半坪ビオトープの日記

2017-09-28 竹生島、都久夫須麻神社

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竹生島は、琵琶湖北部の沖合約6kmに浮かぶ周囲2kmあまりの小島であり、島全体が花崗岩の一枚岩からなり、切り立った岸壁で囲まれている。針葉樹で覆われた中に寺社が点在する風景の美しさで古来より知られ、琵琶湖八景(1950)に「深緑竹生島の沈影」として選ばれ、国の名勝及び史跡にも指定されている。

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竹生島は古来より信仰の対象になった島で、神の住む島ともいわれ、奈良時代に行基上人が四天王像を安置したのが始まりと伝わる。島の南部には宝厳寺(ほうごんじ)と都久夫須麻神社(竹生島神社)が祀られている。竹生島は神仏一体の聖地であったが、明治の神仏分離令に際して、弁才天社から竹生島神社に改称した。竹生島弁才天は、江島神社神奈川県江ノ島)・厳島神社(広島県宮島)と並んで日本三大弁天の一つに数えられる。

旧三高(現、京大)の寮歌として知られる「琵琶湖周航の歌」の4番に竹生島が歌われていて、その歌碑が竹生島港に立てられている。

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港からすぐ宝厳寺への参道の石段が始まるが、左手の本坊の先の月定院の所で右手に竹生島神社へ参道が別れる。165段あるこの急な石段は、念仏を唱えながら無心に進むためか、祈りの石段とも呼ばれる。

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港のすぐ上の崖沿いに架けられた長い橋の参道を進むと、船着場の様子が手に取るように見下ろせる。左手の崖上には修理中の宝厳寺観音堂と舟廊下(渡廊)がある。

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橋を渡りきると大木の木陰に黒龍堂がある。黒龍は八大龍王の一尊。龍王は大海に住み雨を降らす神であり、釈尊の誕生時には歓喜の清浄水を降らせたと伝わる。大木は黒龍が湖より昇ってくると伝えられる神木である。

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左に回り込むと招福弁財天が祀られている。ここには三弁天ではなく、五弁天が紹介されていた。曰く、安芸国厳島大神大和国天川大神近江国竹生島大神相模国江島大神陸前国黄金山大神である。

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招福弁財天の先には龍神拝所があり、すぐ脇に白巳大神が祀られている。古来より白蛇は弁財天の使いとされるが、龍神・水神・弁財天にはつきものである。ちなみに白川静によれば、祭祀の「祀」は、巳(蛇)を神として祀ることを意味する字であるという。

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龍神拝所には、とぐろを巻いた阿吽の蛇が狛犬のように配され、正面の開口部から琵琶湖が望める。

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脇から眼下を眺めると湖岸に面して鳥居が立っている。ここからかわらけ投げが行われる。願いを書いたかわらけが鳥居をくぐれば願いが成就するという。

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龍神拝所の反対側には南向きの社殿がある。社伝では、雄略天皇3年に浅井姫命を祀る小祠が建てられたのが創建という。神亀元年(724)、聖武天皇の夢に天照大神が現れ、その神託に従って、行基を勅使として竹生島に遣わし寺院(宝厳寺)を開基させたという。天平3年(731)に聖武天皇が参拝し社前に天忍穂耳命・大己貴命を祀ったといわれ、行基は弁財天の像を彫刻して本尊としたと伝わる。『延喜式神名帳』では「都久夫須麻神社」と記され、祭神は浅井氏の氏神ともいわれる浅井姫命とされる。平安時代には神仏習合が進み、弁財天を本地仏として「竹生島権現」「竹生島弁財天社」とも称された。祭神として、市杵島比売命(弁財天宗像大神)、宇賀福神(龍神)、浅井比売命(産土神)を祀る。

国宝の本殿は永禄元年(1558)に火災で焼失し、永禄10年(1567)に再建されたが、これは現存の庇と向拝にあたる。中心部の身舎(もや)は、慶長7年(1602)に豊臣秀頼が改造したもので他から移築されたものである。桁行5間、梁間4間で、入母屋造、檜皮葺、前後に軒唐破風をつけ、周囲に庇を巡らせている。両開き桟唐戸、壁、内法長押上には、菊や牡丹等の極彩色の彫刻が施され、内部の柱・長押等には梨子地で蒔絵が施されている。

本殿に上がる石段の右手には江島大神厳島大神が祀られ、左手には天忍穂耳神社と大己貴神社が祀られている。

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竹生島神社本殿から左に観音堂と連絡する屋根付きの渡廊がある。豊臣秀吉の御座船の用材を使用して建てたという伝承から「船廊下」とも呼ばれる。

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船廊下に続く宝厳寺観音堂は、入母屋造檜皮葺。西国三十三所観音霊場第30番札所で、本尊の秘仏・千手観音立像(鎌倉時代)を安置する。柱などの木部は総漆塗りで、天井には極彩色で菊、桐などの文様が描かれる。観音堂と船廊下は国の重文に指定されている。

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観音堂の左(西)には国宝の唐門が付属している。その前方には、港から宝厳寺本堂へ直に上がる石段の参道に合流する参道が水平に伸びている。左手前方には宝厳寺本坊が見える。

2017-09-22 長浜、大通寺

[][][][]長浜、大通寺 21:41

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敦賀市南の野坂山地を超えると滋賀県長浜市に入り、日本最大の琵琶湖が見えてくる。琵琶湖東岸を南下するとまもなく長浜市街地となる。長浜港から竹生島へ向かう観光船から、復元された長浜城の模擬天守が見える。旧長浜城は羽柴秀吉が築城した。天正元年(1573)に浅井長政攻めの功で織田信長から浅井氏の旧領を拝領した際に、秀吉が当時今浜と呼ばれていたこの地を信長の名から一字拝領し長浜に改名した。同3・4年頃完成し入城。秀吉が最初に築いた居城であった。戦国時代のため城主は転変を繰り返し、大坂の陣後に廃城となった。背景に見える山並みは、伊吹山地である。

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琵琶湖の名物グルメといえば、近江牛ステーキや鮒ずし、のっぺいうどん、じゅんじゅん(すき焼き鍋)などいろいろあるが、長浜で是非とも味わいたいと思ったのは、「天然琵琶マスの親子丼」である。大通寺の長浜御坊参道にある「住茂登」が、創業120年を誇る郷土料理の専門店で、冬の「鴨鍋」、夏の琵琶湖天然うなぎ、代々伝わる一子相伝の鮒ずしが絶品という。

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「天然琵琶マスの親子丼」は、米コシヒカリの上に琵琶マスを敷き詰め、琵琶マス卵の醤油漬けを贅沢に乗せ、大葉を散らしている。琵琶マスのあら汁もついたセットが嬉しい。評判通りの美味しさで、この数ヶ月後には、地魚料理の全国コンテスト「Fish-1グランプリ」のプライドフィッシュ部門で、2016年のグランプリに選ばれた。

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「住茂登」の前の長浜御坊参道を北に進むと、突き当たりに大通寺の大きな山門が構えている。

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長浜市にある大通寺は、真宗本廟・東本願寺を本山と仰ぎ、正式には真宗大谷派本願寺別院無礙智山大通寺というが、別名は「長浜御坊」、「長浜別院」、「大通寺」とも略称される。

巨大な山門は、33年かけて天保12年(1842)に完成した二層門である。

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良質の欅材を利用した重厚な造りで、左右の山廊に階段があり、7月上旬の夏中法要の期間中には2階に上がることができ、釈迦如来を中心に弥勒菩薩と阿難尊者の三尊像が安置され、天井には大塚(山縣)岐鳳による「天女奏楽図」が描かれているのを見られるという。

山門には迫力のある龍をはじめ、随所に早瀬守次による精緻な彫刻が施され、県内屈指の大門として長浜市の文化財に指定されている。

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大通寺は、湖北の中心道場であった総坊(総会所)を前身とし、慶長7年(1602)に本願寺第12代教如を開基として長浜城跡に創建され、慶安2年(1652)に現在地に移転した。

本堂・阿弥陀堂は、桁行27.7m、梁間25.1mの入母屋造、本瓦葺きで、江戸時代初期の建立とされる。寺伝では、伏見城の殿舎を徳川家康より東本願寺教如へ贈られ、御影堂として用いられたものを、承応年間(1652-54)に移建したものと伝承されるが、初代住職霊瑞院により明暦3年(1657)に新築されたと考えられている。

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本堂の正面と東西の三面には広縁と落縁が囲み、その周りに軒柱が取り囲む。内部は本尊を安置する内陣と礼拝する外陣とに大きく分かれている。内陣は奥行3間を上段に構え、中央に仏間その左右に余間をとり、さらに両入側部分に飛檐(ひえん)の間を配した真宗本堂の平面を持つ。

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本堂の左には玄関の付いた大広間・庫裏がつながり、広間の後ろには新御座、客殿の含山軒・蘭亭・桜の間が続き、その前後には国の名勝とされる含山軒庭園・蘭亭庭園があり、本堂の背後には御裏庭園がある。本堂・大広間・客殿は国の重文に指定されている。玄関は宝暦10年(1760)に建てられている。

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玄関には「群鶴図」「老松図」などの狩野派の襖絵があり、広間には「滝に牡丹唐獅子図」や「飛燕図」などの狩野派の障壁画があり、さらに新御座や含山軒・蘭亭にも多くの障壁画があるのだが、この後竹生島に行く予定があるので、残念ながら省略し、拝観案内だけ載せる。

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本堂の右手前(東)には、2階建ての太鼓楼が建ち、行事の時に太鼓が打ち鳴らされる。その手前には仏骨奉安忠魂塔が立つ。

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太鼓楼の手前にある鐘楼堂は、延宝3年(1675)に建立されたものであり、檜皮葺、入母屋造の屋根を持つ。

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鐘楼堂は方形の蓮池の中に設けられている。ハスの花がちょうど盛りを迎え、鮮やかなピンク色の花びらを可憐に広げていた。

2017-09-15 気比神宮

[][]気比神宮 23:27

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若狭湾国定公園の東端、敦賀半島に囲まれた敦賀湾に面する敦賀市に、古来より北陸道総鎮守と仰がれる気比神宮が鎮座している。社殿はほとんど第二次世界大戦の空襲で焼失したが、唯一空襲を免れた大鳥居は、正保2年(1645)造営で高さ36尺(10.93m)を誇り、奈良春日大社広島の厳島神社の大鳥居とともに「日本三大鳥居」にも数えられる壮麗な朱塗り両部鳥居であり、国の重文に指定されている。旧神領地佐渡国の鳥居ヶ原から奉納された榁の大木が使用されている。扁額「氣比神宮」は有栖川宮威仁親王の染筆になる。

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西に面した大鳥居をくぐって参道を東に進むと、中鳥居前に立つ「旗揚松」に至る。社伝では、延元元年(1336)当神宮宮司氣比氏治が南朝後醍醐天皇を奉じ、この松に氣比大明神の神旗を掲げ挙兵したという。現在もその旧根が残るとともに2代目の松が生育している。

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旗揚松のところで南向きの中鳥居が立っていて、塀と回廊で囲まれた境内の中に大きな社殿が見える。

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気比神宮の社名は、『古事記』では気比大神/気比神、『日本書紀』では筒飯大神/筒飯神、『延喜式神名帳』では気比神社となっているが、気比大神宮、気比明神などの呼称もある。『記紀』では仲哀天皇、神功皇后、応神天皇との関連が深く、中世には越前国一宮とされ、福井県から新潟県まで及ぶ諸所に多くの社領を有していた。主要社殿は空襲で焼失したため、いずれも戦後の再建である。本殿の手前に接続して内拝殿・外拝殿が建てられている。

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祭神は本殿に主祭神として、伊奢沙別命(いざさわけのみこと)という気比神宮特有の神が祀られ、気比大神または御食津大神(みけつのおおかみ)とも称される。さらに仲哀天皇と神功皇后が合祀されている。社伝では、上古に主祭神の伊奢沙別命は東北方の天筒山に霊跡を垂れ、境内北東方にある土公の地に降臨したという。そして『気比宮社記』によれば、仲哀天皇の時に神功皇后が三韓征伐出兵にあたって気比神に祈願をすると、海神を祀るように神託があり、皇后は穴門に向かう途中で海神から干・満の珠を得た。そして仲哀天皇8年3月に神功皇后武内宿禰安曇連に命じて気比神を祀らせたといい、これが神宮の創建になるとしている。その後大宝2年(702)に文武天皇の勅によって社殿を造営し、本宮に仲哀天皇・神功皇后を合祀、東殿宮・総社宮・平殿宮・西殿宮の4殿に各1柱(日本武命・応神天皇・玉姫命・武内宿禰)を祀り、「四社の宮」と総称される。

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現在の摂末社14社のうち、本殿に向かって左手に本宮と関係が深い9社が祀られており、「九社の宮(くしゃのみや)」と総称されている。一番左は伊佐々別神社で、祭神は漁労を守る神、御食津大神荒魂神。応神天皇皇太子の時当宮に参拝した折、夢に大神が現れ御名を唱えることを約し、その威徳により翌朝筒飯の浦一面余る程の御食の魚(みけのお)を賜った。天皇嬉び神域を畏み、気比大神の荒魂を勧請崇祀されたという。右が擬領神社(おおみやつこじんじゃ)。社記に武功狭日命(たけいさひのみこと)と伝えられ、一説に大美屋都古神または玉佐々良彦命ともいう。旧事紀には「蓋し当国国造の祖なるべし」とある。

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左から3つ目は天伊弉奈彦神社で、祭神は天伊弉奈彦大神。続日本後記に承和7年(840)、越前国従二位勲一等氣比大神御子無位天利劔神、天比女若御子神、天伊弉奈彦神、並従五位下を奉授せらるとある。次は天伊弉奈姫神社で、祭神は天比女若御子大神。社家伝記に、伊佐奈日女神社、伊佐奈日子神社は造化陰陽の二神を祀りしものなりという。その次は天利(あめのと)劔神社で、祭神は天利劔大神。式内社。仲哀天皇当宮に参拝、宝劔を奉納せられ霊験いと奇しという。次は鏡神社。神功皇后角鹿に行啓の際、種々の神宝を当宮に捧げ奉った。その中の宝鏡が霊異を現わされたので、別殿に國常立尊とともに崇め奉り、天鏡宮と称え奉ったという。次は林(はやしの)神社。林山媛神を祀る。延喜式所載の越中國礪波郡林神社は当社と同体である。延暦4年(785)の勅により僧最澄氣比の宮に詣で求法を祈り、同7年再び下向して林神社の霊鏡を請ひ、比叡山日吉神社に遷し奉った。即ち当社が江州比叡山氣比明神の本社である。次は金神社。素戔嗚尊を祀る。延暦23年(804)僧空海当宮に詣で、大般若経1千巻を転読求法にて渡唐を祈る。弘仁7年(816)に再び詣でて当神社の霊鏡を高野山に遷して鎮守の杜とした。即ち紀州高野山の氣比明神はこれである。一番右は劔神社で、祭神は姫大神尊。剛毅果断の大神として往古神明の神託があったので、莇生野村(旧敦賀郡)へ勧請し奉ったという。

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九社の宮の右手奥に神明両宮がある。祭神は天照皇大神内宮)と豊受大神外宮)。外宮は慶長17年(1612)、内宮は元和元年(1615)に、伊勢の神宮よりそれぞれ勧請奉祀される。

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神明社の右手に気比神宮の本殿を垣間見ることができる。現在の本殿は昭和25年の再建であるが、旧本殿は慶長19年(1614)に、結城秀康により再建されたものである。桁行3間、梁間4間の両流造という独特の形式の大規模な社殿で、屋根は檜皮葺、正面には1間の向拝が付設されていた。現在の本殿の周囲には四社の宮(東殿宮・総社宮・平殿宮・西殿宮)が建てられているが、ここからわずかに見えるのは、左が平殿宮であり、右が西殿宮である。

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社殿を後に中鳥居をくぐって出ると、旗揚松の先(南)に松尾芭蕉の像と句碑がある。元禄2年(1689)、芭蕉は『おくのほそ道』の道中で「中秋の名月」を詠むために敦賀気比神宮に参拝した。

「月清し遊行のもてる砂の上」芭蕉像の台座にこの句が刻まれている。

樹齢700年といわれるタモの木の手前の句碑には、「國々の八景更に氣比の月」「月清し遊行のもてる砂の上」「ふるき名の角鹿や恋し秋の月」「月いつこ鐘八沈る海の底」「名月や北國日和定なき」と、敦賀の地を詠んだ「芭蕉翁月五句」が刻まれている。句碑は、高さ2.6m、横4.4m、奥行き1.3m、重量約30トンと巨大な自然石が使われている。

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旗揚松の右手(東)には、ユーカリの大木がある。樹高は10mを超え、幹周りは3m強、敦賀市指定の天然記念物になっている。

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表参道大鳥居をくぐるとすぐ左手に石造鳥居があり、その奥(北)に猿田彦神社がある。祭神は猿田彦大神で、気比神を案内する神であるという。

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境内の東側、東参道駐車場脇(北)に「土公」がある。祭神の霊跡、天筒山の遥拝所であり、気比大神の降臨地とされる。大宝2年(702)の社殿造営以前は土公を神籬(ひもろぎ)として祭祀が行われたとする。また社殿造営後も土公は古殿地として護られたとも、最澄・空海は当地で7日7夜の祈祷を行ったとも伝える。

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参道口の南側には3社の境内社が並んでいる。一番左(北)が大神下前(おおみわしもさき)神社で、祭神として大己貴命(おおなむちのみこと)を祀り、稲荷神と金刀比羅神を合祀する。古くは「道後神社」と称し、神宮の北方鎮守社として天筒山山麓の宮内村に鎮座したとされる。本殿は流造檜皮葺。その右に兒宮(このみや)がある。祭神は伊弉冊(いざなみ)尊である。寛和2年(986)に遷宮があったといい、それ以前からの鎮座と伝える。

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兒宮の右手(南)に角鹿(つぬが)神社がある。祭神として都怒我阿羅斯等命(つぬがあらしとのみこと)を祀り、松尾大神を合祀する。都怒我阿羅斯等は『日本書紀』において垂仁天皇の時に渡来したと記されている意富加羅国(任那国)王子で、同書では筒飯浦に至ったと見える。神宮の伝承では、その後天皇は阿羅斯等に当地の統治を任じたといい、この角鹿神社はその政所跡に阿羅斯等を祀ったことに始まるとし、「敦賀」の地名は当地を「角鹿(つぬが)」と称したことに始まるとしている。社殿は流造銅版葺。嘉永4年(1851)の改築によるもので、神宮の境内社では唯一戦災を免れている。

2017-09-08 三方五湖、若狭三方縄文博物館

[][]三方五湖若狭三方縄文博物館 20:21

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京都府北端の丹後半島経ヶ岬から福井県北部西端の越前岬を結ぶ直線とリアス式海岸によって囲まれた海域が、若狭湾と呼ばれる。湾内には敦賀湾や小浜湾、舞鶴湾、宮津湾などの支湾があり、風光明媚な景勝地が多く存在する。そのうち若狭湾国定公園に属する福井県三方五湖は、国の名勝に指定され、ラムサール条約指定湿地に登録されている。三方湖水月湖菅湖久々子湖日向湖の五つの湖はすべて繋がっていて、この水月湖は五湖中最大の面積をもつ汽水湖である。

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南部三方湖は元々西北の水路でこの水月湖と通じていたが、水月湖久々子湖の間は1662年から開削された浦見川水路によって結ばれ、さらに1751年の嵯峨隧道開通により水月湖日向湖が繋がった。こうした人工的な開削により五湖が連結され、現在のような形になった。

この集落の先に浦見川水路があり、右奥の方にある久々子湖とつながっている。

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今から約2万年前の第4氷河期には、日本海の海面が100m以上も下がり、三方五湖は海岸から遠く離れた内陸の湖だった。約5千年前の縄文時代前期には、海面が現在より3〜5mも高くなり、三方湖は現在の約2倍の面積があった。その後海面が下がり、ほぼ三方五湖の輪郭ができた頃、久々子湖はまだ大きな入江だったが、耳川によって海に運ばれた砂が入江に堆積し、入口がほとんど塞がれて久々子湖が誕生した。よって久々子湖は潟湖であり、他の湖は三方断層の沈降部にできた断層湖と見られている。

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三方五湖の景観の特色は、低い緩やかな丘陵性の山々を湖の周囲に巡らし、温和で素朴な情緒が溢れていることだ。この水月湖も色鮮やかな新緑や紅葉を湖畔の水面に映し、湖畔沿いの家並みや梅林など、穏やかな風情に包まれている。

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三方五湖を巡るレインボーラインにはいくつか展望台があり、三方五湖はもちろん、リアス式海岸である若狭湾の切り立った海岸線が続く対照的な風景を望むこともできる。

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標高約400mの三方富士とも呼ばれる梅丈岳近くの展望台からは、眼下に三方五湖を望むことができる。三方五湖は淡水・海水・汽水と水質(塩分濃度)が違い、また水深も違うことから、湖面の色も微妙に違いがあり五色の湖とも呼ばれる。

万葉集に「若狭なる三方の海の浜清み い往き還らひ見れど飽かぬかも」(作者不明、巻7-1177)という歌が収録されているが、はるか昔から「飽かぬかも」といわれるほどの多様な表情を見せていたと思われる。

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南部三方湖の南岸にある縄文ロマンパーク内に、風変わりな建物である若狭三方縄文博物館が建っている。外観は、縄文人達が世界観の中心としていた「生命の循環」というテーマを、大地を母体に見立てることにより表現したという。内部空間は、縄文の人々が暮らしていた当時の実り豊かな「巨木の森」の内部を建築的に再現したという。

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三方五湖のある若狭町には、縄文遺跡として有名な鳥浜貝塚などの縄文遺跡が多く存在するが、この博物館はそれらの出土品を中心に展示し、縄文人の生活様式なども学べる場として建てられた。

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1階の縄文ホールでは、縄文の森の象徴として、縄文時代後期の杉の大株(埋没林)を展示している。町内気山地区の埋没林から出土したもので、幹の直径が1.5m以上、根の張りは5m以上あったと見られている。この地域には、杉を中心とした森が生い茂っていた証拠である。多くの株には鉄斧で切断したと見られる痕跡が残っていて、枯死後かなり年月が経過した後、古代の水田開発の際に切断されたと考えられている。

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「森と海・湖の文化」コーナーのメインは丸木舟。鳥浜貝塚から2艘、ユリ遺跡から9艘、合わせて11艘の丸木舟が出土している。鳥浜貝塚から出土した丸木舟は、縄文時代前期と後期のもので、どちらも縄文時代では非常に珍しい杉材で作られている。これはユリ遺跡出土1号丸木舟で、現存全長5.2m、最大幅56cm、深さが10cmで、こちらも杉材である。ほかに復元された丸木舟も展示されている。

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三方五湖のうちで最大の水月湖の底には、何層にも重なった縞模様の堆積物が厚さ73m以上もたまっている。その縞模様は白い層と黒い層が交互に重なってできており、一対で一年分を示している。その様子を「年縞(ねんこう)」という(木に例えると年輪)。水月湖の年縞は実に7万年もの長い期間にわたり、大きくかき乱されることもなく安定して積み重なり、今日まで保存されてきた。水月湖年縞により化石や考古資料など古いものの年代測定法の放射性炭素年代測定の精度が飛躍的に向上した。また花粉黄砂、火山灰が含まれていたり、大きな洪水や地震の痕跡もとどめることから、過去の気候変動の研究にも利用されている。これほど長期間、安定して保存されている年縞は世界的にもたいへん珍しく、世界中の研究者から注目されている。

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縄文博物館のある縄文ロマンパークには、野外ステージで各種イベントが行われる縄文コロセウムや野鳥観察小屋などがある。縄文広場には、縄文時代の竪穴住居や縄文の森、畑、環状列石が再現され、縄文文化に触れることができる。

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博物館のすぐ南東のはす川と高瀬川の合流地点に、縄文時代草創期から前期(約12,000〜5,000年前)にかけての集落遺跡で有名な鳥浜貝塚がある。遺物の含まれる層は、現在の地表面より3mから7m下まで及んでいて、主な遺物は水中に残されていた。現在、周辺は鳥浜貝塚公園となっているが、出土した主な遺物は国の重文に指定され、若狭三方縄文博物館で展示されている。

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発掘調査は昭和37年(1962)立教大学・同志社大学の共同調査で始められ、10次にわたる調査で、竪穴住居跡、草創期の押型文土器・瓜形文系土器・隆線文土器、丸木舟などの木製品、編物、漆製品、栽培植物の種など多種類の出土品が発掘され、「縄文のタイムカプセル」とも呼ばれた。とりわけ赤漆塗りの櫛などの漆製品は注目に値する。1984年に出土した木片を2011年に東北大学が調査したところ、およそ12,600年前のウルシの枝であることが判明した。今まで大陸から持ち込まれたと考えられていた漆だが、国内に元々自生していた可能性も考えられるようになった。

2017-09-01 伊根、籠神社、天橋立

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丹後半島の海岸沿に北東に進むとまもなく、展望台から丹後松島という景勝地が見える。リアス式海岸の断崖、小島、奇岩が連続する様子が、日本三景松島に似ていることから名付けられた。特に朝日や夕日の頃のシルエットが美しいという。

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丹後半島を回り込んで東端に至ると、舟屋の里で有名な伊根湾に着く。伊根湾は日本海側では珍しい南向きの天然の良港で、その波静かな海と沈黙の山並みの隙間にひっそりと、船のガレージのような珍しい建築様式の舟屋が建ち並んでいる。

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舟屋は、母屋から道路を挟んで海際に、切妻造の妻面を海に向けて建てられ、1階には船揚場、物置、作業場があり、出漁の準備、漁具の手入れ、魚干物の干場や農産物の置き場等と幅広く活用されている。2階は生活の場、客室、民宿等に活用されている。時間があれば伊根湾めぐり遊覧船で、海から眺めたいところだ。

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海面すれすれに舟屋が建てられているため、あたかも家が海に浮かんでいるような景観となっている。舟屋は江戸時代中期ごろから存在していて、今でも周囲約5kmの湾に沿って230軒ほど現存している。平成17年には漁村で初めて国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。

「わかめ刈る与佐の入海かすみぬと 海人にはつげよ伊禰の浦風」(伝、鴨長明

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伊根から天橋立丹後半島を南下すると、天橋立の向かいに籠(この)神社がある。奈良時代に丹後国一宮となり、平安時代には名神大社となり、最高の社格と由緒を誇っている。一の鳥居は石造りだが、この神門前の二の鳥居は木製で、いずれも伊勢神宮と同様の神明鳥居となっている。

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神門の左右に阿吽一対の石造の狛犬が安置されている。安土桃山時代の作で、国の重文に指定されている。社伝では鎌倉時代の作という。阿形の狛犬の右前足は割れて鉄輪がはめられているが、昔、この狛犬が橋立に現れて悪さをしたので、天正年間(1573-92)に岩見重太郎が斬ったことによると伝えられている。

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籠(この)神社は、元伊勢の一社で「元伊勢籠神社」とも称し、また「元伊勢根本宮」「内宮本宮」「籠守大権現」「籠宮大明神」とも称する。元伊勢とは、天照大神が宮中を出てから伊勢五十鈴川の河上に鎮座するまで、垂仁天皇皇女倭姫命が天照大神の神鏡を持って各地を巡行した際、一時的に天照大神を祀った二十数カ所のことをいうが、天照大神・豊受大神をその血脈の子孫が宮司家となって一緒に祀るのは、吉佐宮こと元伊勢籠神社真名井神社だけとされて、特に注目されている。

社伝によれば、現在伊勢神宮外宮に祀られている豊受大神は、神代は「真名井原」の地(現在の奥宮真名井神社)に鎮座したという。その地は「匏宮(よさのみや、与佐宮/吉佐宮/与謝宮)」と呼ばれたとし、天照大神が4年間営んだ元伊勢の「吉佐宮」にあたるとしている。そして白鳳11年(671)彦火明命から26代目の海部伍佰道(いほじ)が、祭神が籠に乗って雪の中に現れたという伝承に基づいて社名を「籠宮(このみや)」と改め、彦火火出見尊を祀ったという。その後、養老3年(719)真名井原から現在地に遷座し、27代海部愛志(えし)が主祭神を海部氏祖の彦火明命に改め、豊受・天照両神を相殿に祀り天水分神も合わせ祀ったと伝える。

伊勢神宮外宮の旧鎮座地が丹後国分出前の丹波国であったという伝承は古く、その比定地には諸説ある。延暦23年(804)の『止由気宮儀式帳』では「比治乃真名井」から伊勢に移されたとし、『神道五部書』以来の伊勢神道では旧地を丹波国与佐宮としている。

拝殿の屋根は檜皮葺で、千木・鰹木は内削ぎ8本で祭神が女神であることを表している。

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主祭神は彦火明命(ひこほあかりのみこと)、相殿神として豊受大神、天照大神海神(わたつみのかみ、海部氏の氏神)、天水分神(あめのみくまりのかみ)を祀る。

神紋は「十六八重菊」で、皇室の菊花紋と酷似している。

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延長5年(927)成立の「延喜式神名帳」では丹後国与謝郡に「篭神社(籠神社)明神大月次新嘗」として、名神大社に列するとともに朝廷の月次祭・新嘗祭で幣帛に与った旨が記載されている。中世の籠神社境内の様子は雪舟の「天橋立図」に描かれている。

籠神社の神職(社家)は、古くより海部氏(あまべうじ)の一族が担い、現存最古の系図「海部氏系図(国宝、平安時代書写)」が残され、彦火明命を始祖とし82代の現宮司までの名が伝えられている。海部氏とは海人族を統括した伴造氏族であり、全国に分布が見られる。

本殿は桁行三間、梁行二間の神明造で、檜皮葺。弘化2年(1845)の再建で、京都府の有形文化財に指定されている。なお、わずかに見える欄干の擬宝珠は赤、黄、緑に彩色された「五色の座玉」で、格式の高い神社を表すと伝えられている。

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社殿左手に境内社が並んでいる。一番手前から天照大神和魂社、春日大明神社、猿田彦神社、真名井稲荷神社と続く。真名井稲荷神社は明治末期まで奥宮に鎮座していたが、平成3年(1991)に本宮境内に移転再建された。下宮とする本宮に対して、上宮にあたる奥宮は本宮の北東約400mにある真名井神社であり、豊受大神宮・比沼真名井・外宮元宮・元伊勢大元宮とも呼ばれる。豊受大神を主祭神とし、天照大神・伊射奈岐大神・伊射奈美大神・罔象女命(みづはのめのみこと)・彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)・神代五代神を祀っている。真名井神社本殿の裏手には、古代からの祭祀場である磐座が3ヶ所あり、磐座主座には豊受大神を、西座には天照大神・伊射奈岐大神・伊射奈美大神を、奥座には塩土老翁・宇迦之御魂・熊野大神愛宕神を祀っている。境内地からは縄文時代の石斧などが出土し、弥生時代の祭祀土器破片や勾玉が出土し、有史以前から祭祀場であったことがわかる。

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社殿右手には蛭子神社(恵美須神社)があり、彦火火出見命・倭宿禰命を祀っている。その脇に神木が立ち、その根本に産霊岩(むすひいわ)と呼ばれるさざれ石がある。

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籠神社のすぐ南から天橋立が始まって長い砂州を伸ばし、東の宮津湾と西の内海・阿蘇海を隔てている。湾口砂州天橋立は、2万年前に宮津湾が完全陸地化した後、約7〜8千年前に氷河期が終わって海面上昇が落ち着くなか、当初水中堆積で発達が始まり、縄文時代の後氷期に急速に成長し、2〜3千年前に地震により大量に流出した土砂により海上に姿を見せ、有史時代に現在の姿にまで成長したとされる。

天橋立は見る方向により違う眺望となり、南の天橋立ビューランドから北を見た眺望を「飛龍観」といい、北の笠松から南を見た「股のぞき観(斜め一字観)」、東から西を見て雪舟が絵を描いた「雪舟観」、西から東を見た「一字観」と、四つの眺望を四大観と呼ぶ。この眺望は南から見た「飛龍観」である。

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砂嘴の幅は20〜170mに達し、全長は3.6kmに及ぶ。一帯には約8000本の松林が生え、東側には白い砂浜が広がる。松島宮島と並び称される「日本三景」の語句の文献的初見は元禄2年(1689)刊行の貝原益軒の著書『己己紀行』である。国の特別名勝に指定されている。天橋立の由来は、『丹後国風土記』によると、伊奘諾命が天界と下界を結ぶために梯子を作って立てておいたが、命が寝ている間に海上に倒れ、そのまま一本の細長い陸地になったという。