半坪ビオトープの日記

2016-05-31 熊野本宮大社、結宮

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新宮の神社を後にして熊野本宮に向かう。本宮に着く前に、熊野川の河畔で昼食をとった。幅広い河原が続くが、この先の上流に本宮大社がある。本宮大社明治22年(1889)の大洪水まで大斎原という熊野川中洲にあったというが、これだけの幅広い河原をもつ熊野川が氾濫したのだから、想像を絶する大洪水になったのだろうと思われる。

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熊野本宮大社は、熊野三山の中心で三山の中でもとりわけ古式ゆかしい雰囲気を漂わせる大社であり、新宮・那智とともに全国に3,000以上ある熊野神社の総本宮である。一の鳥居の左手前にある八咫烏の大きな幟が目を引く。八咫烏は『記紀』の神武東征の際、熊野から大和まで神武天皇の道案内をした話から、熊野三山に共通する「熊野権現の使い」とされている。

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一の鳥居の近くに前登志夫の歌碑が建っている。「那智瀧の ひびきをもちて 本宮に むかづくわれや 生きむとぞする」

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本殿へと続く158段の石段の両脇には「熊野大権現」の幟がなびき、生い茂る杉木立が悠久の歴史を感じさせる。

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参道を進み始めるとすぐに功霊社がある。日露戦争および第二次世界大戦の戦没者を祀っている。

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参道の左手には、祓戸大神が祀られている。祓戸とは祓を行う場所のことで、祓戸大神は祓を司る神である。

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これは旧本宮社殿の絵図である。このように昔は長い間、熊野川・音無川・岩田川の三つの川の合流点にある大斎原(おおゆのはら)と呼ばれる中洲に鎮座していた。そこには12の社殿やいつくかの境内摂末社、神楽殿や能舞台などがあり、現在の本宮大社の8倍の規模を誇っていた。1000年以上も経て、明治22年(1889)にはじめて大水害に見舞われた原因は、熊野川上流の十津川での明治に入ってからの急激な森林伐採とされる。紀伊半島南部を襲った大雨が、十津川森林伐採後の山々で山津波を起こし、その土砂が川をせき止め天然のダムを造り、それが決壊して大洪水となり十津川の村々を押し流し、濁流が熊野本宮大斎原の社殿をも呑み込んだ。いくつもある熊野古道だが、十津川沿いに参詣道はなく古代から原始林に覆われていた。その十津川沿いの急激な森林伐採による森林破壊が未曾有の大災害をもたらしたのだった。2年後の明治24年に、流失を免れた上四社を現在ある祓殿王子社跡近くの山中高台に遷座した。流出した中四社・下四社と境内摂末社は旧社地大斎原の2基の石祠に祀られている。

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ゆったりとした158段の石段を上りきるとどっしりとした神門に至る。神門の左手にも八咫烏の紋が入った大きな幟が立てられている。桧皮葺の神門をはじめ築地塀、瑞垣・鈴門などの屋根葺き替え等の保存修理工事は平成24~26年度に実施された。この神門は明治の大洪水による流失を免れた元の東門である。

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神門には注連縄と菊の紋を染め抜いた大きな幕がかかり、その上には今年の干支である申の絵馬が掲げられ、その両脇には三本足の八咫烏と思われる飾り藁が掲げられている。

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神門に「熊野坐神社」の扁額が掲げられているように、熊野本宮大社は昔、熊野坐神社(くまのにいますじんじゃ)と呼ばれ、熊野の神といえば本宮のことを指すと推測されている。

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熊野本宮大社の創祀は不詳だが、神武東征以前に熊野大神がすでに鎮座していたと伝承され、社殿は飛鳥時代の615年に創建されたと『皇年代略記』や『神社縁起』に記されている。平安朝以後は熊野権現と称し、熊野本宮大社は上・中・下社の三社からなるため熊野三所権現と呼ばれ、十二殿に祭神が鎮座することから熊野十二社権現とも仰がれる。

神門をくぐると桧皮葺の社殿が、左から第一殿・第二殿の相殿、第三殿、第四殿と3棟並んでいる。一番左の第一殿と第二殿の相殿は結びの宮とも呼ばれ、他の社殿より一回り大きい。第一殿は西御前とも呼び、熊野牟須美神(くまのむすびのかみ)と事解之男神(ことさかのおのかみ)を祀り、第二殿は中御前とも呼び、熊野速玉之男神と伊弉諾尊を祀っている。第一・二殿は、享和2年(1802)の建立で、入母屋造平入り、桁行5間、梁間4間、正面に庇を付し、正面の2箇所に木階を設ける。内部は桁行3間、梁間1間の内陣とし、3室に分け、左右の室に熊野牟須美大神と速玉之男神をそれぞれ祀る。第一・二殿は1棟の建物として、国の重文に指定されている。

2016-05-30 神倉神社

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熊野速玉大社の南西、千穂ヶ岳(権現山、253m)の南端に位置する神倉山(199m)の山頂より少し下ったところに神倉神社が鎮座している。太鼓橋の傍らに古めかしい下馬標石が建っている。これは寛文12年(1672)に奥州の大銀与兵衛盛道が、熊野三山に7度参詣した記念に寄進したものである。高さ1.59m、幅43cm、奥行17cm、黒雲母花崗班岩製の石柱である。

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太鼓橋を渡った正面奥に猿田彦神社と神倉三宝荒神社がある。祭神の猿田彦は、高天原から地上に降りる天孫瓊々杵尊を日向の高千穂まで導いた国津神である。三宝荒神社の祭神は、火産霊神・誉田別命であり、高野山の奥社とされる立里(たてり)の三宝荒神を勧請したものである。

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猿田彦神社の前で左に折れる参道のすぐ右手に、野口雨情の歌碑がある。「見せてやりたい 神倉山の お燈まつりの 男意気」三度新宮を訪れた雨情は、最初の昭和11年(1936)、10番まである「新宮歌謡」を作っている。

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これから登る神倉山には、新宮の街中からも見える神倉神社の御神体とされるゴトビキ岩があり、この巨岩と崖は、『日本書紀』の神武天皇紀の五瀬命の死と丹敷戸畔の誅殺の間に記されている天磐盾(あまのいわたて)に比定されている。「熊野の神邑に至り、すなわち天磐盾に登る」

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右手に曲がる参道の朱塗りの両部鳥居をくぐると、自然石(花崗岩)を組み合わせて積み重ねた「鎌倉積み」の急峻な石段を登らなければならない。この石段は、源平合戦における熊野の功労を賞して、建久4年(1193)に源頼朝が寄進したものと伝えられるが、『熊野年代記』の記事のみである。

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勢いよく登り始めたが、どこまで続くのか、今まで体験したこともないあまりの急勾配に、しばし天を仰ぐ。石段は全部で538段あるそうだ。参拝帰りに降りてくる老人は、足元がおぼつかないのか休み休みだ。事実、上を眺めるより、下を見下ろす方が急坂に見える。

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200段ほど登ったところで一度平らになり、右手に中ノ地蔵堂と火神社が祀られている。毎年2月6日夜に行われる神倉神社の例大祭、お燈まつりは、白装束に荒縄を締めた約2,000人の上り子(のぼりこ)達が御神火を燈した松明を持ち、我先にと石段を駆け下りる。その様子は日本有数の勇壮な火祭りとして有名だが、その日だけは女人禁制になる。神倉神社では神職が火をつけた神事の後、中ノ地蔵堂にその火が置かれ、上り子は松明に火をつける。それから山上の玉垣内に入り、山門が開かれると同時に、松明を持って神倉山の538段の石段を駆け下りる。新宮出身の中上健次もよく参加したという。

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この葉に白い斑が入っている可憐なスミレは、フイリシハイスミレ(Viola violacea f.versicolor)と思われる。本州中部地方以西の山野に生えるシハイスミレの斑入り品種である。

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中ノ地蔵堂からは勾配も普通になった参道を登っていくと、ようやく二の鳥居と玉垣が見えてくる。玉垣の内側右手に見える手水鉢は、新宮城第2代城主の水野重良から寄進されたもので、寛永8年(1631)の銘がある。横1.9m、奥行91cm、高さ60cmの黒雲母花崗班岩の一枚岩からできている。阿須賀神社にも同様のものが奉納されている。

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二の鳥居のすぐ右手前の高台に末社の満山社が建てられている。満山社は本宮大社にもあるが、結びの神、八百万の神を祀っている。

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玉垣内に入ると、大きな一枚岩の岩盤の斜面を登っていくことになる。この一枚岩の岩盤そのものも驚嘆に値する大きさである。

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岩盤の先端の上に数個の巨岩が乗っかっているが、この巨岩群が神倉神社のご神体とされるゴトビキ岩と呼ばれている。ゴトビキとは熊野地方の方言でヒキガエルのことで、最も大きな巨岩の形がヒキガエルに似ることによる。この岩の根元を支える袈裟岩といわれる岩の周辺から経塚が発見され、平安時代の経筒が多数発掘され、さらに下層からは銅鐸片や滑石製模造品が出土していることから、神倉神社の起源は磐座信仰から発したと考えられている。神話時代にさかのぼる古くからの伝承があり、創建は景行天皇58年(128)頃といわれる。熊野信仰が盛んになると、熊野三所権現が最初に降臨したのがこの神倉山とされ、そのため熊野根本神蔵権現あるいは熊野速玉大社奥院と称された。熊野速玉大社を新宮と呼ぶのに対し元宮とされる。建長3年(1251)には火災により社殿が焼失したが、北条時頼の助成で再建された。南北朝時代の荒廃後は麓にある妙心尼寺が勧進権を掌握し再興に尽力した。近世以降は紀州徳川家や新宮領主の浅野氏・水野氏の崇敬を集めた。

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近世の境内には社殿と並宮のほかに崖上に懸造りの拝殿があり、大黒天を祀る御供所、末社として満山社、子安社、中ノ地蔵堂などがあったが、明治3年の台風で倒壊した。その後、明治40年には熊野速玉大社に合祀された。大正7年(1918)岩下に祠を再建したのを手始めに、昭和期に社務所、鳥居などが再建され、社殿、玉垣、山上鳥居、鈴門などが新築された。現在、社務所に常駐の神職は居らず、熊野速玉大社の境外摂社の扱いである。

祭神として高倉下命(たかくらじのみこと)、天照大神を祀る。高倉下命は、瓊々杵尊の兄、饒速日命(にぎはやひ)の御子神で、早くから熊野を統治し、のちに熊野三党、三山祠官の祖となった神である。『古事記』『日本書紀』によれば、神倉山は神武天皇が東征の際に登った天磐盾であり、このとき天照大神の子孫の高倉下命は神武に神剣を捧げ、これを得た神武は天照大神の遣わした八咫烏の道案内で軍を進め、熊野大和を制圧したとされる。

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神倉神社からは新宮市街および熊野灘が一望できる。幅広い熊野川河口には、こんもりとした蓬莱山(40m)が認められる。麓から見上げると、ゴトビキ岩は神倉山の中腹、麓から60mの高さでそそり立つ崖の上にあるのがわかる。ゴトビキ岩の後ろにも巨石群があるというが、登っていくのは難しそうだった。

2016-05-27 手力男神社・八咫烏神社

[][]手力男神社・八咫烏神社 21:13

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速玉大社の神門を出て大鳥居までの参道を歩いていく。すぐ右手にある大禮殿は、鉄筋コンクリート瓦葺入母屋造である。

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左手には、野口雨情の詩碑がある。「国のまもりか 速魂さまの 御庭前まで 神さびる」

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その先右手に後白河法皇御撰梁塵秘抄所載の歌碑が建っている。後白河法皇の熊野詣では33回と天皇の中で最多回数を誇る。「熊野へ参るには 紀伊路と伊勢路のどれ近しどれ遠し 広大慈悲の道なれば 紀伊路も伊勢路も遠からず」

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後白河法皇の歌碑のすぐ左には、梛(なぎ)の巨木がある。樹高20m、幹周4.61m、推定樹齢1,000年の日本最大とされる梛で、国の天然記念物に指定されている。平治元年(1159)の社殿落成の際に、熊野三山造営奉行であった平重盛(清盛の嫡男)の手植えと伝えられる。ナギ(Podocarpus nagi)は、暖地の山地に自生する常緑高木で、5〜6月に開花する。針葉樹で平行脈のある葉は横に裂けにくく、男女の縁が切れないとの、縁結びの印とされていた。御神木としての梛の葉は、笠などにかざすことで魔除けとなり、帰りの道中を守護してくれると信じられている。

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梛の向かいには熊野神宝館があり、約1,000点もの古神宝類が一括して国宝に指定されている。大半は明徳元年(1390)の遷宮に際して、当時の天皇・上皇・室町幕府将軍足利義満及び諸国の守護により奉納されたものとされる。速玉・夫須美・家津美御子・国常立神像のほか、祭神用の神服、彩絵檜扇、蒔絵手箱、銅鏡、太刀や弓矢、染織用具類などが含まれる。神宝館の玄関には武蔵坊弁慶が勇ましい姿で立っている。

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梛の大木の左には、検校法親王の歌碑が建っている。「なぎの葉にみがける露のはや玉を むすぶの宮やひかりそふらむ」(夫木和歌抄より)

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中世から近世にかけての熊野詣では、熊野本願寺院に所属する熊野比丘尼達が「熊野那智参詣曼荼羅」と「熊野観心十界曼荼羅」を携えて全国を巡り歩きながら、絵解きをして熊野への勧誘を行ったことが隆盛に貢献した。この熊野速玉大社参詣曼荼羅は、2004年に「紀伊山地の霊場と参詣道」が世界遺産に登録されたのを機に作られたものである。

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神宝館の先に小さな石造りの「熊野詣 奉八度の記念碑」が立っている。以前は神倉神社境内にあったこの参詣碑は、岩手県久慈市の住人・吉田金右衛門が熊野詣八回を遂げた記念に宝永5年(1708)に奉納したものである。

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さらにその先左手に、手力男神社と八咫烏神社が並び建っている。手力男神社は鑰宮(かぎのみや)ともいう。延喜式神名帳に「紀伊国牟婁郡手力神社」とある式内社で、天岩戸の扉を開けた天手力男神を祀っている。元は神門内にあったが、弘仁4年(813)に勅命により現在地付近に遷され、明治40年に新宮大社に合祀された。八咫烏神社は古くから新宮大社の末社として熊野川右岸の丹鶴山麓に奉祀されていたが、昭和37年に現在地に移された。(賀茂)建角見命を祀っているが、八咫烏はこの神の化身とされ、熊野神の使者ともいわれる。

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これは詩人であり、童謡・民謡作詞家の野口雨情の句碑である。「梛の実の紫白に遊ぶ鳥もなし」

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こちらは佐藤春夫の句碑である。「秋晴れよ丹鶴城址児にみせむ」大社の駐車場脇には、新宮出身の詩人・作家である佐藤春夫東京の自宅を移築した記念館がある。

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ようやく大社境内入口に建つ大鳥居に着いた。真言系の仏教家により説かれた神道を両部神道といい、密教の金剛界・胎蔵界を二つ合わせて両部という。朱色が鮮やかなこの鳥居は、柱の下部を四脚で支える形にして両部を表す両部鳥居であり、神仏習合の名残を示している。権現鳥居とも呼ばれる。鉄筋コンクリート造で、扁額には「熊野権現」と書かれている。

2016-05-26 速玉大社、上三殿・八社殿

[][]速玉大社、上三殿・八社殿 20:44

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参集殿の左手背後の山は千穂ヶ峯で、二つのピークのうち高いほうが北の権現山(253m)で、左手の低いほうが神倉山(199m)である。この神倉山の頂上直下に熊野速玉大社の摂社で元宮とされる神倉神社がある。

熊野速玉祭は熊野速玉大社の例大祭で、例年10月15日の神馬渡御式、16日の御船祭で知られる。主祭神の速玉大神と夫須美大神の神霊が常世から来て熊野川を遡上して御舟島に鎮座した後、乙基河原をへて新宮に遷座したという熊野権現来臨の有様を再現した祭である。神馬渡御式では、^た棆貎声劼凌昔遒鯊玉大社第二殿に迎え、⊃昔遒権現山西北にある杉ノ仮宮(御旅所)へ渡御し、8耄構蠅任虜弋靴慮紂⊃昔遒第二殿に還御する。御船祭では、”弯榿大神が鎮座する第一殿にて神霊を神輿に移し、熊野川の河原で神霊を神輿から神幸船に移し、先導する早船が御舟島の周りを回り、神幸舟は乙基河原に上陸し、神霊は御旅所に渡御して祭儀の後、大社に戻り神霊を第二殿に収めて終わる。この祭の構造は、熊野権現が阿須賀から新宮へあるいは神倉山から新宮へ直接遷座したのではなく、間に阿須賀神社の北側にある石淵谷に勧請されてから新宮に遷座したという、『熊野権現垂迹縁起』等にみられる遷座過程を示している。

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大きな拝殿の後ろには、第一殿と第二殿が荘厳に並び建つが、その右手には上三殿の大きな社殿が建ち、その前に鈴門が三つ並んでいる。上三殿の構造は、木造銅板葺流造である。

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上三殿とは左から第三殿の証誠殿に家津美御子大神・国常立尊を祀り、第四殿の若宮に天照大神を、神倉宮に高倉下命(たかくらじのみこと)を祀る。熊野権現信仰(三山三世信仰)は奈良朝に起こり、神仏習合の流布に伴い、熊野速玉大神は薬師如来として、熊野夫須美大神は千手観音に、家津美御子大神は阿弥陀如来にというように、本地仏に姿を変えて現れる(権現)と説かれてきた。

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速玉宮と上三殿との間に小さな奥御前・三神殿が建っている。摂社である奥御前・三神殿には、天之御中主神・神皇産霊神(かみむすびのかみ)・高皇産霊神(たかみむすびのかみ)が祀られている。

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上三殿の右隣には八社殿が建っている。八社殿に比べて上三殿の建物が大きいことがよくわかる。

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八社殿の前には二つの鈴門が建っているが、第五殿から第十二殿までが、中四社と下四社に分かれているためである。

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中四社第五殿の禅児宮には天忍穂耳尊を、第六殿の聖宮には瓊々杵尊(ににぎのみこと)を、第七殿の児宮には彦火火出見尊を、第八殿の子守宮には鵜葺草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)を祀っている。下四社第九殿の一万宮には国狭槌尊を、十万宮には豊斟淳尊(とよくもぬのみこと)を、第十殿の勧請宮には泥槌煮尊(ういぢにのみこと)を、第十一殿の飛行宮には大戸道尊を、第十二殿の米持宮には面足尊を祀っている。八社殿も木造銅板葺流造である。

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八社殿の右手に新宮神社と熊野恵比寿神社が並んでいる。

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左の新宮神社は、明治40年に新宮町内の十三の末社を境内の金刀比羅神社(祭神、大物主神)に合祀して新宮神社となった。

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右の熊野恵比寿神社は、蛭児大神を祀っている。かなり昔に西宮市西宮神社西宮えびす)から分霊を勧請したそうだ。

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新宮神社・恵比寿神社から神門へと戻る途中、神門の手前に苔のまとわりついたオガタマノキ(Michelia compressa)の巨木が立っていた。樹高21m、目通り幹周1.65mで、新宮市天然記念物に指定されている。

2016-05-25 熊野速玉大社、結宮・速玉宮

[][]熊野速玉大社、結宮・速玉宮 21:18

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丹鶴城跡の1kmほど西の熊野川淵に熊野速玉大社がある。境内右手の駐車場から神門に向かうとすぐ右に小さな熊野稲荷神社がある。境内末社の稲荷神社では、2月に初午祭が行われる。

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横から参道に出るとすぐ前に麗しい佇まいの神門が建っている。神門には巨大なしめ縄が掲げられ、扁額には「全国熊野神社 總本宮」とある。全国に3,000社以上あるという熊野神社の総本宮であるが、熊野本宮大社も同じように総本宮を名乗っている。延喜式神名帳(927)では、本宮は熊野坐(くまのにいます)神社、新宮は熊野速玉神社と記載され、那智神社は式内社になっていない。奈良時代から平安時代にかけては熊野速玉神社の方が熊野坐神社よりも上に見られていた。第46代孝謙天皇の時代(749~58)に、「日本第一霊験所」の勅額が速玉神社に下賜されている。9世紀半ばから諸国の神々に朝廷から位階が授けられるようになったが、神階でも速玉神の方が上だった。両社に正一位が授けられて同格となったのは天慶3年(940)以降である。

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神門をくぐると瑞垣に囲まれた神庭には12社を祀る社殿が棟を並べて建っている。向かって左から第一殿、第二殿、摂社の奥御前三神殿、第三殿・第四殿・神倉宮の三社相殿、第五殿から第十二殿までの八社相殿である。当初は、結(むすび、夫須美)・早玉(速玉)の2神を祀っていたが、本宮・新宮・那智熊野三山として連携される11世紀末頃に、家津美御子(けつみみこ)を勧請し、熊野三所権現として三山共通の3柱を祀るようになり、その後、さらに多くの諸神を祀るようになり、熊野十二社権現と呼ばれるようになった。紀伊藩主の命により安政元年(1854)までに建てられた旧社殿は、明治16年(1883)に花火の火災で焼失した。その後は仮殿。平成9年(1997)に第一殿の結宮、その他は昭和27年(1952)から昭和42年(1967)にかけて現社殿が再建された。第一殿と第二殿の拝殿が一番大きく、鉄筋コンクリート造である。

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拝殿の扁額には「日本第一大霊験所 根本熊野権現拝殿」とある。速玉神社の創祀は不詳だが、『熊野速玉大社略記』では以下のようにいう。その昔、熊野信仰の原点である神倉山に熊野三所大神が天下り、山頂の霊石ゴトビキ岩(天ノ磐盾)を神体として祀っていた。のちに現在の社地に社殿を造営し遷座した。それ以来、神倉山の元宮に対しここを新宮と呼ぶようになったという。長寛元年(1163)頃編纂の『熊野権現垂迹縁起』では、遷座の時を景行天皇58年(128)としている。主祭神の結(夫須美)大神は第一殿の結宮に、速玉大神は第二殿の速玉宮に祀られ、別名はそれぞれイザナミノミコトとイザナギノミコトとされる。穂積忍麻呂が初めて禰宜に任じられてからは、熊野三党の一つ・穂積氏(藤白鈴木氏)が代々神職を務めた。

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木造熊野速玉大神坐像・木造夫須美大神坐像・木造家津美御子大神坐像は国宝に、木造伊邪那岐神坐像・木造伊邪那美神坐像は重文に指定されている。それぞれ9世紀後半の制作と推定されている。扁額では「結霊宮」「速霊宮」とある。

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拝殿の裏に鎮座する本殿は、木造銅板葺熊野造で、きらびやかである。左の千木は夫須美大神が女神なので内削ぎ(平行)であり、右の千木は速玉大神が男神なので外削ぎ(垂直)となっている。

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結宮・速玉宮の拝殿の左手には、鉄筋コンクリート造の参集殿が建っている。

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参集殿の右手には後鳥羽天皇の歌碑が建っている。後鳥羽上皇は熊野に29回も行幸しているとされる。

「岩にむす 苔ふみならす三熊野の 山のかひある行末もがな」

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参集殿の左手、授与所の奥に大きな石碑があって、熊野御幸の記録が刻まれている。最多は後白河上皇で33回、後鳥羽上皇の29回に次ぐのは鳥羽上皇の23回、さらに白河上皇の12回、待賢門院9回と続く。延喜7年(907)の宇多上皇から乾元2年(1303)までの396年間に上皇・女院・親王を含め23方、140回に及ぶ皇室の参詣があり、それを熊野御幸という。白河上皇から後鳥羽上皇に至る100年だけでも97回もの御幸があったという。上皇の熊野御幸には千人ほどのお供がつくのがならいで、その行列が「蟻の熊野詣で」といわれる所以だという。鎌倉時代には北条政子や北条時政の妻も参詣したが、室町時代には衰退したそうだ。

2016-05-24 徐福公園

[][]徐福公園 20:49

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阿須賀神社から南に300mほどの所、新宮駅のすぐ東に徐福公園がある。元来この地には徐福のものとする墓があったが、平成6年(1994)にその墓を中心にきらびやかな中国風の楼門を設置するなどして公園として整備された。楼門の瓦は台湾で製造されたものを使用している。

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公園に入りまず目につくのは徐福像である。高さ1.9m、重量1.5トンの御影石でできている。右手の不老の池とともに平成9年に作られたもので、不老の池では七重臣を象徴して7本の石柱があり、7匹の鯉が飼われている。石柱には七重臣が有していた七つの徳、「和、仁、慈、勇、財、調、壮」が刻まれている。

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この由緒板は、徐福公園の完成を記念して中国山東省龍口市より平成6年に寄贈されたもので、徐福についての説明と上陸の絵が刻まれている。縦1.6m、横3.2mで、大理石でできている。

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これが徐福の墓である。徐福中国秦朝の道教方士、神仙思想の行者である。秦の始皇帝の命を受けて3,000人の童男童女と百工を従え、五穀の種を持ち、不老不死の薬を探しに東方に船出して戻らなかったという。徐福の出港地については現在の山東省から浙江省にかけて諸説あり、河北省秦皇島、浙江省寧波市慈渓市が有力とされるが、一般的には伝説上の人物とされる。

その徐福が上陸したとされる地は、青森県から鹿児島県まで各地にあり、この新宮市のほか三重県熊野市鹿児島県いちき串木野市などが有名である。熊野市波田須では2,200年前の中国の通貨である半両銭が発見され、徐福ノ宮では徐福が持参したというすり鉢をご神体としている。

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徐福の墓碑は二段の台石の上に建ち、高さ1.4m、幅0.5mの緑色片岩でできている。墓碑は紀州藩祖徳川頼宣が儒臣の李梅溪に書かせたもので、元文元年(1736)の建立である。

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徐福の墓碑の左側に徐福の顕彰碑が建っている。高さ2.5m、幅1mの黒色縞状石灰岩に刻まれている。

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天保5年(1834)藩命により紀州藩儒者仁井田好古の撰・書により顕彰碑が造られたが、海路輸送中台風で沈んだ。その後、残された書により昭和15年(1940)ようやく建立された。

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徐福の墓碑の右には七塚の碑が建ち、さらにその右には絶海と太祖の詩碑が建てられている。

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七塚の碑は高さ1m、幅48cm、緑色片岩の自然石。徐福の重臣七人を祀るもので、大正5年(1915)に建立された。その右の絶海と太祖の碑は高さ90cm、幅1.24mの御影石に詩文が刻まれ、昭和41年(1966)に建立された。応安2年(1368)入明した禅僧・絶海中津が、南朝天珠2年(北朝永和2年、1376)に太祖(洪武帝)に謁見した際、熊野徐福詞とその帰郷についてやりとりし、詩を吟じあったという。

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不老不死の霊薬を求めて渡来した徐福一行は、熊野に自生する「天台烏薬」という薬木を発見したが、気候温暖・風光明媚のこの地を永住の地と定め、土地を拓き、農耕、漁法、捕鯨、紙すき等の技術をこの地に伝えたという。天台烏薬(てんだいうやく、Lindera strychnifolia)は、クスノキ科クロモジ属の常緑低木で、享保年間(1716~36)に中国から渡来し、近畿四国九州地方に野生化していて、根が漢方薬に使われる。徐福が持ち込んだという言い伝えもあるが、年代は合わない。公園内にも天台烏薬が植えられている。新宮市では徐福伝説にちなむ天台烏薬を昭和57年から栽培し始め、現在ではその数10万本以上に達し、年間600kgの生薬を生産しているという。

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熊野速玉大社の手前(東)、阿須賀神社のすぐ西に丹鶴城跡がある。この丹鶴山には元々、熊野別当家の嫡流である新宮別当家の別邸や、平安時代末期の大治5年(1130)に源為義の女「たつたはらの女房(別名、熊野鳥居禅尼)」が夫の熊野別当行範の死後、その冥福を祈るために創建した東仙寺や、速玉大社の神宮寺であった崗輪寺などがあった。慶長5年(1600)浅野幸長が甲斐国から紀伊国に入り、翌年、幸長の2男忠吉が新宮に入り、東仙寺や崗輪寺を他所に移し、元和5年(1619)に丹鶴城を築いた。その後、明治4年の廃藩置県により廃城となった。

2016-05-23 阿須賀神社

[][]阿須賀神社 20:51

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翌朝早く、新宮市内の速玉大社に行く前に、熊野発祥の地ともいわれる阿須賀(あすか)神社に立ち寄った。高さ48mの蓬莱山の南麓に鎮座するが、蓬莱山は元来、熊野川河口にある小さな島で、古代より神の降臨する神奈備型の霊山として崇拝されてきた。

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社伝によれば第五代孝昭天皇の代(紀元前423年)に創建されたというが、古文書が焼失しているため不詳である。古伝によると、熊野大神はまず神倉山に降臨し、次に阿須賀の森に遷り、熊野大神のうち家津美御子はさらに貴祢谷に遷ったが、結・速玉の二神はそのまま阿須賀の森に留まった。第十代崇神天皇の御代に家津美御子はさらに熊野川上流の音無の里(本宮)に遷り、結・速玉は第十二代景行天皇の御代に今の新宮に遷座したとされ、阿須賀神社が本宮・新宮より古いという。嘉永7年(1854)徳川家定、紀伊国主により社殿が再建されたが、昭和20年の空襲により焼失、その後、昭和51年(1976)に再建されている。拝殿は木造銅板葺入母屋造であり、本殿は木造銅板葺流造である。

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祭神は事解男命(ことさがおのみこと)及び熊野速玉大神熊野夫須美大神・家津美御子大神を祀り、配神として建角美神(たけつねのかみ)と黄泉道守神(よもつみちぬのかみ)を祀る。平安時代に熊野権現の本地が確立してからは、大威徳明王を本地仏として祀った。平安時代後期から12世紀前半までの中世熊野参詣では、阿須賀神社に参詣することが常であったとみられる。『中右記』の天仁2年(1109)10月27日条に「参阿須賀王子奉幣」と記され、熊野九十九王子の王子社としての扱いを受けていたことがわかる。『紀伊風土記』によれば、近世の阿須賀神社には並宮・拝殿・御供所・鐘楼堂・四脚門・鳥居・社僧行所などがあったという。古神宝類は、明徳元年(1390)足利義満が阿須賀神社の造替に際して奉納した工芸品類70余点全てが国宝に指定されているが、現在は京都国立博物館に所蔵されている。

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社殿の右手には摂社の阿須賀稲荷神社が建っている。構造は木造銅板瓦葺造である。補陀洛山寺の脇にもあった三狐神(御狐神)と同じく、食物を司る宇賀御魂神すなわち稲荷神を祀っている。 

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そのすぐ右手には、石造の徐福の宮が祀られている。古代中国からこの阿須賀に上陸したという徐福伝説では、蓬莱山の麓に住み着き、里人に農耕や捕鯨、造船、製紙などの技術を伝えたとされる。

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拝殿の左手に回ると、子安の宮が祀られている。その右に子安石が安置され、さらに右手になんとか本殿を見ることができる。

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これが子安石と呼ばれている石で、この付近の岩室から昭和34年(1959)平安時代から室町時代にかけての製作とされる御正体(みしょうたい)が400点以上出土した。さらに翌年、社殿裏側の蓬莱山経塚から、陶製経甕破片、経筒残片、和鏡、銅銭、貞治元年(1362)銘の銅板金具など200点余の遺物が発掘された。

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境内左側に建つ新宮市立歴史民俗資料館には、蓬莱山経塚や阿須賀遺跡の出土品のほか、新宮城や熊野信仰に関する資料が展示されている。

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境内左側資料館の手前では、弥生時代後期の竪穴住居跡が発掘され、阿須賀遺跡と呼ばれる。住居跡は円形3、隅丸方形1、方形6の合計10基、掘立柱建物跡4基が確認され、弥生式土器・土師器や管玉などの石製品も出土したため、大規模な集落が存在していたと推定されている。

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阿須賀神社の社叢は、境内地後背の蓬莱山にある暖帯照葉樹林で、クス、ホルトノキ、シロダモ、アセビマンリョウなどが繁茂している。クスノキ科クロモジ属のテンダイウヤクも含め、新宮市天然記念物に指定されている。

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資料館の脇には「量り石」という石が置かれている。昔、距離を示す基点となった石で、江戸時代の「新宮里程地図」に「丹鶴城へ六丁八分」などと、この石からの距離が記されている。

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同じく資料館の脇に、那智山への道標が横たわっていた。

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歴史民俗資料館は館内撮影禁止なので、パンフの切り抜きを載せる。子安石近くの岩室から出土した鏡像・懸仏の御正体(みしょうたい)が400点以上出土したが、半数以上は本地仏の大威徳明王で、そのほかは薬師如来、阿弥陀如来など熊野信仰に関わる諸仏である。本地仏の大威徳明王の懸仏が神社に奉納されることは、日本独特の神仏混合の姿を明示している。

2016-05-20 補陀洛山寺、熊野三所大神社

[][]補陀洛山寺、熊野三所大神21:08

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夏は海水浴客で賑わう那智の浜の前方に広がる熊野灘は、観音菩薩が住む浄土に続く海として信仰されてきた。この海を崇拝する場所として古くから信仰を集めてきたのが、那智の浜近くにある補陀洛山寺(ふだらくさんじ)と熊野三所大神社(浜の宮王子社)である。

補陀洛山寺の開創は不詳だが、仁徳天皇の治世にインドから熊野の海岸に漂着した裸形上人により開山されたと伝える古刹で、平安時代から江戸時代にかけて人々が観音浄土である補陀洛山へと小舟で那智の浜から旅立った宗教儀礼「補陀洛渡海」で知られる。江戸時代まで那智七本願の一角として大伽藍を有していたが、文化5年(1808)の台風により主要な堂塔は全て滅失した。その後長らく仮本堂であったが、平成2年(1990)に室町様式の高床式四方流造宝形型の本堂が再建された。明治初期の神仏分離の際、那智山の仏像仏具類はこの補陀洛山寺に移されたといわれる。

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補陀洛山寺は天台宗の寺院であり、補陀洛とは古代サンスクリット語の観音浄土を意味する「ポータラカ」の音訳である。『華厳経』ではインド南端に位置するとされ、チベットのダライ・ラマの宮殿がポタラ宮と呼ばれたのもこれに因む。中国では舟山諸島の2つの島を補陀洛としている。中世日本では遥か南洋上に「補陀洛」が存在すると信じられ、これを目指して船出する「補陀洛渡海」が、記録に明らかなものだけでも那珂湊足摺岬室戸岬など各地から40件を超えて行われ、そのうち25件が補陀洛山寺から出発している。

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補陀洛山寺の本堂には、本尊である木造千手観音立像(三貌十一面千手千眼観世音菩薩)が安置されている。像高172cm、平安時代作の一木造で、国の重文に指定されている。ほかにも梵天立像、帝釈天立像、補陀洛渡海舟の板絵2枚などがある。

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本堂左には渡海に利用したといわれる「渡海舟」の模型が展示されている。屋形には扉がないが、屋形に人が入ると出入り口に板が嵌め込まれ外から釘を打って固定するためである。屋形の四方に建つ鳥居は、「発心門」「修行門」「菩薩門」「涅槃門」の死出の四門・殯門(もがりもん)を表すとされる。渡海は北風が吹き出す旧暦11月に行われた。小舟は伴船にて沖に曳航され、綱切島近くで綱を切られた後、朽ちたり大波により沈むまで漂流し、沈没前に渡海者が餓死・衰弱死した事例も多かったと思われるが、その様を見たという記録は存在しない。ただし、沖縄には16世紀半ばに補陀洛渡海で漂着した日秀が、数々の寺を建立したという話が残されている。また16世紀後半、金光坊という僧が渡海に出たものの、途中で屋形から脱出して付近の島に上陸し、捕らえられて海に投げ込まれるという事件が起こった。江戸時代には住職などの遺体を渡海舟に載せて水葬することになったという。

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補陀洛山寺のすぐ右隣に熊野三所大神社が建っている。夫須美大神・家津美御子大神・速玉大神の三神を主祭神とし、大神社(おおみわやしろ)ともいう。熊野九十九王子のひとつである浜の宮王子の社跡に建つため、浜の宮大神社(はまのみやおおみわしろ)とも呼ばれる。古くから那智大社の末社で、『中右記』天仁2年(1109)10月27日条に「浜宮王子」と見える。国の重文に指定されている平安後期の神像三躯(大山祗命、天照大神、彦火火出見命)が伝来し、熊野三所権現が祀られていたが、時代により祭神は変化したとされる。熊野古道熊野三所大神社の手前で中辺路・大辺路・伊勢路が合流し、那智山那智大社へと向かうが、この境内に残されている振分石はその分岐点を示す石柱といわれる。浜の宮王子前にあった「渚の森」は、和歌にも歌われた名勝であったという。

「むらしぐれ いくしほ染めて わたつみの 渚の森の 色にいづらむ」(『続古今和歌集衣笠内大臣

本殿は三間社流造桧皮葺で、中世の形式を色濃く残した社殿である。棟札によると、慶安元年(1648)の再建とされる。

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社殿のすぐ左脇に摂社の三狐神が祀られている。境内にはほかにも摂社の丹敷戸畔命が祀られている。

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三狐神とは、食物を司る御食津神(みけつかみ、御狐神)であり、宇賀御魂神すなわち稲荷神の別名ともされる。丹敷戸畔とは、『日本書紀』における神武東征の折、熊野荒坂津で神武に誅された土豪の女酋長で、ここでは地主神として祀られている。  

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補陀洛山寺の境内には補陀洛を目指して舟出した、貞観10年(868)の慶龍上人から享保7年(1722)の宥照上人までの渡海者25人の名を刻んだ石碑がある。また、補陀洛山寺の裏山には、渡海上人の墓とともに平維盛、その妻平時子の墓といわれる供養塔があり、本堂裏手に裏山への道標がある。平維盛は、清盛の孫・重盛の子で、平家一門が都落ちした後に戦線を離脱、那智の沖で27歳にて入水自殺したとの話が『玉葉』に出ている。民俗学者五来重は、維盛の説話は高野聖熊野山伏の唱導により形成され、補陀洛渡海を平家公達の最期に結びつけたものという。

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那智勝浦の浜辺に面する宿からは、北西の方向、雲の湧く光ヶ峯左手の那智山那智の滝がかすかに認められた。手前の海岸あたりに補陀洛山寺がある。

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真北には浜の宮の防波堤が見え、那智湾の右手の沖合に金光坊島がわずかに認められる。

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さらに北東を眺めると、太平洋に突き出る宇久井半島の駒が崎が見え、手前に渡の島、その右手に岩が立つ弁天島がある。

2016-05-18 妙法山阿弥陀寺

[][]妙法山阿弥陀寺   20:51

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熊野那智大社から旧那智山スカイラインを車で10分ほど上ったところに妙法山阿弥陀寺がある。那智三峯の一つ妙法山(749m)の山頂近くに建つ寺で、駐車場前から眼下に熊野灘の大海原が望まれる。真下左手には那智湾と那智勝浦リアス式海岸が、その右手には太地の半島が見える。

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鬱蒼と茂る杉並木に囲われた苔むした参道の石段は、かなりすり減っていて長い歴史を感じさせる。

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急な石段を上りきると開けた境内が現れ、正面に南面する山門が見えてくる。お寺には珍しい鳥居門で、熊野大鳥居門と呼ばれる。

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開創は不詳だが寺伝では、大宝3年(702)唐の僧・蓮寂が法華三昧を修し、法華経を書写して山頂に埋経し、その上に釈迦如来を安置したのが今日の奥の院の基とされ、これを開創であるとする。近世紀州藩の編纂した『紀伊風土記』では、阿弥陀寺空海の開基であるとし、弘仁6年(815)に如法山を訪れ、釈迦如来を本尊として開創したとする。しかし、奈良時代の『日本霊異記』に、法華持経者の永興禅師と同行の禅師が熊野の山中で捨身行に臨み、骸骨のみの姿になっても、その舌のみは依然として生前同様に法華経を誦し続けていたと伝えているが、この山とは那智山中の妙法山であるという。その後、弘安3年(1280)に鷲峰山興国寺開山の法燈国師覚心の再興により浄土信仰の今日の阿弥陀寺が確立されただけでなく、念仏と納骨の山としたとみられており、資料上、阿弥陀寺の存在が確実なのはこの時期からである。明治初期に一時期衰えたが、明治17年(1884)に再興された際に真言宗寺院に転じた。昭和56年(1981)原因不明の火災により本堂が焼失し、多くの寺宝が失われた。現存する本堂は、昭和59年に再建されたものである。 

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阿弥陀寺には本尊(阿弥陀如来)のご詠歌が伝えられており、本堂正面にその額が掲げられている。

熊野路をものうきたびとおもふなよ 死出の山路で思ひしらせむ」「空海のおしへのみちはひとつかね 弥陀の浄土へ共に南無阿ミ」

熊野が巡礼地として確立する中世において、熊野阿弥陀如来の顕現する地、すなわち来世・浄土と考えられており、そこへの巡礼は象徴的な意味での死と再生であった。

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昭和56年の火災では、運慶・快慶とも伝わる慶派作の本尊の阿弥陀如来も焼失した。現存の阿弥陀如来は、旧仏像の写真をもとに京都の大仏師・松久宗琳の復元によるという。本尊の他に不動明王、千手観音菩薩、役行者なども安置されている。

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阿弥陀寺は女人禁制の高野山の代わりに女性が多く参詣したので、女人高野とも呼ばれた。ここはまた、熊野における特異な葬送民俗伝承との関係が深い。熊野では、死者の枕元に供える3合の枕飯が炊き上がるまでの間、死者の霊魂は枕元に手向けられた樒(しきみ)の葉を一本手にして妙法山に参詣し鐘を撞くとの伝承から、阿弥陀寺の鐘は「亡者の一つ鐘」と呼ばれ、「人なきに鳴る」と称される。霊魂は樒を山頂の奥の院・浄土堂に供え、それから大雲取越えの山路を歩いていく。これを「亡者の熊野詣で」という。奥の院周辺は樒が多く、樒山とも呼ばれる。この一つ鐘の話は、鎌倉時代の『元享釈書』に初出し、現世安穏と先祖菩提のために生前に一度は撞いておくべきと勧められている。現存する鐘は、延宝6年(1678)の鋳造と伝えられる。

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本堂の左手に奥の院に向かう参道があり、本堂を右手に見ながら進むとすぐ右手奥に三宝荒神堂が建っている。

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妙法山の鎮守である三宝荒神を祀っている。木造の荒神像は珍しく、三面六臂の憤怒尊で、紀州徳川家初代藩主徳川頼宣が勧請した。開帳は11月頃という。

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三宝荒神堂のすぐ先に「人民開放戦士の碑」がある。石碑の左下の趣意書には、「明治の末以来将来にわたる、当熊野地方の先覚者達の氏名を記した玉石を納める。時の権力の不当な迫害に屈せず、人民の正義と真理を求め、命がけで努力した人々です」とある。右下の苔むした石は、荒畑寒村の歌碑である。「人のため 世のため立ちて 戦いて 仆れし友 豈忘れやも」

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参道を左に進むと、比較的新しい子安地蔵堂に行き当たる。

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子安地蔵堂の右手は、火生三昧(かしょうざんまい)跡という。平安時代の法華持経者・応照が火生三昧(焼身による捨身行)を行った遺構と伝えられる。応照は、全ての衆生の罪を我が身に負って、その罪ごと身体を焼尽することを志し、食を絶って心身を浄化した末、薪の上に座し、紙の衣をまとって自ら薪に火を放った。身体が燃え尽きるまで晴朗な読経の声が止むことはなかったと、平安時代末の『本朝法華験記』に記されている。

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火生三昧跡から右手に奥の院への参道が山道となって上っているのだが、下手に納骨髪堂と大師堂が並び建っている。平安時代末から鎌倉時代にかけて盛んに行われた俗に「蟻の熊野詣」といわれる熊野参詣の旅人達が、阿弥陀の極楽浄土へ行けることを願って毛髪を納骨髪堂に納めた。その後、室町時代から現在に至るまで、亡き人の菩提を弔うために遺髪や遺骨を納めている。大師堂は永正6年(1507)の建立で、弘法大師42歳の姿と伝わる等身大の坐像(厄除け大師)が祀られている。年2回ほど開帳される。

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釈迦像が立っている入口から約800m登ると奥の院に着くが、時間の都合で諦めた。奥の院は妙法山(749m)の山頂に建つ浄土堂で、釈迦如来が祀られている。開創とされる蓮寂上人が妙法蓮華経を書き写して土中に埋め、その上に立った木をそのまま彫って釈迦如来像を安置したので、山の名前も山号も妙法山となったと伝わる。

2016-05-17 三重塔、那智の滝

[][][]三重塔、那智の滝 21:27

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三重塔に向かって進むと、ミツマタの花が満開に咲いていた。

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ジンチョウゲ科に属すミツマタ(Edgeworthia chrysantha)は、中国中南部ヒマラヤ地方が原産地とされる落葉低木で、3月から4月にかけて、三つ又に分かれた枝先に黄色い花を咲かせる。三椏、三又、三枝とも表記する。古代には「サキクサ(三枝)の」は「三つ」に係る枕言葉だったが、春一番に咲くゆえに「先草(さきくさ)」とも、縁起の良い吉兆の草のゆえに「幸草(さきくさ)」ともいわれる。万葉集には次の歌がある。

「春さればまづ三枝(さきくさ)の幸(さき)くあれば 後にも逢はむ な恋ひそ吾妹(わぎも)」(10巻-1895)

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一段下の境内には尊勝院や宿坊があるが、三重塔はさらに一段下にある。西に回り込んで見上げる三重塔に上がれば、そこから那智の滝を望むことができる。この塔は天正9年(1581)に戦国領主や社家の対立に基づく戦乱により焼失したものを、昭和47年(1972)400年ぶりに再建したものである。高さは25m、辺の長さ12m、各層は格調高い格天井と板壁画で飾られている。

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展望台を兼ねた三層目に上ると、飛瀧(ひろう)権現の本地仏である千手観音菩薩像が安置されている。

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那智大滝は落差133mに達し、総合落差では日本12位だが、一段の滝としては落差日本一位である。華厳の滝袋田の滝と共に日本三名瀑に数えられ、国の名勝に指定されている。

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先ほどの展望台からも那智の滝の全貌が見渡せたが、この三重塔からは高いところから滝つぼまではっきり見える。

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二層目には尼子十勇士、山中鹿之介の持仏堂の本尊であった阿弥陀如来像が安置されている。

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一層目からはちょうど咲き始めた桜の花と那智の滝を一緒に収めることができる。

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滝口の上に注連縄が貼られているが、この滝は滝壺近くにある飛瀧神社の御神体とされている。御神体が滝そのものなので拝殿も本殿もなく飛瀧権現と呼ばれていたが、明治の神仏分離以降、熊野那智大社の別宮として飛瀧神社となった。那智山の郷社であったが、昭和12年(1937)に熊野那智大社の摂社になったという。祭神は大己貴命を祀っている。

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一層目には飛瀧権現の不動堂に祀られていた不動明王像が安置されている。

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三重塔の奥から那智の滝の滝壺に近い飛瀧神社へ下って行く道もあるが、時間の都合で元来た那智大社の表参道に戻る。境内からは東南に那智の山並みが見える。那智滝の東に広がる社有林は、那智原始林と呼ばれ、国の天然記念物に指定されている。イスノキ、シイ、ウラジロガシなど暖地性の広葉樹を中心に温帯性広葉樹針葉樹もあり、本州屈指の混交林となっている。群生する植物は150種以上ともいわれ、ナゴラン、キイセンニンソウなど12種の希少な植物もある。

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信徒会館の左手に忘れられたように山門が建っている。昔、大門坂の石畳を上りきったところにあった大門を、ここに移設して青岸渡寺の山門にしたという。現在の門は昭和8年(1933)に再建されたものである。ここに安置されている高さ3mを超える鎌倉時代後期作の金剛力士像は、湛慶の作ともいわれる。

2016-05-16 青岸渡寺

[][]青岸渡寺 20:39

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那智大社のすぐ右隣に青岸渡寺がある。天台宗の寺院で山号は那智山熊野三山の信仰が都の皇族・貴族に広まったのは平安時代中期以降であるが、那智大社及び青岸渡寺の創建時期は不詳である。伝承では仁徳天皇の時代(4世紀)、天竺から渡来した裸形上人の開基とされ、同上人が那智滝の滝壺で得た金製の如意輪観音を本尊として安置したという。後に推古天皇の勅願寺となり、生仏聖が伽藍を建立したという。中世から近世にかけて神仏習合の修験道場であり、如意輪観音堂と称された堂舎は、社家や那智一山の造営・修造を担う本願の拠点だった。明治になり神仏習合が廃された時、那智大社では如意輪堂が破却を免れ、後に青岸渡寺として復興した。寺号は秀吉が大政所の菩提を弔うために建てた高野山の青厳寺に由来するといわれる。

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青岸渡寺は那智大社のすぐ右隣にあるので、那智大社の本殿をこちらの境内からも垣間見ることができる。青岸渡寺には、一千日(3年間)の滝篭りをされた花山法皇が永延2年(988)に御幸され、西国三十三所第一番札所として定められたとされる。その頃から「蟻の熊野詣で」といわれるほど熊野信仰が盛んになった。

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青岸渡寺のご詠歌は「補陀落や岸打つ波は三熊野の 那智のお山にひびく滝つ瀬」という。

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那智山」の扁額のすぐ下にわずかに見える大きな鰐口は、天正18年(1590)豊臣秀吉の命により本堂が再建された際に、秀吉より寄進された日本一大鰐口で、直径1.4m、重量は450kgあり、その再興の趣旨が刻まれている。本尊の如意輪観世音菩薩は秘仏で、2月の節分会に開扉される。普段は代わりにお前立ちが安置されている。

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本堂は桁行九間、梁間五間、一重入母屋造、向拝一間、屋根は柿葺、高さは18mで、国の重文に指定されている。

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本堂の右手には水子堂が建ち、その右手奥には鐘楼が建っている。鐘楼の手前には宝篋印塔が安置されている。鐘楼の石段左手に咲く椿の花は、赤、白、ピンク、絞りと色鮮やかで、五色椿とも呼ばれる。

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この宝篋印塔は流紋岩製で、元亨2年(1322)に建立され、高さは4.3m。国の重文に指定されている。

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宝篋印塔のすぐ右手の鐘楼の梵鐘は、元亨4年(1324)に鋳造されたものである。

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大黒天堂には、大黒天を中心に七福神も安置されていて、如法堂とも呼ばれる。

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本尊の大黒天は伝教大師の作と伝えられ、高さ1.3mの「蓮華の葉上大黒像」というが、よく見分けられなかった。

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大黒天堂手前の境内は南側が開け、展望台ともなっていて太平洋まで見渡せる。東の山沿いには那智大滝が見える。左手には青岸渡寺の三重塔も見え、滝と一緒の構図が面白い。三重塔の手前の建物は、那智最古の家柄を誇った青岸渡寺の宿坊・尊勝院であり、開山の裸形上人像と仏頂如来像を安置しているのだが、数年前に閉院されて今は宿泊できないようだ。

2016-05-13 熊野那智大社

[][]熊野那智大社 21:08

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熊野那智大社へ行くには、石畳が美しい苔むした大門坂の熊野古道をゆっくり歩いて登っていくこともできるが、車でバスターミナル脇駐車場まで行っても、やはり石段の参道を上らなければならない。

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土産物屋が立ち並ぶ表参道を10分ほど上っていくと、左手に大社経営の宿泊所・龍泉閣の庭園がある。百十余度も行われた熊野行幸の際、上皇や法皇の宿泊所となった実方院(実報院)の跡である。実方院はかつて、那智山の社僧・御師の僧院・僧坊として大勢力を誇っていた。

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右手のオウバイが咲き乱れる石垣の上には、青岸渡寺の建物が見えてくる。

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青岸渡寺のすぐ右下には、観世音菩薩が祀られている。熊野三山は神仏習合の強い修験道場でもあった。明治初期の廃仏毀釈で本宮大社・速玉大社では仏堂全てが廃されたが、那智大社では如意輪堂が破却を免れ、のちに青岸渡寺として復興した。そのため熊野三山中最も神仏習合の名残を残している。ただ、この観音堂が昔からあったものかはわからない。

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やがて表参道から青岸渡寺への道が右に分かれ、まっすぐ進むと左手に熊野那智大社那智山熊野権現の朱色が眩しい一の鳥居が構えている。

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石段の参道を上り始めるとすぐ右手に、小さな摂社の児宮が祀られている。九十九王子の一社で、熊野詣での途上、奉幣や読経などの儀礼を行う場所とされる。

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最後の石段を登りつめると、二の鳥居が近づいてくる。そこをくぐれば社殿が立ち並ぶ広い境内となる。

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熊野三山の一つである熊野那智大社は、熊野夫須美大神を主祭神とし、かつては那智山熊野権現、那智権現、那智神社、熊野夫須美神社、熊野那智神社などと称した。創祀は不詳だが、元来、山中の那智滝神聖視する原始信仰に始まるため、社殿が創建されたのは他の二社よりも後であり、熊野三山との記述は永保3年(1083)の『熊野本宮別当三綱大衆等解』が最も早く、三山共通の三社権現を祀っていたという。

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平安時代後期には十二所権現を祀るようになるが、那智だけは別格の滝宮を加えて十三社権現と称した。大きな拝殿の後ろには、第一殿の滝宮から第五殿の若宮までの本殿が構えている。

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拝殿の左手には、本殿の第六殿とされる八社殿が建っていて、その左手に並んで御縣彦(みあがたひこ)神社が建っている。八社殿は八間社流造で、祭神は禅児宮が忍穂耳尊、聖宮が瓊々杵尊、児宮が彦火火出見尊、子守宮が鵜葺草葺不合命、一万宮・十万宮が国狭槌尊・豊斟淳尊、米持金剛が泥土煮尊、飛行夜叉が大戸道尊、勧請十五所が面足尊を祀っている。

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御縣彦神社は、一間社流造で、祭神は建角身命、別名・賀茂建角身命を祀っている。神武東征の際、道案内をしたことから八咫烏と同一視されている。鈴門に掲げられた幔幕には「ナギの小枝をくわえた2羽の八咫烏」が描かれている。

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御縣彦神社の左手前では、八咫烏像を間近に見ることができる。古来より三本足のカラスとして描かれるが、『記紀』には八咫烏が三本足とは記述されていない。古代中国では三足烏の伝承は広く見かけられ、平安時代中期に同一視されて八咫烏が三本足になったとされる。

八咫烏像の左手には宝物殿がある。日本三大経塚の一つといわれる那智経塚から出土の「御正体」「御懸仏」「本地仏」「経筒」などの埋納品、「那智山参詣宮曼荼羅」「熊野権現曼荼羅」「那智大社文書」等の古文書絵画類や旧神像・仏像・古鏡等の工芸類など、貴重な資料がたくさん陳列されていて興味深い。

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拝殿の右手には、平重盛の手植えと伝わる樹齢約800年、樹高27mの大楠がそびえ立っている。裏に回ると、根元の胴内をくぐり抜けられるようになっている。

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大楠を回り込むと、拝殿後ろに並び建つ本殿の第一殿から第五殿を、左手の瑞垣越しに垣間見ることができる。祭神は一番右の第一殿滝宮が大己貴命(飛瀧権現)、第二殿證証殿が家津御子大神・国常立尊、第三殿中御前が御子速玉大神、第四殿西御前が熊野夫須美大神、第五殿若宮が天照大神を祀っている。第一殿から第六殿までは、天正9年(1581)の堀内氏善との戦いで焼失した後の再建で、嘉永7年(1854)までに竣工している。各社殿の屋根はいずれも桧皮葺。第一殿から第五殿までの本殿は熊野造と呼ばれ、切妻造妻入りの社殿の正面に庇を設け、四方に縁を巡らした形式で、正面は蔀とし、簾を釣って鏡を掛けている。第四殿のみやや規模が大きい。これら六殿と御縣彦神社、鈴門及び瑞垣が国の重文に指定されている。

2016-05-12 橋杭岩、太地の鯨

[][][]橋杭岩、太地の鯨 21:14

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串本町紀伊大島に面した海岸に、橋杭岩という奇石群があり、国の天然記念物に指定されている。海岸から南西方面へ大小約40の岩が、約850mにわたって連続してそそり立ち、橋の杭のように見えることから橋杭岩と呼ばれる。あまりにも横に長く連なっているので、近づくと一枚の写真には収まらないと思い、堤防が邪魔しているが手前の橋杭海水浴場から一枚撮っておいた。

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道の駅くしもと橋杭岩」の駐車場の目の前に、やはり橋杭岩はずらっといくつも並んでいた。ちょうど引き潮なのだろうか、かなり砂地が干上がっているように見えた。橋杭岩を通して見る朝日はとりわけ美しいと評判で、日本の朝日百選の認定も受けている。毎年秋にはライトアップも催され、多くのカメラマンが押し寄せる。橋杭岩は、約1500万年前の火成活動により、泥炭層の間に流紋岩が貫入し、貫入後に差別侵食により柔らかい泥炭部が早く侵食され、硬い石英斑岩が杭状に残されたものである。

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橋杭岩には次のような伝説がある。昔、弘法大師が天邪鬼と串本から沖合の島まで、一晩で橋を架けることができるか否かの賭けをした。弘法大師が橋の杭をほとんど作り終えたところで、天邪鬼はこのままでは賭けに負けてしまうと思い、ニワトリの鳴き真似をして弘法大師にもう朝が来たと勘違いさせた。弘法大師は諦めて作りかけでその場を去ったため、橋の杭のみが残ったという。

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紀伊大島の右手には串本大橋が見え、その右手には串本港がある。この辺りの串本湾・串本港は、古来より暴風雨を避けて入港する避難港、風待港として、多くの菱垣廻船や樽廻船で賑わっていた。アメリカのペリーが浦賀に入港する62年前の寛政3年(1791)、アメリカの商船2隻が串本に入港している。また、慶応2年(1866)イギリス軍艦セル・ヘン号が、改税約書(江戸協約)による灯台建設場所の調査のために串本の入江にやってきた。さらに、明治19年(1886)には、ノルマントン号遭難時に生き残った数少ない乗組員のボートが、串本の砂浜に漂着している。

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橋杭岩を間近に見ながら、連なる岩に沿って半ばあたりまで遊びながら歩いている若者も多く見かけられた。遊ぶには干潮時がよいのだろうが、写真に撮るのは満潮時のほうが美しいといわれる。

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昼食は太地の鯨を食べたいと思い、評判の「くじら家」に寄ったがあまりの混雑に「いさなの宿、白鯨」のレストラン「漁火」に変更した。いさなとは、鯨の古名で、万葉では海にかかる枕詞として使われる。太地は昔から捕鯨で知られ、日本の古式捕鯨発祥の地といわれる。慶長11年(1606)和田一族の和田頼元が太地浦を拠点として組織的な捕鯨を行ったのがはじまりとされる。その後、延宝3年(1675)に三代目頼治が鯨を網に追い込んでとる網捕法(網掛突捕法)を発明し、大きな鯨方を形成した(最盛期は千人という)。窓から外を眺めると、昔から変わらないだろうと思われる太地湾が見える。 

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メニューには、鯨の肉の部位別の説明書きがある。鯨のミニコースと鯨のお造りを頼む。フルコースだと小鉢が増え、お造りが尾の身と鹿の子にかわり、鯨のたたきも加わる。

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こちらが鯨の赤身と皮のお造りの単品。

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こちらはミニコースの尾羽毛の小鉢、赤身と皮のお造り、ベーコンとさえずりの洋菜、竜田揚げ、本皮の赤出汁である。

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ミニコースには、さらにハリハリ鍋がつく。竜田揚げや赤身の刺身以外は珍しく、鯨料理の本場で美味しくいただき満足した。

2016-05-10 樫野埼、トルコ記念館

[][]樫野埼、トルコ記念館 21:47

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鯨の尾のような形をした陸繋島の潮岬の東側に紀伊大島が横たわり、串本本土とつなぐ串本大橋が平成11年に開通した。290mのアーチ橋と、苗我島に架かる386mのループ橋からなる。民謡「串本節」で知られる紀伊大島は、東西約8km、南北約2.5km、周囲約26kmで、島内にはウバメガシやシイ、ツバキなどが生い茂る。島の北西部には、平成14年に世界で初めて本マグロの完全養殖に成功した、近大水産研究所分室がある。

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紀伊大島を東へ縦断して樫野埼灯台へ向かう途中、遊歩道「エルトゥールル通り」の右側にトルコ記念館が建っている。明治23年(1890)9月16日の夜、オスマン帝国皇帝の特使を乗せた軍艦エルトゥールル号は、東京からの帰路に樫野埼灯台近くで座礁し、587人の犠牲者を出した。地元大島の住民は遭難者に対して温かい対応をした。生存者は救助された人を含め69名。その悲劇を機に犠牲者の慰霊を通じて串本町トルコ国との交流が始まり、昭和49年(1974)に遭難現場近くに記念館が建てられた。記念館右手前には、日本赤十字社「平時国際活動発祥の地」記念のモニュメントが設置されている。

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館内には、エルトゥールル号の模型や乗員の遺品のほか、トルコ政府との友好の資料や寄贈された品々などが展示されている。2階の展望台からはエルトゥールル号が座礁した地点を確認することができる。

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トルコ記念館の脇には、救助に当たった漁民の船などが展示されている。これは2015年11月に公開された「海難1890」の映画のセットで、映画は日本とトルコの友好125周年を記念して作られたという。

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トルコ軍艦遭難の翌明治24年に、和歌山県知事ほか有志により墓碑と追悼碑が建立され、追悼祭が行われた。後に、昭和天皇の樫野埼行幸(昭4)を聞いたトルコ共和国初代大統領のケマル・アタテュルクが新しい慰霊碑を建立することを決定し、大島村民が746屬旅場を提供し、昭和12年に立派な慰霊碑が除幕された。

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ここでは長い間、串本町と在日本トルコ大使館の共催による慰霊祭が5年ごとに行われている。2008年に訪日していたアブドゥラー・ギュル大統領は、トルコ大統領として初めて遭難慰霊碑を訪れ、追悼式典に参加した。また、事件から125年となった2015年には、トルコ海軍の軍艦が下関・串本東京の3港を訪れ、串本町でおこなわれた追悼式典にも参加した。

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遭難慰霊碑の先、樫野埼灯台手前の広場には、「ムスタファ・ケマル・アタテュルク騎馬像」が勇姿を見せている。日本トルコ友好120周年を記念して、駐日トルコ共和国大使館より串本町に寄贈されたものである。

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樫野埼灯台は、「日本の灯台の父」と呼ばれるリチャード・ヘンリー・ブラントンが日本で最初に設計し、明治3年(1870)に初点灯した日本最初の石造灯台である。日本最初の回転式閃光灯台でもあり、その初期の建物が現存している。

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白亜の無人灯台で、灯台内部には入れないが、外部階段から灯台に付設した展望台に上がることができ、南紀の素晴らしい景観が一望できる。灯台の周囲には、明治初期に灯台技師のイギリス人が植えた水仙が群れ咲いている。潮岬と同じく、アメリカイギリスフランスオランダの4国と結んだ改税約書(江戸協約)に基づき国内に建設された8つの灯台の一つであり、観音埼や野島埼を含むこれらを条約灯台とも呼ぶ。

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展望台から北を眺めると、右端には太地の梶取崎、熊野古道大辺路の那智勝浦熊野の山並みが見える。

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よく見れば、那智の滝のすぐ奥の烏帽子山(910m)や雲取越えの大雲取山(966m)に連なる山並みが確認できる。

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南西を眺めると、トルコ記念館やその先の海金剛が見える。海金剛は、高さ40mもの険しい断崖絶壁が連なる豪快な岩礁地帯で、近くの展望台からの光景は壮観そのものである。

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トルコ記念館の右手には、エルトゥールル号が遭難したと思われる岩礁が集まって、豪快な波しぶきに囲まれている。

2016-05-09 潮岬、望楼の芝

[][]潮岬、望楼の芝 20:43

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串本町太平洋に面する潮岬は陸繋島であり、本州とは串本市街が位置する砂州で結ばれている。潮岬の先端は、約10万平方メートルの大芝生が広がる。昔、海軍の望楼(物見櫓)があったところで、望楼の芝と呼ばれる。ここを見下ろすように潮岬観光タワーが建っている。海抜100mのタワーからは、360度の展望を楽しむことができ、眼下には潮岬灯台と望楼の芝、遥か彼方には丸みを帯びた太平洋の水平線、晴れた日には遠く那智山の山並みも見えるという。

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潮岬は本州の最南端に位置するので、展望台の手前には「本州最南端」の碑がある。

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展望台から潮岬の最先端を眺めると、大きな岩場のクレ崎が突き出ているのが見える。展望台までの望楼の芝は、標高60〜80mの平坦な隆起海蝕台地で、展望台下の海岸部は40mを越す海食崖となっている。大きな岩場のクレ崎は、磯釣りのメッカにもなっている。

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クレ崎の右手(西)には荒々しい岩場が続き、その崎には潮岬の灯台があるのだが、木々に隠れて見えない。潮岬灯台は、慶応2年(1866)イギリスなど4カ国と締結した改税約書(江戸協約)に基づき国内に建設された8つの灯台の一つで、明治6年(1873)に本点灯され、5年後に石造に改築された。

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黒潮が洗う串本町の沿岸地域は、世界最北限のテーブル珊瑚をはじめ、多種多様のサンゴや魚など美しい海中景観をなしている。それにしても潮岬にはひっきりなしに大波が打ち寄せ、大きな波しぶきが上がる。ここは日本有数の台風銀座であり、台風の位置を表す指標にされることが多い。

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クレ崎の左手(東)には岩礁が海に点在して荒々しい磯浜となっている。その向こうには浪ノ浦を囲んで南に伸びるコマキノ鼻やマキ崎が見える。

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展望台の周りにも遊歩道があり、もう一つの本州最南端の石碑が見つかった。

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展望台の手前には、2014年7月に開館した「潮風の休憩所」があり、潮岬の特徴ある台地(ジオサイト)や自然、ラムサール条約湿地に登録されている串本の海などを紹介している。

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潮風の休憩所の入口左手には、下村海南(宏)の胸像や歌碑などが移設されている。和歌山県出身の下村宏は、NHK会長を経て、終戦時の鈴木貫太郎内閣の国務大臣・情報局総裁を務めた。玉音放送を企画・録音した人物として知られる。

佐々木信綱門下の歌人でもある。「春寒み 野飼の牛も見えなくに 潮の岬は 雨けむらへり」

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館内では、白蝶貝などの貝類標本や、木曜島での白蝶貝採取関連資料も数多く展示されている。

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串本町出身者らが明治から昭和にかけ、オーストラリア北部の木曜島を中心に行っていた白蝶貝採取用の潜水ヘルメットや、白蝶貝でできた装飾品なども展示されている。

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太平洋に面した展望室には、古座組捕鯨絵図が展示され、様々な捕鯨船の一覧、古座浦鯨方六鯨之図なども見ることができ、昔の捕鯨の様子がわかるようになっている。潮岬沖は鯨が多く接近するところで、むかしから鯨漁が盛んであった。明治以降は、大島港を基地にして近代捕鯨が昭和37年(1962)まで行われていた。今は観光用のホエール・ウォッチングの船が、串本や大島から出ている。

2016-05-06 三段壁、千畳敷、円月島

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白浜町にはいくつか自然景勝地があるが、断崖絶壁の名勝と知られるのが三段壁である。その入口左手に牟婁山文殊堂、徳風地蔵尊、西国三十三ヶ所霊場がある。文殊堂は昭和初期、上富田町で生まれた魯山和尚が中国にある文殊菩薩の総本山五台山から授かり、白浜町千畳敷に建立、その後、昭和30年に現在の三段壁に移された。老朽化が進んだため、昨秋、新しく修復されたばかりである。

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紀伊半島南部西海岸は、南紀白浜温泉「崎の湯」の1.8km南の海に直立する、長さ2km、高さ50〜60mに及ぶ柱状節理の大岸壁で、断崖には展望台が設けられ、雄大な南紀の海景を見ることができる。こちらが北壁である。

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三段壁の名称の由来は、魚の群れ(鯨との説もある)を見つけるための監視場(見壇)があり、これが転じて見段壁から三段壁になったという説が有力である。近年は減少しているとはいえ、自殺の名所としても知られる。こちらが南壁である。

今秋、オーストリアの飲料会社・レッドブル主催のハイダイビング(高飛び込み)世界選手権が日本で初めて開催されることが決まった。地元では、「自殺の名所という三段壁のイメージを変える好機」と歓迎している。

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三段壁には、平安時代に源平合戦で知られる熊野水軍が船を隠したという伝説の洞窟がある。地上から地下36mの洞窟へエレベーターで降れば、再現された番所小屋、砕ける波しぶき、対岸にある潮吹き岩などを見学できる。

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三段壁の北西、約1kmにある景勝海岸は、千畳敷と呼ばれ、国の名勝に指定されている。広さはおよそ4ヘクタールで、畳を千枚敷けるほどの広さが名前の由来である。

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千畳敷は、新第三紀層の砂岩からなる、太平洋に面したスロープ状の広大な岩盤である。砂岩は非常に柔らかいため、打ち寄せる波の侵食を受け、複雑な地形を形成している。西に伸び出た瀬戸崎の先端にあるため、広大な太平洋へ夕日が沈む光景は、「日本の夕陽百選」にも選ばれている。

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三段壁から千畳敷まで遊歩道があり、徒歩20分ほどで歩ける。

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白浜温泉のある白良浜は、石英の砂からなる白い浜辺で、白浜という地名の由来となった。近畿地方屈指の海水浴場でもあり、例年5月3日に行われる海開きは、本州で最も早い。海水浴シーズンには60万人を超え、年間約100万人が訪れる白浜温泉だが、砂浜の砂の流出が止まらないため、かなり前からオーストラリア産の7万立米以上の砂が投入されて砂浜が維持されているのが実情である。

白良浜のすぐ南に白浜温泉の発祥地である湯崎温泉がある。奈良時代には牟婁の温湯(ゆ)、紀温湯、武漏温泉などと呼ばれた。658年、この地に湯治中の斉明天皇・中大兄皇子のもとに、謀反の疑いにより捕らえられ、護送されてきた有間皇子が、中大兄皇子により厳しい裁きを受けた地としても有名である。天皇の行宮跡は、崎の湯背後の御殿跡と呼ばれ、御幸芝の碑が立っている。

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白良浜の北西約2kmの臨海浦に浮かぶ高嶋は、円月島の通称で名高く、国の名勝に指定されている。春分・秋分の時期には、中心部の穴を通して夕陽が見えるなど、夕景の名所としても知られる。眼鏡岩と呼ばれることもある。

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島の大きさは南北130m、東西35m、高さ25m。島の中央に海蝕による直径約9mの円月形の穴が空いていることが通称の由来となった。1887年頃に来遊した津田正臣が詠んだ五景詩のうちの「円月島」に始まり、1889年発行の「紀州西牟婁瀬戸鉛山温泉図」には、絵画や漢詩とともに円月島の名が登場する。さらに1908年の「紀州田辺湯崎温泉案内」により、円月島の名は広く知られるようになったといわれる。

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円月島の近くには京都大学水族館南方熊楠記念館がある。南方熊楠は、和歌山城下で生まれ、アメリカイギリスなどで遊学して帰国した後、和歌山県田辺に定住し、生涯在野で過ごした。博物学者、生物学者、民俗学者としても知られ、とりわけ粘菌の研究で有名であり、新種70種を発見している。『十二支考』、『南方随筆』や全集が刊行されている。

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円月島を眺める海岸で、動物の顔に見える奇妙な岩を見つけた。カエル岩と呼ばれるそうだが、小さな鯨がニコッと笑っているように見えた。