Hatena::ブログ(Diary)

BASC理事長 原耕造のブログ

2016-05-25

原爆被害者への謝罪

13:53

伊勢志摩サミット後にオバマ大統領が広島を訪問するにあたり、アメリカ人の半数が原爆投下は正当であり原爆被害者に謝罪する必要はないと思っているという報道に対して日本人の殆どは違和感を持っている。しかしこの違和感の原因は何であるかについて解説している人はいない。

原爆投下の正当性を主張するアメリカ人は「パールハーバーを思い出せ」という合言葉を使っている。日本から売られた喧嘩を買い、その仕返しが原爆投下だという論理である。だからそこにはアメリカが謝罪をする理由が存在しない。日本人の殆どはその論理構成に対して何となく納得してしまい反論ができないでいる。反論のなかでは、原爆投下は非人道的であるとの主張はしているもののアメリカ人を納得させる論理構成にはなっていない。どうしてこうなっているかというと、日本人がアメリカ人の考え方の根底部分を理解していないからだ。

リメンバーパールハーバーの論理は「目には目を、歯に歯を」というハムラビ法典に由来する考え方であり、それはユダヤ教、キリスト教、イスラム教の宗教規範に影響を及ぼしてきた。しかし「目には目を、歯には歯を」の考え方は、そもそも、同害報復を要請するものではなく、無限な報復を禁じ同害程度までの報復に制限するという趣旨なのだ。ところが、ユダヤ教やイスラム教では同害報復を要請するようになり、一方、キリスト教では「赦す」ということに重点を起き、「右の頬を打たれたら左の頬を差し出せ」という規範が聖書のローマ人への手紙のなかに示されている。アメリカという国は歴史で習ったようにメイフラワー号に乗ったビルグリムファーザーズが興した国であり、国民の半数近くがプロテスタントであり、カソリックも含めて国民の8割近くがキリスト教徒である。そのキリスト教では同害報復を認めていないのに、何故、同害報復を要請するパールハーバーの論理が正当性を持つのだろうか。アメリカに一撃を与えた日本を赦すことが出来れば、キリスト教徒としての罪の贖いも可能なはずなのだが。

更に同害報復という視点でとらえた場合、パールハーバー襲撃と原爆投下では無差別殺人という点で同害では無く、更に、広島の後に長崎まで原爆を投下することは過剰報復ではないのだろうか。日本の同害報復は仇討という形で行われるが、赤穂浪士も曽我兄弟も決して過剰報復ではない。

日本政府はオバマ大統領に謝罪を求めないと言っているが、それでは原爆被害者に対しても失礼なのではないだろうか。オバマが気にしているアメリカ国内のリメンバーパールハーバーを主張する国民に原爆問題の考え方に対して問題提議をするのが日本政府の仕事であり、オバマのプラハ演説に対する日本としての行動なのではないだろうか。広島や長崎の原爆被害者もアメリカに謝罪を求めているのではなく、アメリカ人に自分の信仰の根底にあるものに気づいてもらい、ともに同害報復の無い世界を目指すことである。

2016-04-08

農地は誰のもの

16:25

現在、TPPの影響による耕作放棄地の増大や平成34年に期限を迎える改正生産緑地法等により、国内の農地は大きな転換点を迎えようとしている。一方、北朝鮮や南シナ海等での国際紛争が想定されるなかで平和安全法が施行され、軍靴の音が聞こえ始めている。更にシリア難民問題でヨーロッパ諸国はEU統合の理念が揺らぎ始めている。これらの3つの問題は、それぞれが独立して関係がないようであるが実は農地というキーワードでつながっている。

耕作放棄地や生産緑地については農地というキーワードそのものの問題であるが、殆どの国民は自分の問題として捉えていない。TPP締結で海外から安い農産物が入ってくるので家計が助かるという自己中心的な論理だ。更に市街化区域内農地については都市計画法の位置づけを見直す方向で検討がされている。耕作放棄地について固定資産税の見直しにより農地集約化の対象として議論されている。

国会審議に入ったTPPの国内農業対策として農地集約による大規模化と積極的海外輸出に活路を見出す方針が出されている。しかし耕作放棄地の殆どは中山間地に位置しており、農地集約の対象にならない。どちらかというと棚田の崩壊による治水機能が脆弱化し、国土の防災機能の問題に直結している。農地集約による大規模化の問題は欧米の畑作酪農を対象とした方程式であり、稲作という労働集約型農業を対象とした方程式には当てはまらない。机上の数字だけ見ていればいくらでも大規模化できるが、実際に40年以上構造改善事業をしてきても水田の大規模化は干拓地等の特殊な条件の下でしか実現できていない。更に海外輸出について将来展望は殆ど無い。米の輸出が1万トン実現できた暁にはベトナムから3期作のコシヒカリがそのマーケットに雪崩れ込むことは必定である。

改正生産緑地法は土地バブルの対処策生け贄として作られた制度であり、農業政策としては明確な位置づけがなされず、都市計画としても位置づけされず、更に固定資産税や相続税の税法の改正がなされていない。その後、特定農地の貸付制度や市民農園整備法によって市街化区域内農地の位置づけが多少は変わった。更に都市の住民の農地に対する意識が大きく変わり、市民農園から体験農園、コミュニティガーデン等、農地に対する市民の期待は高まってきた。しかし農地法や都市計画法、相続税の基本的な見直しがなされてこなかった。それは農地の所有権が農家にあり、その財産権を侵害するような法整備がなされなかったからである。地域における農家と市民の共有財産として農地を位置づける議論が展開されなかったことが原因である。

今回、平和安全法の施行により自衛隊の海外派遣が可能となったが、海外兵站基地への食料の確保については何も議論されていない。最近の国際紛争では兵器による直接交戦よりも経済封鎖という戦略が採られている。第2次対戦の戦没者のうち約60%強は餓死者といわれておるにもかかわらず、日本が経済封鎖をされた場合の平和安全法の中での食料確保政策は何処にも見当たらない。更に、北朝鮮の体制が崩壊した時に日本海を渡ってくる難民の食料の確保についても議論されていない。ヨーロッパの市民農園は普墺戦争時のウィーン市民の飢餓対策として提唱され位置づけられているが、日本の市民農園は都市住民の趣味としての位置づけしかない。ドイツでは毎年、各州でクラインナガルテンの展示会としてブンデスガルテンショーが開催され、市民農園の位置づけが明確にされている。更に東シナ海や南シナ海でのシーレーンが確保出来ない場合については石油の問題だけが議論されているが、第2次世界大戦時のロンドンはドイツのUボートで食糧船が撃沈され、一時は餓死寸前であったという。経済封鎖は島国を対象にした戦略としては非常に有効なのだ。

難民問題も単に難民の食糧問題では無い。日本の少子高齢化問題は第1次産業の労働力不足に拍車をかけ、既に一部の地域では研修生という名の海外労働者が多く働いている。少子高齢化は避けて通れない問題であり、欧米では海外労働者無くして農業は成立しない状態になっている。日本の農業が労働集約型であることを勘案すると、海外労働者の雇用は日本の農地のメンテナンスに必要となってくる。

このようにTPP問題、シリア難民問題、北朝鮮問題、シナ海問題等、全ての問題解決のためには農地の確保と食料生産労働力の確保という問題がある。単に平和安全法反対を唱えるのではなく、平和を持続的に維持するためには日本の国土としての農地をどのようにするのかという議論を避けて通れない。安くて美味しい食糧を海外から買える時は良いが、いつまでも買える状況が続くとは限らない。徳川幕府が300年間持続したのは250万町歩の農地と2500万人の日本人口のバランスがとれていたからなのだ。農業問題を食糧という商品として見ている日本人が農地を国土として見て、日本人の生命との関係性を認識できるような意識転換をしないと大変なことになる。

2016-03-14

エンゼルズ・シェア

14:13

先日、新聞にこの言葉の解説が掲載されていた。日本語では「天使の分け前」とか「天使の取り分」というそうだ。ウィスキーなどを長い期間、樽の中で熟成させていると、どうしても少しずつ蒸発していく。この減った分が「天使の分け前」なのだ。英国の人情コメディ映画「天使の分け前」では、天使の分け前とは優しさであると描いているそうだ。不良青年の主人公が自分を助けてくれた女性に尋ねる。「何故、親切にするのかい」すると「私も昔、誰かに親切にしてもらったことがあるから」と女性は答えたそうだ。

私はこの記事を読んでいて自分の地域活動についての話しを思い出した。私は平成4年に現在の日野市に引っ越してきてからずっと地域活動を続けている。地域活動を始めた理由について自分では義理と人情の世界だと思っていた。つまり引っ越しのきっかけとなった地域の人たちから、地域活動つまり自治会活動を手伝って欲しいという要望があったのだ。引っ越す前に住んでいたのは山の手の世田谷であり、地域活動とは殆ど縁のない地域であった。もしかしたら世田谷のその地域の雰囲気が私の気性に合わなかったのかもしれない。何故ならは、私の人格形成時期は下町の上野であり、町内会ではどの家も商売をしているような地域であった。その結果、町内会活動は暇な店の親父が順番に面倒をみていたのである。そんな雰囲気のなかで育った私に山の手の雰囲気は合わなかったのかもしれない。

引っ越しを機会に地域の自治会活動を17年、その後はずっと広域の活動を続けているが、最近では他の地域から私の活動について様々な質問を受けるようになった。それはあなたの地域活動の原動力は何ですかとか、後継者はどうするのですかという質問であった。そこで私は自分の地域活動について冷静に分析をしてみた。すると答えは「天使の分け前」であることに気がついた。つまり私は子供時代に町内会のおじさんやおばさん達に面倒を見てもらっていたのである。ラジオ体操は文房具屋の親父、海水浴は床屋の親父、芋掘りはどこどこの親父というように、町内会のイベントはそれぞれ町内会のおじさんやおばさんが順番に面倒を見ていたのである。あまり自分の親のことは思い出さない。コメディ映画の女性の答えと同じように「私も昔、だけかに親切にしてもらったことがあるから」というエンジェルズ・シェアの心が私に地域活動をさせていることに気がついた。更に地域活動に後継者の問題は存在せず、私たちの地域活動が地域の子どもたちのDNAに刻み込まれればそれで良いという結論になった。私が上野で刻み込まれたのと同じように。

私たちはホタル鑑賞会、ソーメン流し大会、ごみゼロ収穫祭、餅つき大会の主要イベントの他に炊き出し食事会や市民協働マルシェなどを子どもたちと一緒にしている。参加人数は年間で延べ2000人になり、そのうちの半数以上が子どもたちだ。その子どもたちが将来、大人になった時に私たちの活動の姿を思い出し、自分たちの地域の子どもたちに同じような思いさせてあげようと思い、地域活動をしてくれればそれで良いのだ。その活動の場所はそれぞれの人生のなかで決まってくる。私もあと何年地域活動ができるかどうか分からないが、おじさん天使として子どもたちに分け前を与え続けていきたい。

2016-02-10

TPPと石高制

14:57

私は地域でゴミ減量や地域防災等の様々な取り組みをしているが、その取組と仕事が合体した。私のNPOでは田んぼの生きもの調査活動を通じて日本の田んぼの保全を図ってきた。つまりTPPが実施されても日本の稲作農家が田んぼを耕作し続けられる仕組みを模索してきたのだ。EUの環境直接支払いの実現を目指して「民間型環境直接支払い」を実践し、生産者と消費者の関係性から脱却することを目的に「田んぼ市民運動」を実践してきた。しかし残念ながら日本人の価値観や意識は変わらず、国の政策としてもEUの直接支払い真似事や大規模化、1兆円の農産物輸出などの目標を設定しているが、農地を守るという国民的合意には至っていない。

国民的合意に至らない理由としては、チェルノブイリの原発事故や近代農業による国土汚染が創造神と約束した自然管理責任に違反しているという意識をEU市民が持っているからだ。EU市民は持続可能な農業が国土環境を保全しているという認識を持つようになったので、環境支払いが本格的に機能しているのだ。

日本人はキリスト教徒が大勢を占めるEU市民とは異なり、自然を創造した神という考え方が全く理解できない。日本人には明治維新までnatureという概念がなく、自然という漢字を当てはめて今日に至っている。現代の日本人は日常的に自然という言葉を使っているが、その背後にある創造神との契約を意識していない。その結果、40万haの耕作放棄地があっても日本人としての自然管理責任を意識する人間はいない。国土開発に伴う自然破壊に対して反対運動をする人はいるが、農業が日本の国土のメンテナンスをしていると思っている人は殆どいない。

私はこれまでコウノトリやトキの放鳥に伴い、田んぼの生物多様性を高めるために自然保護運動と農家運動の結びつける努力をしてきた。しかし残念ながら自然保護は反対運動に終始し、農家は差別化商品の意識から脱却できないでいる。日本で有機農業運動が広がらない原因は消費者が「食の安全」という意識から脱却できず、有機農家は商品の差別化という意識から脱却できないからだ。

このように忸怩たる思いを抱き続けてきたが、案外近くにその解決策があった。それはEUのように国民の意識改革を目指すのではなく、日常の暮らしの中の取り組みを通じて結果的に農地を保全し、国土の崩壊が免れれば良いのだ。

私の地域では災害を想定して炊き出し食事会を隔月で実施している。その中では家庭での防災保存食として「玄米」の在庫を勧めている。一方、生ごみを回収して発酵させ農地に入れて野菜を作る取り組みをしている。更にゴミ処理工場の広域化に伴いプラスチックの分別回収が始まろうとしている中で、流通系の包材についてはメーカー責任を問うだけであった。このような2つの大きな課題を解決する取り組みが始まった。

それは玄米を地域住民に推奨するだけでなく、生きもの調査をしている産地から玄米を送ってもらい、それを地域住民に協働購入してもらう取り組みを始めた。玄米については家庭によって評価が異なるので、小さな容量の精米機を購入し、精米歩留まりを自分で選択させた。最近では精米と玄米の2つを購入して家庭でブレンドして炊飯している。もちろんこれらの取り組みは炊き出し食事会のなかで実験して玄米普及に努めている。

更にこの取組の特徴は玄米に「産地」「銘柄」「年産」を表示しないことだ。この3つの表示は玄米流通の基本であり、消費者はこの表示と価格で精米を選択している。現在は4つの産地から2つの銘柄を送ってもらっているが、購入する市民からは産地指定銘柄指定の希望は無い。これは私が意図的に企画したことではあるが、全く私の予想に反していた。理由としては産地からはそれなりの美味しい玄米を送ってもらっていることと、精米したてのご飯の香りの良さが原因と考えられる。もちろん産地からは生きもの調査の取り組みが分かる情報提供をしてもらっており、近々のうちにフェイスブックに調査活動の様子をアップしてもらうことを考えている。

3点セットの表示とは別に売り方も全く新規の発想を導入している。それは「枡」による量り売りをしていることだ。玄米は30kgの袋にはいっているが、それを小分けするのに普通であれば3kgや5kgの袋に入れる。しかし私たちは「1升枡」と「5合枡」を買ってきて枡売りをしている。市民が希望する数量を枡で量り、それを精米するのだ。昔の家庭では米びつの中に1升枡がはいっていたものだが、最近の若い人は見たことも無い人が多い。

1合☓10=1升 1升☓10=1斗 1斗☓10=1石

1升は1升ビンがあり、1斗は灯油の1斗缶があるので何となく理解できるが、1石となると読み方から教えなければならない。1升や1合が容積であることは知っているが1石という単位が何を意味するのか殆どの人が知らない。昔は土地の生産性・価値を「石高制」で表し、「加賀百万国」とは、加賀藩の領地全体で100万石のお米換算の農産物が獲れるということを意味していた。それは加賀藩では100万人の人が生きていけるということも意味していた。それは当時の日本人が1年間に食べるお米の量が1石(約150kg)だったからだ。加賀藩以外にも徳川幕府が400万石といわれ、日本全体では2000万石であった。この数字は江戸時代の日本の人口が2000万人であったことと符号する。

このような石高制は豊臣秀吉の太閤検地によって定められたことはあまり知られていない。教科書には太閤検地によって年貢を納めさせたと書いてあるが、太閤検地とは単に農地の面積を測ったのではなく、農地面積の単位も変更したのだ。それは1石の米を生産するのに必要な水田面積を1反300坪(約1000)と定めたのだ。太閤検地前は1反が360坪だったが、当時のお米の生産性を勘案して300坪に変更したのだ。つまり1人の日本人が生きていくためには1石のお米が必要であり、その1石のお米を生産するのに必要な水田面積が1反と定めたのだ。

このように1升枡の玄米が10個で1斗となり、100個で1石となる。その1石は自分が生きていくために必要な食料であり、その向こう側には1反の田んぼが広がっている。「自分は1反の田んぼによって生かされている」「自分の命は1反の田んぼと直結している」ということが理解できればTPPでいくら安くて美味しいお米が輸入されても、日本人としての行動原理は自ずから明白になる。EU市民は創造神から教えられたが、日本人は暮らしの原点にある「1升枡」から気付くはずだ。

ゴミ減量の取り組みとして米袋は各自持参が原則で忘れたら有料になる。精米によって出た糠はビスケットにしたり畑の肥料にする。玄米仕入れ価格についてはお米が持続的に生産できるように設定し、玄米販売価格については誰からも高いという話は無い。私としてはこれが日本の究極的なTPP対策であり、やっと農地保全の意味が暮らしのなかで位置づけられ、商品経済の発想から脱却できると確信している。この取組は従来の産直ではなく離れている地域住民の協働活動を結びつける暮らしの取り組みなので「地域協働活動」と名付け、私の地域では「地域協働マルシェ」を毎月開催している。もちろん玄米だけでなく、ゴミ減量や防災に協力してくれる地域活動の取り組み品を増やしており、更にこのような活動に取り組む市民団体や自治会や店舗を増やしたいと思っている。

2015-12-11

韜光養晦

13:25

私はこの言葉が現在の中国の外交戦略の底辺に流れているということを最近読んだ本で知った。著者は石平で「なぜ中国は覇権の妄想をやめられないのか」というタイトルの本であった。この難しい漢字は「とうこうようかい」と読み、ウィキペデイアでは次のように紹介されている。

「韜光養晦」という言葉は、中国語の中でありふれた単語ではなく、中国の対外政策を形容するために用いられる以前は、多くの人に聞き慣れないものだった。辞書の中には「韜光」の本来の意味は名声や才覚を覆い隠すこと、「養晦」の本来の意味は隠居することと記されているが、一般には、爪を隠し、才能を覆い隠し、時期を待つ戦術を形容するために用いられてきた。韜光養晦とは、中華人民共和国の国際社会に対する態度を示す言葉であり、一般には小平の演説が根拠となっているとされる言葉である。

著者曰く、習近平のアジア外交が将にこの韜光養晦と決別し、アヘン戦争以前の中華秩序を回復しようとしている。それが南沙諸島問題であり、尖閣列島問題等に明確に現れている。中国の歴代王朝は秦の始皇帝以降、歴代の皇帝は国内統一とともに領土を拡張し、周辺諸国を朝貢させて冊封することによって中華秩序を維持してきた。それは漢人でない王朝においても同じであったが、アヘン戦争以降、その中華秩序は崩壊してしまった。更に日清戦争以降は中国に代わり日本がアジアの諸国に対して大東亜共栄圏という新秩序を打ち立てた。しかし日本の敗戦によりその新秩序は失われ、中国は共産党体制になったもののソ連の秩序に組み込まれてしまった。その後、ソ連の後退と平行してアメリカのアジア戦略が顕在化してニクソン毛沢東会談となり、中国は大きく舵を切った。毛沢東の後を受けた小平は中華秩序を再興するために自由経済を導入する政策を展開し、その状況のなかでこの「韜光養晦」という言葉が使われた。それまでは周辺国から何を言われても「隠忍自重」に徹し、経済発展を優先させて今や世界第2位の経済大国となった。習近平の登場は将に韜光養晦からの脱却を意味し、それは習近平の個人的な思いではなく、中国歴代王朝の中華秩序の復活を意味している。習近平は漢の武帝と同じ歴史的役割を果たそうとしており、それが中華文明の有物史観なのである。

このように考えると日本の外交政策はアメリカに付くか中国に付くかという二者択一の問題ではないことが分かる。安保法制の問題も中国を仮想敵国としているという説明ではなく、日本という国が生き残るためにはどのような外交政策をとらなければならないか国民的議論を巻き起こす必要がある問題である。この議論をするには戦前の大東亜戦争とは一体何か、東京裁判とは何だったのか、サンフランシスコ講和条約と日米安全保障条約は何故セットだったのか等、戦後70年の国民的歴史総括をしないと問題解決の方向性は見えて来ない。特に日本が占領時代に生まれた団塊の世代は、その教育のなかで戦前の思想を否定されて育ってきたので、もう一度、小学校時代に戻って自分のアイデンティティを再構築しなければならない。私は30年以上、独学してきたが、この年になってやっと本来の日本人が理解できるようになった。偏差値教育の弊害を自覚して、死ぬまでの人生を有効に活かして欲しいと思っている。