半坪ビオトープの日記

2016-04-29 アドベンチャーワールド

[][]アドベンチャーワールド 21:11

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3月中旬に和歌山県の白浜、熊野三山から高野山まで旅した。初日は和歌山駅前で湯浅醤油味の和歌山ラーメンを食べた後、高速道路で白浜まで直行し、パンダを見るためアドベンチャーワールドに立ち寄った。アドベンチャーワールド動物園水族館、遊園地が一体となったテーマパークで、近年はパンダの飼育で人気を集めている。パンダ以外ではサファリワールドが面白そうなので、列車タイプのケニヤ号に乗って一周した。最初は、アフリカゾウフィーディング。徒歩で散策すれば、アフリカゾウに果物や野菜を直接あげることができる。

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キリンテラスでは、キリンと同じ目の高さでエサをあげられる。草食動物ゾーンでは、キリンの他にもシマウママレーバク、シロサイ、ゴールデンターキンなどを車内から見ることができる。

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サファリではやはり肉食動物ゾーンが面白い。二重のゲートを通過すると、大きなオスライオンが2頭、寄り添って昼寝していた。間近で見ると、大きな猫のように可愛い。

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メスライオンもゆったりと寝そべっていて、なんともほほえましい雰囲気である。

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ライオンに比べると、トラの方が寝そべっていても迫力があり、風格を感じる。

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日本で飼育されているジャイアントパンダは、上野動物園王子動物園と合わせて10頭のうち、7頭がアドベンチャーワールドにいる。中国本土以外の動物園で7頭も飼育されているのはここだけであり、これは世界一の規模である。サファリワールドの左手前にあるブリーディングセンターとエントランスに近いパンダラブの2箇所に分かれて飼育されているが、最近生まれた双子のパンダの育ち具合で、住む場所が変動する。この時は、ブリーディングセンターには、海浜陽浜優浜の3頭が暮らしていたが、パンダの顔や姿はほとんど変わりがなく見分けはつかなかった。

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海浜陽浜は2010年8月にここで生まれた雄雌の双子で、優浜は2012年8月にここで生まれた雌である。パンダは起きている時、始終エサの笹竹をたべているようだが、無心なその仕草はまことに微笑ましい。

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ブリーディングセンターの近くにサーバルキャットが飼育されていた。サハラ砂漠以南のアフリカに住む野生の猫で、四肢が長く細身の体は美しいが、軽快に動いているというより少しノイローゼ気味に見えた。

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パンダラブに向かう途中、ペンギン王国に寄ってみた。希少なエンペラーペンギンをはじめ、8種類、約300種のペンギンを飼育する世界有数の規模を誇る。皇帝ペンギンとも呼ばれるエンペラーペンギンは、ペンギン最大の大きさで身長は1mを超えるという。ここは世界で繁殖に成功している3園の一つで、国内飼育もここ以外では名古屋港水族館の数頭のみである。濃褐色の赤ちゃんペンギンが特別に可愛い。

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エントランスに近いパンダラブのメインスペースでは、2014年12月に生まれた双子の姉妹、桜浜・桃浜が仲良く遊んでいる姿が見られる。桜浜・桃浜は、生まれた時それぞれ181g、186gだったが、2ヶ月後には3kgになるなどすくすく育ち、子育ての時期から公開されて、子供だけでなく大人にも人気の的となっている。

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地元の白浜町では、アドベンチャーワールドジャイアントパンダを観光の目玉と位置づけ、「パンダの町白浜」と懸命に宣伝している。しかし、このアドベンチャーワールドは、成都大熊猫繁育研究基地の日本支部であって、ここで生まれた子供も含め、飼育されているすべてのパンダは同研究基地本部の所有である。

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ジャイアントパンダは、中国のチベット族チャン族自治州域内が主たる生息地で、四川省陝西省などにもわずかに残存する。竹食などの草食傾向が強いが、昆虫・小動物や果実をたべるなど雑食性も少しはある。1属1種でクマ科に属する。普通のクマは物を掴むことができないけれども、ジャイアントパンダは竹を掴めるように前肢周辺の骨が特殊に変化している。外見や仕草は人間にとっては「愛らしさ」と映るが、クマ科動物である以上、気性の荒い一面も併せ持ち、飼育員や見学客が襲われる事件もいくつか発生している。

2016-04-28 カボチャと鶏挽肉のチーズ焼き

[]カボチャと鶏挽肉のチーズ焼き 21:01

かなり前になるが、カボチャが余っていた時に、副菜としてチーズ焼きを作った(4人前)。

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 .ボチャ1/4個を小さく切って耐熱皿に入れ、600Wのレンジで2分30秒、柔らかくする。

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◆.侫薀ぅ僖鵑縫汽薀戚小1を熱し、鶏挽肉250gを炒める。

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 挽肉に火が通ったらカボチャを加える。

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ぁ‐潴大2.5、酒大1、みりん大1、砂糖小1を加えて軽くかき混ぜる。

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ァ〜澗里混ざったら、耐熱皿に入れる。

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Α,箸蹐韻觝拈擇螢繊璽困鬚燭辰廚蠅箸ける。

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А.ーブンでチーズが溶けるまで焼いて、できあがり。

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* 甘くならないよう、砂糖大1を小1に減らしてあるので、酒のつまみにもなる。

2016-04-27 羽黒三田神社、奥氷川神社

[][][]羽黒三田神社、奥氷川神社 20:43

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これだけ色々な花が咲いていると、奥多摩むかし道もさぞ混んでいると思いきや、半分のコースで早帰りを決め込んでいるせいか、あまり人と会わなかった。それでも奥多摩駅に近づくと、駅から奥多摩湖へ向かうハイカーの群れとすれ違うようになった。道端にはあちこちで、ヤマブキ(Kerria japonica)の花が眩しいほど美しく咲いている。1属1種のヤマブキ属の落葉低木で、北海道九州まで分布し、国外では中国に産する。枝の芯(髄)はスポンジのようで、切った枝の中心を細い棒などで押し込むと、髄が抜けるときにポンと音がする。子供の頃、遊んだ覚えがある。その音から、スッポンスッポンポンなどの方言があるという。

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足元に咲いている白いイチゴの花は、クサイチゴ(Rubus hirsutus)である。背丈が20〜60cmと低く、草本に見えるが実際は落葉小低木である。本州〜九州の山野に広く分布し、白色の5弁花を3〜4月に咲かせる。果実は大型で赤熟し食用となる。酸味が少なくとても甘い。

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石垣の手前に咲いているのは、オオアラセイトウ(大紫羅欄花、Orychophragmus violaceus)である。別名にショカッサイ(諸葛菜:諸葛孔明が広めたとの伝説から)、ムラサキハナナ(紫花菜)がある。原産地は中国で、日本では江戸時代に輸入され栽培されたものが野生化し、全土で見られる。ここ数十年、モンシロチョウに代わってスジグロシロチョウが都市部で増えてきたのは、食草として好適なオオアラセイトウが都市部で増えているからといわれる。 

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ヤマブキと同じように藪から道に垂れ下がって咲いているのは、ヒメウツギ(Deutzia gracilis)である。ウツギ属の落葉低木で、本州の関東地方以西、四国及び九州の日当たりの良い場所に自生する日本固有種。花期は5〜6月。枝先に円錐花序をだし、やや下向きに白色の花を多数つける。

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ここまで時々廃線の高架跡を見かけてきたが、とうとうむかし道の脇に廃線トンネルが現れた。むかし道はトンネルの手前で右手に下っていく。

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むかし道沿いに時々民家が現れると、近くに色々な花木が植えられているが、これは自生のミツバツツジ(Rhododendron dilatatum)であろう。トウゴクミツバツツジをはじめ、ミツバツツジの仲間はいくつもあり、変種もいくらか知られているが、細かい区分けは素人には難しい。4〜5月頃、紅紫色の花を先に咲かせ、花後に3枚の葉を出すのがミツバツツジ類である。

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道が下り坂となってむかし道も終わりに近づく。急な坂は羽黒坂で、昔は荷馬車が苦労した場所と伝わる。坂の途中に羽黒三田神社の石段の参道がある。鳥居の先の急な石段を上ったところに隋神門らしき門が見えるが、そこには古い神輿が祀られているという。その先にも急な石段が続き、さらに足場の悪い山道となってなおも進んでようやく羽黒三田神社の社殿にたどり着くという。

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祭神は正殿に高皇彦霊神と少彦名神を祀り、左殿に天穂日命、右殿に倉稲魂命を祀る。社伝では、貞観3年(861)出雲国の土師連行基が東国に下向し、本郡御嶽山に請り神の告を蒙り、この村に来て、高皇彦霊神と少彦名神を祀り、これを穴澤天神と称したという。本社南山麓に清泉湧き出す洞窟あり、これを穴澤と称した。稲城市穴澤天神社、国立市谷保天満宮、あきる野市穴沢天神社とともに、延喜式神名帳「多摩郡穴澤神社」の論社とされている。奥多摩駅へ戻る途中に元巣集落があるが、元巣の森は、羽黒権現社(現、羽黒三田神社)の旧地であると『武蔵風土記』に記されているという。かなり由緒のある神社なのだが、社地が広大で境内が山深く、社殿まで登って行くのは次の機会にした。

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羽黒坂はすぐ国道に出るので東に進むと、奥多摩駅入り口の角に奥氷川神社がある。社殿の手前には「氷川の三本杉」が聳えている。鎌倉時代に神籬(ひもろぎ)として植えられたという伝説がある神木で、推定樹齢は約700年。樹高49.3m、幹囲7.36m。幹は3本に分かれながらも樹勢は旺盛で、杉としては都内最高を誇り、都の天然記念物に指定されている。

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氷川神社は、大宮氷川神社所沢山口の中氷川神社とともに「武蔵三氷川」と呼ばれ、一直線に並んで本社・中社・奥社の関係になっているともいわれる。日本武尊が東征の折に祀った社を起源とし、貞観2年(860)簸川(ひかわ)修理大輔土師行基が「奥氷川大明神」として再興したと伝える。本殿は神明造である。

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祭神は素戔嗚尊と奇稲田姫命を祀り、拝殿は明治15年(1882)に新築されている。天満宮、大麻止乃豆天神(おおまとのつのてんじん)の社号も持つ。中世、和田村(現在の青梅市和田町日向和田)以西の地を氷川郷と呼んでいたが、この郷名は奥氷川神社の社号から起こったものという。

ここからもえぎの湯までは10分もかからず、早めに着いたのでゆっくり過ごすことができた。

2016-04-26 奥多摩のスミレ

[][]奥多摩スミレ 21:13

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春に咲く小さな花の代表格ともいえるスミレの花の種類は多く、世界には約400種、日本には約50種あるといわれるが、さらに非常に多くの変異や品種が知られていて、学名が与えられているスミレの種類は200にも達する。日本は「スミレ王国」とさえいわれ、奥多摩にも30種類ほどスミレの花が知られる。奥多摩むかし道を歩いただけでもいくつか見つかった。このタチツボスミレ(Viola grypoceras)は、日本で最も普通に見られるスミレである。日本中の海岸や野原から亜高山まで分布し、花の色も薄紫色が多いが変異も多い。葉がハート型で、茎の高さは10cmほどだが、花後、茎が伸び始め高さは30cmほどになる。

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こちらもタチツボスミレと思われるが、紫色がかなり濃くなっている。タチツボスミレの近縁種も多くあるが、素人には同定が難しい。

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国道から大きく離れて北に回り込んだ先に、「不動の上滝」がある。落差は約7m。旧道下に不動尊が祀られていることから、不動の上滝として行き交う人々に安らぎを与えてきたという。滝つぼで釣りをしている人がちょうど小魚を釣り上げた。ヤマメイワナだろうと思われる。

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こちらの青紫色の花は、セリバヒエンソウ(Delphinium anthriscifolium)である。原産地は中国で、日本へは明治時代に観賞用に渡来し、現在は関東地方で野生化している。花弁のように見えるのは萼片で5枚あり、花弁は萼片の内側に4枚あるが短くて目立たない。葉は2、3回3出複葉で、羽状に切れ込み、互生する。草丈20〜40cmになる1年草で、花は可愛らしいが強い毒性がある。

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やがて国道に合流する寸前、左手の旧な石段を上がって桧村集落を抜けていく。集落内では、八重桜やハナモモの花が満開に咲き盛ってにぎやかである。

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徐々に坂道を進んでいくと、槐木(さいかちぎ)という休憩所に着く。その先は羽黒坂の下りだ。かつて交易のための荷物を背負ったり、大八車を引いたりした人たちの憩いの場として親しまれたこの地には、槐木と呼ばれる巨木があり地名となった。槐木に向き合う赤松の根元には、正徳2年(1712)の修行僧木食3世真円謁の念仏供養塔や文化13年(1816)の馬頭観音などがある。槐は幹や枝に鋭いトゲがあるため木偏に鬼と当て字で書くが、豆科の日本固有種で、木材は建築・家具・薪炭用に用い、豆果はサポニンを含み、生薬で去痰薬、利尿薬として、また洗濯用にも使われた。

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槐木を過ぎると羽黒坂を下っていく。ハナモモのほかレンギョウの花も黄色く咲き誇っている。

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やがて道端に石仏が並んでいた。木魚に凭れかかって居眠りする小僧の背中には、ネズミが登っている。

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右手の谷に見えるのは、廃線の高架跡である。この線路は、小河内ダムを建設するために作られた水根貨物線で、ダム完成後に廃線となって半世紀以上経っている。

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こちらの白いスミレは、ケマルバスミレ(Viola keiskei)である。その名の通り丸い葉に毛が生えている。本州、四国九州の山野に生える多年草で、花期は4〜5月である。

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こちらのスミレは、エイザンスミレ(Viola eizanensis)である。比叡山に生えていたためこの名がある。本州〜九州の山地の木陰に生えるスミレで、葉の付け根まで大きく3つに裂け、それぞれに深い切れ込みがある。薄いピンク色の花には香りがあり、花期は4〜5月である。

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こちらの花は、民家の近くで見かけたので、園芸品種のパンダスミレ(Viola banksii / hederacea)であろう。タスマニアビオラとかツタスミレとも呼ばれるオーストラリア南部原産の園芸種である。非常に強健で、こぼれ種でもよく増えるので野生化しやすい。

2016-04-25 奥多摩むかし道

[][][]奥多摩むかし道 20:51

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4月中旬に軽くウォーキングしたくなり「奥多摩むかし道」に出かけた。奥多摩駅から奥多摩湖までの旧青梅街道だった歴史ある道を歩くファミリーコースだが、昼には奥多摩駅手前の日帰り温泉に戻りたいので、途中の梅久保までバスで行き、下りの道を半分だけ歩いた。

渓谷沿いの山里をたどる道端には春の野草がたくさん花を咲かせていた。もっともよく見かけたのは、このキケマン(Corydalis heterocarpa var. japonica)である。ケシ科キケマン属の越年草で、関東地方以西〜沖縄の低地に生え、高さは40〜60cm。花期は4〜5月。総状花序に長さ2cmほどの筒状の黄色い花を多数つける。葉は3出複葉で羽状に2〜3回裂ける。見た目は可愛いが、有毒種で悪臭がする。茎などの汁がついた手で食事をするだけでも危険だという。

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キケマンに混じって、同属のムラサキケマン(Corydalis incisa)が咲いている。日本全国の木陰など湿ったところに生え高さは30〜50cmになる。花期は4〜6月で、赤紫色の花を多数つける。キケマンと同じく有毒でプロトピンを含み、誤食すれば嘔吐・呼吸麻痺・心臓麻痺などを引き起こす。5月になればこの奥多摩でも見かける可憐なウスバシロチョウの、幼虫の食草として馴染み深いムラサキケマンだが、食草が有毒のためウスバシロチョウも有毒となる。そのためか、ひらひらとゆっくり飛ぶ蝶である。

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奥多摩むかし道は、国道と多摩川に挟まれた斜面に点在する昔ながらの集落を抜けていく。右手に新緑の渓谷を見下ろす頃、樹齢200年といわれるイロハカエデの古木が姿を表す。

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少し進むと左手に「耳神様」が祀られている。昔は耳が痛くてどうしようもない時、穴の空いた石を供えて祈ったという。よく見ると、いくつか穴の空いた石が集められていた。

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その先右手に「弁慶の腕ぬき岩」が立っていた。高さ約3mの自然石の下の方に、腕が入るほどの穴があることから、旧道往来の人々に親しまれ、力の強い弁慶に付会されて、そう呼ばれるようになったという。

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今度は左手の石垣の上に白髭神社が見上げられた。社殿の向こう側に石灰岩の絶壁があり、古代からこの巨岩が神体として崇拝されていたらしい。秩父古生層のうち、高さ約30m、横幅約40mの石灰岩層に、断層面が露頭するのは極めて稀であり、学術上貴重とされ、都の天然記念物に指定されている。

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回り込んだところに白髭神社参道があったが、先を急いで石段を見上げるにとどめた。

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道端には、ヒトリシズカ(Chloranthus japonicus)がひっそりと咲いていた。センリョウ科チャラン属の多年草で、北海道九州の山地の林内に生える。高さは10〜30cmで、光沢のある葉は4枚が輪生状につき、縁には鋸歯がある。花期は4〜5月で、茎先に1本の穂状花序を出し、ブラシ状の小さな白い花をつける。普通群生し、かつては「吉野静」といった。『和漢三才図会』には静御前が吉野山で歌舞をしたと書いてあり、その静の綺麗さになぞらえたとされる。

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木漏れ日がさす林内や林縁には、テンナンショウ属の花がよく咲いている。こちらはミミガタテンナンショウ(Arisaema limbatum)。日本固有種で、本州と四国の山地に自生する多年草で、高さは30〜60cmになる。葉に先立って開花し、花のように見える仏炎苞と呼ばれる部分の先端の両脇がミミのように横に張り出しているのが特徴である。小葉7〜11枚を1組とする葉が2枚つき、葉の縁には不規則な鋸歯がある。秋になると真っ赤な実をつけるが、有毒で食べられない。

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ミミガタテンナンショウによく似たこの花は、偽茎が見えないけれどもマムシグサ(Arisaema serratum)と思われる。北海道九州の山地の林床に生える多年草で、高さは50〜60cmになる。小葉は7〜15枚で、偽茎に紫褐色のまだら模様があり、マムシを連想させる。マムシグサの種類は、よく似たものや変異が多く分類は難しいが、葉に鋸歯がないので、とりあえずマムシグサとしておく。

2016-04-22 カツオと新タマネギの旨辛コチュジャン和え

[]カツオと新タマネギの旨辛コチュジャン和え 20:56

新鮮なカツオを買い、新タマネギがあったので、コチュジャン和えのレシピを探し出した(4人分)。

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 .侫薀ぅ僖鵑縫汽薀戚大1/2を熱し、カツオの3面を軽く焼く。

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◆”洪紊鯆イ辰紳腓めのボールでカツオを冷やす。

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 クッキングペーパーで十分水気を取り、1cmの厚さに切り分けておく。

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ぁ\張優数本を小口切り、ニンニク1片と生姜1片をすりおろし、新タマネギ小2個を薄切りにする。

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ァ‖腓めのボールにポン酢大3、コチュジャン大2、オイスターソース大1、醤油大1、蜂蜜小2を溶く。

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Α,気蕕豊いニンニク生姜、ごま油大2を混ぜ合わせる。

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А´Δカツオとタマネギを入れて、ざっくりと混ぜ合わせる。

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─.潺張丕佳を4cmほどに切りわける。

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 Г豊い寮張優と┐離潺張个魏辰─△兇辰り混ぜ合わせて出来上がり。

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* 盛り合わせたら、すりごま適量をふりかけるとよい。ちょっと甘かったので、ヤンニョンジャンを加えてみた。

2016-04-20 男体山から筑波山神社

[][]男体山から筑波山神社 20:42

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美幸ヶ原から急な山道を15分ほど登り詰めると男体山山頂に着く。ここにも昭和30年(1955)に改築された筑波神社本殿が建っている。筑波山の山名の由来には異説が多い。養老年間(717~24)成立の『常陸国風土記』では、国造に任命された采女臣氏の友属(ともがら)の筑箪命(つくはのみこと)が「我が名を国につけて後世に伝えたい」と筑波に改称したという。縄文時代には縄文海進で筑波周辺は海であり、「着く波(つくば)」あるいは波を防ぐ堤防の「筑坡(つきば)」が筑波になったとの説もある。

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万葉集には筑波山を詠んだ長歌短歌が25首もあるというが、記憶に残る歌はない。けれども百人一首の次の歌はなんとか口ずさむことができる。

筑波嶺の峰より落つるみなの川 恋ぞ積もりて淵となりぬる(陽成院)

男体山女体山も山頂にある本殿の神体は神衣(かんみそ)で、御座替祭で取り替えられる。

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筑波山のケーブルカーは、大正14年に、関東では箱根に次いで2番目、全国でも5番目に開業した古い歴史を持つ。筑波山中腹の宮脇駅(標高305m)と山頂駅(800m)との標高差495mを約8分で結ぶ。全長1,634mは日本で3番目に長く、線路の3分の1がカーブしているのが特徴である。

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山麓駅から筑波山神社にかけては、11月上旬には見事に色づいた紅葉が随所に見られる。

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筑波山の創建は不詳だが、『日本記略』では弘仁14年(823)従五位下の筑波神を官社と為すとの記述が古い。延長5年(927)成立の「延喜式神名帳」では、筑波郡唯一の式内社で、筑波男神が名神大社、筑波女神が小社とされる。江戸時代には幕府が別当寺の中禅寺を篤く保護し多くの堂塔が建立されたが、筑波神の影は薄かった。明治初期の神仏分離で廃寺となった中禅寺は伽藍の多くが破壊され、中禅寺跡地に筑波山神社が再興され、現在に至っている。中禅寺の本堂(大御堂)のあった跡地に、明治8年(1875)拝殿が造営された。

拝殿の右手や裏手には、末社の日枝神社・春日神社、厳島神社や朝日稲荷神社などがあるが、2・3年前に訪れているので今回は省略した。

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拝殿前に建つ隋神門は、間口5間2尺、奥行3間の楼門で、茨城県随一の規模を誇る。古くは家光により寛永10年(1633)に寄進されたが、宝暦4年、明和4年と焼失し、文化8年(1811)の再建が現在に至る。江戸時代の神仏習合時には仁王門として仁王像を安置していたが、分離後は隋神門とされ、左に倭建命、右に豊木入日子命の隋神像を安置する。

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隋神門のすぐそばに樹齢約800年、樹高32mとされる大杉が立っている。

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広い境内では、伝統芸能で有名な「ガマの油売り」の口上が実演されている。ガマの油の由来は、大坂の陣に徳川方として従軍した、筑波山・中禅寺の住職であった光誉上人の陣中薬の効果が評判になったことによる。戦前は、強心作用、鎮痛作用、局所麻酔作用、止血作用があるという、ガマ(ニホンヒキガエル)の分泌物・蟾酥(せんそ)が入っていたともいわれるが、戦後は使われていない。

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境内を下ってくると、妻飾りの唐草模様が引き立つ神橋が建っている。切妻造小羽葺屋根付、間口1間、奥行4間で、安土桃山時代の様式の反橋である。寛永10年、家光の寄進とされ、元禄15年(1702)に綱吉により改修された。春秋の御座替祭の際に、神輿と従者がここを渡る。

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神橋より下の参道脇に、秋の七草で知られる萩の花が咲いていた。

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日帰り温泉で入浴と食事を楽しんだ後、大きな朱色の鳥居の脇からバスに乗って帰途に着いた。

2016-04-19 女体山から美幸ヶ原

[][][]女体山から美幸ヶ原 20:58

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つつじヶ丘から1時間強で女体山山頂に着く。山頂には昭和54年(1979)に改築された一間社流造の筑波山神社本殿が建っていて、筑波女大神を祀っている。この神は伊邪那美命であり、社伝によると、伊邪那岐命と生んだオノゴロ島は筑波山だとされる。『古事記』には、イザナギ・イザナミの二柱の神が雲の上に浮かぶ「雨の浮橋」に立ち、玉で飾った天の沼矛(ぬぼこ)を下ろしかき回すと、その矛の先から雫が滴り落ち日本の国ができたと記されている。その天の浮橋が本殿の後ろにある。平成21年(2009)に再建されたものである。拝殿は麓にある。古来から祀られていたので、女体山付近での祭祀遺物も7世紀から12世紀にわたり多数発見されている。

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女体山標高877mあり、西側の男体山(871m)より高く、筑波山山頂でもある。筑波山は遠くから見ると紫色に見えるので、雅称として紫峰とも呼ばれる。古来、筑波嶺とも呼ばれていた。『常陸国風土記』によると、筑波山の西峰(男体山)は険しく、神の峰として登山が禁じられていた。一方、東峰(女体山)は険しいながら夏冬絶えず泉が流れ、春秋には男女が集い歌垣が行われていたという。筑波山は『万葉集』にも数多く謳われているので、高橋虫麻呂の歌垣(嬥歌=かがい)の歌を取り上げると、

筑波嶺に登りて嬥歌会をする日に作る歌一首

鷲の住む筑波の山の裳羽服津の その津の上に率ひて 未通女(をとめ)壮士(をとこ)の行き集ひ かがふ嬥歌に 人妻に吾も交はらむ あが妻に他(ひと)も言問へ この山を頷く神の昔より  禁(いさ)めぬ行事(わざ)ぞ今日のみは めぐしもな見そ 言も咎むな(巻九−1759)

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男体山に向かって右側(北側)には加波山(709m)へと筑波連山の山並みが続いている。加波山は天狗の山としても知られ、山頂には加波山神社本宮の本殿が鎮座している。

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正面(西側)には男体山が向かい合う。山頂付近には数多くのアンテナが認められる。手前の鞍部は美幸ヶ原と呼ばれ、ケーブルカーの筑波山頂駅がある。

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女体山山頂から北に下ると、つつじヶ丘から上がってくるロープウェイ女体山駅からの道が左から合わさる。まもなく右手にガマ石が現れる。元来、「雄龍石」といい、傍に「雌龍石」もある。昔、永井兵助がこの場所で「ガマの油売り口上」を考え出したことで、ガマ石と呼ばれる。口の中に石を投げ入れると出世するという言い伝えがあり、女性が何度も挑戦していた。

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まもなく岩の間に小さな社が安置されている。鶺鴒(せきれい)稲荷といい、祭神は伊邪那美命を祀っている。

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鶺鴒稲荷のすぐ先にある大きな岩は、セキレイ石という。この石の上につがいの鶺鴒が止まり、夫婦の契りを交わしている姿を見て、伊邪那岐命・伊邪那美命が夫婦の道を開き子を生んだとされる。

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セキレイ石のすぐ先には、せきれい茶屋があり、やがて左側に「かたくりの里」という休憩場所もある。3月下旬から4月下旬にかけて、この辺りには3万株のカタクリの花が咲くという。

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10月の登山道わきには、黄色いキンミズヒキ(Agrimonia pilosa var. japonica)の花が咲いていた。北海道九州の山野に生える多年草で、高さは30〜80cmになる。葉は奇数羽状複葉、小葉は5〜9個で、縁に鋸歯がある。花期は7〜10月。茎先に細長い総状花序をつけ黄色い5弁花をたくさんつける。タデ科の赤いミズヒキとは違い、バラ科である。

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鞍部の美幸ヶ原にたどり着くと、土産物屋が建ち並び、ケーブルカー山頂駅に併設されているコマ展望台が建っている。一階は売店、二階は食堂、三階は屋上展望台となり、入場無料である。万葉集にも歌われた歌垣(嬥歌)は、この美幸ヶ原で春秋の年2回行われた。

2016-04-18 筑波山、巨岩・怪石巡り

[][]筑波山、巨岩・怪石巡り 20:40

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巨岩・怪石が次から次へと現れる。ここは母の胎内くぐりという。洞窟を潜り抜けることで生まれ変わるといわれる。昔から洞窟は異界、死者の世界への入口と考えられ、洞窟の中で修行し、出てくるときには罪障が払われるとされ、胎内くぐりは日本全国にいくつもあることになった。

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この大岩は陰陽石という。陰と陽の相反する二つの巨石がぴったり寄り添うように聳えている。

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こちらの大きな岩は国割石と呼ばれる。太古の昔、集まった神々がこの石の上に線を引き、それぞれの行くべき地方を割り振ったといわれている。

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こちらの奇岩は出舟入船と名付けられている。元来、「熊野の鳥居石」と呼ばれ、石の間から熊野を臨み礼拝したという。船玉神を祀っている。石の姿が出船と入船が並んでいるように見えることから、そう呼ばれている。

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この風変わりな岩は裏面大黒という。大きな袋を背負った大黒様の後ろ姿のように見えることから名付けられた。それにしてもよくいろいろな名前をつけるものだと感心する。

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覆面大黒のすぐ先に小さな渡神社が祀られている。祭神は蛭子命である。

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この大きな岩は北斗岩という。弘法大師が妙見菩薩を見たという伝説に基づいて、そう呼ばれている。左手には小さな小原木神社が祀られている。祭神は月読尊である。

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登山道北斗岩とその右手の岩との間をくぐり抜けていく。

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やがて左手に屏風岩の標識が立っているが、ロープが張られている。屏風のような岩場に素戔嗚尊を祀る安座常神社が建っているというが、崩落の危険があるので立ち入り禁止となっている。

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この大仏岩は、高さが15mもあり、下から見上げた形が、大仏が座っているように見えることから名付けられた。

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大仏岩を過ぎると女体山山頂間近となり、大岩が積み重なるような急な登山道となる。登山道脇の湿った岩場に、ダイモンジソウ(Saxifraga fortunei var. incisolobata)が白い花を咲かせていた。北海道から九州までの湿気のある岩上に生育するユキノシタ属の多年草で、花期は7〜10月である。花弁5枚のうち下の2枚が長く伸びて、花の形が「大」の字型になることから名付けられた。

2016-04-14 筑波山、つつじヶ丘

[][]筑波山つつじヶ丘 21:08

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昨秋、10月上旬と11月上旬、続いて2回筑波山に登った。混ぜ合わせて編集したが、葉が紅葉している方が11月の分である。「西の富士、東の筑波」と並び称される筑波山だが、日本百名山の中で最も標高が低く、ロープウェイやケーブルカーもあって、老若男女が楽しめるようにハイキングコースがいろいろと揃っている。比較的楽な、おたつ石コースから白雲橋コースに合流して女体山へ向かう。バスで西麓のつつじヶ丘駐車場に着くと、既に標高540mである。足腰に不安のある人はロープウェイ女体山駅まで300mを一気に上る。左の登山口からガマ大明神の脇を上り始める。

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むき出しの登山道脇にはいくつか秋の花が咲いている。11月に咲いていたこの黄色い花は、アキノキリンソウ(Solidago virgaurea var. asiatica)である。北海道から九州までの山野や里山近くに生える多年草で、高さは70cm前後になる。葉は互生し、下部の葉は先端が尖る楕円形で、上部は披針状となる。花期は8〜11月である。高山種のミヤマアキノキリンソウに比べると、低山種のこちらの方が稀にしか見かけない。

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道脇の藪には、ニシキギ属のマユミ(Euonymus hamiltonianus)の赤い実が鈴なりになっている。雌雄異株で、市販は雌木だけだが、雌木1本だけでも実はなる。材質が強くよくしなるため、古来より弓の材料として知られ、名の由来になった。漢字では檀、真弓、檀弓などと表す。ほかにも印鑑や櫛の材料になっている。

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11月上旬にはモミジなどが赤や黄色に紅葉して、山中を華やかに彩っている。

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30分ほどで弁慶茶屋跡という広場に着く。ここで左下から上がってきた白雲橋コースに合流する。

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ベンチのある広場の脇には、白い野菊が咲いている。ユウガギク(Kalimelis pinnatifida / Aster iinumae)と思われる。近畿以北に分布するが、関東地方にはこのほか、カントウヨメナノコンギク、シラヤマギク、シロヨメナなどよく似た花が分布しているので見分けにくい。

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やがて巨岩・怪石が現れてくる。これは弁慶の七戻りという。通り越してから振り返ったところ。頭上の岩が今にも落ちそうで、弁慶も七戻りしたといわれる。これは元来「石門」と呼ばれ、高天原の聖と現世の俗を分ける門だとされていた。

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左に登山道を分けて、右に少し登ると高天原となる。

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高天原とは「神様の世界」のことで、天照大神を祀る稲村神社が建っている。その上の岩にしめ縄が張られているが、高千穂峰にでも見立てているのかもしれない。

2016-04-13 キャベツと牛ひき肉のファルシー

[]キャベツと牛ひき肉のファルシー 21:29

フランス家庭料理のレシピが新聞に載っていたので挑戦してみた(4人前)。

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 キャベツの中玉の半分を丸ごと鍋でさっと茹で、水気を切る。

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ニンニク2片、タマネギ1/2個をみじん切りにする。

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 ニンニクとタマネギを炒め、塩胡椒する。

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ぁゝ蹐劼肉400gに炒めたタマネギを加え、塩胡椒をふってよく混ぜる。

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ァ´い縫船ンブイヨン150ccを加え、さらによく混ぜる。

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Α.轡ぅ織隠暇腓鯒切りにし、サラダ油(分量外)をひいたフライパンで軽く焼き、軽く塩を振る。

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А.ーブン可能な鍋にキャベツを重ねるように敷き詰め、イ里劼肉半量を重ねる。

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─,修両紊縫轡ぅ織韻糧称未鮠茲擦襦

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 さらにキャベツをかぶせ、残りのひき肉とシイタケを重ね、最後にキャベツでフタをする。

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[10] サラダ油30ccを回しかけ、180℃に予熱したオーブンにフタをして入れ、蒸し焼きにする。時々しみ出た汁をかけながら30分焼く。フタを取り、オーブンの温度を15℃ほど下げて、火が通るまで10分ほど焼いて出来上がり。

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* シイタケが大きかったので2枚で調理したが、6枚ほどたっぷりあったほうがよい。

2016-04-12 鶏手羽中と根菜の煮物

[]鶏手羽中と根菜の煮物 20:32

鶏手羽中と根菜の煮物を圧力鍋で作ってみた(3人分)。

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 〃楴蟇中9本(約300g)の骨に沿って包丁で切れ目を入れる。

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レンコン200g(中1節)、ゴボウ100gを薄切りにして、分量外の酢を入れた水にさらしてアクを抜く

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 圧力鍋に、酒大2、みりん大2、めんつゆ(5倍濃縮)大2、砂糖小1、酢小1、水100ccを加えて、出し汁を作る。

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圧力鍋に,侶楴蟇中と△虜菜を加え、強火にし、重りが振れたら弱火で10分煮て火を止める。

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ァ´い琉砧呂自然に抜けるまで放置している間に、舞茸1/2パックをほぐしておく。

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Αヽ犬魍けて舞茸を加えて煮詰め、必要に応じてめんつゆで調整しながら、味見して出来上がり。

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* 鶏肉は手羽先手羽元でもよく、根菜もあり合わせのものでよい。

2016-04-11 蕪嶋神社

[][]蕪嶋神社 20:21

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三陸復興国立公園の北限は、周囲800m、高さ17mの陸繋島である蕪島で、ウミネコ繁殖地として知られ、国の天然記念物に指定されている。島の頂上には蕪嶋神社が鎮座していたが、この後1ヶ月余りの2015年11月上旬に、電気設備の不具合が原因の出火で全焼してしまった。

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蕪島と呼ばれているが、昭和18年(1943)に旧海軍による埋め立て工事で本土と陸続きとなった。島は輝緑凝灰岩で成り立っている。島の麓の鳥居から頂上の神社入り口まで階段の参道が続き、参道の右手には「八戸小唄」の石碑が立っている。

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蕪嶋神社は、社伝によれば永仁4年(1269)に厳島神社を勧進したのが始まりといい、宝永3年(1706)に堂社が建立されたという。

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祭神は宗像三女神のうちの一神で、市杵嶋姫命を祀る。「蕪島弁財天」として信仰を集めてきたが、明治初期の廃仏毀釈により、蕪嶋神社と改められた。弁財天は商売繁盛や子授けにご利益があるとされるが、漁業の守り神でもある。拝殿内に奉納されていた大絵馬、障壁画、八戸市立鮫小学校児童天井画なども、この後の火災で残念ながら焼失してしまった。

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社殿の周りは歩いて回ることができる。社殿右手には稲荷神社のほかいくつかの末社が祀られている。

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社殿の裏手(北)を眺めると、しめ縄が掛けられた岩の手前に枯れた草原が広がる。ここはウミネコ繁殖地にもなっているところで、3月頃飛来し、営巣・抱卵・孵化して8月までに巣立つ間、最大3万羽にもなるというウミネコが居並ぶことになる。ウミネコは漁場を知らせてくれる鳥であり、弁天様の使いとして大切にされてきた。

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蕪島の名の由来には諸説あり、野生のアブラナの「蕪」の花が咲く島、神を祀る場所としての「神嶋」・「神場島」、アイヌ語の「カピュー」(ウミネコ等)と「シュマ」(岩場)を合わせたなどの説がある。社殿裏の右手(東)には、しめ縄の掛けられた「七福の岩」が並び、その向こうには蕪島海浜公園(蕪島海水浴場)が見える。

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社殿裏の左手(西)にも、ウミネコ繁殖地が広がり、八戸港を守る防波堤が見え、その先には埋め立て地にできた港湾・物流施設のポートランドが横たわっている。

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拝殿の裏には本殿が続いていたが、この建物も火災で焼け落ちてしまい、今では復興・再建に向けた取り組みが行われている。

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社殿左に立つこの自然石の石碑は、海防艦稲木之碑という。終戦直前の8月9日、八戸港蕪島沖で米軍機の猛攻を受け、八戸の盾となって沈没した海防艦稲木の戦没者慰霊碑である。

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社殿左手に立つ背の高い石碑は、「平和克復の碑」という。第一次世界大戦終了で平和を取り戻した時の記念碑で、大正10年に木村太郎が建立した。

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蕪島神社下の鳥居脇の水たまりでウミネコが水浴びをしていた。ウミネコ(Larus crassirostris)はカモメ属の鳥で、カモメより一回り大きいけれども見分けはつきにくい。ここの鳥たちは、黄色い嘴の先が赤と黒になっているのでウミネコである。日本では周年生息するが、冬季になると北海道や東北北部で繁殖する個体群は南下するものが多い。鳴き声が猫に似るが、食性は雑食で、他の鳥類がとらえた獲物を奪うこともあるという。向こうに屋根が見える寺は、曹洞宗の浮木寺である。幕末の僧・南溟(なんめい)によって開山され、境内には風流俳人として名高い乙因の句碑や、明治時代の遭難碑である郡司大尉短艇行溺死者供養費がある。かつて蕪島にあった弁財天像もここに移されている。

こうして昨年9月下旬の下北半島および八戸周辺の旅を終えた。

2016-04-08 大須賀海岸

[][][]大須賀海岸   20:40

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うみねこラインとも呼ばれる県道1号線に沿って北上するとまもなく大須賀海岸に着く。約2.3km続く白い砂浜は、散歩できる砂浜として東北北部で最大のもので、鳴き砂が鳴る海岸でもあり、日本の渚百選にも選ばれている。

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大須賀海岸を通り過ぎた種差海岸遊歩道は、ここから再び海岸段丘上に登っていく。すると道端にいろいろな花が咲いている。この白い花は、シラヤマギク(Aster scaber)である。日本各地の山地や丘陵などに普通に見られる多年草で、茎や葉にはざらざらした毛が生え、下部の葉は心形で大きく、舌状花は4〜9個でまばらにつく。

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こちらの花もシラヤマギクである。高さは1〜1.5mになるので、こちらの方が普通の姿をしている。花期は8〜10月である。

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だんだんと高く上っていくにつれて、遊歩道から見下ろす波しぶきの様子も激しさを増していく。

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ようやく大きな岩島が見えてきた。入江の海中に大きな釜の形状をした岩があることから、この辺りは釜の口と呼ばれている。

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ここにもノコンギクの花が咲いていた。先ほど種差海岸で見たものより赤紫色がはっきり認められる。

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枯れ尾花(ススキの枯れ穂)がたくさん見受けられる高台から、沖を走る船が見えてきた。この辺りで引き返すことにする。

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足元で見かけたこの白い小花は、ハマイブキボウフウ(Libanotis coreana var. ugoensis)である。近畿地方以北の山地に生えるイブキボウフウの海岸形で、海岸の砂地や礫地に生える。

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こちらの白い花は、ハマギク(Chrysanthemum nipponicum)である。本州の青森県から茨城県太平洋岸に生える高さ50〜100cmになる亜低木で、花が大きく美しいので江戸時代から観賞用に栽培されている。この種差海岸が北限とされるが、この釜の口辺りの崖や岩場の間にかなり群生している。花期は9〜10月で、秋の種差海岸を代表する花といえよう。

2016-04-06 種差海岸

[][][]種差海岸 21:12

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久慈市から三陸海岸沿いに北上し、洋野町立種市歴史民俗資料館に寄ったが残念ながら休館だった。仕方なくさらに北上し青森県八戸市種差海岸にたどり着いた。この種差海岸蕪島とともに、平成25年(2013)5月に旧陸中海岸国立公園に編入されると同時に三陸復興国立公園に指定された地域である。種差海岸のほぼ中央に位置する種差天然芝生地は、波打ち際まで天然の芝生がなだらかに敷き詰められた空間で、広々とした景観は見る人を壮大な気分にさせてくれる。

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種差天然芝生地の山側(西)には、自然や文化を学習できる種差海岸インフォメーションセンターや駐車場が整えられている。

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芝生地の目の前(東)には果てしのない太平洋を見渡すことができ、北の蕪島から南の大久喜に至るまでの延長12kmに及ぶ海岸線には、岩礁海岸・砂浜海岸・海食海岸など多様な地形が続き、国の名勝に指定されている。

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芝生地の北の高台には東屋が建ち、その先にはキャンプ場があり、さらに樹齢90 年以上の松並木が約3kmにわたって続き、淀の松原と呼ばれている。天然芝生から松原、大須賀海岸を通って、北の葦毛崎展望台まで約5kmにわたり種差海岸遊歩道が整備されている。

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遊歩道沿いからは、大小さまざまな岩礁に打ち付ける波が砕ける様子や、荒々しい崖にへばりつくように生える松の姿が見える。種差の名前の由来には諸説あるが、アイヌ語の「タンネエサシ(長い岬)」に由来するという説が有力視されている。

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松の木の間から垣間見える南の岬は島明神と呼ばれる岩礁地帯で、右手前には種差漁港を囲んでいる。

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眼下の海に見える大きな岩場は大島で、その右手に石碑のように見える岩はタテイシだと思われる。

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芝生地の真ん中に、細い溝が走っている。唯一の小川が削り込んだ溝が海まで続いている。

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芝生地海岸寄りには野草が生えていて、ここにも尻屋崎で見かけたアオモリアザミ(Cirsium aomorense)が赤紫色の花を咲かせていた。

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こちらの白い菊は、ノコンギク(Aster microcephalus var. ovatus)である。本州から九州の山野から道端までごく普通に見られる野菊の一つで、花はわずかに赤紫色を帯び、蕾だとよく分かる。

2016-04-05 軽米町歴史民俗資料館、久慈琥珀博物館

[][]軽米町歴史民俗資料館、久慈琥珀博物館 21:32

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南部町の法光寺から南東に進むと、岩手県軽米町に入る。八戸自動車道をくぐり抜けた先に歴史民俗資料館がある。復元された竪穴式縄文住居や古民家、お祭り広場などが揃う「えぞと大自然のロマンの森」内に位置し、軽米町の文化遺産を展示している。

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左手(北)には「歴史と民話の館」が廊下でつながり、語り部による昔話の伝承も行われている。

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民俗資料館は「時代を切り開いた鉄産業」「暮らしを支えた農法と馬産」「軽米町の自然と歴史」「祭りと郷土芸能」の四つのテーマに分かれて展示されている。軽米町内では縄文時代早期の岩手県内最古級(約12,000年前)の「隆線文土器」が出土し、早期前葉(約9,000年前)の竪穴住居跡が発見されている。長倉遺跡では、異色の遮光器土偶が珍しく欠損なく発見されている。

館内は撮影禁止なので、パンフの切り抜きを載せる。

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町内には400を超える縄文遺跡が確認され、大量の土器・石器、生活道具が出土し、住居跡もたくさん見つかり、県内有数の規模・量を誇る。大日向彊篝廚らは、新潟県産のヒスイ4個を身につけた人骨も発見されている。青竜刀型石器は、縄文中期から後期初頭の北海道南部から東北地方北部の遺跡から発見される石器で、用途は不明だが祭礼用具の説がある。

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南部駒踊りは南部地方の芸能を代表するものだが、そもそも南部の歴史は南部国と馬の歴史に他ならない。南部の国は、文治5年(1189)源頼朝が平泉の藤原氏を滅亡させた時の戦功によって、甲斐の南部三郎光行が、今の岩手県北部から青森県南部の国「ぬかのふのこおり」を賜った時に始まる。すでに名馬の産地として知られた南部で軍馬の育成とともに馬踊りも盛んになった。

東北北部に残るオシラサマ(おしら様)は、一般に蚕の神、農業の神、馬の神として信仰されるが、目の神や女の病の治癒を祈る神としても信仰されている。神体は桑などの木で作った身体に布の衣を多数重ねて着せたものが多く、2体1対で神棚や床の間に祀られることが多い。

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軽米町から東南東に進むと久慈市に至る。久慈市郊外の森の中に久慈琥珀博物館があり、日本や世界の琥珀について歴史・原石・虫入り琥珀・工芸品など、多くの資料を展示している。琥珀ギャラリーに展示されているこの作品は、世界最大級の琥珀製モザイク画で、ロシア・エカテリーナ宮殿「琥珀の間」再建修復委員長を長年勤めたA.A.ジュラヴリョフ(Juravlyov)の製作で、1998年に完成した。絵柄は国宝「金色堂」をデザイン化し、中央に金色堂中央壇と螺鈿細工の孔雀を配し、右に三陸海岸景勝地山王岩の日の出、左に岩手山日の入りを配している。額装は日本の伝統技術の木工漆塗り金箔仕上げで、和洋折衷の作品となっている。

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琥珀とは、数千万年前に繁茂していた樹木の樹脂が土砂などに埋もれて化石化した「樹脂の化石」であり、世界最古の琥珀は約3億年前のもので、イギリスノーサンバーランドや、ロシアシベリアで発見されている。久慈琥珀の起源は、恐竜時代にもあたる約8,500万年前の樹脂の化石で、南洋スギが起源種と考えられている。生成の過程で古代の昆虫・葉・花・樹皮などが樹脂の中に入り込んだものは希少価値が高い。色も黄・茶・赤・白・青・緑・黒など多彩で、約250種あるといわれる。

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世界各地で昆虫入り化石が発見されているが、ここではロシアやドミニカ産の琥珀が多く展示されている。ゴキブリツノゼミ、ハチやハエなどの昆虫化石も、それらの進化を探る上で学術的にたいへん貴重とされる。

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久慈は日本最大の琥珀産地として知られ、ここには大正7年ごろまで実際に琥珀が採掘されていた坑道跡が残されている。久慈産の虫入り琥珀も「ハバチの仲間」や「ヒロズコガの一種」が発見されている。後者は、アジア全域でも最古の蛾の化石で、蛾や蝶の先祖と考えられている。

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久慈からは、約5,000年前の縄文時代の遺跡からたくさんの琥珀原石が出土し、青森の三内丸山遺跡からも久慈産の琥珀が出土している。古墳時代の古墳から出土する琥珀製の勾玉や丸玉の多くが久慈産であることが解明されるなど、大和朝廷のもとにも琥珀がたくさん運ばれていたことがわかっている。

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この琥珀製モザイク画は、バルト海に伝わる伝説「人魚姫・ユラテ」の物語を当館製造スタッフが製作したもので、久慈市姉妹都市であるリトアニア琥珀産地・クライペダ市のあるバルト海の浜辺に打ち上げられる琥珀の物語である。カスチチスという漁師の歌に魅了された海底の琥珀の城に住む人魚の女神・ユラテは、最高神ペルクナスの怒りを買い、城の床に鎖で縛り付けられた。以来、むせび泣く女神ユラテの涙が琥珀のかけらとなって浜辺に打ち上げられるようになったという。

2016-04-04 法光寺、三重塔

[][]法光寺、三重20:34

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位牌堂の左手に大きな石灯籠が2基立てられている。よく見ると、一番上の笠にも火袋の周りにも、長い竿にも基礎にも彫刻が施され目立っている。多少の彫刻は見たことがあるが、これほど大きい空想上の奇獣・怪獣のような彫刻が飾り付けられているのは見たことがない。ここが三重塔への上り口であり、鳥居が見えるように境内裏手の寺域に散在する稲荷堂や観音堂、龍神堂などへの参道でもある。名久井岳の山麓に広がる法光寺の境内は6万坪を超えるという。

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本堂の後ろに神社の本殿のように続いて建っている建物は、捐城和尚を祀る開山堂である。

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神仏習合の名残といえる鳥居がいくつも立っている参道から、右手に三重塔への道が分かれている。

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三重塔の手前にも上庭と名付けられた遠州流庭園があり、野点茶会なども開かれる。

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昭和24年(1949)、37世活眼大典大和尚の代に、日本最大でかつ北限にある三重塔(承陽塔)が建立された。天女が池、蓮池と二つの小さな池には鮮やかな朱色の橋が架けられている。

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中に登ることもできるそうで、二階、三階には前田道六作の五百羅漢541体が安置されているという。幅8m、高さ33mと日本一の高さを誇る三重塔ではあるが、比較的新しいせいか残念ながらそれほど荘厳さは感じられない。

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堂内正面には、曹洞宗開祖の道元禅師像が安置されている。その左奥に八戸生まれの西有穆山禅師(法光寺30世住職)の像が安置されているというが、残念ながら見つけられない。

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その西有穆山禅師により、曹洞宗開祖・高祖承陽大師の霊骨を大本山総持寺より分骨してもらいここに奉安している。高祖承陽大師とは、曹洞宗での尊称で、一般には道元禅師とよばれ、この三重塔も承陽塔とも呼ばれている。

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三重塔の右手には、龍神堂が建っている。

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三重塔の前に戻り左手に進むと、林内に観音堂が建っている。ここは糠部三十三観音の19番札所でもあり、観音堂には千手観音が祀られている。

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観音堂からさらに左手に進むと、仏舎利塔が建っている。箱根の塔ノ沢で発掘されたという日本渡来最古の仏舎利を安置しているというが、どうも根拠に欠ける。こういう説明書きをみると、この法光寺全体の評価に関わってくるので、残念に思う。

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その先に建つ稲荷堂では、京都伏見稲荷大社の分霊を奉安している。

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鳥居の立つ参道を下って位牌堂脇に来ると、裏門らしき門の隣に奇妙な3階建ての建物が見えた。中を覗いてみると、座禅道場であろうか、「人間必至の場」という額が掲げられていた。

2016-04-01 法光寺、本堂

[][]法光寺、本堂 20:33

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南部町の南、三戸町との境に名久井岳がある。標高615mながら、頂上に三角点があり、端正な山容から南部小富士と呼ばれている。古くから霊峰山として人々に信仰されており、麓には法光寺、恵光院、野瀬観音が建立されている。

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名久井岳の東麓に位置する法光寺の参道には、延宝4年(1676)に住持の風山慶門や修行僧らが般若心経を唱えながら手植えしたといわれる千本松並木や、推定樹齢1000年といわれる爺杉が残り、「日本名松百選」に選定され、県の天然記念物にも指定されている。最初は427本、最大1000本以上あった赤松も、現在は風害や伐採により激減し、2代目も樹高20mに達している。

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簡素な月見橋の右手には蓮の池が広がり、遠州流庭園の下庭がある。ツツジの植栽が多く、6月上旬には見頃となり、境内が華やかになる。

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石段を上がると山門が建っている。山門は吹き抜けの唐門様式だが、崩れそうなほど古く、幾本もの材木で補強されていた。虹梁上の蟇股にあたる透かし彫りの彫刻は龍であろうか、極めて躍動的で大きい。兎の毛通しの鶴や、木鼻の獅子・獏の彫刻も立体的である。天井を見上げると、不鮮明ながら天井画が描かれ、長押に架けられた棚には十六羅漢らしき人形が並べられていた。

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曹洞宗の白華山法光寺は、鎌倉幕府5代執権・北条時頼が弘安3年(1280)に開基したとされる。北条時頼がこの地方を訪れた際、名久井岳の美しさに魅入られ登った帰り道、山の中腹にあった観音寺に一晩の宿を請いたところ住職の桂竺法印に断られ、やむなく山奥の別の庵寺に宿を求めた。夢想軒の庵主である玉蜂捐城(えんじょう)和尚は、有り合わせの品ながら心からのもてなしをした。時頼は翌朝、自分の扇の表に「壱千石名久井通り右永代可令知行也」と書き残した。扇子の裏には「水結ぶ名久井が岳を眺むれば海より出でて山に入る月」西明寺入道時頼花押と一首詠んでいる。翌年鎌倉の時頼から宮野玄蕃、板垣監物を普請奉行として派遣し、観音寺は命令をもって廃止し、その跡に、世話になったお礼として七堂伽藍を建て、白華法光寺が創建された。開基は時頼、開山は捐城和尚とされる。本堂は軒唐破風付の入母屋造で、床下を高くした二階建て風である。向拝虹梁上の彫刻は龍虎で、向拝柱も雲龍が巻きつく彫刻が施されている。

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時頼廻国伝説を残しているが、各地に残る時頼の廻国伝説は、北条得宗家の勢力拡大を物語るものといわれる。本尊として釈迦牟尼仏を安置している。

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山号は山門下の池の白蓮華に由来して「白華山」となっている。建物は明治11年に焼失したが、後年再建されている。ここでは座禅体験や住職による法話も聞くことができる。法光寺13世不慧和尚が宝永3年(1706)に書いた「白華山法光禅寺諸来歴記」には、法光寺に一泊した弁慶が寺宛に出した宿泊の礼状が保管されていると記載されていたが、残念ながら明治年間の火災で焼失したという。

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本堂内陣の欄間には随所に手の込んだ彫刻がはめ込まれている。これは普賢菩薩と観音菩薩の彫刻である。

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様々な菩薩などの欄間の彫刻だけでなく、襖絵も中国の山水画らしく丁寧に描かれている。

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本堂の左手には位牌堂が建ち、本堂左手前にある鐘楼堂は、珍しく渡り廊下で繋がれ前に突き出ている。昭和58年に再建された鐘楼堂には、袴腰が付き、高欄を廻らせ、二重の扇垂木が重厚感を醸し出している。

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鐘楼堂に簡単に渡っていけるので、ついつい撞きたくなってしまうが、我慢して鐘楼を間近に見ておく。

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位牌堂の中央には、観音像と思われる仏像が安置され、三界万霊等と書かれた位牌が立てられている。三界全ての精霊を供養するための位牌である。