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ただ金さえもうければよい、事業をおこせばよい、帳尻を合わせればよい。経済成長率だの、県民所得の増加であるの、貯蓄の累積であるのというようなことだけでは何にもなりませぬ。そんなことはひとたび大いなる変化がおこりましたならば、吹っ飛んでしまうものであります。
何事があっても臨機応変、自由自在に雄々しくたくましく善処してゆけるいうのは、やはり精神的根柢、人物の養成、立派な風俗というものを振興するにあるのであります。この精神がつぶれて風俗が頽廃いたしましたら、日本はどんなことになるかわからぬのであります。
何事が起ってくるか分からない。この時に、私は人類の幸福、世界の平和を念願といたします。などと言っても何にもならぬのです。これは皆が言う紋切型の空論であります。それよりも自分の足許をしっかりさせることであります。
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第一の人間たるの本質的要素とは何ぞや。これは「徳性」というものでありまして、平たい言葉で申せば、素直で、明るく、清い。人を愛し、助ける、人のために尽くす、或いは報いる。又いかなることにも堪える、忍ぶ。従って努める、努力する。
こういうものはいわゆる徳目というもので、数えれば限りがありませぬが、これらが人間の人間たる所以の徳でありまして、これがなければ人間ではない。
子供は、三歳くらいの幼児の頃からいわゆる「三つ子の魂」が現われて参りまして、もう五、六歳頃には立派に性格の基礎が出来る。そして知能や技能の基本的なものがぐんぐん伸びて、十歳から十二、三歳頃をピークとして、十六、七歳で一応人間の根本的な型というものが出来てしまう。それから先は付属的な知識や技術、及び経験だけが発達してゆくのです。
だからどうしてもこの間に道徳教育・精神教育・或は人格教育というような人間の根本的なものをたたきこむ必要がある。良い躾をつけるということが大事であります。これをしておかぬと、その後に発達して来る知識や技能というものが極めて浅薄な機械的なものになってしまう。
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世の中が大衆化すればする程、その大衆のためにエリートが必要である。必要なばかりでなく、益々エリートが出て来る。
なんとなれば大衆というものは政治性・政治能力というものを持たない。大衆はその場その場、その日その日の自分の生活そのものに生きておる。他人や全体との関係、或は十年百年先の問題等に対する感覚もなければ思想もない。だから大衆をそのままに放任しておけば、その社会は大衆心理というものによって動物的になるばかりでなく、あらゆる闘争・破壊・頽廃の中に落ち込んでしまう。
その大衆のために秩序を立て、規律を作って、大衆を混乱や破滅から救い、新しい価値・光明のある人間社会を建設してゆく、そういうエリートがなければならない。又必ず出て来なければ大へんなことになる。