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BASC理事長 原耕造のブログ

2015-12-11

韜光養晦

13:25

私はこの言葉が現在の中国の外交戦略の底辺に流れているということを最近読んだ本で知った。著者は石平で「なぜ中国は覇権の妄想をやめられないのか」というタイトルの本であった。この難しい漢字は「とうこうようかい」と読み、ウィキペデイアでは次のように紹介されている。

「韜光養晦」という言葉は、中国語の中でありふれた単語ではなく、中国の対外政策を形容するために用いられる以前は、多くの人に聞き慣れないものだった。辞書の中には「韜光」の本来の意味は名声や才覚を覆い隠すこと、「養晦」の本来の意味は隠居することと記されているが、一般には、爪を隠し、才能を覆い隠し、時期を待つ戦術を形容するために用いられてきた。韜光養晦とは、中華人民共和国の国際社会に対する態度を示す言葉であり、一般には小平の演説が根拠となっているとされる言葉である。

著者曰く、習近平のアジア外交が将にこの韜光養晦と決別し、アヘン戦争以前の中華秩序を回復しようとしている。それが南沙諸島問題であり、尖閣列島問題等に明確に現れている。中国の歴代王朝は秦の始皇帝以降、歴代の皇帝は国内統一とともに領土を拡張し、周辺諸国を朝貢させて冊封することによって中華秩序を維持してきた。それは漢人でない王朝においても同じであったが、アヘン戦争以降、その中華秩序は崩壊してしまった。更に日清戦争以降は中国に代わり日本がアジアの諸国に対して大東亜共栄圏という新秩序を打ち立てた。しかし日本の敗戦によりその新秩序は失われ、中国は共産党体制になったもののソ連の秩序に組み込まれてしまった。その後、ソ連の後退と平行してアメリカのアジア戦略が顕在化してニクソン毛沢東会談となり、中国は大きく舵を切った。毛沢東の後を受けた小平は中華秩序を再興するために自由経済を導入する政策を展開し、その状況のなかでこの「韜光養晦」という言葉が使われた。それまでは周辺国から何を言われても「隠忍自重」に徹し、経済発展を優先させて今や世界第2位の経済大国となった。習近平の登場は将に韜光養晦からの脱却を意味し、それは習近平の個人的な思いではなく、中国歴代王朝の中華秩序の復活を意味している。習近平は漢の武帝と同じ歴史的役割を果たそうとしており、それが中華文明の有物史観なのである。

このように考えると日本の外交政策はアメリカに付くか中国に付くかという二者択一の問題ではないことが分かる。安保法制の問題も中国を仮想敵国としているという説明ではなく、日本という国が生き残るためにはどのような外交政策をとらなければならないか国民的議論を巻き起こす必要がある問題である。この議論をするには戦前の大東亜戦争とは一体何か、東京裁判とは何だったのか、サンフランシスコ講和条約と日米安全保障条約は何故セットだったのか等、戦後70年の国民的歴史総括をしないと問題解決の方向性は見えて来ない。特に日本が占領時代に生まれた団塊の世代は、その教育のなかで戦前の思想を否定されて育ってきたので、もう一度、小学校時代に戻って自分のアイデンティティを再構築しなければならない。私は30年以上、独学してきたが、この年になってやっと本来の日本人が理解できるようになった。偏差値教育の弊害を自覚して、死ぬまでの人生を有効に活かして欲しいと思っている。

2015-11-30

命とお米と田んぼの関係

15:07

お米を石高制と尺貫法で考える

現在、お米はスーパーやお米屋さんでビニール袋入り売られていますが、単位はkgです。炊飯器の目盛りは「合」という容積なのに、何故、買うときはkgという重量なのでしょうか。戦後、「新嘗祭」が「勤労感謝の日」にとって代わり、新嘗祭という言葉を多くの日本人が忘れてしまったように、石高制と尺貫法も日本人の暮らしとどのような関係であったのかを忘れられてしまったようです。その結果、現在の日本人は、お米を品質と価格という「商品価値」だけで判断するようになり、日本の農家は輸入米の価格に対抗できない状況に追い込まれてしまっているのです。

1升や1合が容積であることは皆さん知っていますが、それが「命」とどんな関係であったかは知りません。昔は土地の生産性・価値を「石高制」で表しました。「加賀百万国」とは、加賀藩の領地全体で100万石のお米が獲れるという意味を表しています。豊臣秀吉の太閤検地とは単に農地の面積を測ったのではなく、農地面積の単位も変更しました。それは日本人が1年間に食べるお米の量1石(約150kg)を基準とし、その1石の米を生産するのに必要な水田面積を1反(約1000)と決めたのです。太閤検地前は1反が360坪だったのですが、当時のお米の生産性を勘案して300坪に変更したのです。つまり「1人の人間の命」を支えるために必要なお米の量が1石であり、その1石のお米を生産するのに必要な水田面積が1反だったのです。

ですから江戸時代の水田面積は200万町歩ですので、当時のお米の生産性から計算すると2500万人の日本人の命を養えたのです。現在の日本は稲の作付け明晰が200万町歩ですので、現在の生産性から計算すると5000万人の日本人の命しか養えていないのです。現在ではお米の量はkg、水田面積はhaと表示され、国民は日本人の「命の単位」を忘れてしまいました。つまり「命」の単位ではなく「商品」の単位としてお米を見ているので、安い輸入米を買っても自分の命との関係性を見失ってしまっているのです。

EU市民は神との関係性で意識改革をしましたが、日本国民は命の単位を忘れてしまったので、本格的直接支払いには転換できません。本格的な構造改革をするのであれば、農家だけを対象とするのではなく、日本国民全体を対象にした意識

位しか改革をしなければなりません。






EU市民の意識転換

14:24

1992年以降、EUでは農家に対する直接支払い政策が展開され、EUの農家は国際価格競争から解放され、関税の問題も殆どありません。何故EUで本格的な直接支払い政策への転換が実行出来て日本で出来ないのでしょう。その原因を究明しないかぎり、再び同じ失敗を繰り返します。

その原因の主なものは1980年代から欧州人は環境と農業に対する価値観が変わってきている事です。1980年代のECでは統一通貨も無く、加盟国による農産物貿易の摩擦が起きていたのです。それはEC参加国の為替による農産物価格競争力問題でした。しかし統一に向けてCAP共通農業政策が実施され、それがEU統一の原動力になったのです。しかしEC域内問題は解決してもガットウルグァイラウンドで議論されていた国際関税問題は解決できませんでした。それまでのECは日本と同様に高い課徴金(関税)をかけて域内農産物価格を維持する政策を選択していたのです。しかしガットウルグァイラウンド交渉の結果、高価格政策は財政面でも維持できなくなり、EC域内農家の保護政策を転換せざるを得ない状況に追い込まれました。そこでEU統一を期に改革CAP政策として、価格補填と環境保全の2本立ての直接支払い政策が実施されたのです。日本でも1995年以降、EUと同様の政策が展開されましたが成功しませんでした。

キリスト教の創造神Godとキリスト教徒との契約の考え方

その原因を探っていくとEU市民の自然と農業に対する基本的考え方が日本人とは全く異なる点に辿り着きます。それは日本人にはなかなか理解出来ませんが、EU市民の殆どが信仰しているキリスト教の創造神Godとキリスト教徒との契約の考え方に基いています。旧約聖書の創世記によると、キリスト教徒は自然界を創造したGodから自然界の管理を約束させられ、その代わり自然界の動物や植物は人間が食べられるようにGodに創造されています。キリスト教徒とGodとの契約は絶対であり、契約不履行の場合はその罪によりダンテの神曲に書かれているような地獄の世界に送られるのです。キリスト教徒は死後に訪れる「最後の審判」によって復活し、キリストのいる天国に行くことが信仰の原点なのです

Godが創造した自然界を修復不可能にしたチェルノブイリ

西欧文明は産業革命以降、科学を発達させ、ヨーロッパ大陸の森林破壊や河川の汚染等自然破壊を繰り返して来ましたが、その自然破壊は修復が可能な範囲に収まっていました。しかし1986年のチェルノブイリ原発事故以降は、Godが創造した自然界を修復不可能にしてしまい、キリスト教徒はGodとの契約を破る結果になったのです。その後の福島原発事故以降、EU市民は原発政策の継続がGodとの契約違反を続けることに気づき、ドイツを筆頭にして原発政策を転換する動きになったのです。農業についても歴史的には三圃式農業からノーフォーク農法への転換が産業革命の原動力になり、生産性を向上させる農業が勧められてきました。しかし生産性を追求する近代農業が周辺環境の負荷を増大させ、修復が不可能な状況を引き起こしていたのです。そこで生産性だけを追求する近代農業から脱却し、「持続可能な農業」として有機農業に本格的取り組むようになったのです。これらの一連の環境や農業の流れは政策によって喚起された部分もありますが、EU市民の自然や農業に対する意識転換により政策は支持され、これが環境直接支払いの流れになったのです。現在では直接支払いが価格補填政策から農村環境政策へと大きくシフトしていることもEU市民の意識を反映している証拠です。更に1992年以降は気候変動や生物多様性の取り組みでリーダーシップをとるようになったのもEU市民の一連の意識変革の結果です。

2015-11-13

20年前と同じ失敗を繰り返すTPP農業対策

15:03

TPP交渉の合意を受けて、政府は国内農業対策を実施するという。このままでは来年の参議院選挙での農村票の獲得が難しいと判断しているからだと思われる。しかし実施しようとしている内容が次々に明らかになってきているが、一連の対策を実施しても日本の農業は衰退に向かい、日本の国土は間違いなく荒廃するであろう。何故ならば、現在、新聞紙上で取り上げられている対策が1995年のガットウルグァイラウンド対策と同じ発想だからだ。今回のTPP交渉は20年前のガットウルグァイラウンドと同じ課題を突き付けられており、国際貿易自由化の障壁をなくすなかで、関税でない国内農業保護対策が求められているのである。1995年以降、国際化に対応するために様々な直接支払い等の構造改革が試みられてきたが殆ど効果はなかった。その結果、20年後に再び同じ問題をTPPで突き付けられたが、20年間の構造改革の失敗の総括がなされていないので、今回のTPP対策も20年前と同じ発想のものしか出てこないのだ。

今回のTPP交渉にEUは参加していないが、もし参加していたとしたらEUは日本のように周章狼狽することは無い。それはEUがガットウルグァイラウンド決着後、CAP改革と称して本格的な所得補償政策を展開し、現在では農村環境対策に大きくシフトしている。その結果、EU農家の農家所得は直接支払いで支えられ、高い関税をかける高価格政策を実施しなくても農業を継続できる状況なのだ。20年間のCAP改革でEUにおける農業の位置づけは大きく変わり、環境との関係性を語らない農業はEU市民から支持されなくなっている。日本もEUのCAP政策を真似て様々な直接支払い政策を展開してきたが、殆ど効果をあげていない。更に農業はあくまでも食の安全で語られ、環境との関係性で語られることは無いので、直接支払いに対する国民的認知も無い。その結果、政府はTPP交渉で25年前と同様に関税化反対という立場を死守せざるを得ない状況になり、重要5品目の関税化は防御したという苦し紛れの総括をしている。今、本当に必要な総括は、「何故、日本はEUと同じような構造改革を実施しようとしたが出来なかったのか」である。その総括無くしていくらTPP対策を講じてみても再び同じ失敗をして税金の無駄遣いを続けるだけなのだ。

現在の政府の考えているTPP対策の一つは、農地を集積して大規模農業を目指し、国際競争力をつける。そのために耕作放棄地の固定資産税を上げ、生産法人への民間会社の出資比率を50%以上にする。もう一つは品質に優れた国産農産物の優位性を活かして輸出を拡大する。この2つを検証する前に一番総括をする大切なことがある。それは日本人の農業と環境に対する価値観である。EUのCAP改革はEU市民EU納税者が支持したから成功したのだ。何故、EU市民はCAP改革を支持したのか、何故、日本人は直接支払い等の構造改革を支持しなかったのか、その分析と総括をしないかぎり真のTPP対策は出てこない。次回のブログでEU市民の農業と環境に対する価値観の変化の分析を書いてみたい。

GOMEGOME 2015/11/17 11:49 某軽減税率マニアです。

農業を所得補償で支えて行くと言う考え方には反対ですね。
所得補償の目的は安い途上国の農産物に対抗するためでしょうが、
途上国との所得格差が無くなれば、いずれ不要になります。
ただでさえ兼業農家が多い日本。
どこまでまじめに農業をやっているのかも判らない農家にたいして、
安易な所得補償は甘やかし過ぎでしょう。
売り上げ前年比70%割れの場合などの凶作補償は有効かと思いますが。
TPPでは、所得補償のような無制限の産業保護政策も規制の対象にすべきですね。
これを野放しにしていると、いくらでも安い農産物が輸出出来る事になり、
不公平な貿易摩擦の火種が永遠に消えません。
世界的に農業がお荷物産業に成り下がってしまいます。

2015-11-04

新嘗祭

13:33

今月の25日に明治神宮の参集殿で「いのちの感謝収穫祭」新嘗祭を開催する実行委員長になっている。この取組は農山漁村資源開発協会が以前から主催しているもので、私たちは昨年から事務局としてお手伝いをしている。

従来の新嘗祭の企画とは多少異なり、昨年から「いのちの感謝収穫祭」という名称を前面に出している。それは新嘗祭という言葉自体を多くの日本人が忘れてしまい、11月23日は勤労感謝の日という認識しかもっていない。そこで生きもの調査をしている産地の農家に多く参加してもらうために「いのちの感謝収穫祭」という名前にし、従来の収穫に感謝するとともに多くの「いのち」にも感謝する気持ちを表現することとした。ここで開催に当って作成した趣意書を紹介したい。

わが国は古来より「豊葦原の瑞穂の国」とも称され、稲作を中心とした自然を尊ぶ世界でも特筆すべき独自の文明をつくりあげてきました。それは牧畜と畑作を中心とした一神教のキリスト教を背景とした人間中心の西洋文明とは異なるものです。日本の稲作文明は、生きとし生けるものの命を大切にし、更に自然の神々との一体感を大事にする、永続性を持った優れた価値体系なのです。それはアジアモンスーンという高温多湿な気候と風土のもとで、稲という生産性の高い種と多様な生きものを育む水田農業に裏付けされています。

日本の神話では、天照大御神が天孫に稲穂を授けて天降らせ、この国を稲穂の豊かに実る国にするよう命じたとされています。その使命が、日本国の歴代天皇に受け継がれて、 宮中では今日まで毎年、その年に収穫された新穀を神様に捧げて感謝する「新嘗祭」と呼ばれる祭典が行われております。これに合わせて全国各地でも、神社を中心に新嘗祭や秋祭りが行われてきました。しかし、その元々の精神が今日失われつつあるのは残念なことです。

農は国の大本と言われてきました。私たちはこの新嘗祭を、いのちの糧であるお米に対する感謝だけではなく、その収穫を支えてくれている天地自然の恵みと稲作農家の労き(いたづき)への感謝、それに水田が育む多様な生きものたちのいのちをも大切にする祭典にしてその本来の精神を甦らせ、さらに新しい世代へ伝えていきたいと願っております。そこで、稲作農家とお米や自然環境に関心を持つ国民が一堂に会して、「いのちの感謝収穫祭」を催し、この催事を通じて古代から続く「新嘗祭」の精神を現代に生き生きと甦らせ、我が国の基をしっかりと固めていきたいと思います。

今や我が国の農山漁村は非常な危機に直面しております。「地方創生」が国の重大な課題になっている今日、我々の生活と精神文化の基礎となっている「いのちを大切にする日本の稲作文明」を改めて創造し直す機会にしたいと願っております。

以上が原文だが、戦後70年間で「新嘗祭」という言葉が分からなくなってしまった日本人にもう一度、日本人の原点とは何かを問いなおして欲しいと思っている。若い頃の私であれば、新嘗祭という言葉だけで思想的に何か右よりの印象を持ち排除する論理を持っていた。しかしそれは戦後教育のなかできちんと日本の古代史と近現代史を学んで来なかった結果であり、それを修正するのに30年以上もかかってしまった。天皇陛下が何故、稲作神事を行っているのか、何故、豊葦原瑞穂の国なのか、古事記や日本書紀をしっかりと学んでこなかったからであり、受験勉強中心の学び方をしてきた結果である。更に戦後のGHQによる神道指令や天皇の人間宣言の意味、東京裁判における「平和に対する罪」「人道に対する罪」の意味、これらの事柄は人生を60年以上やってきて初めて多少理解できるようになってきた。日本の歴史だけでなく世界の歴史も表面的なことだけしか学ばず、西欧文明の本質が分かっていなかった。

ハンチントンは世界の文明の一つとして「日本文明」を位置づけているが、そのことの意味を多少はわかるようになっている。戦後70年間で西欧文明の仕組みと価値観だけで日本社会は動かされてきたように思われる。そのことをGHQ占領軍による押し付け政策だと言うつもりは無い。しかし私たち戦後生まれの日本人は、何の疑問も抱かずに経済成長一本槍できたことも事実である。文明というと遺跡を思い浮かべるが、これも西欧文明の価値観だけで考えている証拠である。日本以外の小麦と灌漑による文明は石造りだが、縄文文明は狩猟採取と稲作の文明で木造であり、そこには遺跡として殆ど残っていない。しかし文明とは遺跡ではなく、その時代その地域の暮らしそのものであり、石造りの遺跡の有無では無い。米作りは弥生時代から始まったと教えられた年代ではあるが、稲作文明は長江中流域から始まり、そこにも石造りの遺跡はない。しかしそこの祭祀と日本の祭祀には多くの共通点がある。中国との会話もその共通点から始まれば、尖閣列島問題も先鋭化しないであろう。

食料生産としての稲作や麦作の発展が定住生み、その豊作を祈願する祭祀から神が生まれ、それがその時代の暮らしとなり、それが文明となる。その文明の証人として田んぼの生きものがいる。今回の新嘗祭は日本人が日本文明を考える入り口であり、多くの人に新穀を味わってもらって自分自身のDNAに問いかけてもらいたい。

2015-09-22

安保法案採決不存在

12:56

安保法案の採決不存在の署名が来たので、以下の文書を添付して賛成した。

私は丁度、西欧文明を様々な視点で分析し、私たち日本人が当たり前と思っていることが実は明治維新以降の新しい考え方であることが分かってきた。その中で、日本人が思っている民主主義と西欧人が思っている民主主義は違うのではないかという疑問が湧いてきた。そこで民主主義の原点とも言われている「自然法」に関する研究をしてみた。そこには次のような解説があった。

自然法が出てきた社会的背景としては、「王権は神から付与されたものであり、王は神に対してのみ責任を負い、また王権は人民はもとよりローマ教皇神聖ローマ皇帝も含めた神以外の何人によっても拘束されることがなく、国王のなすことに対しては人民はなんら反抗出来ない」という王権神授説によって正当化された絶対王政に対して新しい視点から社会のあり方を考えるようになった。それまでは思想や文化において(ルネッサンスや宗教改革等)この考え方は進んでいたが、政治や社会のあり方にまで個人・思想の尊重を訴える動きが出てきた。王権神授説に対して「人間には民族や時代に関係なく全ての人間に通用する普遍的な法律が存在する」それが「自然法」という考え方であった。その後、自然法の流れにのって「社会契約説」が誕生した。「社会契約説」とは国家や社会の成立を個人の自由意志に基づく相互契約に置く思想であると解説されていた。

これらの一連の歴史のなかでホッブス、ロック、ルソーはどんなことを主張していたのか調べてみた。

ホッブスは人間の中には生まれつき自分の命を守ろうとする「自己保存の欲求」と他人よりも優れた存在でありたいとする「虚栄心」が存在し、2つの欲求を満たそうとするためにあらゆる手段を用いることができる「自然権」を持つと説いた。今回の安保法制では国民の命を守ろうとする「自己保存の欲求」と安倍首相の歴史に名を残したいという「虚栄心」が衝突したと言える。安倍首相は自分の「虚栄心」という自然権に基づきあらゆる手段を用いて安保法制の国会通過を強行した。しかしそこでは国民の持つ「自己保存の欲求」という自然権が無視されてしまった。

次にロックは統治論のなかで「国家に預けた自然権を政府が悪用して国民の権利を侵害した場合、国家の契約違反に対する「抵抗権」が生じ、権利が認められない場合は一度、国家を壊して新しい仕組みを築く権利「革命権」がある」と書かれている。まさに今回の国会の議決は国家に預けた自然権を政府が悪用して国民の権利を侵害したのである。私たちはロックが書いているように「抵抗権」があり、今回の採決不存在の署名活動もその一つといえる。更に新しい仕組みを築く権利「革命権」は次回の選挙まで待つ必要はなく、武力によらない革命を目指さなければならない。

次にルソーは社会全体の平和と平等を目指そうとする「一般意志」と個人的な欲求を満たそうとする「特殊意志」があるなかで、一般意志は他者に代弁することはできないと書いている。それはまさに国民の命に関わる自然権に対する議会制民主主義の限界を指摘している。イギリスでは選挙までは自由だが、選挙が終わってしまえば有権者は政治家の言いなりになるにすぎないとも書いている。私たち国民は平和を目指す一般意志を表明しているにもかかわらず、国会議員は国民の一般意志の代弁をしていない。まさにルソーの書いている通りのことが日本で起こったのだ。

今回の国の暴挙は国民の命を守ろうとする自然権を無視し、議会制民主主義の手続きも無視している。これは人類が築きあげてきた民主主義の歴史に対する冒涜であり、ロックの言う国の契約違反に対する抵抗権を国民全体で示す時が来た。しかしこの抵抗権をどのような形で具体化してゆくかが問題となる。西欧文明の歴史を勉強するなかで、西欧の民主主義は絶対王政以降の歴史ではなく、背景にはキリスト教が存在している。自然法についても普遍的な法律の存在の前に普遍的神の存在があり、それが西欧社会全体の民主主義の底流に流れている。残念ながら明治維新以降、西欧文明から科学技術と民主主義の枠組みは輸入してきたが、その精神的背景となっているギリシャ哲学とキリスト教神学は学問として輸入されただけであった。

今回の問題が日本の民主主義の原点になると言っている人もいるが、私もそのとおりだと思う。自然法だけでなく議院内閣制等の民主主義の仕組みは西欧文明と表裏一体となっており、それを日本文明のなかで新たに構築するのは容易なことではない。いわゆる「近代の超克」をしなければならない。西洋文明を超克して日本文明に基づく仕組みを作り上げるには、従来のようなデモ行進、反対署名運動、違憲訴訟等の取り組みでは実現しない。何故ならば、これらの取り組みは西洋文明が作り上げた民主主義の仕組みを踏襲しているからである。私は近代の超克は、政治家、思想家、哲学者、運動家等の従来の国家的視点からの議論では実現しないと思う。視点を国家から地域に落とし、国民から市民に落として議論と行動を展開しないかぎり「この国のかたち」は変わらないであろう。