半坪ビオトープの日記

2017-09-15 気比神宮

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若狭湾国定公園の東端、敦賀半島に囲まれた敦賀湾に面する敦賀市に、古来より北陸道総鎮守と仰がれる気比神宮が鎮座している。社殿はほとんど第二次世界大戦の空襲で焼失したが、唯一空襲を免れた大鳥居は、正保2年(1645)造営で高さ36尺(10.93m)を誇り、奈良の春日大社・広島の厳島神社の大鳥居とともに「日本三大鳥居」にも数えられる壮麗な朱塗り両部鳥居であり、国の重文に指定されている。旧神領地佐渡国の鳥居ヶ原から奉納された榁の大木が使用されている。扁額「氣比神宮」は有栖川宮威仁親王の染筆になる。

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西に面した大鳥居をくぐって参道を東に進むと、中鳥居前に立つ「旗揚松」に至る。社伝では、延元元年(1336)当神宮宮司氣比氏治が南朝後醍醐天皇を奉じ、この松に氣比大明神の神旗を掲げ挙兵したという。現在もその旧根が残るとともに2代目の松が生育している。

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旗揚松のところで南向きの中鳥居が立っていて、塀と回廊で囲まれた境内の中に大きな社殿が見える。

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気比神宮の社名は、『古事記』では気比大神/気比神、『日本書紀』では筒飯大神/筒飯神、『延喜式神名帳』では気比神社となっているが、気比大神宮、気比明神などの呼称もある。『記紀』では仲哀天皇、神功皇后、応神天皇との関連が深く、中世には越前国一宮とされ、福井県から新潟県まで及ぶ諸所に多くの社領を有していた。主要社殿は空襲で焼失したため、いずれも戦後の再建である。本殿の手前に接続して内拝殿・外拝殿が建てられている。

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祭神は本殿に主祭神として、伊奢沙別命(いざさわけのみこと)という気比神宮特有の神が祀られ、気比大神または御食津大神(みけつのおおかみ)とも称される。さらに仲哀天皇と神功皇后が合祀されている。社伝では、上古に主祭神の伊奢沙別命は東北方の天筒山に霊跡を垂れ、境内北東方にある土公の地に降臨したという。そして『気比宮社記』によれば、仲哀天皇の時に神功皇后が三韓征伐出兵にあたって気比神に祈願をすると、海神を祀るように神託があり、皇后は穴門に向かう途中で海神から干・満の珠を得た。そして仲哀天皇8年3月に神功皇后武内宿禰安曇連に命じて気比神を祀らせたといい、これが神宮の創建になるとしている。その後大宝2年(702)に文武天皇の勅によって社殿を造営し、本宮に仲哀天皇・神功皇后を合祀、東殿宮・総社宮・平殿宮・西殿宮の4殿に各1柱(日本武命・応神天皇・玉姫命・武内宿禰)を祀り、「四社の宮」と総称される。

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現在の摂末社14社のうち、本殿に向かって左手に本宮と関係が深い9社が祀られており、「九社の宮(くしゃのみや)」と総称されている。一番左は伊佐々別神社で、祭神は漁労を守る神、御食津大神荒魂神。応神天皇皇太子の時当宮に参拝した折、夢に大神が現れ御名を唱えることを約し、その威徳により翌朝筒飯の浦一面余る程の御食の魚(みけのお)を賜った。天皇嬉び神域を畏み、気比大神の荒魂を勧請崇祀されたという。右が擬領神社(おおみやつこじんじゃ)。社記に武功狭日命(たけいさひのみこと)と伝えられ、一説に大美屋都古神または玉佐々良彦命ともいう。旧事紀には「蓋し当国国造の祖なるべし」とある。

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左から3つ目は天伊弉奈彦神社で、祭神は天伊弉奈彦大神。続日本後記に承和7年(840)、越前国従二位勲一等氣比大神御子無位天利劔神、天比女若御子神、天伊弉奈彦神、並従五位下を奉授せらるとある。次は天伊弉奈姫神社で、祭神は天比女若御子大神。社家伝記に、伊佐奈日女神社、伊佐奈日子神社は造化陰陽の二神を祀りしものなりという。その次は天利(あめのと)劔神社で、祭神は天利劔大神。式内社。仲哀天皇当宮に参拝、宝劔を奉納せられ霊験いと奇しという。次は鏡神社。神功皇后角鹿に行啓の際、種々の神宝を当宮に捧げ奉った。その中の宝鏡が霊異を現わされたので、別殿に國常立尊とともに崇め奉り、天鏡宮と称え奉ったという。次は林(はやしの)神社。林山媛神を祀る。延喜式所載の越中國礪波郡林神社は当社と同体である。延暦4年(785)の勅により僧最澄氣比の宮に詣で求法を祈り、同7年再び下向して林神社の霊鏡を請ひ、比叡山日吉神社に遷し奉った。即ち当社が江州比叡山氣比明神の本社である。次は金神社。素戔嗚尊を祀る。延暦23年(804)僧空海当宮に詣で、大般若経1千巻を転読求法にて渡唐を祈る。弘仁7年(816)に再び詣でて当神社の霊鏡を高野山に遷して鎮守の杜とした。即ち紀州高野山の氣比明神はこれである。一番右は劔神社で、祭神は姫大神尊。剛毅果断の大神として往古神明の神託があったので、莇生野村(旧敦賀郡)へ勧請し奉ったという。

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九社の宮の右手奥に神明両宮がある。祭神は天照皇大神内宮)と豊受大神外宮)。外宮は慶長17年(1612)、内宮は元和元年(1615)に、伊勢の神宮よりそれぞれ勧請奉祀される。

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神明社の右手に気比神宮の本殿を垣間見ることができる。現在の本殿は昭和25年の再建であるが、旧本殿は慶長19年(1614)に、結城秀康により再建されたものである。桁行3間、梁間4間の両流造という独特の形式の大規模な社殿で、屋根は檜皮葺、正面には1間の向拝が付設されていた。現在の本殿の周囲には四社の宮(東殿宮・総社宮・平殿宮・西殿宮)が建てられているが、ここからわずかに見えるのは、左が平殿宮であり、右が西殿宮である。

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社殿を後に中鳥居をくぐって出ると、旗揚松の先(南)に松尾芭蕉の像と句碑がある。元禄2年(1689)、芭蕉は『おくのほそ道』の道中で「中秋の名月」を詠むために敦賀気比神宮に参拝した。

「月清し遊行のもてる砂の上」芭蕉像の台座にこの句が刻まれている。

樹齢700年といわれるタモの木の手前の句碑には、「國々の八景更に氣比の月」「月清し遊行のもてる砂の上」「ふるき名の角鹿や恋し秋の月」「月いつこ鐘八沈る海の底」「名月や北國日和定なき」と、敦賀の地を詠んだ「芭蕉翁月五句」が刻まれている。句碑は、高さ2.6m、横4.4m、奥行き1.3m、重量約30トンと巨大な自然石が使われている。

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旗揚松の右手(東)には、ユーカリの大木がある。樹高は10mを超え、幹周りは3m強、敦賀市指定の天然記念物になっている。

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表参道大鳥居をくぐるとすぐ左手に石造鳥居があり、その奥(北)に猿田彦神社がある。祭神は猿田彦大神で、気比神を案内する神であるという。

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境内の東側、東参道駐車場脇(北)に「土公」がある。祭神の霊跡、天筒山の遥拝所であり、気比大神の降臨地とされる。大宝2年(702)の社殿造営以前は土公を神籬(ひもろぎ)として祭祀が行われたとする。また社殿造営後も土公は古殿地として護られたとも、最澄・空海は当地で7日7夜の祈祷を行ったとも伝える。

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参道口の南側には3社の境内社が並んでいる。一番左(北)が大神下前(おおみわしもさき)神社で、祭神として大己貴命(おおなむちのみこと)を祀り、稲荷神と金刀比羅神を合祀する。古くは「道後神社」と称し、神宮の北方鎮守社として天筒山山麓の宮内村に鎮座したとされる。本殿は流造檜皮葺。その右に兒宮(このみや)がある。祭神は伊弉冊(いざなみ)尊である。寛和2年(986)に遷宮があったといい、それ以前からの鎮座と伝える。

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兒宮の右手(南)に角鹿(つぬが)神社がある。祭神として都怒我阿羅斯等命(つぬがあらしとのみこと)を祀り、松尾大神を合祀する。都怒我阿羅斯等は『日本書紀』において垂仁天皇の時に渡来したと記されている意富加羅国(任那国)王子で、同書では筒飯浦に至ったと見える。神宮の伝承では、その後天皇は阿羅斯等に当地の統治を任じたといい、この角鹿神社はその政所跡に阿羅斯等を祀ったことに始まるとし、「敦賀」の地名は当地を「角鹿(つぬが)」と称したことに始まるとしている。社殿は流造銅版葺。嘉永4年(1851)の改築によるもので、神宮の境内社では唯一戦災を免れている。

2017-09-08 三方五湖、若狭三方縄文博物館

[][]三方五湖若狭三方縄文博物館 20:21

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京都府北端の丹後半島経ヶ岬から福井県北部西端の越前岬を結ぶ直線とリアス式海岸によって囲まれた海域が、若狭湾と呼ばれる。湾内には敦賀湾や小浜湾、舞鶴湾、宮津湾などの支湾があり、風光明媚な景勝地が多く存在する。そのうち若狭湾国定公園に属する福井県三方五湖は、国の名勝に指定され、ラムサール条約指定湿地に登録されている。三方湖水月湖菅湖久々子湖日向湖の五つの湖はすべて繋がっていて、この水月湖は五湖中最大の面積をもつ汽水湖である。

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南部三方湖は元々西北の水路でこの水月湖と通じていたが、水月湖久々子湖の間は1662年から開削された浦見川水路によって結ばれ、さらに1751年の嵯峨隧道開通により水月湖日向湖が繋がった。こうした人工的な開削により五湖が連結され、現在のような形になった。

この集落の先に浦見川水路があり、右奥の方にある久々子湖とつながっている。

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今から約2万年前の第4氷河期には、日本海の海面が100m以上も下がり、三方五湖は海岸から遠く離れた内陸の湖だった。約5千年前の縄文時代前期には、海面が現在より3〜5mも高くなり、三方湖は現在の約2倍の面積があった。その後海面が下がり、ほぼ三方五湖の輪郭ができた頃、久々子湖はまだ大きな入江だったが、耳川によって海に運ばれた砂が入江に堆積し、入口がほとんど塞がれて久々子湖が誕生した。よって久々子湖は潟湖であり、他の湖は三方断層の沈降部にできた断層湖と見られている。

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三方五湖の景観の特色は、低い緩やかな丘陵性の山々を湖の周囲に巡らし、温和で素朴な情緒が溢れていることだ。この水月湖も色鮮やかな新緑や紅葉を湖畔の水面に映し、湖畔沿いの家並みや梅林など、穏やかな風情に包まれている。

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三方五湖を巡るレインボーラインにはいくつか展望台があり、三方五湖はもちろん、リアス式海岸である若狭湾の切り立った海岸線が続く対照的な風景を望むこともできる。

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標高約400mの三方富士とも呼ばれる梅丈岳近くの展望台からは、眼下に三方五湖を望むことができる。三方五湖は淡水・海水・汽水と水質(塩分濃度)が違い、また水深も違うことから、湖面の色も微妙に違いがあり五色の湖とも呼ばれる。

万葉集に「若狭なる三方の海の浜清み い往き還らひ見れど飽かぬかも」(作者不明、巻7-1177)という歌が収録されているが、はるか昔から「飽かぬかも」といわれるほどの多様な表情を見せていたと思われる。

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南部三方湖の南岸にある縄文ロマンパーク内に、風変わりな建物である若狭三方縄文博物館が建っている。外観は、縄文人達が世界観の中心としていた「生命の循環」というテーマを、大地を母体に見立てることにより表現したという。内部空間は、縄文の人々が暮らしていた当時の実り豊かな「巨木の森」の内部を建築的に再現したという。

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三方五湖のある若狭町には、縄文遺跡として有名な鳥浜貝塚などの縄文遺跡が多く存在するが、この博物館はそれらの出土品を中心に展示し、縄文人の生活様式なども学べる場として建てられた。

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1階の縄文ホールでは、縄文の森の象徴として、縄文時代後期の杉の大株(埋没林)を展示している。町内気山地区の埋没林から出土したもので、幹の直径が1.5m以上、根の張りは5m以上あったと見られている。この地域には、杉を中心とした森が生い茂っていた証拠である。多くの株には鉄斧で切断したと見られる痕跡が残っていて、枯死後かなり年月が経過した後、古代の水田開発の際に切断されたと考えられている。

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「森と海・湖の文化」コーナーのメインは丸木舟。鳥浜貝塚から2艘、ユリ遺跡から9艘、合わせて11艘の丸木舟が出土している。鳥浜貝塚から出土した丸木舟は、縄文時代前期と後期のもので、どちらも縄文時代では非常に珍しい杉材で作られている。これはユリ遺跡出土1号丸木舟で、現存全長5.2m、最大幅56cm、深さが10cmで、こちらも杉材である。ほかに復元された丸木舟も展示されている。

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三方五湖のうちで最大の水月湖の底には、何層にも重なった縞模様の堆積物が厚さ73m以上もたまっている。その縞模様は白い層と黒い層が交互に重なってできており、一対で一年分を示している。その様子を「年縞(ねんこう)」という(木に例えると年輪)。水月湖の年縞は実に7万年もの長い期間にわたり、大きくかき乱されることもなく安定して積み重なり、今日まで保存されてきた。水月湖年縞により化石や考古資料など古いものの年代測定法の放射性炭素年代測定の精度が飛躍的に向上した。また花粉黄砂、火山灰が含まれていたり、大きな洪水や地震の痕跡もとどめることから、過去の気候変動の研究にも利用されている。これほど長期間、安定して保存されている年縞は世界的にもたいへん珍しく、世界中の研究者から注目されている。

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縄文博物館のある縄文ロマンパークには、野外ステージで各種イベントが行われる縄文コロセウムや野鳥観察小屋などがある。縄文広場には、縄文時代の竪穴住居や縄文の森、畑、環状列石が再現され、縄文文化に触れることができる。

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博物館のすぐ南東のはす川と高瀬川の合流地点に、縄文時代草創期から前期(約12,000〜5,000年前)にかけての集落遺跡で有名な鳥浜貝塚がある。遺物の含まれる層は、現在の地表面より3mから7m下まで及んでいて、主な遺物は水中に残されていた。現在、周辺は鳥浜貝塚公園となっているが、出土した主な遺物は国の重文に指定され、若狭三方縄文博物館で展示されている。

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発掘調査は昭和37年(1962)立教大学・同志社大学の共同調査で始められ、10次にわたる調査で、竪穴住居跡、草創期の押型文土器・瓜形文系土器・隆線文土器、丸木舟などの木製品、編物、漆製品、栽培植物の種など多種類の出土品が発掘され、「縄文のタイムカプセル」とも呼ばれた。とりわけ赤漆塗りの櫛などの漆製品は注目に値する。1984年に出土した木片を2011年に東北大学が調査したところ、およそ12,600年前のウルシの枝であることが判明した。今まで大陸から持ち込まれたと考えられていた漆だが、国内に元々自生していた可能性も考えられるようになった。

2014-07-09 東尋坊

[][]東尋坊 20:36

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山中温泉から再び福井県に戻り、北陸随一の景勝地、東尋坊を訪れる。東尋坊タワーの脇の商店街を抜けると、階段の先に断崖絶壁の東尋坊が見渡せる。振り返ると東尋坊タワーがわずかに見える。

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大きな岩場の上には、荒れ狂う海や波の砕ける断崖をより近くで見ようと大勢の人が集まっている。先に見えるのが軍艦島で、右手に見えるのがライオン岩である。柱状節理の目立つ屏風岩やロウソク岩は、軍艦島の左手の方にある。

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能登の巌門と同じく、ここでも海は大荒れで、打ち寄せる大波が観光遊覧船のりばを覆い尽くし、とても乗船できる状態ではなかった。

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遊覧船のりばの右手の断崖が、東尋坊の先端になり、夕日を眺めるポイントである。彼方には周囲約2kmの雄島が見え、雄島及び雄島橋の右手には、三保大明神を祀る大湊神社の本宮および陸宮(あげのみや)がある。東尋坊の名の由来には諸説あるが、大湊神社では次のような由来を紹介している。今から1300年前に、奥越の平泉寺は越前7000坊と呼ばれ僧侶も多くいた。その内3000の僧兵は、極悪非道で近郷の民百姓を苦しめていた。その中の東尋坊という暴僧は、とりわけ悪事の限りを尽くす旗頭であった。東尋坊はあや姫という美しい姫君に心を奪われ、恋敵である真柄覚念という僧と激しくいがみ合った。寿永元年(1182)4月5日、真柄覚念と平泉寺の僧兵数十人が東尋坊を海辺見物に誘い出し、絶壁の上で酒盛りをはじめ、泥酔したところで東尋坊を崖の上から海へ突き落とした。その後、海は四十九日間大荒れし、ついには東尋坊の怨念が真柄覚念をも海の底へと引きずり込んでいったという。

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東尋坊は、海食によって海岸の岩肌が削られ、高さ約25mの岩壁が約1kmにわたって続く。この岩は輝石安山岩の柱状節理で、これほどの規模は国内一であり、世界にも朝鮮半島の金剛山と、ノルウェーの西海岸の3ヶ所だけという貴重なものなので、国の天然記念物および名勝に指定されている。

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ここ東尋坊は、著名人の自殺等により昔は自殺の名所として全国的に有名だったが、地元では各所に自殺を思いとどまらせるための句碑や看板を設置して自殺を防ぐ努力を今でもしている。誰でも相談できるよう「救いの電話」も設置されている。

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かつて、飛び降りても簡単に死なない(死ねない)ことをアピールするために敢えて飛び込みを実演する「ドリャーおじさん」がいて、通算2万回以上、飛び降りては断崖絶壁を這い上がるという行為を繰り返したというが、にわかには信じ難い話である。高所恐怖症の者には、そーっと覗くだけでもぞくぞくする。

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東尋坊商店街の最も海寄りのこの店には、甘エビや生ウニとともに岩牡蠣も売られていた。1皿1200円で2個あるので、1個600円になるが、美味しそうに見えたのですぐに買い求めた。

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大きいので1皿に1個でも十分見栄えがする。さっそく食べてみると、やはり新鮮でとても美味しかった。

2014-07-07 永平寺、山門

[][]永平寺、山門 20:46

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庫院を見終わると、浴室の前で曲がって山門に入る。寛延2年(1749)に永平寺42世円月江寂禅師により再建された、永平寺伽藍の最古の建物である。間口9間、奥行5間の二重層からなる唐風の楼閣門で、下層には四天王を祀り、上層には五百羅漢を安置する。東側には、東方の守護神・持国天と北方の守護神・多聞天が祀られている。

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西側には、西方の守護神・広目天と南方の守護神・増長天が祀られ、外部から侵入する悪魔に睨みを利かせている。

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山門から東側の外を振り返ると、先ほどやり過ごした浴室が見えた。間口7間半、奥行5間の建物で、昭和55 年に大改修された。浴室は三黙道場の一つで、水印三昧によって悟ったといわれる跋陀婆羅菩薩を祀っている。禅宗では清規によって、月の内、4と9の付く日(四九日)が公に開浴することになっている。

浴室の右手の階段を上ったところに経蔵(輪蔵)がある。間口4間、奥行4間半の建物で、嘉永4年(1851)に再建されている。

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山門前の南西側に鐘楼堂が見える。昭和38年に改築された鎌倉様式の重厚な建物で、総檜造りの中に吊るされた梵鐘は、口径1.5m、高さ3m、重さ5トンの巨鐘である。早暁の暁鐘・昼の齋鐘・夕方の昏鐘・夜坐が終わってからの定鐘と1日4回、修行僧により撞かれる。

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山門から東司前を通り、祠堂殿に入る。入口近くには閻魔大王が睨みを利かせている。

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祠堂殿は、間口6間、奥行8間の層檜造りで、昭和5年に新築された。堂内には全国各地から集められた位牌が安置され、追善供養等の法要も行われる。奥には文久3年(1863)に改築された舎利殿があり、地蔵菩薩像が祀られている。

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祠堂殿の西、傘松閣の南に、報恩塔(納経塔)がある。宮崎奕保禅師の発願により平成8年に建立された、六角、一重裳階付の塔であり、全国信徒の写経を納める納経箱が収納されている。

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伽藍を一周してようやく出発点の吉祥閣に戻った。昭和46年に完成した吉祥閣は、地下1階、地上4階の鉄筋コンクリート造で、建坪は約920坪ある。永平寺檀信徒や参禅者用の研修道場である2階の大講堂では、永平寺を紹介するビデオが鑑賞されている。

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最後に一番南西(左)にある瑠璃聖宝閣を見学する。永平寺が収蔵する数多くの宝物を展示する建物で、昭和43年に建立され、昭和61年に改築された。

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ここには永平寺唯一の国宝、「普勧坐禅儀一巻」が展示されている。道元禅師が中国(宋)より帰朝後、嘉禄3年(1227)28歳の時に撰述したもので、6年後の天福元年(1233)推敲し浄書したものである。わずか756文字の単文からなり、四六駢儷体(べんれいたい)という形式で、坐禅の儀則を説いたものである。

この天福本は中国の黄紙(こうし)に楷書で書かれた、曹洞宗開宗の第一声であり、普勧坐禅儀撰述記一巻が付されている。残念ながら撮影不可なので、パンフの切り抜きを載せる。

2014-07-06 仏殿、大庫院

[][]仏殿、大庫院 21:42

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大庫院に向かって下る回廊から右手を見ると、大きな仏殿が目に入る。明治35年に改築された建物で、間口9間、奥行5間半の二重屋根である。

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回廊を下りてくると左側には、昭和5年に改築された大庫院(だいくいん)があり、2階には瑞雲閣という賓客の接待所がある。3階には150畳の大広間「菩提座」がある。

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右手の仏殿に入ると、須弥壇中央には釈迦牟尼仏、右に未来弥勒仏、左に過去阿弥陀仏の三世如来を祀っている。この形式は、中国天童山の三世如来に準じたものといわれ、そのため仏殿の別名として、三世如来殿とも覚王宝殿とも呼ばれる。

須弥壇中央の眉間には、永平寺64世悟由禅師の「祈祷」の額が掲げられている。欄間には12枚の彫刻がはめられていて、禅門の古則公案が図案化されている。正面入口には「善財一茎草」、須弥壇上には「世尊」、右側の5面は「二祖断臂」・「智門蓮華」・「洞山木橋」・「香嚴撃竹」・「大随一亀」、左側の5面は「六祖蹈碓」・「南泉牡丹」・「大中天子」・「栽松道者」・「百丈野鴨子」の五則がある。

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仏殿の前から右手を眺めると、大きな僧堂が見える。

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正面には中雀門があり、その向こうには山門が見える。

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左手には地下1階地上4階、延べ750余坪の大庫院が見える。庫院の入口には、永平寺50世玄透禅師揮毫の「庫院」という額が掲げられている。

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玄関正面を入ると、永平寺67世元峰禅師の筆になる「法喜禅悦」という額が掲げられている。中には、足の速いことで有名な守護神「韋駄尊天」が祀られ、この裏の典座寮と呼ばれる台所で一山大衆の弁食を作っている。

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庫院入口の向かいには、長さ4mの大きなすりこぎ棒が吊るされている。明治35年の仏殿改築の際に使用された地突き棒を丸めてすりこぎにしたものであり、このすりこぎを3回なでると料理の腕が上達するという。「身をけずり人に尽くさんすりこぎの その味知れる人ぞ尊し」と歌に詠まれ、永平寺で修行をした人は誰でも知っているといわれる。

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庫院の右裏手に松平公廟所に上がる石段がある。松平公廟所は永平寺の建物の中で最も古く、元の勅使門であったといわれている。葵の紋の門の奥に、越前藩3代目・松平忠昌の五輪塔がある。