半坪ビオトープの日記

大江教会


天草下島の南西部にある大江教会は、天草市天草町大江の小高い丘の上に建ち、信者はもちろん、それ以外の住民にも大江のシンボルとして親しまれている。丘の右下には、後ほど立ち寄るロザリオ館の丸い屋根が垣間見られる。

現在の大江カトリック教会は、フランス人宣教師ガルニエ神父が私財を投じて昭和8年(1933)に建てたロマネスク様式の教会堂である。明治3年(1873)長崎神島の漁師・西政吉が大江村に来た。西の教話に耳を傾けた道田嘉吉がまず入信し、その後数人が長崎に渡り、キリスト教の教えを学んで洗礼を受けた。そうして信仰共同体の基礎が築かれ、明治9年(1879)マルモン神父の時代に、道田嘉吉を中心に最初の聖堂が造られ、その後今の教会堂の場所に聖堂が造られた。

大江教会堂は、ベール神父やド・ロ神父などの宣教師から学んで教会建築の第一人者となった鉄川与助により設計施工され、崎津教会の前年に竣工した教会である。鉄川与助が設計施工した教会は30数件あるといわれ、多くは長崎県の五島や平戸、あるいは熊本の天草といった辺境の地にあり、煉瓦造り、木造、石造、RC造と構造も各種ある。大江教会堂はRC造の3作目で、3例いずれも中央に四角形の塔屋を配置して八角形のドーム屋根が載るというデザインは共通している。

崎津教会の神父でもあったガルニエ神父が、神父道と呼ばれる峠道を往来し、両地区にキリスト教を布教したことから、崎津集落と密接な関係がある。

聖母マリア像と思われる像の左手には、横井也有の「布の一袋、壺中の天地を笑うべし」の句が掲げられている。江戸時代中期の尾張俳人横井也有の『袋の賛』という作品の中の文章、「器は入るゝものをして、己が方円に従はしめむとし、袋は入るゝものに從ひて己が方円を必とせず。実なる時は肩に余り、虚なる時は懐に隠る。虚実の自在を知る、布の一袋、壷中の天地を笑うべし。月花や袋や形は定まらず」という一節から取られたものである。横井也有の代表作は『鶉衣』という俳文集で、その中の句「化け物の正体見たり枯尾花」は、「幽霊の正体見たり枯尾花」と変化して広く知られている。

ちょうど日曜礼拝の時刻で地元の信者が集まって礼拝中だったため、教会堂内に入ることは遠慮した。資料によれば、堂内は折上天井に花弁模様の装飾がなされており、平面は三廊式ながら崎津教会と同じく畳敷きであった。今は畳の上に赤いカーペットが敷かれ、椅子が置かれているという。祭壇の上に掲げられた「お告げのマリア」の絵は、ガルニエ神父の姪がパリで画学生の時に描いた作品で、教会の献堂を記念して寄贈したものといわれる。そのためか、大江教会堂はお告げの聖母教会堂とも呼ばれる。

明治40年(1907)の夏、東京から長崎を経て、天草までやってきた若き5人の詩人達は、大江のパアテルさん=宣教師、ルドビコ・ガルニ神父を訪ねた。「新詩社」を主宰する与謝野寛(鉄幹)・北原白秋・木下杢太郎・平野万里・吉井勇の面々だった。キリシタン遺跡を訪ねての九州の旅で強烈な印象を受けた5人は、帰京後、紀行文『五足の靴』や短歌・詩の作品で天草を取り上げ、天草を世に知らしめた。

教会敷地内にガルニエ神父の銅像がある。ガルニエ神父は、フランスのロワール県出身のフランス人カトリック司祭で、正式名はフレデリック・ルイ・ガルニエ(Frederic Louis Garnier)という。銅像の碑文では、「ルドビコ(フランス語ではルイ)・ガルニエ」とあり、一般にそう呼ばれている。明治18年(1885)来日し、長崎県の大明寺教会、魚の目教会を経て、明治25年(1892)に大江教会に司祭として赴任した(1927年まで崎津教会を兼任)。以来、昭和16年(1941)に当地で没するまで49年間、天草島民への布教に専念した。昭和8年(1933)完成の大江天主堂は、まさにガルニエ生涯の記念碑でもある。

同じく敷地内にルドヴィコガルニエ塔が建っている。ガルニエ神父は「贅沢したら人は救えない」が口癖で、自分の臨終の際は「墓石に金をかけるな。墓を作る金は病人や困った人に与えてくれ」との言葉を残して亡くなったという。しかし、信徒達はガルニエ塔を造った。その十字架には「汝らゆきて万民に教えよ」と聖書の一文が刻まれている。

同じく敷地内に、ルルド聖母マリア像へ祈りを捧げる少女(ベルナデッタ)の姿を模した洞窟が再現されている。ルルドは南フランスにある町で、キリスト教の聖地である。そこに聖母マリアが出現された洞窟、聖なる泉がある場所として知られている。