半坪ビオトープの日記

2016-06-30 アイヌ民族博物館

[][][]アイヌ民族博物館 21:55

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園内中央右手にアイヌ民族博物館が建っている。ポロトコタンは、アイヌの文化遺産を保存公開するために1965年、白老市街地にあったアイヌ集落をポロト湖畔に移設・復元した野外博物館として出発したが、かつて北海道樺太千島列島東北地方北部に住んでいたアイヌ民族の文化所産を網羅する博物館として1984年ポロトコタン内にアイヌ民族博物館が開館した。

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チセ(家)をかたどった建物の中には、衣食住や生活様式などが分かりやすく展示されている。民族衣装のアットゥシは、オヒョウなどの木の内皮の繊維を織った衣服で、晴れ着の場合にはアイヌ文様がアップリケされていることが多い。

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生活用具では、チセの壁際によく見かけるシントコ(行器、ほかい)が目立つ。日本本土との交易で得た漆塗りの行器で、漆器類の中でも最も重要視され、その数が家の格を示すとされた。イオマンテやイチャルパ(先祖供養)、チセイノミ(新築祝い)など重要な儀礼の際はシントコを儀礼時の容器としてトノト(どぶろく)を醸造し、カムイに捧げた後に客人に振る舞った。

その上に掛けられているのは、男性が身につける儀礼具のイコロ(宝刀・飾太刀)で、さらにその上に飾られているのは、儀礼用のイカヨプ(矢筒)であり、彫り文様が装飾されている。

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アイヌの女性の身嗜みに欠かせないのがガラス玉であった。アイヌ語で「タマサイ」という首飾りは、正装時に身につけなくてはならず、大小様々なガラス玉が好まれた。ニンカリという耳飾りは主に女性が使ったが、男性も使うことがあったという。

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アイヌ最大の儀式といわれるイオマンテは、ヒグマなどの動物を殺してその魂であるカムイを神々の世界に送り返す祭りを指す。イオマンテ用に設えられたヌササン(幣場)の中心に、イナウで飾り付けた熊の頭骨を祭り、周囲に捧げものとしてのイナウや供物の鮭を捧げる。右手前にある漆器はトゥキ(杯)で、酒椀と天目台からなり、その上にイクスパイ(棒酒箸)を加えた三つ一組で儀式に用いられる。神や先祖にお神酒を捧げる時、イクスパイの箸先を酒杯につけ、祭壇に向けて垂らすと、一滴の酒が神の国では一樽になって届き、神々も人間たちと同じように酒を酌み交わすと考えられていた。

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神への祈りに使う木製の祭具としてイナウ(木幣)が知られる。本州以南のいわゆる「削り花」とよく似ている。北海道では一般にミズキやヤナギキハダなどを使い、病気祓いや魔除けにはタラノキ、センなどの棘のある木、エンジュやニワトコなどの臭気のある木も使われた。神への捧げ物となったり、神へ伝言を伝える機能を持ったりする。右上の削りかけがパラっとした木幣はキケパラセイナウと呼び、左上の削りかけを撚った木幣はキケチノイェイナウと呼ぶ。左下の小枝を持つ木幣はハシナウと呼ぶ。

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山の幸、山の動物を狩りする道具は主に弓矢である。左下の自動発射式の仕掛け弓はアマッポと呼ばれる。これを獣道に仕掛け、矢毒を塗って矢を発射させ、ヒグマやエゾシカを狩った。アマッポとは「置くもの」を意味する。矢毒はもちろんスルク(トリカブト)である。罠と同じように自動発射式なので、山菜採りなどで山中に入り事故に遭うことも多く、解毒法がないので誤射された場合は即座に矢の周辺の肉を抉り取る以外に対処法はなかった。

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川の幸、川漁では、サケ、マス、シシャモヤマメイワナ、フナなどが網や簗(やな)を使って捕獲されたが、サケやマス、イトウなど大型の魚は、マレク(マレプ)と呼ばれる鉤が用いられた。サケは特に群れをなしていることが多く、一度に大量に獲れる効率的な食料で、ほとんど乾燥・燻製にして保存された。

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アイヌの衣服は樹皮衣や草衣が主流で、江戸時代後半になると木綿衣が作られるようになった。左手前の織り方は最も原始的な方法であろう。右手のゴザ織は、ガマやフトイを材料とし、無地と文様入りの2種があった。文様入りのゴザは、イオマンテやチセノミ(新築祝い)などの儀礼に用いられた。チセ(家)は掘立式で、その屋根や壁を葺く材料はカヤやヨシが多く、ササや木の皮も使われた。20〜30年は住むことができたという。

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アイヌの子の名前は、生後すぐには付けられず、数年経って個性が現れてから命名された。赤ん坊の間はソン(糞)などと汚い名前で呼び、魔が近づくのを避けたという。

葬式は僧侶など専門職がいないので、すべて普通の男性によって死者の家で執り行われた。山から切り出された墓標の形は地方により異なるが、白老地方では男性用の墓標は槍先、女性用の墓標は縫い針の頭部をかたどったものという。

2016-06-28 白老ポロトコタン

[][][]白老ポロトコタン 21:30

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今年のGWは、北海道の道南地方を一周した。新千歳空港から一路南下し、まず初めに昔からアイヌ集落がある白老町のポロトコタンを訪れた。ポロトコタンとは、アイヌ語で「大きな湖の集落」という意味で、ポロト湖の湖畔にアイヌの伝統的家屋「チセ」が並び、伝統文化を通してアイヌ文化を体験できる。

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園内に入ってすぐ右手に、コタンコロクル(村長)の大きな像が立っている。高さ16m、右手にイナウ(御幣)を持って、訪れる人の旅の安全と幸福を祈っている。アイヌの村長は、支配者ではなく、祭主や調停などにあたる精神的なリーダーであった。

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園内中央右手に博物館があり、その先に茅葺の伝統的なチセが5棟並んでいる。右からサウンチセ(手前の家)、オトゥタヌチセ(次の家)、貸衣装をやっているポロチセ(大きい家)、マクンチセ(奥の家)、手工芸の実演が行われるポンチセ(小さい家)と呼ぶ。

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一番手前のサウンチセでは、アイヌ古式舞踊の話と踊りが行われる

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チセの中に入ると、舞台の中央左手にはアベオイ(囲炉裏)が設えられている。アイヌ民族は囲炉裏のアベフチカムイ(火の神)を中心に暮らしていて、アベオイは儀式をしたり暖をとったり煮炊きをしたりと、重要で神聖な場所であった。炉の内側にはイナウ(御幣)が立てられ、イヌンベサウシペ(削り台)の上では色々なものが削られる。炉棚の上では、サッチェブ(干し鮭)などの魚や肉の燻製が吊り下げられ、長い冬の間の保存食にされた。奥の壁際には交易で得た漆塗りのシントコ(行器、ほかい)、刀や着物などが飾られている。

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アイヌの人々の生活や風習、行事などの話の後、国の重要無形民俗文化財に指定されているアイヌ古式舞踊が次々と繰り広げられる。これはトンコリの伴奏によるトンコリへチリの踊り。

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これが樺太アイヌの伝統的楽器の五弦琴で、トンコリという。江戸時代には北海道宗谷地方やオホーツク海沿海地域でもほぼ同じ楽器が存在し「カー」と呼ばれて演奏されていた記録があるが、近代までに伝承は途絶え、現在判明している製作法や演奏法はすべて樺太アイヌのものである。楽器の形は人の身体を表し、ハーブ等と同じくフレットがなく弦の数しか音が出ないので、五弦だと五音だけである。

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これはアイヌの伝統楽器のムックリ。竹製の薄い板(弁)に紐が付いていて、その紐を引っ張ることで弁を振動させて音を出し、それを口腔に共鳴させる。口の形を変えることで共鳴音を変化させて音楽表現とするので、口琴とも呼ばれる。

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ようやく、唯一我々が知っているアイヌのわらべ歌「ピリカ」が手拍子で歌われる。「ピリカ・ピリカ、タント・シリ・ピリカ、イナン・クル・ピリカ、ヌンケ・クスネ」昔、雪村いずみが歌っていた。「ピリカ」とは好い・美しい・優れたという意。「今日はいい天気だ、どなたが好き、選んであげよ」となる。

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アイヌの古式舞踊は、独特な唄と掛け声に合わせ、膝と手拍子で素朴なリズムを取りながら淡々と踊る。子守唄などの女性だけの踊りや、男性も交えたイオマンテリムセ(熊の霊送りの踊り)などいくつか披露される。

2016-06-27 サザエの刺身とつぼ焼き

[]サザエの刺身とつぼ焼き 20:58

サザエが一山(6個)で安く出回っていたので、刺身とつぼ焼きを試してみた。

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 サザエはよく洗って、刺身用とつぼ焼き用に分ける。

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◆〇豹藩僂呂靴辰り握って、フタの端からナイフを刺して少し引き出す。身にフォークを刺して、内臓がちぎれないようにくるっと回転させながら、身と内臓を取り出す。

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 身と内臓と赤い紐(サザエの口)に切り分ける。赤い紐は捨てる。

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ぁ,弔楙討用は魚焼きグリルに並べ、酒と醤油(1:1)を入れる。

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ァ|羃个10分ほど焼く。途中でぶくぶくと泡が出てきたら、好みによりバター少量を加える。

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Α‘眤 粉痢砲蓮⊆髻Δ澆蠅鵝醤油(各、適量)で煮付ける。

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* サザエは、刺身・つぼ焼き・肝の煮付けと3通りの味が楽しめるので、酒の肴にうってつけである。

2016-06-26 平貝と尻高

[]平貝と尻高 20:45

刺身用の大きな平貝に興味を感じて買い求めてしまった。後日、尻高(しったか)の塩茹でも試してみた。

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 (審の貝柱と貝の間に包丁を入れて、剥がすように切り離す。

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◆ヽ柱を丁寧に切り離し、臓物は捨てる。貝ひもは煮付けにするので分ける。

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 貝柱はよく洗い、水気を取って刺身用に薄切りにする。貝ひもは、醤油・みりん・砂糖・生姜・水(各、適量)で軽く煮付ける。

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ぁ/高はしっかりと水洗いして小鍋に入れ、水1カップと塩小1を加えて強火で熱する。

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ァ(騰したら、アクをすくい、中火で3分ほど煮る。

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Α,兇襪房茲辰董∋に盛り付け、楊枝で取り出しながら食べる。

2016-06-23 旧岩崎邸庭園

[][][]旧岩崎邸庭園 20:50

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御茶ノ水から上野公園に向かって歩いていたら、不忍池の近くで旧岩崎邸庭園の標識を見つけたので立ち寄ってみた。

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門を入ってから敷地内の長い道をゆっくり進んで行くと、道端には色鮮やかなアジサイの花が咲いていた。これほど紫色の濃いアジサイは珍しい。アジサイの別名に「七変化」があるが、アジサイの花色の変化は昔からあまねく知られていて、花言葉は「移り気」である。花色の変化の原因は大きく分けて二つあり、鮮やかな花色がくすんだ色や赤色に変わっていくのは色素が分解されていく老化現象である。もう一つ土の酸度(pH)による変化である。アジサイの花色はアントシアニン系色素が働いて青色やピンク色が発色する。青色は土中のアルミニウムが吸収され、色素と結合して発色する。逆にアルミニウムが吸収されないとピンク色となる。アルミニウム酸性土壌でよく溶けるので、土を酸性にすれば青花となり、中性やアルカリ性土壌ではピンク色になる。青花系品種を中性からアルカリ性の土壌に植えると赤みを帯びた紫色になり、ピンク花系品種を酸性土壌にすると青みを帯びた紫色になる。という理屈を知らないでも、赤や青、紫色の花を愛でることはできるので、アジサイの色は自分なりに味わうのがよい。

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道の右脇には大きな百合の花が咲いていた。ヤマユリから育成された大輪のオリエンタルハイブリッド系と呼ばれるタイプで、ユリの王様といわれる「カサブランカ」という品種がよく知られている。白花にほんのりとピンクが浮き出て奥ゆかしい。

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旧岩崎邸庭園は、明治29年(1896)に岩崎彌太郎の長男で三菱第3代社長の久彌の本邸として作られた。往時は約15,000坪の敷地に20棟もの建物が並んでいたが、現在は1/3の敷地に洋館・撞球室・和館大広間の3棟が残る。木造2階建の洋館は、鹿鳴館の設計者として知られる英国人ジョサイア・コンドルの設計で、近代日本建築を代表する西洋木造建築である。

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洋館1階南側ベランダ床に敷き詰められているタイルは、英国ミントン社製のタイルである。当時世界でも贅沢品といわれたミントンのタイルは、ロンドンウェストミンスター大寺院やイギリスの国会議事堂にも使用されている。

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ベランダに面した客室には暖炉が設けられ、奥の大食堂はビデオシアターとなっている。

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婦人客室の天井には、花鳥文様のシルクのペルシャ刺繍が施され、コーナーにはイスラム風のアーチがある。

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建設当時は多くの部屋や廊下の壁面に金唐革紙が貼られていたが、現在は失われているため、平成の修復に際して2階の2部屋だけが復元されている。金唐革紙とは、和紙に金属箔を貼り、版木に当てて凹凸文様を打ち出し、彩色を施して全てを手作りで製作する高級壁紙で、金属箔の光沢と華麗な色彩が建物の室内を豪華絢爛に飾る、日本の伝統工芸品である。

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各部屋ごとに暖炉のデザインも様々で、イスラム風など趣向を凝らしている。

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2階へ上がる大階段前のホールに設えられた、大きな暖炉の床にもミントンのタイルが使われている。

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洋館の南西に続く和館は、書院造りを基調とした和風建築で、迎賓館としての洋館に対し生活の場として和館が使用された。完成当時は550坪に達する大邸宅であったが、今では大広間、次の間、三の間と茶室くらいしか残っていない。庭から洋館を垣間見ることができる。

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洋館南面には1階、2階とも列柱のある大きなベランダが設けられ、コンドルが得意としたコロニアル様式がよく表れている。

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洋館の北東にやや離れて別棟として、コンドル設計の撞球室(ビリヤード場)が建てられている。ジャコビアン様式の洋館とは異なり、スイスの山小屋風の造りである。校倉造り風の壁、刻みの入った柱、軒を深く差し出した大屋根など、アメリカの木造ゴシックの流れをくむデザインである。 

2016-06-21 鎌倉・明月院

[][][]鎌倉・明月院 21:18

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梅雨入り後の雨上がりの平日に、友と集いて鎌倉・明月院の紫陽花を見て回った。明月院は、長谷寺・成就院とともに「鎌倉三大あじさい」と呼ばれる名所で、中でも「あじさい寺」といえば明月院を指すほど一番有名である。シーズン中は平日でも行列ができるというが、たまたま天気予報が雨だったせいで、入口辺りが混む程度で済んだ。

約2500株あるといわれる明月院の紫陽花は、8割以上が日本古来からの品種「ヒメアジサイ(Hydrangea serrata)」で、最も一般的なアジサイ(西洋アジサイ)と比べると花の房が小さく、明月院ブルーと呼ばれるほど花色が上品である。正面入口は混んでいたので左の拝観口から入った。

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境内左手奥には北条時頼廟と宝篋印塔の北条時頼墓がある。福源山明月院は、臨済宗建長寺派の寺院で、開基は上杉憲方、開山は密室守厳であり、開創は応永元年(1394)以前とされる。明月院は禅興寺の塔頭だったが、本体の禅興寺は明治初年頃に廃絶し、明月院のみ残った。禅興寺の起源は鎌倉幕府5代執権・北条時頼にまで遡る。時頼は建長5年(1252)中国の大覚禅師(蘭渓道隆)を開山に迎え、日本最初の禅の専門道場・建長寺を創建した。その時頼は別邸に持仏堂を造営し、最明寺と名付けたが、時頼の死後は廃絶していた。息子の時宗は蘭渓道隆を開山としてこれを再興し、禅興寺と改名した。

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明月院にヒメアジサイを植えたのは、第二次大戦後に参道を整備する物資や人出が足らなかったため、杭の代わりに「手入れが比較的楽だから」との理由によるという。ヒメアジサイは、牧野富太郎博士が昭和3年(1928)に信越地方で植栽されていたこのアジサイを見て、葉が厚く光沢のあるホンアジサイとは明らかに異なり、花が女性的で優美なので姫アジサイと名付け、翌年発表した品種である。最近は四季咲きヒメアジサイという6月から12月まで咲く品種がとりわけ人気があるという。

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今では昔ながらのヒメアジサイ以外にも、様々なタイプや品種のアジサイが咲いている。これは「縁取り種」というタイプで、10年ほど前に出始めた「未来」という品種と思われる。

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やはり境内中央の参道は、両側にヒメアジサイの花が咲き誇っているので、写真を撮る人々がたくさん立ち止まっていて、通り抜けるのに苦労した。本堂の手前には、須弥山思想がテーマの枯山水庭園がある。奥の石組が須弥山を表し、手前の白砂敷きが大海で、左に鶴島、右に亀島が配されている。ちょうどサツキの花が咲き始めていてとても鮮やかである。

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「方丈」の扁額が掲げられている明月院の本堂は、紫陽殿とも呼ばれる。本尊は聖観世音菩薩坐像を祀っている。

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本堂裏手に広がる「本堂後庭園」は、普段は本堂の丸窓越しにしか見ることはできないが、初夏の紫陽花・花菖蒲の咲く時期と、晩秋の紅葉の時期だけ、別料金で特別公開される。この風情ある丸窓は、「悟りの窓」とも呼ばれる。

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本堂後庭園の3000本のハナショウブ園は、谷の中という自然の地形を利用した落ち着いた雰囲気で、アジサイの最盛期にも比較的静かに庭園散策を楽しめる。

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ハナショウブも満開に咲き誇って、雨上がりのためか花がしっとりした潤いを感じさせてくれる。

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本堂の左手奥には開山堂が建っている。禅興寺の明月院境内にあった宗猷堂を後に開山堂としたものである。

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堂内中央に開山密室守厳の木像、左に最明寺、禅興寺、明月院の歴代住持の位牌が祀られている。

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開山堂の左手の崖には、間口約7m、奥行約6m、高さ約3mの鎌倉で最大級のやぐらがある。やぐらの壁面中央には阿弥陀如来像、多宝如来、両側には十六羅漢の浮き彫りが彫られている。やぐら中央には上杉憲方の墓(宝篋印塔)がある。

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こちらのアジサイは、「ウズアジサイ」というタイプで、「オタフク」などの品種が知られている。

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こちらのアジサイは、「ナデシコ弁」というタイプで、よく見ると萼片にナデシコのようにギザギザの切れ込みが入っている。

この後、鶴岡八幡宮の国宝館で仏像や国宝の墨蹟を見て回り、のんびり稲村ガ崎温泉に浸かり、七里ガ浜でしらす御膳を味わった。

2016-06-20 ホワイトアスパラガス

[]ホワイトアスパラガス 20:50

北海道で買い求めたホワイトアスパラガスを、ドイツ風(バターソース)に調理した(3人分)。

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 ‖腓めのホワイトアスパラガス9本(500g)の茎の下を3cmほど切り落としておく。

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アスパラガスの頭の下からピーラーでしっかりと剥く。筋が残らないように、下半分は2度剥く方がよい。

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 平鍋にアスパラがギリギリ隠れるほどの湯を沸かし、アスパラと塩小1、砂糖小1、レモン汁小1、バター小1を入れる。15分前後、竹串がすっと通るぐらい茹でる。

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ぁ∴Г脳紊る頃を見計らい、バター30gを溶かし、塩小1/2を加えてバターソースを作る。

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* 皿に盛ったアスパラにバターソースをかけて出来上がり。アスパラの茹ですぎには注意したい。

2016-06-17 鶏モモ肉とキャベツの味噌マヨガーリック

[]鶏モモ肉とキャベツの味噌マヨガーリック 20:46

キャベツが余っていたので鶏モモ肉と味噌マヨで調理した(4人前)。

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 ‐潴大1、味噌大1、砂糖大1、マヨネーズ大2、ニンニク1片すりおろし、水大3を合わせてタレを作っておく。

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キャベツ1/4を大きめのざく切りにしておく。

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 鶏モモ肉2枚を一口大に切り、ボールに入れて下味用の酒大1を揉み込み、薄力粉大2を加えてさらに揉み込む。

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ぁ.侫薀ぅ僖鵑縫汽薀戚大2を熱し、鶏肉をこんがりと焼く。

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シメジ1パックをほぐし入れて炒める。

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Αキャベツを加えてサッと炒める。

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А.織譴鯲し込み、全体に絡めて炒めたら出来上がり。

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* タレを絡めたら一気に炒めないと、水分が出てきてしまうので注意する。

2016-06-15 根来寺

[][]根来寺 20:34

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和歌山県一周の旅の最後に、紀ノ川沿いの根来寺を訪ねた。根来寺は、大伝法堂を中心とする諸伽藍からなる大伝法院をいい、新義真言宗の総本山であり、一乗山大伝法院と号する。元は高野山内にあったもので、根来寺の開祖・覚鑁(かくばん)上人(興教大師)が大治5年(1130)に鳥羽上皇の勅願によって高野山に大伝法院を開いたことに始まる。

伝法堂の参道石段の途中右側に松尾塊亭の句碑がある。紀伊藩士・松尾熊之助、俳号・松尾塊亭は、享保年間に根来寺を訪ね詠んだ。

「反腕に 昔をおもふ 山さくら」塊亭翁

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後に覚鑁は、金剛峯寺と大伝法院の両座主職を兼ねたが、金剛峯寺と対立し、保延6年(1140)高野山を離れて大伝法院の荘園であった弘田荘(現、岩出市根来)の豊福寺に居を移した。正応元年(1288)大伝法院と覚鑁の私坊であった高野山の密厳院は根来の地に移り、一大伽藍が整備されていく。戦国時代には、根来寺の擁する行人方と呼ばれる僧兵集団が鉄砲隊を組織し、野田・福島の戦いで織田信長方に与していた。院98、僧坊2700、寺領70万石、行人・僧兵数万という一大共和国を作り上げていたという。その後、羽柴秀吉と対立し、秀吉による天正13年(1585)の根来攻めで、大塔・大師堂・大伝法堂を除くほとんどが焼失し、衆徒は四散した。

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境内右側に田林義信の歌碑が建っている。明治39年生まれ(1906)の田林義信は、和歌山大学国文学教授を勤め、垣穂短歌会を主宰し、賀茂真淵歌集の研究でも知られる。

「結界はさすかに寂か諸鳥の聲々きこゆ渓谷の方より」

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伝法堂は、天正の兵火は免れたが、秀吉が京都に寺を創建するため本尊とともに解体搬出された。しかし寺の建立は実現せず、積まれたまま朽損したという。再建は文政10年(1827)で、建物は桁行3間、梁間2間、四面裳階付き、入母屋造、正面向拝3間、本瓦葺きの風格ある建物である。本尊は木造大日如来坐像、脇仏は木造金剛薩埵(さった)坐像・木造尊勝仏頂坐像であり、像内に銘があって嘉慶元年から応永12年(1387~1405)にかけて造像されたことがわかる。この大伝法堂は、真言宗の最も大切な修法を伝える道場で、「傳法大会」「傳法潅頂」など僧侶が厳しい修行をする場所である。

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伝法堂の左手に建つ通称・大塔は、真言密教の教義を形の上で示したもので、正式には大毘盧舎那法界体性塔という。高さ40m、幅15m、宝塔の姿を持つ木造の塔としては日本最古・最大の多宝塔で、国宝に指定されている。

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初層の外見は方形だが、初層内部には円形の内陣が造られており、円筒形の塔身の周囲に庇を付した、多宝塔本来の形式をとどめている。内部には12本の柱が円形に立ち、その中に四天柱が立っている。解体修理の際に発見された墨書により、文明12年(1480)頃より建築が始まり、天文16年(1547)に完成したことがわかっている。基部には天正の兵火の際の火縄銃の弾痕が残されている。

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大塔の左手前に大師堂が建っている。大塔とともに秀吉の焼き打ちを免れた建物で、本尊の造立銘から明徳2年(1391)頃の建立と推定されている。

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大師堂は、方三間の本瓦葺き宝形造で、縁が付き、組物も簡素な和様だが、桟唐戸など建具は禅宗様である。内部の天井は折上格天井で、中央後方に来迎柱を立て内陣とし、須弥壇を構え、春日厨子(ともに大師堂の附指定で国の重文)に本尊の木造弘法大師坐像を安置している。

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根来寺の本坊は、湊御殿、名草御殿、別院で構成されている。

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本坊・名草御殿の庭園を挟んだ向かいには、光明真言殿(御影堂)が建っている。光明真言殿は、桁行5間、梁間4間の外陣背面に梁間2間の内陣を突出させ、正面には唐破風付きの向拝を設け、側廻りには蔀戸や舞良戸を用いた閑雅な住宅風の建物である。享和元年(1801)に建立され、文化元年(1804)に落慶供養が行われた。現在は開山の興教大師・覚鑁像を安置し、左右には歴代藩主・座主の位牌が祀られている。

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本坊に続いている湊御殿、名草御殿、別院は表書院及び奥書院とも呼ばれ、ともに寛政12年(1800)に紀州徳川家の吹上御殿を移築し、享和元年(1801)に落成したものである。奥書院の北および西に面する庭園は、奇岩怪石を縦横に配置した池泉式蓬莱庭園である。裏山の裾に池を掘り、北正面に滝頭石組を高く積み重ねて滝を三段に落とす。奥書院の南庭は、東南隅に立石を組み景石を配し、赤松・ツツジ等を植えた枯山水庭園の平庭である。

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池には大小2島を低く築き、2枚の石橋を架け、浮島を据え、島および池辺には主に平石による護岸石組を行う。

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光明真言殿の左側(西)には、行者堂および聖天堂が建ち、聖天堂南面には聖天池が広がっている。聖天池は、中央に島があって弁財天を祀り、付近に若干の石組を保存する。池辺一帯に松・楓などを植え、風致に富む。池は天正13年(1585)の秀吉の焼き打ちより以前の、天正3年(1575)の年号がある「一乗山根来寺絵図」に描かれているので、本寺開創以来の貴重な遺構とされる。池泉式蓬莱庭園の池庭、枯山水庭園の平庭、平安時代開創より遺る聖天池、以上3つの日本庭園が国の名勝に指定されている。

以上で、和歌山県の白浜、潮岬熊野三山高野山などを巡る駆け足の旅が終わった。とりわけ熊野三山高野山は広範囲に展開していて、現在にも続く歴史の重みを十分に感じさせる紀伊山地の興味深い霊場であった。

2016-06-14 奥の院、御廟

[][]奥の院、御廟 20:02

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やがて武将たちの墓石群が終わる頃、参道正面に御廟の橋が現れる。右手の杉木立ちの向こうには、帰りに立ち寄る護摩堂や御供所を垣間見ることができる。

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御廟の橋は、36枚の石の橋板と橋全体を1枚として37枚と数え、金剛界37尊を表しているといわれ、橋板の裏には釈迦のシンボルの梵字が刻まれている。この橋の上であの刈萱道心と石童丸が初めて巡り合ったとも伝えられている。別名、無名橋(煩悩をとる橋)ともいう。御廟の橋を渡ると大師御廟の霊域に入るので、撮影禁止となる。

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参道正面突きあたりの燈籠堂は、真然大徳によって創建され、その後、藤原道長によって治安3年(1023)に現在に近い大きさとして建立されたという。向かって右が長和5年(1016)に祈親が廟前の青苔の上に点じて燃え上がったものを灯明として献じたもので、高野山の復興を祈念して点じた祈親灯である。髪の毛を売って検討した貧女お照の物語にちなんで俗に「貧女の一灯」ともいう。左には寛治2年(1088)に白河上皇が献じた一灯がある。記録には上皇は30万灯を献じたことがみえ、これを俗に「長者の万灯」ともいう。燈籠堂の裏手にある弘法大師御廟は、3間4面、桧皮葺宝形造である。入定前年の承和元年(834)、空海自ら廟所を定めたといわれる。

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御廟からの帰り道に、御廟橋を渡るとすぐ左に護摩堂がある。ここで護摩祈祷などが行われる。

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護摩堂の先に御供所がある。御供所は御廟に奉仕するために建てられた庵が始まりである。真言密教における入定(にゅうじょう)とは、僧が衆生救済を目的とし、弥勒出世の時まで禅定(生死の境を越えた宗教的な深い瞑想)に入るという究極的な修行を指し、のちにその肉体が即身仏(いわゆるミイラ)となって現れるとされる。高野山における空海はこの入定を行っているとされるため、今でも禅定を続けていると解釈されており、空海入定後から現在までの1200年もの間、毎日朝と昼前の2回の食事と衣服を給仕しているという。その食事はこの御供所で行法師が作る。奥の院の事務所でもあり、大黒天も祀られていて、お札なども売っている。

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御供所のすぐ側には頌徳殿が建っている。御茶の接待がある休憩所でもあり、茶処とも呼ばれる。大正4年、高野山開創1100年記念で建てられた。中には大きな茶釜がいくつもある。

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御供所から表参道に合流する道を進むと、すぐ左手に浅野内匠頭墓所がある。中央が浅野内匠頭の墓で、大石内蔵助が主君の冥福を祈って建てたといわれる。左は赤穂四十七士菩提碑である。

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表参道に合流する手前に其角の句碑がある。蕉門十哲の筆頭といわれる宝井(榎本)其角(1661~1707)である。「卵塔の鳥居やげにも神無月」

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墓石群はあまりにも数が多すぎて、残念ながら墓標が読み取れないと誰のものかわからない。

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奥の院の墓石群が立ち並ぶ参詣道には、樹齢千年、約1000本ともいわれる杉木立ちが鬱蒼と茂り聳えて、厳粛な雰囲気を醸し出している。

これで高野山の主な見所は見て回ったが、あまりにも広すぎてやはり半日では忙しい。宿坊に泊まってゆっくり訪ね歩くことをお勧めする。

2016-06-13 奥の院、墓石群

[][]奥の院、墓石群 20:23

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奥の院は、承和2年(835)に入定したとされる空海の御廟を中心とする高野山の聖域である。11世紀に祈親の高野山復興によって、大師信仰の聖地として整備された。後世、一の橋から御廟に至る18町(約2km)の参詣道周辺の墓石群を含むようになり、およそ20万基を超える諸大名の墓石や祈念碑、慰霊碑の数々が立ち並んでいる。墓石群の中核をなすのは江戸時代初期造立の諸大名の五輪塔である。徳川家康が高野山を菩提所と定めたことに倣い、全国大名の40%にあたる110家の諸大名がそれぞれ菩提寺を定めたことによる。大きな駐車場は中の橋にあるので、そこから参詣道に合流できる参道口がある。

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参詣道と合流する角に芭蕉(1664~1740)の句碑が立つ。貞享4年(1687)江戸を出発した芭蕉は翌年、伊賀上野で父の三十三回忌を終えた後、高野山を訪れた際に次の句を詠んだ。

「父母の しきりにこひし 雉子の聲」(笈の小文

文字は江戸時代の有名な画家・池大雅の筆による。安永4年(1775)年の建立。

一の橋から参詣道中ほどの芭蕉の句碑までの間には、上杉謙信の霊屋、武田信玄の墓碑、伊達政宗・石田三成・明智光秀の供養塔などがある。また、ここを山側に入ると奥の院で一番大きい宗源院供養塔がある。宗源院とは、浅井長政とお市の方の末娘のお江である。

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参詣道を進むとすぐに、巨大な五輪塔が向かい合っている。これは藩祖前田利家の長男・前田利長の墓で、奥の院で3番目に大きい五輪塔で三番碑と呼ばれる。利長の墓の向かいには利長の妻・織田信長の四女・永姫(瑞泉院)の五輪塔が立つ。

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こちらは美濃加納藩の2代藩主・松平忠政の供養塔である。松平忠政は、徳川家康の長女・亀姫が生んだ奥平忠政のことである。

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参詣道の左手には円光大師(法然上人)の供養塔もある。奥の院入口の一の橋手前に熊谷寺がある。名の由来である熊谷直実は、建久元年(1190)平敦盛の七回忌に、師法然の指示により高野山に登り、平敦盛の石塔を建立し、菩提を祈った。その後、建仁元年(1201)に熊谷直実が源平総死者供養を行った際、浄土宗の開祖・法然は、親鸞と共に登山し、熊谷寺に逗留した。三人は庭前の井戸の水鏡で自らの姿を彫った。その像が安置されている円光堂の本尊は法然上人である。熊谷寺は、円光大師(法然)・見真大師(親鸞)・熊谷蓮生法師(直実)の旧跡となり、法然上人二十五霊場の番外札所にもなった。

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参詣道の右手には安芸浅野家墓所がある。石造鳥居の扁額には、右から「清光院」「慶雲院」「傳正院」「自得院」とある。それぞれ、浅野幸長、浅野幸長の正室、浅野長政、浅野長晟であるが、大きな五輪塔は三つしか見当たらない。後ろにいくつか小さい五輪塔も見えるが、浅野幸長の正室はそのどれかであろう。

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次に結城秀康の石廟がある。越前松平家結城秀康は徳川家康の次男で、母の長勝院と並んで祀られている。石造の家形堂宇は、ほとんど五輪塔の供養塔が並ぶ中では異様な光景である。右の入母屋造が結城秀康のもので、左の切妻造が長勝院のものである。

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こちらは肥前島原松平家墓所であり、五輪塔がいくつも並んでいる。家祖は松平第3代信光の七男忠景の次男・忠定。寛文8年(1688)より島原藩主。

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参詣道左の山側の広い敷地に豊臣家の墓所がある。天正15年〜文禄元年(1587~92)の造立で、散在していた石塔を一箇所に集めたとされる。幾つもの五輪塔が立っているが、名前が確認されているのは、中央の秀吉、母のなか、弟の大和大納言秀長夫妻、秀次の母である姉のとも、長男の鶴松、淀君の逆修碑(生前用意された墓)と推定される七基という。

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こちらの五輪塔は、摂津尼崎青山幸成の供養塔である。青山幸成は徳川家康の家臣・青山忠成の4男で、5万石の摂津尼崎藩主となった武将である。

2016-06-10 壇上伽藍、中門

[][]壇上伽藍、中門 20:31

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金堂の正面手前の一段低い所に中門(ちゅうもん)が建っている。創建年代は不明だが、最初の再建は永久3年(1115)年。壇上伽藍はかつて、天保14年(1843)の大火により、西塔のみを残してことごとく焼き尽くされた。昨年、高野山開創1200年記念の一環で、172年ぶりに再建された。東西25m、南北15m、高さ16m、5間3戸の木造二階建て、桧皮葺入母屋造の楼門で、建長5年(1253)建立の鎌倉時代の建築様式に従っている。礎石だけは残っていた。

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高さはかつて中門に安置されていた持国天と多聞天の立像(高さ約4.3m)が基準とされた。この二天像は天保の焼失の際に救出され、別の場所に置かれていた。こちらが東方を守護する持国天で、武将風に一般的な刀を手に持っている。

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こちらが多聞天である。北方を守る神将で、独尊像の場合は毘沙門天とも呼ばれる。甲冑を着け手に宝棒と宝塔を持つことが多い。どちらも再建に際し、解体修理を施された。

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今回の再建では、二天に加えて新たに増長天と広目天の像を平成の大仏師とされる松本明慶の手により現代風に製作され、四天王像として中門内に安置された。こちらが南方を守る守護神の増長天で、甲冑を着け手に武器を持つ。胸元にはトンボのブローチを付けている。トンボはまっすぐに飛ぶことから「後ろに退かない」という姿勢を表現しているという。

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こちらは西方を守る広目天。甲冑を着け手に巻物と筆を持っている。胸元のブローチはセミである。セミが音を遠くへ届ける生き物であることから「威嚇」の姿勢を表現しているという。四天王の持ち物には決まりがあるが、ブローチのような着衣や装飾に決まりはなく、仏師独自の思いが込められているという。

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中門から壇上伽藍を出て、大門通りを東に進むと、左手の壇上伽藍に門を閉じた勧学院がある。勧学院は、承元5年(1211)北条政子が源頼朝の菩提を弔うために開創した金剛三昧院(当初は禅定院)境内に、鎌倉幕府8代執権・北条時宗が弘安4年(1281)に開創し、高野山内の僧侶の勉学・修練の道場とした。文保2年(1318)に後宇多天皇の院宣により現在地に移された。本尊は木造大日如来坐像(国重文)で、平安時代末期のものである。

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勧学院の先には増福院・明泉院がある。増福院は、鎮守府将軍多田満仲の末孫多田仲光の三男源賢和尚の開基による。弘法大師を尊信し高野山を師崇していた満仲は、長徳3年(997)病床に臥すや高野山に寺院を建立、一門の「福祐増進を祈るべし」と遺言した。増福院の院号はここに由来する。本尊は愛染明王である。現在は宿坊となっている。

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増福院・明泉院の向かい、大門通りの南に高野山霊宝館が建っている。大正10年(1921)に開設された霊宝館は、国宝・重文などの指定文化財約28000点のほか50000点以上の収蔵品を誇る。開館当時に建てられた本館は、日本現存最古の木造博物館建築で、平成10年に登録有形文化財になっている。空海の請来品と伝わる飛行三鈷杵・金銅仏具(ともに金剛峯寺蔵、国重文)や空海筆と伝わる聾瞽指帰(金剛峯寺蔵、国宝)などがある。

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館内は撮影禁止なのでパンフの切り抜きを載せる。これは平安時代作の大日如来坐像(金剛峯寺、国重文)である。伽藍西塔の元本尊で、仁和3年(887)の西塔創建の当初像とされる。

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こちらは弘法大師坐像(金剛峯寺)で、室町時代〜桃山時代の作とされる。

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こちらは八大童子立像(金剛峯寺、国宝)で、鎌倉時代の運慶作と伝えられる。左は矜羯羅童子像で、右は制多伽童子像である。

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こちらの仏画は、仏涅槃図(金剛峯寺、国宝)である。応徳3年(1086)の墨書銘があり、現存最古の涅槃図とされる。

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これは不動明王坐像(奥之院護摩堂旧本尊、金剛峯寺蔵、国重文)で、鎌倉時代の作である。

2016-06-08 壇上伽藍、金堂

[][]壇上伽藍、金堂 20:51

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根本大塔の西に進むと御影堂(みえどう)が建っている。元は空海の持仏堂で、空海没後にその弟子実恵が真如法親王筆の弘法大師御影像を安置したため御影堂と呼ばれる。現在の建物は嘉永元年(1848)の再建で、3間4面の桧皮葺・宝形造。堂内外陣には空海の十大弟子像が掲げられている。御影堂の右手前にわずかに見える松の木は、「三鈷の松」と呼ばれる。空海が唐からの帰途、船上から伽藍建設地を探して投げたという三鈷杵がかかっていた松、という伝承のある松である。

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御影堂の西には准胝堂と孔雀堂が並んで建っている。右の准胝堂は、光孝天皇の御願を受けて真然が創建したとされる。本尊の准胝観音は、空海が得度の儀式を行う際の本尊として自ら造立されたと伝えられる。その後、天禄4年(973)頃にこの堂が建立され移動したという。現在の建物は明治16年(1883)の再建で、4間4面である。左の孔雀堂は、正治2年(1200)に後鳥羽上皇の御願により京都東寺の延杲(えんごう)祈願所として創建され、当時は孔雀明王院と呼ばれた。本尊の木造孔雀明王像は、快慶作で「正治2年」の銘があり、国の重文に指定され、霊宝館に収蔵されている。現在の建物は昭和58年(1983)に高野山の宮大工辻本善次が再建した。

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孔雀堂の左、壇上伽藍の西の端に西塔が建っている。仁和3年(887)に光孝天皇の勅命により、高野山二世真然が空海の遺した『御図記』に従って大塔に続き建立した。現在の5間4面、高さ27.27mの西塔は、天保5年(1834)に再建された擬宝珠高欄付多宝塔である。本尊は金剛界大日如来と胎蔵界四仏の5体が安置され、金胎両部不二の深義を表すとされる。特に木造大日如来坐像(国重文)はヒノキの一木造で、弘仁年間(810~24)のものとされ、山内最古のものである。塔の前の石灯籠2基は、華岡青洲が天保4年(1833)に寄進したものである。

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西塔から南に折れ御社に向かうところに、袴腰付で手の込んだ組物が重厚な建物がある。多分鼓楼と思われるが、詳細はわからなかった。

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その先に御社(みやしろ)がある。高野山開創にあたり、空海は弘仁10年(819)結界守護のため麓の丹生明神と高野明神を勧請して鎮守としたと伝わるが、実際は10世紀後半に雅真が勧請したとされる。現在の社殿は天正11年(1583)の再建で、極彩色・春日造の2社(丹生明神・高野明神)、三間社流見世棚造の十二王子百二十伴神を合祀した総社からなる。後に行勝上人が気比明神厳島明神を勧請し四社明神とした。祭神は一の宮が丹生都比売命・気比明神、二の宮が高野明神厳島明神を祀る。

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御社の手前にその拝殿である山王院本殿が建っている。創建は11世紀中頃と見られ、鎮守の神を「山の神」として拝するところからこの名がついたとされる。桁行21.3m、梁間7.8mの両側面向拝付入母屋造で、現在の建物は文禄3年(1594)に再建されたものである。

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山王院の左手前に六角経蔵が建っている。平治元年(1159)に鳥羽上皇皇后美福門院得子が上皇の菩提を弔うために創建した。6角6面の堂で、紺紙金泥一切経が安置されていたため、金泥一切経蔵とも六面蔵とも呼ばれる。美福門院が追善菩提の持費として紀州荒川の庄を寄進したため、荒川経蔵ともいう。現在の建物は昭和9年(1934)に再建されたものであり、経蔵の基壇付近に把手があり回すことができる。国重文の紺紙金泥一切経は、霊宝館に収蔵されている。

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六角経蔵と根本大塔の間、壇上伽藍の真ん中、中門を入って正面に金堂が建っている。高野山一山の総本堂で、年中行事の大半がここで勤修される。本尊と両部曼荼羅を修法する3壇をもつ密教の大堂である。創建当初は講堂と呼ばれ、嵯峨天皇の御願によって完成したことから御願堂とも呼ばれた。現在の建物は7度目の再建で、昭和7年(1932)に完成した。桁行30m、梁間23.8m、高さ23.73mの入母屋造だが、耐震耐火の鉄骨鉄筋コンクリート造である。

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内部の壁画は岡倉天心に師事した木村武山の筆により、「釈迦成道驚覚開示の図」や四隅の「八供養菩薩像」が整えられた。本尊の木造薬師如来坐像(阿閦如来、秘仏)は、高村光雲の作である。金堂内陣に安置されていた伝平清盛筆絹本著色両界曼荼羅図(血曼荼羅、国重文)や定智筆の絹本著色善女竜王像(国宝)は、御影堂に移されている。

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金堂の東に建っている大塔の鐘は、日本で4番目の大きさであったことから「高野四郎」の別称を持ち、東大寺の「奈良次郎」、吉野金峯山寺蔵王堂の「吉野三郎」とともに広く知られている。創建以来3度改鋳され、現在の鐘は天文16年(1547)の鋳造で、直径は2.12mである。毎日5回、時刻を山内に知らせている。

2016-06-07 壇上伽藍、根本大塔

[][]壇上伽藍、根本大塔 21:21

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金剛峯寺を出て壇上伽藍に向かう。伽藍とは梵語のサンガ・アーラーマの音訳で、本来僧侶が集い修行をする閑静清浄な所という意味である。空海高野山の造営にあたり、壇上伽藍からはじめ、密教思想に基づく金堂、大塔、西塔などの建立に務めた。根本道場大伽藍ともいう伽藍の入口から東塔東側付近まで伸びる小道を「蛇腹路」と呼ぶ。高野山は、壇上伽藍を頭として現在の蓮花院までを「東西に龍が臥せるがごとく」と空海が形容したのだが、この小道が龍の腹付近にあたることからそう呼ばれるようになったという。

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蛇腹路を抜けると壇上伽藍の東塔・大会堂・根本大塔が並んで建っているのが見える。二重塔の東塔は、大治2年(1127)に白河法皇の発願によって、醍醐三宝院勝覚権僧正により創建された。

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当初は法皇等身の尊勝仏頂尊が本尊として奉安され、不動明王、降三世(ごうさんぜ)明王の2体も脇侍として祀られた。天保18年(1843)の大火で焼失した後しばらく再建されず、現在の建物は昭和59年(1984)の再建である。

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東塔と大会堂の間に小さな三昧堂が建っている。元は延長7年(929)高野山の座主・済高が「理趣三昧」という儀式のために建てたお堂で、当初は総持院にあったが、仁安年間(1166~69)に壇上に移築された。移築・修造には隣の蓮華乗院(大会堂)の奉行だった西行が関わったと伝えられ、堂の左に見える桜は「西行桜」とよばれている。現在の建物は文化13年(1816)の再建で、3間4面の桧皮葺である。

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三昧堂の左にある大会堂の前身は、安元元年(1175)鳥羽法皇の第7皇女である頌子内親王(五辻斎院)が願主となり、鳥羽法皇の菩提を弔うために創建した蓮華乗院である。造営には西行が奉行となり勧進を勤めた。西行は出家前、頌子内親王の祖父・徳大寺実能の家人であり、鳥羽法皇の北面の武士だったが、出家後高野山に深く関わったという。元は東別所にあったが治承元年(1177)にここに移築された。その後、高野山から分派して対立していた根来寺(新義真言宗・大伝法院方)と和解するための談義の場としても使われた。法会の場所となっているため大会堂と呼ばれる。5間4面の桧皮葺である現在の建物は、嘉永元年(1848)の再建で、阿弥陀如来を本尊として祀っている。

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大会堂の左手に愛染堂が建っている。後醍醐天皇は新政を始めたばかりの建武元年(1334)に、「四海静平・玉体安穏」を祈願し、不断愛染護摩供・長日談義を行うために愛染堂を建立した。しかしわずか2年後、南北朝時代という最悪の乱世が始まってしまった。本尊は同天皇等身の愛染明王で、恋愛を司る仏である。現在の建物は嘉永元年(1848)の再建で、3間半4面の桧皮葺である。

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大会堂と愛染堂の向かい、参道の南に東を向いて不動堂が建っている。建久8年(1197)鳥羽上皇の皇女・八條女院内親王が発願し、行勝上人が一心院谷に建立し、後に伽藍へ移築された。現在の建物は14世紀前半に再建されたもので、お堂の四隅は全て形が違い、四人の工匠がそれぞれ随意に造ったためと伝えられる。桁行3間・梁間4間の主屋を中心とし、左右に桁行1間・梁間4間と桁行1間・梁間3間の脇の間を付した桧皮葺の建物で、国宝に指定されている。本尊は木造不動明王坐像(国重文)で、伝運慶作の木造八大童子立像(国宝)は霊宝館に収蔵されている。

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この大塔高野山壇上伽藍の中心的堂塔で、空海は法界体性塔とも呼んだが、真言密教のシンボルとして古来より根本大塔と呼ばれる。完成は貞観年間(859~77)末頃とされるが、落雷などで5度も焼失し、現在の大塔は昭和12年(1937)に、創建時の高さ16丈(約48.5m)13間(約23.5m)4面の朱塗りの塔として再建された。下層の屋根は鉢を伏せたような亀腹をつくり、その上に円形の欄を廻らせて庇を設け、屋上には九輪の宝珠が聳えている。

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内部は本尊の胎蔵界大日如来を中心に金剛界四仏を安置し、16本の柱には堂本印象画伯の筆による十六大菩薩、四隅の壁には密教を伝えた八祖像が描かれ、堂内そのものが立体の曼荼羅として構成されている。

2016-06-06 金剛峯寺主殿、蟠龍庭

[][]金剛峯寺主殿、蟠龍庭 20:33

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小玄関の右手に参拝者入り口があり、拝観料を払う。金剛峯寺だけなら500円だが、大塔、金堂など6カ所で1500円の共通内拝券を購入したら、「3時間以上かかりますが大丈夫ですか」と念を押されたが、「そのつもりです」と答えて、主殿に上がり込んだ。

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大広間は重要な儀式・法要が執り行われる処で、襖には群鶴の絵、松の絵が描かれ、狩野法眼元信の筆と伝えられている。右手の持仏間には、本尊の弘法大師を祀り、両側には歴代天皇の位牌や歴代座主の位牌を祀っている。

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梅の間には大きな高野開創三鈷杵(さんこしょ)が安置されている。襖の絵は梅月流水で、狩野探幽守信の筆と伝えられている。高野山には飛行三鈷杵と三鈷の松の伝承がある。空海が唐から帰国の際、師の恵果和尚から送られた密教法具の一種である三鈷杵を東の空に向けて投げた。帰国後その三鈷杵を探し求めていると、高野山の松の木に引っかかっているのがわかった。そして高野山の地が真言密教の道場として開かれ、この松は「三鈷の松」といわれた。そのため高野山では「飛行三鈷杵」を大切にし、厳重に保管してきた。昨年、開創1200年を記念して大三鈷杵が作られ、全国の寺院を巡ったという。

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主殿の西奥から別殿に進む渡り廊下の脇には、細長く枯山水の小庭が設けられている。

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渡り廊下の先は、前身の興山寺跡の部分に入る。別殿と奥殿は昭和9年(1934)の新築で、南にある新奥殿は昭和59年(1984)の「弘法大師御入定1150年御遠忌」の記念に新築されたものである。蟠龍庭もその時に作庭されたもので、2,340屬旅さがあり、国内最大級を誇っている。別殿から眺めると右手に奥殿が、左奥に正門が見える。

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非公開の奥殿は、本山の貴賓室で、昭和9年(1934)の「弘法大師御入定1100年御遠忌」の際に建てられた。元この地は木食応其上人の興山寺跡で、奥殿・別殿が建てられる前は高野山大学と中学があった所である。襖絵は石崎光瑤画伯の大作で「雪山花信」の題によりヒマラヤヒマラヤシャクナゲの風景が描かれているという。

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こちらが奥殿の右手の庭である。奥殿に続いて正面に見える建物は新書院であり、その裏手に真松庵と名付けられた茶室がある。石庭の右手の建物は、昭和42年(1967)に建立された阿字観道場である。阿字観とは仏との一体をはかる真言密教における瞑想法である。

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あらためて蟠龍庭を別殿と奥殿のあたり廊下から眺めてみる。蟠龍庭の石庭では、雲海の中で向かって左に雄、向かって右に雌の一対の龍が向かい合い、奥殿を守るように配置されている。龍を表す石は空海の誕生地である四国花崗岩が、雲海を表す白川砂は京都のものが使われている。

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こちらは書院上段の間。以前は天皇・上皇が登山された際の応接間として使用された所で、現在は高野山の重要な儀式に使用されている。この上段の間には上々段の間と装束の間があり、壁は総金箔押しで、天井は折上式格天井の書院造りの様式になっている。上段右側にある小さな房のついた襖は「武者隠し」といい、襖の向こうは護衛の武士が待機する部屋となっている。

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ここが上段の間と結ばれていた「武者隠し」の間で稚児の間といい、天皇に随行する人が不寝番をしていた部屋である。床の間に祀られているのは、旧伯爵副島家に伝承されていた地蔵菩薩である。襖絵は狩野探斎の筆と伝えられている。

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大主殿の裏手に垣間見られる建物は、空海の甥の真然大徳の廟で、真然廟(真然堂)という。真然大徳は30歳の時、入定した空海の遺志を継ぎ、根本大塔をはじめとする高野山の諸堂を、50年以上かけて完成させ、高野山の基礎を築いた。廟は寛永17年(1640)に建てられたが、昭和63年(1988)の解体修理の際に、9世紀の見事な緑釉花葉紋四足壺の真然蔵骨器が発見され、再び埋納された。

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この部屋は囲炉裏の間で、土を塗り固めて作った土室と呼ばれる部屋である。冬場が極寒の高野山では、暖をとるため土壁で囲んだ部屋の中に囲炉裏を設け、風寒をしのいだ。囲炉裏は天井まで4本の柱と壁が立ち、火袋には小棚が設けられ弁天様を祀っている。正面のお供えは精進供で、突仏供(つきぶっく=ご飯を仏様用に成型したもの)と汁物の具材を手前に配し、副菜として先を斜めに切った大根、人参、さつまいもなどの野菜を供えている。

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台所には今でも使われている大きなかまどがあり、大鍋や大薬缶がセットされている。こちらは二石釜。一つの釜で約七斗(98kg)のご飯が炊け、大釜三つで一度に二石(約2000人分)のご飯を炊いた。二石釜の上には行灯が吊られ、正面には台所の神である三宝荒神を祀っている。

2016-06-03 高野山、金剛峯寺

[][]高野山、金剛峯寺 22:08

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最後の日は高野龍神スカイライン(国道371号線)を走って高野山まで行く予定だが、3月下旬までは積雪・路面凍結の恐れがあるというのでチェーン携行の交通規制があった。和歌山県奈良県県境標高1000メートル前後の高野龍神スカイラインは、最高峰の護摩壇山(1372m)周辺で尾根伝いを走るので、紀州の山々を展望できて心地よい。護摩壇山近くの「ごまさんタワー」が展望台を兼ねた休憩所となっている。北を望めば左の尾根伝いに道が走り、その向こうに高野山がある。

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南に見える護摩壇山の稜線は、木々に霧氷が着いてキラキラ輝いている。これから下る高野山でも、早朝の気温が零度位なので、ここはもちろん氷点下である。北側斜面にはところどころ残雪があったが、道路は凍結していなくて助かった。

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龍神温泉から1時間ほどで高野山に着いた。高野山の山内は、西院谷、南谷、谷上、本中院谷、小田原谷、千手院谷、五の室谷、蓮華谷の各地区に分かれ、地区全体の西端には高野山の正門に当たる大門があり、東端には奥の院への入口である一の橋がある。信仰の中心地は山内西よりの「壇上伽藍」と呼ばれる境内地で、その東北方に総本山金剛峯寺があり、奥の院は一の橋からさらに北東に2キロほどの山中にある。高野山の玄関口に建つ大門は、宝永2年(1705)に徳川綱吉により造営・再建された5間3門開きの総門で、高さ約25m、間口21m、奥行8mの紀州最大の楼門建築とされ、国の重文に指定されている。門の両脇を固める高さ約5mの阿吽の金剛力士像は、江戸時代に活躍した慶派仏師の運長と康意の作である。

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まず金剛峯寺手前の駐車場に車を止めて金剛峰寺に向かうと、左手に大師教会本部がある。高野山開創1100年記念として大正14年(1925)に建てられた、高野山真言宗の布教等の総本部である。金剛峯寺で高野山参詣諸堂共通内拝券を購入したので、ここで授戒体験ができるのだが、時間がなく省略した。

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金剛峯寺入り口の左手前、高い石垣の上に鐘楼が建っている。豊臣秀吉の勇将であった福島正則が両親の追善を祈り元和4年(1618)に建立した。寛永7年(1640)に正則の子、正利によって再鋳され、鐘銘が仮名混じり文であることでも知られる。現在も午前6時から午後10時までの偶数時に時刻を知らせていて、六時の鐘と呼ばれる。

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標高約800mの平坦地に位置する高野山は、100ヶ寺以上の寺院が密集する、日本では他に例を見ない宗教都市である。真言宗の宗祖である空海(弘法大師)が修禅の道場として開創し、真言密教の聖地、弘法大師入定信仰の山として今でも多くの参詣者を集めている。金剛峯寺は、全国高野山真言宗寺院約3600ヶ寺の総本山である。山号が高野山というように、元来は高野山全体と同義であったが、金剛峯寺という寺号は、明治期以降は一つの寺院の名称になっている。

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金剛峯寺という名称は、空海が『金剛峯楼閣一切瑜伽瑜祇(ゆがゆぎ)経』という経より名付けたと伝えられる。東西60m、南北70mの主殿をはじめとした建物を多く備え、境内坪数48,295坪の広大さを誇る。文禄2年(1593)に再建された正門は、金剛峯寺の建物の中で最も古い。提灯に描かれているように寺紋は二つあり、左が豊臣秀吉拝領の青巌寺の寺紋「五三の桐」、右が高野山の鎮守・丹生都比売(にうつひめ)神社の寺紋「三頭右巴」である。青巌寺は、秀吉が文禄2年に母の大政所を弔うため建立した金剛峯寺の前身であり、丹生都比売神社とは、空海が金剛峯寺を建立する際に神領を寄進したという高野山の麓の入口にあった神社である。

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正門をくぐると正面に豪壮な大主殿が建っている。文久3年(1863)に再建された、東西54m、南北63mの書院造建築である。右手に大玄関と小玄関が連なっている。桧皮葺の屋根の上には、天水桶が置かれている。普段から雨水を溜め置き、火災の時に桶の水を撒くための桶である。

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左が金剛峯寺の表玄関に当たる大玄関で、正門と同じく昔は天皇・皇族や高野山重職だけが出入りした。一番右の小玄関は、昔は上綱職の僧侶が使用し、一般の僧侶は裏口から出入りしたという。

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重厚な趣の大玄関の破風飾りは、技巧を凝らした龍の彫刻で迫力があり素晴らしい。二重虹梁の合間の彫刻も手が込んでいる。

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大主殿の向かい側、正門をくぐって右手には大きな鐘楼が建っている。金剛峯寺の前身である青巌寺の鐘楼で、構造形式から万延元年(1860)に大火で類焼後、元治元年(1864)に再建されたとされる。桁行3間、梁行2間、袴腰付入母屋造で、大主殿や経蔵とともに県の指定文化財となっている。

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正門をくぐって左側には、苔むした経蔵が建っている。延宝7年(1679)に大阪天満の伊川屋から釈迦三尊と併せて寄進されたものである。重要な経を収蔵しているので、火災の類焼を避けるため、主殿とは離れて建てられている。

2016-06-02 高原熊野神社、龍神温泉

[][][]高原熊野神社、龍神温泉 20:37

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世界遺産の熊野古道で一躍脚光をあびるようになった中辺路に沿って、本宮大社から西に進み高原熊野神社に向かった。古来より多くの参詣者が歩いた中辺路は、熊野の山里をたどる山岳道で、途中から国道311号線と付かず離れず並行するけれども、数ある九十九王子を車で訪れるのは難しい。国道から細い道をくねくねと10分ほど上り詰めると、江戸時代まで旅籠が軒を連ねていたという高原集落にたどり着く。ここからは遠くの山々まで見渡せ、見晴らしがすこぶる良い。標高が330m前後のこの周辺は「霧の郷高原」と呼ばれ、休憩所や展望台があり、特に早朝は霧が美しいという。展望台の正面には焼尾山(450m)が全容を見せて横たわり、その右手奥には笠塔山(1049m)が高さを誇り、その右手彼方には奈良県との県境沿いに位置する果無山脈がかすかに認められる。

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高原熊野神社鎮座地の高原は、富田川左岸の尾根上に位置する集落で、資料上では平安時代の『中右記』天仁2年(1109)に初出し、『明月記』所収「熊野道之間愚記」建仁元年(1201)には高原の情景の歌が詠まれた。駐車場に車を置き、高原熊野神社の道標の右を歩いて上がっていくと神社の境内に着く。

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足利義満側室の北野殿一行の『熊野詣日記』応永34年(1427)には、往復とも当地に宿をとったとある。境内入り口の角には、小さな庚申塔が建てられている。

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高原熊野神社は高原地区の産土神で、九十九王子には入らないが、滝尻王子に近い不寝王子と大門王子の間に位置する。狭い境内だが、3本特別に大きな楠の巨樹がある。社殿の右手に立つ神木の大楠は、幹周7.35m、樹高20mである。一番太い巨樹は、幹周10.35m、樹高18mである。

明治の神仏分離令と神社合祀令は熊野に深い傷跡を残した。特に明治39年に施行された1町村1社を原則とする神社合祀令は、明治政府が記紀神話や延喜式神名帳に記載のない神々を廃滅して神道の純化を図ったものだが、熊野信仰のような古来の自然崇拝に仏教や修験道が混交した宗教は、合祀や廃社の対象になりやすく、中辺路の近露王子や湯川王子の古木も伐採された。田辺市に住んでいた世界的博物学者の南方熊楠は、神社の森を守るため神社合祀反対運動に立ち上がり、柳田國男などの文化人を動かし、とうとう神社合祀廃止にこぎつけた。そしてこの高原神社の大楠も伐採を免れたという。

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高原熊野神社は、応永9年(1402)熊野本宮から熊野権現を勧請したといい、江戸時代は熊野権現と称し、明治元年に熊野神社と改称した。

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主祭神として速玉男命を祀り、ほかに天照大神と素戔嗚尊を祀る。神体とされる懸仏の裏面には、応永10年(1403)の墨書銘があり、若王子を熊野本宮から勧請したことが記されている。

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天文元年(1532)造替とされる本殿は、春日造・桧皮葺で、古道に沿う歴史ある神社のなかで最も古い建物であり、県の指定文化財である。後世に修復されているが、軸部と内陣の宮殿(厨子)は室町時代前期の様式をとどめている。桁行一間五分、梁行二間五分で、平成10年に社殿が改修され、柱や虹梁上の蟇股、さらに壁に至るまで、あまり類例を見ない色鮮やかな絵模様が施されている。 

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本殿の右手に拝殿らしき建物があり、大山祗神、猿田彦神、金毘羅神、地主神、天神、稲荷神が祀られている。

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滝尻王子の手前で中辺路から右(北)に曲がり、龍神街道を遡って田辺市最北部の山間にある龍神温泉に向かう。龍神温泉は、江戸時代初期に紀州藩主徳川頼宣の庇護下で大きく発展し、今でも江戸時代から続く上御殿・下御殿などと称する旅館がある。これが最も古そうな上御殿である。

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上御殿は、明暦3年(1657)に徳川頼宣が龍神温泉へ湯治に訪れるために建てられた宿であり、龍神家は宿の管理を命ぜられ、上御殿の屋号をもらった。現在の当主は源三位頼政の五男である頼氏より数えて29代目で、820年続く上御殿の歴史を今も受け継いでいるという。

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建物は国の有形文化財に登録され、徳川公が泊まった「御成りの間」も、現在でも当時のままの形で残っているという。宿泊客がいるようだったので、パンフの切り抜きを載せる。

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龍神温泉日高川の渓流沿いに位置する温泉で、役行者小角が発見したと伝わる1300年の伝統を誇る古湯で、龍神の名の由来は弘法大師が難陀龍王のお告げにより開湯したことにあるという。泉質はナトリウム炭酸水素塩泉(重曹泉)で、肌がつるつる、しっとりとなり、島根県湯の川温泉群馬県川中温泉と並び、日本三美人の湯として知られる。隣の下御殿には、川沿いに混浴露天風呂があるという。

2016-06-01 本宮大社、證誠殿、大斎原

[][][]本宮大社、證誠殿、大斎原 20:34

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熊野本宮大社の創祀は不詳だが本宮大社では次のようにいう。古代、熊野の地を治めた熊野国造家の祖神・天火明命(あめのほあかりのみこと)の子である高倉下は神武東征に際し、熊野で神武天皇に天剣「布都御魂(ふつのみたま)を献じた。時を併せて高御産巣日神は天より八咫烏を遣わし、神武天皇を大和の橿原まで導いた。第十代崇神天皇の御代、旧社地大斎原の櫟(いちい)の巨木に三体の月が降臨した。天火明命の孫にあたる熊野連はこれを不思議に思い「どうしてこんな低いところに降りてこられたのか」と月に尋ねた。すると真ん中の月が「我は證誠大権現(家都美御子大神=素戔嗚尊)であり、両側の月は両所権現(熊野夫須美大神・速玉之男大神)である。社殿を創って斎き祀れ」と答えた。この神勅により大斎原に社殿が創建されたという。第一殿・第二殿の結宮の右手に第三殿の證誠殿(証誠殿)、さらに右手に第四殿の若宮が並んでいる。

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真ん中の證誠殿には、熊野本宮大社の主祭神、家都美御子大神(けつみみこのおおかみ、家津御子大神=素戔嗚尊)が祀られている。熊野大神とも熊野加武呂乃命とも呼ばれる。造船術を伝えたことから船玉大明神とも称し、古くから船頭・水主たちから崇敬されている。参拝順序は、證誠殿(第三殿)、結宮(第二殿、第一殿)、若宮(第四殿)の順とされる。證誠殿は文化7年(1810)の建立で妻入り、正面は切妻造庇付き、背面は入母屋造の特異な形式とする。桁行(側面)2間、梁間は正面が1間、背面は中央に柱が立ち2間とする。

一番右の若宮には、天照大神が祀られている。若宮は享和2年(1802)の建立で、構造は證誠殿と同規模同形式である。第一殿から第四殿までの社殿は明治22年の洪水では流出を免れて現社地に移築され、国の重文に指定されている。

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境内の一角には苔むした五輪塔の「和泉式部祈願塔」がある。案内板には以下の通り。(平安朝の宮廷歌人和泉式部が)熊野へ詣でたりけるに女身のさわりありて、奉幣かなはざりければ「晴れやらぬ身に浮雲のたなびきて 月の障りとなるぞかなしき」その夜、熊野権現の霊夢ありて「もろともに塵にまじはる神ならば 月の障りも何かくるしき」かくて、身を祓い清めて、多年あこがれの熊野詣でを無事すませしと云う。

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境内には後白河上皇の歌碑がある。『源平盛衰記』によると熊野本宮を34回訪れている。

「咲きにほふ花のけしきを見るからに 神のこころぞそらにしらるる」

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こちらの小さな社は、八百万の神を祀る満山社である。明治22年の大洪水で流されたが、2年後に大斎原に社殿が現在の高台に移築された際、満山社だけが建立されなかった。それが平成20年にようやく再建された。

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神門に向かって左手前の境内に拝殿が建っている。神門の中に拝殿があるのが普通だが、参拝する順路に拝殿が外されているのは珍しい。拝殿の両側には「挑」と「成」の大筆書きの一文字が掲げられていた。九鬼家隆宮司が毎年書き上げる新年の大筆書きは、今年は「気」のはずで、「成」は昨年、「挑」は一昨年の一文字である。順次、取り替えながら掲げているのだと思われる。

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拝殿の右手前には亀石がある。どんないわれがあるのか書かれていないが、一説には亀石に触れると長寿になるという。蓋のついた甕の形をしているので、亀石というよりは甕石だったのではないかと思う。

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拝殿の左手前には大黒石がある。これも一説には触ると金運に御利益があるという。

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3月中旬なので、ピンク色が鮮やかなアケボノアセビ(Pieris japonica f.rosea)が満開に咲いていた。本州以南の山地に自生する常緑低木のアセビの紅色品種で、色が濃いものはベニバナアセビという。アセビは有毒植物で馬が葉を食べれば「酔う」がごとくに毒にあたるため「馬酔木」と書く。別名あしび、あせぼとも呼ぶ。

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神門の手前右側に宝物殿がひっそりと建っている。熊野本宮大社は千数百年の歴史を誇るものの、室町時代の文明年間、戦国時代の永禄年間の大火災、明治22年の大洪水と大災害に見舞われて多くの宝物を失った。神殿に祭神として祀られている木造家津御子大神坐像、木造速玉大神坐像、木造夫須美大神坐像、附木造天照大神坐像の4対の神像(10世紀末作、国重文)を除く宝物の多くが収蔵されている。三角縁神獣鏡など奉納鏡16面、平清盛奉納紺紙泥経、源頼朝奉納鉄湯釜(建久8年、国重文)、南北朝時代の絹本著色熊野本宮八葉曼荼羅などがある。

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宝物館の入り口に白いミヤマシキミ(Skimmia japonica)の花が咲いていた。本州の関東以西、四国九州の林下に生える常緑低木で、高さは1m前後になる。光沢のある葉は枝先に集まって互生し、枝先の円錐花序に白い小花を密につける。

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熊野三山への参詣道を熊野古道というが、中辺路・小辺路・小雲取越えなどが本宮大社に集まる。その熊野古道の一部が現在の本宮大社の境内を突き抜けている。本宮大社参道の西側に並行して、磨り減った石段の古道がかなり急坂で続いているので、帰りがけに少しだけ歩いてみることができる。「祈りの道」と名付けられている。

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本宮大社参道入り口の南500mほどの旧社地に、大斎原の大鳥居が建っているのが見える。大洪水の跡地には、流失して再建されていない中四社・下四社を祀る石造の小祠が建てられている。高さ約34m、幅約42mの大鳥居は、平成12年(2000)に建てられた鉄筋コンクリート造で、日本一の高さを誇る。