半坪ビオトープの日記

2016-07-29 鰊御殿、雷電海岸

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大沼公園から渡島半島道央自動車道で北上し、長万部から渡島半島を縦断し日本海側の寿都町に出る。寿都湾に注ぐ朱太川周辺では縄文期の土器やアイヌの人々の遺跡も発見され、古くから寿都には人が住んでいたと考えられている。寿都町の開基は、和人が集落を形成し始めた寛文9年(1669)とされるが、当時からニシンやサケ・マス・アワビなどの海産物とアイヌの人々の求める日用品(刀、鍋、酒など)との交易が盛んだった。その後、戦前に隆盛を極めたニシン漁で財を成した網元たちが競って造った木造建築が幾つか現存している。そうした網元の居宅兼漁業施設(番屋)が鰊御殿と俗称されるが、定義は未確定である。寿都町歌棄にある、御宿・鰊御殿と称する橋本家は商家であって厳密には鰊御殿ではない。この建物は、網元や漁師に品物や金を貸し、代金を数の子、身欠鰊などで返済してもらい、それを売って財を成した仕込屋の豪勢な建物である。床下には防湿のため600表の木炭を敷き詰め、釘を一本も使っていないという。現在は旅館として営業している。

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御宿・鰊御殿の向かいの海岸には、小さな恵比寿神社とその鳥居が建っているのが見えるが、その右手には大きな石碑が建っている。

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この石碑は追分記念碑という。かつて鰊漁が華やかであった開拓の初期、積丹半島神威岬から女人の渡航ができなかった。「忍路高島およびもないが せめて歌棄磯谷まで」。北へ出漁した男に対する切々たる慕情を歌った有名な江差追分の一節であり、この歌にゆかりの深い風光明媚な歌棄海岸に、昭和7年(1932)に建てられた。

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御宿・鰊御殿の少し先に漁場建築・角十佐藤家が建っている。義経の家臣・佐藤継信の末裔と称する初代佐藤定右衛門は、嘉永5年(1852)に歌棄・磯谷両場所請負人を勤め、維新後は駅逓取扱人を命ぜられた同地方随一の名家である。建築年代は、佐藤家の口伝では明治3年(1870)とされるが、外形の洋風建築様式から明治10年代と推定されている。外観は和洋折衷様式で、外壁は洋風の下見板張りを基調としている。二階正面には櫛形の飾りを付けた上下スライドのガラス窓を設け、一階正面には縦の組子を少し狭めたたてしげ格子と下見板張りの玄関を配置している。屋根には、洋風の六角窓の煙出しと、和風の煙出しとが設けられている。いわゆる鰊御殿とは違って漁夫の宿泊部がないのが特徴だが、保存状態が良く、規模・建築様式・構造などの点で現存する漁場建築の中で代表的な遺構とされる。

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佐藤家の前の海岸から海岸沿いに北西を眺めると、「だし風」と呼ばれる強風を利用した風力発電の風車が幾つか認められる。その右手に寿都町の市街地がある。

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さらに右手正面には、寿都湾を取り囲むように突き出た弁慶岬が見える。奥州を逃れた義経・弁慶一行は蝦夷地に渡りこの地に滞在し、弁慶はこの岬の先端に立って同志の到着を待っていた。その姿を見ていたアイヌたちは、この岬をいつしか弁慶岬と呼ぶようになったという伝説が残されていて、その姿を再現した銅像が建てられているという。

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寿都町からさらに海岸沿いに北上し、岩内町に入るとすぐに雷電海岸があり、そこに有島武郎文学碑が建っている。積丹半島の南西部の付け根にある岩内町は多くの文学者との縁がある。なかでも大正7年の有島武郎の小説「生まれ出づる悩み」は、岩内で苦悩しながら創作活動を続ける漁夫画家・木田金次郎をモデルにしている。碑文は、「生まれ出づる悩み  物すさまじい朝焼けだ。過って海に落ち込んだ悪魔が、肉付きのいい右の肩だけを波の上に現はしてゐる。その肩のやうな雷電岬の絶嶺を撫でたり敲いたりして叢立ち急ぐ嵐雲は、炉に投げ入れられた紫のやうな光に燃えて、山懐ろの雪までも透明な藤色に染めてしまふ。それにしても 明け方のこの暖かい光の色に比べて、何んと云う寒い空の風だ。長い夜の為めに冷え切った地球は 今その一番冷たい呼吸を呼吸してゐるのだ。」とある。

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有島武郎文学碑のある雷電海岸の左の先に雷電岬が突き出していて、その先端に刀掛岩が見える。その昔、義経と弁慶がこの地を訪れ、雷電岬で休息した際、あるいは釣りをする際に、弁慶は自分の太刀を置くために岩を捻って作ったのがこの「弁慶の刀掛岩」という。ここから見る刀掛岩に沈む夕陽は、絶景の観光スポットといわれる。

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雷電海岸は大小の石が集まった安山岩質の岩石海岸で、雷電山(1212m)の西北麓が日本海に没する断崖絶壁を成し、かつては交通の難所として知られていた。文学碑の右手には海に突き出た奇岩があり、その彼方には積丹半島が見える。近辺には雷電温泉が湧出しているが、残念ながら今は1件しか宿がない。

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雷電海岸から10分ほど進むと、ごろた石の島野海岸となる。右手前方の積丹半島には、白い建物が集まっている泊原発が認められる。

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その左手には積丹半島の山並みが見える。

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雪の残る山々は、左の山が積丹半島の最高峰・余別岳(1298m)であり、右の山が積丹半島で唯一登山道が整備されているという積丹岳(1255m)であろう。

2016-07-28 大沼公園

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函館駅から北、10数kmの距離に大沼国定公園がある。背後に望むことができる北海道駒ケ岳の火山活動によってできた堰き止め湖で、大沼、小沼、蓴菜じゅんさい)沼の集まる地域である。

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大沼湖畔遊歩道は3つあり、右手の大島の路は徒歩15分、中央の島巡りの路は50分、左手の森の小道は20分で1周できる。

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公園内には大小126の小島が浮かび、春から秋にかけてはサイクリング、ランニング、ボート、遊覧船など、冬にはスノーモービルやワカサギ釣りなどのアウトドアスポーツを楽しむことができる。

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広場正面の後楽橋を渡って島巡りの路を進むと、右手の島に西大鳥橋が見え、手前にボート、橋の向こうに遊覧船が走るなど、微笑ましいのどかな風景が広がる。

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大沼湖畔は多くの島々と複雑に入り組んだ入り江が変化に富んだ景色を構成しているので、水際を歩き進むと次々に変わっていく光景をパノラマのように楽しむことができる。

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まだ芽が吹き出し始めたばかりの木々の間からは、雪の残る駒ケ岳(1131m)の勇姿を随所で眺めることができ、足を止めることが多くなる。駒ケ岳を眺める大沼公園は、静岡三保の松原、大分の耶馬渓とともに新日本三景に選定されてから、昨年、百年を迎えた。

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島巡りの路は、最初の公魚(わかさぎ)島、浮島、アイヌ島と続く7つの島を巡るトレッキングコースで、それぞれの島をつなぐ橋を渡りながら、湖畔のミズナラやブナ、ハンノキなどの木々や水際の植物、水辺のマガモカルガモなど、大自然を満喫しながら、北海道では珍しい日本庭園的な景観を味わうことになる。

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駒ケ岳は、寛永17年(1640)、安政3年(1856)、昭和4年(1929)に大爆発を起こし、平成8年には小噴火を起こし、現在でも小規模な噴気活動が見られる。外輪山を形成する山頂部は、安政火口など3つの火口を中心として、剣ヶ峰(1131m)、砂原岳(1113m)、隅田盛(892m)の3つのピークからなり、これらのピークに囲まれて荒涼とした火口原が広がっている。

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ちょうどGWの最中なので、函館の五稜郭ではソメイヨシノが満開だったが、ここ大沼公園ではエゾヤマザクラが満開を迎えていた。エゾヤマザクラは、正式にはオオヤマザクラ(Cerasus sargentii)というが、北海道全域に多く見ることができるため、エゾヤマザクラの別名を持つ。ソメイヨシノに比べて花色が濃いためベニヤマザクラとも呼ばれ、開花と同時に茶色っぽい葉も同時に開くのが特徴である。

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日の出橋から袴腰橋、金波橋、湖月橋と立て続けに橋を渡ってコースの北部を反時計回りに回って行く。途中、木々の間に五輪石塔が建っていたが、由来はわからなかった。

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北の方向には駒ケ岳が見えるが、東の方向には浮島橋が見え、その向こうには横津岳(1166m)と思われるなだらかな山が望まれる。

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やがて湖畔にはカフェが現れ、近くの水際にはエゾノリュウキンカ(Caltha palustris var. barthei)の鮮やかな黄色い花が咲いていた。

2016-07-26 トラピスト修道院

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女子のトラピスチヌ修道院は函館市街地の郊外にあるが、男子のトラピスト修道院函館駅から25kmほど西の北杜市の郊外にある。正式名称は「厳律シトー会灯台の聖母トラピスト大修道院」といい、日本で最初の男子修道院である。修道院へ続くまっすぐな道路脇の杉とポプラの並木は有名だが、ポプラ並木の先にも修道院までまっすぐな歩道が続く。

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売店の手前、右手には八角形ドーム型の聖リタ教会が建っている。正式にはカトリック当別教会という。聖リタ教会は大正6年(1917)トラピスト修道院の創立者ジェラール・プゥイエ(帰化して岡田普理衛)らにより創立される。カッシーノの聖リタに捧げられた教会で、以来、トラピスト修道院の司祭が司牧している。本来、観想修道会である厳律シトー会の司祭が小教区を司牧することはできないのだが、世界のトラピストの中で例外的に許可を受けている。聖堂はその外観から「まるみ堂」と呼ばれている。女子禁制ではなく、日曜日の朝のミサには誰でも参加できる。平成5年(1993)の奥尻地震で亀裂が入ったため、平成7年(1995)に再建された。

丸窓は十二使徒のステンドグラスとなっている。

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売店前の公園には、三木露風の詩碑がある。

「日は輝かに 沈黙し 時はおもむろに 移り行けり 美しき地上の 断片の如く 我命は 光の中に いきづく」

童謡「赤とんぼ」の作詞者として知られる三木露風は、30代の初め頃、プゥイエ院長の招きで当院の文学概論、美学論などの講師として夫人と共に4年間を当別で過ごし、その間に夫婦で受洗してカトリック信者となった。また、男爵イモの開発者として知られる川田龍吉男爵も、晩年に当別教会にて、D.ベネディクト大修道院長によって洗礼を授けられた。

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ここの売店は、トラピストバターやクッキーが有名で、そのバターを使ったソフトクリームは濃厚で格別に美味しい。聖リタ教会と売店の前から修道院に向かうとき振り返ると、整然とした杉とポプラの並木が眺められる。

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トラピスト修道院は、明治27年(1894)当時の函館教区教区長A.ベルリオーズ司教がトラピスト会総長に日本に創立の可能性を打診したのが始まりである。信徒により当別の原野が寄進され、明治29年には9名の修道士の来日をみて、開院式が開かれ正式に創立された。翌年ノルマンディー地方にあるブリックベック修道院の副院長であるジェラール・プゥイエが修道院長として着任した。女子トラピスチヌ修道院天使園の創立はその翌年である。

正門は飾りのついた格子扉で閉ざされているが、事前に申し込んだ男性を除いて、ここから中に入ることはできない。

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格子扉の合間から本館がなんとか見えるのだが、やはり格子が邪魔して見辛い。

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格子に張り付いてかろうじて写真を撮った。新聖堂は昭和49年(1974)に落成した。

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正門内の左側に資料室があり、修道院内の見取り図や作業の様子、創立当時の様子や沿革などの紹介もある。修道院の敷地の左手奥の山の上にあるルルドの聖母や、そこからの展望の写真もあるので助かる。

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トラピスト修道院の沿革を読むと、その起源は古く、11世紀に遡るという。

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正門の前を左に進む道があり、受付に至る。この道からは正門と本館を同時に眺めることができる。

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受付脇の門から中を覗いてみただけでは、修道院内の生活はわからないが、祈りと労働を中心とした自給自足の厳しい生活を送るには、共同生活ができる身体的・精神的健康が求められるという。

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受付脇の道を左に進む道があり、緑豊かな牧草地も見えるが、ルルドの聖母のある山の上は遠そうなので諦めた。

2016-07-25 トラピスチヌ修道院

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函館市街地の東の郊外にトラピスチヌ修道院がある。正式名称は「厳律シトー会天使の聖母トラピスチヌ修道院」という、トラピスト会(厳律シトー会)の女子修道院であり、男子禁制である。

門を入って最初に出迎えるのが、フランスから贈られた大天使・聖ミカエルの像である。日本に初めてキリスト教を伝えた聖フランシスコ・ザビエルは、天文18年(1549)に鹿児島に上陸し、薩摩藩主である島津公に宣教の許可を受けたが、その日がちょうど聖ミカエルの祝日である9月29日だったので、ザビエルは聖ミカエルを日本の守護者と定めて、その助けを求めつつ宣教を始めたといわれる。

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トラピスチヌ修道院は上湯の川の高台に位置し、通称、天使園とも呼ばれる敷地内の凛とした空気感は、訪れる人の気持ちを引き締める。美しいレンガ造りの聖堂を正面に見ながら歩を進めると、純白の聖母マリアの彫像が待ち受けている。フランスにあるラ・トラップ修道院のマリー・ベルナルド神父の作品で、両腕をゆったりと広げてすべての人を優しく迎え入れる姿から、「慈しみの聖母マリア」と呼ばれ、親しまれている。

聖母マリアの右手の建物は、資料館及び売店である。資料館には修道院の歴史や修道女の日常生活に関する資料が展示され、売店では修道女の祈りと労働の実りを分かち合う、手作りのマドレーヌやクッキーなどの菓子や手工芸品などが販売されている。

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聖母マリアの左手には、旅人の聖堂と呼ばれる12角形の小さな聖堂が建っている。巡礼の人が静かに祈ったり、瞑想のひと時が過ごせるようにと、2000年の大聖堂を記念して造られた。聖堂内には祭壇も設えられ、ミサを捧げることもできる。

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トラピスチヌ修道院は厳律シトー修道会というローマ・カトリックの修道会に属しているが、シトー修道会は1098年にフランスのシトーという人里離れた荒れ野で、「聖ベネディクトの戒律」を徹底的に生きたいと望む修道士たちにより創立された。その「聖ベネディクトの戒律」とは、6世紀にイタリアのベネディクト修道院長によって修道者のために書かれた厳格な戒律で、今でも多くの修道会が規範としている。函館のトラピスチヌ修道院は、フランスのシトー修道院創立から800年後の明治31年(1898)に、当時の函館教区長だったベルリオーズ司教の尽力で、フランスから派遣された8人の修道女によって創立された。昭和10年(1935)には兵庫県西宮に、昭和28年(1953)には佐賀県伊万里に、昭和62年(1987)には韓国に修道女を派遣して女子修道院を創立している。

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敷地の左手奥には、南フランスにあるルルドの洞窟を模して造られた「ルルドの聖母」がある。1858年に聖母マリアが18回にわたってルルドの近くのマッサビエルの岩窟で、14歳の田舎娘ベルナデッタ・スビルーに現れ、ベルナデッタが聖母マリアのお告げに従い掘り当てた泉が、様々な病気の治癒をもたらしたという言い伝えに基づく。聖母マリアを見上げて跪いているのがベルナデッタである。

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修道院の建物の左手に、フランスから1936年に送られた、聖テレジアの像が立っている。カルメル会修道女として徳を磨き、「私が天に昇りましたら、地上にバラの花を降らせましょう」という最後の言葉から、胸に抱いた十字架にはバラの花が飾られている。

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正面左手の建物は大正2年(1913)に建てられた司祭館である。修道女の信仰生活を指導するために、男子のトラピスト修道院や、司教の任命によって、司祭方が派遣されている。

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司祭館の右側の丸みを帯びた壁のところが、この修道院の中心の聖堂である。ここで毎日、ミサと7回の共同体の祈りが捧げられている。屋根の上にある小さな塔は鐘楼で、ミサや共同体の祈りの始めに、また仕事の終わりの時刻などに大小2つの鐘が鳴らされる。

丸い聖堂の壁には、フランスから贈られた聖女ジャンヌ・ダルクの像が立っている。15世紀の百年戦争でフランス軍と共に戦い、不正な宗教裁判で処刑されたが、死後に無罪が判明して名誉が回復され、聖女とされ、修道女のシンボルとして敬われている。聖堂の手前右手に伸びる煉瓦の塀にある小さな門は「入会者の門」と呼ばれる。修道会に入会を認められて最初に潜る門で、この先に修道院の正面玄関がある。

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修道院の建物の前には桜の花が満開に咲き誇っていて、そこで記念写真を撮る人がたくさんいた。

2016-07-22 北方民族資料館

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基坂の下で振り返ると、元町公園の上には函館山が見える。かつては行政の拠点として、坂上に役所が置かれていた。そのため住民の間では「お役所坂」「御殿坂」とも呼ばれて親しまれてきた。基坂の名は、里数を測る上で「基点」となる元標が坂下に建てられていたことに由来するという。

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市電の通る海峡通りの角には、ペパーミントグリーン色の相馬株式会社の社屋が建っている。大正5年(1916)に建てられたルネッサンス様式の洋館で、マンサード・寄棟・切妻の3つの形式の屋根が複雑に組み合わさっている。主屋正面ファサードは右側に少し突き出る翼屋がある。主屋屋根正面に円形、東西中央部には切妻屋根の神殿風のドーマー窓を配し、外壁の窓は1階が三角ペディメント、2階が櫛形ペディメントの庇が付いた窓と使い分ける。設計・施工は地元の筒井長左衛門。相馬株式会社は初代・相馬鉄平が米穀商「相馬商店」として開業後、海陸物産商や土地投資などに事業転換し、現在は不動産賃貸業を手がけているが、今でも社屋として使用しているため中を見学することはできない。

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相馬株式会社の社屋の東向かいに函館市北方民族資料館が建っている。大正15年(1926)に建設された旧日本銀行函館支店の建物を活用し、市立函館博物館旧蔵資料に、馬場脩コレクションおよび児玉作左衛門コレクションを加えた、アイヌ民族を中心とした北方民族資料を展示している。

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アイヌといえば北海道アイヌ、千島アイヌ、樺太アイヌが知られるが、そのほかの北方民族としては樺太のウィルタ、ニブフ、ロシアのヤクート、コリヤーク、チュクチ、アリューシャン列島のアリュート、アラスカのイヌイトが知られる。このカヤックは、アリューシャン列島のアリュート民族がラッコ猟に使っていた3人乗りの皮舟で、バイダルカという。

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ちょうどこの時期に国立民族学博物館で特別展示されていたはずの「夷酋列像」が、ここにも展示されていたので見る機会を得た。この複製は、フランスブザンソン美術考古博物館所蔵の蠣崎波響の「夷酋列像」である。松前藩の家老・蠣崎波響がアイヌの肖像画を描いたのは、寛政元年(1789)のことで、アイヌの蜂起「クナシリ・メナシの戦い」が切っ掛けである。当時の和人の非道に耐えかねたアイヌの人々の蜂起が鎮圧された際、停戦の仲介をしたアイヌの酋長の姿を「御味方」として描くよう藩が命じたという。これはションコ(贖穀)というノッカマプ(訥子葛末膚)の首長である。ノッカマプはクナシリの酋長ツキノエがロシア人を案内したところである。クナシリ・メナシの戦いで投降した首謀者38名が銃殺されたのがノッカマプの丘である。

ションコは毛皮に縁取られた赤衣の上に豪奢な長外套をまとっている。

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こちらは北海道東部の厚岸の首長・イトコイ(乙箇吐壹)である。妻はエトロフ出身だが、アッケシ(厚岸)はエトロフやクナシリと強固な血縁関係で結ばれていた。最上徳内をエトロフ島に案内したのもイトコイである。清朝官服の蝦夷錦の上にロシアの赤いマントを羽織っており、アイヌの山丹交易の広さが窺える。

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アイヌの長など身分の高い人の盛装は、年代が下るにつれ山丹服(蝦夷錦)から本州産の小袖、陣羽織へと変化していった。小袖には霊力があり、小袖を代々受け継ぐと、その霊力も受け継ぐと考えられていた。下の絵のようにカムイモシリ(神の住むところ)では、小袖を着たカムイたちが、漆器を用いて酒宴を開く情景が多く見られるそうだ。

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アイヌの色布置文衣(ルウンペ)は手の込んだ美しい衣服である。木綿地の衣服には、絹や更紗、小袖の端切裂、木綿の古裂などの切り伏せや刺繍によって独特の文様があしらわれ、文様の付け方などに地域的特性が見られる。

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衣服の文様は美しく着飾るだけでなく、襟首、袖口、裾まわりの空いている部分や死角になっている部分から悪霊が忍び込まないように魔除けとして施された。

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アイヌは狩りや漁業、熊送りなど様々な場面で呪術的な儀式や占いを行っていたが、地域によりその方法や道具が違っている。左はアホウドリの頭骨の祈り道具。アホウドリはレブンシラッキカムイ(沖の漁の神)と呼ばれ、メカジキのいる場所を教えてくれるという。アホウドリの頭骨にイナウを付けて漁の無事を祈った。右は狐の頭骨の占い具。決心に迷った時、狐の頭骨=シツンペカムイ(黒狐の神)の下顎を外して落下させて占った。

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これは「蝦夷島奇観」(写)に描かれた熊送りの儀式の様子。初春に冬眠中の親グマを獲ったとき、仔熊がいれば生け捕りにして、村で2年ほど飼い育ててからカムイの世界へ送り返す儀式を行う。たくさんの土産物を持たせて、再び人間の世界へ訪れることを期待する儀式である。蝦夷島奇観は、村上島之丞(秦檍丸)が寛政12年(1800)に著した3巻からなる蝦夷風俗絵巻である。

2016-07-20 元町教会巡り

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函館山にはロープウェイで上がることもできるが、その麓駅から北にかけての元町一帯は、数々の教会や旧領事館などレトロな建物が立ち並び、函館市内屈指の定番観光エリアとなっている。ロープウェイ駐車場に近い聖ヨハネ教会は、明治7年(1874)創建の、北海道にある英国聖公会の中で最も古い歴史を持つ教会。1979年にできた新しい聖堂は、中世ヨーロッパの教会の工法を用いた近代的なデザインで、茶色の十字形をした屋根が印象的である。建物のいたるところに十字架が見られる。

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聖ヨハネ教会があるチャチャ登りという急坂は、アイヌ語で「おじいさんが腰をかがめて歩く坂」という意味だが、その向かいに聖ハリストス正教会がある。安政5年(1858)日本で最初のロシア領事館が箱館に置かれ、翌年初代ロシア領事は敷地を確保し、安政7年(1860ロシア領事館の附属聖堂として、日本で最初の正教会の聖堂「主の復活聖堂」が建てられた。翌年来函した青年司祭ニコライが、この聖堂を拠点に日本で初めてロシア正教を布教した。

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現在の聖堂は1916年にロシア風ビザンチン様式で再建されたもので、国の重文に指定されている。煉瓦造りの建物は壁を白色の漆喰塗り仕上げにし、屋根は緑色の銅板を用い、屋上には冠型をしたクーポル(ドーム状小塔)が6つあり、それぞれに十字架が添えてある。正面玄関上に聳える八角形の鐘塔には、美しい音色で有名な鐘があり、「ガンガン寺」の愛称で親しまれている。鐘の音は「日本の音風景100選」に認定されている。

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聖ハリストス正教会のすぐ下の大三坂に面して、カトリック元町教会が建っている。尖塔上の風見鶏が目印で、元町の代表的風景・教会群の一角を占める。パリ外国宣教会司祭メルメ・カションが安政6年(1859)に設けた仮聖堂、あるいは慶応3年(1867)に来函したフランス人司祭のムニクーとアンブルステルが設けた仮聖堂を起源として、フランス人司祭のマレンが明治10年(1877)に木造の初代聖堂を建立したとされる。初代聖堂は明治40年に火災で焼失したが、明治43年には煉瓦造の二代目聖堂が竣工した。これも大正10年に火災で焼失。焼け残った煉瓦の外壁を使用して大正13年(1924)に高さ33mの尖塔を持つ鐘楼があるゴシック様式の聖堂として再建され現在に至っている。

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聖堂内の中央祭壇や副祭壇、両壁にある14景の十字架の道行きは、火事の見舞いとしてローマ法王ベネディクト15世から贈られたものである。聖堂裏には高さ1.5mの聖母マリア像を祀る「ルルドの洞窟」がある。

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大三坂の次にある八幡坂の名称は、かつて函館八幡宮があったことに由来する。函館湾を一望できる眺めと坂の両側にある並木の組み合わせが美しく、遠くにはメモリアルシップ摩周丸も見え、函館を象徴する坂として知られる。

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坂を見ながら港が丘通りを北西に進むと、左手にブルーグレーとイエローの色が美しい旧函館区公会堂が建っている。明治40年の大火により焼失した町会所の再建として、豪商・相馬鉄平や住民の寄付により明治43年(1910)に竣工した。北海道特有の木造二階建て擬洋風建築、アメリカコロニアル風洋館で、札幌の豊平館と並んで明治期の洋風建築として知られる。左右対称のポーチを持ち、回廊で結ぶ中央にベランダを配し、左右のポーチにもベランダを持つ。ポーチの袖妻には唐草模様を配し、玄関や回廊を支えるコリント式の円柱の柱頭に洋風の彫刻が施されている。建物の工事請負人は村木甚三郎、和洋融合の建築衣装に優れ、国の重文にも指定されている。

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館内にはハイカラ衣装館という貸衣装屋もあり、2階の大ホールで豪華なドレスを着て記念写真を撮ることもできる。

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貴賓室の御座所は、皇族が宿泊や休憩に使用した部屋で、ロココ調の椅子は絹織り、つなぎ目は赤紫の玉紐をパイピングしている。テーブル甲板は黒檀、周りは胡桃の木で唐草の彫刻が施されている。床は狂いのこない亀甲張り、外国製の壁紙やシャンデリア、暖炉も用いられ、家具調度の保存状態も非常に良い。

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函館区公会堂の下は元町公園として整備されている。函館が「はこだて」と呼ばれるようになった由来の場所で、始まりは室町時代に遡る。後に松前藩の初代藩主となる武田信広とともに、津軽からやってきた河野政通が、現在の元町公園と市立函館病院跡地付近に箱型の館を築いたことから「箱館」の名がついたという。江戸時代には箱館奉行所が開かれ、その後も北海道函館支庁庁舎等が築かれるなど、常に函館を司っていた場所である。旧支庁庁舎横には、私財を投げ打って函館の都市形成に貢献した「四天王」、今井市右衛門・平田文右衛門・渡辺熊四郎・平塚時蔵の銅像も立っている。

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四天王像の左には旧函館支庁庁舎が建っている。色鮮やかなこの洋風木造建築は、明治42年(1909)に建てられ、1982年に修復されている。前面の柱廊玄関のエンタシス風の柱が特徴である。2階の写真歴史館には、日本最古の写真「松前藩勘定奉行石塚管蔵と従者」などが展示されている。

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元町公園の東に旧相馬邸が建っている。明治41年(1908)に豪商・相馬鉄平の私邸として建てられた総面積680屬力騨寮淬錣旅訶,如函館を代表する民間建築である。新潟生まれの相馬鉄平は文久元年(1861)に函館に渡り、文久4年に米穀商となって財を築き、後に北海道一の豪商となって、函館発展に寄与した。

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元町公園の下の基坂の東側に、旧イギリス領事館が建っている。イギリス領事館は安政6年(1859)の函館開港に伴い称名寺の中に開設された、アメリカロシアに次いで古い領事館である。現在の建物は1913年から1934年まで領事館として使用され、現在は領事執務室などが公開され、開港ミュージアムも併設されている。

2016-07-19 函館朝市、函館山

[][][][][]函館朝市函館山 21:11

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函館で海鮮料理を味わうなら、まず函館朝市を見てみたいと思い訪れた。戦後、函館駅前広場の立売が発祥で、昭和31年に現在地の若松町に移転、海鮮丼の元祖「きくよ食堂」などが創業し、現在は約250店舗が集結している。海鮮食堂もいいが、やはりカニやホタテなど新鮮な魚介を店先にずらっと並べて売っている鮮魚店を見て回るのが楽しい。

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毛ガニやタラバガニを売っている店に、「活イカあります」の札を見つけて入ってみることにした。

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ウニ丼は季節外れのためかイマイチの味だったが、活イカは噂にたがわずコリコリして美味しかった。

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函館といえば函館山の夜景が有名だが、夜は存分に酔うため外出しないことにしているので、味気ないが昼間に函館山に上った。麓ではすでに桜が満開だが、函館山の上はまだのようだ。函館山とは、展望台のある御殿山(334m)をはじめとする13の山々の総称である。麓から山頂まで散策路が整備されていて、1時間ほどで登れるという。

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函館山函館市の市街地西端にある山で、陸繋島でもあり、牛が寝そべるような外観から臥牛山とも呼ばれる。約100万年前の海底火山の噴出物が土台となり、その後の噴火による隆起・沈下を繰り返して大きな島となった。海流や風雨で削られて孤島となり、流出した土砂が堆積して砂州ができ、約5000年前に渡島半島と陸続きとなった。函館市の中心街はこの砂州の上にある。

山頂展望台から西を眺めると、すっかり曇った空の向こうにトラピスト修道院のある北斗市南部の山がかすかに見える。

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北西から北の方向を眺めると、北斗市函館市に囲まれた函館湾全体が見える。19世紀半ばに湾内東側に函館港が整備されて本州と北海道を結ぶ物流拠点となり、現在では函館港周辺の臨海部にはフェリーなどの埠頭のほか、造船業、製鋼業の工場などが立ち並んでいる。湾の中央から西側では古くから漁業が営まれ、ホッキ貝、サケ、ノリ、ホタテ貝などが獲れる。

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函館山から北東を眺めると、渡島半島と繋がった幅広い砂州の上に函館市の主な市街地が形成されているのが確かめられる。函館港内に作られた人工島・緑の島には芝生と駐車場だけしかないという。右手の長い砂浜の先には、湧出量が1日7000トンと豊富で、津軽海峡を眺められる湯の川温泉がある。

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函館市街地をよく見ると、左下の函館港岸壁には青函連絡船摩周丸が記念館となって係留・保存されている。近くの函館駅の先には、白い五稜郭タワーが認められる。

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東南方向の崖下には、谷地頭温泉や石川啄木一族の墓がある立待岬方面がなんとか見下ろすことができる。

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函館山展望台入り口には、伊能忠敬の記念碑がある。最初の本格的日本全図の制作者・伊能忠敬は、寛政12年(1800)蝦夷地の実測を現在の函館山を基点として行った。

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函館山の山頂付近はまだ枯山だが、麓に下るにつけ桜の花も見受けられるようになる。

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道路脇には春の花が幾つも見られる。こちらの白い花は、キクザキイチゲ(Anemone pseudoaltaica)である。北海道と本州の近畿地方以北の山地の林床に生える多年草で、萼片は花弁状で、菊に似た白色〜紫色の花を一輪つける。キクザキイチリンソウとも呼ばれる。

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筒状の青紫色の花は、エゾエンゴサク(Corydalis ambigua)である。北海道東北地方日本海側の山地の湿った林内に生える多年草で、春を告げる花として親しまれている。

2016-07-15 函館、五稜郭

[][][]函館、五稜郭 20:22

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銀婚湯から函館の五稜郭を目指す。五稜郭は江戸時代末期に江戸幕府により蝦夷地箱館郊外に建造された稜堡式の城郭である。昭和34年(1964)、五稜郭築城100年を記念して高さ60mの五稜郭タワーが開業した。平成18年(2006)には高さ107mの新タワーに改築されている。高さ約90mの展望台は2層からなり、約500人が収容可能で、函館市内を一望できる。

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大正3年(1914)から五稜郭公園として開放された際、10年かけて約1万本のソメイヨシノが植樹され、現在では約1600本が花を咲かせ、北海道有数の花見の名所となっている。正面から入園して一の橋を渡りきった右手の土手にある桜が、周囲に遮るものがなく、とりわけ見栄えがするといわれる。今年はちょうどGWに満開で、たくさんの花見客が五稜郭公園を訪れていた。

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二の橋を渡って五稜郭に入るとすぐ左手に、武田斐三郎の顕彰碑がある。武田斐三郎は、緒方洪庵や佐久間象山らから洋学などを学び、徳川幕府の命を受けて洋式城郭の五稜郭を設計し、元治元年(1864)に完成させた。顕彰碑は昭和34年(1964)、五稜郭築城100年を記念して建てられた。

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安政元年(1854)の日米和親条約による箱館の開港当時、奉行所は函館山の麓にあり、箱館の港と町を一望できたが、外国軍艦から格好の標的にもなるため移転が検討された。移転先の役所を囲む土塁が亀田御役所土塁すなわち五稜郭である。五稜郭での箱館奉行所は幕府の北方政策の拠点となった。その後まもなく、慶応3年(1867)の大政奉還により明治政府が奉行所の業務を引き継ぎ、名称は箱館裁判所・箱館府となった。しかし、江戸開城に納得しない榎本武揚らは蝦夷共和国の樹立を目指して北海道に上陸し、五稜郭の占拠を成し遂げるも、新政府軍の反撃に屈し、明治2年(1869)5月に五稜郭を明け渡した。箱館戦争後、大半の建物が解体されたものの、白壁の土蔵「兵糧庫」は難を逃れ、箱館奉行所は平成22年(2010)に復元公開された。屋根の上にあるのは太鼓櫓である。

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奉行所の館内には、大広間や表座敷などを忠実に再現した再現ゾーン、五稜郭と奉行所の歴史を解説する歴史発見ゾーンなどがある。玄関のすぐ右奥にある使者の間には、榎本武揚の書(複製)が掲げられている。右の書「入室但清風」は、戊辰戦争終結後、土方歳三の甥が歳三の戦死の状況を聞きたく榎本武揚を訪ねた際、故人を偲び書き上げた書で、原本は土方歳三資料館(東京都日野市)にある。左の掛け軸の詩書は、榎本武揚が箱館戦争に敗れ、東京に護送される際の心境を詠んだもので、「健武帯刀前後行 籃輿羅網失窓明 山河百戦恍如夢 獨仰皇裁向玉城」とある。

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次は大広間。四之間から三之間、弐之間、壹之間を眺めたところ。4部屋で72畳。突き当たりの壹之間は箱館奉行が接見に使用した部屋で、1968年、ここで幕府から明治政府への引き継ぎが、最後の箱館奉行・杉浦兵庫頭誠と明治政府の総督清水谷公考との間で執り行われた。床の間には2人目の箱館奉行堀織部正利煕の書が掛けられている。

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壹之間の裏手の武器置所を経て再奥にある表座敷は、奉行所の中で最も格式の高い執務室である。本来はこの奥に奥座敷があったが、復元は表座敷までである。床の間の掛け軸は最後の箱館奉行・杉浦兵庫頭誠の江差詩書である。「港門布葉数千船 三里漁場一様羶 巨利網来人意湧 煙波萬頃是良田 驚看水面悉青鱗 男女三千簇海濱 一港民家餘老弱 俳優歌妓亦漁人」

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歴史発見ゾーンでは、陶磁器や生活用具など奉行所跡地からの発掘品が多数展示されている。左奥のコンブラ瓶は長崎波佐見産の輸出専用品でありほかにもヨーロッパ産のワイン瓶・ビール瓶もまとまって出土している。

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函館戦争に関わる資料もたくさん展示されている。この銃は戊辰戦争時に大量に輸入された先込め式歩兵銃の一種、エンフィールド銃である。

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五稜郭公園は桜の名所としても有名で、奉行所の裏手の広場にもソメイヨシノの古木が満開に咲き誇っている。

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さらに周囲を巡る石垣の上にも桜の木が多く植えられているので、そこから函館市内を見晴らすこともできる。

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箱館奉行所の正面には、いくつか建物が並んでいる。右から土蔵、板庫、兵糧庫である。土蔵の兵糧庫は、五稜郭の築造当時の建物としては唯一現存している建物である。

2016-07-14 銀婚湯

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洞爺湖を後にし、内浦湾(噴火湾)に沿って渡島半島をひたすら南下して、八雲町落部川を遡って山間の銀婚湯にたどり着く。旧八雲町は、旧尾張藩主徳川慶勝が北海道開拓と旧臣授産のため明治11年、72名を移住させて開拓を始めたことに始まる。平成17年に日本海側の旧熊石町と合併を行い、日本で唯一太平洋日本海に面する町となった。八雲町落部から10kmほど山に入った落部川沿いに佇む銀婚湯は、先々代が熱湯の湧出に成功した日が大正天皇の銀婚式の日だったことに因んで付けられた名である。1万坪の広さを誇る敷地内には源泉が5本、林の中に散在する貸切露天風呂が5つある。早速、桂並木の先の杉の湯に向かうが、途中、左手にかつらの湯がある。巨大な岩の上に高床式の砦のような掘建小屋が建てられ、巨岩を刳り貫いた湯船がとてもユニークな風呂だという。

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桂並木の下草には野草が色々と花を咲かせている。この白い花はワサビ(Wasabia japonica)であるが、昔から香辛食品、薬用として利用されてきた山菜で、栽培物と区別するためヤマワサビ、サワワサビなどと呼ばれている。

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最も多く咲いているこちらの白い花は、ニリンソウ(Anemone flaccida)である。日本全国の山野の林内などに生える多年草で、普通2個の花をつけるとされるが、実際の花数は1〜3個と幅がある。深く裂けた輪生する葉には、サンリンソウのような柄はない。

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桂並木から杉木立ちに変わる道を進むと、突き当たりに祠のような建物がひっそりと佇んでいる。ここだけは露天でなく内湯となっているが、小さな明かり窓一つの薄暗い小屋の中に総木造の浴槽が設えられている。帳場で借りる棒状の入湯札を扉の横の穴に突っ込むと、内側のつっかえが外れて扉が開く巧妙な仕掛け鍵は感動ものである。

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宿に戻るときに通る裏庭には、小さな渓流が造られていて、水際にはエゾノリュウキンカ(Caltha palustris var. barthei)が大きな株を作り、鮮やかな黄色い花を満開に咲かせていた。北海道と東北北部の亜高山帯から高山帯の湿地に生える多年草で、千島サハリンなどにも分布する。母種のリュウキンカより葉も花も大きく豪勢である。

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翌朝早く、散歩がてらにトチニの湯に向かう。庭をぐるっとまわり込んで宿の裏手にある赤い吊橋で落部川を渡る。川向こうだけでも3箇所ある露天風呂のうち最も遠くにあるので、足元をしっかり整えて遊歩道を進む。

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桜の植林や白樺並木を抜けていくと、道端にオオバナノエンレイソウ(Trillium kamtschaticum)が咲いていた。北海道東北地方の山地帯〜亜高山帯に生える多年草で、白い内花被片がミヤマエンレイソウより大きい。

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こちらの花はエンレイソウ(Trillium apetalon)で、内花被片がなく外花被片は緑色から褐色である。北海道九州の山地帯〜亜高山帯のやや湿った林内に生える。

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スミレなどの花も見ながら散策を楽しんでいると、ようやくトチニの湯に到着する。これほど遠くまで来ると、入湯札の鍵も必要を感じない。巨木の丸太を刳り貫いた湯船には、銀婚湯で最も濃い2号源泉が単独使用されている。丸太湯船の先にももう一つ小さな湯船が設けられていて、どちらも落部川のせせらぎを眺めながらのんびりと露天風呂を楽しむことができる。

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宿に戻るときの裏庭で今度はシラネアオイ(Glaucidium palmatum)を見かけた。北海道と本州中部地方以北の深山に生える1属1種の日本特産種であるが、花色は淡紅紫色である。これは花色を濃く品種改良した園芸種であろう。

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その近くにはツバメオモト(Clintonia udensis)の白い花が咲いていた。北海道と本州の奈良県以北の山地の林内に生える多年草で、オモトに似た葉を2〜5枚つけ、伸びた花茎の先に小さな花を咲かせる。秋には瑠璃色から藍黒色に変わる液果を実らす。

2016-07-12 昭和新山、有珠山

[][][]昭和新山有珠山 21:23

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洞爺湖の南に有珠山があり、20世紀の100年間に4回の噴火が記録されているが、2回目の昭和19年から20年(1944-45)にかけての有珠山噴火により東山麓の畑が隆起し、標高398mの昭和新山ができあがった。

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昭和新山の麓には洞爺湖有珠山ジオパーク火山村があり、有珠山噴火の歴史や火山の仕組みがわかる情報館や噴火体験室、防災シアターなどの学習施設がある。有珠山ロープウェイの山麓駅も兼ね、そこから大型ロープウェイに乗り6分で山頂駅にたどり着くことができる。

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有珠山に向かって上がっていくと、右手に洞爺湖が現れ、中島が意外に大きく見て取れる。中島の左手彼方には、まだ雪の残る端正な雄姿の羊蹄山を眺めることができる。

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眼下の昭和新山もまだ水蒸気をわずかに出しながら、赤茶けた山肌を不気味にさらけ出している。約1年続いた噴火の後に隆起が始まり、溶岩ドームの高さは9ヶ月で175mにも盛り上がったという。溶岩ドーム(円頂丘)はデイサイト質の粘性の高い溶岩により形成されているが、温度低下や侵食などで少しずつ縮んでいるそうだ。山肌が赤色に見えるのは、かつての土壌が溶岩の熱で焼かれて煉瓦のように固まったからである。

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洞爺カルデラ南部有珠山が形成されたのは約2万年前とされ、噴火を繰り返し年月をかけて成層火山をなしたが、約7千年前に山頂部が爆発、山体崩壊が発生して南側に口を開けた陥没地形が形成された。この時発生した岩雪崩は内浦湾(噴火湾)にまで達し、有珠湾周辺の複雑な海岸線をつくった。

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有珠山は二重式火山で、直径約1.8kmの外輪山の中に大有珠(標高737m)、小有珠などの溶岩円頂丘や、オガリ山、有珠新山(669m)などの潜在円頂丘が形成されている。また、山麓にも溶岩円頂丘の昭和新山や、潜在円頂丘の金比羅山、四十三山(明治新山)などを有する。

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約7千年前の山体崩壊後は長く活動を休止していたが、寛文3年(1663)に突如として噴火活動を再開した。記録のある有珠山噴火で最大の寛文噴火では現在の壮瞥町で3mの噴出物が積もり、5人の死者がでた。明和6年(1769)の明和噴火の後、文政5年(1822)の文政噴火では史上最大の50人以上の死者がでた。和人とアイヌの交易場所であったアブタコタン(虻田)は壊滅し廃村となった。その後も嘉永6年(1853)の嘉永噴火明治43年(1910)の明治噴火と続き、昭和20年(1945)、1977年、2000年と20世紀に4回の噴火を数えた。

山頂駅から左に数分進むと、有珠山火口原展望台がある。有珠山山頂の左手(西)に、1977年の噴火で誕生した過去最大級の銀沼噴火口が見下ろせる。直径が350mあり、今でも水蒸気を上げている。

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展望台から南方面には、伊達市が一望され、彼方には室蘭岳などの山並みも見える。

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北東を向くと、眼下に昭和新山、彼方にはホロホロ山や恵庭岳から札幌岳へと続く、大きな雪山の連なりが認められる。

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北には今来た山頂駅とその向こうに洞爺湖がみえるが、残念ながら羊蹄山有珠山に遮られていて見えない。

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有珠山の山頂には牙のように鋭く天を衝く岩峯が連なり、自然の荒々しさを十分表している。右手の方には岩の間に穴がくりぬかれ、向こうに空が見えるところもあり、まさに奇岩怪石といえよう。

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帰りにも次第に大きくなっていく昭和新山を見下ろしながら、火山のエネルギーの迫力に圧倒される。この後、洞爺湖岸にある火山科学館に立ち寄って、映像とボディソニックによる震動で、甚大な被害を被った1977年の噴火の凄まじさを体感した。

2016-07-11 洞爺湖、中島

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洞爺湖の「とうや」とは、アイヌ語の「トヤ」(湖の岸)に由来し、湖の北岸を指す地名であったが、和人はその北岸を向洞爺と呼んで洞爺を湖の名にした。アイヌの人々は洞爺湖のことを「キムント」(山の湖)と呼んでいた。地元では「どうや」と呼ぶこともある。

大小4つの島全体が中島国有林となっているが、林野庁では一番大きい中島(大島)を「レクリエーションの森」(風景林)に指定し、島内散策のための遊歩道を設けている。

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船着場に着くとすぐ目の前に神木とされる2本の桂の巨木が立っている。「ウンクル・セトナの桂の木」と呼ばれ、倭人とシャクシャインの戦いに翻弄された、美しいアイヌの乙女と戦士ウンクルの悲恋に由来し、二人の化身として祀られているという。

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「緑の宝石」中島国有林の散策コースは、カラマツやトドマツの林を巡る約2kmの周遊コースと、島の中央のアカエゾマツ巨木の倒木を目指すアカエゾマツコースがある。船着場周辺はエゾシカの食害を防ぐためフェンスが巡らされているが、ゲートを越えるとどちらのコースも最初は明るいマツ林の中を進む。

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2種類の松ぼっくりが落ちていたが、左がエゾマツで、右がアカエゾマツであろう。そばに風変わりなキノコが生えていた。世界的に広く分布するハナビラニカワタケと思われるが、ほぼ無味無臭でキクラゲ同様食用にできる。

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中島にはエゾシカが多数生息していて植物が減少しているが、元々この島に生息していたわけではない。1957年にオス1頭、翌年メス1頭、1965年に妊娠したメス1頭の計3頭が導入されたことによる。以後個体数が増えて約400頭となり、その後、食料の植物が減少して個体数の増減を繰り返している。冬季にはササしかないためササがほぼ全滅し、エゾシカが食べない植物だけが増加している。その筆頭がこのフッキソウ(Pachysandra terminalis)で、あちこちに群生している。

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スミレ類もこの半世紀でずいぶん消滅したとされるが、ミヤマスミレ(Viola selkirkii)だけはどうにか生き抜いているようで、いくつか見かけることができた。

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右手に整然と植林されたトドマツの林が現れ、その林の先を右に折れると周遊コースとなる。

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トドマツ林の林下もフッキソウの大群落で覆われている。もともと日陰のグランドカバーによく使われる常緑の多年草だが、これだけ広がることは珍しい。

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左手に小さな風穴があったが、手を当ててもあまり風は感じなかった。やがて右手に切り株の休憩所が現れる。

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もう少し登っていけば大平原という広場に出るはずなのだが、帰りの船が気になるのでそろそろ引き帰さねばならない。ところどころに金網のフェンスで囲まれた植生保護・調査区域が設けられていた。保護すれば少しずつ復活するとはいえ、絶滅した植物は元に戻らない。やはり、「緑の宝石」という自然林を取り戻すためには、エゾシカを全面的に駆除するしかないと思う。

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エゾシカが食べない植物にはフッキソウのほかハンゴンソウやフタリシズカなどが知られる。このグロテスクな若芽はテンナンショウ属(マムシグサ)の偽茎と思われ、中島に自生するコウライテンナンショウ(Arisaema peninsulae)であろう。以前はエゾシカが食べなかったとされるマムシグサだが、植物が減った最近ではこれも食べるようになっているといわれる。

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周遊コースに戻り、一番左の湖畔コースを進んで湖畔に下りた。船着場が見えるが、金網が張り巡らされているのでゲートを探す。

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ゲートの内側では、エゾシカに食害されていないフキ(Petasites japonicus)が大きな葉を伸び伸びと広げていた。エゾシカの食害の有無を歴然と知らしめる光景であった。

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船着場近くには洞爺湖森林博物館が建っている。森林資源だけでなく、洞爺湖の誕生、中島のエゾシカや、洞爺湖の自然を幅広く紹介している。たくさん生息しているとはいえ、中島散策ではエゾシカに直接会うことができなかった。

2016-07-08 洞爺湖、遊覧船

[][][]洞爺湖、遊覧船 20:20

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登別から洞爺湖へ向かう途中、道央自動車道から右手に昭和新山が木々の間から垣間見え、まもなく有珠山がその全貌を表す。大きな洞爺湖はその向こう側にある。

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その先3分ほどで、長流川橋(おさるがわばし)に差し掛かる。伊達市長和町の長流川に架かる長流川橋は、高速道路が河川を渡る橋梁として日本最長の1,772.5mを誇る。標識には「高速道日本一橋長1,770m」とある。ちなみに東京湾を渡るアクアブリッジは、全長4,384mある。

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洞爺湖は、虻田郡洞爺湖町有珠郡壮瞥町にまたがるカルデラ湖である。湖中に浮かぶ中島巡りの遊覧船があり、中島に下船しなければ50分で遊覧でき、下船すると30分単位で散策の時間をとることができる。桟橋の東南には、洞爺湖畔にそびえる昭和新山有珠山が見える。

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洞爺湖の面積は、70.72平方キロメートルあり日本で9番目、カルデラ湖としては屈斜路湖支笏湖に次いで3番目の大きさである。桟橋から正面の中島に向かい、真北に進むと羊蹄山(ようていざん)の雄姿が見える。標高1,898mの成層火山で、後方羊蹄山(しりべしやま)として日本百名山に選定されている。旧名・後方羊蹄山は、斉明天皇5年(659)に阿部比羅夫が郡領を置いたと日本書紀に記されている地名・後方羊蹄(しりべし)に由来する。後方で「しりへ」と読み、植物のギシギシの漢名である羊蹄を和名で「し」と読む。

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アイヌの人々はマッカリヌプリ(真狩山)もしくはマチネシリ(雌山)と呼ぶ。蝦夷富士の別名も持つ羊蹄山は、5月上旬でも全山雪に覆われていて、独立峰のため姿が美しい。山頂には直径700m、深さ200mの火口があり、登るには5時間前後かかる。若い時にトムラウシ山から大雪山を数人でキャンプしながら縦走した後、帰り道に羊蹄山に単独登山したが、久しぶりに羊蹄山を眺めていると、半世紀ほど昔のその頃のことがいろいろと思い出された。

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桟橋のある洞爺湖温泉を振り返って眺めると、温泉街の後ろには有珠山が聳えていた。20世紀に4回大噴火した有珠山の火山活動の真っ只中に温泉があるのがよくわかる。

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洞爺湖の中央に浮かぶ4つの島を総称して中島と呼ぶが、大島(ポロシリ)・弁天島(トプモシリ)・観音島(カムイチセモシリ)・饅頭島(ポンモシリ)の中で一番大きい大島のことも、普通に中島と呼ぶことが多い。

洞爺湖遊覧船は中島の手前を時計回りに近づいていくが、その手前に二つの島が見える。はじめの島は弁天島で、江戸時代末期から弁財天が祀られている。

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弁天島の次の島は観音島であり、江戸時代には仏師円空の観音像が安置されていたという。

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弁天島と観音島は砂州でかすかにつながっていて、砂州の向こうには昭和新山の姿が眺められた。

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弁天島と観音島を右手にやり過ごして、左手の中島との間を進むと中島の桟橋が見えてくる。桟橋の左手には別の遊覧船が停泊している。

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左に回り込んで桟橋に近づくと、後方に大きな有珠山と左には小さな昭和新山の尖った姿が認められる。

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中島の桟橋の左手には鳥居や社が見える。大黒、天神(菅原道眞)、恵比寿が祀られているお堂が並んでいる。

2016-07-07 大湯沼、倶多楽湖

[][][]大湯沼、倶多楽湖 20:58

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地獄谷はその北にある日和山(377m)の噴火活動によってできた広大な爆裂火口跡であるが、その日和山のすぐ麓にも周囲約1km、深さ22mの爆裂火口跡があり、ひょうたん型の大湯沼となっている。

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大湯沼の表面温度は50℃で灰黒色をしている。最深部は130℃の硫黄泉が噴出していて、中洲に入ると埋って煮え死んでしまうので危険である。

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次々と湧き上がる水蒸気が風に吹かれて荒れ狂い、日和山の姿もかき消す様は不気味である。昔は沼の底に堆積する「硫黄」を採取していたという。

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大湯沼のすぐ右手(東)に小さな奥の湯がある。この沼も大湯沼と同じく日和山噴火した時の爆裂火口の一部である。

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直径が約30mの円形の湯沼で、「ふき」という円錐形の沼底から灰黒色の硫化水素泉が噴出している。成分は大湯沼と同じだが、硫黄はそこに蓄積せずに流出している。沼の表面温度は75〜85℃と高く湯釜のようで、このような湯沼は世界的にも珍しく、学術的にも貴重な生きた火山活動の姿が観察できる。

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大湯沼から林道に戻り、さらに東の山の中にある倶多楽湖に向かうとすぐに、大湯沼を見下ろすことができる展望台がある。大湯沼と日和山が一望のもとに眺められる。

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大湯沼も奥の湯も噴火活動の爆裂火口跡だが、デイサイトによる溶岩ドームの日和山自体も、今なお噴煙を上げ続けている生きた火山そのものであり、いつまた爆裂するかわからない。

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倶多楽湖白老町)は、登別温泉登別市)の東側約2kmの位置にあり、林道を進むと湖を見下ろす展望があるが、残念ながらあまりよく見えない。

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人気のない林道をなおも下って行くと、湖畔には夏季のみ営業のレストハウスがあるが、人が見当たらずひっそりしている。支笏洞爺国立公園特別区域内で開発が制限され、湖を一周する道路もない。倶多楽湖(クッタラ湖)の名は、アイヌ語の「クッタル・ウシ・トー」(イタドリが群生する湖)が由来である。

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倶多楽湖は、周囲約8kmの丸いカルデラ湖で、流入・流出する川がなく水質はきわめて良い。環境省の2001年度公共用水域水質測定結果では1位となり、透明度は摩周湖に次いで2位とされる。俱多楽火山は、玄武岩-安山岩成層火山体で、約8万年から4万5千年前までの期間に複数の火口で火砕流を伴う大規模な噴火を繰り返し、約4万年前までの活動で倶多楽湖を形成した。約1900年前と約200年前に活動したと考えられている。湖の周囲には標高500m前後の外輪山が形成されており、最高地点は東端(右端)にある窟太郎山の534mである。

2016-07-05 登別温泉、地獄谷

[][][]登別温泉地獄谷 20:39

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室蘭を見て回った後に、通り過ぎていたこの日の宿泊地、登別温泉に向かった。地獄谷は、登別温泉の北東に位置する日和山噴火活動によってできた爆裂火口跡である。

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地獄谷の直径は約450m、面積は約11ha、谷に沿って数多くの湧出口や噴気孔があり、泡を立てて煮えたぎる風景が「鬼の棲む地獄」の由来となった。地獄谷の西から北にかけて一周約10分の遊歩道が伸びている。左手前に見えるのは、薬師如来が祀られている展望台である。文久元年(1861)硫黄を採掘していた南部藩の家臣がお堂の下に湧く温泉で目を洗い、眼病が治ったと伝えられている。堂内にはお礼に寄進した石碑が安置され「目の湯」として親しまれている。

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地獄谷から振り返って見えるのは、登別温泉の第一滝本館という老舗旅館で、大浴場から地獄谷が展望できるという。登別温泉は、江戸時代から温泉の存在が知られ、明治時代に温泉宿が開かれ保養地・観光地になった。地名の語源はアイヌ語の「ヌプル・ペツ」(水色の濃い川)に由来する。硫黄泉や食塩泉、明礬泉やラジウム泉など、世界でも珍しく9種類もの泉質があって「温泉のデパート」と呼ばれ、常に日本の温泉百選の上位に選ばれている。

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地獄谷登別温泉の源泉であり、毎分約3,000ℓ、1日1万トンもの湯が45〜90℃の高温で湧き出し、旅館やホテルに給湯されている。

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遊歩道を進んでいくと硫黄の香りが強くなり、あちこちから湯けむりが立ち上るのを見るようになる。

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遊歩道の行き止まり、地獄谷のほぼ中央に鉄泉池がある。ぶくぶくと熱湯を噴出する間欠泉で、湯けむりを上げて煮えたぎる様子を近くで見ることができる。泉温は約80℃あるという。

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毎年5月から11月までの期間は、夜間に入り口から鉄泉池までの遊歩道がライトアップされ「鬼火の路 幻想と神秘の谷」として公開されているほか、「登別地獄まつり」などのイベントも開かれる。  

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2001年には「登別地獄谷の湯けむり」が環境省の「かおり風景100選」に選定され、2004年には「登別温泉地獄谷」として「北海道遺産」に選定された。また、2010年には「地獄谷」が「日本紅葉の名所100選」に選定されている。

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鉄泉地の先は、ぶくぶくとお湯が煮えたぎっている場所や湯気が立ち上る噴気孔があって、臭気も強くなり、硫黄の塊のような岩山の向こうは立ち入り禁止となっている。

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地獄谷遊歩道から大湯沼遊歩道に続いているので、大湯沼や大正地獄などへと足を延ばすこともできる。地獄谷周辺は「登別原始林」として国の天然記念物に指定されており、面積186haの原始林内には約60種類の樹木や約110種類の草木が保存されている。

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左手奥から流れてくる小川は、水は透明だったけれども川床は明るいクリーム色に染まっていた。硫黄分が濃くて沈殿したのだろう。

2016-07-04 室蘭八景

[][][]室蘭八景 20:59

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白老の後、登別を後回しにしてその先の室蘭を訪れた。室蘭港を跨いで絵鞆半島に架かる白鳥大橋は、室蘭港の別名「白鳥湾」から名付けられた。白鳥大橋が展望できる記念館「みたら室蘭」の前に、白鳥大橋主塔基礎工事で海面下50mから掘り出した大石が「記念石」として展示されている。

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平成10年(1998)に開通した白鳥大橋は、国内初の積雪寒冷地に建設された長大橋であり、関東以北で最大の吊り橋でもある。長さ1,380m、幅14.25m、高さ140m、総事業費1,153億円、これだけ大きな橋が通行料無料で開通するのは全国でも異例とされた。白鳥大橋室蘭港の夜景は、「輝く光の宝石箱」といわれるほどロマンチックとされ、夜景スポットになる展望台がいくつも設定されている。

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絵鞆半島の西端、絵鞆岬展望台から北西には大黒島が見える。室蘭市を代表する8つの景勝地室蘭八景に「絵鞆岬の景観」および「黒百合咲く大黒島」が選ばれている。大黒島は、1796年、探検に訪れたイギリス船のプロビデンス号の乗組員、ハンス・オルソンが埋葬された島で、その後大黒天が祀られたことから大黒島と呼ばれるようになった。大黒島の西には噴火湾が広がっているが、プロビデンス号の船長ブロートンは、その噴火湾の名付け親でもある。

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絵鞆半島の最高峰・測量山標高199.6mの展望台であり、山頂からの360度の展望は室蘭八景に選ばれている。室蘭港の夜景も美しく、日本夜景遺産に選定されている。明治5年(1872)札幌本道を造るとき、陸地測量道路建築長の米国人ワーフィールドがこの山に登り、道路計画の見当をつけたことから「見当山」と呼ばれていたのをのちに「測量山」に改めたとされる。周辺一帯は測量山緑地として保存され、野鳥の宝庫としても知られる。

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北には室蘭港が、東にはトッカリショや金屏風などの断崖絶壁が連なる起伏ある海岸地帯が遠望できる。昭和6年には歌人与謝野鉄幹・晶子夫妻が測量山を訪れている。

「我立てる 即涼山の 頂きの 草のみ青木 霧の上かな」鉄幹

「灯台の 霧笛ひびきて 淋しけれ 即涼山の 木の下の路」晶子

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室蘭港を囲む絵鞆半島の太平洋側には、高さ100m前後の断崖絶壁が約14km続き、地球岬に代表される風光明媚な景勝地が連なる。室蘭八景の一つでもある地球岬は、昭和60年の朝日新聞社主催の「北海道の自然100選」で第1位となり一躍全国的に知られることになった。

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西の海岸線をたどると、チャラツナイ(茶良津内)とか蓬莱門という景勝地が連なるのだが、近くまで行く時間はなかった。

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地球岬展望台から足元の駐車場を見下ろすと、彼方北には鷲別岳(911m)の山並みが見えた。別名室蘭岳の名でも知られ、北海道百名山に選定されている。

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地球岬展望台から南の海を眺めると、遥か彼方に陸地が見える。渡島半島東端と思われる。

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地球岬から東に金屏風、トッカリショと約100mの直立した断崖が連なる。約1000万年前の火山活動によって堆積した火山灰が、貫入した高熱の溶岩で黄変し赤褐色を帯びた崖面に朝日が映えると、あたかも金の屏風を立て連ねたように見えることから金屏風と呼ばれるようになり、室蘭八景の一つとなっている。展望台から見える小さな岬は、アイヌ語で「ポン・チケウェ」(子である・削れたもの)であり、地球岬の語源となる「ポロ・チケウェ」(親である・削れたもの)と対で呼ばれていた。

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金屏風のすぐ先にはトッカリショがある。アイヌ語の「トカル・イショ」(アザラシ・岩)を語源とする。現在は岩ではなく、展望台下の砂浜を指す地名となっている。かつては冬季になると、室蘭近海にはアザラシが群れをなして集まったが、殊にこの海岸の岩場に数多く集まった。さらに北東のイタンキ浜まで凝灰岩質の断崖が連なっている。

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緑のベルトと奇岩の景観が印象的なことから室蘭八景の一つに数えられ、また国の名勝「ピリカノカ」の一部に指定されている。ピリカノカには、室蘭八景のうちの銀屏風周辺のハルカラモイ、マスイチ浜、地球岬、トッカリショの四ヶ所が選定されている。

2016-07-01 薬草園、アイヌ伝統料理

[][][][]薬草園、アイヌ伝統料理 21:57

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ポロトコタンの左側(北西)に位置するポロト湖の周辺には、ポロト自然休養林が広がり、湿原キャンプ場、カヌーやサイクリングバードウォッチングなど四季折々に楽しめる。また、日帰りのポロト温泉もポロト湖畔にある。

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園内には松浦武四郎の胸像および「民族共生の人 松浦武四郎」の石碑がある。かつて蝦夷地と呼ばれていた北海道を調査した探検家の松浦武四郎は、アイヌとも深い交流を持ち、徳川幕府の蝦夷地御用掛、明治政府の開拓判官になり、北海道名などを選定し、アイヌの保護策にも尽力したが、抵抗勢力に遮られて孤立して開拓使を辞めざるを得なくされた。武四郎が収拾したアイヌ民具や蝦夷地調査に関する資料は園内のアイヌ民族博物館に展示されている。

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園内には有用植物園もある。アイヌが食用・薬用に利用した植物約50種を移植栽培している。主な植物に、日本中の山野に自生するシソ科のナギナタコウジュ(Elsholtzia ciliata)がある。アイヌ語ではエントと呼ぶ。アイヌは茎や葉を炙って粥に入れた。お茶にして飲むと体が温まり、二日酔いにも効くという。

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手前の草が、猛毒のトリカブトである。アイヌ語ではスルクというが、厳密にはトリカブトの根を意味し、その矢毒そのものもスルクと呼ぶ。北海道のいたるところに自生するが、特定の地域に毒性の強いものがあると信じられているようだ。トリカブトも数種知られていて、毒性にも強弱があり、葉が枯れた晩秋から春先にかけてが毒性の強い時期といわれる。

トリカブトの葉に隠れてシウキナの名が見えるが、まだ葉が出ていないようだ。セリ科のエゾニュウのことで、若い茎の皮を剥いて生のまま食べた。その後ろのトマは、ケシ科のエゾエンゴサクのことで、アイヌは根茎を採取し茹でて食べ、干して保存もしたという。

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エシケリムリムとは、ユリ科カタクリのことで、オオウバユリと同じように根からデンプンをとって粥に入れて食べた。

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アイヌ民族博物館と大きなコタンコルクル像との間には、北海道犬とヒグマが飼われている。ここの北海道犬には、携帯電話のテレビCMに登場する「お父さん犬」の娘「ユメちゃん」が飼われていて、ポロトコタンのアイドルとして人気を集めている。

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北海道生態系の頂点に立つヒグマは、アイヌにとって最も尊い神(カムイ)であり、ヒグマを神の国へ送り返す儀式イヨマンテは、アイヌ最大の儀式として知られる。

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園内の売店併設のカフェリムセでは、アイヌ伝統料理を食べることができる。メインはオハウセット。鮭とジャガイモなどの野菜を煮込んだ塩味のスープであるオハウと、いなきびご飯、ウドの山菜小鉢、カボチャのシト(団子)に、エント-ウセイという「ナギナタコウジュ」を煎じた薬草茶のセットが800円である。

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こちらはニセウうどん。ニセウとはアイヌ語でドングリを意味する。ドングリの粉を練り込んだうどんに、甘辛く味付けしたエゾシカ肉と白老産の椎茸や卵をトッピングし、ミニおにぎりと香の物付きで800円である。