半坪ビオトープの日記

2015-12-31 ザビエル教会、黎明館

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ポルトガル船が種子島に漂着し、鉄砲を伝えた6年後の天文18年(1549)フランシスコ・ザビエルは、鹿児島に上陸し日本で初めてキリスト教を布教した。日本最初の仏和辞典を作成したラゲ神父が、明治41年(1908)にザビエルの功績を讃えるために石造の教会堂を建てたが、第二次大戦時の空襲により石壁だけが焼け残った。昭和24年(1949)にザビエル渡来400年を記念して、ローマ法王の寄付金をもとに教会(木造)が再建され、石壁は教会前に整備されたザビエル公園内に記念碑として建てられた。

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ザビエルは1506年にナバラ王国(その後スペインとなる)に生まれたイエズス会の創立メンバーである。インドのゴアに派遣されたザビエルは、マラッカで出会った薩摩出身の元漁師・ヤジロウの案内で鹿児島祇園之洲に上陸し、島津貴久に謁見し、許可を得て日本で初めてキリスト教を布教した。しかし鹿児島では仏教徒の激しい反対にあい、ザビエルは10ヶ月で平戸に移った。その後京に行ったが天皇や将軍への謁見もできず、山口で大内義隆に歓待されて布教を行った。さらに豊後の大友宗麟を訪ねた後、天文21年(1552)に日本を離れてゴアに戻り、同年に中国へ向かう途中で46歳にて病没した。

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ザビエルの滞鹿記念碑の右手に、ザビエルと薩摩人の像がある。ヤジローもベルナルドもマラッカから鹿児島まで案内した薩摩人である。ザビエル来航450年を記念して、ザビエル公園に設置された。

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公園の向かいに建つ鹿児島カテドラル・ザビエル教会(記念聖堂)は、平成11年(1999)に新しく建て直されたコンクリート打ちっ放しの現代建築で、斬新なデザインと優れた機能美が評価されている。外観は大航海時代の交易船をイメージして作られたという。高さ31mの鐘楼に吊るされた鐘は、ザビエルの鐘と呼ばれている。

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照国神社の向かいに石造の考古資料館が建っている。明治16年(1883)に鹿児島県産の溶結凝灰岩を用いて県立興業館として建てられた、和洋折衷の2階建寄棟瓦葺の建物で、戦災で内部が焼失した後、県立博物館として再建され、現在は考古資料館となっている。

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城山の麓の西郷隆盛像の向かいに中央公民館が建っている。昭和2年(1927)に市公会堂として建てられ、昭和48年(1973)より中央公民館となった。

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西郷隆盛像の東、島津氏の居城であった鶴丸城本丸跡地に黎明館が建っている。昭和58年(1983)に開館した県の歴史資料センターで、歴史民俗や文化遺産が15万点以上収蔵されている。幕末維新黎明期の資料が約3千点展示されている。

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黎明館の右手に聚珍宝庫碑という石碑が建っている。

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その聚珍宝庫碑の右手前の前庭に天璋院の銅像がある。第13代将軍徳川家定の正室・篤姫は、薩摩藩和泉島津家の生まれで、島津斉彬の養女となった後、鶴丸城本丸で数ヶ月過ごした。平成22年(2010)、天璋院の功績を顕彰して建立された。

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黎明館は鶴丸城本丸跡地に建てられたため、石垣や濠、御楼門に至る大手橋(石橋)が残り、御楼門跡、御角櫓跡、麒麟の間跡などの遺跡もある。黎明館の裏手には屋外展示場が設けられ、御池もある。御池は城内にあった庭の池の一部を当時の石を使い大悲水や九皐(きゅうこう)橋などを復元したものである。

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この建物は姶良郡横川町の海老ヶ迫家住宅を移築したもので、天保年間(1830~44)の建築という。二つの棟が樋の間(てのま)で連結され、「樋の間二つ家」と呼ばれる。

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民家の前には鹿児島県各地の田の神像が集められている。この田の神像は、姶良町平松(現姶良市)の田の神像である。

2015-12-28 南洲神社、照国神社

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城山の北東、南洲公園内の南洲墓地の手前に、西郷南洲顕彰館がある。西郷隆盛が残した墨跡、衣服、遺品などを展示し、西郷の生涯・思想・業績などを紹介し、明治維新や西南戦争について解説している。昭和53年(1978)、西郷没後100年を記念して鹿児島市が開設した。

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顕彰館の先には、西南戦争での薩軍戦死者2023人が埋葬されている南洲墓地がある。岩崎谷で戦死した西郷以下40名を仮埋葬したこの地に、2年後の明治12年(1879)に市内各地に埋葬されていた遺骨を移し、さらに6年後には宮崎・熊本・大分各県からも集められた。墓地からは故郷の象徴でもある桜島が正面に眺められる。

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少し大きめの西郷隆盛の墓石を中心にして、左隣に薩軍の総司令官で四番大隊長だった桐野利秋、さらに左に三番大隊長だった永山盛弘の墓石が並び、西郷の右隣には、薩軍一番大隊長だった篠原国幹、さらに右に二番大隊長だった村田新八の墓石が並ぶ。ほかにも、西郷の介錯を務めた別府晋介、五番大隊長だった池上貞固などの幹部の墓など、数限りなく並んでいる。

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南洲墓地のすぐ隣に南洲神社がある。西郷以下の戦死者の墓が集まる南洲墓地に、西郷隆盛の遺徳を崇敬して参る者が増えたため、明治13年に参拝所が設けられ、大正2年に社殿(南洲祠堂)ができ、大正11年(1922)に南洲神社として無格社に認定された。

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戦災で焼失したが昭和25年に仮殿が再建された。同32年に本殿が再建され、同45年に拝殿が完成した。もちろん祭神として西郷隆盛命を祀っている。社宝は西郷の遺墨である。拝殿内左側には犬を連れた立像があり、右側には西郷の座像が安置されている。その上の額には「敬天愛人」と書かれている。鶴岡(庄内藩)で編まれた『西郷南洲遺訓』によれば、「道は天地自然の物にして人はこれを行うものなれば、天を敬するを目的とす。天は人も我も同一に愛し給うゆえ、我を愛する心を以て人を愛するなり。」とされる。

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城山には北から上がる車道のほかに自然遊歩道があるが、南の麓にある照国神社の裏から急な石段を上っていくこともできる。照国神社は、島津家第28代斉彬を祀る神社で、江戸時代後期から明治時代初期に流行した藩祖を祀った神社の一つである。鳥居が殊の外大きい。

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祭神の斉彬は薩摩藩第11代藩主で、嘉永4年(1851)43歳で薩摩藩主を継いだが、安政5年(1858)に亡くなった。神門は戦災で焼失後、昭和42年に再建された。

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文久3年(1863)に照国大明神の神号が授与され、東照宮の立っていた場所に元治元年(1864)社殿が建立され照国神社と称した。創建時の社殿は権現造だったが明治10年(1877)西南の役の兵火で焼失した。明治15年(1882)流造で再建するも昭和20年の戦災で焼失した。昭和28年(1953)本殿、昭和33年(1958)拝殿を再建し、平成6年に幣殿を拡張した。

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社殿の左奥に末社の保食神社がある。祭神として倉稲魂神(うかのみたまのかみ)を祀る。ウカとは穀物・食物の意味で、穀物の神である。伏見稲荷大社の主祭神でもあり、稲荷神として広く信仰されている。元は城山の中腹に鎮座していたが台風により罹災したので、昭和29年に照国神社境内に遷座した。

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照国神社の社殿の東隣に探勝園があり、島津斉彬・久光・忠義のいわゆる島津三像が建てられている。元二の丸庭園であった探勝園は、島津家第25代重豪のときに造られ千秋園と呼ばれていた。27代斉興のときに手を加え探勝園と名付けられた。三像の銅像は、大分県竹田出身の朝倉文夫が作製した。照国大明神こと島津家第28代斉彬は、幕末に、積極的な西欧文明導入による集成館事業などの実践で、国力増強と殖産興業を推進した。また、西郷隆盛、大久保利通など有能な人材育成に努め、単に薩摩藩というより日本国を強く意識し、明治維新への大きな貢献につながった人物とされる。斉彬の銅像の右にある石塔は、戊辰之役戦士顕彰碑である。

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さらに右手には護国神社頓宮がある。頓宮(とんぐう)とは、仮の宮殿、行宮(あんぐう)のことで、護国神社が昭和23年に城山西北の草牟田に遷座したため旧社殿を頓宮とした。

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さらに右手前に進むと、島津家第27代斉興の第5子である島津久光の銅像が建っている。第28代斉彬の異母弟で、斉彬の遺言で久光の子の忠義が藩主になると、「国父」として藩政の実権を握り忠義を後見した。文久2年(1862)幕政改革を志して千人の兵を率いて上京。江戸から帰る際には薩英戦争へとつながる生麦事件が起こった。その後公武合体運動から討幕へと向かう。明治6年に内閣顧問、翌年左大臣になるが政府首脳と対立し明治8年に帰郷。西南戦争時は中立を守った。

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久光の銅像の手前には太平洋戦争戦士之墓の石碑があり、さらに手前に第29代忠義の銅像が建っている。忠義は久光の長男だが、斉彬の遺言でその娘と結婚して藩主となり、祖父の斉興、父の久光の補佐を受けつつ藩政改革と陸海軍の充実に努めた。日本最初の紡績工場をつくるなど集成館事業の充実にも努めた。明治維新後には、長州土佐佐賀藩などとともに進んで版籍奉還を行った。父久光の遺言を守り、明治30年に没するまでマゲを切らなかったといわれる。

2015-12-25 鹿児島、西郷像、城山

[][]鹿児島西郷像、城山 21:13

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鹿児島市内を一望する城山の麓に、大きな西郷隆盛像が立っている。鹿児島生まれの西郷隆盛は、江戸城無血開城や明治新政府樹立など明治維新に多大の功績を残したが、征韓論に敗れ下野。その後、西南戦争で新政府軍と戦い敗北し、この城山の地で自刃した。没後50年記念として、鹿児島市出身の彫刻家で渋谷忠犬ハチ公の製作者・安藤照が8年かけて製作し、昭和12年に銅像が完成した。日本初の陸軍大将の制服姿の銅像であり、土台込みで8mの高さがある。

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城山の名は、中世に地元の豪族・上山氏が山城を築いていたことに由来する。城山の麓に慶長6年から9年(1604)にかけて島津忠恒により鹿児島城が築かれ、別名・鶴丸城と呼ばれている。忠恒の父・義弘は海岸に近いこの城の防御に問題ありと築城に反対したが、幕末の薩英戦争の際、義弘の懸念通りイギリス軍艦から奥御殿に砲弾を何発も打ち込まれた。鹿児島は災害が多く、シロアリ被害もあり幾度も焼失・倒壊したがその度に再建された。明治7年の焼失後は再建されることなく、遺構として石垣や堀、西郷隆盛の私学校跡地である出丸跡、大手門との間に架かる石橋が現存している。堀に囲まれた鶴丸城跡には、現在、黎明館が建っており、堀の石垣には西南戦争の際の弾痕が残されている。

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堀の終わり、城山入口には薩摩義士碑がある。幕末の薩摩藩による倒幕運動の大きな伏線であった、宝暦治水事件で犠牲になった藩士を弔うために大正9年(1920)に建立された。宝暦3年(1753)徳川幕府は薩摩藩木曽川揖斐川長良川の改修工事を命じた。難工事のため約1000人を動員し工費40万両を費やして完成したが、その間、幕吏や地域住民との対立、悪疫の流行などで藩士88人の犠牲を出した。責任を取って自刃した治水総奉行で薩摩藩家老・平田靭負の碑を頂上に、将棋の駒を並べたような碑である。

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城山入口の少し北に西郷隆盛終焉の地がある。西南戦争最終末、明治10年(1877)9月24日未明、城山を包囲した政府軍は一斉に砲撃を開始し、薩摩軍は敵陣めがけて岩崎谷を駆け下り、最後の抵抗を示した。西郷は腰と太ももに銃弾を受け、この場所で別府晋介の介錯によって最後を遂げた。西郷に従った幹部も自刃ないし戦死したという。

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城山に向かう道の途中に西郷隆盛洞窟(南洲洞窟)がある。その数4万の政府軍の城山総攻撃の際、薩軍兵士はわずか300余り、死を決した西郷は夜明けを待って5日間過ごした洞窟を出た。この洞窟は、田原坂より敗走してきた薩軍の最後の司令所だった。

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鹿児島市中央にある城山は、西南戦争最後の激戦地であり、国の史跡及び天然記念物に指定されている。城山展望台の標高は107mで、周囲は城山公園として整備されている。鹿児島湾及び桜島を望む絶好の展望台で、天気が良ければ霧島山系や開聞岳も見られるという。真正面の東に桜島が大きく迫っている。

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やや右(南東)を眺めると、眼下には鹿児島市街地を一望でき、夜景が美しいことでも有名である。この先には大隅半島が見えるはずだが、やはり霞んでよく見えなかった。

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桜島方面をアップで見ると、あまりにも近いので、よくある噴火の際には、火山灰の被害もさることながら、噴石も飛んできそうで危険を感じざるを得ない。桜島鹿児島湾錦江湾)にある東西約12km、南北約10km、周囲約55kmの火山であり、かつては島であったが大正3年(1914)の大噴火大隅半島と陸続きになった。

有史以来頻繁に噴火を繰り返し、現在も活発な活動を続けている。この日の三日後にも噴火が起き、垂水のフェリー港では車のガラスが割れたそうだ。今年の噴火回数も9月には1200回を超えたという。

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城山公園は、楠の大木やシダ・サンゴ樹など600種以上の温帯・亜熱帯性植物が自生する自然の宝庫で、市民の憩いの場ともなっている。

2015-12-24 長崎鼻、指宿・砂蒸し

[][]長崎鼻指宿・砂蒸し 20:54

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開聞山麓自然公園の展望台から見えた、薩摩半島最南端の長崎鼻に行く。熱帯ジャングルを再現したという長崎鼻パーキングガーデンの駐車場から土産物屋の並ぶ道を歩いて灯台に向かうと、道端に真っ赤なハイビスカスが咲いていた。

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海が見えるところに出ると、おもちゃの国のような龍宮神社がある。

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いかにも龍宮伝説にあやかって観光目的で作りましたといった感があり、拝殿が竜宮城をかたどっている。

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古書に「竜宮城は琉球なり」の記述があるとかで、祭神として記紀にある豊玉姫、いわゆる乙姫様を祀っているという。長崎鼻には古くから浦島太郎伝説があり、長崎鼻の龍宮神社は浦島太郎と乙姫様が出会った縁結びの神とされる、との土産品店組合の説明書きがあるが、もちろん観光名所作りのこじつけに過ぎない。右奥に小さな恵比寿神社らしき境内社があるが、これだけは昔からあったかもしれない。

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灯台に向かうと、右手の海の彼方に開聞岳が現れた。薩摩富士といわれるだけあって、海から立ち上がるコニーデ型の山容は素晴らしく、本物の富士山に負けず劣らず形が整っている。

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おとぎ話に出てくるような浦島太郎と亀の姿も、近くにウミガメが産卵のため上陸する砂浜があることに因んだ子供向けの愛嬌のある作り物である。

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道端に篠原鳳作の句碑が建っている。篠原鳳作は鹿児島市出身の俳人で、「満天の 星に旅ゆく マストあり」、「しんしんと 肺碧きまで 海の旅」の2句が彫られている。後者の代表句は、無季俳句の存在と可能性を俳壇に知らしめた先駆的作品で、有季派であった水原秋桜子をして鳳作を無季陣最高の俳人といわしめた。病弱で故郷鹿児島の教師を勤めるも、昭和11年(1934)30歳で夭折した。

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道の両側に広がる海を眺めながら心地よく進むと、まもなく灯台に近づいてきた。

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この長崎鼻灯台は、昭和32年に初点灯し、塔高11m、灯高21m、光度8500カンデラ、光達距離が13.5海里(約25km)であり、丸い白亜の塔自体はそれほど大きくはないが堂々としている。

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長崎鼻灯台は、長崎県対馬鹿児島県北西部の長島町にもあるが、薩摩半島最南端の薩摩長崎鼻灯台は、開聞岳大隅半島も眺望できる、薩摩半島随一の観光地として知られる。とはいえ、晴れているにもかかわらず水平線は霞んでいて、東に見えるはずの大隅半島は確認できなかった。

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南には広々とした太平洋に干上がった岩礁地帯が突き出ていて、先端近くまで散歩する観光客も散見できる。

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西の海の向こうには、雲がかかりやや霞みながらも開聞岳の端麗な姿が眺められた。

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長崎鼻の後は早めに指宿温泉の宿に着き、摺ヶ浜の砂蒸し風呂を体験した。海岸沿いの砂むし会館で専用浴衣に着替え、屋根付きの砂浜に横になり、約50℃の砂をかけてもらって10分ほど汗をかき、すっきりする。300年もの昔から湯治客に愛されてきたという天然の砂むし風呂は、一度は体験したい指宿名物である。

2015-12-22 開聞山麓、トカラ馬、池田湖

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開聞岳(924m)の東麓に、開聞山麓自然公園がある。園内には宝島産のトカラ馬が、多数放牧されている。

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カラ馬は、トカラ列島で飼育されてきた日本在来種の馬で、体高は約100~120cmと在来馬の中でも最小クラス。暑さに強く古くから農耕や運搬、サトウキビ搾りなどに使われてきたが、トカラ列島南端宝島で確認され「トカラ馬」と命名された翌年、1953年に県の天然記念物に指定された。その後、頭数が減少したため数頭を残してこの自然公園鹿児島大農学部付属牧場に移され、保護・繁殖が図られている。現在、この2箇所と中之島で合計100頭以上が飼育されている。

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トカラ列島屋久島から南西の、南北160kmに及ぶ鹿児島県十島村で、人が住む7島全ての住民数は630人(平成24年現在)と少ない。その南端宝島明治30年(1879)に喜界島から10数頭の馬が導入された。その後、喜界島では軍馬生産のため雑種化・大型化が進み、在来の喜界馬は絶滅したという。ほとんどの馬は黒毛だが、中に栗毛の馬も少しだけ混じっている。

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敷地面積約825haと広大な開聞山麓自然公園には、フェニックス、ヤシ、ハイビスカスサボテンなど、世界各地の亜熱帯植物が生い茂っている。園内の道路を上り詰めると、長崎鼻や池田湖、東シナ海、遠くに佐多岬が一望できる展望台がある。

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西の正面に聳える開聞岳は、薩摩半島の南東端に突出している若い休火山で、鹿児島湾の門戸に当たる海門にその勇姿があるので、「かいもん」と呼ばれるようになったが、古くはヒラキキ岳とよばれ、枚聞大神の神霊が宿る御神体山としての古代信仰の形態が残っている。

海抜924mの美しいコニーデ火山で、頂上に約100mの高さの円頂丘があるのでトロコニーデ式ともいわれる。4000年前頃火山活動を開始し、有史以降の噴火記録は6世紀頃からあり、貞観16年(874)と仁和元年(885)に大噴火している。全山樹木に覆われ、明るい南薩の海岸に屹立する姿は薩摩富士の名にふさわしい。開聞岳の西南の突出部には約20mの海食崖、東と北西には美しい砂浜が続く。

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東方向には、開聞岳の東麓に広がる川尻の集落が見える。長崎鼻へと続く砂浜は川尻海岸と呼ばれる。

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その右手には長崎鼻が見えるが、晴れ上がっていれば見えるはずの大隅半島は霞んでいて見えない。

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北には山の間に池田湖がようやく確認できるが、霞んでいて見えにくい。

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この近くには食事をする場所が少ないので、池田湖の西側の湖畔にある池田湖パラダイスに立ち寄った。池田湖から南の外輪山の右手に開聞岳が見えるのだが、かなり雲が湧いていて霞んでほとんど見えなかった。

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池田湖は、薩摩半島南東部にある直径約3.5km、周囲約15km、ほぼ円形のカルデラ湖で、九州最大の湖である。湖面の標高は66m、深さは233m、湖底から高さ約150mの湖底火山がある。約5500年前に阿多カルデラに関連した火山活動があり、地面が落ち込んで池田カルデラが形成され池田湖ができたとされる。

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池田湖には、体長1.8m、胸回り60cm、体重20kgもの大ウナギが多数生息していて、指宿市天然記念物に指定されている。このレストランにもいくつか展示されている。

2015-12-21 枚聞神社

[][]枚聞神社 20:45

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薩摩半島南端薩摩富士と呼ばれる開聞岳(かいもんだけ、924m)が聳え、その北麓に枚聞(ひらきき)神社がある。通称、「おかいもんさん」と呼ばれる。背景の開聞岳を遥拝するように境内入り口は北向きで、両部鳥居の二の鳥居をくぐると朱色の垣に囲まれた境内となる。鳥居の両脇には門神社がある。

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右の門神社の脇に御神木とされる大楠が聳えている。樹齢800年、幹回り7.9~9.5m、樹高18~21mである。枚聞神社の境内地は約7000坪で、その森の中には千年近く経た老樹も数多くあるという。

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枚聞神社の創始は不詳だが、元々は開聞岳をご神体とする山岳信仰を基にした神社と考えられている。資料の初出は貞観2年(860)の『日本三代実録』で、延長5年(927)の『延喜式神名帳』にも記載され、式内社に列している。古くは開聞岳の南麓に鎮座していたが、貞観16年の開聞岳噴火の前後に、北麓に遷座したといわれる。古くから薩摩国一宮であり、開聞岳が航海上の目印となることから「航海神」としても崇められ、江戸時代以降は琉球からの使節の崇敬も集めるようになった。

現在の社殿は、慶長15年(1610)に島津義弘が寄進したものを、天明7年(1787)に島津重豪が改築している。中央に大きな唐破風を構え、雲龍などの彫刻が施され、朱漆塗など極彩色に装飾された勅使殿があり、左右に長庁が伸びている。勅使殿は勅使門が変化したものとされ、鹿児島地方独特の建物という。勅使殿の後ろに拝殿があり、その次に弊殿が続き、本殿はその奥にある。本殿は方3間の入母屋造妻入で、屋根は銅板葺、千木・鰹木を置き、正面に縋破風で1間の向拝を付ける。

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現在の主祭神は大日孁貴命(オオヒルメムチノミコト)で、ほかに五男三女神(天之忍穂耳命、天之穂日命、天津彦根命、活津彦根命、熊野樟日命、多紀理毘売命、狭依毘売命、多岐都比売命)が合祀されている。しかし、これらは当初からではなく、いつの頃か書き換えられたものと考えられる。伝承によると、当地は山幸彦が訪れた龍宮とされる。祭神には伝承を含め多くの諸説があり、古くは和多都美神社と呼ばれていたから海神・豊玉彦とする説、先住民の神で航海の神でもあるから猿田彦・塩土老翁とする説、天智天皇側室・采女大宮売姫の説などがある。

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右手の小さな社は御嶽神社の遥拝所である。開聞岳の山頂に、奥宮と考えられる末社の御嶽神社が鎮座している。一の鳥居まで戻ると、神社の背景に開聞岳が見えるのだが、今は木々が鬱蒼と茂ってここから開聞岳は見えない。

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境内に入って右手に宝物殿が建っている。枚聞神社には竜宮伝説の玉手箱など多くの宝物が伝えられているため、収蔵庫を昭和30年代に保存公開施設とし、昭和53年(1978)に現在地に建て替えた。

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古くから本殿に納められ、「玉手箱」あるいは「あけずの箱」「玉櫛笥(たまくしげ)」等ともよばれ大切に保管されてきたのは、「松梅蒔絵櫛笥」という化粧箱である。付属品も含めて国の重文に指定されている。

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付属品には、小箱11ケ、小壺1ケ、櫛3ケ、角笄(つのこうがい)、鬢板(びんいた)、金銀散らし箔紙、服紗巻筆、鏡等、合計23個の化粧道具が含まれる。化粧箱の目録に大永3年(1523)と表記されていて、室町時代の作とわかる。

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こちらは神社への奉納、寄進等の古文書類である。

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その他、島津義弘寄進と伝えられる鎧をはじめ、古鏡、二十四面の神楽面、神舞装束、桃山屏風絵など多数の宝物が展示されている。

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古文書によると、枚聞神社にはかつて数十種の神舞があったそうだ。現在は、剣の舞、南方の舞、中央の舞、鈿(うずめ)の舞の4つが伝承されている。

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神舞は、毎年10月の例大祭の前夜祭で、巫女による浦安の舞とあわせて、厳かに幽玄に舞われているという。

2015-12-18 知覧武家屋敷

[][]知覧武家屋敷 21:33

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北薩の宮之城から南薩の知覧まで一気に南下した。江戸時代、薩摩藩は領内各地に113(後に102)の外城(とじょう)を設け、麓と呼ばれる武家集落を作り統治に当たらせていたが、出水麓と同じく、知覧麓の武家屋敷群も薩摩藩の典型的な麓として知られる。

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知覧武家屋敷は、南九州市役所の南の入口から東へ700mほどの武家屋敷通り(本馬場通り)の両側に沿っている。通りの入口の西に木製の橋があり、その向こう側に立派な門が見える。その先には麓公園とふもと横丁があり、土産物屋や食事処などもある。

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折れ曲がった武家屋敷通りに沿って連なる、石垣と生垣からなる景観は特に優れ、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。他地域の武家屋敷の石垣は、出水麓のように野石乱積みが多いが、知覧の石垣はきれいな切石整層積みが中心で見事である。通りに入ってすぐ左手に西郷邸がある。

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7つの庭園が「知覧麓庭園」として国の名勝に指定されるとともに公開され、そのうち6つが枯山水式庭園である。西郷恵一郎邸は知覧郷地頭仮屋跡に隣接している。門をくぐると正面に石組の壁があり、左へ折れてまた石壁にぶつかる。このような折れ曲がった木戸は、城郭の枡形に由来するといわれる。

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西郷恵一郎庭園の作庭は、文化文政年間(1804~29)で、庭園面積は208平方m、様式は大刈込式蓬莱石組枯山水という。庭の南東部の隅に枯滝の石組みを設けて高い峰とし、この峰から低く高く刈り込まれたイヌマキは遠くの連山を表現している。「鶴亀の庭園」ともいわれ、一変して高い石組みは鶴となり、亀は大海に注ぐ谷川の水辺に遊ぶがごとく配され、石とサツキの組み合わせは絶妙とされる。

薩摩藩内に数多くあった外城において、知覧以外にこのような庭園が造られたのはほとんどないという。

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西郷邸の斜向かいに平山克己邸がある。通りから門をくぐって屋敷内へ階段を上がるようにして入る。道路面よりどの庭園も地表面が高くなっているが、これは道路を削って造ったためといわれる。

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平山克己庭園は、明和年間(1764~71)の作庭で、庭園面積は277平方m、様式は大刈込式蓬莱石組枯山水である。母ヶ岳の優美な姿を取り入れた借景園である。正面(北東)の隅には石組を設けて主峰となし、イヌマキの生垣は母ヶ岳の分脈をかたどっている。どこを切り取っても一つの庭園を形作り、調和と表現に優れた庭園とされる。

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知覧は「薩摩小京都」と呼ばれるように、北東に横たわる母ヶ岳(517m)の優美な姿を借景として、多くの庭園が1700年代から1800年代初めにかけて作られたとされる。

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平山克己邸の先の同じく右側に、平山亮一邸がある。

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平山亮一庭園は、天明元年(1781)の作庭で、面積は277平方m、様式は石組の一つもない大刈込み一式の庭園である。イヌマキによる延々たる遠山は、その中に三つの高い峰を見せ、前面にはサツキの大刈込みが築山のようで、母ヶ岳を庭園に取り入れて極端に簡素化された借景園である。これほど大きな刈込みの庭はどうやって剪定するのだろうか。維持管理の苦労がしのばれる。刈込みの前には琉球庭園に見られる盆栽を載せるための切石が並んでいる。書院は嘉永年間(1848~54)に再興されたそうだ。

この先にまだ4つも公開庭園があるが、先を急いでここらで引き返した。

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知覧の初見は鎌倉初期にさかのぼり、地頭職として佐多氏の名が見られる。現在残っている武家屋敷群は、江戸時代中期、佐多氏18代当主で知覧領主の島津(佐多)久峰の時代に形成された。江戸時代後期では、約500件で3500人程度の武家屋敷に対し、町家は10件未満で人口30人程度だったという。南九州市役所前の交差点近くの麓川に架かる永久橋あたりが町の中心地である。

2015-12-17 宮之城、宗功寺墓地

[][]宮之城、宗功寺墓地 22:59

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出水から20kmほど南東の、さつま町の川内川中流域河畔に小さな宮之城温泉がある。江戸時代文政年間(1818~30)の開湯で、古くは湯田温泉といわれ、豊富な湯量と泉質の良さで知られる。宮之城温泉で泊った翌朝早く、散歩がてら宗功寺墓地を見て回った。さつま町役場の少し西の丘陵に宮之城歴史資料センターがあり、最後まで島津氏に抵抗し続け島津家から来た妻によって刺殺され断絶した祁答院家、島津氏に下った入来院氏、東郷氏など澁谷一族の古文書や資料が紹介されている。センターの隣の宗功寺公園の奥には、宮之城島津家の菩提寺・宗功寺跡と墓地がある。この広場には、15世紀代と考えられる鍛冶・製鉄炉跡が7つ散在している。広場の向こうが宗功寺跡で、その左に墓地がある。

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広場の左奥に「遺錦(錦を遺す)」と彫られた頌徳碑がある。さつま町の養蚕の起源は、約420年前の桑御前(初代領主島津尚久の母、大弐)の頃からといわれる。文化・天保の頃には近江国から教師を招き家臣に奨励したという。明治26年、福島県出身の菅野平十郎の指導で蚕種製造に成功し、養蚕はさらに進展した。その献身に対して建てられた菅野平十郎の頌徳碑がここに移転されている。

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宮之城領主・島津家二代忠長は、天正15年(1587)薩摩が豊臣秀吉に攻められ降参した時、人質として京に上った。京都では紫野竜宝山大徳寺の玉沖和尚の感化を受け、宮之城領主になったとき京都の玉沖和尚を開山として、この宮之城の松尾城跡に大徳山宗功寺を創建し、島津家の菩提寺とした。明治初期に廃仏毀釈が行われ、宗功寺も除却された。この一対の鬼瓦が本堂のものである。手前の石材は、廃仏毀釈後に神社として奉った鳥居の残骸と思われる。

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宗功寺跡の左手に墓地があり、宮之城領主・島津家二代忠長をはじめ累代の墓が33基残っている。この墓石群は九州一の規模を誇り、国内でも有数の墓所とされる。墓所自体は現在も宮之城島津家の管理下にあるが、祠堂型の特異な墓石の形状などから鹿児島県の指定史跡となっている。

宗功寺墓地の石標とともに現れた墓地の墓石は背を向けている。

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墓地の入り口に向かって石柵に沿って右に進むと、最初に見えるのは七代久方の墓石と七代久方の奥方の墓石である。高さが約3mもある祠堂型の墓の屋根や台座などには彫刻が施され、中国琉球文化を偲ばせるものがある。

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石柵の先の角を左に回り込んで墓地の中央に向かうと、ほとんどの墓が正面を向いているのに、二つだけ横を向いている。六代久洪の奥方と五代久竹の奥方の墓である。奥には宗功寺を建てた五代久竹の墓と、その右に三代久元の墓が見える。

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墓地全体が見通せるようになったが、右手に歴代住職の石塔群が並んでいる。薩摩藩では廃仏毀釈が徹底的に断行され、ここ宗功寺と同様、島津家菩提寺の福昌寺も破壊されたが、その理由は島津藩主が平田篤胤などの国学からの復古神道の思想学説に私淑したことによる。廃寺による寺領からの財源を軍備費にあて、梵鐘などの金属類は大砲や弾丸の材料とされた。墓石だけでも残ってよかったが、菩提寺も破壊するとは狂気の沙汰であった。

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墓地の中央には「祖先世功の碑」が建っている。この墓碑は、五代藩主島津久竹(久胤)が延宝6年(1678)に建てたもので、当時、幕府の弘文院学士であった林春斎の名文が刻まれている。

宗功寺墓地には宮之城島津家二代忠長以下累代の墓が揃っているが、初代藩主島津尚久の墓は南さつま市の武田神社の境内にある。宮之城島津家初代藩主は島津尚久といわれるが、実際に宮之城藩主となったのは二代忠長からであって、尚久は宮之城藩主になってはいない。大きな石碑は大きな亀の背中に乗っており、その四面の文字を一度も間違わずに読み上げたら亀が動き出し、川内川に水浴びに行くと伝えられている。亀のような石碑の台は亀趺という。亀に似るが贔屓という中国の伝説上の生き物であり、重きを負うことを好むという。

祖先世功の碑のすぐ後ろには、四代久通の墓があり、その左、祖先世功の碑の陰に三代久元の墓があり、その左に五代久竹と六代久洪の墓が並び、その左に五代久竹の奥方と六代久洪の奥方の墓がこちらを向いている。これらが墓地全体の左半分で、三代から七代までの藩主及び奥方の墓が並ぶ。

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祖先世功の碑に相対して、二代忠長とその左に奥方の五輪塔の墓が並んでいる。宗功寺が五代久竹の時に建てられたのだから、この墓地も当初は二代の忠長及び奥方の墓と祖先世功の碑が相対し、その後ろに四代久通とその左に三代久元の墓だけが揃っていただけと思われる。その後に祖先世功の碑の左右後ろに累代の墓が加えられてこのように壮大な墓地となったはずである。

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祖先世功の碑の右側に八代以下累代藩主及び奥方の墓がずらりと並んでいる。一番右手前に見えるのは、十四代久宝の奥方の墓である。

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墓地右半分側の一列目の2番目に十四代久宝の墓があり、その後ろの左に九代久亮の墓、その右に八代久倫の墓が見える。

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墓地右半分側の一列目の4番目に十三代久中の墓があり、その左後ろに十代久濃の墓がある。

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十三代久中の墓の右隣に十二代久儔の墓があり、その右後ろのさらに右隣に十一代久郷の墓が認められた。全てを写真に収めたわけではないが、男尊女卑の風潮が強いといわれる薩摩でも奥方の墓は藩主の墓と同じ大きさだった。

2015-12-15 出水麓武家屋敷

[][]出水麓武家屋敷 20:52

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阿久根市の東隣にある出水(いずみ)市の麓町には、日本有数の武家屋敷群がある。江戸時代、薩摩藩は鶴丸城を本城とし、領内各地に113(後に102)の外城(とじょう)と呼ばれる行政区画を設け統治に当たっていた。外城における統治の中心地を麓と呼び、肥後藩との国境にあった出水麓は、薩摩藩で最古最大の麓で、ほかの外城・麓も出水に倣ったといわれる。

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出水麓は、広さ約60haの高屋敷(うち往時の姿を残す約44ha、およそ150戸の集落一体が国の重要伝統建造物群保存地区に選定されている)と平良川左岸の向江の両武家地、その間の町人地域(本町・中町・紺屋町)からなっていた。ここ高屋敷は、出水郷に赴任する薩摩藩士の住宅兼陣地として、中世山城である出水城の麓の丘陵地帯を整地して作られた。その整地には、関ヶ原の戦いの前年(1599)本田正親が初代地頭に着任してから、3代地頭の山田昌嚴の治世下まで約30年かかった。この通りは堅馬場通りで、突き当りの左に御仮屋門があり、右の角に竹添邸がある。

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現在でも、建設当時から改変されることの少なかった街路、その両側に築かれた石垣や生垣、庭の木々が、武家門や垣間見える武家屋敷と相まって落ち着いた街路景観を醸し出している。竹添邸の前から堅馬場通りを振り返ってみると、左側の石垣は野石乱積みで、その上に檮の生垣が植えてある。

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出水麓武家屋敷群は、現在も住宅地として残っているため、屋敷はパンフに載っている30軒ほどの内、竹添邸と税所邸の2軒だけが公開され、武宮邸は庭のみの公開である。竹添邸は、幕末時代には推定1000坪を越すほどの広さがあったようで、屋敷は藩主の宿泊宿である御仮屋に最も近い重要な位置にあり、武家門は堅馬場通りに面して構えられ、門より南側に主屋がある。

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座敷を堅馬場側に向けて、石垣との間が庭となっており、武家門を入ってすぐ右側の中門の奥に氏神様の祠がある。

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竹添家は、肥後の国人吉、球磨城主相良氏の一族で、寛永14年(1637)米ノ津から麓へ屋敷が移り、上級郷士である組頭や郷士年寄り「あつかい」など出水郷の要職を代々務めた。主屋の正面に土間の入り口がある。

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主屋の右手前には離れの風呂があり、中には五右衛門風呂が設置されている。

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建物の建築は、明治初期を下らないとされている。見学は庭から上がった広間から始まる。

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広間の奥の仏間の先に次ぎの間がある。次ぎの間もかなり広い。

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次ぎの間の左に、床の間の設けられた座敷がある。座敷の壁には赤いベンガラが使われており、格子の欄間、竿縁天井と重厚な雰囲気が漂う。この座敷で、大河ドラマ「篤姫」のロケが行われたという。

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最後に、土間の手前の板の間のさらに手前に、食器やお膳などが収納されている「なかえ」がある。

2015-12-14 天草から長島へ

[][][]天草から長島へ 20:30

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天草諸島は、上島と下島を主島とし、多くの小島も含んで海岸線は変化に富み、景勝地がたくさんある。時間も少ないので、絶景との評判が高い妙見浦だけ訪れた。大江の集落からすぐ北にある妙見浦は、天草灘の波と風が作り上げた奇岩が連続する天草西海岸の風光明媚な景勝地で、国の名勝および天然記念物に指定されている。一帯には100m級の断崖が陸に差し迫り、無数の岩礁や洞窟が見られる。

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スキューバダイビングのスポットとしても人気があり、夕陽の名所としても知られる。妙見浦近くの十三仏公園という崖の上から眺めると象の形の島が見えるという。その公園には、与謝野夫妻の歌碑がある。

鉄幹「天草の十三仏の山に見る 海の入日とむらさきの波」、晶子「天草の西高浜のしろき磯 江蘇省より秋風ぞ吹く」

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天草最南端ののどかな漁港の牛深には、目を見張るような牛深ハイヤ大橋がある。パリのポンピドゥーセンターや関西国際空港を手がけた、イタリアの建築家レンゾ・ピアノ氏の設計によって平成9年に完成した。全長883mと県内最長を誇り、車道と両側歩道を合わせた幅員16mという巨大な橋であり、途中に分岐の交差点もある。ただし、このような天草諸島の最南端に、ただ漁港を跨ぐだけの、車がほとんど走らない、こんな大きな橋を総工費122億円もかけて造る必要があるのか、大きな疑問を感じざるを得ない。

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牛深は、牛深ハイヤ祭りの牛深ハイヤ節で知られるが、全国のハイヤ系民謡の元祖である。ハイヤとは、「南風(はえ)」をハエの風と呼ぶことから転訛したといわれる。昔から天然の良港として知られる牛深に、風待ちやシケ待ちのため寄港した船乗りたちが唄い伝えたという。

港内の水深は深く、古来より物資流通の拠点、また避難港として栄えた牛深港には、海産物販売や漁業の歴史資料館、世界の貝の展示場などの施設が集まる「うしぶか海彩館」がある。フェリー待ちの時間に、その二階の海鮮レストランで昼食をとる。

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海苔がたっぷりかけられた海鮮丼もいいが、やはり見るからに美味しそうな「きびなごづくし」を注文した。寿司、かき揚げ、刺身、酢の物、干物など、十分きびなごの味を堪能できた。これだけ揃って1300円と割安なのもうれしい。

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こちらは焼魚と刺身のセット。焼魚は、地元で「エメズ」というヨコスジフエダイとのこと。西日本特産なので初めて食べるのだが、牛深名物というだけあって美味である。

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食事が済んだところでフェリーに乗る。熊本県の天草牛深港から鹿児島県の長島にある蔵之元港まで、毎日10便フェリーがあるので、天草を縦断した場合とても助かる。

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牛深から蔵之元まで片道30分で着く。出港してすぐ振り返ると、牛深ハイヤ大橋と金比羅山を擁する下須島が見える。

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下須島の南の小さな築の島、法ヶ島(宝島)が、牛深海域公園として、日本で初の海中公園に指定されていて、牛深港から出るグラスボートで海中公園遊覧を楽しむことができる。

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前方には戸島が見える。戸島から左手が熊本県で、戸島の右手彼方に見える陸地が鹿児島県である。

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程なく到着する蔵之元港は、鹿児島県出水郡長島町にあるが、ここは鹿児島県最北部の長島という大きな島の最西端である。九州本土の阿久根市とは、全長502mの黒之瀬戸大橋で結ばれている。長島は古墳の島といわれるほど多くの古墳があり、5〜7世紀にかけて200基以上の古墳が造られた。

2015-12-11 ロザリオ館、コレジョ館

[][]ロザリオ館、コレジョ館 21:10

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大江教会の丘の下に天草市立キリシタン資料館、天草ロザリオ館がある。この大江の地は、かつて崎津や今富などとともに、天草島原の乱で全滅していたと思われていたキリシタンが160年余を経て多数発見された隠れキリシタンの里である。このロザリオ館は、そうした天草キリシタンに関わる資料を多数集め展示している。3Dマルチスクリーンでは町の風土を紹介し、祈りの声(オラショ)とともに再現したジオラマの隠れ部屋では、当時の強い信仰心を捉えることができる。

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ロザリオ館内は撮影禁止なので、パンフの切抜きを載せる。これはマリア観音である。キリシタン禁教時代、信者たちは日本の神仏を仮の神として礼拝していた。その中でも中国渡来の母子観音は「マリア観音」と呼ばれ、聖母子像に見立てられていた。

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こちらは、天使の像のメダイ(medaille)。幅1.3cm、長さ1.5cmの小さなメダルであるが、数百年も信仰の証として受け継がれてきたと思うと感慨深い。

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こちらが踏絵と宗門改絵踏帳である。よく知られているように、踏絵の目的はキリシタン検索の手段である。最初の踏絵は、寛永8年(1631)の雲仙地獄の熱湯拷問の際といわれるが、徳川幕府は寛永6年に踏絵を制度化している。転びキリシタンに転びの証明としてキリストやマリアの像を踏ませていたが、次第にキリシタン摘発の手段となっていった。慶長18年(1613)のキリシタン禁教令発布の後、長崎での元和の大殉教、火炙りなどの処刑、穴吊りの拷問など、想像を絶する厳しい迫害の嵐が吹き荒れたが、それで棄教しない隠れキリシタン探索の象徴がこの踏絵であった。

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寛永15年の天草島原の乱後、寛永17年(1640)に幕府は寺請制度を設け、宗門改役を設置した。住民は必ずいずれかの仏寺の檀徒になる必要があり、宗門改絵踏帳には寺院名と踏絵の結果が記載され、戸籍台帳に使われて、江戸時代中期には宗門人別改帳となった。吟味帳には隠れキリシタンの様子が記されている。文化2年(1805)崎津村、大江村など4つの村で5205人の隠れキリシタンが判明した「天草崩れ」と呼ばれる事件の際、大江近在の8ヶ村を統括していた大庄屋の松浦四郎八と、高浜村庄屋の上田源太夫宣珍(よしうず)は、取り調べの段階で踏絵や改宗を誓うなどさせ、最終的には「先祖伝来の風習を盲目的に受け継いでいた」だけの心得違いとして、無罪放免させた立役者として知られる。

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ほかにもロザリオ館には、江戸幕府が出したキリシタン禁制の最後の高札「正徳元年(1711)の高札」や、経消しの壺などが展示されていた。禁教の時代、葬儀の時にはお経に合わせて密かに隠れ言葉を唱え、別室で経消しの壺にお経を吸い込ませ、ロザリオをかざしてお経の効力をなくしたという。

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天草市の本渡と牛深の途中、崎津や上江との分岐点になる河浦に、天草市立天草コレジョ館がある。この河浦の地には、宣教師を養成する大神学校(コレジョ)が天正19年〜慶長2年(1591~97)までの間、開校されて西洋文化が花開いた。天草コレジョ館は、これらの歴史と文化を紹介する施設である。

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館内は撮影禁止なので、パンフの切り抜きを載せる。天文18年(1549)、フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸してキリスト教の布教を始め、山口では大内義隆の保護を受け、大分では大友宗麟に謁見して、布教の基礎を築いた。特に九州の戦国大名は、宣教師を通じてポルトガルとの南蛮貿易を有利に行い、鉄砲や火薬を手に入れるとともに、キリスト教に改宗してキリシタン大名になるものも現れた。その代表の大村純忠は天正7年(1579)長崎と茂木をイエズス会に寄進し、有馬氏は浦上村を同じく寄進した。また、大村純忠・有馬晴信・大友宗麟の三大名は、4名の少年を中心とした遣欧使節団をローマ教皇の元に天正10年(1582)に派遣した。伊東マンショ、千々石ミゲル、中浦ジュリアン、原マルチノの4名の少年は、1584年8月にリスボンに到着、翌年3月にローマ教皇に謁見し、天正18年(1590)長崎に帰国し、翌年秀吉の前で西洋音楽を演奏した。

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少年使節団が持ち帰った西洋の文物の中でも大型の、グーテンベルク印刷機の複製が展示されている。ここ河浦の天草コレジョに設置されたグーテンベルク印刷機によって、日本初の金属活字による印刷が行われ、7年間で29種のキリシタン本が出版され、現存するものは「天草本」と呼ばれた『平家物語』や『伊曾保物語』など12種類ある。当時、ヨーロッパでの出版部数が300~500部といわれた中で、天草コレジョでは1500部以上印刷されたという。画期的な印刷機ではあったが、その後、宣教師の国外追放とともに、マカオへ送り返されてしまった。

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印刷物の天草本は、日本信者用の平仮名本のほかに、外国人宣教師や伝道師が日本語あるいは日本の歴史や習俗を勉強するためのポルトガルローマ字で綴られた本もあった。これは日本の言葉とヒストリア(歴史)を学ぶための『平家物語』の題字のパンフである。

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秀吉の前で演奏したという西洋楽器の複製も展示されている。しかし、秀吉は天正15年(1587)年にはバテレン追放令を発し、慶長14年(1609)には全国の信者が75万という最盛期を迎えた後、家康が慶長17~18年(1612~13)にかけてキリシタン禁教令を発布するなどキリシタン弾圧が激しくなった。少年4人のうち、伊東マンショは後年、司祭に叙階されるが、1612年、長崎で死去。千々石ミゲルは後に棄教。中浦ジュリアンは後年、司祭に叙階されるが、1633年、長崎で穴吊りにより殉教、2007年に福者に列せられる。原マルチノは後年、司祭に叙階されるが、1629年、追放先のマカオで死去。少年たちは帰国後、ここ天草コレジョで数年間生活したが、その後の人生はいずれも多難だった。

2015-12-10 大江教会

[][]大江教会 22:10

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天草下島の南西部にある大江教会は、天草市天草町大江の小高い丘の上に建ち、信者はもちろん、それ以外の住民にも大江のシンボルとして親しまれている。丘の右下には、後ほど立ち寄るロザリオ館の丸い屋根が垣間見られる。

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現在の大江カトリック教会は、フランス人宣教師ガルニエ神父が私財を投じて昭和8年(1933)に建てたロマネスク様式の教会堂である。明治3年(1873)長崎神島の漁師・西政吉が大江村に来た。西の教話に耳を傾けた道田嘉吉がまず入信し、その後数人が長崎に渡り、キリスト教の教えを学んで洗礼を受けた。そうして信仰共同体の基礎が築かれ、明治9年(1879)マルモン神父の時代に、道田嘉吉を中心に最初の聖堂が造られ、その後今の教会堂の場所に聖堂が造られた。

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大江教会堂は、ベール神父やド・ロ神父などの宣教師から学んで教会建築の第一人者となった鉄川与助により設計施工され、崎津教会の前年に竣工した教会である。鉄川与助が設計施工した教会は30数件あるといわれ、多くは長崎県五島平戸、あるいは熊本の天草といった辺境の地にあり、煉瓦造り、木造、石造、RC造と構造も各種ある。大江教会堂はRC造の3作目で、3例いずれも中央に四角形の塔屋を配置して八角形のドーム屋根が載るというデザインは共通している。

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崎津教会の神父でもあったガルニエ神父が、神父道と呼ばれる峠道を往来し、両地区にキリスト教を布教したことから、崎津集落と密接な関係がある。

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聖母マリア像と思われる像の左手には、横井也有の「布の一袋、壺中の天地を笑うべし」の句が掲げられている。江戸時代中期の尾張俳人横井也有の『袋の賛』という作品の中の文章、「器は入るゝものをして、己が方円に従はしめむとし、袋は入るゝものに從ひて己が方円を必とせず。実なる時は肩に余り、虚なる時は懐に隠る。虚実の自在を知る、布の一袋、壷中の天地を笑うべし。月花や袋や形は定まらず」という一節から取られたものである。横井也有の代表作は『鶉衣』という俳文集で、その中の句「化け物の正体見たり枯尾花」は、「幽霊の正体見たり枯尾花」と変化して広く知られている。

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ちょうど日曜礼拝の時刻で地元の信者が集まって礼拝中だったため、教会堂内に入ることは遠慮した。資料によれば、堂内は折上天井に花弁模様の装飾がなされており、平面は三廊式ながら崎津教会と同じく畳敷きであった。今は畳の上に赤いカーペットが敷かれ、椅子が置かれているという。祭壇の上に掲げられた「お告げのマリア」の絵は、ガルニエ神父の姪がパリで画学生の時に描いた作品で、教会の献堂を記念して寄贈したものといわれる。そのためか、大江教会堂はお告げの聖母教会堂とも呼ばれる。

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明治40年(1907)の夏、東京から長崎を経て、天草までやってきた若き5人の詩人達は、大江のパアテルさん=宣教師、ルドビコ・ガルニ神父を訪ねた。「新詩社」を主宰する与謝野寛(鉄幹)・北原白秋・木下杢太郎・平野万里・吉井勇の面々だった。キリシタン遺跡を訪ねての九州の旅で強烈な印象を受けた5人は、帰京後、紀行文『五足の靴』や短歌・詩の作品で天草を取り上げ、天草を世に知らしめた。

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教会敷地内にガルニエ神父の銅像がある。ガルニエ神父は、フランスのロワール県出身のフランス人カトリック司祭で、正式名はフレデリック・ルイ・ガルニエ(Frederic Louis Garnier)という。銅像の碑文では、「ルドビコ(フランス語ではルイ)・ガルニエ」とあり、一般にそう呼ばれている。明治18年(1885)来日し、長崎県の大明寺教会、魚の目教会を経て、明治25年(1892)に大江教会に司祭として赴任した(1927年まで崎津教会を兼任)。以来、昭和16年(1941)に当地で没するまで49年間、天草島民への布教に専念した。昭和8年(1933)完成の大江天主堂は、まさにガルニエ生涯の記念碑でもある。

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同じく敷地内にルドヴィコガルニエ塔が建っている。ガルニエ神父は「贅沢したら人は救えない」が口癖で、自分の臨終の際は「墓石に金をかけるな。墓を作る金は病人や困った人に与えてくれ」との言葉を残して亡くなったという。しかし、信徒達はガルニエ塔を造った。その十字架には「汝らゆきて万民に教えよ」と聖書の一文が刻まれている。

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同じく敷地内に、ルルドの聖母マリア像へ祈りを捧げる少女(ベルナデッタ)の姿を模した洞窟が再現されている。ルルドは南フランスにある町で、キリスト教の聖地である。そこに聖母マリアが出現された洞窟、聖なる泉がある場所として知られている。

2015-12-09 天草下島、崎津教会

[][]天草下島、崎津教会 20:33

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天草市天草下島に所在する崎津集落は、日本在来の宗教である仏教や神道とキリスト教信仰の交流と共存の姿を表す漁村集落であり、キリスト教の布教から弾圧・潜伏・復活に至る痕跡を見ることができる。崎津天主堂は、波静かな羊角湾の中の海辺に建っている故に、「海の天主堂」と呼ばれているという。教会が建つ漁港一帯は、日本の渚百選「キリシタンの里崎津」に選ばれ、日本のかおり風景100選「河浦崎津天主堂と海」にも選ばれ、さらに崎津の漁村景観は「国の重要文化的景観」にも選ばれている。

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やや離れた観光駐車場から教会に向かう途中、大きな蘇鉄の脇に紋付屋旅館跡の案内があった。玄関口が海側にある紋付屋は、「街道を行く」の著書に「天草は旅人を詩人にする」と書いた司馬遼太郎が泊った旅館であり、「崎津は天草で一番好きな港」といった林芙美子菊池寛与謝野鉄幹夫婦など多くの文人がここに宿泊した。NHKテレビ小説「藍より青く」のロケ地にもなったという。

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崎津の細い路地を進むと、「天草ブランド品、崎津杉ようかん」を売る南風屋(はいや)がある。解説板によると、寛政2年(1790)、琉球王中山王の使節船が徳川家斉の将軍就任祝賀のため琉球を出港したが、大時化に遭い漂流し、一行53名が崎津の落戸の浜に漂着した。使節一行は、崎津の人々の救助と接待のお礼に「杉ようかん」の作り方を伝授したという。数十年前途絶えていた味をようやく復活したそうだ。

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天文18年(1549)フランシスコ・ザビエルの鹿児島上陸を機に日本のキリスト教伝導が始まったが、天草では永禄9年(1566)天草郡苓北町志岐の城主・志岐麟泉がキリシタンの布教を許したのが始まりとされる。その後、本戸(本渡市)城主・天草伊豆守鎮種がルイス・デ・アルメイダ神父を招き洗礼を受けたことから、天草全土にキリスト教が広まった。

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崎津教会は、アルメイダ神父により永禄12年(1569)に建てられ、ここを中心にキリスト教は天草に栄えた。慶長18年(1613)のキリシタン禁教令発布の後、長崎での元和の大殉教など殉教者が続出し、崎津でも特別厳しい迫害の嵐が吹き荒れた。寛永15年(1638)の天草島原の乱後も、隠れキリシタンとなった信徒は、表向きは仏教徒や神社氏子となっていたが、「水方」と呼ばれる指導者のもと、密かに真夜中に集まり洗礼や葬送儀礼を行い信仰し続けた。

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集落を一望する高台にある崎津諏訪神社は、集落の約70%が潜伏キリシタンと発覚する文化2年(1805)の「天草崩れ」と呼ばれる事件の舞台である。崎津村、大江村など4つの村で5205人の信者が判明したが、取り調べの段階で踏絵や改宗を誓うなどして、最終的には「先祖伝来の風習を盲目的に受け継いでいた」だけの心得違いとして、誰一人処罰されなかった。明治5年(1872)に約250年続いた禁教令は廃止され、多くの住民はカトリックに復帰し、明治13年(1880)には初代のボンヌ神父を迎えている。第2代のフェリエル神父の時、明治19年(1886)に木造で天主堂が建てられた。

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明治以来3回建て直され、現在の教会は長崎の教会建築の名棟梁・鉄川与助の設計・施工による建物で、第4代ハルブ(HALBOUT)神父により昭和9年(1934)に竣工している。天上へ聳え立つ暗灰色の尖塔の上に、十字架を掲げた重厚なゴシック風の建物である。

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教会内部は撮影禁止なので、絵葉書の写真を載せる。堂内は三廊式のリブ・ヴォールト天井、いわゆるコウモリ天井であり、畳敷きという珍しい組み合わせになっている。現在では崎津の約400名のキリシタン信者の祈りの家として毎日使われている。

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尖塔を含め入り口から一つ目の柱までは鉄筋コンクリート造であり、その奥は木造である。熊本ではたいへん初期の鉄筋コンクリート造の建物である。迫害時代に厳しい踏絵が毎年行われていた庄屋屋敷跡に建てられている。横から見ると後部が木造になっているのがわかる。

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教会敷地の右手にハルブ神父の碑が建っている。オーグスチン・ハルブ神父は、1864年にフランスで生まれ、司祭叙階の翌年の明治22年(1889)に来日し、長崎奄美での司牧を経て、昭和2年(1927)に司祭として崎津に赴任した時は63歳で、終戦の年の1月に81歳でこの地で亡くなった。観光駐車場の裏手に墓があるというが見落としてしまった。

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崎津集落の少し西に小高浜海水浴場がある。波打ち際は階段状で、その下に帯状に砂浜が広がる。さらに西の方を眺めると、羊角湾の入り口の北岸に黒瀬崎などの岬が幾つも突き出ている。

2015-12-08 天草上島、千巌山

[][]天草上島、千巌山 22:25

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水前寺成趣園から一路南下し、天草に向かう。宇土半島先端の三角(みすみ)から、天草諸島大矢野島、永浦島、池島、前島を経て天草上島までを結ぶ上天草市内の5つの橋を総称して、天草五橋と呼ばれるが、昭和41年(1966)に開通した。この間は天草パールラインとも呼ばれ、日本の道百選にも選ばれている。二号橋から五号橋まではほぼ連続し、大小約20の島々が浮かんで天草松島と呼ばれ、日本三大松島の一つに数えられる。五橋を通り天草上島に渡り左(東)に向かうとすぐ松島温泉がある。部屋から釣りができるという海辺の宿の前(北西)には、天草松島の中島が見える。

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宿の右前方(北東)には維和島が横たわっている。天草上島の北東端から大戸ノ瀬戸を越えて、維和島に渡る送電線の大きな鉄塔が連なっているのが確認できる。天草下島の苓北火力発電所から北上し、九州本土の熊本市まで伸びる九州電力の送電線である。

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天草五橋の展望台としては、パールラインの松島展望台と高武登山(たかぶとやま、117m)がよく知られているが、高武登山と同じく国の名勝に指定されている千厳山(せんがんざん、162m)の方が高いので、朝早くそこに向かった。千巌山は海岸から2kmと離れていないのに、名前の通り奇岩、怪石が重なり合い、岩間には姫小松が生育して特異な景観を示している。

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断崖絶壁の岩の間から深い谷を越えた南の方角には、千元森嶽(233m)と天草青年の家が見える。その間の彼方に三角形の山、次郎丸嶽(397m)がかすかに認められる。

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真夏の早朝なので、北に見える天草五橋方面もやや逆光気味でまぶしい。正面に松島の前島があり、その左手に天草五橋の4号橋がようやく見分けられる。東(右)に八代海、西(左)に有明海島原湾が、晴れ渡っていれば、北東には遠く阿蘇山まで見えるという。

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やや左に目を移すと、眼下には松島有料道路にかかる大きな橋が見え、正面には天草松島の小島や桶合島、永浦島などが眺められる。

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もう少し左(北西)には、霞んでなければ遠くに雲仙岳が見えるそうだ。江戸時代初期の寛永14年(1637)、キリシタン殉教戦いわゆる天草・島原の乱の総大将、弱冠16歳の天草四郎時貞が信徒の将兵を集め、島原出陣の祝酒を手杓子で酌み交わしたという伝承から、手杓子山と呼ばれ親しまれていたが、日本国立公園生みの親の親田村剛博士がこの山に登って、あまりの奇岩怪石に感嘆し千巌山と命名し、今日に至っている。

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さらに西に目を転ずると、西目海水浴場の向こうに、細長い半島の先に龍崎が見える。

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駐車場の近くに「キリシタン殉教の丘」の標識が立っていたので、立ち寄ってみた。

天草・島原の乱は、寛永14年から15年(1638)2月 27日〜28日にかけて、幕府軍124,000人の総攻撃を受け、キリシタン一揆勢37,000人は島原原城で全滅し落城する。

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慶長18年(1613)のキリシタン禁教令発布の後、寛永6年(1629)から殉教者が続出し、寛永13年(1636)には3年続きの凶作や飢饉で餓死者が多かったにもかかわらず、過酷な年貢の取り立てとキリシタンに対する迫害や弾圧が続いた。それに耐えかねて起った、日本史上最大規模ともいわれる農民一揆が、天草・島原の乱である。当地からも多くの信者が参戦した、殉教戦の歴史を後世にも末永く伝えていくための丘として、十字架とともに石碑が当地に平成21年に設置された。

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今回、立ち寄る時間がなかったが、上天草市には、天草四郎メモリアルホールがあり、寛永14~15年(1637~38)の天草・島原の乱で総大将となった天草四郎等蜂起軍が、島原原城で一人(山田右衛門作という南蛮絵師)を除いて全員討ち死にした攻防などのジオラマや、南蛮文化などの資料が展示されている。

また、天草市にある天草キリシタン館では、永禄9年(1566)、天草にキリスト教が伝来してからの南蛮文化、寛永14~15年(1637~38)の天草・島原の乱、乱後の天領となった時代の潜伏キリシタン遺物など、天草のキリシタン史の資料が展示されている。

2015-12-07 水前寺成趣園

[][][]水前寺成趣園 20:21

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熊本城の南東、3kmのところにある水前寺成趣園(じょうじゅえん)は、通称、水前寺公園と呼ばれる大名庭園である。豊富な阿蘇伏流水が湧出して作った池を中心にした桃山式回遊庭園で、築山や浮石、芝生、松などの植木で東海道五十三次の景勝を模したといわれる。肥後細川藩の初代藩主・細川忠利が寛永13年(1636)頃から築いた「水前寺御茶屋」が始まりで、細川綱利のときに泉水・築山などが作られた。陶淵明の詩「帰去来辞」の一節「園日渉以成趣」から成趣園と名付けられた。

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池に東面して、古今伝授の間がある。近世細川家の祖で忠利の祖父細川藤孝(幽斎)が、後陽成天皇の弟・八条宮智仁親王に古今和歌集の奥儀を伝授したといわれる部屋で、杉戸の雲龍は狩野永徳の筆、襖絵は海北友松の画と伝えられている。

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これが池の対岸(東)から見た古今伝授の間の建物である。当初八条宮の本邸にあったが長岡天満宮に移され、桂宮家から明治4年に細川家に贈られ、解体保存されていたものを大正元年(1912)酔月亭の跡地に移築したものである。

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池の南には能楽殿が建っている。出水神社の祭神は能楽を嗜むということで、春秋の大祭には神事能が奉納される。夏の夕闇に催される薪能は、篝火に照らされ、熊本の夏の夜の風物詩となっている。

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池の東の芝生の中にひときわ高く富士山が聳える。富士山から奥の森へ連なるあたりに流鏑馬馬場がある。

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富士山の裏手には、水前寺成趣園造営を手がけた祭神・肥後細川藩初代藩主忠利の銅像(左)と、忠利の祖父・細川家初代の藤孝の銅像(右)が並んでいる。

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水前寺成趣園は、華やかな元禄時代には東屋もたくさんあり、成趣園十景を選んで楽しまれた。細川重賢のとき宝暦の改革で建物は酔月亭一つを残して撤去され、樹木も松だけの質素なものとなった。細川護久の代に版籍奉還で一時官有地となった。

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明治10年の西南戦争で、熊本の城下は焼野ヶ原となった。旧藩主を敬慕する旧藩士たち崇敬者が相集い、明治11年(1878)細川家に縁のある成趣園を境内地として出水(いずみ)神社が創建された。第2次世界大戦の戦禍で社殿はほとんど焼失し、辛うじて難を免れた御神庫と神楽殿を旧社地に移し仮社殿としていたが、昭和48年(1973)に新社殿が再建された。

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創建当初は細川藤孝ほか3柱の藩主を祀っていたが、のちに歴代藩主10柱および忠興公室ガラシャ夫人が合祀されている。

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拝殿の左手の建物が戦禍を免れた神楽殿である。拝殿と神楽殿の間の五葉松は、樹齢数百年といわれる古木である。

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出水神社の社殿の右手に境内末社の稲荷神社がある。10代藩主細川斉茲により、文化6年(1809)に勧請鎮座された。天保9年(1838)には斉茲の母・瑶台院勧請の二本木御殿鎮守の稲荷社も合祀された。

2015-12-04 熊本城、本丸御殿

[][]熊本城、本丸御殿 23:21

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もう一度、熊本城天守閣の破風を南東から見てみよう。大天守の最上階は東西方向の入母屋破風であり、その下に南北に小さな唐破風があり、その下には東西南北に千鳥破風があり、その下の千鳥破風は東西南の3方向を向いている。千鳥破風は、宇土櫓の直線的な三角形ではなく、一般的な反りのある優美な形をしている。

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本丸御殿の入り口には大銀杏が聳え、その手前は御居間跡という。この大銀杏により、熊本城は別名、銀杏城とも呼ばれる。元は加藤清正御手植えの銀杏と伝えられていたが、西南戦争のとき銀杏の木も燃えてしまい、その後に芽吹いた脇芽から130年でここまで大きくなったという。清正は銀杏の実を食料にするため城内にたくさん銀杏を植えたといわれるが、残念ながらこの木は雄の木で実はつかない。

大銀杏の裏手にある大きな本丸御殿は、南北に分かれた本丸にまたがって建つため、闇り通路と呼ばれる地下通路がある。その通路が御殿への正式な入り口ともなるという類を見ない建物である。

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本丸御殿は、加藤清正によって慶長15年(1610)頃に創建され、行政の場・歴代肥後藩主の対面所として使われてきたが、明治10年(1877)の西南戦争で焼失した。往時は部屋数53室(畳総数1570畳)を数えたといわれる。その後、大広間棟、大台所棟、数奇屋棟を中心に部屋数25室(畳総数580枚)にて平成20年に復元された。本丸御殿には靴を脱いであがる。「御膳立之間」や「大御台所」などを見て、大広間に入る。60畳と最大の「鶴之間」から、「梅之間」「櫻之間」「桐之間」「若松之間」と続き、各部屋の境は襖で仕切られ、左手には幅の広い縁側が設けられている。御殿内は、フラッシュを使わなければ撮影ができる。

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「鶴之間」には、狩野如川周信による「竹林七賢・高士図屏風」が置かれている。

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「桐之間」には、肥後藩御用絵師・矢野雪叟の掛け軸がある。「旭日猛禽図(複製)」で、鷹の姿に迫力を感じる。

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突き当たりの2番目に重要な部屋が若松之間で、付書院・格天井を備えた造りで、広さは18畳ある。その右手奥には、最も格式の高い昭君之間が見える。慶長期の特色である鉤上段を設け、室内は床の間や違棚、付書院などを持つ書院造りとなっている。

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部屋全体に描かれている狩野派の障壁画は、中国の前漢の時代の話で、匈奴(現在のモンゴル)に嫁がされた悲劇の美女、王昭君の物語である。楊貴妃・西施貂蝉(ちょうせん)と並ぶ、古代中国四大美人の一人に数えられている。

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王昭君は、前漢の元帝から匈奴の呼韓邪単于(こかんやぜんう)の閼氏(単于の妻)として贈られ、一男を儲けたが、その後、呼韓邪単于が死去したため、当時の匈奴の習慣に従い、義理の息子の復株累若鞮単于の妻になって二女を儲けた。漢族は父の妻妾を息子が娶る事を不道徳とするため、このことが王昭君の悲劇とされ、異民族との狭間で犠牲になった薄幸の美女として多くの物語の題材となった。

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金箔の上に様々な植物が描かれた天井画は全部で60枚あり、飾り金具が配された漆塗りの折上格天井とともに部屋を豪華に彩っている。白馬に乗り、琵琶を弾いているのが王昭君である。

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家老などの控えの間である16畳の家老之間には、いくつも杉戸絵が展示されている。紫陽花や萩などの花鳥の杉戸絵は、本丸御殿(昭君之間付近)の通路にあった杉戸絵を復元したものである。

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左側の杉戸絵は、藩主御用絵師・杉谷行直が描いた「海棠に山鵲(さんじゃく)図」である。

2015-12-03 熊本城、宇土櫓

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宇土櫓は、本丸の西北隅、20mの高石垣の上に建つ3層5階地下1階、地上約19mの櫓で、天守並みの構造と大きさを誇る。現存する他の天守と比べても、姫路城松本城松江城の天守に次いで4番目の高さである。熊本城には天守とは別に、この規模の五階櫓が明治初年まで5棟(築城当時は6棟)存在したが、西南戦争での焼失を免れ、創建当時(慶長年間:1596~1614)から唯一現存しているのがこの宇土櫓である。貴重な木造の櫓として、国の重文に指定されている。

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古くから小西行長の宇土城天守を移築したものと伝えられて、それが宇土櫓の呼び名の起こりとされていたが、平成元年の解体修理の調査から、熊本城内で創建されたことが明らかとなった。ほかにも宇土櫓の名前の由来として、宇土(うと)の小西行長が関ヶ原で滅んだ後、小西の家臣の一部を清正が召し抱えて宇土小路として現在に名を残す京町に住まわせ、櫓をこの一団に管理させたことからそう呼ばれたのではないかともいわれる。西出丸側(西)から見ると、高石垣や長い平櫓と隅櫓も含めて全体が見られて格好が良い。

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天守閣の左手の平左衛門丸からは宇土櫓を近くから見ることができるので、その美しさをゆっくりと堪能できる。宇土櫓の屋根には鯱が乗り、大小天守閣と並んで三の天守と呼ばれることもあるが、この鯱は旧来からあったものではなく、昭和2年(1927)に陸軍が解体修理をした際に、城内に保管してあった鯱を取り付けたものである。この鯱は青銅製で高さ96cm、重さが約60kgある。鯱は阿と吽の2体で1対であり、阿は雄、吽は雌である。

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直線的な破風と望楼に、廻縁勾欄を廻らせた建築様式で、木材は主に松を使い、他に栂・楠・栗等も使用している。屋根瓦は4万6千枚にも達し、その中には400年の歳月に耐えた加藤家の桔梗紋を持つ瓦も残っている。他にも火除けの巴紋、細川時代の九曜紋の瓦も混じっているという。時代別には、元禄、宝永、宝暦、文政等の瓦も発見されている。

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熊本城に多くあった多重櫓は望楼型であるが、普通、望楼型といえば入母屋型屋根の上にまた入母屋型屋根の建物が重なる形式で、下層の屋根は入母屋破風となる。ところが宇土櫓の三角形の破風は千鳥破風である。

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宇土櫓の内部は一般公開している。一部に耐震補強されているが、それ以外は建築当時のままであり、階段もかなり急勾配である。

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宇土櫓最上階からも各方面が望見できる。こちらは南南西から西の方角で、西出丸と西大手門の彼方には、花岡山から金峰山へと続く山並みが見える。

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東を向けば、正面に熊本城の大天守と小天守が並んで見える。

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宇土櫓を出て大天守の石垣のそばに行くと、四角い井戸がある。清正は文禄・慶長の役の時、蔚山城(うるさんじょう)で明・朝鮮連合軍を相手に苦しい籠城戦を体験した。そこで熊本城を築城するにあたり、籠城の備えを万全にした。井戸もその一つで場内に120以上掘られたといわれる。

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平左衛門丸からの帰り道、頰当御門から本丸御殿へ向かう道の脇に、「首掛け石」という風変わりな石造物がある。熊本城築城の折、横手の五郎という怪力無双の若者が、花岡山から首に掛けて運んできた石と伝えられ、重さは1800kgある。五郎は天草国人一揆の際に、加藤清正と一騎打ちの末に殺された木山弾正の遺児で、清正を父の仇と狙い、城内に人夫として入り込んでいたが、見破られ殺されたと伝えられている。

2015-12-02 熊本城、天守閣から

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天守閣の西側面を見る平左衛門丸から、天守閣の南にある本丸御殿への正式な入り口である地下の闇り(くらがり)通路を潜り抜けて本丸広場に躍り出ると、大小天守閣の東側面が目前に聳える。

熊本城の天守は、東側から見てもわかるように連結式望楼型で、大天守は3重6階地下1階、「一の天守」とも呼ばれる。小天守は3重4階地下1階、「二の天守」とも呼ばれ、「御上(おうえ)」という夫人のための建物である。大天守は一般に5重の天守とみられるが、2重目と4重目は屋根ではなく庇とされる。萩城天守と同様に天守台から少し張り出す「張出造」で、張り出し部分には石落としが設けられていた。現在、観光出口となっている付櫓は階段櫓で、そのまま多聞櫓が本丸御殿へ繋がっていた。さらに闇り(くらがり)櫓門、地蔵櫓門の3階部分を通じて数奇屋丸五階櫓、数奇屋丸櫓門へと外から一度も見られることなく西出丸へ出ることができた。

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小天守の天守台は大天守に被さるように造られており、大天守の天守台石垣の勾配より急角度であり、また天守台と建築物の間には名古屋城天守と同様に60cm程の「忍び返し」という鉄串が刺してあり、再建とはいえ各所に大天守との建築時期の相違を確認できるという。

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天守閣の内部は現在、熊本市立熊本博物館の分館となっており、肥後歴代藩主の武具や調度品のほか、西南戦争の資料などを見ることができる。入り口には谷村計介の銅像が立っている。谷村計介は宮崎県出身の陸軍伍長で、西南戦争で籠城中に鎮台司令官谷干城(たにたてき)の命を受け、城を抜け出し何度も敵に捕まりながらも逃げ出し、官軍本隊に籠城軍の窮状を伝えた。後に自ら進んで田原坂戦に加わり戦死した。

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これは昭和35年に天守閣とともに製作された鯱。左は大天守閣用で高さ155cm、右は小天守閣用で高さ130cm。平成19年の修復工事で新しい鯱と取り替えられた。

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健在時の熊本城とその周辺の模型もある。これは昭和35年の大小天守閣復元工事の際に作られた、10分の1の模型である。

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大天守最上階から全方位の景色を見ることができる。こちらは小天守がある北の方向。小天守にも入ることができる。小天守の裏手には、加藤神社の森が見える。加藤清正を主祭神とし、祭神に殉じた大木兼能、韓人金官を配祀している。

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東の彼方には阿蘇山が大きな外輪山と共に見渡せる。左端の方に噴煙を噴き上げているのが、噴火警戒レベル2(火口周辺規制)の阿蘇山中岳である。その後9月中旬には警戒レベルが3に引き上げられた。熊本市街の手前の眼下には本丸広場と五間櫓などが建ち並ぶ東竹之丸が見える。

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南の方角には、眼下に本丸御殿の屋根が大きく広がり、彼方には九州山地の山並みがかろうじて眺められる。

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西南西方向には、西大手門から奉行丸の未申櫓が見え、その彼方の左に花岡山(132m)が見える。山頂には白い仏舎利塔が小さく認められる。

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西の方角には、眼下に秀麗な姿の宇土櫓が建ち、その向こうには西出丸および二の丸広場が広がる。彼方には金峰山(665m)が見える。金峰山は一ノ岳を中央火口丘とするカルデラ式火山で、熊ノ岳や三ノ岳などの外輪山を含む山の総称である。やや離れた低い花岡山も外輪山である。その成立は阿蘇山より古く、過去100万年以上かけて徐々に形成された。金峰山の山麓には拝ヶ石巨石群や、宮本武蔵が籠って五輪書を書いたことで知られる霊巌洞などがある。

2015-12-01 熊本城、天守閣へ

[][]熊本城、天守閣へ 20:32

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腹拵えが済んだら、熊本城に向かう。南大手門の先に広い西出丸がある。その右手(東)には天守閣と見まがうような堂々とした宇土(うと)櫓が聳える。20mの高石垣の上に建つ宇土櫓は、熊本城に数ある櫓のうちで最も美しいといわれる櫓である。南に平櫓が続き、端には二階の隅櫓がある。宇土櫓の名称は本来五階櫓の部分を指し、平櫓も昔は古外様櫓、隅櫓は二階櫓と呼ばれていた。宇土櫓の名も江戸時代中期頃からで、天守西の御丸五階櫓あるいは平左衛門預五階櫓と記す文献もあるという。

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宇土櫓の向かい(西)の広場は西出丸という。熊本城の東は急峻な崖で、高石垣を廻らせているが、西はなだらかな斜面で弱点だったため、清正は西に二重の空堀を廻らせ、その間に出丸を築いた。一番北に見える戌亥櫓から一番南の西大手門まで、高さ約10m、長さ約165mの石垣を築いていたが、現在の石垣は昭和45年(1970)から4年かけて積み直されたものである。北西端にある戌亥櫓は、木造二重三階の隅櫓で、平成15年に復元されたものである。

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西出丸の南西にある西大手櫓門は、熊本城の西・南・北の3つの大手門のうち最も格式の高い門とされる。寛永9年(1632)に加藤家に代わって肥後に入国した細川忠利は、この門の前で衣冠束帯のまま駕籠を降り、敷居を押しいただくようにして「謹んで肥後54万石を拝領仕ります」と深々と頭を垂れたと伝えられ、そのとき頭にかぶった冠の先が敷居の中央に当たったので、その後、登城する藩士は門の真ん中を通らず端を通るようになったという。木造二階建て、入母屋造本瓦葺きで、平成15年に復元されたものである。

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西大手櫓門の左手(南)には南大手門があり、その間には未申櫓が見える。これらに囲まれた一角には、加藤清正の重臣・下川又左衛門の屋敷があり、のちに奉行所となったため、奉行丸と呼ばれる。南大手門は3つの大手門のうち最大で、平成14年に復元された。未申櫓は、木造二重三階の隅櫓で、平成15年に復元されたものである。

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宇土櫓の右手にある隅櫓のさらに右に頰当御門がある。熊本城は城域の周囲が約5.3km、面積は約98haの大きさで、難攻不落の城としても有名である。築城当時は重厚な櫓門が18、その他の門が29もあった。現在城内への入口の門は4ヶ所あるが、頰当御門は天守閣へ向かう正面入口である。2本の門柱の上に貫を渡した冠木門(かぶきもん)という形式で、昭和35年(1960)に再建された。この門は、本丸中心部を顔に見立てたとき、ちょうど顔の前に当てる甲冑の部品の頰当てに見えることから頰当御門と呼ばれるようになったという。

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頰当御門から入ると、虎口枡形の石垣の上に大天守が迫ってくる。

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頰当御門から虎口枡形を進むとき、振り返ると左手の石垣の脇から宇土櫓の隅櫓が見える。

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虎口枡形の右手には数奇屋丸があり、左手の平左衛門丸の広場に躍り出ると、正面(東)に熊本城の大天守・小天守が整然と並び建っている。

日本三名城のひとつ熊本城は、石垣普請の名手とされる加藤清正が慶長6年(1601)から7年の歳月をかけて築城した。清正流(せいしょうりゅう)と呼ばれる優美な石垣の上に、御殿、大小天守、五階櫓などが詰め込んだように建てられ、自然の地形を巧みに利用した高度な築城技術で知られる。

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熊本城は、加藤家2代、細川家11代の居城として続いた後、明治になり廃城となった。西南戦争では薩摩の大軍を迎えて、50余日の籠城に耐え、不落の名城として真価を発揮したが、総攻撃の3日前、原因不明の火事により天守閣や本丸御殿など主要な建物を焼失した。

現在の天守閣は、古い写真や絵地図などを基に、昭和35年(1960)に鉄筋コンクリート造で外観復元されたものであるが、瓦の列や数まで細部にわたって忠実に再現されていて見応えがある。