半坪ビオトープの日記

2017-06-28 豊乗寺、最勝寺

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智頭宿は智頭駅の北にあるが、駅の西に向かうと4kmほどの山麓に高野山真言宗の古刹、豊乗寺がある。山門の石段の右手前には石地蔵があるが、それは昔、清美という村の娘が悲恋のため豊乗寺の池に身を投げて死んだ霊を弔うために造られたといわれる。

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豊乗寺の山号は宇谷山という。山号の書かれた八脚門の山門は、延享元年(1744)に建築されたもので、入母屋、桟瓦葺(当初は茅葺と想定されている)である。前室の奥行き半ばの位置に板扉とそれを支える円柱が配されるなど独特な平面を持ち、組物なども古い形式を伝え、太子堂とともに県の保護文化財に指定されている。

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山門には、運慶作と伝わる金剛力士像2体が安置されている。

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境内に入り振り返って見ると、山門の内側には、いくつかの小さな石仏が安置されている。こちらの右手の名札には、新四国八十八ヶ所八十五番、讃岐国八栗寺、本尊聖観世音菩薩とあり、左手の名札には、新四国八十八ヶ所八十六番、讃岐国志度寺、本尊十一面観世音とある。

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豊乗寺は、寺伝では、弘法大師空海の実弟・真雅大僧都(801~79)が嘉祥年間(848~51)に草創したという。資料上では、今はなき梵鐘の銘文に「有徳の高僧開闢の勝地」「開山五代の末葉、範恵阿闍梨、明応5年(1496)に梵鐘を鋳る」とあるところから、寺は15世紀には創設されていたと考えられている。

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豊乗寺は大杉で知られるが、茅葺の大師堂の左手前には高野槙の巨木が立っている。目通り3.5mで、「鳥取の名木百選」に選ばれている。

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茅葺の大師堂は、天明2年(1782)に建築されたもので、正面入母屋、背面寄棟、茅葺、桁行3間、梁間3間で、造りは簡素であるが、組物等に18世紀建築の特色が伺え、正面には池田家の家紋が挿入されるなど、鳥取藩との関わりも深かったといわれる。

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豊乗寺はかつて12の僧坊を含む大伽藍を擁し、大山寺三徳山三仏寺とともに密教信仰の一大拠点であった。天正8年(1580)、羽柴秀吉による因幡侵攻の兵火により多くの堂宇が焼失した。寛永年間(1624~43)高野山の真慶が中興し、秀尊が堂宇を再建し、地中から多くの寺宝を掘り出したという。現在の本堂は、貞享2年(1685)に方3間、背面中央に仏壇を構えた中世仏堂風の阿弥陀堂として再建された。その後四周1間通りを拡張し、前面を外陣、両側面を脇陣、背面を仏壇、位牌檀の間とした。本尊として阿弥陀如来を安置している。寺宝の「絹本著色普賢菩薩像」は、巨勢金岡の作と伝えられ、藤原時代の三普賢の一つに数えられ、平安朝密教仏画の最高傑作とされ、国宝となって東京国立博物館に寄託されている。同じく寄託されている「絹本著色楊柳観音像」も「木造毘沙門天立像」と合わせて国の重文に指定されている。他に「絹本著色不動明王像」も寺宝となっている。

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本堂の裏手には、小さいながらも趣のある庭園が設けられている。

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庭園の背後には、県の天然記念物に指定されている大杉が高く聳えている。境内に三本立つ大杉のうち最大のもので、樹高32m、目通り幹囲6.5m、推定樹齢300年以上とされる。

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智頭宿から鳥取市内に向かって上方往来(智頭往来)を北上して20kmほど進むと、河原町になだらかな山頂の霊石山が見えてくる。その山麓に真言宗の霊石山最勝寺がある。

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寺伝では、和銅3年(710)に行基が霊石山に草庵を開いたことに始まるという。天暦年間(947~57)に慈恵大師(元三大師)が迎えられると寺運が隆盛し、僧坊42坊を擁する大寺となり、大きな影響力を持ったとされる。天正9年(1581)、豊臣秀吉の因幡侵攻により鳥取城が落城となり、その兵火により多くの堂宇、寺宝、記録などが焼失し旧観を失った。その後再建されたが、享保3年(1718)と昭和14年(1937)にも火災が発生し、寺宝だった大般若経(50巻)や源範頼の縁の太刀や鞍、鎧などを焼失し、昭和30年(1955)に旧境内だった霊石山中腹から現在地に移った。本尊は行基作と伝わる薬師如来である。境内背後の高台には源範頼の墓と伝わる五輪塔などの記念物が点在する。

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最勝寺の山門は、入母屋、桟瓦葺の楼門で、下層部の開口部が曲線となり伝説の竜宮城の城門に似ていることから竜宮門と呼ばれる形式を採用している。

2017-06-23 智頭宿、石谷家住宅

[][]智頭宿、石谷家住宅 20:56

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鳥取県東南部に位置する智頭町の中心地に旧宿場町智頭宿がある。奈良時代以来の畿内因幡を結ぶ道でもあった智頭往来(因幡街道)と、備前街道が合流する地にあって、両街道の宿場として栄えた歴史を持つ。智頭往来は歴史の道百選と遊歩百選に選ばれており、沿道には社寺や町屋などの古建築が現在も残っている。

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智頭宿は藩政時代になり、鳥取藩初代池田光仲公の参勤交代の宿泊地として本陣が置かれると、町屋が軒を並べ町方・在方・他国商人との交流で賑わうようになった。あまり繁盛したので、弘化元年(1844)にはとうとう小売商人の逗留を禁止したほどだった。旧街道沿いには近世の町割を継承しながら建てられてきた近代の和風建築群が今も残り、その代表格が石谷家住宅である。重厚な大門で人々を出迎え、3,000坪という広大な敷地に部屋数が40以上ある邸宅、7棟の蔵、美しい庭園を持つ。

石谷家は元禄年間(1688~1704)の初期に鳥取城下から智頭に移り住んだ旧家であり、江戸時代には大庄屋を務めつつ地主経営や宿場問屋を営み、明治に入ると大規模な林業を営む事業家、国政に参加する政治家としても活躍してきた。

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大門をくぐってすぐ左手にあるのは門番小屋である。当初は人力車の車庫、車夫の待機場所として使用されたが、その後は自動車の車庫と従業員の更衣室として使われ、車庫は昭和初期に増築されて広くなった。

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大門をくぐってすぐ前に見えるのは式台のある本玄関である。藩主が本陣に宿泊するとき、随行の上級武士は当時在役人であった石谷家に宿泊した。その名残として家の格を示すために武家風の式台が作られた。

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式台の左手に見えるのが母屋である。桁行11間半、梁間7間、2階建。入母屋造桟瓦葺きの大屋根の四周に桟瓦葺きの庇屋根を巡らせた大規模な建築である。江戸時代の庄屋建築を、大正8年(1919)以降、当時の当主で衆議院議員・貴族院議員を務めた石谷伝四郎が改築造営したもので、様々な様式が調和した豪壮な邸宅は近代和風建築の傑作とされ、国の重文に指定されている。

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母屋の入り口は高さ14mの広大な吹き抜け土間となっている。松の巨木を用いた梁組が伝統的な豪農の造りとなっていて、豪壮な雰囲気を醸し出している。土間を一段上がると囲炉裏の間。家族の内玄関でもあり、出入りの人たちと家人との情報交換の場でもあった。

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囲炉裏の間の右手に電話室があり、その脇の先に主人の間がある。石谷家では大正10年に電話、大正3年に電気が引かれた。

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主人の間と本玄関の間に和室応接がある。数奇屋風仕様で、書院の欄間には石谷邸と諏訪神社の透かし彫りが施されている。床の間に床柱を建てない変わった造りである。

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囲炉裏の間より新座敷、江戸座敷へと通じるのは畳廊下という。幅1間の畳36畳敷。襖には市河米庵の書がずらりと並んでいる。市河米庵は江戸時代後期の書家。安永8年(1779)江戸京橋に生まれ、柴野栗山に学び、後年その門に遊ぶもの数千名を超えたという。安政5年(1858)没。巻菱湖・貫名海屋とともに幕末三筆と称された。

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新座敷は昭和16〜17年に全面改装され、新建座敷とも呼ばれる。造作材には春日杉、床柱は屋久杉の笹杢(ささもく)を使用し、床壁は和紙の袋張りの書院造り、縁板は幅広の欅板を使い、贅を凝らした作りである。

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石谷家の庭園は、江戸座敷・新座敷に面した池泉庭園、その北側に続き、主屋上手に面した枯山水庭園、そのさらに北に続き離れに面した芝生庭園とからなる。この池泉庭園は大正新築工事以前の築庭だが、時期は不明である。石谷氏庭園として、国の登録記念物に指定されている。

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石谷家住宅の真向かいに消防屯所がある。正式には智頭消防団本町分団屯所という、昭和16年(1941)に建設された現役の消防屯所である。塔屋に火の見櫓が付く洋風建築が、歴史的建造物として、国の登録有形文化財に登録されている。

2017-06-18 那岐神社、みたけ園

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菩提寺から北東に進み、県境にそびえる那岐山の北側に回り込むと、那岐神社のある鳥取県智頭町に至る。那岐山(1255m)は全体が古くから神として崇拝され、那岐大明神(奈義神)と呼ばれていた。のち宇塚村内に勧請され五穀豊穣の祈願がなされ、天徳年間(957~61)の初めに現社地の後山山頂に遷され、ついで現社地に移転したという。明治5年(1872)に那岐神社と改称されたが、明治2年から大正2年(1913)までに近郷神社37社を合祀している。大きな石造鳥居を二つくぐると土師川に架かる橋を渡り那岐神社の境内に入る。

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鎌倉時代には、藤原・紀・伴・賀茂などの姓を名乗る郷の住人たちの信仰の中心であった。秋の例大祭では近在の村々から花籠が奉納される花籠祭りが催され、麒麟獅子舞や浦安の舞、子供相撲など多彩な奉納が繰り広げられる。麒麟獅子舞は江戸時代から続く神事の一つである。

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拝殿前の灯篭は延享3年(1746)、狛犬は嘉永6年(1853)の奉納という。

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那岐神社は祭神として国常立神、伊邪那岐神、伊邪那美神などを祀る。

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本殿は寛文7年(1667)に再建されている。薄暗くてはっきりしないが、彫刻もかなり手が込んでいる。

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拝殿の脇には奉安殿、北野神社、稲荷神社が並んでいる。

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いちばん左の奉安殿は、終戦後すぐに那岐国民学校から移されたという。

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奉安殿の右手の北野神社は、弘化2年(1845)の建立である。

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その右手の稲荷神社は宝暦12年(1762)の建立である。

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昼食は智頭町郊外の北股川上流にある原生林の渓谷、芦津渓谷の入口にある「みたき園」まで足を伸ばした。芦津渓谷は三滝をはじめ、巨岩や断崖、急流など日本屈指といわれる雄大な渓谷美に恵まれ、水源の森百選に選出されている。

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深い森の中、小川の流れる園内には、囲炉裏のある茅葺き屋根の古民家や素朴な石置き屋根の庵が点在している。

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大自然の緑の中で、地元で取れた季節の料理を満喫できる。イタドリなどの天ぷら、筍やフキなどの煮物、山菜料理が少しずつだが色々と味わえて趣がある。

2017-06-12 菩提寺

[][]菩提寺 21:04

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津山から北東方向に那岐山(1255m)があり、その南麓にある菩提寺に向かうと、すぐ手前に那岐山麓山の駅があったので立ち寄った。アルプスの民家を模した山の駅には、ウィンナーや豆腐作りなどの加工体験や農業体験メニューがあり、コテージに泊まることもできる。

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山の駅からさらに進むと、伊邪那岐命の神霊が鎮まっているという那岐山の中腹、標高600mのところに浄土宗の高貴山菩提寺がある。持統天皇の治世(686~97)に役小角が、あるいは天平年間(729~48)に行基が十一面観世音菩薩像を安置して開基したと伝えられる。平安時代には七堂伽藍を備え、36坊を誇り、中世には菅家七党の尊崇を受けた古刹だったが、建武3年(1336)に播磨国の守護新田義貞勢の兵火により、康安元年(1361)には伯耆守護山名時氏の焼き討ちにより、また天文2年(1533)には出雲国の戦国大名尼子経久勢の兵火によって寺運は衰え、江戸時代半ばには荒廃していたという。江戸時代後半には次第に寺の整備が進められたが、万延元年(1860)には火災により鐘楼を残して本堂・庫裡・仏像などが焼失した。明治10年(1877)浄土宗として再興され、明治14年に本堂が、続いて庫裡・山門などが再建されたというが、山門はさほど大きくはない。

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山門の内側に「御礼」が貼られていた。明治初期に再興された本堂も約130年経ち、屋根は崩れ床は落ち酷く荒れ果てたので、平成の浄土宗僧たちが一大発起し復興を志し、地元の方々、参詣者の皆様の賛同協力を得て荘厳に蘇らすことができ、厚くお礼する、という趣旨の礼状である。平成23年から翌年にかけて修復された様子の写真も一緒に貼られていた。

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参道の左右には堂塔や僧坊跡を忍ばせる段丘状の遺構があり、平安時代末期の土器片も出土している。

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菩提寺は浄土宗開祖法然(幼名勢至丸)初学の地として知られる。保延7年(1141)9歳の時、押領使の父漆間時国が夜討ちで殺された際、母方の叔父の僧侶、菩提寺に住む観覚の元に引き取られた。

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勢至丸の才に気づいた観覚は、出家のための学問を授け、13歳の時得度させて比叡山に送り出したと伝えられる。昭和時代中期までは、久米郡久米南町の法然生誕地に立つ誕生寺と同じく、二十五菩薩練供養(来迎会)が行われていた。中古の記録によると本堂は九間四面だったとされるが、明治に再建された本堂は五間四面で、格天井には彩色された家紋が300以上も並んでいる。

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高貴山菩提寺の宗門は、法相・天台・浄土・真言と変遷し、明治浄土宗として再興された。略縁起によれば、堂内には嵯峨大覚寺から文久元年(1861)招来したと伝わる、本尊の十一面観世音菩薩坐像、芝増上寺から万延元年(1860)招来したとされる阿弥陀如来像や、同時に奉納された冷泉為恭作という法然15歳の勢至丸像が安置されている。

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本堂の東の境内には、法然が学業成就を祈願し、突き立てた枝が成長したとされる大イチョウがそびえる。

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樹高約45m、目通り周囲約12m、推定樹齢900年を超える、県下一の大樹で、国の天然記念物に指定され、全国名木百選にも選ばれている。

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本堂の東側には、杉の樹林に囲まれて、菅家武士団の墓と伝えられる、鎌倉〜室町時代の石造五輪塔・宝篋印塔群が林立している。

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イチョウから本堂へと戻る途中、長さ70cmほどのマムシと思われる蛇が悠然と進んでいるのに出くわした。頭をもたげる戦闘体勢ではなかったので、マムシと確認するために、気味悪いができる限り近づいて紋様を写真に収めた。後日、図鑑でマムシと確認できた。年平均3000人が噛まれるそうだが、走ってでも早く医療機関に行って血清投与する必要がある。

2017-06-06 中山神社

[][]中山神社 22:16

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津山市一宮にある中山神社は、美作国唯一の式内社の名神大社であり、美作国一宮である。二宮の高野神社とともに『今昔物語』『宇治拾遺物語』にもその名がみえる。折口信夫池田弥三郎らは、『古今和歌集』にみえる「吉備の中山」を当社に比定している。

寛政3年(1791)に建てられた花崗岩製の大鳥居は、貫が貫通せず、つまり角貫に木鼻がなく、笠木と島木に反りをもたせて壮大美を強調している、他に例を見ない形式で、「中山鳥居」と呼ばれる。

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鳥居をくぐってすぐ左手に立つ「名木百選」のムクノキは、推定樹齢500年、目通り5.3m、高さは23mある。

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御手洗川にかかる石橋を渡ると神門が建っている。この神門は、津山城二の丸にあった四脚門を明治初頭に移築したものであり、津山市指定重要文化財に指定されている。切妻の屋根を支える2本の柱の後ろに控え柱の建つ薬医門で、屋根は檜皮葺である。

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中山神社は慶雲4年(707)に創建され、貞観6年(864)に官社となり、永保元年(1081)に正一位の神階を授かっている。社殿は瑞牆に囲まれ、切妻の平唐門の中門がその入り口に建っている。

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社名は現在「なかやま」と読むが、かつては「ちゅうぜん」「ちゅうざん」と音読みしていた。別称として「仲山大明神」や「南宮」とも呼ばれたという。

拝殿は入母屋造平入りの建物で、特に目立った彫刻や装飾の見られない質素な造りとなっている。向拝の下に大きな注連縄が掲げられており、拝殿の奥に本殿が認められる。

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本殿(附宮殿3基・棟札2枚)は、永禄2年(1559)出雲国富田城の城主尼子晴久が再建したもので、国の重文に指定されている。主祭神として鏡作神(かがみつくりのかみ)を祀る。鏡作神とは、鏡作部の祖神で、別称、石凝姥神(いしこりどめのかみ)の神業を称えた呼び名である。石凝姥神とは、天孫降臨の五部神で八咫鏡を造った神である。相殿神として、石凝姥神の父神である天糠戸神(あめのぬかどのかみ)と、鍛冶屋の神である金山彦神を祀る。

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入母屋造方三間妻入りの独特の建物で、以後の美作国の神社建築の範となり、中山造と呼ばれる。屋根は檜皮葺で、向唐破風の向拝が付けられている。

国家非常時には勅命により特に全国七カ国の一宮武蔵上野伊豆駿府若狭美作肥後)を選び、国家安穏を祈願するが、当社も選ばれて祭祀を厳修したとされる。当社の神鉾祭の神事、御注連祭(おんしめまつり)は、天慶の乱(平将門の乱)や蒙古襲来の際に、各地で行われた異国降伏祈願に由来している。

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神門の左側には神楽殿が建っている。神楽殿の右横には末社の総神殿(惣神殿)が建っている。総神殿は寛保元年(1741)の造営であり、祭神として山上山下120社を祀っている。社殿は中山造で、津山市の重要文化財に指定されている。摂末社はかつて112社あったが、尼子晴久の美作攻略の際に焼失し、現在は5社のみが残る。

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神厩には、神馬だけでなく神牛も一緒に奉納されていた。

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社殿の左手奥には国司社(くにししゃ)が建っている。国司社は祭神として大国主命を祀っている。

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国司社の先をさらに進むと、左手の石段の上に御先社(御崎社)がある。御先社は、中山の神の祖神を祀っている。中山の神の側にあって供をするという義で、一般には稲荷神として信仰されている。

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さらに進むと猿神社の鳥居がある。その先を進んでいくと裏山の斜面を上がっていく。途中で引き返してしまったが、上にある猿神社は、今昔物語にみえる「中山の猿」の霊を祀るとされ、現在は祭神として猿田彦神を祀っている。

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鳥居の手前左手に名木百選の「祝木(いぼぎ)のケヤキ」がある。推定樹齢800年、目通り周囲8.5m、樹高10m。尼子の兵火以前のもので、正面の小祠には大国主命が祀られている。 

2017-06-01 安養寺(会陽)、奥津峡

[][]安養寺(会陽)、奥津峡  21:27

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古代、美作国は、国分寺総社一宮中山神社などが集まる中央の津山盆地が中心だったが、今の美作市がある東部は古くから仏教が栄え、近世には因幡往来・出雲往来が通過し、交通の要所であった。美作市役所の近くに真言宗の間山二王院安養寺がある。昔、勝南間山に聖徳太子により創建されたと伝えられ、古くは高福寺と称していたという。天正元年(1573)に焼失し、その後安養寺と改め、元禄10年(1697)に現在地に移されたという。山門の手前には鐘楼が建っている。

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山門は三間一戸の薬医門で、珍しく薬医門の仁王門となっている。山門の右には観音堂が見える。

安養寺観音堂は、美作市無形文化財「会陽」(裸まつり)が開催される会場としても有名である。毎年2月第2土曜日に行われる会陽では、県内各地から集まるまわし姿の男たち数百人が福男目指して、激しい真木(しんぎ)の争奪戦を繰り広げる。無病息災・家内安全・商売繁盛等の大護摩供の後、陰陽2本の本真木と80本の副真木に願いが込められ、太鼓を合図に観音堂福窓から真木が投下されると、全ての明かりが消され、歓声が上がってもみ合いが繰り広げられる。裸まつりとしては岡山市の西大寺会陽もよく知られた奇祭だが、安養寺会陽は県下最古級の約800年の伝統をもっている。

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本尊の木造十一面観音立像は、平安時代の作で、像高109.3cm、檜の寄木造、漆箔、彫眼で、国の重文に指定されている。しかし、中をのぞいた限りでは見当たらなかった。

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観音堂の右手にある大師堂には、播磨美作七福神の毘沙門天が安置されている。裏手にある庭園は、森氏居館時代の文禄、慶長初年の作庭とされ、美作市の名勝に指定されている。立石の多い小堀遠州流の庭園で、枯山水の築山と前庭の亀島の眺めがよいといわれる。 

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大師堂の右手には本堂である持仏堂が建っている。弘法大師像や阿弥陀仏像が祀られている。

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観音堂と大師堂をつなぐ渡り廊下の下をくぐり抜けて進むと裏山に向かう。裏山にある88ヶ所には、金比羅鎮守堂、子安地蔵尊、粟嶋大明神などが祀られている。

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美作から再び津山に戻り、市内を流れる吉井川の上流に向かい、奥津温泉に泊まった。美作三湯の一つとされる奥津温泉は歴史が古く、江戸時代より開かれて温泉街が形成された。「足踏洗濯」が行われる露天風呂を中心に、川沿いに風情ある老舗旅館や民宿が立ち並ぶ。

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1954年にウラン鉱石が発見されて有名になった、人形峠につながる吉井川源流に臨む奥津渓谷は、花崗岩の板状節理や東洋一ともいわれる臼渕の甌穴群、天狗岩の奇岩など自然の織りなす景観に優れ、国の名勝に指定されている。奥津温泉のすぐ近くにあり、とりわけ紅葉の時期は美しいとされるが、残念ながら激しい雷雨に見舞われ、立ち寄ることができなかった。

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岡山県中国地方の中でも地ビールが盛んなところで、多くの地ビール工場がある。中でも「作州津山ビール」は、加茂川の伏流水を使った「多胡本家酒造場」のビールである。このケルシュ「ITSUHA」は、淡色麦芽とファインアロマホップを使い、上面発酵方式で作られたキレのある味わいが特長である。