半坪ビオトープの日記

熊本城、天守閣へ


腹拵えが済んだら、熊本城に向かう。南大手門の先に広い西出丸がある。その右手(東)には天守閣と見まがうような堂々とした宇土(うと)櫓が聳える。20mの高石垣の上に建つ宇土櫓は、熊本城に数ある櫓のうちで最も美しいといわれる櫓である。南に平櫓が続き、端には二階の隅櫓がある。宇土櫓の名称は本来五階櫓の部分を指し、平櫓も昔は古外様櫓、隅櫓は二階櫓と呼ばれていた。宇土櫓の名も江戸時代中期頃からで、天守西の御丸五階櫓あるいは平左衛門預五階櫓と記す文献もあるという。

宇土櫓の向かい(西)の広場は西出丸という。熊本城の東は急峻な崖で、高石垣を廻らせているが、西はなだらかな斜面で弱点だったため、清正は西に二重の空堀を廻らせ、その間に出丸を築いた。一番北に見える戌亥櫓から一番南の西大手門まで、高さ約10m、長さ約165mの石垣を築いていたが、現在の石垣は昭和45年(1970)から4年かけて積み直されたものである。北西端にある戌亥櫓は、木造二重三階の隅櫓で、平成15年に復元されたものである。

西出丸の南西にある西大手櫓門は、熊本城の西・南・北の3つの大手門のうち最も格式の高い門とされる。寛永9年(1632)に加藤家に代わって肥後に入国した細川忠利は、この門の前で衣冠束帯のまま駕籠を降り、敷居を押しいただくようにして「謹んで肥後54万石を拝領仕ります」と深々と頭を垂れたと伝えられ、そのとき頭にかぶった冠の先が敷居の中央に当たったので、その後、登城する藩士は門の真ん中を通らず端を通るようになったという。木造二階建て、入母屋造本瓦葺きで、平成15年に復元されたものである。

西大手櫓門の左手(南)には南大手門があり、その間には未申櫓が見える。これらに囲まれた一角には、加藤清正重臣・下川又左衛門の屋敷があり、のちに奉行所となったため、奉行丸と呼ばれる。南大手門は3つの大手門のうち最大で、平成14年に復元された。未申櫓は、木造二重三階の隅櫓で、平成15年に復元されたものである。

宇土櫓の右手にある隅櫓のさらに右に頰当御門がある。熊本城は城域の周囲が約5.3km、面積は約98haの大きさで、難攻不落の城としても有名である。築城当時は重厚な櫓門が18、その他の門が29もあった。現在城内への入口の門は4ヶ所あるが、頰当御門は天守閣へ向かう正面入口である。2本の門柱の上に貫を渡した冠木門(かぶきもん)という形式で、昭和35年(1960)に再建された。この門は、本丸中心部を顔に見立てたとき、ちょうど顔の前に当てる甲冑の部品の頰当てに見えることから頰当御門と呼ばれるようになったという。

頰当御門から入ると、虎口枡形の石垣の上に大天守が迫ってくる。

頰当御門から虎口枡形を進むとき、振り返ると左手の石垣の脇から宇土櫓の隅櫓が見える。

虎口枡形の右手には数奇屋丸があり、左手の平左衛門丸の広場に躍り出ると、正面(東)に熊本城の大天守・小天守が整然と並び建っている。
日本三名城のひとつ熊本城は、石垣普請の名手とされる加藤清正が慶長6年(1601)から7年の歳月をかけて築城した。清正流(せいしょうりゅう)と呼ばれる優美な石垣の上に、御殿、大小天守、五階櫓などが詰め込んだように建てられ、自然の地形を巧みに利用した高度な築城技術で知られる。

熊本城は、加藤家2代、細川家11代の居城として続いた後、明治になり廃城となった。西南戦争では薩摩の大軍を迎えて、50余日の籠城に耐え、不落の名城として真価を発揮したが、総攻撃の3日前、原因不明の火事により天守閣や本丸御殿など主要な建物を焼失した。
現在の天守閣は、古い写真や絵地図などを基に、昭和35年(1960)に鉄筋コンクリート造で外観復元されたものであるが、瓦の列や数まで細部にわたって忠実に再現されていて見応えがある。