半坪ビオトープの日記

2012-06-24 仙台東照宮

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仙台駅から真北に進むと仙台東照宮がある。天正19年(1591)におこった葛西大崎一揆鎮圧のため督戦にあたった徳川家康が、伊達政宗の案内で帰途に宿陣した地でもある。

参道石段を上り切ったところに建つ随神門は、ケヤキの素木造、3間1戸の8脚門で、左右に随身像を置く。仏教建築の影響を受けた楼門形式で、屋根は入母屋造銅板葺き、軒は二軒繁垂木・尾垂木のある三手先斗拱組や2階の勾欄付縁が複雑である。

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2代藩主忠宗は、寛永14年(1637)の大水害復旧のため江戸幕府から銀5000貫を借用したことの返恩として、3代将軍家光に東照宮建立を願い出て許された。慶安2年(1649)に着工して承応3年(1654)に完成した。拝殿は、ケヤキ造りで1間の向拝をつけ、背後には幣殿を設けている。昭和10年に失火後修理が加えられたが、昭和39年に復元されている。

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もちろん東照大権現(徳川家康)を祀っているが、伊達家の守護神としても祀られ、仙台藩の手厚い保護を受けていた。

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参道の一番下にある大きな石鳥居は、忠宗夫人振姫(将軍秀忠の養女)の郷里備前国犬島産の花崗岩で造った、明神鳥居の典型である。緩やかな石段の両側には、伊達家重臣達により寄進された石灯籠が立ち並ぶ。

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4月17日が家康の命日で、東照宮ではその日に合わせて春祭りが行われ、この舞殿(神楽殿)で神楽奉納がある。

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本殿は、日光東照宮のような拝殿と本殿を石の間で連結する権現造ではなく、本殿と拝殿が別棟になっている。正面には桟唐戸の格間の綿板に金箔の丸形彫刻を施した1間1戸の華麗な唐門を構え、その両側から黒漆喰の連子窓で丈夫を透かした透塀が本殿を囲んでいる。本殿はケヤキ造りで、3間2間。三方に縁を回し、正面に1間の向拝をつける。屋根は入母屋造銅板葺きで、棟に千木・堅魚木を載せ、軒には支輪をつけた二手先斗拱を組む。内陣中央に徳川家康像を納めた家形厨子を置く。

これで先日のGWに行った山寺・松島仙台の旅は終わった。

2012-06-22 大崎八幡宮

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仙台青葉城の北の鬱蒼とした杜の中に大崎八幡宮がある。表参道には鳥居が三つあるが、これは駐車場のある北参道の鳥居である。

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「安永風土記」によれば、坂上田村麻呂が胆沢城(岩手県奥州市水沢地区)に創建した鎮守府八幡宮を、奥州探題の大崎氏が遠出郡に勧請したのが始まりという。また、源義家が安倍貞任と戦うため、天喜5年(1057)京都男山八幡宮より神体を遠出郡八幡村に勧請し、中世には大崎氏の尊崇を受けて大崎八幡と称したという説もある。

伊達政宗は城下鎮護のため、上方より秀吉家召抱えの大工・棟梁を呼び寄せ、慶長9年(1604)より3年かけて社殿を造営した。その際、旧領米沢にあった成島八幡宮も合祀した。

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本殿の前に横長に構える長床は、桁行9間、梁間3間で、屋根は入母屋造杮葺き、中央に軒唐破風をつけているが、簡素な素木造である。社殿と同時期に造営されたものと考えられていて、国の重文に指定されている。

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社殿は本殿と拝殿をつなぐ石の間造(権現造)としては、現存最古の桃山様式建築の一つであり、国宝に指定されている。本殿は桁行5間、梁間3間、拝殿は桁行7間、梁間3間で、ともに屋根は入母屋造杮葺きである。拝殿正面には大きな千鳥破風、向拝には軒唐破風をつけている。社殿は黒漆塗りだが、組物や細部の彫刻などは極彩色に彩られている。装飾の題材は、仏教的・道教的・中国的な説話を組み合わせている。拝殿内陣には狩野派の佐久間左京による唐獅子の障壁画や大虹梁の青龍、石の間の格天井には草花が描かれているというが、残念ながら非公開である。

大崎八幡宮の「松焚祭(まつたきまつり)」は、盛大な正月送りの行事(普通はドンド焼きとか左義長という)で、仙台市の無形民俗文化財に指定されている。

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境内には、表参道から見て長床の左に、境内社の大元社が建っていて、説明板には次のように記載がある。「大元社 大元帥明王が祀られ邪気を懲らしめ福を招く神として尊崇せられる。創建は不明であるが元禄十一(1679)年の古図には記載されている。厨子には享保四年(1719)仙台藩五代藩主伊達吉村公が武運長久・子孫繁栄を祈念し勧請していたことが記されている。現社殿は昭和五十六年に再建されたものである。」

大元帥明王とは仏教における尊格である明王の一つで、真言密教においては「たいげんみょうおう」と読み、太元明王と記すこともある。古代インド神話に登場する非アーリアンの鬼神アータヴァカ(Āṭavaka)に由来し、「荒野鬼神大将」「森林大将」と漢訳される。インド神話では弱者を襲って喰らう悪鬼神とされたが、密教においては大日如来の功徳により善神へと変じ、その慰撫しがたい大いなる力は国家をも守護する護法の力へと転化させ、明王の総帥となった。大元帥の名が示す通り、明王の最高尊である不動明王に匹敵する霊験を有するとされ、一説には「すべての明王の総帥であることから大元帥の名を冠する」といわれる。国土を護り敵や悪霊降伏に絶大な功徳を発揮するといわれ、「必勝祈願」や「国土防衛」の祈願として宮中では古くから大元帥明王の秘法(大元帥法)が盛んに厳修されてきた。伊達吉村が武運長久・子孫繁栄を祈念し勧請したのも頷けよう。ただ、扁額に「大元師」と「帥」の字が間違っているのは、司馬遼太郎が「街道をゆく」でも指摘していたそうだが、いただけない。

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大元社の左には諏訪社、鹿島社、北辰社、龍神社などの境内社が並んでいる。諏訪社は、寛永年間(1624~44)に信濃国一之宮諏訪大社より分祀されたものと伝えられている。祭神の建御名方神(たけみなかたのかみ)は、出雲大社の主祭神大国主神の子で強力をもって知られている。また、農耕神や水の神としての信仰も古くからあり、かつては例祭も行われていたが現在には伝わっていないという。

龍神社は、もとは大崎八幡宮の氏子の邸内に祀られていた。新潟県長岡市金峯神社の分霊を分祀したものという。祭神である龍神は、古くから水を司る水神、海上安全の神として崇敬されている。昭和59年に氏子の転居に伴いここに移されたそうだ。

2012-06-21 感仙殿・善応殿

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瑞鳳殿の向かいの高台に感仙殿がある。2代藩主伊達忠宗(1599~1658)の霊屋であり、瑞鳳殿と同等の華麗なものだったが、明治初年に本殿を除いて取り壊され、残った本殿も戦災で焼失した。現在の霊屋は、瑞鳳殿に続いて再建が進められ昭和60年に完成した。

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忠宗は政宗の治世を引き継ぎ、法治体制の確立を進め、新田開発や治水、港湾の整備など産業・経済の振興をはかり、藩の基礎固めを成し遂げたといわれる。

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感仙殿の両脇には石塔がいくつも並んでいる。瑞鳳殿と同じく殉死した家臣12名、陪臣4名の宝篋印塔である。

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感仙殿の左にあるのが善応殿で、3代藩主綱宗の霊屋である。感仙殿と同様に造営されたが戦災で焼失し、昭和60年に感仙殿とともに再建された。

綱宗が政治を行ったのはわずか2年間、21歳で引退した。引退後は江戸の伊達家の屋敷に移り住み、絵画などの優れた作品を残し、72歳で亡くなった。そのかなり前から江戸幕府は殉死の禁令を出していたため、この時にはもう殉死はなかったという。財政の問題もあり、4代綱村は御廟を建立しないよう遺言したそうである。

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感仙殿の右手には妙雲界廟がある。左にあるのが9代藩主周宗の墓碑である。

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こちらは11代藩主斉義夫妻の墓所である。正面が斉義夫人・芝姫の墓碑で、左の桜の木の向こうに見えるのが11代藩主斉義の墓碑である。

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感仙殿への参道の両側には灯籠などの石造物が並んでいる。感仙殿前にあるコウヤマキの下には「新修先廟記の碑」が残されている。藩政時代、経ケ峯には伊達家三代の霊屋をはじめ全山に塔頭および支院が置かれていたが、明治維新後の廃仏毀釈により瑞鳳殿霊屋と感仙殿・善応殿の本殿以外はことごとく撤去もしくは取り壊しとなった。明治12年に経ケ峯を永久保存施設としたとの記念碑である。

2012-06-20 仙台、瑞鳳殿

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青葉山に築かれた仙台城近くの経ヶ峯に、伊達政宗の霊屋瑞鳳殿がある。その瑞鳳殿の入口に臨済宗の正宗山瑞鳳寺がある。

政宗の菩提寺として寛永14年(1637)2代忠宗により創建された。本尊は釈迦、文殊、普賢の三体で、平泉毛越寺より遷したものである。

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長い階段の参道を上り詰めると瑞鳳殿の涅槃門がある。政宗は70歳で生涯を閉じたが、その遺言に従い、瑞鳳寺と同じく寛永14年(1637)2代忠宗により創建された。

瑞鳳殿は、本殿・拝殿・御供所・涅槃門からなる豪華絢爛な桃山様式の廟建築で国宝だったが、感仙殿、善応殿とともに戦災で焼失した。

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現在の廟は昭和54年に再建されたもので、さらに平成13年に大改修されている。涅槃門は樹齢数百年の青森檜葉を用い、焼失前と同様の豪華な飾り彫刻が施されている。

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拝殿の門には「瑞鳳殿」の額が掲げられているが、周りの赤い色はサンゴで文字の白は真珠を砕いて貼付けてある。焼失前は青サンゴだったが、再建の際余りにも高価なので赤サンゴになったという。

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平成13年の大改修で、瑞鳳殿も柱には彫刻獅子頭を屋根には竜頭瓦を復元し、創建当時の姿が甦った。空襲で焼失した霊屋が再建される際に行われた発掘調査で、完全な遺骨とともに多くの副葬品が発見され、資料館に展示されている。扁額の「瑞鳳殿」は忠宗の直筆と伝えられている。文字は金箔、地は群青(孔雀石の粉末)、額縁の龍は起上げ極彩色である。

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江戸で亡くなった政宗は駕籠で仙台に運ばれ、葬儀の後 駕籠のまま石室に埋葬されていたそうだ。本殿両脇には、殉死した家臣15名および陪臣5名の宝篋印塔が並んでいる。

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屋根には竜頭瓦が2個ずつ8個載っている。焼失前は1個50キロの青銅製だったが、再建後は10キロくらいという。また、焼失前の建物は木造だったが、再建後は鉄筋コンクリート製である。

2012-06-19 陸奥国分寺

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仙台駅から東に行くと歌枕で有名な宮城野となり、さらに東に陸奥国分寺薬師堂がある。この敷地一帯にかつては陸奥国分寺があった。

陸奥国分寺は天平13年(741)聖武天皇によって全国に建立を命じられた国分寺のうち最北のものである。南大門跡に仁王門が、講堂跡に薬師堂が建つ。南北朝時代にはすっかり衰退し、戦国時代には真言宗となった。

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薬師堂は慶長12年に伊達政宗が泉州比根(大阪泉佐野市)の大工駿河守宗次らに修造させた桃山様式建築で、5間四方、素木造の単層入母屋造本瓦葺である。

内陣には家形厨子が置かれ近年まで木像十二神将立像が安置されていた。今また修理中である。

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陸奥国分寺跡では昭和30〜59年に、全国初の伽藍調査が行われ、800尺(242m)四方を築地塀で囲み、南北一直線上に南大門・中門・金堂・講堂・僧坊が並び、金堂の東に回廊を持つ七重塔、鐘楼・経楼が金堂・講堂の東西に配置される大伽藍であることが判明した。これがこの後見学した、仙台博物館にあった陸奥国分寺跡遺構配置図である。

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薬師堂の西側の木ノ下公園には、准胝観音堂がある。旧准胝観音堂は、陸奥国分寺の十八伽藍の一つであったが、文治5年(1189)に焼失した。享保4年(1719)仙台藩5代藩主伊達宗村の夫人長松院久我氏冬姫が本尊の准胝観音像を寄進して堂を再建した。江戸時代に設定された仙台三十三観音の第25番札所でもある。

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准胝観音堂のすぐ右手に、芭蕉仙台宮城野で詠んだ「あやめ草足に結ん草鞋の緒」の句碑が建ち、その左に大淀三千風の供養碑が建っている。

芭蕉の句碑は、駿河俳人山南官鼠が天明2年(1782)に仙台を訪れた時に建てたもので、裏面に官鼠の句「暮れかねて鴉(からす)啼くなり冬木立」が彫られている。

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古代寺院の跡地には礎石の一部があちこちに散在し、准胝観音堂の廻りには様々な墓碑やらの石碑がたくさん立ち並んでいる。