Hatena::ブログ(Diary)

BASC理事長 原耕造のブログ

2017-01-18

トランプと民主主義

15:23

今週末にアメリカの大統領就任式が行われる。世界の人たちが予想をしなかった人物が大統領になろうとしており、更に大統領に就任する前から様々な発言で世界に物議をかもしている。その発言の内容はさておき、トランプはツイッターという手法を駆使して相手を屈服させようとしている。私はツイッターをやっていないが、私の理解ではツイッターとは「モノローグ」であり、相手を非難する道具としては考えていなかった。自分の考え方を「つぶやき」それに同調する人が反応をするものと思っていた。もちろん一部では、そのモノローグを非難する人が多数おり、「炎上」したという話も聞いている。

私がここで疑問に思うことは「ツイッターは民主主義のルールとして認知されていない」ということである。日本人は西洋文明が作り出した「民主主義」というルールを普遍的なものだと思っているが、けっしてそうではない。そのルールの背景にはキリスト教とギリシァ哲学があり、イギリスとフランスとアメリカの市民革命によって今日の民主主義の骨格が出来上がったのだ。その民主主義のルールの基本である「議論」は日本人が思っている「話し合い」ではない。議論の前提として「ルール」が存在する。ルールが存在しない議論は不毛の議論であり、それは民主主義ではない。ツイッターはその民主主義のルールに照らしてみるとおかしいのではないかと思っている。それはツイートが議論ではなく、一方通行の主張であるからだ。更にツイートは私人の会話手法であり、「公人」の会話手法としては認知されていないからだ。

トランプのツィートは自分の考え方を一方的に公にしているだけで、大統領陣営の内部での議論はなされておらず、それは私人としてのトランプの「戯言」なのである。しかしその戯言も大統領に就任する予定の人間がツィートしている「戯言」なので世間の人たちを惑わしているのである。

言論の自由は守らなければならないが、自由とはその前提に規律規制があることを忘れてはならない。トランプはあまり民主主義の基本を理解していないようなので、大統領に就任する前まではあまり本気で相手にしないほうが良いと思う。金曜日の就任以降も同様のツィートをするようであれば、その行為は民主主義のルール違反として全世界が糾弾しなければならない。

2016-12-12

中央大学ボランティア学生を受け入れての感想

13:45

今回の企画は当センターとしても初めての試みだったのでどのようになるか殆ど予想できなかった。しかしセンターとしてはセンターの炊き出し食事会に学生が参加するという形で行ったので、学生受け入れに際しては特別な配慮はしなかった。センターの活動のありのままの姿を見てもらって、学生がどのように感じるのかという点に興味があった。

実際に受け入れてみて感じたことは、今の学生が非常に真面目て私たちの若い頃のような不真面目さが見当たらなかった。こんなに良い子だけだと将来が心配だなと思った。社会というものは良い子悪い子普通の子が存在することによって多様性が保たれるのであって、多様性や批判精神の無い社会は一度間違った方向を選択してしまうと、そのまま進んでしまい、社会としてのチェック機能が欠如してしまう。ワイマール憲法という素晴らしい民主主義の鏡を持ちながらドイツ人がナチに進んでしまった歴史が二重写しになる。

現代若者気質論は別にして、今回のツァーによって私はボランティアという活動に非常に興味を持った。私は地域活動を四半世紀以上しているが、自治会活動でもNPO活動でも自分たちの活動をボランティアとしてみることは無かった。その後、明星大で行われたボランティアのシンポジウムに参加した後で、私としてはボランティアについて本格的な考察活動をすることにしたので、今回の受け入れはそのきっかけになった。

今回のバスツァーの募集にも記載されていたが、公務員になるための研修ツァーとは一体何を考えているのか私には理解出来なかった。ボランティアという活動の原則から見ると非常に邪道では無いかというのが私の感想である。しかし学生を集めるためにはこのようなフレーズが必要なのかなという状況も理解できた。参加した学生のアンケートをみると、総ての参加者が公務員志望の動機からでは無いことが分かり安心もした。しかしボランティアに参加する動機がなかなか明確にならず、更にボランティアを受け入れる団体そのものの動機の分析もされていないことが分かった。私の交流センターで学生を受け入れている理由は、あくまでも学生の主体的な勉強の場の提供であり、場の提供だけでなく交流センターの活動の社会的背景や活動が地域に与えている影響等について教材として提供している。最初のうちは指示待ちの活動であったが、現在では自分で判断して動き、企画の段階から提案をするようになっている。彼らは交流センターで学んだことを今後の自分たちの地域の活動に役立てることは間違いない。一方、まちづくり市民フェアにおけるボランティアの受け入れはその目的の殆どが無償労働であり、参加している市民団体の意識のなかに学生ボランティアは位置づけられていなかったように思う。私自身も市民フェアに参加して長いが、ボランティア学生を意識した企画は立ててこなかった。今回の発表会が初めてであり、本来は受け入れ団体が主体的に学生の感想を聞かなければならない場であったが、残念ながらそうならなかった。私が収穫祭の後に意見交換会を企画したのは、その反省からである。

このようにボランティア活動は様々なされているが、その参加動機と受け入れ動機が明確でなく、それぞれの勝手な思い込みによってなされているのが実態である。その結果、災害ボランティアにおいてミスマッチやギャップが生じたりしている。ボランティアセンターの業務も無償労働のハローワークのようになってしまい、本来の参加意志と受け入れ意志の確認を怠っているように見えるのは私だけだろうか。

ボランティアの考察活動をしているうちに、この活動を社会的にきちんと位置づけをしていくことの大切さを痛感している。まだ考察途中なので論理的整合性は無いが、ボランティアの活動原則と現代社会の課題との関係性及び課題解決による次世代社会の創造の可能性について簡単に記す。

ボランティア活動の原則としては「主体性」「連帯性」「無償性」「創造性」があげられている。

働くことの主体性とは何処に就職するかではなく、何処の会社でも社会との接点はあるので、その接点を通じて自分の労働と社会との関係性を理解すれば、仕事はやらされているのではなく主体的にしているということが理解できる。労働と社会との関係性とは「本来の労働が自然を加工して使用価値を生む」という原則に立ち返り、会社と自然との関係性を追求していけば自分の労働が自然とどのような位置関係にあるのが分かる。せせらぎ農園等の活動を通じて自分の労働と自然との関係性が分かれば、働くことの主体性を回復できる。

働くことの連帯性とは、賃金労働以前の租庸調のような賦役や地域共同農作業労働に見られるように人間の労働とは本来、共同作業であった。家内制手工業の時代の労働であれば徒弟制度の下で最初から最後まで一人の人間の労働で商品が作られていた。その後の産業革命による工場制労働によって労働が細分化され、大量生産によって更に分業化が進み人間の歯車化が促進された。このような環境が会社だけではなく地域社会の連帯も崩壊させた。これらの細分化された仕事や地域から連帯制を回復する活動の一つとして交流センターや自治会の活動がある。

働くことの創造性とは、現在の社会における資本の論理から抜け出すことである。労働における効率性や経済性、安定性等の指標は産業ロボットに取って代わられようとしている。更に知的労働の分野においてもコンピューターが代替できそうになっている。そのような時代における労働とは何かを考えると、もはやそこには労働生産性等の数字の世界では無くなる。このことを無償労働と一緒に考え、新しい労働のあり方を模索する時代に来たようだ。

無償労働とは先進国における概念であって豊かな社会の象徴であり、社会保障制度が充実していない国の無償労働は苦役である。現在、ヨーロッパで検討されている所得補償制度が完成した暁には賃金労働が社会から無くなり無償労働だけの世界になるかもしれない。マルクスの「労働が賃金を生む」という世界は過去のものになるだろう。しかし現在の社会では賃金のために過酷な労働を強いられ、電通の社員自殺のような社会問題となっている。その原因はマルクスの資本論の原則をそのまま受け入れているからであって、労働は賃金を生むためだけに存在しているのでは無いことにきがつかなければならない。産業革命を境にして賃金労働が一つの商品となってしまったが、労働は商品では無い。本来の労働とは自然を加工して使用価値を生み、更にその使用価値によって多くの人達に豊かさをもたらすものであった。労働とすれば辛い田植えや刈り取りは昔から共同労働であり、そこには歌があった。つまり労働は賃金以前に共通の「心」を生んでいた。心の失われた労働は孤立を生み自殺を生む。バブル崩壊以前の日本の会社組織はその家族主義のなかに「心」があり、終身雇用、年功序列賃金等の仕組みがあった。この仕組によって日本は経済成長をしてきたが、構造改革以降、日本の会社は経営優先主義の欧米型経営に転換してしまった。もしかしたら学生ボランティアの無償労働は若者による新たな労働価値を模索する萌芽ではないかと思っている。この部分を深く掘り下げていくと若者世代の将来像の展望が切り開けるかもしれない。私が学生に研究会を勧めている所以である。

今回のバスツァーによって私が刺激され、このような活動をしようと思っていることはツァーの成果ではないだろうか。このように学生だけに焦点を充てるのではなく、様々な方面に議論を巻き起こすのがボランティア活動ではないだろうか。今後は学生と受入先の双方から体験に基づく意見交換会を企画し、その活動の輪を広げていくと新しい日本の若者による価値社会が創造されていくのではないかと期待している。

都市農業基本法では都市農地の減少を止められない」

13:44

平成27年に成立した都市農業振興基本法に基づき都市農業振興基本計画が定められたが、この計画では都市農地の減少に歯止めをかけることはできない。何故ならば、この法律の目的は読んで字のごとく「都市農業の振興」であって、「都市農地の保全」ではないからである。この法律は議員立法により作られた法律であるが、内容としては農林水産省が定める産業政策であり、国土交通省が定める国土政策でもなければ、環境省が定める環境政策でも無い。

法律には「都市農業振興基本計画」は、都市農業振興基本法(平成27年法律第14号)に基づき、都市農業の振興に関する施策についての基本的な方針、都市農業の振興に関し政府が総合的かつ計画的に講ずべき施策等について定める計画であると書かれている。更に、都市農業の振興に当たっては、「都市農業の多様な機能の発揮」を中心的な政策課題に据え、都市農業振興に関する新たな施策の方向性として、(1)都市農業の担い手の確保、(2)都市農業の用に供する土地の確保、(3)農業振興施策の本格展開、の3つを掲げている。

果たして非農家都市住民は都市農業の振興を望んでいるのだろうか。意欲のある都市農家は間違いなく都市農業の振興を望んでいるが、非農家都市住民が望んでいることは都市農地の減少を食い止めることではないだろうか。それは非農家都市住民の都市農地に対する見方が大きく変化してきたことに由来する。農地といえばすぐに食料生産基盤を思い浮かべるが、その機能は時代により大きく変わってきている。別表にもある通り、都市農地は戦後その機能を大きく変化させてきている。終戦直後は日本全体が食糧不足であり、都市農地といえども食料生産に対する期待は大きかったことが伺われる。しかし昭和36年の農業基本法制定の頃は日本全体が高度経済成長期に入り始め、農村から都市への人口流入が本格的に始まった。その結果、都市農地は食料生産への期待よりも宅地需要を満たす期待が大きくなったのだ。その後、高度経済成長により都市への人口流入が本格化し、宅地不足が深刻化したために昭和46年に都市計画法が制定された。将に市街化区域内の都市農地はそれまでの食料生産機能から宅地供給機能へとその価値を大きく転換したのだ。市街化を促進する区域に編入された農地はその所有者たる農家の意向とは関係なく次々に宅地化されていき、最後にはそこに住むことさえもできなくなった。あたかもアメリカの西部開拓時代に自分の土地に住めなくなったインディアンと同じである。更に固定資産税や相続税によって市街化区域内の都市農地での農業継続が困難となり、主要な農家はアパート経営等の資産管理事業をしながら都市農業を継続していた。

このような状況にも拘らずバブル景気により地価が高騰した際に、その原因は都市農家が農地を宅地化しないからだという仮説のもとに平成4年に改正生産緑地法が制定された。都市農家は宅地化か終生営農かの選択を迫られ、憲法で保障された「職業選択の自由」を結果として奪われたのだ。実は土地バブルの原因は都市農地ではなかったと言われており、それは別表の平成11年に宅地機能が大きく減少していることからも分かる。

土地バブルの時代の平成2年に市民農園法が制定され、農地は食料生産機能と宅地供給機能の他に「公共的機能」があることが認知された。この頃から農地全般に渡って多面的機能の議論が一般的になり、OECDでは農業環境指標が検討され、平成4年にリオデジャネイロでは地球環境サミットが行われ、同年EUでは農業に対する環境直接支払いが行われるようになった。しかし日本では農業の多面的機能論は語られるものの、その多面的機能の保全者が農家であることの認識が欠如している。その結果、環境直接支払い政策は農家へのバラマキ政策としてしか認知されず、世界の農業政策からは大きく遅れを取ることになってしまった。その結果、TPP締結に当たってガットウルグァイラウンド当時と同じ議論が繰り返されている。更に現在では耕作放棄地が40万haになっているにも拘らず、国民は国土に対する危機管理意識は全く無いのが実情だ。

これまでの農地の議論は目的を実現するための手法であった。人口増加に対処するための食料生産を目的とするため原生自然を加工し、そこに造成した農地が存在した。宅地供給を目的とするために農地を宅地転換し、そこに宅地造成した土地が存在した。しかし公共機能としての農地は手法ではなく、そこの農地から様々な公共的活動が創造されることを意味する。その公共的活動とは多様であり、これまでは市民農園や景観としての緑地機能等が議論されてきたが、現在では健康を増進させる農作業活動、福祉、介護、防犯、防災、観光、保育、子育て、教育、環境、文化、地域協働等、地域に住む市民の暮らしを豊かにするキーワードがそこには隠されている。そこで都市農地を議論する場合には従来の農業という産業政策として議論するのではなく、農地を拠点とした地域振興施策として検討することが求められている。つまり都市農家を対象とする農業振興施策や相続税金対策を議論するのではなく、都市農地周辺に住んでいる非農家都市住民が農地をどのように地域の暮らしのなかに位置づけるかの議論が優先されなければならない。市街化区域内の都市農地は既に農産物生産機能や宅地供給機能が求められているのではなく、地域の風土と文化と歴史を育む新たなコモンズ空間としての機能が求められている。

コモンズ空間の議論で一番大切なことは、その空間において農家も含む地域住民がどのような活動をするのかの合意形成が大事であり、その合意されたことに対して地域住民全体がどのように責任を持つのかを意味する。これまでは縦割り社会のなかで地域を意識しないで暮らしが成り立っていたが、これからはコモンズ空間の利用と活用のなかで否応なく横割り社会を意識した暮らしに転換せざるを得ない。既に私たちの地域では別表のように農地の活用を巡って様々な議論が展開されており、議論だけではなく様々な取り組みが展開されている。しかし非農家都市住民の動きとは別に都市農地を所有している農家の間では区画整理事業が進行している。非農家都市住民は農地に対する権利を有しないので、区画整理事業等の話は関係者だけで進められる。それらの動きに対する地域住民への情報開示は関係者では無いということで開示がされない。

ここでもう一度、都市農地は一体誰のものかを考えてみたい。これまでは憲法29条の私有財産制度の保障によって都市農地は農家の財産として保護されてきた。しかし食糧生産の確保という視点から農地法によってその売買は制限されてきた。実はその制限こそが「公共の福祉」という概念であり、憲法29条に明記されている。この公共の福祉とは「自由国家的公共の福祉」と「社会国家的公共の福祉」の2つがある。自由国家的公共の福祉というのは,災害等を防ぐために土地の利用方法を制限することで、国民の生命や身体,財産が危険にさらされることを防ぐために,財産権が制限される。 社会国家的公共の福祉というのは、環境保護のために土地や建物の使用を制限することで、条例によって玄関前に花を植えなければならないといった制約が課されることがある。このような制約は誰かに危害を加えることを防ぐための制約とは違って,住民がより住みやすい環境を享受するための制約といえる。自由国家的公共の福祉による制約は国民にマイナスが生じることを防ぐためで,社会国家的公共の福祉による制約は国民にプラスの効果をもたらすための制約なのだ。この考え方を都市農地に当てはめてみると、これ以上の宅地化を進めることは地域の防災や子育て、保育、教育、健康にとってマイナスが生ずる可能性があるので自由国家的公共の福祉に反することとなる。更に地域の農地保全は環境、福祉、介護、防犯、観光、文化等にプラスの効果をもたらすので社会国家的公共の福祉による制約となる。ともにどちらの公共の福祉の面から見ても都市農地を保全するための制約は憲法29条の農家の財産権の侵害には該当しないと思われる。

このような考え方を地域住民全体で理解することがコモンズ空間としての農地を意識する始めの一歩なのではないだろうか。歴史ではコモンズという概念はイギリスの囲い込みで学ぶが、羊がイギリスのコモンズ空間を侵食し、ノーフォーク革命による農業の大規模化が更にコモンズ空間を侵食したと書いてある。今回のコモンズ空間の議論は公共用地としての空間を地域住民が創造する「地域住民によるコモンズ空間の逆囲い込み」ではないかと思っている。

2016-06-15

都市農地減少の原因

14:56

都市農地を巡る情勢は大きく変化しようとしているが、私は根本的な原因にメスを入れないかぎり農地減少に歯止めはかからないと思う。根本的原因とは3つあり‥垰塲清鳩弍弔虜了酸の低さ高額な都市農地の相続税私有財産の処分権限である。

都市農業経営の採算性

都市農業だけでなく現在の日本では農業経営だけではなかなか採算が取れない。その結果、全国では耕作放棄地が増加し、今や40万haを超えている。しかし日本国民の殆どはTPPによって海外から安くて安全な農産物が輸入されれば良いと考えている。日本の消費者は農産物の向こう側の農地に関しては殆ど関心が無い。その結果、日本の農業経営は採算が取れず、兼業農家になることによって糊口を凌いている。都市農地を生産基盤とする都市農業は消費地に近いという利点はあるものの固定資産税や都市計画税等の負担が重く、殆どの農家はアパート経営と兼業することにより農業を続けている。そこには都市農業の産業としての将来展望は描けず、家族農業としての担い手は存在しない。

高額な相続税

このような状況のなかで都市農業の経営者に相続が発生すると、農業経営の存続よりも先に相続税の支払いを優先して考える。もし農業経営の存続を考えた場合は相続税の納税猶予措置があるので現在の法体系の仕組みでも何とかなる。しかし農家の自宅敷地は農地ではないので高額な相続税の支払いは免れない。農業の作業場としての農家の敷地に対して、一般の宅地と同様の相続税や固定資産税を課すのが現在の法体系である。

私有財産の処分権限

農地の所有権は農家が持っている。国民の私的財産は憲法29条で保障されているが、公共の福祉に反しない限り処分は自由である。都市農地に関しても同様であり、農業委員会の許可を得れば農地としても宅地転用して宅地としても売却は可能となる。その結果、周辺住民の知らないところで区画整理事業が行われ農地は減少を続けるのである。区画整理事業は該当する区域の土地権利者の同意があれば認可され、周辺住民に多大な迷惑をかけないかぎり一方的に進められる。

根本的原因の概要はこの3つであり、農家は自分一人で悩んでも解決策は無く周辺住民との連携など考えもつかない。更に都市農地の存続を願う周辺住民はこの3つの要因の外側に置かれており、いくら開発反対運動をしても相手にされない。行政も地域住民の要望は聴くものの、法律の壁を盾に何もしない。昨年、都市農業振興基本法ができたが3つの根本的原因に対処する法体系の整備はできていない。特にの私有財産の処分権限については全く触れられておらず、このままでは何も変わらない。

2016-06-10

格差社会

15:31

アメリカの大統領選挙でトランプが躍進を続けている理由として、現在のアメリカでは格差を生んでいる社会構造に不満を持つ人が多く、その殆どの人たちが既存の価値観をぶち壊す可能性をトランプに期待しているという報道がされている。日本でもアベノミクスに期待はしてみたものの格差は広がるばかりで出口が見えない状況だと言われている。ここで格差といわれているものとは一体何なのか考えてみたい。

格差という言葉はその言葉の前に様々な言葉を付けて言われている。現在は経済格差、所得格差、地域格差等が言われているが、人種や民族、学歴等は差別という言葉の前に付けられており、格差と差別の違いについて考えてみたい。

差別とは自分が価値観を転換すれば乗り越えられる道徳問題であるが、格差は自分が努力しても乗り越えられない社会構造問題ではないだろうか。現在、起きているヘイトスピーチ問題も半島の人間を差別することによって自分の溜飲を下げているだけである。日本列島の文化が半島経由で来たのか、大陸から直接来たのか、それによって国の文化の優位性が測れるものではない。人が行き来すれば様々な文化も行き来し、それが混ざり合ってその国独自の文明となる。従って文明に格差は無く、半島と列島の文化の比較のなかで自国の優位性を主張するヘイトスピーチは自分たちの道徳観のレベルの低さを内外に示しているだけである。

差別は個人の道徳観に起因するものであるが、格差は何処から生ずるのか。社会構造としての格差を人間が意識したのは、多分キリスト教と産業革命ではないだろうか。キリスト教はユダヤ教ナザレ派の流れを汲むものであるが、民族を超えた普遍的宗教となる過程でヤハベ以外の神は神とは認められなくなった。つまりヤハベとキリスト以外の神は神として認めず、そこには身分社会としての大きな格差が生ずるようになった。ローマカトリック協会はこの身分格差構造社会をつくり上げることによって、地域社会の人的管理システムを構築したのである。

一方、身分格差とは別に経済格差は産業革命以前には殆ど存在しなかった。何故ならば身分制社会の頂点にいる王や僧侶や貴族は非常に少数であり、商人を除く一般大衆はその経済格差を意識することがなかった。一般大衆とは殆どが農家であり、その生活に格差は無く、皆貧しかったのである。しかしノーフォーク革命により農村人口に余剰が生じ、都市へ流入して産業革命へと移行するのであるが産業革命前と後では何が違ったのか。それは革命前と較べて革命後は社会全体の富が著しく増大し、その富の蓄積と配分によって経済格差が生じたのである。産業革命によって従来は貴族層しか味わえなかったようなことが一般大衆も可能となったのである。ノーフォーク革命によって畜産動物の通年飼育が可能となり、従来は富裕層しか食べられなかった肉食が一般家庭でも食べられるようになったのだ。皆が貧乏でいる時代は貧乏を意識することが無かったが、社会全体が豊かになるとその豊かさのレベルに差が生じ、それを意識することによって格差が生じるのだ。

日本も高度経済成長の時代は冷蔵庫、テレビ、洗濯機などが家庭に普及し一億総中流と呼ばれ、あまり格差を意識することはなかった。しかしバブル崩壊以降はデフレが進行し、経済が停滞するなかで資産格差が顕在化し、今日に至っている。アベノミクスはもう一度経済成長をすることによって格差解消を目指すものであるが成功しているとは言えない。サミットで世界経済の危機を訴えて財政出動に対する大義名分を得ようとしたが失敗している。

私はここでもう一度自分たちの暮らしを考えなおす時期にきているのではないかと思う。暮らしの豊かさを考える時に、私は1980年代のヨーロッパの暮らしを思い出す。当時の日本はバブルの真っ最中でアメリカに追いつき追い越せという状況で、ヨーロッパは没落のヨーロッパと日本では呼ばれていた。そんな思いでヨーロッパに赴任してみて驚いたことは、彼らの暮らし方であった。日本のように便利さだけを追求するのではなく、従来からの暮らしを大切にし軽佻浮薄なところは殆ど見られなかった。電磁レンジの普及率は5%以下であり、何故普及しないのか尋ねると必要がないからだと応える。隣が買っても隣は隣、自分の暮らし方に自信を持っているのだ。そこには古くからの身分格差はあるものの経済格差はあまり感じられず、多分それが高福祉国家へ移行する前提としての社会状況だったのだと思われる。

日本人も自分たちの暮らしの足元を見つめなおし、豊かな暮らしの本質を見極める時ではないだろうか。豊かな暮らしは高度成長以前の時代のように政治家が実現するものではなく、私たちの暮らしの哲学を私たち自身がつくり上げることによって実現するのではないだろうか。

2016-05-25

原爆被害者への謝罪

13:53

伊勢志摩サミット後にオバマ大統領が広島を訪問するにあたり、アメリカ人の半数が原爆投下は正当であり原爆被害者に謝罪する必要はないと思っているという報道に対して日本人の殆どは違和感を持っている。しかしこの違和感の原因は何であるかについて解説している人はいない。

原爆投下の正当性を主張するアメリカ人は「パールハーバーを思い出せ」という合言葉を使っている。日本から売られた喧嘩を買い、その仕返しが原爆投下だという論理である。だからそこにはアメリカが謝罪をする理由が存在しない。日本人の殆どはその論理構成に対して何となく納得してしまい反論ができないでいる。反論のなかでは、原爆投下は非人道的であるとの主張はしているもののアメリカ人を納得させる論理構成にはなっていない。どうしてこうなっているかというと、日本人がアメリカ人の考え方の根底部分を理解していないからだ。

リメンバーパールハーバーの論理は「目には目を、歯に歯を」というハムラビ法典に由来する考え方であり、それはユダヤ教、キリスト教、イスラム教の宗教規範に影響を及ぼしてきた。しかし「目には目を、歯には歯を」の考え方は、そもそも、同害報復を要請するものではなく、無限な報復を禁じ同害程度までの報復に制限するという趣旨なのだ。ところが、ユダヤ教やイスラム教では同害報復を要請するようになり、一方、キリスト教では「赦す」ということに重点を起き、「右の頬を打たれたら左の頬を差し出せ」という規範が聖書のローマ人への手紙のなかに示されている。アメリカという国は歴史で習ったようにメイフラワー号に乗ったビルグリムファーザーズが興した国であり、国民の半数近くがプロテスタントであり、カソリックも含めて国民の8割近くがキリスト教徒である。そのキリスト教では同害報復を認めていないのに、何故、同害報復を要請するパールハーバーの論理が正当性を持つのだろうか。アメリカに一撃を与えた日本を赦すことが出来れば、キリスト教徒としての罪の贖いも可能なはずなのだが。

更に同害報復という視点でとらえた場合、パールハーバー襲撃と原爆投下では無差別殺人という点で同害では無く、更に、広島の後に長崎まで原爆を投下することは過剰報復ではないのだろうか。日本の同害報復は仇討という形で行われるが、赤穂浪士も曽我兄弟も決して過剰報復ではない。

日本政府はオバマ大統領に謝罪を求めないと言っているが、それでは原爆被害者に対しても失礼なのではないだろうか。オバマが気にしているアメリカ国内のリメンバーパールハーバーを主張する国民に原爆問題の考え方に対して問題提議をするのが日本政府の仕事であり、オバマのプラハ演説に対する日本としての行動なのではないだろうか。広島や長崎の原爆被害者もアメリカに謝罪を求めているのではなく、アメリカ人に自分の信仰の根底にあるものに気づいてもらい、ともに同害報復の無い世界を目指すことである。