Hatena::ブログ(Diary)

BASC理事長 原耕造のブログ

2015-06-19

戦争犯罪人 安倍晋三

15:20

現在、安保法案が国会で審議されているが、憲法違反かどうかの前に安倍総理本人は東京裁判をしっかりと読んで分析しているのだろうか。砂川事件の最高裁判決を無理やり引用しているが、本人は数年後に戦争犯罪人として処刑されることを覚悟して今国会に臨んでいるかどうか聞いてみたい。

東京裁判では開戦の本当の責任者は誰かということが問われたわけだが、永野修身と嶋田源太郎の弁護を担当したブラナンはこんなことを言っている。

満州事変の勃発から太平洋戦争終了までのわずか14年たらずの間に日本では、13人もの首相、30人の外相、28人の内相、19人の陸相、15人の海相、23人の蔵相が生まれた。これらのことは太平洋戦争開戦の共同計画または共同謀議の確証では無く、指導力の欠如ではないか。

同じ期間でイギリスの首相は5人、アメリカの大統領は3人、ドイツの首相(総統)は5人、ヒトラーやムッソリーニは指導者としてその責任において戦争に突入したのである。

国家の運命を賭した危機のなかで、日本の指導者がこれほど頻繁に交代したのは、要するに、彼らがその時その時のムード的多数意志の代弁者に過ぎなかったからだ。いわば彼らはロボットであり、ムード的多数意志とのあいだに少しでも距離ができれば、彼らの存在理由が無くなり、次の指導者にバトンタッチしなければならなかった。したがって太平洋戦争開戦の責任者を強いて探すとすれば、とらえどころのない、当時の日本の好戦ムードしかない。

今回の安保法案では戦争に巻き込まれる公算が非常に高いと言われている。ここで安保法案が可決されて数年後に日本が戦争に巻き込まれ、その開戦責任を問う裁判が行われると想定してみよう。開戦責任は間違いなく安倍首相であり、高村副総裁であり、中谷防衛大臣である。大多数の日本国民と憲法学者が反対といっているにもかかわらず、多数決の理論を持って法案を成立させようとしている確信犯なのである。

多数決ならどんなことでも出来るという立場を固めてしまい、その結果、少数良識派の存在理由はなくなり、日本全体がその場限りのムード的な多数意志引きずられて太平洋戦争に突入した。現在の日本全体の多数意志は安保法案には消極的であるが、アベノミクスの信任だけを争点とした選挙で多数を獲得した安倍首相は安保法案に対する信任に問題をすり替えて、多数決という民主主義の形だけを利用している。

祖父の岸信介も戦争犯罪人であったが自国防衛以外の戦争は憲法違反だといっていた。歴史に学ばない安倍首相に対しては、国民の理性を総動員して安倍首相に戦争犯罪人の覚悟を問うしか方法がない。

2015-06-04 輪廻転生

ギリシャ哲学を勉強していると、ギリシ哲学は輪廻転生の考え方だとかいてあり驚いた。何だ、ギリシャ哲学は仏教とつながっていたのか、と短絡的におもっていたら大間違いであった。ギリシャの哲学者ヘラクレイトスの万物流転の考え方も私たちの考える仏教的なものとは異なっている。ギリシャ哲学はその後、キリスト教神学に取り入れられ、輪廻転生とは死んでも最後の審判にまで到達しないことを意味しているようだ。つまり死んだあとに迎える最後の審判までの間、その人の魂はダンテの神曲の世界に行くのではなく、魂は様々な生きものの間を転生するという意味のようである。カフカの「変身」ではある朝目覚めると巨大な虫になっていた男と、その家族の顛末が描かれているが、その男は死んだ後に虫になったかどうかは書いていない。

私たちの考える輪廻転生は三島由紀夫の「豊饒の海」に書かれているように、魂は不滅で様々な時代に様々な人の身体に入り込むものと考えている。だからダライラマに選ばれた少年が前世を覚えているといっても、そんなに違和感は生じない。更に自分の魂が虫になったとしてもそれを拒否するものではなく、山川草木悉皆成仏ではないが、私たちには人間と他の生きものを別のものとする考え方はあまり無い。

漢字4文字の輪廻転生ではあるが、これほど西洋文明と日本の文明は異なっている。西洋の輪廻転生は人間だけを対象にした直線的感覚であり、最終目的地は最後の審判とキリストとともに復活することにある。私たちの輪廻転生は総ての生きものを対象にした回転的感覚であり、最終目的地は無い。現世で死んでも魂は西方浄土へ行き、更にその魂は来世でまた生まれ変わり、それを永遠に繰り返すのである。

ここで私はどちらの輪廻転生が良いかを論じるつもりはない。それより来世の世の中を規定するのが現世であることを問題にしたい。私たちの現世で財政問題を片付けなければ、間違いなく来世に生きる魂が入った自分は国家財政破綻のなかで生活する可能性がある。私たちの現世で集団的自衛権を拡大解釈する安保法制が成立すると、来世に生まれ変わった魂が入った自分は徴兵されて死ぬ可能性がある。来世に生きている自分は自分の魂の前世が分からないので、自分たちの不幸の原因を作ったのが自分自身であることが分からない。因果応報とか因果律とはこのようなことではないだろうか。自分の魂の行き先に責任を持とうとするのであれば、現世の自分の魂に課せられた責任は重大であるし、その行動の結果は来世の自分の魂がとることとなる。

自分は死んだら無になるといっても、死んだ後のことは誰も知らないし、その時に前世の自分の反省をしても間に合わないのである。

2015-04-20

Amazing grace

14:13

最近は宗教と哲学の本を読みあさっている。新約聖書も少しずつではあるが毎日読んでいる。そんな生活をするうちに、自分の周りで様々な発見をするようになった。その一つがこの歌である。今までは単に賛美歌のうちの一つかなとか本田美奈子が歌っていた程度の認識であった。ここに歌詞の1番を英語で書いてみる。

Amazing grace! How sweet the sound!

That saved a wretch like me!

I once was lost, but now I am found;

Was blind, but now I see.

この歌詞に書かれている” wretch”という単語の意味と背景を知り、この歌が世界中で歌われている理由が分かった。Wretchという単語を辞書でひくと、「不運な人、悪いやつ」と書かれている。歌詞を直訳すると「神はわたしのような悪いやつでも救ってくれた」神様はなんて慈悲深い方なんだと思うのが普通の日本人である。しかしこの作詞をしたニュートンは信仰心があまりない奴隷貿易船の船長であったこと。アフリカから奴隷をアメリカに運ぶ途中、大嵐に遭遇し、絶体絶命になったこと。その時に神様に必死に祈ったこと。アメリカに到着後、しばらくしてから奴隷貿易の仕事を辞めて牧師になったこと。その時にこの歌詞を作ったこと。Wretchという言葉はわたしのような悪い奴隷商人でも神様は救ってくれたという意味なのだ。

ここで状況を日本人に当てはめてみると、どんな話になるだろう。海が荒れるのは海神様(ワタツミ)が暴れているからで、子供かお姫様を人身御供として海神様に差し出して鎮めてもらうという話になる。私たちの海神様は自然の神様であり、ギリシャ神話ではポセイドンである。自然神はその自然の多様性により様々に存在するので多神教と呼ばれ、キリスト教の神ヤハヴェは人格神であり、唯一の神であり、自然界を創造した神である。海神様もポセイドンもヤハヴェも困った時に頼む神様なのだが、どうも違うようだ。日本人は絶対神とか創造神という概念をなかなか理解できないと言われているが、何が理解できないであろう。私は神様との契約の概念にあるのではないかと思う。その契約も双務契約ではなく、一方的な片務契約なのだ。この片務契約が「絶対」の概念であり、アブラハムは旅に出ろという一方的な神からの預言を受け、更に息子のイサクを生贄に出せという一方的な神からの預言を受け、そこには拒否する余地が無い。いわゆる拒否権のない契約であり、それがキリスト教信仰(旧約聖書)の基礎になっている。ヨブ記に出てくる神はヨブが罪を犯していないと訴えても答えず、神に論争をふっかけるのかと言って一蹴してしまう。日本の神様にはこのような無慈悲な神様はおらず、いたとしても日本人は誰も信じないであろう。しかしヨブは子どもも財産も失っても神への信仰を失わず、最後の最後になってやっと神はヨブを救うのである。

何故このような神になったのかの背景はユダヤ人社会の歴史的変遷にある。ユダヤ人の連戦連敗と民族離散の歴史のなかで、ヤハヴェの神はユダヤ人だけの神ではなく世界を支配する唯一の神となったことを理解しなければならない。自然神はそれぞれの文明の地域における気候と風土を背景にして成立しているので、属地的属人的な性格を持っている。和辻哲郎の文明風土論に民族としての歴史を加えないと唯一絶対の創造神は理解できない。日本の神様はニュートン船長のような悪人でも救ってくれる。親鸞の悪人正機説などは更にそのうえを行く仏様の慈悲の深さを物語っている。そこには神様と仏様との契約は無い。私たちの現在の社会はこのような絶対神を背景にしたキリスト教社会が作ってきた西欧的価値観の中にある。私たち日本人のDNAにある価値構造と絶対神を背景とした西欧的価値構造とのギャップが今、顕在化しているのではないだろうか。

2015-04-01 哲学と宗教

哲学といえばギリシャ。誰もが知っていることだが、何故、ギリシャで哲学が起こったのか最近まで知らなかった。理由は簡単であった。ギリシャは海洋都市国家で繁栄し、地中海沿岸の様々な国と交易をしていた。交易をするうちに自分たちが信じているオリンポスの神々の神話が普遍的で無いことを知った。つまりエジプトやメソポタミアにはそれぞれの神話があり、それぞれの神話はギリシャ神話と同様に太陽や月、山や海等の自然を創造し、愛や戦い、豊穣や多産の神々がいることを知ったのだ。それまでは自分たちのギリシャ神話だけを信じてきたが、真実は違うのではないかという疑問を持つようになった。「哲学とは疑うことであり、宗教とは信じることである」という言葉通りである。

その疑う哲学は宗教と全く関係ないと思っていたら、それも大間違いであった。プラトンの著書「ティマイオス」に「デミウルゴス」という世界の創造者が登場するのだ。それはイデア世界とは対極の物質的世界の存在を説明する為に、イデア世界を真似してデミウルゴスがこの物質世界を創造したという神話である。プラトンは「本当に実在するのはイデアであって、我々が肉体的に感覚している対象や世界というのはあくまでイデアの《似像》にすぎない」という私には理解出来ないことを言っている。どうもイデア論とは魂が存在する精神世界のことであり、その精神世界が優先することを説明するためにデミウルゴスがいる物質世界の説明をしたようだ。

デミウルゴスはユダヤ教のヤハヴェそのものであり、万物の創造主であり、国土や自然を作ってきた。そこで創造主はどのようにして国土や自然を作ってきたのか。実はその背景には哲学があり、万物の根源アルケーを説いたアナクシマンドロスピタゴラスの定理や輪廻転生を説いたピタゴラスが存在し、哲学とは数学や自然学の総称なのだ。つまりヤハヴェは日本のイザナミ・イザナギのように天の橋にたち矛で混沌をかき混ぜ島をつくるのではなく、コンパスを持って万物を創造したのである。そのヤハヴェのコンパスの使い方を知ることが自然学であり、創造主の方程式を解く作業が自然科学なのだ。プラトンの弟子であったアリストテレスがイデア論を否定して、物質世界をその形相(カタチ)と質料(原材料)が不可分に結合した「個物」こそが基本的実在であると説き、自然学の祖と言われた。更に、人間や動物には形相が無いが、人間を人間たらしめているのが「霊魂」だという。ここまで来ると頭が混乱してくるが、ギリシャ哲学に輪廻転生や霊魂という考え方があることを知った。

これらの哲学の流れを追ってゆくと旧約聖書とキリスト教神学に行き着くことが分かった。旧約聖書はメソポタミア文明にいたアブラハムから始まるが、ユーフラテス川の氾濫がノアの方舟の話になり、ユダヤ教の律法となるモーゼの十戒はエジプト文明からの脱出であり、ヘレニズム文明がヤハヴェの万物創造に哲学という科学的性格を加え、更にバビロンの捕囚時代にユダヤ人の選民思想が生まれた。そのユダヤ人だけを救う救世主(メシア)思想を変えたのがキリストであり、復活によって救世主であることを証明した。更にギリシャ人であるパウロがギリシャ語で新約聖書を書き、キリストがユダヤ人だけでなく万民を救うことをローマ帝国に広めた。

その後、キリスト教がローマ帝国内に広がってゆくためには、キリストが人間なのか神なのかの論理的整理が必要となり、在来の自然神との関係性の理論的整理も必要となった。そこに初めてキリスト教神学という哲学が起こり、アリストテレスの影響を受けたアウグスティヌスやトマスアクイナスがその後の世界に大きな影響を与えた。例えば神学大全を書いたトマスは、神の摂理が世界を支配しているという神学的な前提から「永久法の観念」を導きだし、そこから理性的被造物である人間が永久法を「分有」することによって把握する「自然法」を導き出し、その上で、人間社会の秩序付けるために必要なものとして、人間の一時的な便宜のために制定される「人定法」と神から啓示によって与えられた「神定法」という二つの観念を導きだした。私たち日本人が議論している憲法論議では「人定法」の議論だけであり、その憲法を定めたのが外国人だからけしからんという話である。憲法に定められた「平和」は「人定法」ではなく「自然法」であり、更に「永久法の観念」なのだ。残念ながら自然法の議論は国会では聞かれない。

このように現在の世界の価値観を規定している西洋文明の背景には哲学と宗教が存在していることを日本人は忘れている。私たちは学校で受験知識としてだけ学んできたが、内容は全く理解していない。私は今になってやっとヨーロッパで生活していた時の様々な彼らの行動様式に対する疑問が溶け始めた。そして私たち日本人が「信じてきたもの」とは一体何か、日本に哲学が生まれなかった気候と風土と地理的条件を見つめ直す必要があると感じている。私はここで日本に哲学が存在しなくて残念だと言っているのではない。哲学の基本である「疑うこと」をしなくても生きていけた日本という国の素晴らしさを認識しようというのである。そうした文明比較の中でもう一度、西洋文明が作り出した「民主主義の仕組み」の歴史と目的を認識し、それを日本の歴史と風土に照らして新たに作りなおすことが、現在の日本人の使命ではないだろうか。

2015-03-23 信仰と理性

最近、キリスト教に関するブログを書いているが別に頭がおかしくなったわけでは無い。信仰というものが人間の理性的行動に対してどのような影響を与えるのかということに興味を抱いたからである。西欧人が環境に対する意識転換をした理由を調べていくうちに最後の審判に辿り着き、戦後70年の総括をしているうちに戦後の神道廃止令が日本人から信仰を奪ってしまったことに気づいた。

私たち団塊の世代は戦後教育のなかで歴史の表面部分だけを学び、その本質にせまることが殆どなかった。その結果、西洋史は学んだものの神学とは一体何かがこの歳まで分からなかった。キリスト教神学とギリシャ哲学がどのような関係性を持つのかということについても最近になってやっと理解した。西洋史だけではなく日本史についても、古代神話と天皇と現代史が欠落しており、私は30才過ぎに独自に学んだ。日本人は無神論者なのか、日本に哲学があるのかどうかについても深く考えてこなかった。

歴史とはその時代に生きていた人がどのような思いでいたのかを知ることであり、その思いのエネルギーが歴史を作ってきたのであり、英雄や政治家が作ってきたのではない。それでは現代まで生きてきた私たち団塊の世代はどんな思いを持って時代のエネルギーを作ってきたのか。残念ながら私は明確に答えられない。

現在、不安倍(ふあん倍)政権は様々な政策をゴリ押ししようとしているが、私たちはそれに対する明確な哲学を持って対処しきれていない。どうやらその原因は、現在の私たち日本人が「信じるもの」と「それを論理的に説明するもの」を持っていないからでは無いだろうか。つまり日本人としての「信仰」と「本当の理性」が欠落していることが、現在の日本の混乱を招いているのではないか。戦後70年の間、自由と平和と経済成長を三種の神器として信仰してきた日本人は、ここに来て特定秘密保護法や集団的自衛権や経済停滞で論理的破綻を生じているのではないだろうか。更に三種の神器の背景にある民主主義についても疑念を生じている。

それらの原因は何かを考えてみたが、それは現在の日本人が総てのことを理性で説明しようとしているからではないかと思っている。民主主義も既に形あるものとして論理的理性的に理解し、自由や平等や博愛の背景に神に対する信仰があることを理解していない。法の下の平等は神の前の平等であり、自由は国家権力からの銃だけでなく教会権力からの自由の歴史もあり、博愛は神との契約を前提としたものである。このように物事を論理的に理性的に説明する以前に、西欧人の歴史的な神との関係性を理解したうえで、それを日本人として咀嚼しなければならない。その上でもう一度、日本人としての信仰を再確認する必要がある。それは戦前の国家神道に復帰することではなく、キリスト教のような一神教を信仰することでもなく、日本の気候風土に根ざした私たちの信じてきたものを再確認することではないだろうか。