半坪ビオトープの日記

日吉大社、西本宮本殿


日吉大社について文献では、『古事記』に「大山咋神、亦の名を山末之大主神。此の神は近江海国の日枝の山に坐し」とあるのが初見だが、これは日吉大社の東本宮の祭神・大山咋神について記したものである。日枝の山とは後の比叡山のことである。日吉大社崇神天皇7年に日枝山の山頂から現在地に移されたという。西本宮の祭神・大己貴神については、近江京遷都の翌年である天智天皇7年(668)大津京鎮護のため大神神社の神が勧請されたという。最澄比叡山上に延暦寺を建立し、比叡山の地主神である当社を天台宗延暦寺の守護神として崇拝した。その後、山王権現と呼ばれるようになり、天台宗が全国に広がる過程で、日吉社も全国に勧請・創建されていった。元亀2年(1571)信長による比叡山焼き討ちで日吉大社も灰燼に帰した。秀吉は特に山王信仰に篤く、現在の建物は天正14年(1586)以降に再建されたものである。それは秀吉の幼名が「日吉丸」であったことと、日吉大社の神使が秀吉のあだ名である「猿」であったためといわれる。
西本宮本殿は、桁行5間、梁間3間、日吉造桧皮葺で、国宝に指定されている。日吉造(ひえづくり)は、一名を聖帝造(しょうたいづくり)ともいい、全国で日吉大社の西本宮本殿・東本宮本殿・宇佐宮本殿だけに見られる特殊な構造である。つまり、三間・二間が身舎の前面、両側面に一間の廂を巡らせ、正面には一間の向拝と浜床を付け、縁高欄を巡らせている。正面からは入母屋造に見えるが、背後に回ると廂がなく、屋根が切り落とされたように見える。天正14年(1586)に復興されたものを慶長2年(1597)に改造している。

日吉大社の「日吉」は、かつては「ひえ」と読んだが、戦後は「ひよし」を正式の読みとしている。本殿の前には西本宮拝殿が建っている。桁行3間、梁間3間、入母屋造妻入りで、拝殿の手前には3間1戸の楼門が建っている。拝殿も楼門も本殿と同時期に建てられたもので、国の重文に指定されている。

楼門下層の正背面中央には、極彩色の雲や菊を彫刻した蟇股を飾り、上層四隅には日吉大社の神使とされる「神猿(まさる)」の彫刻が施され、入母屋造桧皮葺の大屋根を支えながら見張りをしているように見える。

西本宮から東本宮へ向かう途中に神輿庫がある。日吉大社は日本の神輿のルーツといわれる。

約1200年前、桓武天皇がこの神社に2基の神輿を寄進されたのがはじまりといわれ、今では山王七社それぞれ一社に一基ずつの神輿がある。僧兵の強訴でも有名で、平安から室町にわたる370年間に40数回の上洛強訴が行われ、重量500貫(約2トン)の神輿を担いで標高850mの日枝山を越えたという。

平安時代の神輿は元亀の乱で焼失し、現在神輿庫に展示されている神輿は桃山時代の作で、国の重文に指定されている。滋賀県三大祭りの一つに数えられる4月の山王祭では、同時に新調された別の神輿を担いでいる。

牛尾山への登山口に当たる階段の左右に、三宮宮遥拝所と牛尾宮遥拝所が並び建つ。標高378mの牛尾山頂の崖上に建つ懸造の社殿を、ここから遥拝できる。急な坂道を15分も登るというので諦めた。日吉大社の摂社・三宮神社は三宮宮とも呼ばれ、祭神として鴨玉依姫神荒魂を祀る。拝殿は懸造(舞台造)、本殿は三間社流造。慶長4年(1599)の建立で、ともに国の重文に指定されている。牛尾神社は牛尾宮とも呼ばれ、祭神として大山咋神荒魂を祀る。拝殿は懸造(舞台造)、本殿は三間社流造。文禄4年(1595)の建立で、ともに国の重文に指定されている。