿山の山頂である本丸跡はもう少し先にある。標識の後ろの大きな石碑は、乃木大将の七言絶句の漢詩碑である。明治12年(1879)まだ中佐だった乃木希典は、駒橋に兵1500とともに宿泊し、岩殿山に従兵2人と攻防戦研究のために登った。鏡岩を仰いで「岩殿城の岩壁は兎も登れない」と感嘆したという。

戦国時代に小山田氏の居城とされた岩殿城だが、小山田氏は初め武田氏に対抗していた。永正6年(1509)武田氏の傘下に入った後は、軍事的に武田氏が相模の北条氏や駿河の今川氏、武蔵の上杉氏らと争った際の衝突地点となり、国境警備の役割を果たした。天正10年(1582)に織田軍が甲斐に侵攻した時に小山田信茂は織田方へ寝返り、岩殿山城へ落ち延びてくる武田勝頼を郡内に入れず、進退に窮した勝頼は天目山で自害した。武田家を滅亡させることに深く関わった小山田信茂はこの戦いの後、主従は一緒に死ぬべきだと織田信長により処刑された。

乃木希典の七言絶句は、「欲問当年遺恨長 英雄前後幾興亡 巉巌千尺荒墟上 仗剣帳然見夕陽」とある。

後年希典は明治天皇の崩御とともに自決しているが、主従は一緒に死ぬべきだという織田の言葉を実践したといえる。

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三の丸跡の展望台からは富士山がよく見える。富士山(3776m)の右手には高川山(976m)、その右に大久保山(1546m)、さらに右に三ツ峠山(1785m)と続く。富士山の左には杓子山(1598m)から御正体山(1682m)への山並みが続く。

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御正体山のずっと手前に、大月市街地に迫る菊花山(643.7m)があり、その後ろに頭を出しているのが九鬼山(970m)である。その間の山並みは、九鬼山の左に馬岳(797m)から御前山(730m)と続く。

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二の丸から東を眺めるとパラボラアンテナの建つ本丸山頂の右手に一つ山が見える。百蔵山(1003m)か扇山(1138m)と思われるが、残念ながらここからでは判別できない。

2015-01-06 大月、岩殿山

[][][]大月、岩殿山 20:37

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8月下旬、朝から快晴だったので簡単な山歩きをしたくなり、大月の岩殿山に向かった。甲信地方に出かける際、中央高速で大月を通過する時、高速沿いの大岩壁が目立つ岩殿山は、かなり昔から気になる存在だった。長い間、いつか登ってみようと思っていたがなかなか機会がなく、何の因果か残暑真っ最中に登ることになってしまった。

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大月駅から歩いても約1時間で岩殿山の山頂に立つことができるが、ずんぐりとした山容は独立峰そのもので、山頂からは富士山が望め、山梨百名山、秀麗富嶽十二景にも選定されている。岩殿山は大月駅前からも間近に眺められるが、その大月駅は意外と小さくこじんまりしている。

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既にお昼の時間になったので、大月駅の真ん前の素敵な洋館、月カフェにてランチとした。

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カフェの名物である月カツは、ミラノ風カツでとても美味しい。

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最近テレビでも取り上げられたというビーフシチューは、ランチにしては絶品である。大月に立ち寄る際には、ぜひとも訪れたいお店といえよう。

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岩殿山は相模川水系桂川と葛野川とが合流する地点の西側に位置し、頂上直下の鏡岩と呼ばれる礫岩が露出した約150mの崖が、狭い平坦地を挟んで急角度で桂川まで落ち込んでいる。鏡岩は、駅の東側にある高月橋から真っ正面に眺めることができる。

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高月橋を渡って右に山裾沿いに進むとまもなく左手に、岩殿山への登り口がある。岩殿山は岩殿山城とも呼ばれる山城でもあって、「岩殿城跡」として山梨県の史跡に指定されている。

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登り口から間もなく鳥居状の門構えがあり、岩殿山の案内板がある。岩殿山は9世紀の末、天台宗の岩殿山円通寺として開創されたと伝えられる。10世紀初期には三重塔、観音堂、僧坊などが建ち並び岩殿は門前町を形成した。13世紀に円通寺は天台系聖護院末の修験道センターとして栄え、その支配は郡内一円から甲斐国中の山梨八代の東部一帯、駿河国富士郡付近まで及んだ。

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16世紀になると戦国大名領国制が成立する中、武田、小山田両氏の支配を受けた岩殿山は、岩殿城として武蔵相模に備える戦略上の拠点とされた。天正10年(1582)に両氏が滅亡すると徳川氏に利用されたが、徳川幕府が確立した17世紀始めには廃城となった。現在、東麓には三重塔跡、常楽院並びに大坊跡などが、山頂付近には空堀、本城、亀ヶ池などの遺構が残され、日本修験道史上、城郭史上貴重な資料とされている。

10分もたたずに新しく作られた山門が見え、その中の丸山公園内に中世の城をイメージした「ふれいあいの館」が建っている。

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ふれあいの館の1階には白籏史郎写真館があり、大月出身の山岳写真家・白籏史郎の作品が鑑賞(有料)できる。2階は展示・展望室となっていて、岩殿山関連の資料や富士山などの写真が展示され、窓から富士山も眺められる。ふれあいの館の左には階段状の登山道が続いていて、ひたすら登り続けることができる。

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岩殿城として眺めると、東西に長い大きな岩山をそのまま城にしており、全方面が急峻で、真正面の南面は西から東までほとんどが絶壁を連ね、北側も急斜面である。東西から接近できるが、それも厳しい隘路を通らなければならない。登山道は左の山裾を登り、左手上に見える鏡岩の上の三の丸にたどり着く。その右手に見える本丸にパラボラアンテナがあり、岩殿山の山頂となる。

2015-01-05 牛肉のしぐれ味の肉豆腐

[]牛肉のしぐれ味の肉豆腐 21:01

牛肉の肉豆腐が食べたくなり、レシピを見つけた(4人前)。

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 ニンニク3片、タマネギ大1個を輪切りにする。

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◆‘ι紕+1/2丁を食べやすい大きさに切っておく。

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 鍋に料理酒大4.5、みりん大3、砂糖大4、醤油大4.5、ニンニクを入れて少し煮たら、牛肉切落し400gを加えて煮る。

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ぁゝ軻に火が通ったら別皿に移し、タマネギを煮る。

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ァ.織泪優が少し柔らかくなったら、豆腐を加えて煮る。

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Α‘ι紊温まったら、牛肉を元に戻し入れて少し煮る。

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А〜澗里なじんだところで、醤油などで味を整えて出来上がり。

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* 仕上げにおろし生姜を散らすとよい。

2015-01-04 ソーキ汁

[]ソーキ汁 20:13

沖縄料理のソーキ汁を、干し椎茸も加えて作ってみた(4人前)。

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 ‘蕕某紕競ップを入れ、砂を払った昆布20cm4枚をつけて柔らかくして取り出す。干し椎茸4枚も水で戻す。

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◆ヾ海椎茸を切り分け、昆布も切り裂いて結び昆布を作る。

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 スペアリブ600gは、塩小2をもみ込んでから3分下ゆでし、アクや脂を水で洗い落とす。

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大根400gは、皮をむいて乱切りする。

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ァ´,瞭蕕スペアリブを入れ強火にし、煮立ったら火を弱めアクを取り除く。酒1/4カップ、塩小1+1/2、醤油小2を加えて30分煮込む。

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Α昆布大根、干し椎茸を加え、さらに30分煮込む。

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А(量外の塩で味を整え、粗挽きコショウを散らす。

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* 仕上げにおろし生姜を散らすとよい。

2015-01-02 幽玄洞

[][]幽玄洞 22:31

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猊鼻渓舟下りで今回の旅は終わる予定だったが、時間が少し余ったので近くの幽玄洞を見学した。

幽玄洞入口近くの土手に、キツネノカミソリ(Lycoris sanguinea)の群落を見かけた。本州、四国九州の明るい林床や林縁に生える多年草である。葉は夏には枯れ、8月中旬に30~50cmの花茎を伸ばし、花弁6枚の黄赤色の花を数個ずつ散形状に咲かせる。ヒガンバナ科なのでヒガンバナと同じく有毒植物である。

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昭和55年に発見された幽玄洞は、3億5千万年前の地層に属し、日本で最古の鍾乳洞といわれている。洞窟入口に隣接して幽玄洞展示館が建てられ、洞内の案内図とともに、発見された数々の海底化石などが展示されている。

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古生代中期の地層を持つ幽玄洞は、日本でも有数の化石メッカで、海洋底拡大説の資料となるウミユリの萼の化石は、日本の岩盤上では初めて発見された。また三葉虫の完全体、フズリナ、古代サンゴなど、生物学上の貴重な解明資料が数多く発見されている。

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幽玄洞は石灰岩で形成され、地層を見ると3億5千万年前は水深50m前後の海底であったことがわかる。また壁面にはウミユリ、三葉虫ほか当時の生物の化石があちこちに露出している。洞内のいたるところに石筍、石柱、つらら石、鐘乳管、ノッチ、ノジュール、フローストーンなど多種類の鍾乳石が見られる。先ずはじめの鍾乳石は、豊乳浄土と名付けられていたが、素人っぽいネーミングと思う。

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次の鍾乳石は、吐雲の龍と名付けられていた。複雑な形なので名前にこだわらずに見ていこう。

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この化石が、三葉虫化石であろう。三葉虫は、約5億4200万年前から約2億5000万年前までと3億年ほどにわたる古生代を通して栄え、その間に激しく種類が移り変わったので、三葉虫化石を調べればその地層の年代がわかる示準化石になっている。

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こちらの波状の鍾乳石は、白亜の波と名付けられている。白亜とは石灰岩を表す言葉であるが、白亜紀中生代の終わりなのでちょっと紛らわしい。

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こちらはフローストーン(流れ石)という。洞窟の壁や床を薄く膜状に流れる水によって造られる鍾乳石で、蓮華の華とも呼ばれる。

幽玄洞は、ウミユリや三葉虫化石が発見されたことでは珍しい鍾乳洞だが、岩手県には日本三大鍾乳洞龍泉洞日本一長い安家洞など変化に富んだ大規模な鍾乳洞があるので、比べてしまうと随分迫力に欠ける。

さて、これで8月中旬に出かけた北東北巡りを終えた。雨の日が半分以上あり、中3日連続で八甲田山岩木山秋田駒ヶ岳を登るという強行日程になったが、予定外の角館武家屋敷骨寺村荘園遺跡なども見学でき十分満足した。

2015-01-01 猊鼻渓舟下り

[][]猊鼻渓舟下り 20:11

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日本百景の一つにも数えられる猊鼻渓は、高さ50mを超える石灰岩の岩壁がおよそ2kmにわたって続く渓谷で、明治以前は絶対の秘境として隠され、所在する長坂村でもその存在を知らぬ人が多かったと伝えられる。旧藩時代に、たまたま藩吏などが探勝に来る度に、いつも村民は多大の労力を強いられたので、村民はその負担に堪えかねて、風土記にも絵画図にも表さなかったという。

右手のあまよけの岩の次に現れる岩場は、古桃渓という。雨の後には滝のようになり、夏は涼しい風が吹き渡る。この陰には平泉藤原の落人が住まう30戸ほどの集落があって、砂鉄をとって暮らしていたといわれる。

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天保5年(1834)関養軒の史跡吟詠で「東山大夫岩」と記されたのが猊鼻渓の初出とされ、猊鼻渓を最初に世に知らしめたのは佐藤猊巌とされる。佐藤猊巌は、父佐藤洞潭の志を継ぎ、猊鼻渓の開発を唱え、漢学者の岡鹿門、画家の蓑虫山人など文人を招き、私財を投じて開発し猊鼻渓を紹介した。

いよいよ渓谷も高さ100m余りの絶壁に奇岩怪石が屹立する幽谷に至る。左手に聳える絶壁は、錦壁岩という。

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錦壁岩の次には、崖の途中から水が涌き出していて土色になっている大飛泉がある。

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大飛泉の次には、まさに屏風のような屏風岩という絶壁が続く。

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屏風岩の奥のずんぐりした岩は、馬鬣岩(ばりょういわ)という。岩壁の稜線が馬の首状を呈し、その上に連なる松の木が馬の鬣(たてがみ)のように見えることから名付けられた。

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ようやく手漕ぎ舟は上流の船着き場、右側の三好ケ丘という砂州に到着する。砂礫で整備された道をおよそ200m進むと、げいび橋の向こうに大きな岩壁、大猊鼻岩が聳えている。

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げいび橋の上から眺めると、大猊鼻岩の向かいの攬勝丘と呼ばれる砂州で見上げている人々が小さく見える。まさに猊鼻渓を代表する絶景の大岩壁であり、その高さは124mあるという。

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大猊鼻岩の右下部に穴が空いていて、買い求めた素焼きの運玉をその穴に見事に投げ入れることができれば、願い事が叶うという。

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大猊鼻岩のすぐ左手は、龍が潜むという潜龍潭がある。猊鼻渓に住む鯉が川を上り龍に昇華したという言い伝えがあるそうだ。

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これが猊鼻渓の名前の由来となった獅子ヶ鼻である。浸食された鍾乳石が獅子の鼻に似ていることから名付けられた。猊とは獅子のことである。

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大猊鼻岩の絶景を十分探勝した後、いよいよ帰り道となる。げいび橋の先の三好ケ丘の向こうにずんぐりした馬鬣岩が聳えている。こうして往復約1時間半の舟下りをゆったりと楽しむことができた。