半坪ビオトープの日記

2015-03-27 飽富神社、本殿

[][]飽富神社、本殿 20:06

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流造の本殿を左側(西)から見ると、かなり手の込んだ構造となっている。とりわけ大きな蕪懸魚が6個も施されているのは珍しい。飽富神社の主祭神は、開発の神として農耕神の倉稲魂(うがのみたま)命を祀り、大己貴命と少彦名命を配する。

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拝殿の真後ろにも末社の合祀社殿が並んでいる。左には16末社、右には疱瘡神など7末社が祀られている。

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左の大きい方の16末社に祀られているのは、見通大明神、飯粥大明神、茅輪大明神、萱姫大明神などである。

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その右手(東)にも大己貴大神、久保田八幡神社など8の末社が祀られている。

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さらに右手、本殿の東側に離れて、徳川家康を祀る東照宮が建てられている。元和8年(1622)飯富村領主・天野佐左衛門雄得が勧請したもので、現在の流れ銅葺きの社殿は、天野雄得の子孫の民七郎が元治元年(1864)に再建したものである。

案内板によると、社中に源頼朝を祭神とした白幡権現を勧請し、また新田義貞を新田八幡として勧請し、それぞれ祀っているという。

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東照宮の手前、拝殿の右手(東)にも合祀社殿が並んでいる。一番左手の朱色の合祀社殿には、子安大明神、石渡姥神社、白鳥大神宮、種産大明神、姫龍大明神など26社が祀られている。

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26末社の合祀社殿の右には、小さな石祠が祀られ、さらに右手に立派な末社が祀られているが詳細はわからない。

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このように拝殿は入母屋造、本殿は流造だが、全体として権現造となっている。その社殿の周りを、古来より75社もの末社が取り囲んでいるというのは見たことがない。

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飽富神社の筒粥神事がよく知られていて、社務所の前に説明がある。「筒粥」とは、粥の中に葦の筒を投げ込み、筒の中に詰まった粥の量によってその年の農作物の豊凶を占うという、小正月の年占行事である。社務所(御粥殿)の中で葦を切りそろえ、末社の数と同数の75本を、5本・7本・9本・24本・30本の束にして、そのうち9本の束を占いの本くじとする。お粥の鍋に神職が5束の葦を投げ込み、本くじの葦束を引き上げ、中の分量で順に、大麦・小麦・麻衣・早稲・中稲・晩稲・稗・粟・大豆の作柄を判定していく。その結果表は木版で刷って氏子に配られ、一年の作付けの目安とされる。この筒粥神事は、禊が慣行され、旧家の役割が受け継がれるなど、年占いの古い形を残しているとして、県の指定無形民俗文化財となっている。

社務所の左手には出雲大社遥拝所がある。出雲大社との関連はわからないが、ほぼ同緯度に鎮座している。つまり、出雲大社の真東にあたる。飽富神社が南を向いているので、参道を上がってすぐ左を向くことになる。

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境内入り口近くに天神七福神の紹介がある。今から約250年前の明和5年(1768)に飽富神社神主深河常陸介喬栄が描いたものである。今日の七福神像は大黒と恵比寿(戎)以外はインド中国の神や高僧にて構成されているが、このように日本の神のみの七福神像はたいへん珍しく、飽富神社以外では兵庫県の西の宮神社にあるのみといわれる。

中央の女神=倉稲魂命、中央右側の女神=市杵島姫命、中央左側の神=少彦名命、手に袋入りの太刀を持った神=大己貴命、手に釣り具を持った神=事代主命、手に榊を持った神=猿田彦命、手に幣を持った神=天児屋命。 

これで年末に出かけた房総半島養老渓谷巡りを終えた。

2015-03-26 飽富神社、拝殿

[][]飽富神社、拝殿 20:48

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帰りがけに袖ケ浦市の飽富(あきとみ)神社に立ち寄った。近くには前方後円墳もあり、古くから開墾された地である。青銅製の鳥居が厳かな感じを与える。

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鎮座地名は、飯富といい、古来は「飫富(オホ)」と呼称されており、神社名も飫富神社とか、おふの宮とも呼ばれてきた。延喜式の式内社で、上総国五座のうち望陀郡一座飫富宮と記載されている。古墳時代の終わり頃、有力なる首長・飫富氏を中心とする集団が定住し、この広大な沼沢地を開墾したと考えられている。香取神宮の創建も紀元前643年、肥後国造の一族だった多氏が上総国に上陸し、開拓しながら常陸国に勢力を伸ばしたのが起源とされている。この多氏と飫富氏は同じと思われる。

拝殿正面には大晦日を控えて、大祓で使われる茅の輪が設けられていた。

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現在の社殿は元禄4年(1691)に再建された権現造りで、拝殿は入母屋造、本殿は流造という。

社伝によると飽富神社の創建は、第二代綏靖天皇元年(紀元前581年)で、天皇の兄・神八井耳命によると伝えられている。元慶元年(877)祈雨勅願。天慶2年(939)平将門の乱で坂東の地が荒廃した時、朱雀天皇は勅使を送り神剣を奉納し兵乱鎮定を祈願した。7月24日の祭礼は、天延3年(975)上総国に疫病が流行ったとき、国司源頼光により執り行われたもので、文政11年(1828)以降は氏子8ヶ村が交代で神輿を担ぐ。

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拝殿向拝の彫刻はきらびやかに彩色されて施されているが、兎の毛通しの鳳凰や虹梁上の龍をよく見ると、それほど精巧に彫られたものではないのがわかる。

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拝殿入り口の格天井には様々な絵が描かれていたように見受けられるが、かすれてよく見えない。周りには、社号額や絵馬、写真などがたくさん奉納されている。

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拝殿内の鏡は大きく、3間にわたる虹梁上の大きな蟇股も珍しく、精巧な彫刻が施されている。

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社務所は御粥殿とも呼ばれ、この中で筒粥神事などが行われる。その右の朱色の建物は神楽殿であろうか、詳細はわからない。

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境内には末社がたくさんあるが、小さな石祠もたくさん並べられている。

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その右手には、太宰府天満宮と淡島神社が祀られ、その右手に末社の合祀社殿が立つ。

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末社は古来より75末社と称し、神域内にまとまって祀られている。1680年頃の市正伝記によると、本殿後:東之方御末社5社、本殿後:西之方御末社5社。本殿:東之方御末社20社。本殿:西之方御末社13社。亥之方(北北西)御末社9社。南方御末社3社。寅之方(東北東)御末社4社。卯之方(東)御末社2社。北方御末社10社。丑之方(北北東)御末社2社。申之方(西南西)御末社2社。合わせて75社75座とされる。

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本殿左手(西)のこの合祀社殿には、秋口大権現、米倉大権現、玄畑大権現など16末社が祀られている。

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これが拝殿を左手から見たところである。左に幣殿が続き、さらに本殿へと続いている。

2015-03-25 仁右衛門島、頼朝隠れ岩

[][]仁右衛門島、頼朝隠れ岩 20:38

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島の裏側(北、東)が開けて展望所となっている。正面の街並みが鴨川市街地で、その右手に弁天島がある。さらに右手奥の山並みの最高所が清澄山(377m)である。

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大きな岩に注連縄が張ってあるが、これは神楽岩と呼ばれ、日蓮上人が旭を拝んだ所といわれる。

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日蓮は、鴨川市天津小湊で漁夫の子として生まれ、清澄寺比叡山高野山などで修行の後、清澄寺に戻り日蓮宗を開宗した。青年時代に清澄寺で修行中に仁右衛門島に来たとされる。その後、建長5年(1253)平野家は天台宗から法華宗に改宗し、菩提寺も小松原鏡忍寺にしたという。

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神楽岩の眼下には、大磯に打ち寄せる大波がくだけ散り、泡吹き渦巻く様子が見える。

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眼を南東に向けると、仁右衛門島の先にも大きな岩や小さな島がいくつも入り乱れて断続しているのが見える。遊歩道の右手の崖下には赤い鳥居が垣間見える。

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まもなく遊歩道脇に、大正生まれの俳人小枝秀穂女の句碑がある。

鯛曼荼羅の 海をはるかに 髪洗ふ  秀穂女

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崖下の赤い鳥居脇には源頼朝隠れ穴、正一位稲荷大明神、馬蹄石などの案内表示がある。

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治承4年(1180)挙兵した源頼朝が箱根・石橋山の戦いに敗れて、船に乗って房総・安房に逃れたが、貝渚にて止宿しているところを長狭六郎常伴に夜襲されたという。そこでこの島に住む仁右衛門の導きで、夜襲を避けてこの洞窟に身を潜めたという。その後、頼朝が鎌倉幕府を開くと、この危機を救ってくれたお礼にと、平野の姓と近辺の漁業権を平野氏に与えたといわれる。

頼朝隠れ穴の中には、天明3年(1783)本宮伏見稲荷から勧請した、正一位福女稲荷大明神が祀られている。

稲荷大明神の入り口右手に馬蹄石がある。この馬蹄石にも次のような伝説がある。頼朝が太夫崎(現鴨川市江見)に来た際、たまたま岩に馬の蹄の跡(馬蹄石)を見つけた。この近くに良い馬がいるのではないかと捜したところ、近くの洞穴で黒い毛並みの立派な馬を見つけ、地名から「太夫黒」と名付け、後に磨墨(するすみ)と呼ばれる頼朝の乗馬となったという。

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しかし、この頼朝隠れ穴の伝承は資料に乏しく、平野家は江戸時代に和泉の国から太海の地にやってきたという資料が別にあるため、あくまでも伝説とされる。

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頼朝隠れ穴の先には、仁右衛門島の四季を詠んだ、水原秋桜子の大きな句碑がある。

巌毎に怒濤をあけぬ春の海

虹立つや雨雲ひくき波の列

鶺鴒も千鳥も飛ふよ初あらし

冬凪きて岩壁映ゆる夕焼雲

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その先には見晴らし台があり、とんび岩や屏風岩を見渡せる。その眺めに向かうように、千葉県出身の特攻隊員だった、小出秋光の句碑がある。

暖かし わた津みに降る ものヽ声  秋光

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ようやく仁右衛門島の島巡りも終えて船で戻る。太海の海岸の大磯にはカモメもたくさん羽を休めている。

2015-03-24 仁右衛門島、島主住居

[][]仁右衛門島、島主住居 20:42

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弁天道を戻り、島の中心部の島主住居の門をくぐって中に入る。平野仁右衛門の表札がかかっている。

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源頼朝の伝説によると、頼朝が戦に敗れ安房に落ち延びた際、夜襲を避けて身を潜めた場所を提供したのが初代仁右衛門で、その手柄により褒賞としてこの島をもらったといわれる。

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島主住居の庭にはソテツなどの暖地性植物も植えられ、キンギンナスビ(金銀茄子)という珍しい植物も見られる。

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キンギンナスビ(Solanum aculeatissimum)は、別名ニシキハリナスビという、熱帯アメリカ原産の帰化植物で、明治初期に観賞用に導入され、関東地方南部から沖縄までの暖地の海岸などに生育している。草丈50〜100cmの一年草で、全草に鋭いトゲが密生する。花は白色、実は初めは白色で緑色の縞がありその後赤くなる。

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左端の玄関から中を覗くと、部屋の奥には欄間や床の間も見える。

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庭の左手に奥庭に通じる門があり、中に入ると屋敷の内部を近くから見ることができる。

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奥庭にも植えられているソテツは、推定樹齢が600年以上といわれる。

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宝永元年(1704)に建て直されたという住居は、南天の床縁、桑の天井板、手斧削りの帯戸などが使用され、かなり格式のある建物に見える。

島には数々の伝説があるが、元禄16年(1703)に鴨川を襲った元禄地震に伴う大津波で、建物とともに系図・古文書等がほとんど流失したため、不明なことが多いのが残念である。

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奥庭にある灯篭も苔むしていて歴史を感じさせる。

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島主住居を通り抜けたところに、鈴木真砂女の句碑がある。真砂女は、明治末期に鴨川の老舗旅館(現、鴨川グランドホテル)に生まれ、波乱の恋に生きた人生を俳句に表現し、銀座に小料理屋を開店して幅広いファンを魅了した。鴨川グランドホテルに真砂女記念館がある。

あるときは 船より高き卯波かな 真砂女

2015-03-23 仁右衛門島、弁天道

[][]仁右衛門島、弁天22:38

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鴨川市太海漁港の沖合約200mに仁右衛門島がある。太海漁港は、黒潮を眼前に控え、小さい漁港ながら古くより好漁場をもつ漁港として栄えた。特にイワシやカツオ漁が盛んで、海岸の磯はアワビの好漁場でもあり高い漁獲量を誇った。太海産の鰹節は、「太海武士」の異名をとるほどに名を轟かせ、現在も太海の名産となっている。

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仁右衛門島は全島砂岩よりなり、周囲約4km、面積約3万屬千葉県最大の島で、新日本百景にも選ばれた名勝地として知られる。

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太海漁港の乗船場より手漕ぎの渡し船があり、約5分で渡れる。

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島は個人所有となっていて、代々島主は平野仁右衛門を名乗り、現在の島主が推定で38代目。島主の名に因み仁右衛門島となったという。

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太海浜の漁村は、背後に急峻な小山が屹立している丘陵地帯であり、狭い路地が複雑に入り組み迷路の様相を示す。太海漁港は、異色の漫画家・つげ義春の映画化もされた代表作「ねじ式」のモデルとなった場所としても知られ、作中の場面とほぼ同一の場所が現在も残り、見学者が後を絶たない。

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売店もある休憩所を抜けて進むと、アロエの赤い花が咲き誇る中に島の案内板がある。石段をまっすぐ上っていけば島主住居に至るが、すぐ左に弁財天に向かう弁天道があるのでそちらに向かう。

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島は夏涼しく冬暖かく、四季を通じて花が絶えることがないという。弁天道には水仙が咲き乱れ、アロエの花も咲く中を進む。

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この弁天道は日当たりが良いせいか、右手に句碑や歌碑がいくつも立ち並んでいる。富安風生の句碑(初渚 ふみて齢を 愛しけり 九十四叟風生)の次には、比較的新しい岡本眸の句碑がある。

女手に 井のふたおもき 雪柳

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さらに進むとまもなく、天保11年(1840)建立とかなり古い芭蕉塚がある。芭蕉はこの島には来ていないはずだが、芭蕉を敬愛する俳人達が江戸時代でも各地に句碑を建てている。これは、貞享元年(1684)尾張熱田で詠まれた句である。

海暮て 鴨の聲 ほのかに白し     

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その先には、源講修の歌碑が立っている。こちらも天保3年(1832)の建立である。

以津の世にひらき初けむ仙人の 壽美可に奈らふ古例の蓬島

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弁天道の行き止まりの手前左手に弁財天があり、そこには長寿を授けるという寿老人も合祀されている。蓬島弁財天祠は、平家の時代に宮島から勧請したと伝えられている。現在の弁財天以前に別の場所に古弁天というものがあったともいわれるが、跡はあるものの詳細は不明という。

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弁財天の先で行き止まりとなり、亀岩展望所があって西には太海漁港が見え、北には鴨川方面が遠くに望まれる。