半坪ビオトープの日記

2017-04-25 志呂神社

[][]志呂神社 20:03

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同じ建部町の豊楽寺から2kmほど北の、三樹山の麓に志呂神社がある。志呂宮の名で親しまれている。向拝を設けた拝殿の後ろに、これまた長大な向拝を備えた本殿が厳かに構えている。

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社伝では、美作国備前国から分国した和銅6年(713)に、弓削庄27カ村の総氏神として祀られたと伝えられる。拝殿には重厚な向拝が設けられているが、施されている彫刻はそれほど精緻なものではない。当神社には「志呂神社文書」が保存されている。昭和15年(1940)まで続いた、志呂宮の春秋二度の大祭における、御供米(段米)の奉納の形態(宮座)が記されている、鎌倉後期の最古の宮座資料である。正安4年(1302)に作成され、何度も書写されてきた文書である。

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主祭神として事代主命を祀り、相殿に大国主命を祀る。古くは神主他20名余りが奉仕し、社領70石を有し、神宮寺もあったと伝えられている。秋祭りには、久米南町京尾の氏子から供えられる、志呂神社御供という神饌行事がある。団子で作った「フト」と称する女陰を形どったもの3個と、男根を象徴した「マガリ」1個、餅で作った「丁銀」3個、それに米飯一盛り、柚子1個、箸1膳、榊葉若干を三方に盛った7膳の熟饌が調整され、御幣を立てた唐櫃に入れて御供所に運ばれ、紋付袴に榊葉を口にした7人の頭人によって供饌される。通称「京尾御供」と呼ばれ、県の重要無形民俗文化財に指定されている。

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現在の本殿は、嘉永元年(1848)の再建で、平面方3間(実尺方4間)の総檜造、単層入母屋造妻入である。屋根は檜皮葺だったが、昭和40年に銅板葺に改修された。屋根上に千木・鰹木を置き、正面に重厚な唐破風付き向拝を設けた、やや変形した中山造の建物である。

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旧弓削荘の一宮で、明治時代前期頃まで、旧弓削荘内数社の神輿が参集する立会祭が行われていた。中山造とは、津山市美作国一宮中山神社本殿を代表とする、津山市一帯の本殿に見られる独特の様式で、方3間の入母屋造妻入の身舎正面に1間の向唐破風の向拝を付す。このように突き出た向拝に特徴がある。

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造営から170年ほど経過しているせいか、素木造りのように見えるが、大隅流の尺墨で有名な、邑久郡宿毛の宮大工・田渕伊之七一門の建築で、各所に丸彫の彫刻を配した近世末期の優れた神社建築とされる。

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向唐破風の向拝を支える突き出た虹梁の上にも何やら彫刻の連なりが認められる。

志呂神社の秋祭りには、「棒遣い」という神事が奉納される。宮棒と称するお祓いの神事で、竹内流棒術を元に工夫・伝承されてきたとされる。鬼面・天狗面をつけ、六尺の棒を打ち交わして魑魅魍魎を祓い清めるという。

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本殿のすぐ右手にある天満宮は、1間社流造の檜皮葺(昭和40年に鉄板葺に改修)、花崗岩切石製の低い基壇の上に南面して建つ。本殿と同じく嘉永元年の建築である。

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天満宮のさらに右手に、伊都伎神社がある。伊都伎神社は兵庫県丹波市にあるので、そこから分祀されたものと思われる。丹波の伊都伎神社は、祭神として淤母陀琉神(おもだるのかみ)と妹の阿夜詞志古泥神(あやかしこねのかみ)を祀っている。この二神は、『古事記』では国之常立神に続いて天地開闢の最初に現れた神世七代の第六の神である。

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本殿のすぐ左には、傷みの激しい総神社がある。右手の天満宮と対の瑞垣の内にあるので、名前からすると地主神を集めたものと思われる。

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総神社のすぐ左後ろには、古神輿舎がある。文化2年(1805)〜平成12年(2000)の表示があるので、新旧の神輿が安置されていると思われる。

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古神輿舎の左手にも二つの社がある。左が加志伎神社で、右の小さいのが愛宕神社である。加志伎神社の由緒は残念ながら不明である。しかし、本殿を挟んで右手の伊都伎神社と対の位置にあるので、私見を述べるとすれば、伊都伎神社の主祭神の淤母陀琉神の妹神・阿夜詞志古泥神を祀っていると思われる。阿夜詞志古泥神(あやかしこねのかみ)は、吾屋橿城尊(あやかしきのみこと)の別名もあるので、美称のあやを取れば、かしきの神となる。つまり、伊都伎神社と加志伎神社で、淤母陀琉神と阿夜詞志古泥神を対で祀っているのであろう。ちなみにこの二神の次に、第七代として伊邪那岐神・伊邪那美神が現れる。

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志呂神社の背後にある三樹山樹林は、鎮守の森としてほとんど手が加えられず、シイノキ、ヤブツバキ、シリブカガシなど、原始的な植生に近い常緑広葉樹林帯となっている。

2017-04-20 豊楽寺

[][]豊楽寺 16:03

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岡山城下を発して北に向かい、建部を経て津山城下に入る道が、備前美作を結ぶ津山往来であるが、その途中の建部町に静謐山豊楽寺(ぶらくじ)がある。高野山真言宗美作八十八ヶ所第二十一番札所である。寺伝によれば、和銅2年(709)玄,開山したしたといわれ、その後、奈良時代に鑑真が堂塔伽藍を整備したと伝わる。本堂裏の経塚(土仏塚)から出土した平安時代中期の土仏は、寺の由緒を物語る。本堂の右手前に立つのは大悲殿、奥に建つのは護摩堂である。

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室町時代には美作国の守護大名、赤松氏並びに山名氏の庇護を受け寺領を与えられ、往時は本堂・五重塔他16の堂宇と22の僧坊があった。しかし、安土桃山時代の天正年間(1573-92)備前国北西部を制した松田氏が、日蓮宗への改宗を迫ったが応じなかったため、寺領を没収し寺院を破却した。その後、寛永年間(1624-44)に津山藩初代藩主・森忠政が寺院を再興した。

本堂手前に建つ豊楽寺の大悲殿の由来は不詳。普通、大悲殿とは聖観音や如意輪観音などの観音菩薩が安置されている建物である。

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現在の本堂は、貞享3年(1686)に建立されたもので、入母屋造妻入向拝付き、桁行3間梁間4間の桟瓦葺き、本尊は薬師瑠璃光如来像。明治の初めまでは、本坊・東坊・西坊・南坊・向井坊の5坊があったが、現在は本坊のみ残る。

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豊楽寺には、正平7年(1352)左衛門尉正道遵行状を最古に、宝暦12年(1762)豊楽寺僧徒へ申渡條々までの400年間の文書がある。文書の大半は、室町時代から江戸時代にかけての寺領(田畑)の寄進状が11通と豊楽寺由緒書、勧進帳、永代帳などである。在地国人層の動向や庶民の信仰生活と寺院生活などの様相がわかる貴重な資料として、岡山県の重文に指定されている。

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本堂の奥に建つ護摩堂は、床面積が14.44屐J神17年(2005)に建立されている。

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護摩堂の左手前に小さな社が祀られているが、詳細は不明である。

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三つのお堂の右手前には鐘楼が建っている。

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よく見ると、高い下見板壁の袴腰の上に高欄を巡らした造りで、重厚な桟瓦葺きの屋根の上には大きな鬼瓦が睨みを効かせる、たいへん豪壮な鐘楼である。

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お堂の右手には大きな宝篋印塔が立っているが、詳細はわからない。

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さらに右手の小門の奥には客殿のある一角が続き、小門の手前には石造の観音像が立っている。

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客殿のある一角に入る、二階に花頭窓を設けた門構えが一風変わっている。

2017-04-15 岡山後楽園

[][]岡山後楽園 20:40

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岡山市の中心部にある後楽園は、金沢市兼六園水戸市偕楽園とともに日本三名園に数えられている大名庭園である。江戸時代初期に造営された、元禄文化を代表する庭園で、国の特別名勝に指定されている。

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後楽園岡山藩主・池田綱政が岡山郡代官・津田永忠に命じて造らせたもので、元禄13年(1700)に完成した。岡山市内を流れる旭川を挟み、岡山城の対岸の中州に位置する。藩主が賓客をもてなした建物・延養亭を中心とした池泉回遊式の庭園で、岡山城や周辺の山を借景としている。江戸時代には延養亭を茶屋屋敷、庭園を後園または御後園と呼んでいたが、明治4年(1871)、園内を一般開放するにあたって後楽園と改めた。左に見える茅葺屋根の建物が延養亭である。後楽園の中ではここからの眺望が最も素晴らしく、園内の景勝がほとんど一望できる。戦災で焼失したが、昭和35年(1960)復元された。延養亭の裏手(西)には、能舞台、栄唱の間、墨流しの間が続いている。右の瓦屋根の建物は鶴鳴館という。戦後、岩国市の武家屋敷・吉川邸を移築したものである。

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延養亭の裏手には花葉の池があるが割愛して、中央の沢の池を巡る。後楽園の総面積は13万3千屬任△蝓東京ドームの約3倍である。当初、園内は綱政が田園風景を好んでいたため田んぼや畑が多かったが、明和8年(1771)に藩が財政危機に見舞われ、藩主・池田治政が経費節減のため芝生を植えさせ、次第に現在のような芝生の多い景観に変化していった。

前方に見える築山は、高さ約6mの唯心山である。唯心山の右手に見える茅葺屋根の建物は廉池軒である。池田綱政が最も好んで利用した御茶屋で、ここからの眺望は水の景色に優れている。   

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沢の池の左手には、いくつもの島が見える。白砂青松が美しく灯籠が認められるのが砂利島である。当初は半島だったが、文久3年(1863)頃までに島になったという。

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茅葺の廉池軒の周りの池から、ひょうたん池を通して沢の池まで水路で結ばれている。廉池軒の裏手には、旭川の向こう岸に建つ岡山城の天守閣が姿を見せている。戦国時代にこの地を支配した宇喜多直家の子・秀家は、豊臣政権下で父の遺領をほぼ継承し、天正18年から慶長2年(1590-97)にかけて本丸を石山城から岡山に移し岡山城とした。関ヶ原の戦いの後に小早川氏が領主となり、その後、池田氏に引き継がれた。

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唯心山は、池田綱政の子・継政が造らせた築山で、享保8年(1723)頃に着工され、享保20年(1735)頃に完成した。後楽園のほぼ中央に位置し、頂上から庭園全体が見渡せると同時に、どこからでも唯心山が眺められるように計画されている。築造によって平面的だった庭園が立体的となり、四方からの登り口が設けられて、北側の慈眼堂、南側の御茶屋廉池軒、西側の御茶屋延養亭、東側の流店からの眺望が考慮されたといわれる。山腹には唯心堂を設け、斜面にはツツジサツキが植えられ、季節には紅白の花で彩られる。

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唯心山の山頂からは、入口近くの延養亭、沢の池の全貌、芝生の広がり、廉池軒の周りの池から続く水路など、園内の景観をじっくりと眺めることができる。

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眼下に横たわる沢の池に点在する島々は、左から砂利島、御野島、中の島である。中の島には弁財天堂が建立されていたが、宝暦4年(1754)に東南奥の千入の森に遷された。現在、中の島には島茶屋が、御野島には釣殿が設けられている。

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唯心山から下って沢の池の池畔から振り返ると、後楽園の南に位置する岡山城がよく見える。その手前には唯心山の東麓に位置する休憩所の流店が見える。流店は、木造2階建ての寄棟檜皮葺。吹き抜けの亭舎の中央に水路を通し、中に美しい石を配した、全国にも珍しい建物となっている。元禄4年(1691)前後に建てられたのが始まりという。戦災で焼失を免れた貴重な建物である。

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沢の池の北岸に至ると唯心山からも見えた鳥居が立っていて、参道の奥に園内六鎮守の一つである由加神社がある。天保11年(1840)に藩主・池田斉敏が児島の瑜伽大権現の分霊を江戸の池田家本邸に祀った。廃藩後、明治5年(1872)にこの地に移築された。

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由加神社のすぐ西隣に、慈眼堂が建っている。元禄10年(1697)、園の鬼門の方角(北東)にあたる茶畑の西端に、池田綱政が還暦の厄払いで建立されたお堂。一族の子孫と領国の繁栄を祈願した。本尊は2体の観音像で、1体は法界院岡山市)より寄進された伽羅木の如意輪観音像で、もう1体は池田家所蔵の金銅の如意輪観音像である。明治になり、池田家に戻されそこで祀られているので、現在、慈眼堂は空堂となっている。境内には烏帽子岩、仁王門、板張の腰掛などが伝わっている。烏帽子岩は、高さ4m、周囲9尋の巨岩。瀬戸内犬島の花崗岩を36個に割って運び、園内で元の姿に組み上げたという。

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慈眼堂のすぐ先(西)の沢の池北岸から、最後にもう一度唯心山を眺めやると、借景とされる岡山城が浮き上がって見えた。典型的な池泉回遊式の庭園であることが納得させられる。

2017-04-10 吉備津彦神社

[][]吉備津彦神社 20:14

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備前国備中国の境の吉備の中山(175m)の北西麓に北面して、備中国一宮吉備津神社が鎮座しているが、こちらの北東麓には備前国一宮吉備津彦神社が鎮座する。主祭神は吉備津神社と同じく大吉備津彦命だが、草創期には中山全体が神域であったとみられ、大化の改新を経て吉備国が3国に分割された後、備前国一宮となった。吉備は古代、畿内出雲国と並んで勢力を持ち、巨大古墳文化を有していた。5世紀に雄略天皇の中央集権化のため、反乱鎮圧の名目で屈服を迫られ、持統天皇3年(689)の飛鳥浄御原令により備前・備中・備後に分割されるほど、大和政権から恐れられた地方豪族の国であった。中世以後は宇喜多氏、小早川氏、池田氏など歴代領主の崇敬を受けた。

八脚門の随神門は、元禄10年(1697)池田綱政が造営したもので、二柱の門番の神が祀られている。左が豊磐窓命、右が櫛磐窓命である。

その右後ろに立つ灯籠は、安政の大石灯籠という。六段造りで、高さは11m、笠石は八畳敷の広さがあり、日本一といわれる。石に彫られた寄付者名は1670余名で、5676両(約1億3000万円相当)の浄財が寄せられ、安政6年(1859)に建立された。

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社伝では推古天皇の時代に創建されたとするが、初見の記事は平安後期になる。戦国時代に松田氏による焼打ちで社殿は焼失した。江戸時代になり池田氏によって社殿が造営され、元禄10年(1697)には、本殿・渡殿・釣殿・祭文殿・拝殿と連なった社殿が完成した。昭和5年(1930)に失火により本殿と随神門以外の社殿・回廊を焼失した。現在見られる社殿は昭和11年(1936)に完成したものである。拝殿は正面七間である。

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拝殿の右手前に神木の大杉が立っている。樹齢千年以上とされ、平安杉と呼ばれている。

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吉備津神社と同様、相殿神として、次のような大吉備津彦命の子孫や父や兄弟を祀る。孝霊天皇(7代、父)、孝元天皇(8代、兄弟)、開化天皇(9代、孝元天皇の子)、崇神天皇(10代、開化天皇の子)、彦刺肩別命(兄)、天足彦国押人命(5代孝昭天皇の子)、大倭迹々日百襲比売命(姉)、大倭迹々日稚屋比売命(妹)、金山彦大神大山大神

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社殿は夏至の日に正面鳥居から日が差し込んで、祭文殿の鏡に当たる造りになっている。そのため吉備津彦神社の別称「朝日の宮」は、これに因むという。拝殿から祭文殿、渡殿、本殿と連なっている。

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これは拝殿を右側(北西)から見たところ。左の側面は、お祓い・祈祷の登殿口となっている。

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祭文殿、渡殿、本殿と重厚な社殿が連なる様は壮観である。渡殿より奥は地面が高くなっている。

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本殿は元禄10年(1697)の再建である。桁行三間梁間二間の檜皮葺流造。千木は付けられているが、鰹木は珍しく左右に2本のみである。

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本殿裏手には小さな楽御崎神社が祀られている。彼方右後ろの高台には子安神社が建っている。朱色の梁や柱と白壁が美しい子安神社は、吉備津彦神社本殿より古く、藩主の池田光政が健康に優れなかったところから、その祈願のために寛文12年(1672)に建てられたという。一間社流造銅板葺で、蟇股や高欄柱に付けられた擬宝珠などに桃山時代の様式を残している。

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子安神社の右手奥(北)には、七つの末社が並んで鎮座している。手前より下宮(倭比賣命)、伊勢宮(天照大神)、幸神社(猿田彦命)、鯉喰神社(楽々森彦命荒御魂)、矢喰神社(吉備津彦命御矢)、坂樹神社(句句廼馳神)、祓神社(祓戸神)。

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子安神社や七つの末社に上る参道の右手に、学問の神・菅原道眞を祀る天満宮が建っている。社殿の老朽化に伴い明治末期に別の末社に合祀されていたが、平成17年に社殿が再建された。

2017-04-05 吉備津神社

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岡山市西部、備前国備中国の境の吉備の中山(175m)の北西麓に北面して、備中国一宮吉備津神社が鎮座している。吉備の中山は古来より神体山とされ、北東麓には備前国一宮吉備津彦神社が鎮座する。両社とも主祭神に、当地を治めたとされる大吉備津彦命を祀る。吉備津神社は本来、吉備国の総鎮守であったが、吉備国の三国への分割により備中国一宮とされ、分霊が備前国一宮吉備津彦神社)、備後国一宮吉備津神社)となったことから、備中の吉備津神社は「吉備総鎮守」「三備一宮」を名乗る。古くは、吉備津五所大明神とも称した。延喜式神名帳(927)では吉備津彦神社と記載され、名神大社に列している。

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長い正面石段の途中、拝殿手前に北隋神門が建っている。単層入母屋造檜皮葺、天文11年(1542)の再建であり、国の重文に指定されている。

吉備津神社の主祭神・大吉備津彦命は、第七代孝霊天皇の第三皇子で、元の名を彦五十狭芹彦命(ひこいせさりひこのみこと)という。『記紀』によれば、崇神天皇10年、四道将軍の一人として山陽道に派遣され、弟の若日子建吉備津彦命と吉備を平定した。その子孫が吉備の国造となり、古代豪族の吉備臣になったとされる。

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相殿神として、次のような大吉備津彦命の子孫や兄弟を祀る。御友別命(子孫)、仲彦命(子孫)、千々速比売命(姉)、倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)(姉)、日子刺肩別命(兄)、倭迹迹日稚屋媛命(妹)、彦寤間命(ひこさめまのみこと)(弟)、若日子建吉備津日子命(弟)。社伝によれば、祭神の大吉備津彦命は、吉備中山の麓の茅葺宮に住み、281歳で亡くなり山頂に葬られた。5代目の子孫の加夜臣奈留美命が茅葺宮に社殿を造営し、命を祀ったのが創建とする説もある。また、吉備国に行幸した仁徳天皇が、大吉備津彦命の業績を称えて5つの社殿と72の末社を創建したという説もある。『続日本後紀』で、承和14年(847)に従四位下に神階を受けた記載が最初である。

拝殿は本殿と同時に造営され、桁行三間梁間一間妻入りで、正面は切妻造、背面は本殿に接続する。正面と側面には裳階を設ける。屋根は本殿と同じく檜皮葺だが、裳階は本瓦葺きとする。

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本殿・拝殿は、明徳元年(1390)後光厳天皇の命で、室町幕府の足利義満が応永12年(1405)に再建し、応永32年(1425)に遷座した。比翼入母屋造の本殿の手前に切妻造平入りの拝殿が接続する。本殿・拝殿は棟札2枚とともに国宝に指定されている。

本殿の大きさは、出雲大社本殿、八坂神社本殿に匹敵するもので、随所に仏教建築の影響が見られる。地面より一段高く、漆喰塗りの土壇(亀腹)の上に建ち、平面は桁行五間、梁間八間で屋根は檜皮葺とする。壁面上半には神社には珍しい連子窓を巡らす。挿肘木、皿斗、虹梁の形状など、神社本殿に大仏様を応用した唯一の例とされる。

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本殿の左手に神木の大銀杏が立っている。樹齢は約600年といわれる。

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本殿の比翼入母屋造とは、入母屋造の屋根を前後に2つ並べた屋根形式で、「吉備津造」ともいう。城郭建築では姫路城名古屋城に見られるが、寺社建築では極めて珍しい屋根形式であり、このように横から間近に見られるのも稀である。

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本殿の斜め左後ろに一童社が建っている。学術・遊芸の神を祀っている。

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本殿の西側には長い回廊が続いていて、本殿の後ろから割り込んで南に下っていくと、すぐ左側(東側)にえびす宮が建っている。商売繁盛・家業繁栄の神(夷と大黒)を祀っている。えびす祭りは多くの人で賑わい、備中神楽も奉納される。

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えびす宮の次は岩山宮の鳥居があり、あじさい園の先の中山の麓に岩山宮がかすかに認められる。吉備国の地主神(国魂)である建日方別を祀っている。神体は自然の巨岩であるという。

回廊の山麓(東)側に多くの建物があるのだが、その反対側(西側)に御釜殿があるのを見過ごしてしまった。慶長17年(1612)の造営。御釜殿の鳴る釜神事は、江戸時代に上田秋成が著した『雨月物語』の「吉備津の釜」の話で有名である。

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さらに下っていくと回廊の山麓(東)側に朱塗りの柱を有する社が3つ並んでいる。左より春日宮、大神宮、八幡宮で、総称して三社宮と呼ばれる。

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三社宮の次には御供殿がある。春秋に行われる大祭の献饌行事の七十五膳据神事の際、この御供殿にて七十五膳などの神饌、神宝類、供物などを準備する。

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回廊の南端を左に曲がると本宮社の拝殿が建っている。本殿は二間三間の流造である。岡山城主・宇喜多秀家が再建した。元は吉備津彦の父君・孝霊天皇を祀っていたが、明治末年、新宮社と内宮社を合併したので、現在は天皇のほか、吉備津彦命やその母・百田弓矢姫名を合祀している。

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回廊から戻ると南隋神門を通る。単層入母屋造本瓦葺、延文2年(1357)の再建で、吉備津神社では最古の建築物である。南隋神門からいま往復してきた長い回廊を振り返って見る。回廊は天正年間(1573-91)の造営とされ、総延長は398mである。