半坪ビオトープの日記

阿須賀神社


翌朝早く、新宮市内の速玉大社に行く前に、熊野発祥の地ともいわれる阿須賀(あすか)神社に立ち寄った。高さ48mの蓬莱山の南麓に鎮座するが、蓬莱山は元来、熊野川河口にある小さな島で、古代より神の降臨する神奈備型の霊山として崇拝されてきた。

社伝によれば第五代孝昭天皇の代(紀元前423年)に創建されたというが、古文書が焼失しているため不詳である。古伝によると、熊野大神はまず神倉山に降臨し、次に阿須賀の森に遷り、熊野大神のうち家津美御子はさらに貴祢谷に遷ったが、結・速玉の二神はそのまま阿須賀の森に留まった。第十代崇神天皇の御代に家津美御子はさらに熊野川上流の音無の里(本宮)に遷り、結・速玉は第十二代景行天皇の御代に今の新宮に遷座したとされ、阿須賀神社が本宮・新宮より古いという。嘉永7年(1854)徳川家定紀伊国主により社殿が再建されたが、昭和20年の空襲により焼失、その後、昭和51年(1976)に再建されている。拝殿は木造銅板葺入母屋造であり、本殿は木造銅板葺流造である。

祭神は事解男命(ことさがおのみこと)及び熊野速玉大神・熊野夫須美大神・家津美御子大神を祀り、配神として建角美神(たけつねのかみ)と黄泉道守神(よもつみちぬのかみ)を祀る。平安時代熊野権現の本地が確立してからは、大威徳明王本地仏として祀った。平安時代後期から12世紀前半までの中世熊野参詣では、阿須賀神社に参詣することが常であったとみられる。『中右記』の天仁2年(1109)10月27日条に「参阿須賀王子奉幣」と記され、熊野九十九王子の王子社としての扱いを受けていたことがわかる。『紀伊風土記』によれば、近世の阿須賀神社には並宮・拝殿・御供所・鐘楼堂・四脚門・鳥居・社僧行所などがあったという。古神宝類は、明徳元年(1390)足利義満が阿須賀神社の造替に際して奉納した工芸品類70余点全てが国宝に指定されているが、現在は京都国立博物館に所蔵されている。

社殿の右手には摂社の阿須賀稲荷神社が建っている。構造は木造銅板瓦葺造である。補陀洛山寺の脇にもあった三狐神(御狐神)と同じく、食物を司る宇賀御魂神すなわち稲荷神を祀っている。 

そのすぐ右手には、石造の徐福の宮が祀られている。古代中国からこの阿須賀に上陸したという徐福伝説では、蓬莱山の麓に住み着き、里人に農耕や捕鯨、造船、製紙などの技術を伝えたとされる。

拝殿の左手に回ると、子安の宮が祀られている。その右に子安石が安置され、さらに右手になんとか本殿を見ることができる。

これが子安石と呼ばれている石で、この付近の岩室から昭和34年(1959)平安時代から室町時代にかけての製作とされる御正体(みしょうたい)が400点以上出土した。さらに翌年、社殿裏側の蓬莱山経塚から、陶製経甕破片、経筒残片、和鏡、銅銭、貞治元年(1362)銘の銅板金具など200点余の遺物が発掘された。

境内左側に建つ新宮市立歴史民俗資料館には、蓬莱山経塚や阿須賀遺跡の出土品のほか、新宮城や熊野信仰に関する資料が展示されている。

境内左側資料館の手前では、弥生時代後期の竪穴住居跡が発掘され、阿須賀遺跡と呼ばれる。住居跡は円形3、隅丸方形1、方形6の合計10基、掘立柱建物跡4基が確認され、弥生式土器・土師器や管玉などの石製品も出土したため、大規模な集落が存在していたと推定されている。

須賀神社の社叢は、境内地後背の蓬莱山にある暖帯照葉樹林で、クス、ホルトノキ、シロダモ、アセビマンリョウなどが繁茂している。クスノキ科クロモジ属のテンダイウヤクも含め、新宮市の天然記念物に指定されている。

資料館の脇には「量り石」という石が置かれている。昔、距離を示す基点となった石で、江戸時代の「新宮里程地図」に「丹鶴城へ六丁八分」などと、この石からの距離が記されている。

同じく資料館の脇に、那智山への道標が横たわっていた。

歴史民俗資料館は館内撮影禁止なので、パンフの切り抜きを載せる。子安石近くの岩室から出土した鏡像・懸仏の御正体(みしょうたい)が400点以上出土したが、半数以上は本地仏大威徳明王で、そのほかは薬師如来阿弥陀如来など熊野信仰に関わる諸仏である。本地仏大威徳明王の懸仏が神社に奉納されることは、日本独特の神仏混合の姿を明示している。