半坪ビオトープの日記

「杉本博司ギャラリー 時の回廊」、家プロジェクト

杉本博司ギャラリー 時の回廊」、杉本博司の「苔の観念」
杉本博司ギャラリー時の回廊」は、ベネッセハウスパークにおける杉本博司作品の展示空間を周辺のラウンジやボードルーム、屋外にまで拡げ、杉本の多様な作品群を継続的かつ本格的に鑑賞できる世界的にも例を見ないギャラリーである。ベネッセアートサイト直島の黎明期より様々な形でアート計画に参加してきた杉本の当地との関わりを背景に、既存の「松林図」や「観念の形003オンデュロイド:平均曲率が0でない定数となる回転面」などに、「ジオラマ」や「Opticks」といった主要な写真シリーズなどが新たに加わった。ちょっとした中庭には苔がびっしりと生えている。その中に大きな水滴が数珠つなぎのように立っている。この作品は、杉本博司の「苔の観念」。まさに苔の思いが凝縮されているようだ。

杉本博司の「ハイエナ、ジャッカル、コンドル」
地下1階の展示室では、既存の「カリブ海、ジャマイカ」(1980)や「カボット・ストリート・シネマ、マサチューセッツ」(1976)に加え、杉本がアメリカ自然史博物館に展示されている古生物などを再現したジオラマを撮影した「ジオラマ」シリーズより「ハイエナ、ジャッカル、コンドル」(1976)が新たに展示された。これにより「劇場」「海景」を含めた杉本の初期の代表3シリーズが同じ空間に集うことになったという。

ガラスの茶室「聞鳥庵」
屋外では、ヴェニスヴェルサイユ、京都で展示され人々を魅了してきたガラスの茶室「聞鳥庵」(2014)が設置されている。掛け軸や花の代わりに周囲の環境そのものを取り込むことにより外に開かれながら、内省的な空間を実現している。また、単なる彫刻作品だけでなく、実際に茶室として使えるということも、この作品の重要なポイントである。水と自然を生かした安藤忠雄の建築に呼応するかのように佇む。

庭に太い古木
時の回廊」は、杉本の創作活動の原点の一つである直島と、建築や作庭を中心としたプロジェクトの集大成である小田原の「江之浦測候所」を繋ぐものとして作られたという。杉本が探究し続ける「時間」や「光」、そして「自然」を体感できる場所がまた一つ生まれたのである。「聞鳥庵」の少し海側の庭に太く大きな古木がまだ生き生きと枝を広げていて、自然の力を十分に感じさせる。

ニキ・ド・サンファールの「腰掛」

「時の回廊」の南側(海側)、ベネッセハウスパークの芝生エリアに、ニキ・ド・サンファールの屋外作品群が展開する。テラスレストラン前には、「腰掛」(1989)という作品があり、隣に座って記念撮影する人が多い。

ニキ・ド・サンファールの「らくだ」
左手前の作品は、ニキ・ド・サンファールの「らくだ」(1991)であり、右奥の作品はカレル・アペルの「かえると猫」(1990)である。ニキ・ド・サンファールの作品は他にも「猫」(1991)、「象」(1991)があり、「らくだ」同様、鉢植えとなっている。

カレル・アペルの「かえると猫」
カレル・アペルの「かえると猫」も近づいてよく見ると、カエルが猫を持ち上げている姿が、なんともにぎやかで面白い。何枚ものカラフルな分厚い板を重ね合わせて不思議な造形作品になっている。

ANDOU MUSEUM

ベネッセハウス周辺をあらかた見て回った後に、直島の東側にある本村エリアに向かう。この本村地区には、古い民家や歴史ある神社をアーティストが改修し、空間そのものを作品化する、家プロジェクトという企画が実施されている。このANDOU MUSEUMは、安藤忠雄の設計による打ち放しコンクリートの空間が、本村地区に残る木造民家の中に新しい命を吹き込んでいる。安藤の活動や直島の歴史を伝える写真、スケッチ、模型だけではなく、新たに生まれ変わった建物と空間そのものを展示する美術館である。古民家の内部に入れ子状に組み込まれたコンクリートボックスは、母屋の木造屋根部分に設けられたトップライトからの光が館内を照らし、過去と現在、木とコンクリート、光と闇といった対立する要素がぶつかり合いつつ重奏する、奥行きに富んだ空間を演出している。しかし、残念ながら内部は撮影禁止だった。

極楽寺
ANDOU MUSEUMの真向かいには、高野山真言宗極楽寺がある。本尊は阿弥陀如来山号八幡山。伝承によれば、貞観年間(859-876)に聖宝(理源大師)がこの地に草庵を結んだのが起源とされる。後に崇徳院(讃岐院)の直島への来島の際、寺号を改めた。また、至徳年間(1384-86)に来島した増吽僧正が海中より引き上げた阿弥陀如来像を安置され、それが現在の本尊であるという。境内は広く、八幡神社護王神社がある。ANDOU MUSEUMのすぐ南には、家プロジェクトの「南寺」がある。

草間彌生の「赤かぼちゃ」
宮浦港には、草間彌生の「赤かぼちゃ」が屋外展示されている。『太陽の「赤い光」を宇宙の果てまで探してきて、それは直島の海の中で赤かぼちゃに変身してしまった』と草間自身が語ったという作品。水玉のいくつかはくり抜かれていて、内部に入ることができる。宮浦港には、他にも約250枚のステンレス網で構成された、藤本壮介の直島パヴィリオンが屋外展示されている。
 

 

ベネッセハウスミュージアム

ベネッセハウスミュージアム
直島のベネッセハウスミュージアムは、「自然・建築・アートの共生」をコンセプトに、美術館とホテルが一体となった施設として1992年に開館した。瀬戸内海を望む高台に建ち、大きな開口部から島の自然を内部へと導き入れる構造の建物は、安藤忠雄の設計による。絵画、彫刻、写真、インスタレーションなどの収蔵作品に加え、アーティストたちがその場所のために制作したサイトスペシフィック・ワークが恒久設置されている。

セザールの「モナコを讃えてMC12」
作品は展示スペースにとどまらず、館内の至る所に設置され、施設を取り巻く海岸線や林の中にも点在している。この作品は一階に展示されている、セザールの「モナコを讃えてMC12」(1994)。ポットが押しつぶされている。モナコはポットの生産で有名なことから作品のタイトルになったそうだ。

リチャード・ロング「瀬戸内海のエイヴォン川の泥の環」と「瀬戸内海の流木の円」
後ろの壁に掛かる二つの輪は、リチャード・ロング「瀬戸内海のエイヴォン川の泥の環」(1997)。ロングの故郷のイギリスの川の泥が塗ってある。手前にあるのは、リチャード・ロング「瀬戸内海の流木の円」。19975月、ロングが作品制作のために直島に数日間滞在し、集めた流木で作った作品である。

リチャード・ロング「十五夜の石の円」
窓の外のバルコニーに展示されているのも、リチャード・ロング「十五夜の石の円」。タイトルは制作した日が満月だったからだそうだ。

ジョナサン・ボロフスキーの「3人のおしゃべりする人」
こちらの作品は、ジョナサン・ボロフスキーの「3人のおしゃべりする人」(1986)。3人は常に喋り続けている。

柳幸典の「ザ・ワールド・フラッグ・アント・ファーム1990」
こちらの作品は、柳幸典の「ザ・ワールド・フラッグ・アント・ファーム1990」。たくさんの国旗が飾られているが、どれもボロボロに見える。

「ザ・ワールド・フラッグ・アント・ファーム1990」の一部
近づいて見ると、国旗が砂でできていて、その中に蟻を入れて巣を作らせているからだ。国旗同士はチューブで結ばれていて、そこを通ってアリが自由に移動できる。世界各国を回ったこの作品は、現地のアリを大量に捕まえて作品の中に入れ、他の国に移動する前に全てのアリを逃すことを繰り返したという。

ジェニファー・バートレットの「黄色と黒のボート」
こちらの作品は、ジェニファー・バートレットの「黄色と黒のボート」(1985)。大きな三連のキャンバスに、海と砂浜、打ち寄せられた黄色と黒のボートが描かれ、その2艘のボートは画面の手前にそのまま立体としても置かれている。そして同様のボートが、振り返った先の窓から見える実際の砂浜にも置かれているそうだが、そこまで気が付かなかった。

ヤニス・クネリスの「無題」
こちらの作品は、ヤニス・クネリスの「無題」(1983)。直島のために作られた初めての作品で、設置場所も選んでもらったという。クネリスが直島とその周辺で集めた木材や茶碗、布などを鉛でぐるっと巻いている。かなりの重量で当初より重さで沈んでいるという。
 

李禹煥美術館

李禹煥美術館 、「関係項-点線面」
地中美術館から少し進むと北ゲートがあり、ここから南に海沿いの道がつつじ荘までシャトルバス専用道路が続くが、ベネッセアートサイト直島の私有地エリアである。北ゲート脇の駐輪場に自転車を置き、シャトルバス専用道路を歩き始める。坂を下っていくと右手に李禹煥美術館が見えてくる。現在ヨーロッパを中心に活動している国際的に評価の高いアーティスト・李禹煥(リウファン)と建築家・安藤忠雄のコラボレーションによる美術館である。正面から見えるのは高さ6m、長さ50mのコンクリート壁だけで、延べ床面積443m2の建物の全容は見えない。入り口は壁の左端にある。建物の前庭にあたる「柱の広場」には、オベリスクのような18.5mの柱が立つ。これは「関係項-点線面」(2010)の一部だが、このように自然石や鉄板を素材とする「関係項」のシリーズが点在している。これは自然と文明の対比が共生か、あるいは東洋と西洋の出会いか、と訪れたものを哲学的な思考に誘導する。

「関係項-対話」、「無限門」
海と山に囲まれた谷間に、ひっそりと位置するこの美術館は、自然と建物と作品とが呼応しながら、モノにあふれる社会の中で、われわれの原点を見つめ、静かに思索する時間を与えてくれる。右手の黒い鉄板とそれを挟む自然石二つの作品は、「関係項-対話」(2010)。左手奥に見える、海へのゲートのような半円形の「無限門」(2019)は、自然石に囲まれたステンレスの門。その間を通る道も長さ25m、幅3mのステンレス。地上から海へ、海側から地上へと誘うかなり大きな門だ。門によって境界を作ることは守る知恵であり、ときに対立を呼び愚かな戦いを引き起こしてきた。そんな思考を呼び起こすことを李禹煥は石と鉄板だけで仕掛けるのである。

大きなコンクリートの壁に小さな作品
半地下構造となる安藤忠雄設計の建物の中には、李禹煥70年代から現在に至るまでの絵画・彫刻が展示されており、安藤忠雄の建築と響きあい、空間に静謐さとダイナミズムを感じさせる。打ちっぱなしの大きなコンクリートの壁には小さな作品がある。残念ながら建物の中は撮影禁止であった。

瀬戸内の石
李禹煥が目指したのは洞窟のような美術館で、半開きの空が見え、胎内へ戻るような、お墓の中へ入っていくような空間であった。これに対し安藤は、李が着想した3つの箱型の展示空間を屋根を持たない三角形の広場でつなぐプランを提案した。李禹煥が作品に用いる素材の一つとして自然石が挙げられるが、李は作品が展示される地域で石を採取することを重視している。李禹煥美術館の作品に使われる石は瀬戸内の採石場を巡って集めたものである。

草間彌生の「南瓜」
李禹煥美術館と反対側に草間彌生小沢剛の作品が展示されているヴァレーギャラリーへ下る道があったが、時間の都合で省略し、北ゲートへ戻り、自転車でベネッセハウス周辺をぐるりと回り込んで、東側の東ゲートの駐輪場につき、ベネッセミュージアムに向かって歩き始めた。海岸には草間彌生の作品「南瓜」が展示されていた。右手奥に見えるのは、オカメの鼻とその手前に伸びる桟橋である。

2022年に復元制作された南瓜
「水玉の女王」とも称される草間彌生の作品の代表作の一つ「南瓜」は、各地にいくつも作られているが、これは2022年に復元制作された作品である。元は、1994年にベネッセハウスミュージアムで開催された「Open Air’94”Out of Bounds”-海景の中の現代美術展-」のために制作設置されたもの。草間にとって初めて野外での展示を念頭に作られた作品群の一つで、高さ2m、幅2.5m。それまでに制作された南瓜彫刻の中では最大級のものだった。2021年の台風9号により海に流され破損した「南瓜」(1994)が約1年後に復元されたのである。

ジョージ・リッキーの「三枚の正方形」
海岸沿いに歩いていくと、道はベネッセハウスミュージアムに向かって上がっていく。すると左手のシーサイドギャラリーへの分岐辺りに、3枚の金属板が立って並んでいる。オカメの鼻手前に点在する数点の屋外アートの一つで、ジョージ・リッキーの「三枚の正方形(Three Squares Vertical Diagonal)」。

オカメの鼻の岬
なおも道を上っていくと、左手下にオカメの鼻の岬がよく見える。
 

直島、地中美術館

小豆島に向かうフェリー・オリーブライン

二日目は高松港から瀬戸内海に浮かぶアートの島・直島に向かう。高松港に停泊しているのは、有名な観光地・小豆島に向かう大型フェリー・オリーブラインである。

直島・宮浦行きの高速艇
直島・宮浦行きの高速艇だと30分ほどで直島につく。小型だが速い。

高松港から屋島を見る
晴れた高松港からは東に屋島の姿がよく見える。急崖で囲まれたテーブル上の高地の一番高いところは約300m、南北に約5km、東西に約2kmある。

女木島
高松港を出港するとまもなく右手に女木島が見えてくる。標高188mの鷲ヶ峰山頂近くに奥行き400mの大規模な洞窟があり、古来より鬼が住んでいたと伝えられていることから、桃太郎伝説とも結びつき「鬼ヶ島」と呼ばれている。大洞窟は見学ができ、随所に赤鬼・青鬼が迎えてくれる。

男木島
大き目の女木島の左手正面に男木島が見えてくる。その左手には豊島がかすかに認められる。男木島には、瀬戸内国際芸術祭2010で制作されたスペインの現代芸術家、ジャウメ・プレンサの作品「男木島の魂」や、山口圭介のアート作品「歩く方舟」などの芸術作品が展示されている。半世紀前の産業廃棄物問題で「ゴミの島」と呼ばれた豊島も、今では「アートの島」と呼ばれるようになった。アーティスト・内藤礼と建築家・西沢立衛による「豊島美術館」、アーティスト・横尾忠則と建築家・永山祐子による「豊島横尾館」などがある。

直島と柏島
まもなく右手に直島が見えてくる。右手前にある島は柏島である。直島の周りにある直島諸島の一つの無人島である。崇徳上皇が讃岐配流(1156)の折、直島の浦で柏手を打って難破船を救ったことが島名の由来とされる。

直島の南岸
直島の南岸沖を進む時には、海岸および高台に建物がいくつか認められた。

地中美術館」のテラスが見える
拡大してみると左上に見える建物は、これから真っ先にいく「地中美術館」のテラスのようだ。海岸にもいくつか建物が見えるが何の建物か見分けられない。海岸の崖には杉本博司の「タイム・エクスポーズド」という作品が掲げられているというが、確認できなかった。

地中美術館の入口
直島には町営バスもあるが本数が少ないので不便である。そこで宮之浦港でレンタサイクルを借り、島の南半分にあるいくつもの美術館を回り始める。坂道もあるが電動自転車なので助かる。ようやく地中美術館の入口に辿り着いた。

美術館へ向かう道の脇に咲く桜
岡山市に本拠を置くベネッセホールディングスの福武總一郎名誉顧問が理事長を務める「直島福武美術館財団」が2004年に開設した地中美術館は、福武總一郎がクロード・モネの「睡蓮」を購入したことがきっかけで展示や建築のプランが構想された。設計は安藤忠雄。モネは日本庭園を作るほどの親日家だったが、自宅に造園した「水の庭」や「花の庭」を参考に、チケットセンターから美術館へ向かう道の脇に4段に池を設置し、睡蓮などの草木を植えている。その道を歩くと山側に12月上旬でも冬桜が咲いていた。

大きなコンクリート壁の階段
地中美術館は、瀬戸内の景観を損なわないよう建物の大半が地下に埋設され、館内には、クロード・モネ、ウォルター・デ・マリア、ジェームズ・タレルの三人だけの作品が安藤忠雄設計の建物に恒久設置されている。地下でありながら自然光が降り注ぎ、1日を通して、また四季を通して作品や空間の表情が刻々と変わる。館内受付までは、大きなコンクリート壁の間に設けられた階段を登るが、撮影はここまでが可能で、受付の先にある、三人の作品群は残念ながら撮影禁止である。

レストランのテラス
いちばん奥のレストランの外のテラスには出ることができる。テラスの上の緑色がかった窓は、直島に来る高速船から見えた建物の一部である。

テラスから南西
テラスから南西を眺めると、小さな島に石堤が続いていた。

テラスから南東
テラスから南東を眺めるとベネッセハウスミュージアムと思われる建物が見えた。
 

鳴門の渦潮、屋島

うずしお汽船の高速観潮船

大塚国際美術館の裏手にある亀浦漁港から、うずしお汽船の高速観潮船が出航する。イタリアのメッシーナ海峡、カナダのセイモア海峡と並ぶ世界三大潮流である鳴門海峡の渦潮は、渦の大きさが大潮時には直径20m以上にもなり世界一といわれる。

鳴門海峡大鳴門橋
鳴門市と淡路島の間に位置し、日本百景にも選ばれている鳴門海峡に、1985年、大鳴門橋が開通した。橋長は1,629m、幅は25m、主塔の高さは144.3m。鳴門側から橋脚付近まで延長450mの遊歩道「渦の道」を進むと、展望室のガラス床があり足元45m真下に渦潮を見ることができる。

鳴門海峡の渦潮
鳴門海峡の渦潮は潮の干満によって大きさが違って、干潮、満潮の一日に4回生じる。潮見表で確認してみると、期待度は「中」となっていた。小型高速観潮船が大鳴門橋をくぐる辺りで渦潮ができつつあるのを見ることができた。

鳴門の渦潮
大型観潮船も近づいてきて、この辺りで大きな渦ができそうだが、中々渦は完成しない。

大鳴門橋と渦潮
鳴門海峡の幅は約1.3kmと急に狭くなっていて、大鳴門橋の真下はV字型に深く落ち込み、最深部は約90mにも達する。潮流は抵抗が少ない深部では速く流れ、抵抗が多い浅瀬では緩やかに流れる。速い潮流と遅い潮流がぶつかって「渦」が発生する。潮流に沿って右側には右巻き、左側には左巻きの渦が巻く。

鳴門の渦潮
中々はっきりとした渦が見つからず、観潮船はウロウロするばかりだが、大自然の仕組みなのでどうしようもない。大潮の時に観光するチャンスがあればいいのだが。

屋島
大きな渦は見られなかったが、先を急いで本日の宿泊地である高松市に向かい、屋島に立ち寄る。屋島は硬質の溶岩に覆われた平坦面が浸食された残丘、南北に長い台地状の地形である。新生代中新世の約1500万年前から約1300万年前にかけて起こった瀬戸内火山活動の溶岩などで形成された讃岐層群からなる。基盤岩は花崗岩で、長期の浸食を受け、硬質の讃岐岩質安山岩(サヌキトイド)がキャップロックとなって残った台地状地形である。屋島の名称は屋根のような形状に由来し、古来から瀬戸内海の海路の目印となっている。江戸時代までは陸から離れた島であったが、江戸時代に始まる塩田開発と干拓水田は後の時代に埋め立てられ陸続きになった。

屋島寺、東大門
633年に起こった白村江の戦いの後に屋嶋城が築かれ、山上の全域が城とされている。南嶺山上に唐僧・鑑真が創建したとの伝承をもつ屋島寺がある。真言宗御室派の寺院で、南面山、千光院と号す。律宗の開祖である鑑真が天平勝宝6年(754)朝廷に招かれ奈良に向かう途中に当地を訪れて開創し、その後弟子で東大寺戒壇院の恵雲がお堂を建立し屋島寺と称し初代住職になったという。北嶺山上に前身とされる千間堂遺跡がある。その後古代山城屋嶋城の閉鎖に伴い、南嶺の屋嶋城本部跡地に屋島寺を創設したとされる。すなわち弘仁6年(815嵯峨天皇の勅願を受けた空海は、お堂を北嶺から南嶺に移し、千手観音像を安置し本尊とした。天暦年間(947-957)明達が四天王像と、現在の本尊となる十一面千手観音坐像を安置した。四国八十八か所第八十四番札所である。駐車場からは新しく改築された東大門から入る。その先には五重塔が建っている。

鐘楼堂、本堂
境内に入ると五重塔の右手に鐘楼堂が建っている。梵鐘は貞応2年(1223)の銘があり、重要文化財に指定されている。総高102cm、口径64cm、厚さ6cm、青銅の鋳物である。鐘楼堂の向こうには宝物館があり、その右手に本堂が認められる。

千躰堂、三躰堂
鐘楼堂の手前の参道を進むと、千躰堂、三躰堂が並んでいる。右手に見える東大門に近い千躰堂の、堂内中央には千手観音、その背後に千体仏が安置されている。手前の三躰堂には、阿弥陀如来、釈迦如来、鑑真和上が祀られていて、拝顔できる。

大師堂
三躰堂の先には大師堂が建っている。弘法大師像を拝顔できる。

熊野権現
大師堂のところで参道は左折し、七福神の次に熊野権現社が建っている。熊野権現は、熊野三山に祀られる神であり、本地垂迹思想のもとで権現と呼ばれるようになった。石灯籠には葵の紋が認められる。

屋島寺、本堂
屋島寺の本堂は、入母屋造、本瓦葺。鎌倉時代の前身堂の部材を用いて元和4年(1618)に建立され、重要文化財に指定されている。本尊の木造千手観音坐像は、榧の一木造漆箔。像高94.3cm。平安時代中期、10世紀頃の作。重要文化財に指定されている。宝物館で拝観できる。

談古嶺展望台から源平の古戦場、五剣山
屋島寺から屋島ドライブウェイを下る時、談古嶺展望台がある。獅子の霊巌(屋島南嶺西端)、遊鶴亭(屋島嶺北端)と並ぶ屋島三大展望台の一つ。明治30年、村雲日栄尼が屋島登山の折、源平合戦の史跡の話を耳にして源氏の武士や平家公達たちを偲び、談古嶺と命名したという。源平の古戦場・壇ノ浦が一望でき、那須与一の扇の的、義経の弓流し、駒立岩に祈り岩、平家軍船の泊地・船隠しなど、平家物語に出てくる屋島の合戦の舞台が眼下に広がる。また対岸には五剣山(八栗山、375m)が聳えている。山中には四国八十八か所の第八十五番札所・八栗寺がある。
 

大塚国際美術館

ゴヤの「1808年5月3日:プリンシペ・ピオの丘での銃殺」
大塚国際美術館の所蔵作品のうち、ルネッサンスの作品だけでも約140点あり、続くバロックの作品はゴヤまで約120点ある。10点以上の作品を展示している人も5人ほどになる。こちらの作品は、スペインの画家、ゴヤ、フランシスコ・デの「180853日:プリンシペ・ピオの丘での銃殺」である。前日夜間から53日未明にかけて、マドリード市民の暴動を鎮圧したミュラ将軍率いるフランス軍銃殺執行隊によって、400人以上の逮捕された反乱者が銃殺刑に処された場面を描いた作品である。ゴヤが描いたのは、半島戦争、ナポレオン一族治下のスペインが終わった数年後の1814年で、スペイン・ブルボン朝のフェルナンド7世が国王に戻ってからだった。プラド美術館所蔵。

ゴヤの「裸のマハ」
こちらの「裸のマハ」は、ゴヤ1797年から1800年の間に描いた代表作である。西洋美術で初めて実在の女性の陰毛を描いた作品といわれ、誰の依頼によって描かれたか明らかにするために、ゴヤは何度も裁判所に呼ばれたが口を割ることはなかった。次の「着衣のマハ」とともに、首相だったマヌエル・デ・ゴドイの邸宅から見つかっているので、ゴドイの依頼といわれる。

ゴヤの「着衣のマハ」
こちらが「裸のマハ」の後に描かれたゴヤの「着衣のマハ」。ゴドイが自宅改装の際に、「裸のマハ」に関するカモフラージュであると考えられている。マハとは「小粋な女(マドリード娘)」と言う意味で人名ではない。モデルが誰か、ゴヤと関係のあったアルバ女公マリア・デル・ピラール・カィエターナという説と、ゴドイの愛人だったペピータとする二つの説がある。二作品ともプラド美術館所蔵。

ゴッホの「幻のヒマワリ」
大塚国際美術館ではゴッホから近代絵画とみなして、500点以上展示している。ゴッホの「ヒマワリ」で有名なのは、アムステルダム、ロンドン、ミュンヘンフィラデルフィア、それに東京(損保ジャパン日本興亜美術館)の5点だが、いずれもアルル時代の大型の作品である。アルル時代にはさらに2点が描かれ、そのうちの「6輪のヒマワリ」はかつて日本にあった。芦屋の実業家山本顧弥太氏が1920年に購入したものだが、1945年、終戦直前の空襲で灰燼に帰した。その「幻のヒマワリ」を写真で所蔵する武者小路実篤記念館の協力のもと原寸大で再現したのがこの作品である。

7点の「ヒマワリ」
その再現作品を含め、ここには7点の「ヒマワリ」がまとめて展示されている。

ドミニク・アングルの「泉」
こちらの女性像の作品は、フランス新古典主義の画家、ドミニク・アングルの「泉」である。1820年頃に制作が開始され1856年に完成したこの作品は、アングルが生涯をかけて追求し続けた理想の女性像で、アングルの代表的傑作とされるが、この女性は生身の女性ではなく「泉」を表す擬人像である。オルセー美術館所蔵。

アングルの「グランド・オダリスク
こちらの作品もドミニク・アングルの「グランド・オダリスク」である。題名の「オダリスク」とはトルコの後宮の女性を意味する。モナリザと並びルーブル美術館の2大美女と称され、1814年に描いた油彩画である。背中と腕がのびすぎ、お尻と太ももが太すぎるので、「椎骨が3つ多い」とか「左腕と右腕の長さが違う」などと揶揄された逸話が広く知られていたが、当時、写真技術の躍進があったので、アングルは絵画にしかできない表現を模索したといわれている。

ドラクロワの「民衆を導く自由の女神
こちらの作品もよく知られたウジェーヌ・ドラクロワの代表作「民衆を導く自由の女神」である。シャルル10世の即位による反動的な政策に民衆が蜂起し、パリを制圧した1830七月革命に想を得た作品である。ドラクロワは蜂起には参加しなかったが、少なくとも「国家のために絵を描く」ことはすべきだと感じたという。赤・白・青のフランス国旗を持つ中央の女性は「自由」を擬人化したもので実在の人物ではないとされる。ルーブル美術館所蔵。

マネの「笛を吹く少年」
こちらの作品もよく知られたエドゥアール・マネの「笛を吹く少年」という1866年の油彩画。この少年は友人であった軍の高官が連れてきた近衛軍鼓笛隊員だが、一説によると顔の部分だけマネの息子のレオンであるといわれる。遠近感を廃した平面的な構成は浮世絵の技法を、無地の背景に大胆な人物像という手法は17世紀スペインの画家ベラスケスの手法を感じさせるという。オルセー美術館所蔵。

ミレーの「落穂拾い」
こちらの絵はジャン=フランソワ・ミレーの「落穂拾い」。1857年、ミレーが43歳の時の作品で、この頃すでに農民画家として十分な実績を上げていた。落穂拾いとは、豊かな農民が収穫を終えた後、貧農が彼らの土地でおこぼれにあずかるというものであり、背景で山のような穀物を運ぼうとしている「持てる」農民と、前景の「持たざる」貧農との階級的落差が強調されている。『旧約聖書』の「ルツ記」に基づいた作品でもある。オルセー美術館所蔵。

ルノワールの「ブージヴァルのダンス」
こちらの作品はオーギュスト・ルノワールの「ブージヴァルのダンス」。舞台はパリ郊外セーヌ河畔の行楽地ブージヴァル。モデルはルノワールの愛人兼モデルの画家シュザンヌ・ヴァラドンと友人ポール=オーギュスト・ロートである。当代一の美女といわれたシュザンヌとは14歳の時に出会い、18歳の時にこの絵のモデルを務めた。シュザンヌはユトリロの母だが、この絵のモデルを務めた翌年にユトリロを私生児として出産したことから、ルノワールが父親という疑惑もあるという。ボストン美術館所蔵。

マネの「オランピア
こちらの作品はエドゥアール・マネの「オランピア」。1865年のサロンでマネの「悪名」を決定的なものにした作品である。1863年に描かれた「草上の昼食」と共にマネの代表作とされる。「オランピア」とは当時のパリにおける娼婦の通称であり、神話や歴史上の出来事を描いた絵画に登場する裸体の女性とは異なり、当時の現実の裸体の女性を主題としたことが批判された。モデルを務めたのは、「草上の昼食」などと同じく、ヴィクトリア・ムーランである。オルセー美術館所蔵。

ミレーの「オフィーリア」
こちらの作品は、ジョン・エヴァレット・ミレーの「オフィーリア」である。1851年から1852年にかけて制作された、英国美術品の中でも最高傑作といわれる、ミレーの代表作である。オフィーリアはシェイクスピアの戯曲『ハムレット』の登場人物で、彼女が川に溺れてしまう前、歌を口ずさんでいる姿を描いたが、戯曲では王妃ガートルードのセリフの中でのみ存在するエピソードである。ロンドンのテート・ブリテン・美術館所蔵。

グスタフ・クリムトの「接吻」
こちらの作品は、グスタフ・クリムトの「接吻」。クリムトの黄金時代といわれる1907年から1908年にかけて描かれた、ウィーン分離派アール・ヌーヴォー様式の代表的な作品で、金箔、銀、プラチナが使われている。モデルはクリムト自身と恋人エミーリエ・フレーゲとされる。抱き合う男女の頭と顔と手足だけが写実的で、他は平面的に描かれる。ウィーンのベルヴェデーレ宮殿オーストリア美術館所蔵。

ムンク「叫び」

こちらの作品は、ノルウェーの画家エドヴァルト・ムンク「叫び」1893年の油彩画と同じ題名、同じ構図のパステル、リトグラフなどの作品が合わせて5点存在する。幼少期に母親を亡くし、思春期に姉の死を迎えるなど病気や死と直面せざるを得なかったムンクは、「愛」と「死」とそれらがもたらす「不安」をテーマとして多くの作品群を生み出した。それらの中で最も有名な作品である。オスロ国立美術館所蔵。

大塚国際美術館には現代美術の作品も、ピカソモディリアーニやブラック、クレーやシャガールやミロなど百点ほどあるが、全部で1000点余りある作品にはキリがないのでここらで紹介は終了する。陶板とはいうものの精密で、素人には本物と見分けがつかない。世界中の数々の名画を一堂に鑑賞できるのはありがたいことだと思った。

 

大塚国際美術館

ボッティチェッリの「ヴィーナスの誕生
大塚国際美術館の所蔵作品数は1000余点、古代、中世の作品だけでも200点を超えるので多少省略せざるを得ず、ルネッサンスのコーナーに向かう。最初はダ・ヴィンチなどの受胎告知の作品がずらりと並ぶ。その次にボッティチェッリの「ヴィーナスの誕生」が現れる。フィレンツェウフィツィ美術館所蔵の有名な作品で、1480年代中頃のカンヴァスに描かれた絵画である。以前、現地で現物を見たことがある。陶板の継ぎ目の線を除けば見分けがつかないほどそっくりにできていて美しい。

ボッティチェッリの「春(ラ・プリマヴェーラ)」
こちらの作品も同じくフィレンツェウフィツィ美術館所蔵の「春(ラ・プリマヴェーラ)」で、ボッティチェッリ1470年から1480年にかけてのパネル(木板)に描かれた画である。

ティツィアーノの「ウルビーノのヴィーナス」
こちらの作品も有名な、ティツィアーノの「ウルビーノのヴィーナス」。同じくウフィツィ美術館所蔵である。ウルビーノ公グイドバルドが自室のために依頼した作品で、彼女が手にする切られたバラは儚い快楽の隠喩とされる。他にもジョルジョーネとティツィアーノによる「眠れるヴィーナス」、ハインツ、ヨーゼフによる「眠れるヴィーナス」も展示されていた。

ブリューゲル、ピーテル(父)の「雪中の狩人」
この作品も見たことがある、ブリューゲル、ピーテル(父)の「雪中の狩人」。ウィーン美術史美術館所蔵である。北国の凍てつく風土を見事に映し出している。人々は小さく主人公はいないが、これこそ人々の暮らす有り様で、このような視点は近代のものといわれる。

ブリューゲル、ピーテル(父)の「バベルの塔
こちらの作品もブリューゲル、ピーテル(父)の「バベルの塔」。同じくウィーン美術史美術館所蔵である。バベルの塔とは、旧約聖書の「創世記」に登場する伝説上の高層建築物の通称である。神の怒りを買った「人間の驕りの象徴」とされ、今日でも「思い上がった実現不可能な構想」の代名詞となっている。

レオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」
こちらの作品は有名なレオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」。2003年に開館5周年を迎え、その記念事業として修復が完了した「最後の晩餐」を修復前の「最後の晩餐」と対面で比較鑑賞できるように展示している。これは修復前のもの。420×910cm。ミラノのサンタ・マリア・デッレ・グラーツィエ修道院所蔵である。

レオナルド・ダ・ヴィンチの「モナリザ
この作品もまた有名なレオナルド・ダ・ヴィンチの「モナリザ」。世界で最も知られた女性像だが、実在の人物ではない可能性もある。レオナルドはこの絵を注文主に渡すこともなく、最後まで手元に置いていたからという。ルーブル美術館所蔵。

レオナルド・ダ・ヴィンチの「白貂を抱く貴婦人」
こちらもレオナルド・ダ・ヴィンチの「白貂を抱く貴婦人」という作品だが、初めて見る肖像画である。レオナルドがミラノのルドヴィーコスフォルツァ侯に仕えていた時期の作品。モデルは、ルドヴィーコの愛妾となったチェチリア・ガッレラーニ(15才位)である。貂はルネッサンスの動物譚では「純潔と節制」のシンボルであった。ポーランドクラクフ国立美術館分館の所蔵。

レンブラントの「夜警」
「光の画家」「光の魔術師」の異名を持つ、レンブラント・ファン・レインの作品は20点以上展示されている。これは中でも有名な「夜警」。その名称は後世つけられたもので、元は市民隊(射撃隊)を記念して描かれたもの。集団肖像画と呼ぶ。アムステルダム国立美術館所蔵。

ベラスケスの「ラス・メニーナス(女官たち)」
マネが「画家の中の画家」と呼んだ宮廷画家、ディエゴ・ベラスケスの作品は10点以上展示されている。これは「ラス・メニーナス(女官たち)」という作品。ベラスケス自身の人生と芸術を集大成した記念碑的傑作。フェリペ4世王家の群像図と、制作中の画家そして自画像の結合。先例のない革新的な構想により、王女マルガリータと侍女、鏡の中の国王夫妻等、画中の人物を眺めている鑑賞者は実は国王その人である。プラド美術館所蔵。

ベラスケスの「バッカスの勝利(酔っ払いたち)」
こちらも同じくディエゴ・ベラスケスの作品「バッカスの勝利(酔っ払いたち)」。酒神バッカスがブドウの葉と房の冠を男たちに授ける、神話上の物語を農民たちの酒盛り風景のように描いている。プラド美術館所蔵。

リュべンスの「三美神」
バロック期のフランドルの画家、リュべンス、ピーテル・パウルの作品も10点以上展示されている。この「三美神」は中でも有名だが、左の女神は愛妻エレーヌ・フールマンに似通うといわれる。最初の妻イザベラが死去した4年後の1630年に、53歳のリュべンスは16歳のエレーヌと再婚し、以後、多くの作品にモデルとなった。プラド美術館所蔵。

リュべンスの「キリスト昇架」
現在ベルギーのアントウェルペンで大規模な工房を経営した、リュべンスは、市内のシント・ヴァルブルヒス聖堂の主祭壇衝立画としてこの「キリスト昇架」を制作した。それまでのイタリア滞在中の研鑽が反映され、リュべンス絵画の確立といわれる。アントウェルペン大聖堂所蔵。

フェルメールの「真珠の耳飾りの少女青いターバンの少女)」
「光の魔術師」といわれるフェルメール・ヤンの作品も10点展示されている。最も知られたこの「真珠の耳飾りの少女青いターバンの少女)」もそのうちの一つ。肩まで垂れた青と黄色のターバンがエキゾチックな風情を添え、東方世界との交易で栄えたオランダならではのファッションである。少女の顔だけを暗い闇から浮かび上がらせる光の演出が鮮やかである。ハーグのマウリッツハイス美術館所蔵。