2013-06-13
練馬区農業体験農園15周年記念フォーラム参加報告
平成25年6月8日(土)に練馬区役所で体験農園のフォーラムが開催された。
主催は練馬区農業体験農園園主会であり、園主が15人、入園者が80人程度、後は行政を含め関係者であった。タイトルにあるとおり体験農園を始めて15年の経過と体験農園に対する様々な期待について活発な意見が交換された。当初の頃の資料を体験農園教会の加藤理事長が披露したが、そのなかで園主会の白石会長の父親が「こんなもんは農業ではない」と言って大反対していたエピソードが興味深かった。更に加藤氏が基調講演のなかで体験農園が持つ「防災機能」を強調していたのが印象的であった。農園の持つ空間スペースだけでなく、井戸水の問題や炊き出しの日常的訓練など、私が普段から感じていることを実態論として展開していた。
会場全体から感じたことであるが、いわゆる生産者と消費者の交流集会とは全く異なる雰囲気であった。体験農園が単なる安全なものを食べたいという空間ではなく、地域コミュニティのなかでの一体感を創造した結果であろう。後もう一つ感じたのが園主の若さであった。私の見た感じでは園主の平均年令は50歳前後ではないかと思った。入園者の平均年令は間違いなく60歳以上であるが、皆さん元気であった。ここの入園者は農産物の消費者ではなく、園主の近所に住む人達であり、農園は地域のコミュニティセンターであり、園主との関係性は商品経済では説明できない。だから入園料が高いなどの話は全く出ないし、ある入園者は自分で作った農具を紹介するほどだった。
白石会長の父親は多分農業にこのようなパワーがあることを知らなかったし、良い農産物を作ることが農家の生き方であると頑なに思っていたのであろう。どの園主も最初は話すことに戸惑いを感じていたそうだが、入園者が作物の育つ様子と収穫物を食べることで園主の話を自然と理解してくれるので、そこに上手な喋り方はいらなかったのである。
最後に相続を含む農地問題も少し出たが、今回のフォーラムのテーマではないので深入りしなかった。しかし私の感じでは、もし園主がそのような事態になったら入園者が立ち上がることは間違いないと確信した。将に農園は地域の「入会地」であり、地域の暮らしに欠くことの出来ない位置を占めている。
生産緑地法の有効期限が9年後に迫り、都市計画法や都市農地の見直しがされているが、従来の縦割りの発想法ではなく、視点を地域に置いた体験農園の可能性について着目しなければならない。体験農園は市民農園の一つのパターンとして存在しているのではなく、21世紀における都市の入り会い地を実現していることに気がついてもらいたい。
2013-04-12
TPP参加に反対している農家と国民へ
現在、TPP参加反対運動がJAグループを中心に展開されているが、反対運動が功を奏してTPPに参加しないことになった時、その先はどうなるのだろうか。またJAグループはどうしようとしているのだろうか。残念ながら、その部分が全く見えてこない。TPP参加はやむを得ないという判断で、自民党と条件交渉に入っているのだろうか。最近のニュースでは農業所得を2倍にするとか、農業の多面的機能直接支払いとか、TPP参加の痛みを金銭で解決する構図になっているのがその証拠ではないか。それは7月の参議院選挙向けとしか思えない農村票獲得プランであり、農家の怒りを札束で収める話しである。これでは全く20年前のガットウルグァイラウンドの経過と同じで、農家と国民は置き去りにされている。何故、このように同じ失敗を繰り返すのか考えてみた。どうも反対運動の戦略構築に問題があるのではないかという結論になった。これはTPPだけでなく、安保反対運動、米の輸入自由化反対運動、原発再稼働反対運動、普天間基地移設反対運動等、様々な反対運動の戦略のことを指している。反対運動の殆どは矛先が政府であり、国際間の条約締結に端を発しているものが多い。私がここで問題にしているのは、反対運動をしている人間の国際情勢分析の欠落と、反対運動が挫折した場合の戦線再構築具体策の欠如の2つである。
60年安保と70年安保の反対闘争の時に、私も含めた若者たちは「安保反対」のシュプレヒコールをしながらデモ行進をしていた。しかし、その実態は、「憲法9条を遵守して非武装中立を守ることが日本の平和を守ることだ。アメリカ軍の協力は要らない。」という論理を鵜呑みにしていただけである。北朝鮮からミサイルが発射されようとしている現在、「安保反対、アメリカの核の傘は要らない、アメリカに守ってもらわなくても日本には平和憲法がある」若かりし時の論理に基づき、このようなシュプレヒコールをしていたら狂人扱いされるのは間違いない。当時の国際情勢と今日の国際情勢は東西冷戦の終結を境にして大きく変わったが、当時の私達若者の頭の中には、国際情勢を考える余裕がなく、多分仲間はずれにされることの怖さが先にたったのではないかと思う。更に、安保反対闘争が挫折した後、どのように日本という国の平和を守るのかという議論は全くしなかった。単純な思考法でゆけば、安保反対闘争挫折後は日本を守るために非武装の考え方を改め、デモ参加者全員が自衛隊に入隊するという選択もあったのではないか。
20年前のガットウルグァイラウンドの時も「米を一粒たりとも入れない」というシュプレヒコールのもとに農家と農協と政治家が一緒になって反対デモ行進をした。しかしその時に、ガットで農産物の関税化交渉がされるようになった歴史やその背景をきちんと理解していた人はどの程度いたのだろうか。ガットが世界平和のために設立されたこと、当初のガットでは農産物が対象品目では無かったこと、ECとアメリカ等の農産物輸出国との競争が激化して対象品目になったこと、農業保護について消費者が負担する価格政策と納税者が負担する直接支払い政策が議論の争点であったこと、これらの情勢と歴史をきちんと理解したうえで「関税化反対運動」が展開されていたとは思われない。当時の新聞記事には、国民がきちんと理解できるような解説記事が掲載されてはいなかったし、政局だけを流して政策をきちんと伝えないマスコミの姿は今日も変わらない。JAグループも「関税化反対」だけで、国際情勢に即した農家の置かれている立場を農家や国民に向かって発信しなかったし、それは今日のTPPも同様である。
ガットウルグァイラウンドの米の部分開放という決着は、「関税化を受け入れなかった」という点では反対運動の勝利になり、「6年という猶予期間が与えられた関税化を受け入れた」という点では反対運動の挫折であった。どちらの見解をとるかは問題でなく、安保と同様にどのように日本の農業を守るかという議論が大切だったのだ。しかしガットウルグァイラウンド対策費という名目で6兆1千億円の税金がバラまかれ、関税化を前提とした国民的議論は展開されず、反対運動をしたJAグループからも具体的な提案が無かった。その後、1995年に食管法から食糧法への大転換の時に、実は「価格政策から直接支払い政策への転換」という国民的議論をしなければならなかったが、規制緩和という名の下の政策転換として扱われ、議論されなかった。更に1999年にはMA米の増加に耐え切れず、6年間の猶予期間の前に関税化へ大きく舵をきったが、その時にも国民的議論がされなかった。その後、ドーハラウンドで本格的関税化の協議がされる予定であったが、多国間交渉そのものが頓挫してしまい、EPAやFTAという2国間交渉やTPPのような経済圏交渉に移行したので、関税化問題が表面化しなかった。関税化と同年の1999年には農業基本法が改正され、食料・農業・農村基本法となり、国際情勢を受けた基本法になったにも関わらず、農業保護政策の転換は国民的議論にならなかった。農水省はそれ以降、中山間地対策や農地・水・環境保全向上対策、経営安定対策等の直接支払い政策への転換を図ってきたが省内の予算組み換えの域を出ず、政策転換がどのような意味を持つのか国民的議論がなされずに今日まで来た。
今回のTPP反対運動は、まず1993年のガットウルグァイラウンドから20年間の歴史を総括し、TPP参加問題の国際的情勢を分析して議論をしなければならない。世界の歴史は日本がTPPに参加しなくても関税撤廃の方向に流れており、その流れ中で「日本の農業をどのように保護するのか」という国民的議論をしなければならない。TPPに参加した場合の損失額で議論している時ではない。現在の農業所得倍増論や多面的機能直接支払い論は、当面の参議院選挙対策には通用するかもしれないが必ず失敗するであろう。何故ならば、国民が世界の情勢を理解し、「日本農業を守るためにはこれまでの消費者が支える仕組みでは無理があり、国が税金で支える仕組みに転換しなければならない」という結論に至っていないからだ。それは20年前から今日までの歴史が証明している。
国が税金で支える仕組みとは、「国民の命を支える農業生産」「農業生産を支える農地」「農地は大切な日本の国土」「国土を耕してくれている農家」「農家の暮らしを支える地域」「地域の暮らしと多様な命を支える農業」これらのことを国民が理解することによって税金が投入されることだ。それは現在の農水省の予算の枠内での議論ではなく、国土交通省や環境省、文科省等から省庁横断した本当に必要な予算を確保しなければならない。更に、TPPに参加して関税撤廃され安い輸入農産物が入ってきても、日本国民は国産農産物を買い続けることの真の意味を理解しているので農家は怖れることはない。
今、本当に大切な反対運動はムシロ旗を立てたり、選挙でTPP賛成派を落選させることではない。農家はお米を買ってくれる消費者としてではなく、日本という国土に一緒に暮らしている国民に対して、農業を語らなければならない。自分の暮らしと自分の地域は自分で守らなければならない。政治家や農協は守ってくれるのではなく、守る手伝いをしてくれるだけだ。規模拡大や輸出拡大も産業政策としては大切だが、一番大切なことは日本国民が「日本の国土である農地を守り」「その農地を守っている農家の暮らしを守る」そのことの意味を真に理解することなのだ。まずは農家自身がこのことを理解して行動をしなければ農業を知らない国民には理解できない。自分たちの地域から語り、都会にいる親戚に語り、米を食べてくれている消費者に語り、そうすることが真の協同活動ではないだろうか。
国民は農家の語りに耳を傾け、農業を語る時に「食の安全」や「価格」だけで語らず、自分の「命」の視点で語らなければならない。日本人の誰もが経済至上主義に疑問を抱いている現在、もう一度、農家も国民も豊葦原瑞穂の国に何千年何万年も住んでいる仲間なのだということを思い起こして欲しい。
2013-03-15
TPP緊急対応策と田んぼ市民運動
TPP交渉参加が正式に決定した。農産物5品目や国民健康保険制度等の聖域を守ると明言しているが、総て交渉事である。国民に対するポーズは良いが、結果は寄り切られる可能性が非常に高い。交渉の内容が情報開示されないので、国民は結果だけを知らされ、受け入れざるをえない状況に陥る。将に歴史に禍根を残す判断と言わざるを得ない。
ここで安倍政権の批判だけをしていても状況は変わらない。賢い人間のすることは何か。TPP体制になった時の状況を想定し、その対応策を今から準備することである。想定というと直ぐに農業に対する影響は3兆円だとか、国民全体のGDP効果の議論になるが、そのような議論をしていても何も変わらない。関税が撤廃された時に日本の農業は何故、壊滅するのか、壊滅させる原因は何か、誰がどのような行動を取るのか、現在の消費者行動はどうなるのか、食料消費の半分以上を占めている食品加工や外食産業はどのように動くのか、農業生産をしなくなると耕作放棄地が増えるが環境への影響はどのようなものか、数え上げればきりがない。
ここでお米に絞って議論を展開してみたい。
関税が撤廃された時のシミュレーションは、私のブログに書いてある1992年に作成した試算を参考にしてほしい。多分、有機JAS米が10kg当たり3000円〜4000円程度、特別栽培米が2000円〜3000円程度、低価格米が1000円〜2000円程度ではないかと思う。このような価格の輸入米が店頭に並ぶということが、今回のTPPの結論なのだ。そうなった時に、日本の米は現在の価格水準で販売できるか。販売したとしてもどの程度売れるのか。それは可処分所得によっても異なるが、価格と食の安全性だけを判断基準にする消費者に販売するには、かなりの困難を伴うであろう。更に問題があるのは、現在の日本の米の半分以上を使っている業務筋はどのように対応するのか。既に国産低価格米が少なくなっている今年のSBS入札では輸入米の引き合いが強い。
これまでも牛肉における和牛、サクランボにおける佐藤錦等、輸入農産物に対抗してきた歴史はあるが、お米の場合は同じジャポニカ種の競争でインディカ種との競争ではないのだ。私の予測では対策を実施しない場合、一般小売の50%と業務筋の90%程度は輸入米にシフトすると考えている。牛丼のような汁物メニューはかなり輸入米を使用している。スーパーの店頭で国産牛肉とオージービーフを比べたり、国産豚肉とアメリカンポークを比べたりするのと同じ状況が米売り場で起きるのだ。財布の中身が薄い時は、背に腹は代えられないのだ。
このような状況は既にEUでは1992年以降、起きているが、EUの農業は壊滅的打撃を受けていない。EUも日本と同様にアメリカやカナダ等の国々と比較すると国際価格競争力が低いが、大胆な農業保護政策の転換をしているのだ。これは私のブログのガットウルグァイラウンドの項目で何度も書いているが、価格政策から本格的直接支払い政策(日本の戸別所得補償政策のレベルと違う)に転換しているので、EUの農家は壊滅していないのだ。EUは殆どの関税を撤廃しているので、現在、店頭価格に輸入品との差はない。それでもEU農家が存続しているのはEU農産物の店頭価格が下がっても、その差額が直接支払い政策で補填されているからだ。EU農家は税金で補填されるので農業が継続できるし、EU域内消費者は輸入品と同じ価格でEU農産物を買うことができる。
実は日本でもこれと同じ仕組を作るチャンスが20年前にあっ。しかし世界情勢を見極めずに「米を一粒たりとも輸入しない」という反対運動の結果、今日のTPPまできてしまった。このEUの仕組みは世界が20年前に認めた仕組みなのでISD条項の適用は無い。関税を撤廃し自由貿易を促進することと、国内農業を保護することは相反することではないのだ。そのことに気が付かなかった結果が今日のTPPになってしまった。
対策の基本は国際価格に国産米の価格をあわせることである。現在でも一部のお米が高く販売されているが、それはあくまでも差別化商品であって、農業の太宗を決めるものでは無い。商品経済の価格と品質については同じ土俵で勝負しなければならない。しかし、それでは国産米の生産原価を下回ってしまうので、米を作り続ける農家はいない。
農家が米を作らなくなるということの意味を殆どの国民は理解していない。耕作放棄された水田が200万haになるということを、様々な視点でシミュレーションしてみると分かる。「国敗れて山河あり」ではなく「国敗れて山河も無し」そんな国になってしまうことを想像してみると分かる。
本当は国がもう一度、直接支払い政策を国民全体に呼びかけて作ればいいのであるが、現在の政治や官僚や農協組織の仕組みでは無理であろう。何故ならば、予算規模の問題もあるが、今回の問題は農業という産業政策では無いからだ。国民全体の国土政策であり、環境政策であり、教育政策であり、観光政策であり、人間としての価値観や生き方を根本的に変えることなのだ。これらの視点で検討を加えれば、最後は憲法を改正して農業を位置づけるところまで行く問題なのだ。
それでは具体的にどうするかというと、私は店頭価格とは別に農家を支える仕組みを地域から作ろうと思っている。店頭のお米から農家や地域が見えるようにし、その農家や地域を支えるお金が流れる仕組みを自分たちで作れば良い。幸いなことにお米はトレーサビリティ法によって、地域と農家と農法が特定できる。(私の作ったトレーサビリティは地域の環境をトレースすることを目的の一つとしていた)店頭のお米から得られた情報に基づき、農家や地域の取り組みを支援する気持ちになったら、支援金を出せばいい。災害の時だけに支援金は出すのではなく、地域の荒廃を阻止するために出す支援金があってもいい。ここで勘違いしてはいけないのは、有機栽培とか特別栽培という基準で支援金をだすのでは無いことだ。自分の食べるお米の安全性の対価として支援金をだすのではない。地域を守る活動に対して出す支援金であることを忘れてはならない。
支援金の金額は一定ではなく、地域の取り組みに対する感動の度合いによって変わる。地域によってはTPPではなく、後継者不足のために耕作放棄地が増える場合がある。その時には支援金だけでなく、労働参加という形での支援形態もある。私の田んぼ市民では「生きもの調査」を支援の判断材料としている。生きものブランド米ではなく、地域を守る取り組みを農家と地域住民と子どもたちが一緒に取り組むことが大切なのだ。生産者と消費者という関係性から、日本の国土、自分の地域を守る共通の市民という関係性になることである。
緊急対策といっても「一鎌起こし」といって一度に状況を改善する方法は無い。近所の農家から、親戚の農家から、産直の農家から、できるところから皆で始めればいい。支援金は地域の荒廃を防ぎ、地域の生きものを大切にするために出すのであり、その支援金が結果として農家の所得を補填することになる。農家の仕事はお米を作ることだけが目的ではなく、地域の環境を保全し、地域の生きものたちを育むという結果も伴う仕事なのだ。だからTPPによって農家や水田が無くなってしまっては、私達自身が生きられなくなるということを意味している。後から国の政策が出てきた場合には、国の政策と合わせて市民による支援の仕組みを続けて行くつもりである。
アダム・スミスの国富論と感情道徳論(その2)
前回はアダム・スミスが生まれた時代のイギリスの経済的背景を書いたが、少し思想的時代背景を考えてみたい。何故ならば、歴史に名を残した人は英雄であれ悪人であれ、その時代と社会が作り出したものであって、その社会状況を的確に把握して行動した人間なのだ。
アダム・スミスが生きていた18世紀は啓蒙の世紀だと言われている。「啓蒙」とは人間の中にある理性の力を重視し、科学知識の進歩と普及によって人々を無知の状態から解放することを意味した。自然界を聖書にかかれているように理解するのではなく、実験と観察を通じて客観的にとらえ、その結果を合理的に説明することが試みられた。それはデカルトの2元論に端を発しており、その典型例がニュートンの物理学であった。ニュートンは物質の位置と運動量が分かれば物質の過去も未来も分かるという万有引力の法則を1687年に発表した。このようにものごとを宗教的権威に頼ることなく客観的に理解する方法は自然界だけでなく人間界にも適用された。それが啓蒙思想であり、教科書に出てくる啓蒙思想家としてはホッブス、ロック、ルソー、ヒューム、ヴォルテールモンテスキュー、ディドロー、ダランベール等、何となく世界史の教科書に書いてあった記憶がある。受験勉強では彼らの名前と著書を覚えることに一生懸命で、彼らがどんな考え方であったか学生時代殆ど知らない。私が本当の勉強を始めたのは30歳以降で、アダム・スミスは60歳すぎてから勉強している。
このような時代と社会背景のなかでアダム・スミスは人間の感情行動を道徳感情論のなかで、人間の経済行動を国富論のなかで法則として著した。このようにアダム・スミスの著書は、経済学というよりは社会生態学と呼ばれる学問領域である。だから18世紀の社会と21世紀の社会の違いを認識したうえで、読まないと理解できない。
私は経済学という学問をあまり信用していない。何故ならば、経済学という学問は自然の法則を発見する自然科学とは異なり、人間の経済行動を社会的に分析する学問であり、それは時代とともに変遷するからだ。ケインズ理論は大恐慌から抜け出すための一つの施策であり、21世紀の日本の社会に理論を当てはめて公共投資を展開することは社会生態学とは言えない。投資に対する考え方も18世紀のアダム・スミスと20世紀のケインズと21世紀では異なる。国富論の時代の投資は、ベニスの商人の利子とは異なり、物質的な富を生み出すために使われていた。すなわち国民的豊かさを実現するために投資があった。しかし21世紀の投資は金が金を生む「投機」になり、国民の豊かさとは関係がない。人間の労働が必需品や便益品の生産に向かわず、交換媒体にすぎない貨幣に向かうのは全く愚かだとアダム・スミスは書いている。
アダム・スミスは富と幸福の関係で「最低水準の富」の必要性を説いている。最低水準の富がないと人間は悲惨な状態に陥る。つまり貧困の状態にある人々の悲しみや苦しみに対し、他人は同感しないし軽蔑し無視する。この他人による貧困と無視が、人間の本性である希望と意欲を失わせるから最低水準の富が必要なのだ。この最低水準の富が現在の最低賃金であり、これが「幸福とは、健康で、負債がなく、良心にやましいところがない」という状態を創り出す。経済が発展している社会では雇用が増大し、多くの人びとが最低水準以上の富を手に入れることができる。アベノミクスの目指すところはここであるが、どうも実感できない。
「最低水準の富」があれば心の平静が保たれ幸福になるはずだが、社会生活のなかで人間は「水準以上の富と地位」を求めるようになる。何故ならば、人間は富や地位に値する人物になるよりも前に、それらを「獲得することを優先」するからである。この富と地位への「野心」が「見えざる手」であり、社会生活における「他人の眼を気にする」という人間の本性なのだ。アダム・スミスは「見えざる手」富と地位に対する野心は、社会の繁栄を推し進める一方、社会の秩序を乱す危険性があると指摘している。
世間の尊敬と感嘆を得るためには2つの道があり、「徳への道」と「財産への道」であると説明している。財産への道とは、富や地位を獲得して世間から称賛を得る道であり、徳への道とは、徳と叡智を獲得して公平な観察者から称賛を得る道のことである。普通の人間はこの2つの道を同時に歩もうとするが、世間は見えにくい「徳と叡智」ではなく、見えやすい「富と地位」によって人間を評価してしまう。更に、人間は自分を本当の値打ち以上に見せようとする心「虚栄心」があるので、徳への道の重要性を認めつつも財産への道を優先させてしまうのだ。
私達が財産への道を歩む場合、2つの方法がある。一つは自己規制と自己研鑽によって歩む方法であり、もうひとつは他人の足を引っ張る方法である。財産への道の競争がフェアプレイの精神に則って行われれば、社会は「見えざる手」に導かれて繁栄する。しかし競争がフェアプレイのルールを無視して行われれば、社会の秩序は乱れ「見えざる手」は機能せず社会の繁栄は実現しない。アダム・スミスが容認したのは、「正義感」によって制御された財産への道なのだ。
2013-03-14
TPP戦争に勝ち抜く方法
いよいよTPP交渉に参加することになった。今回のTPPについては、徐々にその中身が分かりかけてきたが、一言で言うと幕末の不平等条約そのものである。既に参加している国々で決定している条項については、新たな参加国は遵守義務があるものの、条項の改定作業はしない。つまり日本が主張している聖域の項目は協議の対象にすらならないということだ。ISD条項については治外法権と同じであり、国家の主権が侵害されている。*ISD条項とは投資家対国家の紛争解決条項のこと。投資家に対し、外国政府に協定に違反する行為があった場合、外国政府を相手方とする紛争解決の手続を開始する権利のこと。
TPP交渉参加後の脱退については、現在の安倍政権のなかではあり得ない。何故ならば、安倍政権は「親アメリカ政策」をとることによって、政権持続のバックボーンとしているからだ。憲法改正、集団的安全保障、武器輸出三原則、普天間基地、国防軍等、数え上げたらきりがないがアメリカ追蹤政策が目に余る。戦後レジームからの脱却などといっているが、YP体制(ヤルタ・ポツダム体制)そのものではないか。
TPPはアメリカの経済政策の大転換であり、これまでの金融資本政策から製造業回帰による国内雇用対策であり、決して中国包囲網などではない。日米安保に基づき、アメリカが中国を敵視していると思い込んでいるのは日本だけで、中国は日本よりもアメリカ製品を買ってくれているお得意様なのだ。
このような状況を勘案すると、日本はTPPに参加せざるを得ず、例外品目は設定されず、アメリカの輸出攻勢を妨げる国内法は尽くISD条項で改正を迫られ、明治時代の不平等条約よりも劣悪な環境に置かれることは間違いない。かといって陸奥宗光のように不平等条約改正に向けて立ち向かう政治家はおらず、市民は「塗炭の苦しみ」を味わう。現在の日本の政治の仕組みでは、JAグループが選挙で安倍政権を倒したとしても、次の政権でも現在の枠組みは変えられない。変えようとすれば鳩山政権のように潰される。然らばどうすれば良いのか。座して死を待つしか方法はないのか。
私はあると思う。
これまでの私達は、「国家」が私達の命と健康と財産を守ってくれると思っていたので、反対運動を国家に対して展開してきた。特に国際間の問題については国家マターであり、国民が介在する余地は無いと思っていた。しかし今回のTPP参加によるアメリカの私達に対する攻撃を防ぐ戦い方は存在する。それは国による制度や法律というしくみではなく、市民が作る仕組みでアメリカのTPP攻撃に対抗するのである。
アメリカは第2次世界大戦中に日本国民の分析を行い、それがルース・ベネディクトの「菊と刀」という本に書かれている。著書のなかで日本人の「恥の文化」に言及し、アメリカはその文化故に日本人が竹槍で最後の一人まで戦い続けると思っていた。現に沖縄ではそうであった。しかし昭和天皇の終結宣言によって日本人はアメリカの予想をしない行動をとった。昭和天皇の玉音放送の中身は将に「堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ」という部分に代表されるように「恥の文化」ゆえに徹底抗戦を中止したのである。
文化人類学者であるベネディクトの日本分析は素晴らしいが、現在のアメリカのTPPマーケティングの発想は単純だ。安くて品質が良ければ、アメリカの商品は世界中で売れると思っている。そこにはベネディクトのように相手国の歴史や文化の分析が無い。私達がアメリカのTPP攻撃から身を守るためには、私達、日本人の「文化」をもって戦えば良いのだ。それは国家が造る枠組みではなく、国を離れた市民の判断と行動によって造られる仕組みなのだ。国家がつくるとISD条項で潰される。
戦い方の基本はアメリカの思惑である商品経済の土俵に乗らないことだ。アメリカは総てを商品マーケティング戦略で攻めてくる。そこで価格や品質で戦おうとしても無理が生じる。つまり金銭に換算できない部分での市民のコンセンサスを作ることが大切になる。
農産物については、国産だから安全で安心だというコンセプトは商品経済の土俵であり、これでは戦えない。現にJAS有機農産物は輸入品だけが増加しているのは、そこに原因がある。国産農産物が生産される農地や農産物が造られてきた歴史や文化の大切さを市民が認識すれば、安くて安全な輸入農産物に充分に対抗できる。
私が現在展開している「田んぼ市民運動」は、将に米という商品を売るのではなく、米を作っている「田んぼ」が多様な生きものを育んでいるという認識を共有することなのだ。農家と消費者が共通の認識を持った時点で、商品経済の関係から脱却し、新たな絆が構築されるので、そこにアメリカの輸入JAS有機米が入り込む余地は無い。そこでは田んぼの生きもの調査が新しい関係性を構築している。運動に参加している市民は消費者ではなく、日本の国土である水田を守るという地域活動に参加しているのである。
これは米だけでなく、麦、牛肉、乳製品、砂糖でも同じような取り組みが展開できる。麦や砂糖大根のような畑作作物は生産性だけを追求するだけでなく、地域環境との関係性やその食文化の歴史等に対する認識を共有する活動を展開する。畜産についても経済性を重視した輸入穀物による飼育から転換し、家畜にストレスを与えない飼育や地域の環境を活かした飼育、新しい料理文化を提案してゆけば、新しい関係性を構築できる。ちなみに私達は家畜のストレス調査も実施している。
遺伝子組み換えもJAS法による表示がISD条項に抵触するのであれば、市民が流通に対して任意表示を求める運動を展開し、その仕組を市民の手でつくればISD条項に対抗できる。BSEの月齢問題も同様で、遺伝子組み換えの仕組みを市民がつくれば良いのであって、そうすれば30ヶ月以上の牛肉がアメリカから輸入されても対抗ができる。市民皆保険も市民の手で市民健康保険を守る仕組みをつくれば対抗できる。
このようにアメリカが仕掛けてきたTPP戦争に対して、私達は市民として守る仕組みをつくることが大切で、国に文句を言っている時代は終わったのである。私はブログでスイスの国防のことを書いたが、市民が地域から立ち上がることが大切であり、政治家や官僚に任せる「縦の社会構造」の時代は終わった。一人ひとりが自分の住んでいる地域から活動を展開する「横の社会構造」が今、必要とされている。
2013-03-12
アベノミクスとアダム・スミスの国富論(その1)
アベノミクスの効果測定をする前に円安株高が進行している。春闘では定昇プラスαの会社もあるようだ。何となくデフレから脱却して日本全体が経済的に豊になるという観測が出されている。
待てよ。本当に豊になるのかな?ガソリン代は上がり、野菜は高止まりし、節電しているにも関わらず電気料金は上がり、下がっているのは私の年金と正規雇用。年金は昨年の6月と今年の2月の2回に渡って引き下げられている。年金は物価スライドなので、何時上がるのか全く分からない。そして輸入原料を使用した食品が直に上がり、来年からは消費税が待ち構えている。可処分所得は間違いなく下がっている。
ここで文句だけを言っても始まらない。このような社会の仕組みは既に出来上がってしまっており、これを富が偏在する格差社会という。可処分所得が多い人は余裕金を株式投資にまわして利益が上がり、可処分所得が低い人は爪に火を灯して生きてゆくしか無い。これでは「レ・ミゼラブル」ではないか。
デフレ脱却は一体誰のためにやっているのか。本当に国民のためなのか。インフレ目標値を定めて、日銀に金融政策の連動を強制している。日銀は物価の番人から物価の火付け役に役割を変更しようとしている。
GDP=消費+投資という経済法則を盾にアベノミクスは進められているが、GDP経済成長は常に右肩上がりでないと、国民は幸福ではないのか。ブータンではGNHと言っているではないか。「経済」という言葉は福沢諭吉の「経世済民」から来ているそうだが、民は救われていない。
バブル崩壊後、GDPを挙げるために投資「公共投資」を増やし続けて 1000兆円という借金を作ってしまった政治家と役人。それを許してしまった選挙をした国民。民主党は本当に馬鹿だったのだろうか。1000兆円は一体誰が払うのか。私達の責任を後世代に押し付けて、我々は死に逃げをするのか。どうも何かがおかしい。
そこで経済と言う名の学問を確立したアダム・スミスは間違っているのではないかという疑問を抱いて調べてみた。彼は国富論という書物のなかで経済の原則論を書いている。有名な言葉は「見えざる手」であるが、これは人間の欲望が経済を動かしていると一般的には言われている。私は経済学者ではないので、一般人としての理解度で読んでみるとこんなことが書いてあった。
アダム・スミスが生きていた18世紀のイギリスは現在の日本と酷似している。オランダに代わって大西洋貿易の覇権を握り、産業革命によって生産技術の革新が進み、生産量は1.4倍となった。その内の輸出関連は2.6倍、非輸出関連は1.1倍であった。ちなみに農業生産量は1.2倍であり、将に貿易立国であった。16世紀以降、農村から都市への人口移動が進み、農村からの労働者が都市部の工業発展を支えていたが、都市部では格差と貧困が広がっていた。更に国債残高はオーストリア継承戦争、7年戦争、アメリカ独立戦争の戦費を調達するために膨れ上がり、税金の増大は避けられない状況であった。
そんな時代にアダム・スミスは「道徳感情論」と「国富論」という書物を著した。国富論はよく知られているが道徳感情論はあまり知られていない。しかし国富論の「見えざる手」を正しく理解するためには、道徳感情論を理解しなければならないと言われている。道徳感情論とは何か書いてある本かと言うと、「社会秩序を導く人間の本性とは何か」ということを解説している。人間にはそれぞれ良心があり、その良心によって自制が働いている。しかし良心といえども正義に反する行為に対しては自制が効かない場合があり、それを制御するために「法」がある。それらの良心と法によって社会秩序が実現する。この良心とは、種としての人類の保存本能であり、「見えざる手」に導かれるのが良心である。つまり「見えざる手」とは無制限の利己心が放任された形では無いのだ。(私なりに解釈したが良く分からない)
国富論のなかで、「見えざる手」が言及されている部分には次のように書いてある。自分自身の利益を追求する事が、実際にそれを促進しようという意図する場合よりも、しばしば社会の利益を効果的に推進する場合がある。これは市場の価格調整メカニズムのことであるが注意すべき点は、市場が公共の利益を促進するためには市場参加者の利己心だけでなく、フェアプレイの精神が要求される事を忘れてはならない。フェアプレイのルールが侵犯される場合に市場は本来の機能を果たすことはできない。現在の公共事業への投資は、フェアプレイのルールに則っているのだろうか。
金が金を生む極地と言われたリーマンショックの時に、「道徳心無き見えざる手」が話題になった。アダム・スミスは国富論のなかで「金」についても次のようにも書いている。市場の拡大とともに交換媒体として貨幣が用いられるようになり、人々の間に貨幣を富と思い込むという錯覚(貨幣錯覚)が生じた。自分が所有する貨幣の名目額が増えれば、自分が豊になったと思い込むようになった。しかし本当に価値があるのは貨幣ではなく、それと交換される必需品や便益品であるのだ。国富論を著した目的の一つは、この錯覚から人々を覚醒させ、真の豊かさをもたらす一般原理に導くことにあったそうだ。
残念ながら現代人の殆どはこの「貨幣錯覚」という病気にかかっている。

