半坪ビオトープの日記

2017-01-30 ホウレン草のラムカレー

[]ホウレン草のラムカレー 20:29

レヌ・アロラのインド料理のレシピを参考に、ホウレン草のラムカレーを作った(4人前)。

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 .曠Ε譽鸛陦佳(500g)をよく洗い、鍋で茹でて3等分に切る。

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◆/50ccを加え、ミキサーにかけてペースト状にする。

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 タマネギ3個(500g)をすりおろすか、ごく細かいみじん切りにする。

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ぁ/柴蕕縫汽薀戚大3を熱し、のタマネギと、生姜2片のすりおろし、水200ccを加えて10分炒める。

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ァ.薀狷500gを食べやすい大きさに切り分ける。

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Α.薀狷をい瞭蕕鵬辰─■科炒める。

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А/200ccと△離曠Ε譽鸛陲魏辰┐董△茲混ぜる。

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ターメリック小1、レッドペッパー小1、コリアンダー大2、クミン小2、塩小1を加えて強火にかけ、沸騰したら弱火にして1時間煮る。

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 ガラムマサラ小2を加えて30分煮た後、ヨーグルト100gを加え、2分煮てから塩小1で味を調整する。

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* 皿に盛り付けて、好みでパクチー香菜コリアンダー)を散らす。できればバスマティ米(長粒米)のターメリックライスと合わせて食べるのがよい。

2017-01-25 チーズベーコン・パイ

[]チーズベーコン・パイ 20:50

宴会に一品つまみを持参するため、チーズベーコン・パイを作った。

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 〇堡里離僖ぅ掘璽函100g)2枚を取り出し、10分ほど解凍する。

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◆‐麦粉をしっかりふって、綿棒で伸ばす。

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 スライスチーズを2枚並べ、両脇にベーコン2枚を並べ、黒胡椒を散らす。

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ぁ,気蕕縫僖札蠅オレガノなど好みのハーブを散らす。

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ァ〆E戮魯繊璽困ベーコンを左右に並べてみた。

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Α,修譴召戝爾ら巻いていく。

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А,修譴召15mmほどにカットする。

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─.ーブン皿にクッキングシートを敷いて、カットしたパイ生地を並べる。

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 200℃のオーブンで15分焼いたら出来上がり。

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* 海老料理の右上が、盛り付けたチーズベーコン・パイ。

2017-01-20 名残惜しい沖縄料理

[][]名残惜しい沖縄料理 20:45

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南部戦跡巡りの後、残りの時間を国際通りの散策に出かける人を見送り、車を返しに空港へ向かう。その後、土産物を買い求めてから最後の沖縄料理を楽しんだ。

これは、その前の昼食に、首里城近くの「ななほし食堂」で食べた「ゆしとうふ」。ななほし食堂は地元客に愛される沖縄料理中心の店で、最大のウリは、自家製の島豆腐=ゆしとうふである。豆腐チャンプルーに使う島豆腐の、水切り前のふわふわした豆腐が「ゆし豆腐」と呼ばれ、ここではゆしとうふにカツオなどの出汁のきいたそば汁または味噌汁で食べる。ゆしとうふのみの大で280円。これは小で180円。ゆしとうふ定食だと三枚肉を乗せたゆしとうふの丼に、チキンカツや小鉢が三つついて600円と、安くてボリュームがある。

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こちらは沖縄そばのソーキそば。小で550円、大で650円である。他にも、自家製ゆしとうふと沖縄そば三枚肉のセット、「ゆしとうふそば」が割安である。

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那覇空港では、名残惜しい沖縄料理の店を探し回ったが、なかなか気に入る店がない。ようやく見つけたのが「天龍」である。よく知られた沖縄料理がほとんど揃っているのが助かる。これは、島豆腐スクガラスを乗せた「スクガラス豆腐」。沖縄方言でスクはアイゴの稚魚、カラスは塩辛を意味する。旧暦の6月1日(及び7月1日、8月1日)の大潮の日には、イノーと呼ばれる珊瑚礁内の遠浅の海にアイゴの稚魚が大群をなして寄ってくるので、沖縄県では伝統的にこれを採ってスクガラスが作られてきた。泡盛のつまみにはぴったりだが、塩漬けの生臭い匂いには好き嫌いあるようだ。

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こちらはどこでも見かける「島らっきょう」。小ぶりで香味が強く、塩漬けに鰹節を絡めて美味しく食べられる。

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ソーキそばを食べている人は多いが、この店では珍しくソーキ肉のみも出している。

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こちらはもずく酢とジーマーミ豆腐もずく酢は普通だが、ジーマーミ豆腐は手作り感があって味わい深い。

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こちらのミミガーには味噌ダレがかけられ、きゅうりも添えられていて美味しい。

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ソーメンチャンプルーもいいが、焼きビーフンの方が具材が多いように見受けられた。空港だけあって全体に多少割高な感じがするが、よく知られた沖縄料理がほとんど揃っているのは魅力で、一品一品名残惜しく味わった。

こうして2泊3日の沖縄旅行を終えた。

2017-01-15 ひめゆりの塔

[][]ひめゆりの塔 21:17

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ほかに主な南部戦跡は、ひめゆりの塔と旧海軍司令部跡があるが、時間の都合でひめゆりの塔だけ訪れた。ひめゆりの塔とは、沖縄戦末期に沖縄陸軍病院第三外科が置かれた壕の跡に立つ慰霊碑のことで、その名は当時第三外科壕に学徒隊として従軍していたひめゆり学徒隊に因んでいる。

外科壕と慰霊碑の他にも敷地内には、歌碑など様々な石碑がいくつも立てられている。

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入口すぐ右手には、儀間真一顕彰碑が立っている。読谷村出身ハワイ二世ハーリー・シンイチ・ギマ(1917-86)は、ひめゆりの塔のある私有地2千坪を寄贈した人で、1992年ひめゆり同窓会により顕彰碑が立てられた。

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儀間真一顕彰碑の向かい側に、第三外科壕とは別の壕があった。本島南部に多く見られる自然洞窟は沖縄では「ガマ」と呼ばれ、沖縄戦では住民や日本兵の避難場所としてあるいは野戦病院として利用された。1945年4月1日、米軍は読谷村西海岸から本島へ上陸したが、翌2日、チビチリガマへ避難していた住民約140名中、83名が集団自決したことがよく知られているが、その内約6割が18歳以下だったという。この壕はチビチリガマほど大きくないが、このような壕はあちこちに散見され、全てが避難壕だったわけではない。

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ひめゆりの塔の敷地に入ってすぐに「ひめゆりの塔の記」という由来を記した石碑がある。昭和20年3月、米軍の艦砲射撃が始まると、沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高女の職員生徒297名は軍命によって南風原陸軍病院の勤務についた。戦闘激化により南へ移動し、第三外科はここひめゆりの塔の壕にあった。看護隊は6月18日に陸軍病院から解散を命じられたが、第三外科壕は米軍の襲撃を受け地獄絵図と化し、奇跡的に生き残った5名を除き職員生徒42名は岩に枕を並べた。軍医・兵・看護婦等29名、民間人6名も運命を共にした。その他の壕の職員生徒たちは壕脱出後弾雨の中を彷徨い、南端の断崖に追い詰められて多く消息を絶った。南風原陸軍病院に勤務した全生徒の2/3がこうして最後を遂げた。戦後、職員16名、生徒200名の戦没者を合祀し、ひめゆりの塔が建てられ、平和の原点とされたと記され、1975年にこの碑が建てられた。

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塔の記のすぐ先右手に、苔むした「井伊文子の歌碑」がある。「ひめゆりのいしぶみ深くぬかづけば たいらぎをこいのむ おとめらの声す」。

井伊文子は尚昌の子女で、琉球国王尚康の曾孫。佐々木信綱のもとで短歌を学んだ歌人。井伊直弼の孫にあたる、元彦根市長・井伊直愛と結婚している。

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いよいよ「ひめゆりの塔」の正面に至る。大きな第三外科壕の右手に1946年に建立された小さな「ひめゆりの塔」の石碑が立ち、壕の背後には1957年に建立された大きな慰霊碑が安置されている。慰霊碑の後ろには1948年に建立された納骨堂がある。慰霊碑には学徒戦没者の名前が刻まれ、女師・一高女のシンボルである百合のレリーフが手向けられ、2009年に改修されている。「ひめゆりの塔」の名称は、当時第三外科壕に従軍していたひめゆり学徒隊に因んでいる。「ひめゆり」は、沖縄県立第一高女の校誌名「乙姫」と沖縄師範学校女子部の校誌名「白百合」とを組み合わせた言葉で、元来は「姫百合」であったが、戦後ひらがなで記されるようになった。

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伊原第三外科壕は自然洞窟(ガマ)を利用したもので、1945年6月19日朝、壕にいた96名(うち教師5名、学徒46名)のうち80数名が米軍の襲撃で死亡した。生存者のうち壕脱出後に3名が亡くなり、沖縄戦終結まで生き残ったのは5名(うち学徒4名)のみであった。

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ひめゆりの塔のすぐ右手前にもいくつか石碑が建っている。右の高い石碑は「沖縄戦殉職医療人之碑」で約50名を合祀して、昭和26年に建てられている。左の小さい碑は「陸軍病院第三外科職員之碑」で、29柱が祀られ、昭和45年に建てられている。

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ひめゆりの塔の手前左側に大きなガジュマルの木が多数の気根を垂らしている。第三外科壕が米軍から襲撃された戦争時にはこの辺り一帯は焼け野原だったとされる。この大きなガジュマルは戦後に植えられたものという。

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ひめゆりの塔」の慰霊碑と納骨堂の左手に、「いはまくら碑」が建てられている。この碑は、学徒隊引率教諭であった仲宗根政善氏が、第1回ひめゆりの塔慰霊祭(1946.4.7)で、戦死した教え子を悼み霊前に捧げた歌の碑である。「いはまくら かたくもあらん やすらかに ねむれぞといのる まなびのともは」

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「いはまくら碑」の左を進むと、ひめゆり平和祈念資料館が建っている。1989年、沖縄県女師・一高女ひめゆり同窓会によって開館された。ひめゆり学徒の遺品、写真、生存者の証言映像、南風原陸軍病院壕の一部や伊原第三外科壕内部を再現したジオラマなどが見学できる。

2017-01-10 平和祈念公園

[][][]平和祈念公園 22:13

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昼食後、帰りの便まで二手に分かれた。のんびり国際通りや壺屋やちむん通りを散策する焼き物趣味の人たちを下ろして、残りは南部戦跡巡りに向かった。本島南部の「沖縄戦終焉の地」平和祈念公園は、糸満市摩文仁丘陵を南に臨み、東側に険しく美しい海岸線を眺望できる台地にある。南北約40haに広がる平和祈念公園の西側の駐車場から北東にある平和祈念資料館に向かう途中に、高さ45mの七面体角錐ドーム、沖縄平和祈念堂が建っている。第二次世界大戦最後の地上戦の舞台となり、最大の激戦地となった沖縄は、軍民合わせて約24万人余の尊い人命を失った。この悲惨な戦争を二度と繰り返さぬよう世界の人種や国家、思想や宗教の全てを超越した「世界平和のメッカ」として昭和53年(1978)にこの平和祈念堂は開堂した。堂内には沖縄を代表する芸術家山田真山氏が18年余の歳月をかけて原型を制作した高さ約12mの沖縄平和祈念像が安置されている。ほかにも西村画伯制作の絵画「戦争と平和」(20点連作、各300号)などが堂内壁面を飾っている。

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沖縄平和祈念堂の前庭に「平和の鐘」が建っている。毎年6月23日の「慰霊の日」などの式典などの際にはこの鐘が打ち鳴らされるという。

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沖縄平和祈念堂の前にはエントランス広場があり、その先に式典広場が続き、突き当たりに黒御影石で造られたアーチ型の「平和の丘」がある。丘の下にはトンネルを掘り、沖縄で「ガマ」と呼ばれる自然洞穴に見立ててあり、奥に進むと天井から「平和の光」が差し込む構造となっている。

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エントランス広場の前を東に進むと、幾つもの建物が合体したような大きな沖縄県平和祈念資料館が建っている。第二次世界大戦で尊い命を失った全ての人々に哀悼の意を表すとともに、悲惨な戦争の教訓を後世に伝え、世界の恒久平和の実現に寄与するために平和祈念公園内に設置された資料館で、昭和50年(1975)に開館した。

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館内には、沖縄戦に関連する軍関係文書や個人所蔵の文書、ひめゆり学徒の手記などが収蔵・展示されている。2階の常設展示では、「住民の視点で捉えた沖縄戦」を展示理念とし、「沖縄戦への道」「鉄の暴風」「地獄の戦場」「沖縄戦の証言」「太平洋の要石」の5つのテーマで構成され、写真パネルをはじめ、145人の沖縄戦体験者の証言文、約1000人の証言映像などから沖縄戦の実像を明らかにしている。とりわけ衝撃を受けるのは、「地獄の戦場」である。日本守備軍は首里決戦を避けて南部へ撤退し、出血持久作戦をとった。その後、米軍の強力な掃討戦により追い詰められ、軍民入り乱れた悲惨な戦場と化した。壕の中では日本兵による住民虐殺や、強制による集団死、餓死があり、外では米軍による砲爆撃、火炎放射器などによる殺戮があって、まさに阿鼻叫喚の地獄絵の世界であった。

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平和祈念資料館の2階からは、平和祈念公園の全景が眺められる。資料館に沿った南東方向を眺めると、樹木に囲まれた「平和の礎」の向こうに沖縄戦最大の激戦地となった「摩文仁の丘」が認められる。

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資料館の一角には6階相当の展望塔があり、平和祈念公園及び周辺海岸などの全貌が眺められるので、是非とも訪れるのが良い。資料館の真下には、「戦さ世の傷痕」という屋外展示があり、その先には「平和の火」を中心に、同心円状に広がる「平和の礎」が立ち並ぶ。沖縄戦で亡くなった全ての人々の氏名を刻んだ祈念碑が「平和の礎」である。「平和の火」は、沖縄戦最初の米軍上陸地である座間味村阿嘉島で採取した火と、被爆地広島市の「平和の灯」、長崎市の「誓いの火」を合火し、1991年から灯し続けた火を1995年6月23日の「慰霊の日」にここに移し、灯したものである。彼方の摩文仁の丘の上には、国立沖縄戦没者墓苑と各府県や各種団体の慰霊碑・慰霊塔が多数立ち並ぶ。

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南東方向の摩文仁の丘の右側彼方には海が見える。沖縄本島最南端の荒崎や、崖の上から自決のため身を投げたという喜屋武岬、ひめゆりの塔など沖縄戦跡が集中する地域である。

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展望塔から西を眺めると、高さ45mの最初に見た沖縄平和祈念堂が大きく見え、その左手に平和の鐘が小さく認められる。

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展望塔から北東を眺めると、大海原の太平洋に向かって数十mの断崖が続いている。南の喜屋武岬からこの先のギーザバンタ(慶座絶壁)までの東西約7キロの断崖には、沖縄戦最後の6月、およそ兵3万、民間人10万人余りが追い詰められ、多くの命が失われたという。

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資料館前の「戦さ世の傷痕」という屋外展示には、日本軍の酸素魚雷・日本軍の大砲・米軍の戦車キャタピラなどが展示されている。

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平和祈念公園には、沖縄らしい花があちこちに植えられている。この情熱的な深紅の花は、中央アメリカ西インド諸島)原産のテイキンザクラ(Jatropha integerrima)。和名の提琴桜とは、葉の形が提琴(バイオリン)を連想させ、花の形が桜に似ることに因む。樹高は3m以上になる。