半坪ビオトープの日記

2017-08-14 玄武洞、城崎温泉

[][][]玄武洞城崎温泉 21:35

f:id:hantubojinusi:20160818141834j:image

豊岡市内を北に流れる円山川の東岸に柱状節理で有名な玄武洞があり、一帯は玄武洞公園として整備されている。玄武洞へ向かう遊歩道には石が敷き詰められているが、ほぼ5角形や6角形のこの石は柱状節理が横に割れてできたもので「六角石」あるいは「灘石」と呼ばれている。

f:id:hantubojinusi:20160818142207j:image

公園の中心にある最も大きな洞窟が玄武洞であり、青龍洞とともに国の天然記念物に指定されている。一帯は山陰海岸国立公園に含まれ、日本ジオパーク山陰海岸ジオパーク)及び世界ジオパークの認定を受けている。

f:id:hantubojinusi:20160818142936j:image

玄武岩の柱状節理によって、洞窟内では亀甲状の天井や5〜8角の石柱が見られる。江戸時代の文化4年(1807)幕府の儒学者・柴野栗山がここを訪れ、伝説上の動物・玄武の姿に見えることから「玄武洞」と名付けた。

玄武岩」の名称は、明治17年(1884)東京大学の地質学者・小藤文次郎が岩石の日本名を制定する際に、玄武洞の名に因んで命名した。

f:id:hantubojinusi:20160818143032j:image

約160万年前の噴火によって噴出されたマグマが冷却され、玄武岩溶岩の厚い層が形成された。その後、河川による侵食により玄武岩塊がむき出しとなった。玄武洞玄武岩は、マグマが冷却される際に体積が小さくなることでできる割れ目(節理)が顕著で切り出しやすかったこともあり、これを人々が採掘し、その採掘跡が洞窟として残った。つまり洞窟は天然のものではなく、坑道・採掘跡地である。

f:id:hantubojinusi:20160818142437j:image

大正15年(1926)京都大学の地球物理学者・松山基範博士がここの玄武岩の持つ磁気が現在の地磁気と反対の向きを示すことを発見した。つまり世界で初めて地磁気の逆転を発見した。現在では260万年前から78万年前までは現在と反対向きであったことが認められており、この時期を松山期(松山逆磁極期)と呼んでいる。

玄武洞の洞窟は、右手(南)から青龍洞・玄武洞白虎洞・南朱雀洞・北朱雀洞と五つ並んでいる。ここは玄武洞の右の青龍洞である。

f:id:hantubojinusi:20160818142503j:image

青龍洞は、高さが33mあり、15mにも及ぶ見事な柱状節理が見られる。

ここで切り出された玄武岩は周辺地域で漬物石や石垣とか庭石の石材として使われており、現在でも豊岡の石積みなどで見ることができる。大正14年(1925)に発生した「北但馬地震(北但大地震)」によって壊滅的な被害を受けた城崎温泉街の復興時に、地震で崩れた大量の玄武岩円山川を船で運ばれ、城崎温泉の大谿川護岸整備に使われた。現在は天然記念物に指定されているため、持ち帰ることは禁じられている。

f:id:hantubojinusi:20160818143600j:image

玄武洞の左に白虎洞がある。この白虎洞では水平方向に伸びた柱状節理の断面を見ることができる。玄武洞の垂直方向に伸びた節理と比べると細いことに気づく。一般に柱状節理はゆっくり冷えた所ほど太くなるので、この付近では溶岩が速く冷えたこと、つまり溶岩の周縁部に近いことがわかる。

f:id:hantubojinusi:20160818143747j:image

白虎洞の左に南朱雀洞がある。入口脇の岩石には節理がなくコブ状となっている。溶岩流の先端部分で後から来る溶岩に押し出されて塊状の岩石になっていて、ガスの抜けた穴が見られるというが、残念ながら苔に覆われてよく見えない。

f:id:hantubojinusi:20160818143740j:image

一番左手の北朱雀洞は、垂直方向の摂理が上部に向かって徐々に水平方向に変化していく様子を観察できるという。しかし、崩落の危険でもあるのか手前に柵が置かれ、生い茂る草に覆われてほとんど見えなかった。

f:id:hantubojinusi:20160819064558j:image

玄武洞から少し北に城崎温泉がある。平安時代から知られる温泉で1300年の歴史を持つ。コウノトリが傷を癒していたことにより発見との伝説がある。養老元年から四年(717-20)道智上人が千日修行を行なった末に湧出したことが城崎温泉の始まりという。駅前通りの突き当たりにはモダンな建物、外湯巡りの一つ・地蔵湯が見える。

f:id:hantubojinusi:20160819071558j:image

城崎温泉駅前から7つの外湯につながる大谿川沿いに温泉街を形成し、川べりの柳に風情がある。江戸時代の温泉番付によると西の関脇にランクされる。ちなみに西の最高位の大関有馬温泉であった。すでに江戸時代にも近郊の藩主や藩士が多数訪れ賑わっていたが、明治以降も文人墨客に愛され、『城の崎にて』を書いた志賀直哉、作家・有島武郎をはじめ多数の文豪が来訪した。大正14年(1925)の北但馬地震で町は全焼するが、震災まで全ての旅館に内湯はなく、客は各所の外湯に通っていた。復興時に三木屋旅館が城崎初の内湯を設けたところ、伝統を壊すと司法も巻き込んだ20年以上の紛争に発展した。昭和25年になってようやく和解し、内湯の設置が認められたが規模は制限され、広い浴場を希望する客は外湯に通うこととされた。旅館宿泊者は全外湯の入浴料を免除される制度が採用されて、浴衣姿で7つの外湯をめぐる「外湯巡り」が名物となった。

f:id:hantubojinusi:20160819065449j:image

現在7つある外湯の筆頭である「一の湯」は江戸時代には「新湯(あらゆ)」と呼ばれていたが、江戸時代中期の古法派の漢方医・香川修徳が泉質を絶賛し、「海内一(かいだいいち)」(日本一)の意を込めて一の湯に改名した。「海内第一泉」の碑は近代温泉学の泰斗・藤浪博士の書である。

日没円山川に見てもなほ 夜明け目きたり城の崎くれば」(与謝野晶子

f:id:hantubojinusi:20160819065709j:image

柳通りから城崎温泉の中心地、一の湯の前の湯の里通りに入ると、正面に大師山が見える。昭和38年(1963)には温泉街と大師山山頂を結ぶロープウェイが開通した。高度成長に合わせて温泉ブームが到来し、城崎温泉は巨大な観光地となった。

2017-08-04 久々比神社

[][]久々比神社 23:22

f:id:hantubojinusi:20160818135200j:image

コウノトリの郷公園の近く、豊岡駅の北東3kmほどの下宮に、日本で唯一コウノトリに縁のあるという久々比神社がある。境内前の下ノ宮川に架かる朱色の欄干の橋を渡ると、石造鳥居が二つ並んでいる。

f:id:hantubojinusi:20160818135235j:image

鳥居の先に見える風変わりな建物は、切妻、桟瓦葺、三間一戸の八脚単層門で、割拝殿風の神門である。社号の久々比とは、「鵠(くぐい)」の意で、コウノトリの古称とされる。

f:id:hantubojinusi:20160818135351j:image

久々比神社の創始は不詳だが、『日本書紀』垂仁天皇23年によると、垂仁天皇の皇子・誉津別王は、30歳になっても言葉を喋らなかったが、ある日、空を飛んでいる鵠をご覧になり、初めて何物であるかと仰った。天皇は大いに喜ばれ、天湯河板挙命はこれを追い、出雲で捕えたとも、当地の但馬で捕えたとも伝えられ、その功績によって鳥取造の姓を賜ったという。

f:id:hantubojinusi:20160818135323j:image

拝殿は入母屋造桟瓦葺、平入、桁行3間、梁間1間半、正面1間向拝付。

f:id:hantubojinusi:20160818135416j:image

拝殿の奥は開け放たれ、その先の本殿を拝むことができる。コウノトリの親鳥とひなを描いた絵馬が多く奉納されている。

f:id:hantubojinusi:20160818135430j:image

拝殿内には、古色蒼然とした神輿が安置され、久々比神社の由緒書も掲げられている。

f:id:hantubojinusi:20160818135527j:image

拝殿の右手には境内社の鳥居が見え、その手前にコウノトリの銅像が奉納されていた。久々比神社の鎮座する下宮は、昔より鵠村と言われていたように、古来よりコウノトリが数多く大空を待っていた地域である。

f:id:hantubojinusi:20160818135452j:image

右手の境内社は、事代主尊を祀る八幡社である。

f:id:hantubojinusi:20160818135537j:image

久々比神社は延長5年(927)に編纂された延喜式神名帳に式内社として列した但馬国城崎郡21座の内の1座で、近隣6集落の氏神として信仰されてきた。古くから神仏習合し「宗像大明神」などと呼ばれていたが、明治初頭の神仏分離令により仏教色が一掃された。現在ではコウノトリに縁があることから子宝に御利益があるとして信仰されている。

f:id:hantubojinusi:20160818135600j:image

祭神は社号の久々比からか、「久久遅命」あるいは「久久能智命」とされるが、長らく「宗像大明神」と称していたので「多紀理比売命」を祀るという説や、『日本書紀』の話から「天湯河板挙命」とする説もあるという。

f:id:hantubojinusi:20160818135638j:image

現在の本殿は、永正4年(1507)に再建されたもので、三間社流造、杮葺、正面3間向拝付。とりわけ蟇股の彫刻が優れ、東西両側の正面寄りの蟇股には三つの蕊の桐が彫刻されている。さらに斗、肘木、龍鳳象獅などの彫刻や細部の技法など見所が多く、室町時代中期の大型本殿建築の遺構として国の重文に指定されている。近くの酒垂神社は一間、中嶋神社は二間の流造と規模は異なるが、建築年代は中嶋神社が正長元年(1428)、酒垂神社が文安元年(1444)と接近し、久々比神社もその頃の建造と考えられている。

f:id:hantubojinusi:20160818135720j:image

この本殿は昭和46年の大規模解体修理で永正4年の再建時期が判明したが、棟札により元禄15年(1702)、正徳元年(1711)にも一部修理されたことがわかっている。

f:id:hantubojinusi:20160818135738j:image

社殿の左手には、保食神を祭神とする稲荷社と、少彦名命を祭神とする三柱社が並んで祀られている。

2017-07-30 酒垂神社、コウノトリの郷

[][][]酒垂神社、コウノトリの郷 21:38

f:id:hantubojinusi:20160818131849j:image

同じく豊岡駅の東6kmほどの所、円山川の支流・鎌谷川沿い、東隣の京都府京丹後市久美浜町へ通じる峠の入り口に酒垂神社がある。境内は京都市高雄から紅葉を移植し、今では紅葉の名所として知られる。境内入口の鳥居の両脇に石柵で囲まれた甕石があり、これは酒を汲み入れる瓶を指すという。

f:id:hantubojinusi:20160818131942j:image

神社名は「さかたれ」と訓じ、社説によれば鎮座地に因む「坂垂れ」の意であるが、祭神が酒の神であるために「酒樽」に掛けられて「さかたる」とも称されるという。中近世には大蔵(倉)大明神とも称された。境内に隣接して酒米を作った神田があり、酒造用水として奥の谷間に湧く清水を使っていた。かつては神社で醸造した神酒を供える神事を行っていたが、明治以降自由な酒造が禁止されてから、氏子らが手作りの甘酒を供えていたそうだ。村芝居が行われたり、北但酒造組合が利き酒会を開いたり賑わっていたが、今では秋祭りぐらいという。それでも時折、杜氏が酒の神様をお参りに来るそうだ。

f:id:hantubojinusi:20160818132012j:image

社伝によれば、白鳳3年(675)の夏に、当地を治めていた物部韓国連久々比命という郡司が贄田(神供用の稲を穫る田)に酒造所を造り、酒解子神、大解子神、子解子神の酒造3神を祀って神酒を醸造し、これを祖神に供えて五穀豊穣を祈願したのが創始であるとするが、この社伝は『国司文書』に依るもので信憑性に疑義があるため、言い伝えの域を出ない。

拝殿は入母屋造瓦葺である。

f:id:hantubojinusi:20160818132032j:image

祭神として、酒美津男命(さかみずおのみこと)と酒美津女命を祀る。杜氏の祖神であり、宮中造酒司に守護神として祀られていた酒美豆男神、酒美豆女神とは同神であるという。

f:id:hantubojinusi:20160818132403j:image

酒垂神社の本殿は一間社流造杮葺で、覆屋によって保護されている。棟札から、また蟇股の裏から発見された願文の墨書から、永享10年(1438)に建て始め、文安元年(1444)に遷宮を斉行し、宝徳元年(1449)頃完成したことが判明している。覆屋は宝永8年(1711)の大改造の際に新設され、その後、造替や改築がされている。本殿としては小規模だが一間社としては大きい方で意匠的にも大柄な木柄となっている。身舎の3方に高欄付きの縁を廻らし、正面階段下に浜縁(浜床)を設ける。

f:id:hantubojinusi:20160818132050j:image

本殿の内部は幣軸付の板扉を設けて内陣と外陣に区画する。向拝中備えの蟇股の横に、転法輪の周囲に亀甲形を配した透彫の琵琶板を付ける点も珍しいという。

本殿(附棟札2枚)は国の重文に指定されている。

f:id:hantubojinusi:20160818132203j:image

蟇股等が左右対称で葉飾の軸を脚の下部から出す点等に室町時代中期の古式に則った特徴を見せ、妻飾りの下端を窄め上端には形の崩れた木鼻を付けた大瓶束や軒下の出三斗には但馬の地方色が示される。

f:id:hantubojinusi:20160818132229j:image

境内には摂末社が3社ある。大山祗神を祭神として祀るこの山神社は、字山の神に鎮座していたが、大正3年に境内に遷祀された。

f:id:hantubojinusi:20160818132257j:image

左の稲荷神社は、保食命を祭神として祀っている。右の社は八幡神社である。

f:id:hantubojinusi:20160818133450j:image

酒垂神社の手前に兵庫県立コウノトリの郷公園がある。平成11年に開園し、国の天然記念物であるコウノトリの保護・増殖を行いながら野生化させることを目的としている。周辺に広がる水田では「コウノトリ育む農法」として無農薬減農薬栽培に取り組むなど、コウノトリとの共生可能な地域づくりに取り組んでいる。

f:id:hantubojinusi:20160818133726j:image

豊岡市立コウノトリ文化館コウノピアが公園に併設されていて、そこから飼育コウノトリが観察できる。

f:id:hantubojinusi:20160818134258j:image

文化館内にはコウノトリの剥製や、コウノトリの解説及び野生復帰の解説パネルなどがある。

2017-07-25 中嶋神社

[][]中嶋神社 22:37

f:id:hantubojinusi:20160818125312j:image

豊岡市の市街地の東端、豊岡駅の南東6kmほどの三宅に中嶋神社がある。広い境内の手前に朱色の大鳥居が南に向いて建っている。 

f:id:hantubojinusi:20160818130336j:image

石畳が長く続く参道の先には広場があり、その先に石造の二の鳥居と社殿が見える。

f:id:hantubojinusi:20160818125516j:image

広場の左手には籠堂が建つ。昔は拝殿としても利用されたという。

f:id:hantubojinusi:20160818130319j:image

二の鳥居の右脇には「お菓子の神様 田道間守命の生誕地」と刻まれた石碑が立ち、池の橋を渡ると正面に拝殿が建つ。祭礼は4月第3日曜日に催され、菓子祭とも橘花祭とも呼ばれ、全国から製菓業者が集まり、業界の繁栄を祈願する。

f:id:hantubojinusi:20160818125532j:image

中嶋神社は主祭神として田道間守命(たじまもりのみこと)を祀り、天湯河棚神(あめのゆかわたなかみ)を配祀する。田道間守命は、天日槍命の5世の子孫で、『日本書紀』に記される垂仁天皇の命により常世の国から「非時香果(ときじくのかぐのみ=橘)」を持ち帰ったとされる。橘は菓子の最上級品とされたことから、菓子の神・菓祖として崇敬される。また現鎮座地に居を構えて当地を開墾し、人々に養蚕を奨励したと伝えられることから、養蚕の神ともされる。天湯河棚神は、中古に合祀された安美神社の祭神で、鳥取連(ととりのむらじ)の祖神である。

f:id:hantubojinusi:20160818125558j:image

天延3年(975)に撰述されたという『国司文書』によれば、推古天皇15年(606)、田道間守命の7世の子孫である三宅吉士が、祖神として田道間守命を祀ったのにはじまるといい、「中嶋」という社名は、田道間守命が「非時香果(橘)」を持ち帰った時にはすでに垂仁天皇が亡くなっていたので、天皇の御陵に「非時香果」を献じて殉死したのを、景行天皇が憐れみ、田道間守命の墓を垂仁天皇陵そばの池の中嶋に造られたからという。しかし、『国司文書』は資料として疑義があるとされるので、この話は鵜呑みにできない。

神紋は「非時香果」にちなみ橘紋である。

f:id:hantubojinusi:20160818130051j:image

本殿は、応永年間(1394-1428)の火災の後、正長元年(1428)に但馬領主・山名氏により再建されたもので、側面から見ると後方は短く、前方の軒先が流れ下っている流造(ながれづくり)で、室町時代の典型的な神社建築をよく示しているとして、国の重文に指定されている。

f:id:hantubojinusi:20160818125822j:image

本殿は、二間社流造檜皮葺。神社建築では一間社流造や三間社流造が多く、中央に柱がある二間社は珍しく、重文では全国でわずか6棟とされる。屋根を支える建物上部の瓶の形の束柱(大瓶束)、あるいは肩に蓑を着たような束柱(蓑束)の上に渦巻き模様が彫刻された部材が付くなど、美麗な装飾が随所に見られる。階段下の両脇には木製の狛犬が安置されている。

f:id:hantubojinusi:20160818125642j:image

社殿の右脇に建つ境内社は大神宮で、皇大神宮(内宮)と豊受大神宮(外宮)が祀られている。

f:id:hantubojinusi:20160818125947j:image

境内には摂末社が多く祀られている。社殿の右手には若宮神社が祀られている。

f:id:hantubojinusi:20160818130008j:image

若宮神社の右手には、聖(日尻)神社があり、さらに右手に大森神社がある。

f:id:hantubojinusi:20160818130114j:image

社殿の左手には、秋葉神社が祀られている。

f:id:hantubojinusi:20160818130127j:image

秋葉神社の左手には、稲荷神社がある。

2017-07-19 東楽寺、出石神社

[][][]東楽寺、出石神社 22:53

f:id:hantubojinusi:20160818111003j:image

大乗寺から東南に向かい、豊岡盆地の中央付近、円山川と出石川の合流点近くに高野山真言宗の東楽寺がある。鐘楼を兼ねた大きな山門が珍しく、その向こうに本堂が見える。

f:id:hantubojinusi:20160818110301j:image

東楽寺は約1180年前に弘法大師によって開かれたと伝えられ、一山の本尊は弘法大師が中国より請来した聖天尊(歓喜天)で秘仏のため一切ご開帳はない。日本三大聖天の一つに数えられるあまりにも有名な歓喜天で、古来より災害を除き、所願成就の仏様という信仰がある。通称、豊岡聖天とも呼ばれ、但馬一円から参詣する人が多い。

f:id:hantubojinusi:20160818110925j:image

東楽寺は延喜元年(901)落雷による焼失後、延長年間(923-31)に再建されたが、再建に際して一山守護を祈念して造立された四天王像は、檜の一木彫刻で、藤原時代中期の作風をよく表し、甲冑は簡素だが体躯は重厚な風格を持ち、国の重文に指定されている。

f:id:hantubojinusi:20160818120130j:image

豊岡盆地の東南に続く、出石盆地の東縁の山裾に出石神社がある。現在の出石市街地は天正2年(1574)に山名氏が居城を此隅山城から有子山城に移してから発展したが、その北2kmに位置する出石神社付近がかつては周辺一帯の中心地であった。

f:id:hantubojinusi:20160818120950j:image

出石神社は。『古事記』や『日本書紀』に記される渡来新羅王子の天日槍伝説の中心となる神社で、現在の祭神には天日槍が将来したという八種神宝の神霊(伊豆志八前大神)および天日槍の神霊を奉斎し、地元では出石の開拓神としても信仰される。

f:id:hantubojinusi:20160818120314j:image

古くから但馬国では随一の神威を誇り、延長5年(927)成立の延喜式神名帳では「伊豆志坐神社」として式内社の名神大社となっている。中世・近世には但馬国の一宮にも位置付けられ、地元では「一宮さん(いっきゅうさん)」とも通称されている。

神門は丹塗りの八脚門で、多くの蟇股が鮮やかに彩色されている。

f:id:hantubojinusi:20160818120420j:image

拝殿は入母屋造平入りの舞殿形式で、屋根は銅板葺。特に身舎屋根とは独立して平唐破風出桁造の向拝を持つ。社殿は大正3年(1914)の再建で、豊岡市指定文化財に指定されている。

f:id:hantubojinusi:20160818120435j:image

拝殿の奥に幣殿・祝詞殿が続いている。社宝として、明治14年(1881)寄進の脇差(国の重文)のほか、歴代領主の甲冑や古文書などを伝世している。

f:id:hantubojinusi:20160818120458j:image

本殿は、三間社流造で屋根は銅板葺。本殿前に幣殿・祝詞殿(いずれも切妻造)が接続し、両殿の左右から透塀が出て本殿を囲む。

f:id:hantubojinusi:20160818120520j:image

境内に末社が並んで建っている。左が比売神社(比売社)で、祭神として麻多烏(天日槍の妃神)を祀る。右が稲荷神社(夢見稲荷神社)で、祭神として宇賀能魂を祀る。他にも市杵島比売神社と菅原神社がある。

f:id:hantubojinusi:20160818122600j:image

但馬の小京都とも呼ばれる、現在の出石町の市街地は、出石神社の南に位置する出石城跡の手前の城下町として発展している。出石城は慶長9年(1604)、小出吉英により築かれたが、明治元年に取り壊された。白亜の土塀と長屋門のある家老屋敷は、出石城内に唯一残る江戸後期の武家屋敷で、刀を使い難くするために天井は低く造られ、正面からはわからないように珍しく2階も設けられている。

f:id:hantubojinusi:20160818123017j:image

館内には出石大名行列槍振りの諸道具や「江戸時代の三大お家騒動」の一つといわれる「仙石騒動」の資料などが展示されている。

f:id:hantubojinusi:20160818113417j:image

出石の街には蕎麦屋が50件もあり、300年の伝統を持つ「出石皿そば」が有名である。宝永3年(1706)、信濃国上田藩より但馬国出石藩に国替えとなった仙石政明が、蕎麦(信州そば)職人を連れてきたことに始まるとされ、幕末の頃には割子そばの形態になったという。店では普通一人前5皿で、食べたお皿を重ねて箸の高さになるとそば通と言われる。