半坪ビオトープの日記

2015-02-28 高遠城址公園

[][]高遠城址公園 22:43

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高遠美術館に近い南ゲートから高遠城址公園に入ることができる。高遠城は、三峰川と藤沢川に削られた河岸段丘上の突端に位置している。段丘上から見ると平城のように見えるが、他の三方から見ると川岸から80mもの高い丘の上にある山城の姿をしているため平山城といわれる。城址公園の南端に近いこの辺りは、法幢院曲輪と呼ばれる。

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高遠は古くから伊那谷の要所だったため、そこを手に入れた武田信玄は天文16年(1547)高遠城を改築した。武田氏による高遠支配は35年間続いたが、織田信忠と仁科五郎盛信の攻防を最後に戦乱の時代に幕を閉じた。明治4年に廃藩置県となり、翌5年に高遠城の建物は民間に払い下げられ、旧藩士達が桜の馬場から桜を移植した城跡は、明治8年に城址公園となった。前方の林の中に白兎橋が見える。

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南のはずれに大きな石碑が見える。石碑の表は、元高遠町本町の商人・廣瀬省三郎(俳号、奇壁)の句碑で、遠く東の仙丈ケ岳(3033m)を眺めて詠んだもの。題字の「嶽色江聲」は、高遠町出身の画家・中村不折の揮毫による。

斑雪高嶺朝光鶯啼いて居(はだらたかねあさかげうぐいすないてい)奇壁

裏面は河東碧梧桐の句で、西の木曽駒ケ岳(2858m)の眺望を詠んだものである。

西駒は斑雪(はだれ)てし 尾を肌脱ぐ雲を 碧梧桐

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高遠城といえば春の桜が有名だが、白兎橋辺りでは秋の紅葉も真っ盛りである。

高遠城址公園内に石垣や当時の城の建物はないが、空堀や土塁跡は残されていて、国の史跡に指定され、日本100名城にも指定されている。

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白兎橋を渡った辺りは南曲輪と呼ばれ、東には仙丈ヶ岳を中心に南アルプスの山並みが見える。

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この南曲輪辺りは紅葉が盛りを過ぎて真っ赤なもみじの葉がいっぱいに敷き詰められている。

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春になると、この南曲輪から満開の桜越しに雪をかぶった南アルプスを眺める絶景はよく取り上げられる。タカトオコヒガンザクラは、明治8年ごろから植え始め、樹齢130年を越える老木を含め、現在では約1500本の樹林となっている。花形はやや小ぶりで赤みを帯び、「天下第一の桜」と称されるほどで、県の天然記念物に指定され、「さくら名所百選」にも選ばれている。

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散ってしまったモミジもあれば黄色やまだ緑のモミジもあって、空をバックに見上げると、また違った風情を楽しむことができる。

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高遠城址公園には約250本のモミジカエデ)が色づくとされ、11月になると中旬まで秋祭りが開催される。この大きな葉はオオモミジであろうか。イロハモミジなど園内には4種類のモミジがあるといわれる。

2015-02-27 高遠そば、高遠美術館

[][][]高遠そば、高遠美術館 21:34

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いよいよ分杭峠(1424m)を越えて伊那市に入る。峠の名は、高遠藩が他領との境界に杭を立てたことに由来し、峠には「従是北高遠領」の石碑がある。峠の高遠側に粟沢駐車場があり、分杭峠周辺の散策拠点となっている。近年、ゼロ磁場などと騒がれ観光客も多いが、もちろん疑似科学でしかない。

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高遠大橋を下って高遠市街地に向かうと、正面に的場城趾のある城山が構えている。麓には蓮華寺や香福寺があり、城山の右奥に杖突峠や諏訪に向かう秋葉街道が続く。的場城の築城詳細は不詳だが、戦国時代に武田氏と対立した高遠氏により修築されたようだ。天文16年(1547)以降は高遠城を支配した武田氏により高遠城の支城とされ、織田勢が高遠城を攻め落とした時に的場城も役目を終えたという。

高遠城趾公園は橋のたもとの右手にあり、左手にはそば屋などの食事処や観光案内所がある。

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今では有名な高遠そばは、十数年前に会津から里帰りして復活したものである。江戸時代、信濃国高遠藩から徳川将軍家に寒ざらしそばを献上する慣例があった。蕎麦好きであったとされる高遠藩主・保科正之は、出羽を経て会津まで転封していく間に、山形会津江戸蕎麦を広めたと考えられており、それを根拠に伊那市は自らの市が「信州そば発祥の地」と主張している。

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高遠そばは、めんつゆに辛味大根のおろしと、焼き味噌を混ぜた「辛つゆ」に麺をつけて食べるいわゆる「辛汁そば」である。この店では他に自家製のくるみのつゆも付く。せっかくだから、かき揚げ付きを頼んだ。

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こちらは辛味大根のぶっかけそばである。もともと高遠には地大根として辛味の強い「高遠大根」があったが地元では途絶えてしまった。ところが会津で「あざき大根」として残っていたのがわかり、里帰りさせてようやく復活させたという。前日、天竜峡近くの蕎麦屋で食した具が多い辛味大根のぶっかけそばと比べると、こちらの方が上品にまとめられている気がした。高遠そばもこちらも蕎麦つゆが薄く感じられ、蕎麦自体も普通の味だったので、次回桜の花見に来るときは別の店にしようと思う。

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高遠城址公園に隣接して高遠美術館が建っている。駐車場から見ると美術館の建物の隣に貧相な三層天守が見える。経緯がよくわからない謎の模擬天守である。

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高遠美術館は、町出身の原田政雄が収集した作品と、伊那市が所有する中村不折など郷土作家の作品を中心に平成4年に建てられた。日本瓦の幾何学模様と打放しコンクリートの壁面が景色に溶け込む構成である。ちょうど特別展が行われていて、目当ての常設品はほとんど見ることができなかった。

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二層吹き抜けのメインロビーなど内部はガラス壁を多用し、自然を描き出す屏風絵のような景色を楽しむことができる。

2015-02-25 市場神社

[][]市場神社 20:35

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大河原地区から再び北に向かって鹿塩地区に戻り、大鹿村の最後に市場神社を訪れた。鹿塩温泉に向かう塩川の分岐点にある市場神社は、小さな塩河公会堂の脇の石段を上っていく。

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塩河公会堂の裏には、いわくありげな古びた小さな社が祀られていた。屋根はほとんど壊れかけてぼろぼろだが、4つの紙垂を垂らした細いしめ縄が張られているので、今でもお参りされているのは確かであるが詳細は不明である。

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大鹿歌舞伎が文書上の記録として初めて登場するのは、明和4年(1767)に鹿塩村で上演された狂言とされている(前島家文書)。幕府や政府の禁止にもかかわらず、庶民の娯楽として300年以上にわたり上演されてきた地芝居である。現在では春と秋の1年2回の定期公演が行われ、春は大河原の大磧神社舞台、秋は鹿塩の市場神社舞台が使用される。

市場神社の舞台は、切妻造木造2階建、間口6間、奥行4間、太夫座、回り舞台付、平を正面とする。嘉永4年(1851)建立で、昭和47年に改修。

大鹿歌舞伎の上演外題は30演目以上にのぼり、その中で源平合戦の「六千両後日之文章重忠館の段」は、大鹿村にのみ伝わる外題である。2000年には地芝居として初めて国立文楽劇場での上演を果たし、2011年には歌舞伎とそれにまつわる騒動を描いた「大鹿村騒動記」として映画化された。大鹿歌舞伎は国の選択無形民俗文化財に指定されている。

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舞台の手前は歌舞伎のための広場となっていて、その右手一段高いところに市場神社の社殿が建っている。古くは八幡社と称していた。祭神は八幡大神(応神天皇)のみならず、豊受大神・健御名方命・須佐之男命が祭祀されていた。明治36年に市場5耕地は各耕地に祀っていた神社を塩川八幡社へ合祀し、社号を市場神社と改称した。

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右手へ鳥居の前に進むと、鳥居の右手に御柱が立っていて、さらにその先にも小さな社が祀られている。

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鳥居を潜ると古めかしい拝殿が建っている。大きな縦の扁額にはかすかに市場神社と書かれているのが認められるが、まわりに掲げられている額は奉納額なのか絵馬なのかもわからない。

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市場神社本殿の中を覗いてみるといくつもの社が並んで祀られている。小渋川に作られた小渋ダム建設で複数の集落が沈んだため廃社となった白沢神社(祭神伊邪那岐命と伊邪那美命)ほか多くの社を昭和39年に市場神社に合祀したそうだ。旧桶谷集落にあった白沢神社(白沢権現)ではそれまで「猪鹿除け」のお札を出していたという。

脇に立つ筒は花火の筒である。8月中旬の大鹿夏祭りの際、大西公園で花火が打ち上げられる。

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市場神社を見た後、大鹿村から高遠に向かう。鹿塩川に沿って細い秋葉街道を進むと、分杭峠の手前、中央構造線断層が見える北川路頭の近く、右側に小さな神社が認められた。

2015-02-24 中央構造線博物館

[][]中央構造線博物館 20:23

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ろくべん館のすぐ手前には、大鹿村中央構造線博物館が建っている。建物のほぼ真下を通っている中央構造線と呼ばれる大断層と、大鹿村の岩石標本の展示を中心に、地震地殻変動地盤・土砂災害と地形の出来方などを紹介している。

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正面の小渋川を北にたどって中央構造線が走っている。中央構造線の西側になるこの河原では白っぽい石が多く、鹿塩温泉のある塩川では緑色の石が多い。

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中央構造線とは、阿蘇山の下から四国吉野川を通り、そのまま近畿を東に突き抜け、天竜川の東側を諏訪湖まで北上し、向きを東に変えて茨城まで達している、延長1000kmに及ぶ日本列島最長の谷である。

中央構造線を境に、内帯(北側)と呼ばれる領家変成帯の岩石と、外帯(南側)と呼ばれる主に三波川変成帯の岩石が分かれている。博物館岩石園では、大鹿村の地質配列通りに石を並べ、地質帯を砕石の色で区別している。入り口に向かって最も左手前には、三波川帯の緑色岩や蛇紋岩などが並べられている。

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その先の左側には、秩父帯のチャート石灰岩など、その奥に四万十帯の砂岩、戸台帯のれき岩が並べられている。

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入り口に向かって右側には、領家帯の花崗岩類やマイロナイト類が展示されている。

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館内正面には、大鹿村北川沿いの崖に見られる、中央構造線断層路頭剥ぎ取り標本がそのまま展示されている。

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館内中央には、大鹿村南アルプスの1万分の1地形地質模型が、分かりやすく塗り分けられて展示されている。さらに壁に沿って大型切断研磨標本が各地質帯ごとに展示され、断層路頭標本の右には三波川帯の標本が並べられている。

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その手前右側には、秩父帯や四万十帯の標本がずらっと並べられている。

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路頭標本の左手には、領家帯の鹿塩マイロナイトなどが展示されている。マイロナイトとは、断層深部の深さ10〜20km付近で、鉱物が再結晶したり流動的に変形してできた変成岩である。大鹿村のマイロナイトは、6500万年前にできたのち隆起して地表に現れたものである。東京帝大の最初の地質学教授となった原田豊吉が1890年に発見して鹿塩片麻岩と命名し、1935年に東京高等師範の杉健一教授がマイロナイトと結論した。

2015-02-23 ろくべん館

[][]ろくべん館 20:22

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御所平から大河原中心部に戻り、小渋川の河原に面したろくべん館に寄ってみた。橋の向こうには大鹿小学校が見え、その裏に大磧神社があり、右手奥に福徳寺がある上蔵地区がある。

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ろくべん館とは大鹿村郷土資料館のことで、その名「ろくべん」とは大鹿村に古くから残る一人用の重箱弁当「どくべん」が訛ったものである。主に5〜6段重ねの弁当箱で、村人は歌舞伎上演の際にその重箱を広げて芝居見物をした。

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ろくべん館は古い歴史を伝える大鹿村独特の民俗文化を紹介する資料館で、村民の暮らしを伝える民具や大鹿歌舞伎など約150点を展示している。なかなか直接見ることができない大鹿歌舞伎の写真はとても参考になる。

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大鹿歌舞伎は全てが村人の手作りで演じられ、神社の境内で舞台と桟敷が一つになって盛り上がる。大阪の国立文楽劇場で地芝居として初めて檜舞台を踏んだが、それ以前に国内各地での公演や海外公演も行っている。

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大鹿歌舞伎は娯楽の少ない山村での唯一最大の娯楽でもあり、幼い頃から子守唄代わりに名台詞や義太夫の名調子が耳に入っていて、家族中で稽古や準備、観劇を重ねる中で絶えることなく伝えられてきた。鹿塩地区に舞台の衣装、かつら、道具すべてを揃えて、村人だけで上演する。

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江戸末期に熱狂的になった村歌舞伎は、幕府の度々の禁止令にもかかわらず続けられたが、急峻な山々に囲まれた耕地の少ない山村の神社やお堂の境内に最大13カ所歌舞伎舞台が設けられたことが不思議でならない。当時わずか数十戸の集落にも舞台が造られたという。

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大鹿村の山林原野は村の面積の95%以上を占めるので古くから森林資源を頼りにしてきた。江戸時代の年貢は「榑木」という材木を幕府に納めた。それ以外の雑木からは、薄板曲輪・絵馬板・櫛・経木などを作って出荷した。木挽き職人の道具もたくさん展示されている。

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村の宅地は斜面が多く、昔の農家は土間の中に馬屋があって、家畜は家族同様大切にされた。居間には「ひばた」と呼ばれる囲炉裏があり、屋根は栗の「へぎ板」で葺かれ、重しの石が置かれていた。大切に使われたであろう釜や桶、農機具なども展示されている。

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農地がほとんど斜面にあるため、昔から焼畑による開墾が繰り返されてきた。作物は米が少なく、麦や大豆などの雑穀が主流であった。

2015-02-21 宇佐八幡神社

[][]宇佐八幡神社 21:29

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野々宮神社から信濃宮の下を抜けて東南に続く細い山道を進むと、すぐに小渋温泉を右に分けますます山深くなっていく。渓谷から離れて上っていくと、小渋川の前方に南アルプスの山並みが見えてくる。11月中旬なので既に雪も積もっている。赤石岳(3120m)であろう。

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ようやく大鹿村最奧の集落である釜沢地区にたどり着く。年末には、まばらに見える14戸が全戸総出で神社の大祓を行い、新年を迎える準備をするそうだ。宗良親王が30年余り居住したという御所平は、この先2km以上奥にある。宗良親王が大鹿村大河原地区に入村当時、鹿塩の塩水を山を越えて釜沢の奥の御所平まで運んだという記録があるという。神社のすぐ下の寺屋敷は宗良親王の子・尹良(ゆきよし)親王の菩提所・大龍寺の跡と伝えられ、その一隅にある釈迦堂内には元寺屋敷にあった長谷庵の本尊と伝わる木造の仏像が安置されているという。

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山道から左に分かれて道なき斜面を上っていくとすぐに宇佐八幡神社が見えてきた。

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鳥居の先の石垣の上に宇佐八幡神社の拝殿が建っている。

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横から眺めると随分急な斜面に建てられていると思う。狭い境内の奥に宗良親王の宝篋印塔の覆い屋が認められる。

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境内から見上げると拝殿の裏手に本殿が建っているのがかろうじて見える。応神天皇と尹良親王を主神として祀っている。

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これが宗良親王の墓と伝えられる宝篋印塔である。後醍醐天皇の皇子達の多くは短命だが、征夷大将軍まで務めた宗良親王は80歳近くまで生きている。後醍醐天皇の第8皇子・宗良(むねよし)親王は、元徳2年(1330)天台座主に任じられるも、元弘の変により捕らえられ讃岐国に流罪となる。父後醍醐鎌倉幕府倒幕が成功し、建武の新政が開始されると再び天台座主となるが、建武の新政が崩壊した後、吉野の南朝方として活躍する。

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その後、北朝方に追われ、越後越中を経て、興国5年(1344、大鹿村では興国4年としている)に現在の大鹿村大河原に落ち着いた。その後、30年余りこの地を拠点として信濃の宮と呼ばれる。観応2年(1351)に足利尊氏が一時的に南朝に降伏した正平一統の際には、新田義興とともに鎌倉を占領し、翌年には征夷大将軍に任じられたが長続きせず、再び大河原に戻る。晩年に吉野に戻り、また大河原にも戻ったことが分かっているが、終焉場所は確定していない。遠江国井伊城説などもあるが、醍醐寺文書から抜粋された三宝院文書による、大河原で薨去したとする説が有力視されている。

歌道の家であった二条家出身の母から生まれた宗良親王は、幼い頃から和歌に親しみ、南北朝随一の歌人と称せられ、歌集に「李花集」「宗良親王千首」、選集には「新葉和歌集」がある。大河原・御所平の風景を詠んだ「いづかたも山の端近き柴の戸は 月見る空やすくなかるらむ」の歌は有名である。

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宝篋印塔の石質は、多孔性安山岩で通称伊豆石、室町時代初期の建立である。伝承によると、地元では九輪之塔と呼び、宗良親王の墓標塔として祀っていた。塔身には四面に四種の梵字があり、蓋上部四隅には馬耳型突起が見られる。室町時代初期の姿を示し、宗良親王の大河原薨去説を裏付ける貴重な史跡とされる。この塔の苔を煎じて服用すれば、おこり病にかからないと語り伝えられている。

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宝篋印塔の左後ろには庚申塔が祀られている。古くから街道沿いや村境に置かれて塞ぎの神として信仰され、寺社の境内に移転されたものも多い。

2015-02-20 福徳寺、野々宮神社

[][]福徳寺、野々宮神社 20:52

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鹿塩川を下り、小渋川に合流する直前に左に曲がって橋を渡ると、左手に村役場があり、右手には小渋川に沿って渓谷が伊那谷に向かっている。

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大鹿村南部の大河原地区は、南北朝時代には秋葉街道を経由して、遠江から奈良・吉野の南朝勢力と結びついており、後醍醐天皇の第8皇子宗良親王が30年余りの間拠点とした地である。上蔵(わぞう)集落に福徳寺本堂が建っている。

福徳寺本堂の建築経緯は不明だが、仏像台座の墨書に平治2年(1160)とあり平安時代末期と伝えられていたが、昭和28年の解体修理の結果、せいぜい室町時代前期とされ、その頃天台座主であった宗良親王が建てたと推測されている。長野県では上田市の中禅寺に次ぐ古さの仏堂である。

斜面に沿って南の左手に下っていくと、小渋川の急流を望む断崖絶壁に大河原城址がある。南北朝時代、宗良親王を守護した香坂高宗の居城跡である。香坂高宗の墓は、右手(北)の高台にある。

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福徳寺本堂は、阿弥陀堂形式で桁行3間、梁間3間、入母屋造杮葺で、組物は隅柱のみ舟肘木を設け、軒一重疎垂木木舞打ちの簡素な建物ながら、洗練された優美な姿から中央の寺院建築文化の風格が漂い、国の重文に指定されている。

堂内に安置されている仏像は、中央に薬師如来坐像と阿弥陀如来坐像が並存し、毘沙門天・聖観世音菩薩の2体が脇に配される。医王山福徳寺の山号は天台宗系寺院のものであるから、本尊は薬師如来と考えられている。

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福徳寺には、昼間に扉を開けると災害が起こるという信仰があり、天保10年(1839)に老中水野忠邦がこのお堂を浜松に持って行こうとしたが、村民に反対され断念したという。

本堂の右手前には、小さな梵鐘が吊り下げられている。

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梵鐘のさらに右手前には墓石が立ち並び、その右奥の山中には宗良親王を祀った信濃宮神社がある。

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信濃宮神社は比較的新しい神社なので、その手前にある野々宮神社を訪れた。狭い道の脇に参道の石段と石の鳥居がある。

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石段を上ると広場となっていて左手に野々宮神社舞台が建っている。明治22年(1889)再建の野々宮神社舞台は、間口6間、奥行4間の2階建ての舞台で、屋根は1階に庇が付く形、2階屋根は入母屋造のトタン葺きである。太夫座は舞台上手にあり、チョボと下座が上下に分かれている。花道は上演の際に仮設される。中央には3間の回り舞台が設けられ、奈落で押し回す仕組みになっている。上蔵は明治から大正期にかけて浄瑠璃語りの太夫を輩出し、歌舞伎熱の高い地区であった。

資料によれば大鹿村には13の舞台があったといわれ、小学校に転用されたり災害にあったりして現存するのは4棟である。野々宮神社舞台では現在、駐車場がないため歌舞伎の上演はほとんど行われていない。十数年前に小沢征爾とチェロの巨匠パブロ・カザルスの演奏があったという。

舞台右手前には大きな御柱が立っている。飯田・下伊那地域でも7年に一度の諏訪大社の御柱の年には御柱祭が実施される。最近では平成22年(2010)に、大鹿村でも葦原神社、市場神社、大磧神社、野々宮神社の4社で行われた。野々宮神社の御柱祭の里曳きに使われたモミの木は直径約60cm、長さ約12mだったといわれ、舞台右手前に立てられている。

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舞台のある広場の境内から一段上がったところに野々宮神社の社殿が建っている。妻入り型の拝殿が、広場に向かっている。

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左脇から見ると、拝殿の後ろに本殿を垣間見ることができる。

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拝殿の中を覗くと、がらんどうの拝殿の奥に小さめの本殿が続いている。祭神として火之迦具土神を祀っている。

2015-02-18 鹿塩温泉

[][]鹿塩温泉 20:56

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残りの飯田市内観光はまたの機会に譲って、飯田市の北東にある信州で2番目に山奥の村と呼ばれる大鹿村に向かう。古くは諏訪上下社領であったとみられ、南北朝時代には宗良親王が暮らし、後に武田信玄の所領となった。江戸時代には大河原村・鹿塩村の2ヶ村は一貫して徳川幕府の直轄領(天領)だった。明治になって2ヶ村は合併・分割した後、明治22年(1889)再度合併して以来そのままである。

大鹿村には古くから二つの温泉が知られている。大河原地区には小渋温泉があり、鹿塩(かしお)地区には鹿塩温泉がある。

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この日は鹿塩川から分かれた塩川沿いにある、鹿塩温泉の湯元・山塩館に泊まった。標高750mの山中にありながら、海水とほぼ同じ塩分濃度4%の塩水が湧き出る不思議な鹿塩温泉だが、その原因はわかっていない。伝説によれば、神代の昔、諏訪大社からこの地へ移り住んだ建御名方命が大好きな鹿狩りをしていた際、鹿が好んで舐める湧き水を調べたところ、強い塩分を含んでいることを発見したといわれている。もう一説には、弘法大師がこの地を訪ね、山奥で塩のない生活に苦労する村人を憂いて杖を突いたところ、そこから塩水が湧き出たともいわれている。

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明治8年(1875)旧徳島藩士・黒部銑次郎が岩塩を求めて塩泉の採掘を始め、大掛かりな製塩場を設置し食塩製造を行った。結局岩塩は発見されず、塩水が湧出する理由は未だに謎のままであり、岩塩採掘場の跡が残されている。

明治25年、鉱泉浴場として開業されたのが鹿塩温泉の始まりである。この宿の建物は平成2年に改装されたものである。ロビーには地元で獲れたツキノワグマニホンジカカモシカの毛皮が広げられていた。

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塩分濃度は海水と同じ4%でも、含まれるミネラル分が異なることから、中央構造線断層)に閉じ込められた化石海水ではないとされる。泉質は透明な含硫黄ナトリウム−塩化物強塩泉で、源泉温度は14℃なので加温している。

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料理はキノコなど地元の食材がほとんどで、鯉こくも美味しい。料理の味の引き立て役として使われる塩は、源泉から毎日自家製塩している「幻の塩」ともいわれる山塩で、海の塩と違ってにがりをほとんど含まないので素材の味を壊さない。

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煮物や漬物、味噌、醤油などにも山塩が使われているというので、いのしし鍋も味わい深い。

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イワナの塩焼きや鴨肉の薄切りも美味しいので、地酒もついつい飲み過ぎてしまう。

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板長もシェフもいない、家族的な料理を出すだけというが、どの料理も気に入り、また訪れたいと思った。陶器の茶碗蒸しもしゃれている。

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翌朝も天気が良く、南信州の山深い大鹿村はとても清々しい。

2015-02-17 元善光寺

[][]元善光寺 20:59

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伊那地方は東西交通の要路として歴史を刻み、中心には小京都と呼ばれた城下町の飯田の街並みがある。室町時代に領主の坂西氏が城を築き、安土桃山時代には城下町の原型が出来上がり、以来、中馬街道の宿場としても栄えた。明治時代には日本画家の菱田春草、詩人日夏耿之介を輩出し、民族学の祖・柳田國男のゆかりの地でもある。飯田城跡を中心に美術博物館など見所はたくさんあるが、今回は省略して市街地北部座光寺にある元善光寺だけ訪れた。

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元善光寺は名前の通り、長野市善光寺の本尊が元々祀られていた寺で、以前は坐光寺と呼ばれていた。正式には天台宗定額山元善光寺といい、本尊は善光寺如来である。

寺伝によると、古くはこの地を麻績(おみ)の里と呼んだ。推古天皇10年(602)にこの地の住人・本多善光が難波堀江(現、大阪市)で一光三尊(善光寺如来)の本尊を見つけて持ち帰り、麻績の里の自宅の臼の上に安置したところ、臼が燦然と光を放ったことからここを坐光寺としたとされる。その後、皇極天皇元年(642)勅命により本尊は芋井の里(現、長野市)へ遷座され、その寺が善光の名をとって善光寺と名付けられたことから、坐光寺は元善光寺と呼ばれるようになった。遷座された本尊の代わりに勅命によって木彫りの本尊が残され、また「毎月半ば十五日間は必ずこの故里(飯田)に帰りきて衆生を化益せん」という仏勅(お告げ)が残されたことで、「善光寺元善光寺と両方にお参りしなければ片詣り」といわれている。

現在の本殿建物は、寛政9年(1797)の建立である。

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本堂に入るとすぐ左手に座光寺丹後守像が安置されている。天正年代(1573~93)兵火によって焼失した本堂を再建した城主という。その脇の奥に宝物殿入り口がある。宝物殿から戻ると本堂の右手に出るが、すぐ戒壇めぐりの階段があり、真っ暗闇の中に降りていく。

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宝物殿には雪舟作「寒山拾得」の絵や座光の臼、釈迦涅槃像など珍しい寺宝80余点が展示されているが、撮影禁止なのでパンフの切り抜きを載せる。中央に展示されているのは、地獄極楽絵図である。

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これは元善光寺の霊宝とされる座光の臼である。開基伝承にあるように、本多善光が一光三尊の本尊を難波より持ち帰って安置した臼で、その時光明が輝いたので座光の臼といわれる。

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こちらは江戸時代作の釈迦涅槃像である。木彫りの釈迦涅槃像は全国的にも珍しいといわれる。

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本堂の左手には大きな客殿が建っている。

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山門を潜って石段を上った右側に鐘楼が建っている。梵鐘は戦後の再鋳で、平和の鐘と呼ばれる。

2015-02-16 小笠原資料館

[][][]小笠原資料館 20:10

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小笠原家の敷地内に小笠原資料館が建っている。金沢21世紀美術館などの作品で知られる、日本の建築家ユニットSANAA(サナア)が設計し、平成11年(1999)に竣工したユニークな建物である。設計者の一人・妹島和世氏の母が小笠原家出身の関係による。SANAAは、建築界のノーベル賞ともいわれるプリッカー賞を2010年に受賞している。

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80mのガラスの箱を6本の柱で支えており、箱の下にある白い円筒形の部分が受付・事務室である。裏側のスロープを上って左奥から建物に入る。建物は多少うねっていて、それで振動を分散して揺れを減らしているらしい。

館内では江戸時代の旗本、伊豆小笠原家の系譜やゆかりの武具、日用品などの所蔵品を解説・展示している。

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これは小笠原屋敷古図である。古図から小笠原家の館が小さな城郭の形であったことがわかる。大手橋から坂を登ると城門と物見櫓があり、門内は枡形をなし、右手に折れて石垣上に出ると供侍所・厩舎があり、突き当たりに玄関を備えた御用所がある。その裏側に書院・居間・台所などの建物が並んでいた。

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六曲一双の金屏風には、和歌と思しき半紙が所狭しと貼られている。残念ながら読みこなすことができない。

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上には信濃源姓・小笠原家歴代姓名が、清和天皇からの系図として示されている。下には小笠原家家紋三階菱の謂れが記されている。

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書院の屋根の杮葺(こけらぶき)は平成20年に全面葺き替えられたが、その時の資料が展示されている。上が箕甲、右下が隅棟の杮板である。玄関屋根正面は箕の尻のように丸くなっているので箕甲といって、形も葺き方も異なる。書院の屋根の四隅には膨らんだ隅棟があり、その杮板は丸みを出すため木口が扇型になっている。今回の杮板は、厚さ3mm、長さ30cmのサワラの板で、それを丁寧に並べ10枚毎に銅板を入れる。それは銅から生じる緑青が杮板の腐朽を防ぐからである。板1枚につき40本の釘を刺すが、鉄釘だけでは足らず竹の釘も使用している。

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小笠原家書院を見学する前に、天竜峡近くのわらび家という蕎麦屋で昼食をとった。

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この蕎麦屋は十割そばや九一そばが売り物だが、ご当地名物のぶっかけおろしそばが珍しいので試してみた。おろしに使う親田辛味大根は、下條村親田地区に伝わる伝統野菜である。地元では「あまからぴん」と表現する、口に含んだ瞬間にほのかな甘みを感じた後に強い辛味が特徴で、蕎麦の薬味に相性が良くそばの味が引き立つ。

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鴨せいろは濃いめの鴨汁で冷たいそばを食べるありきたりのものだが、ちょっとそばが少なめなのが残念だった。

2015-02-14 旧小笠原家書院

[][]旧小笠原家書院 21:14

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天竜峡から北西に三遠南信自動車道ができて中央自動車道につながったが、それを使わず北西に少し行った飯田市伊豆木に旧小笠原家書院がある。伊豆小笠原家は、伊那地方で中世以来の名家である松尾小笠原家の一族で、天正18年(1590)本庄に移っていたのを、慶長5年(1600)に初代長巨が元の伊豆木に移封されたのが始まりである。

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ここに屋敷を構えたのは中世に城のあった要害の地だったからで、今でも屋敷の裏山には空堀や曲輪の跡が残っていて城山と呼ばれている。大手橋から城門へ上る坂道沿いには、モミジが真っ赤に燃えていて色鮮やかだった。

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初代長巨は関ヶ原の戦いでの功績により、家康に伊豆木1000石を賜り、大坂冬の陣、夏の陣でも貢献した。江戸時代の館は小さな城郭の形で、玄関を備えた御用所の裏手に書院・居間・御守殿・台所など多くの建物が建ち並び、典型的な土豪の居館構えだった。しかし明治5年の帰農に際し、書院と玄関を除き全て取り壊された。短い坂道の先には小さな城門が建っていて、そのすぐ奥に書院が建っている。

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初代長巨は慶長4年に伊豆木村を治めるようになって間もなく陣屋の建設に取り掛かり、寛永初年(1624)頃に建て終えたと考えられている。斜面に建物の3分の1ほど張り出した懸造りの書院は全国的にも珍しい。昭和44・45年に解体修理され、平成20年には屋根の柿葺も葺き替えられた。

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唐破風の玄関は、以前は御用所の正面にあったものだが、明治の初めにここに移された。正面虹梁上には家紋の三階菱を飾った蟇股を据えている。玄関の板戸は、舞良戸(まいらど)といって書院に使われるものである。

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寛永初期に建てられ、小笠原氏が昭和39年まで住んでいたこの書院は、昭和27年に住宅としては全国に先駆けて国の重文に指定された。接客用に建造されたもので、田字型四部屋の平面構造で、東南西の三方に1間幅の入側縁を巡らしている。南二の間には、格式高く3間一杯に大床が備えられている。

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天井も南2部屋は格天井を用いている。入側縁の外は中敷居を入れた低い窓状の開口部とし、明障子を立てて外側に雨戸を引いている。雨戸は桃山時代に発明されたもので、書院の外回り全体に雨戸を用いるのはやっと寛永頃から普及したといわれるので、当時の先端の工法を採用したことになる。一の間と二の間との間の大きな欄間は、大菱欄間となっている。柱の釘隠は永楽通寶の銭型である。

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奥の南一の間は11畳で、1間半の床と花頭窓を持つ付書院が設けられている。四部屋の中で最も格式が高く、江戸時代には殿様以外入室できなかった。

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南入側中央には竹の節欄間を置いた間仕切りを設け、格式高く杉戸を立てて仕切っている。

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これが南一の間の花頭窓を入側縁から見たところである。

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北側も奥の居間には1間半の床があり、玄関に近い茶間は控えとなっている。天井は棹縁天井で、部屋全体が質素となっている。ここに駕籠と輿が置かれていた。駕籠は江戸時代の美濃久々利の千村家から嫁いだ奥方のもので、輿は戦国時代の武田信玄の正室・三条夫人が使用したものという。

書院全体は、内部の大菱欄間や格天井などに桃山風の豪壮さを伝え、廊下のような広縁を座敷の周囲に格式高く設けるなど、近世初期の地方武家住宅を知る遺構として貴重である。

2015-02-13 伊豆神社、瑞光院

[][]伊豆神社、瑞光院 21:17

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雪祭りとは別に、新野の盆踊りは8月中旬に3晩、夜を徹して行われる。鳴り物を使わずに、唄と手拍子だけで粛々と踊り、最後に旧村境における神送りの儀礼を伴う。それが日本の盆踊りの原型などといわれている。

伊那南部には、新野の盆踊りと同じように古い形態が今でも多く残されている。旧上村下栗(現、飯田市)、天龍村の坂部・大河内での夏の「かけ踊り」は盆踊りの古い形といわれる。これらの集落では、冬に霜月神楽も行われている。泰阜村温田の夏祭りでは「榑木踊り」が行われる。そこは山村の集落で、米の代わりにサワラの斧割りを年貢として納めていたが、それを榑木(くれき)といい、無事榑木を納められた喜びを伝える踊りという。

太鼓を叩く姿は、阿南町和合の念仏踊りである。菅笠の若衆が太鼓と鉦を打ち鳴らし、庭入りの舞に始まり、竹の棒を持って踊る「ひっちき」で最高潮を迎え、慰霊の和讃で終わる。8月13〜16日まで続く盆の行事で、この念仏踊りも国の重要無形民俗文化財に指定された。

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阿南町新野の農村文化伝承センターの南西1km弱にある小高い山の中に、雪祭りが行われる伊豆神社が建っている。参道脇に雪祭りを紹介した折口信夫の碑が立っているのだが、急な石段を避けて、狭い裏道を車で上ったので見逃した。「庭」と呼ばれる境内の広場が、雪祭りの舞台である。

新野の雪祭りは1月14〜15日にかけて伊豆神社で行われる部分がよく知られているが、実際は元旦の「門開きの式」に始まり、13日の「お下がり」で摂社・諏訪神社例祭、14日の「お上り」から伊豆神社の例祭と続く。13日に諏訪神社で「お下り」の後、「お滝入り」という禊をする。14日夕方に「お上り」の行列が諏訪神社を出て、笛と太鼓で囃しながら新野の町内を進み伊豆神社の「庭」に着く。

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最初に、拝殿から渡り廊下でつながっている神楽殿にて、「ビンザサラ舞」「論舞」から「順(ずん)の舞」まで「神楽殿の儀」が行われる。庭では祝儀締め・松明立てと庭の行事が行われる。その後、本殿の儀になる。

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まず本殿の裏山にある「伽藍様」の祠で、鼓を太鼓代わりにして宣命と順の舞を舞うと、下の本殿の扉が音をたてて開けられ、本殿の修祓式が始まる。伽藍様とは、伊豆権現鎮座以前からの地元の神=氏神(産土神)という。

庭で御参宮、代参りの後、本殿で中啓の舞から順の舞が行われ本殿の儀が終わる。庁屋の前で乱声が行われ神の登場を促す。松明に火が灯されて庭の儀が始まり、最初の神「サイホウ」が飛び出し、以下、「鎮めと獅子」まで延々と芸能が繰り広げられる。

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伊豆神社本殿の右隣にも社があるが、氏神は伽藍様で本殿の後ろに祀られているので、この社は氏神ではないようだ。

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また、拝殿と神楽殿を結ぶ渡り廊下の手前に大きな石碑があるが、これも残念ながら詳細がわからない。

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農村文化伝承センターの北東数百mに曹洞宗の瑞光院が建っている。文安2年(1445)この地を領した伊勢平氏の一族・関氏が居住したところで、享禄2年(1529)二代目盛国が創建した名刹である。その建立の際に、開山祝いとして三河振草下田の人たちが来て寺の広庭で踊った。これを見た村人たちが毎年盆祭りに踊るようにしようと、新野の盆踊りが始まったと記録されている。

時間がなく残念ながら省略したが、瑞光院の裏山にあたる新栄山は、奥山の堂に行人様という即身成仏のミイラを祀っていて、行人山とも呼ばれる。阿南町の新野の行人様は、貞享4年(1687)に入定し、名は行順。日本に現存する即身仏16体のうち唯一の禅宗系といわれ、春秋年二回のみ御開帳するという。

2015-02-12 阿南町新野の雪祭り

[][]阿南町新野の雪祭り 20:46

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東栄町から天竜川右岸(西側)に沿って北上し、新野(にいの)峠を越えて長野県下伊那郡阿南町新野に着く。阿南町新野は千石平とも呼ばれた丘陵状の盆地であり、盆地を取り囲む峠は塞の神のいるところだと信じられた。新野は雪祭りが有名で、阿南町や周辺の村の祭りの様子が農村文化伝承センターで展示されている。

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新野の雪祭りは、雪を豊年の吉兆とみて田畑の実りを願う祭りで、本祭りは1月14日の夜から翌朝にかけて伊豆神社境内で執り行われる。田楽、舞楽、神楽、猿楽、田遊びなどの日本の芸能絵巻が徹夜で繰り広げられる。能や狂言などの原点ともいわれる。これはパンフの切り抜きである。

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その来歴は伝説的な要素が強く、鎌倉時代に伊豆の伊東小次郎が流浪の末に新野にたどり着き、奈良の春日神社に奉仕していたことから薪能を伝えたとも、室町時代に生国伊勢からやってきた関氏が田の神送りを伝えたともいわれている。

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「日本の芸能を学ぶものは一度見る必要のある祭り」と全国に紹介した、民俗学者で国文学者、また歌人でもある折口信夫は、雪祭りの命名者でもある。折口は雪祭りや東栄町の花祭りの採訪のため度々当地を訪れ、「祭り狂い」「花狂い」ともいわれた。地元では「二善寺の御神事」とか「田楽祭り」などと呼ばれていた。

長野県最南端の新野は雪が少ない地方で、雪がない時には峠まで取りに行き一握りでも神前に供えなければ祭りが成り立たないと信じられてきた。

雪祭りに使用する仮面=面形(おもてがた)は、墨・胡粉・紅ガラだけで仕上げた素朴さが特徴で、現在は19種の面があり鎌倉時代の様式を今に伝えている。これに作り物の駒、獅子頭、馬形、牛形が加わり、仮面をつけることによって神の化身となる。

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伊豆神社の祭りは、出番を待つ庁屋(支度部屋)の壁を見物人達が薪などの棒で叩きながら、悪霊を鎮める「ランジョウ(乱声)、ランジョウ」という呼びかけで、神の登場を催促する。午前1時頃松明に点火し、広庭の祭事が始まる。最初に柔和な面形の神様「幸法(さいほう)」がでてくる。赤頭巾に長い藁の冠、その先に五穀の入った玉をつけ、千早、短袴、白い脚絆に足袋、草鞋の出で立ちで、手に松と田うちわを持って舞う。舞い方も「打払い」「冠とり」「ササラの先立ち」などがある。

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次に登場するのが「茂登喜」で、「幸法」の演技を補う。「競馬(きょうまん)」は作り物の馬形を手綱さばきで本物の馬のように見せる。「お牛」は宮司が務める重要な神事で、拝殿の屋根と石段に向かって矢を放つ。これは神や精霊との媒介をするものと折口信夫は説明している。

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その他にも翁、松影、正直翁、海道下り、神婆(かんば)、天狗、八幡、しずめ、鍛冶、田遊びなど多彩な舞が繰り広げられ、朝の8時前後まで続く。国の重要無形民俗文化財に指定されている新野の雪祭りは、こうして「寒い・眠い・煙い」の3拍子が揃った祭りとして夜を徹して行われる。

2015-02-10 東栄町の花祭り

[][]東栄町の花祭り 20:58

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四つ舞は4名で舞うが、時間も長く洗練された技術が必要で、20〜26歳の熟練した青年が扇、やち、剣の3折の舞を担う。

舞は太鼓の調子、笛の旋律と歌ぐらの音曲が三位一体となって成り立つ。舞の場面ごとに歌い分ける60種類もの歌を覚えることも、想像を絶する修練が必要と思われる。

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茂吉鬼は、舞の最後を締めくくるように朝方に登場することが多かったことから朝鬼とも呼ばれる。鉞(まさかり)ではなく槌を持って舞うのが特徴で、花宿の主人の舞とされている。

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祭りの終盤、一番の盛り上がりを見せるのが湯ばやしという軽快な舞である。舞の最後に振りかけられる「生まれ清まりの産湯」といわれる釜の湯を浴びれば、無病息災、健康で過ごすことができると村人に歓迎されている。

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花祭会館では、花祭の様子を20分ほどでビデオ鑑賞できるほか、祭りに使われる鬼の面や小道具などを見学できる。館内中央には衣装をつけた人形が集まる舞庭(まいど)が設けられ、花祭の臨場感が多少とも味わえる。

この河内の役鬼の面は、左から猿田彦命、須佐之男命大国主命二つである。

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こちらは御園(みその)の役鬼の面で、左から榊鬼、山見鬼、朝鬼である。御園の花祭は「大入系」で、舞も一本足で手を大きく広げて鶴のように舞うという。

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これは小林の役鬼の面で、左から榊鬼、山見鬼、茂吉鬼である。「大河内系」唯一の花祭といわれる小林の花祭では、地区最多の47の神事・舞の次第が残されている。

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こちらは中在家の役鬼の面で、左から榊鬼、山見鬼、茂吉鬼である。中在家の花祭は、戸数が少ないため他地区の応援を得て行われている。

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役鬼の面は11の地区により少しずつ異なっていて面白い。ほかに田楽面も陳列されている。  

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ここに集められている面は、古戸(ふっと)の田楽面である。右上にはささらが展示されている。古戸の花祭は神仏混淆の形式を色濃く残し、振草系の中で最も古いとされる。

東栄町にはちょうど花祭の時期に訪れたのだが、残念ながらこの日はどの地区でも開催されていなかった。

2015-02-09 東栄町花祭会館

[][]東栄町花祭会館 20:55

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鳳来峡のある新城市の東北にあたる愛知県北設楽郡は、奥三河の民俗芸能が残る地方として知られる。中でも有名な花祭りの中心地東栄町には、花祭りを保存伝承する花祭会館がある。

入口脇に置かれている鬼の作品は、アメリカのチェンソーアーティストのブライアン・ルース(BRIAN RUTH)による。東栄町には2000年記念イベントで来日以来、東栄町で開催されるチェンソーアート競技大会にゲストとして毎年参加している。

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「テーホヘ テホへ」と夜を徹して繰り広げられる花祭は、鎌倉時代末期から室町時代にかけて、熊野の山伏や加賀白山の聖によってこの地に伝えられたといわれている。「冬至」の前後、太陽の力の復活を願って行われる「霜月神楽」の一種とされる花祭は、天竜川水系に今も伝わる神事芸能で700年以上にわたって継承されている。

花祭の根本思想は「生まれ清まり」であり、そのために浄土へ渡り、大法蓮華の花を手にして、再生した新たな命を「花」と捉えているといわれ、地元ではこの祭りを単に「ハナ」とだけ呼んでいる。

祭りは滝祓い、高嶺祭り、辻固めなど花宿の清めから始まり、神迎え、湯立て、宮人の舞、花の舞、鬼の舞、湯ばやし、神返しまで休むことなく一昼夜かけて行われるが、町内各地区によって神事や舞の種類や順に異同がある。

滝祓いで「御滝の水」を迎え、高嶺祭りで上空から来る諸霊を祀る。天狗祭りともいう。

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神を迎え、悪霊を払い除け、無病息災、五穀豊穣、村中安全を願うこの祭りは、国の重要無形民俗文化財に指定され、毎年11月から3月上旬にかけて、町内11の地区で盛大に開催されている。その花祭は「振草系」「大入系」「大河内系」の3系統に分かれている。

この場面は神入り(宮渡り)という神事で、氏神の御神体の分神を迎えるところである。花祭の神(きるめ・みるめ)と氏神との関係は元はなかったがいつの日か関係付けられたと考えられている。つまり氏神の祭祀は宮司が行うが、花祭は花太夫が行い、神入りという神事を行わない地区もある。原則は男の祭りで女性は見るだけだったが、近年の少子化・過疎化によりほとんどの地区で女性も参加しているそうだ。

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主な神事は、祭場を清めて神々を迎える神勧請、祓い清めた釜でお滝の水を沸かして聖なる湯を献じる湯立て、諸々の願いを奉じる立願の舞、舞の後で神々を天空に返す神返しからなる。この湯立ての神事は、花祭の中でも最も重要なものとされている。

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主な舞は、はばちの舞、御神楽、市の舞、地固めの舞、花の舞、山見鬼、三つ舞、おつるひゃら、巫女、ひのねぎ、四つ舞、翁、湯ばやしの舞、茂吉鬼、獅子と多い。

この花の舞は、稚児舞とも呼ばれ、6〜12歳の少年が花笠をかぶって3〜4人で舞うものである。

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神の出現を意味するものは、山見鬼、榊鬼が中心である。この榊鬼は、花祭の目的である「生まれ清まり」を実現するための呪法である「へんべ」を踏む唯一の鬼で、祭りのシンボルでもある。

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おつるひゃらは、地区によりおちりはりあるいは天の岩戸開きなどと呼ばれ、ひのねぎと巫女の供としておかめとひょっとこが登場し、すりこぎやしゃもじを手に性的な仕草で面白おかしく舞う。

2015-02-07 湯谷温泉

[][]湯谷温泉 21:38

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鳳来寺山パークウェイを下って近くの湯谷(ゆや)温泉に泊まる。湯谷を中心に宇連川(うれがわ)の上流・下流約5kmの渓谷を鳳来峡と呼んでいる。その川沿いに広がる、湯谷温泉の歴史は古く、開湯は1300年前であるとされる。

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開湯伝説によれば、鳳来寺の開祖・利修仙人により発見されたと伝わる。「長篠村史」には「仙人は温泉の優れた効力により心身の調和をとり、修行を極めて悟りを開き(中略)実に308歳の長寿を全うした」との記録が残る。

宇連川の上流の川底は流紋岩流紋岩質凝灰岩が、下流には頁岩層があり、ともに板を敷き詰めたように見えるので、板敷川とも呼ばれている。平らのところが多いのだが、所々に大岩が見かけられる。この宿の前に見える岩は「しんのこ岩」と呼ばれている。その左の深くて流れの緩やかな「ながとろ」辺りは水泳可となっている。

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板敷川の右岸に数件の宿が並び、向かいの森の上にはとび(鳶)が群れ飛んでいる。

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湯谷温泉の泉質は、ナトリウムカルシウム塩化物泉で、皮膚病に効能があるという。源泉温度は35.9℃のため加温している。この宿では無料貸切風呂も含め、すべての風呂から板敷川の清流が眺められてゆっくりくつろげる。

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川端近くの露天風呂せせらぎからは、川の流れの風情を間近に感じ取れる

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料理は奥三河の郷土色豊かな食材や三河湾の魚介を使った料理で、十分満足できる。

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大浴場脇の露天風呂から眺める景色も素晴らしい。

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この宿ではとびの餌付けをしているそうで、時間前には宿の正面の巨木のてっぺん近くに何羽も集まって来る。

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いよいよ餌付けが始まるのか数十羽のとびが群れ飛んで、今か今かと輪を描いている。

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餌付けが始まると数十羽が間近に飛び降りてきて、宿の係りが投げ上げる肉を巧みにくわえていく様子は壮観である。多い時には200羽近く飛来するという。

2015-02-06 鳳来寺

[][]鳳来寺 22:02

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東照宮の石段を下ってさらに先の鳳来寺に向かうとすぐに、元三堂趾という石碑がある。江戸時代後期の三洲鳳来寺絵図や鳳来寺略縁起の景観では、薬師堂(本堂)や三重塔、弘法大師堂、元三大師堂などが描かれているという。

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古めかしい狛犬が道端に祀られている前を通り過ぎると、左下から上がってくる表参道に合流する。

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杉の多い鬱蒼とした参道を進むと、急に開けて広場となり鳳来寺本堂が現れる。寺伝によれば、鳳来寺は山城国生まれの利修仙人が大宝3年(703)に開山したと伝わる。文武天皇の病気平癒祈願を再三命じられて拒みきれず、鳳凰に乗って参内したという伝承があり、鳳来寺という寺名および山名の由来となっている。利修の加持祈祷が功を奏したか、天皇は快癒。その功によって伽藍が下賜されたという。利修仙人作とされる薬師如来を本尊として祀ったのが始まりとされ、ほかにも日光・月光菩薩、十二神将、四天王も彫刻したという。

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鎌倉時代には三河御堂の一つとして栄え、戦国時代からは松平家と関係が深まった。徳川家康が鳳来寺の薬師如来の申し子であるという仏縁によって、江戸幕府の庇護を受け、最盛時には天台宗方12、真言宗方10の合わせて21院坊、寺領1350石の寺勢を誇った。明治初期の神仏分離により鳳来寺と東照宮が分離され、鳳来寺は著しく衰退した。明治末期に真言宗高野山の所属となり規模縮小して存続が図られた。鳳来寺山麓の表参道沿いには、元天台宗の松高院と、真言宗の医王院が今でも残っている。

鳳来寺本堂の裏手には鏡岩と呼ばれる岸壁がある。この鏡岩そのものが信仰の対象であり、その下から古鏡などが多数発見されている。

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鳳来寺山は過去に何度も大火に見舞われ、その度に建て替えられてきた。大正3年(1914)にも本堂を焼失したが、昭和49年(1974)に再建された。開祖とされる利修仙人は伝説の人で、色々な話が伝わっている。仙人は地元で悪さを働いていた三匹の鬼を改心させ、従者として従えていたそうだが、878年に308歳で亡くなる際、この三匹の鬼たちも仙人を慕って供をしたという。その鬼の首は鳳来寺本堂の下に封じられたとされる。その鬼の供養に寺の僧と村人が踊った田楽が今も地元に伝えられている。

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鳳来寺本堂の脇には田楽堂が建っている。毎年1月3日にそこで鳳来寺田楽が演じられる。この鳳来寺田楽は鳳来寺が扶持を与えて田楽衆に奉仕させたので寺田楽と呼ばれ、田遊びの行事のみではなく、修正会や延年、国家鎮護の祈願や最も古い時代の舞の形が所々に残っているといわれる。

標高約450mの本堂前の展望台からは、深い谷底に門谷表参道の家並みがかすかに見下ろせる。彼方に見える尖った山は雁峰山(628m)だろう。

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本堂の左手から奥の院に進むとすぐ右側に苔むした護摩堂が建っている。

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護摩堂の中には、誰かわからないが二つの像が祀られていた。

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さらに右に本堂の裏手に上がると、鎮守三社権現堂が建っている。

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鎮守三社権現堂は東照宮と同じく、山王権現・熊野権現・白山権現を祀っている。本堂が罹災した時には、仮本堂の役割を果たしたという。

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祖師堂下まで戻り、左の奥の院への道を進むと、鏡岩の下に出る。歴代住職の墓であろうか、洞窟の手前にはたくさんの石塔や石仏が立てられている。道の先には、昭和34年に再建された大きい鐘楼が建っている。梵鐘には棟方志功による十二神将が刻まれている。

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奥の院から山頂周遊の道は険しそうなので、無理せずここで引き返すことにした。鳳来寺本堂を過ぎて表参道を下って行くとまもなく、左手に東照宮の鳥居があるので潜って駐車場に戻った。

2015-02-04 鳳来山東照宮

[][]鳳来山東照宮 21:20

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豊田市香嵐渓から東に進み、静岡県との境に近い新城市鳳来寺山に向かう。鳳来寺は表参道の石段が1425段あり、徳川家光により建てられた仁王門を見ながら登るのは時間が足りないので、東南から鳳来寺山パークウェイにて山頂駐車場まで車で上る。標高約360mあり、あたりは紅葉真っ盛りであった。

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蓬莱山東照宮に向かって見晴らしのよい遊歩道を進むと、まもなく正面に鳳来寺山が見えてくる。鳳来寺山は松の緑に覆われているが、道の脇には真っ赤な紅葉が鮮やかに燃えている。

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左手には深い谷底に門谷表参道の家並みが見下ろせる。家並みの手前から右に石段を登って、表参道は鳳来寺に向かっている。

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標高695mの鳳来寺山山頂は、瑠璃山とも呼ばれる。「声の仏法僧(コノハズク)」が生息することで知られ、国の名勝及び天然記念物に指定されている。山頂のすぐ左手に奥の院があり、すぐ右手の大きな岸壁は鏡岩という。鏡岩の少し下に鳳来寺の鐘楼の屋根が小さく見える。

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やがて杉の大木が林立する薄暗い境内が見えてくる。東海自然歩道の案内板があり、大野からの登山道湯谷温泉から湯谷峠を通ってくる登山道も表示されている。

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鳳来山東照宮は、日光久能山と並ぶ三大東照宮の一社を称している。石段の周りには杉の巨木が高く聳えている。

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石段を上ると石鳥居の先に石柵の玉垣(折曲り延長約76.5m、国重文)が巡らされ、その中に拝殿が建っている。東照宮は家康を祀る神社であるが、その関係は家康生前に遡る。「東照社縁起」によれば、家康の父・松平広忠は、天文10年(1541)に正室・於大(伝通院)との間に子が出来ないことを憂い、祈願のために夫妻揃って領内の鳳来寺に参籠したところ、伝通院が東方より現れた老翁に金珠を与えられる夢を見て、間もなく家康を懐妊したという。

慶安元年(1648)日光東照宮へ参拝した折に改めて「東照社縁起」を読み感動した3代将軍家光が、鳳来寺本堂修復と薬師堂の再建を発願、合わせて新たに東照宮の創祠を計画し、造営を進め、後を継いだ4代将軍家綱により慶安4年(1651)に社殿が竣成、江戸城紅葉山御殿に祀られていた「御宮殿(厨子)」と御神体である「御神像」を遷祠したのが始まりである。

拝殿は桁行3間、梁間2間の入母屋造で、正面に1間の向拝を設け、鬼板・烏衾を置く。屋根は桧皮葺、慶安4年の造営で、国の重文に指定されている。

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主祭神はもちろん徳川家康(東照大権現)で、「鎮守3社」と称される山王権現、熊野権現、白山権現を合祀している。

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拝殿の裏手にある本殿は、桁行3間、梁間2間の入母屋造で、1間の向拝を付け、屋根に千木を置く。本殿正面に1間平唐門の中門があり、中門から左右に透塀の瑞牆が本殿を囲んでいる。屋根は桧皮葺、慶安4年の造営で、国の重文に指定されている。

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本殿内陣に納められた宮殿は、入母屋造妻入黒漆塗で、軸部や組物に金物を多く打って壮麗である。柱は円柱、粽を付け、中ほどに葵紋の金物を押す。頭貫、台輪を通し、詰物で組物を置き、二軒、木瓦葺とする。内部は黒漆塗、鏡天井で、浜床を置き帳台を立てる。螺鈿、蒔絵を施した手の込んだもので、中に神像を納める。

本殿内部は見学できないが、外回りだけでも豪華絢爛で、虹梁・木鼻などの彫刻は見応えがある。

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拝殿背面中央には桁行2間、梁間1間、切妻造妻入の幣殿が角屋状に接続している。

2015-02-03 足助八幡宮

[][]足助八幡宮 20:37

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巴川から土産物通りを進み、大駐車場の手前で右に折れると、国道の向こうに木立に囲まれた足助八幡宮が建っている。

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木製の大鳥居は寛政12年(1800)に改築されたもので、道路工事のため平成14年に正面から現在地に移動した。

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室町時代に書かれた「足助八幡宮縁起」によると、天智天皇の時代(668~671)に三河国宝飯郡大深山(現、本宮山)に現れた猿形・鹿形・鬼体のうち、猿形は石船に乗って西に飛び猿投神社に、鹿形はその地に留まり砥鹿神社に、そして鬼体は足助に飛来し、それをきっかけに足助八幡宮が創建されたと伝えている。

主祭神として品陀和気命(応神)を祀り、帯中日子命(仲哀)・息長帯比売命(神功皇后)ほかも合祀している。

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伝承によれば、創建は天武天皇白鳳3年(663)とされるが、足助八幡宮では白鳳2年(673)としている。八幡宮には多くの絵馬が奉納されており、そのうち慶長17年(1612)に奉納された扁額鉄砲的打図板額は、俗に鉄砲絵馬と呼ばれ、老翁が日の丸の扇の的に射撃を行う姿が大和絵の手法で描かれている。鉄砲を描いた扁額は全国でも他に3枚しか現存しない珍しいもので、東京オリンピックの際に射撃競技プログラムの表紙に使用された。

昔から「足を助ける神」として信仰され、拝殿にもわらじが奉納されている。

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拝殿の左手(西)にはいくつか小さな末社が祀られ、その左に古めかしい金毘羅社が建っている。

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拝殿と金毘羅社の間の末社は、右から朱色の天満社・秋葉社・塩釜社である。

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本殿は拝殿に隠れて正面からは見えないので、左手から眺めるしかない。現在の本殿は文正元年(1466)に再建されたものである。桧皮葺の三間社流造で、地方の神社としては妻飾り・象鼻・手挟など室町時代の建築の特色をよく残し、特に向拝の蝦虹梁の意匠はすこぶる奇異で珍しいといわれる。国の重文に指定されている。

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境内の左手社務所前には、市指定天然記念物の大イチョウが聳えている。

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かつて足助八幡宮は今より広い社域をもち、明治初期までは神宮寺も所在した。神宮寺本尊は国道を隔てた十王寺にあり、社域には今でも神宮寺の名残である鐘楼が残されている。しかし、梵鐘は明治維新の神仏分離の際に売られ、ここには残っていない。

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足助八幡宮の右手(東)にも幾つかの末社が祀られている。御嶽社・稲荷社・津島社である。その右隣に足助神社がある。

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足助神社の拝殿は明治35年の創建である。元弘の乱で後醍醐天皇に味方して笠置山で奮戦し、後に鎌倉幕府によって京都六条河原で斬首された、飯盛山城主足助氏7代の足助二郎重範を祀っている。

2015-02-02 三洲足助屋敷、巴川

[][]三洲足助屋敷、巴川 21:01

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香積寺の参道を下って行くと、巴川沿いに三洲足助屋敷の家並みが見える。消えゆく昔の山村での生活の様子を再現したもので、わら細工や籠屋・傘屋・桶屋・鍛冶屋・炭焼き・木地屋などで実演が行われる民族資料館的な施設である。

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屋敷前の大きなイチョウが見事に黄色く色づいている。

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長屋門の受付など茅葺の古民家なども見えるが、建物はすべて移築ではなく新築されたものである。

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屋敷前の敷地内には、桧茶屋などの食事処や土産物屋などが建ち並び、観光客で賑わっている。

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三洲足助屋敷前から巴川に沿って戻って行くと香嵐渓広場があって、猿回しなどもみじまつりのイベントが行われている。

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もみじ越しに川の流れを見ながら休憩する人も多い。

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香嵐渓広場から東屋や栗の木茶屋の間を通り抜けていくと、もみじの先に真っ赤な待月橋が現れる。

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橋のたもとから対岸を眺めると、向こう側には土産物屋が並んでいるので、橋を渡って足助八幡宮に向かう。

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巴川の上流を振り返ると、河原に下りて記念写真を撮る人々もたくさん見える。

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待月橋の飯盛山側の岸辺には、「五色もみじ」と呼ばれる5色に変化しながら染まっていくもみじがあるが、まだ色づき始めたばかりであった。

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巴川の流れも急に強くなってきた。夜には飯盛山のライトアップもされるというが、全山真っ赤に燃えるまでにはもう一週間ほどかかると思われる。

2015-02-01 香嵐渓、香積寺

[][]香嵐渓、香積寺 20:39

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巴川沿いの三洲足助屋敷から上がってくる参道に合流してさらに進むと、石段・石垣の上に香積寺が見えてくる。

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曹洞宗飯盛山香積寺の開基は、関白二条良基、足助重範の娘・滝野と、孫である成瀬三吉丸基久・基直(成瀬氏の先祖)などで、滅亡した足助氏の菩提を弔うために飯盛山足助氏の居館(飯盛山城)跡に建立された。寄棟造本瓦葺きの本堂の左脇には、開山当時から寺の鎮守として豊栄稲荷が祀られている。

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香積寺は応永34年(1427)白峰祥瑞禅師により開山され、寺号は維摩経香積仏国品から名付けられた。本尊として聖観世音菩薩が安置されている。

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香積寺には毘沙門天像も祀られている。香積寺で最も古い仏像とされる。

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本堂左手には坐禅堂がある。江戸時代後期の建立という。入り口左手前には、松本たかしの句碑がある。高浜虚子の高弟で、没年前年(昭和31)に香積寺で詠む。

「茂山に在り隠然と古道場 たかし」

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坐禅堂の内部には、文殊菩薩像が祀られている。日本曹洞宗の祖・道元は、ひたすら坐ることに打ち込む只管打坐を唱えている。曹洞宗では、壁に向かって坐蒲に坐り続ける面壁坐禅が基本である。壁には「頭を空っぽにし、心を空っぽにし・・・」と、坐禅の心得もたくさん貼られている。

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本堂の左手に建つのは経蔵で、指月堂とも呼ぶ。一切経をおさめる蔵で、本尊として傅大士を祀っている。指月堂とは月を指差すお堂のことで、月は真理・悟りを表し、経本は指差す方向を表すという。

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本堂の左奥には飯盛山に登る道があり、その左手にはどういうわけか真言宗の弘法大師堂が建っている。

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飯盛山へ登る道は豊栄稲荷奥の院の参道となっていて、参道沿いには鳥居が立ち、豊栄稲荷大明神の赤い幟がはためいている。飯盛山に登っていくと、豊栄稲荷のほか歴代住職の墓や十六羅漢の石仏足助城主の墓、装束塚、経塚などが点在する。