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BASC理事長 原耕造のブログ

2012-05-11

科学的安全神話とデカルト

16:48

 科学的安全神話はどのようにしてできあがったのか。その発端はフランスの哲学者であり数学者でもあったデカルトの物心2元論にあると言われている。物心2元論とは、それまでのアリストテレスやキリスト教の中世哲学の考え方から転換し、自然を精神から切り離し、自然現象を質量や距離などの数値からとらえて、数学的な法則を明らかにしようとする物理学の理論的背景となった。その後、ニュートンの万有引力の法則を始め基本的な物理法則が次々発見され、「天体から地上の物質まで、自然界の全ての運動が単純な物理法則に支配されている」「世界の全てが物理法則に従って動いている」という世界観が生まれた。

 物理学の基礎となる幾何学は、誰も疑うことのできない簡単な公理から、厳密な論理を積み上げる学問であり、その時の精神の働きは全く論理的なもので論理的精神とも呼ばれている。それは厳密な推論を基調とする、分析的、客観的な学問に向く思考形態なのだ。この「科学的な精神」によって人間は自然の神秘を解明することができた。その結果、すべての事柄が数式で表現される科学万能主義に人類は陥ってしまい、科学万能主義の極地が原発安全神話だった。

 デカルトは「我思う故にわれあり」という有名な命題を残しているが、同時代のパスカルは瞑想録のなかでデカルトの行き過ぎた科学的精神に注意を促している。「人間は考える葦である」という有名な文章は誰もしっているが、意味は「人間はか弱い葦にすぎないが、考えるという行為ができる。それが人間の尊厳のすべてであり、このことによってのみ、人間は宇宙(自然)に優ることができる」というように科学は万能ではないということを見抜いていた。科学的な精神によって人間は自然の神秘を解明することができたが、自然の複雑な事象を論証に頼らず、直感的・全体的に把握する、柔軟性に富む認識能力、すなわち「直感的な精神」も人間は合わせて持っており、数字や数式で表せない精神の大切さを説いている。数字で表せない精神とは、芸術を感じる心、魂の世界を感じる心、神の存在を認識する心、死後の世界をとらえることのできる心、これらの心は人間に本来備わっているもので、人間だけが持つ独特の精神だと言っている。

 3.11まで私たちは科学文明に絶対的信頼を置き、宇宙という神の世界も科学で解明できると思っていた。総ての価値観は数字で裏付けられ、数字で表現できない価値観は「非科学的」であると思っていた。数字で表現できない愛、命、芸術なども脳への電磁パルスでいずれ表現できるようになると思っていた。今回、問題提議している放射能廃棄物の処理方法も、科学の発達でいずれ解決できると思っていた。しかし3.11で、死は何の前触れもなく突然襲ってくるという事実を、鮮烈に突きつけられた。豊かさや幸せに満足し、溺れて、その背後に密かに隠れていた「死」について考えることを疎かにしてきた。幸福感を感じながらも、心からの安心を得られなかった理由は、死と生が隣合わせに存在しているという厳然たる事実を忘れていたからに他ならない。

 しかし今でも防潮堤の高さを30mにすれば津波は防げると思っている。そして原発を再稼働させて、処理のあてのない放射性廃棄物を再生産し、問題を10万年後に先送りしている。偽装停電なんてことを考えるよりも、もっと大切なことを忘れている現代の日本人を見て、パスカルは「日本人は弱い葦であるが、考えない葦である」と言って笑うことは間違いない。

偽装停電と10万年後の安全

16:46

 偽装停電の文章は既に紹介したとおりである。私はこの文章を読んだ時に、原発再稼働に関する議論はこれで良いのだろうかと思った。別に田中さんの文章が間違っているわけではなく、田中さんを含めた最近の政府とマスコミの原発再稼働に対する基本的論点がずれているのではないかと思うからだ。それは最近の原発問題であまり議論になっていないが重要なことの一つに、原発再稼働によって放射性廃棄物が再び排出されることだ。放射性廃棄物について、まだ世界では最終的な処分方法が確立されていない。40年以上前から原発は「トイレのないアパート」と言われており、問題は先送りされているだけなのだ。

 このような問題を考えていた時に「10万年後の安全」いうDVDを発見して

見たところ大変なショックを受けた。You tube でも見れるので以下をクリックして欲しい。

http://www.youtube.com/watch?v=56JrtTWAyAY

内容はフィンランドのオルキルオント島にオンカロという使用済み核燃料の最終処分場が建設中で、そこでの問題点を指摘している。フィンランドにある4基の原子炉から出る放射性廃棄物を22世紀までオンカロに格納し、そこを封鎖する計画なのだ。放射性廃棄物は世界で25万tあると言われており、現在ではオンカロのように長期保管する方法が一番コストが安いと言われている。この施設は自己完結型で施設封鎖後10万年間放置できるように設計されている。ここで私が驚いたのは10万年という期間である。10万年後の世界は誰も分からないし、10万年後の人類が放射性廃棄物施設とは気が付かず封鎖を解いてしまったら、広範囲に放射能汚染が広がることは間違いない。

今から10万年前の人類はアフリカにおり、ヨーロッパにはネアンデルタール人がいた。10万年後の人類はどのような知識を持っているか誰も分からない。10万年後に地上がどのようになっているか誰も分からない。オンカロの地下は18億年前の岩盤で守られているので施設が崩壊することはないだろうが、一番の心配は10万年後の人間が使用済み核燃料がそこにあることを知らないで開けてしまうことだ。人間の行動は予測できない。このような問題を指摘しているDVDなのだ。

原発再稼働で電力料金が上がるとか、電力不足になると中小企業が倒産するとか、それは偽装停電であるとか、様々な意見がある。しかし原発を再稼働させるということは、10万年という先まで問題を先送りする放射性廃棄物を再び出すということを認識しなければならない。10万年後の人類に問題を先送りするのが原発稼働の問題なのだということを認識すれば偽装停電どころの話ではなくなる。3.11で科学的安全神話は自然という力の前では無力とかすことが分かったのであれば、それを繰り返さないのが人類の知恵ではないだろうか。今回の放射性廃棄物問題はその科学的安全神話そのものも確立されておらず、ただ将来の科学の発達に期待をかけ、問題を先送りしているだけなのだ。

偽装停電

16:45

 原発再稼働を巡って様々な議論が展開されているが私のところに友人から以下のメールが送られてきた。「偽装停電の夏を食い止めよう」と題して、環境活動家の田中優さんが次のように原発推進派の作戦に関した文章を発表しています。

5月5日の今日、北海道電力の泊原発が停止し42年ぶりに原発の稼働していない日を迎えた。うれしい日に申し訳ないのだが、この先の不安を伝えたい。ぼくとしては珍しく、拡散してほしい話だ。何かというと「偽装停電」の不安だ。市民が「原発なしでも電気は足りる」と言っている最中、停電させるのは「やっぱり原発が必要なんだ」というPRに使える。

電力会社と政府は、去年も「計画停電」を偽装した。

その前に「需給調整契約*」を使って大口契約者の電気を止めれば足りたのに、それをしなかった。しかもピークの出ない土日や平日の夜間、街路灯まで消した。これは偽装だろう。そこまでする人たちが、この「原発は不可欠」と訴えたいこのタイミングを逃すだろうか?

もともと家庭の電気消費は少ない。2010年で年間わずか22%にすぎない。しかも足りなくなるのはピーク消費のある、ごく一時的だけだ。ピーク時の「夏場・平日・日中」は、家庭の三分の二は不在で、ピークの電気消費に対する家庭消費の割合は1割にすぎないのだ。だからそもそも家庭の問題ではない。節電すべきなのは事業者なのだ。

しかし大阪市の橋下市長はすでに、「産業には影響を与えず、家庭に冷房の温度設定など負担をお願いすることになる。安全はそこそこでも快適な生活を望むのか、不便な生活を受け入れるか、二つに一つだ」と話し、大飯原発3、4号機を再稼働の問題を、人々のライフスタイルの問題にすり替えている。それは橋下が2月に経産省や民主党幹部と隠密裏に意見交換した後のことだ。とっくに橋下は心変わりをしている。

偽装停電させれば、人々の「原発必要神話」は復活する。何とステキなプランだろうか。電気消費の半分を占める上位200社は守られて、中小零細では停電して、コンピュータの重要なデータを失う。しかし原発で豊かになるのは200社の側なのだから、これは魅力的な作戦ではないか。

ぼく自身、その問題があるので、無制限に「原発なしでも電気は足りる」とは言って来なかった。「こうすれば足りる」と、具体的な節電策やら料金設定やらを提案してきたのはそれが理由だ。日本の電力業界は信用に値しない。日本でなら偽装は可能だと思う。他の先進国よりはるかに情報が公開されておらず、昨年の「計画停電偽装」の実績もあるのだ。日本で隠しおおせる可能性は高い。

ピーク時に電気が足りてしまう危険性は大きく四つある。

1.揚水発電の緊急電力

2.他の電力会社からの融通

3.電力需給調整契約

4.自家発電などの余剰電力 だ。

ぼくが電力会社だったらこうする。

まず、揚水発電所が使えないようにするために発電所の稼働数を減らす。揚水発電は単なるバッテリーだから、前日までの電気があれば貯めておけば足りてしまう。ここに水を貯めておく余裕はなかった、夜間の深夜電気に余裕がなかったと言っておけばいい。すでに関電は使うことのできる緊急用の老朽化した火力発電所は一基だけだと発表済みだから、この点はカバーできている。

次に、他の電力の融通を受けない仕組みにすることが大事だ。関西電力は、実は中電・北陸電力中国電力と送電線がつながっていて、余剰電力を受け取りやすい位置にある。実際には、この融通電力は非常に高くつくことが問題だ。「受け取るより原発を動かしたい」のが再稼働を求める本音だ。だから他の電力会社もひっ迫していることにする。それはすでに各社発表済だ。

三つ目に大口の大手会社に協力してもらい、停電しない根拠とされてしまう「電力需給調整契約」を結んでおく。東京電力はこれで計画停電を避けられたはずなのに、それをせずに計画停電を実行した。ばれないならそのままでもいいかもしれない。でも万が一のことを考えて契約数を増やして、「大口の大会社も努力してくれているんです」と主張できるようにしておく。

四つ目に大企業が持っている自家発電を頼れないものにする。これは電力会社以外の電気を買い取る実績になるからもともとしたくない。東京電力もしなかった。とすれば「系統が不安定になる(電圧が不安定になる)」とでも言っておけばいいかもしれない。もしくは邪魔になる自家発電を停止させるのがいいかもしれない。「自家発電電気のひっ迫」や「緊急時の発電機は不安定」と言っておけばいいかもしれない。

そして偽装停電させる。中小零細企業は特にバックアップ電源を持っていないから、当然騒ぐだろう。「どうしてくれるんだ、市民がバカみたいに原発なしでも電気は足りると騒いだ結果、我々の業務には大きな被害が出た(実際に大きな被害が発生するだろう)。やっぱり原発なしでは雇用も守れない、原発再稼働は生命線だ」と怒りだす。しめしめ、これで原発は当分不滅のものになる。

これが偽装停電のシナリオだ。橋下市長は上に見たようにすでに主張を変え、現実には関係のない「市民のライフスタイル論」に責任をなすりつけている。すでに大阪市を手伝っている市民活動家は梯子を外されている。彼らの面子に配慮したりはしないだろう。

このことを多くの人たちに知らせてほしいのだ。もちろんテレビも新聞もあてにはできない。後になってから「検証」なんて言うだけだ。しかし今の私たち市民には、インターネットとSNSがある。彼らが偽装停電ができなくなるくらいに多くの人に知らせよう。ここは市民の伝達力と、原子力マフィアの伝達力の勝負になる。もちろん彼らの方が物量ともに圧倒的だ。しかし市民の小さな伝達が何度も繰り返し行われることで、彼らの偽装停電を止められることになるかもしれない。

「需給調整契約」とは、大口企業の電気代を割安にする代わりに、電力需給がひっ迫した際に、電気利用の削減義務を負う契約。

16:45

具体的には数時間前に連絡を受けて、工場を止めたり、冷房を切ったりする義務を負う代わり、電気料金を安くしてもらう契約。

2012-04-11

TPPとGURの酷似

16:36

 私はこれまで、様々なところで20年前のGUR(ガットウルグァイラウンド)と今回のTPPが非常に似通っているということを話している。具体例として新聞の見出しが20年前と今回が殆ど同じことを挙げて説明している。ここで1993年の12月の日本経済新聞の見出しを列挙してみる。

12/7「韓国農業支援拡大へ」「近代化投資を柱に」「開放控え環境整備」

12/8「不安・決意揺れるコメ農家」「農政信じられぬ」「自助努力で応戦派も」12/8「農地の大規模集積化推進」「関税化猶予 再延長に厳しい条件」「2001年以降、政府筋「合意済み」

12/8「国会決議に反せず」「首相答弁 コメ自給原則堅持」

12/8「コメ開放反対 氷雨の空へ訴え JAなど都内で」

12/9「サービス分野 米強硬姿勢崩さず」「金融開放など不満」「韓国コメ開放今日発表」

12/10「政府筋書き乱れ混乱」「不透明な交渉・譲歩」「官邸への反発噴出す」

12/11「農業安楽死ノー」「コメ開放阻止 全中、消費者と集会」

12/11「閣僚懇 首相疲労の色濃く」「コメ決断 先送りに閣僚は一息」

12/12「コメ説得お国入りつらいよ」「与党代議士、板ばさみの週末 支持者に平身低頭」

12/14「コメ開国先見えぬ農家」「農政不信に後継難」「生き残りへ産直米に望み」12/14「食卓には不安・期待交錯」「安い外米魅力 安全性を問う声も」「輸入は最低限に」

 このようにまるで現在の新聞記事の見出しと間違えてしまうほどだ。更に、一連の見出しを見て気づくことは、20年前の記事にガット交渉の本質的内容についての説明が見当たらないことだ。これらの見出しからはアメリカがガットを通じて日本にコメ開国を迫り、日本の農家が反対闘争をしているという構図しか見えてこない。当時、国会では3回もコメの輸入自由化反対の決議をし、一粒たりとも輸入させないというスローガンだけが独り歩きしていた。この頃はまだ中選挙区制の時代で、国会議員は自分の議員としての保身のために農協の踏み絵に抵抗できなかった。ガットが世界の農業保護政策のあり方の協議をしていたという真実は殆ど報道されず、国会議員から農業保護政策の転換の提案があったという新聞記事も見つからない。

 21年前の1992年のガット交渉でヨーロッパが農業保護政策の転換をした事実の解説記事もあまり見当たらない。本来であれば、このヨーロッパのガット妥結内容を日本人が理解していれば、国会で3度も反対決議をすることは避けられたのではないかと思う。更に1992年という年は、リオデジャネイロで第1回の地球環境サミットが開催され、気候変動枠組み条約と生物多様性条約が締結されたのだ。両条約とも農業とは深い関係性を持ち、それが転換した農業保護政策の環境直接支払いとリンクしてゆくのだ。このような世界の大きな流れを把握していれば、ガットの交渉の妥結点も自ずから変わらざるをえなかったのではないだろうか。

 日本政府は従来型の高関税に代表される価格による農業保護政策しか国民に示さず、アメリカとの対立の構図だけを煽り、日本の稲作農家を弱者に仕立て国民の判官贔屓の感情を利用して自由化の結論を引き伸ばしたというのが冷静な歴史の判断ではないか。国民はガットの結論として輸入自由化を阻止したと思っているが、事実は輸入自由化の結論を2001年まで先延ばししただけだった。このことをあまり明確にすると、ガット交渉結果は国会決議違反となるので、誰かが責任を取らなくてはならなかったはずである。2001年までコメの自由化が猶予されただけであって、その見返りにMA米という重荷を背負わされたのであるがきちんとした解説記事は見当たらない。

 20年前に韓国が日本より先にガット合意したことと、今回の米韓FTA締結が日本のTPP参加を促進させる状況など非常によく似た展開である。実は韓国はガット合意以降、農業の近代化と合理化を進めたがうまくゆかず、1997年に家族農業を大切にする農業政策に転換をしているのだ。直接支払い政策も日本に先行して実施されているし、有機農業を軸にした農業が推進され、私達も有機農業のマーケットを広げるために韓国の生協と一緒になって生きもの調査の運動を広げている。残念ながら韓国のFTA反対運動だけが情報として提供され、地道な市民活動は日本に情報として提供されていない。

 20年前のガット交渉の失敗は交渉内容を国民に分かりやすく解説しなかったことと世界の動向を的確に状況判断できなかったことに起因するのではないだろうか。今回のTPPでも全く同じ状況が展開されている。本当に国民の健康と命に関わる農産物の貿易自由化が正しいことなのか。国民の健康と命に関わる医療制度を脅かすような障壁を撤廃していいのか。今、原発再開で揺れているが、この問題も原発が国民の健康と命を脅かす危険性を持っている以上、国民が納得する説明ができない限り再開してはならないはずだ。国民も政府やマスコミの情報提供を待つのではなく、自ら情報を収集して自分の意志を明確にしなければならない。これが20年前からの教訓である。

2012-04-09

TPPと国益

16:28

 先日、TPP議論をしていて気がついたことがあった。一つはTPP参加が日本の国益を損ねると言われているが、TPPは本当に国対国の利害が対立しているのか。国益とは一体何を指すのか。TPPのGDPへの影響を試算したモデルでもマクロ経済効果は殆どないと言われ、その反対に産業分野でのマイナスの影響が大きいという結果がでている。それにも関わらずTPPが進められている理由は、国益の向こう側に隠れているグローバル企業の世界での自由な活動を阻害する要因を排除することが国益と称せられているからではないか。

グローバル企業は国境を超えた存在であり、利益と配当を最優先に考える。そこには国としての「地域の暮らしと命を守る」責務は存在しない。グローバリゼーションと市場原理主義を旗印に世界で活動を展開しているグローバル企業の利害が対立するのは、企業活動に不都合なそれぞれの国の仕組みや制度ではないか。それぞれの国の仕組みや制度はその国の歴史と風土に基づいて国民を第一に考える仕組みであり、国際化を前提にしていない。その仕組や制度を変えることによって一番迷惑を受けるのは国民ではないか。グローバル企業はその仕組みや制度を変えた国で企業活動を展開して利益をあげる。こんな利害対立の構図が見えてくる。

 日本でも1990年代半ばに「規制緩和」という名のもとにグローバリズムと市場原理主義が導入されたが、国民経済は不況から脱出できなかった。規制緩和によって食管法から食糧法に制度が移管し、国はコメの価格統制機能が無くなり、米価は下落の一途をたどった。一方、日本に籍を置くグローバル企業は企業買収を繰り返し、工場の海外移転を進めた。その後、リーマンショックによって金融関係のグローバル金融機関は打撃を受けたが、日本の金融機関はバブルから完全に回復していなかったのが幸いした。今回の問題でも日本のグローバル企業はアジアのマーケットに対してTPP参加が企業利益にとってどのように作用するかという立場で政府に働きかけていることは間違いない。日本のグローバル企業にとって、日本の医療制度や農業がどうなるかは関心事ではなく、企業利益がどうなるかが最大の関心事なのだ。

このように今回のTPP参加問題を「国益」という視点で捉え直してみると、今、世界で何が起きているのかが見えてくる。TPP以前にはWTOがあり、その前にはガットウルグァイラウンドがあった。本来は世界平和を目的に自由貿易を堅持するために存在したGATTであり、WTOであったはずのものが、何故、TPPやFTAEPAといった2国間や限定された経済圏の交渉に移管せざるを得なかったのか。私は専門家ではないので勝手な推測であるが、1995年以降のグローバル企業の動向が多国間交渉という世界の貿易ルールを決める場の機能を奪ったのではないかと思う。グローバル企業といえども世界の総ての国の制度を相手にして、自分の企業に都合の良いルールづくりはできない。そこでWTOドーハラウンドを挫傷させたのであるが、GATTの設立趣旨からするとブロック経済圏に移行することは世界平和に逆行することではないのか。グローバル企業は従来の国対国の貿易という概念を変え、企業内倫理規定に基づいて行動している。それはGATTが目指した世界平和へ貢献する自由貿易と同じものなのだろうか。

私は違うと思う。その理由はグローバル企業が国と違って軍隊を持たないからだ。その結果、TPPは経済圏交渉であるにも関わらず、国別の安全保障と深く関わっている。だからTPPを単純に参加国のGDPだけで判断したり、日米安保に基づく中国対策などという単純な図式でみてはいけない。今回のTPPの最大の焦点はアジアのマーケットに対する戦略であり、そのためにTPPの対立する動きとしてASEAN+6の存在が顕在化している。そこにはインドが参加し、ロシアも興味を示している。これらの国との関係は、日本との個別の関係だけでなく、中国とベトナム、中国とカンボジア、ベトナムとカンボジア、ミヤンマーとラオスと中国、タイとカンボジア、タイとマレーシア等の関係が民族、歴史、宗教等の対立のなかで複雑に絡み合っている。更に、南沙諸島の問題や尖閣諸島や竹島問題等の利害関係をそれぞれが持っている。今回のオーストラリアのダーウィン基地の問題も沖縄の基地移転問題と合わせ中国との関係性でみなければならない。

このように今回のTPP参加問題は従来の単純な経済問題ではない。そこには新しいグローバル企業と国民の利害関係、グローバル企業と国際軍事バランス、先進国と発展途上国の利害関係、それらの関係性のなかで自分たちの国の仕組みや制度に基づいた地域の暮らし、そして私達の命と将来の子供たちの命をどのように守るのかが問われている。今、日本では3.11以降、FUKUSHIMA問題を契機に人間としての生きる価値観が大きく変わろうとしている。国益とはGDPなど数字で表される経済的価値ではなく、国民の暮らしと命を守ることであることを再確認しなければならない。

2012-04-02

絆と田んぼ市民

16:37

 前回、国土を守るという共通認識で絆を作る話をしたが、今回は水田という国土を守る具体的な話をしてみたい。

 私は数年前から生きもの調査活動を通じて「田んぼ市民運動」を提唱している。この運動は農業の持つ環境サービス機能を多くの人に理解してもらい、環境直接支払いが可能となるような世論形成が目的であった。当時のテレビ討論会等で農業問題を議論すると殆どが食料という経済サービス機能に特化されてしまっていた。価格問題では規模拡大による国際競争力の確保、食の安全問題では農薬問題や有機農産物問題、食料安全保障問題では自給率や地産地消問題、流通問題では規格の簡素化、表示の適正化問題等が議論されていた。20年前に世界の農業保護政策は関税化による価格支持政策から転換していることを意識していない。更に農業保護政策が産業政策と地域政策に分けられ、EUでは農業が地域の環境政策に貢献していることに対して環境支払いが進んでいる事等の認識が殆ど無いことが番組で証明されていた。この問題は今日のTPP参加問題の本質を議論する際に一番必要な認識なのであるが、総ての価値をお金に換算して考えることしかできない社会では困難を伴うのみと思っていた。しかし3.11以降、日本人の価値観も大きく変貌しつつあり、今後に大いに期待している。

20年前にOECDでは農業の多面的機能を金額で表現したが、保水機能がダム何個分で金額的には何億円であるといっても、殆どの国民は実感として理解できない。私はその実感できない部分を補うために、実感できる手法として「生きもの調査」を始めた。当初は生協の産直交流会のイベントとしてスタートしたがそれには理由があった。産直交流会は生産者と消費者の顔が見えることが大切で、それは「食の安全」を切り口にしていた。当時はそれが産消提携の絆だと言われていたが、私には経済的利害関係の契約にしか見えなかった。私は経済的利害関係を超えた「共通言語」を生きもの調査で創造しようとしていた。

その後、生きもの調査が進展するにつれて「お米」という商品を介在する関係は生産者と消費者だが、「生きもの」が介在する関係をどのように表現したらよいか悩んだ。生きもの調査に参加している人たちには経済的利害関係は存在せず、そこには「生きものを育む田んぼを守る」という共通の目的を持った人間しかいない。田んぼの生きものを育むには、そこに田んぼが存在し続けなければならない。お米という商品の生産装置として田んぼが介在するのは生産者と消費者であるが、生きものを育む田んぼ守る人たちは「田んぼ市民」という呼称にしようということになった。

 当時はあまり「絆」ということを意識しなかったが、田んぼ市民運動は将に田んぼを介在にした「絆づくり運動」だったのだ。現在は生きもの調査を実施している市町村やJA管内を特定し、そこの農家が田んぼ市民になり、その地域の農家でない人も生きもの調査に参加して田んぼ市民になり、そこで生産されたお米を食べている地域外の消費者も賛同して田んぼ市民になるという運動になっている。同じ市町村のなかでの生きもの調査が介在する「地縁」という「絆」。物理的な距離は離れているが生きもの調査をしている田んぼを一緒に守る「産直」という「絆」。更に田んぼ市民は田んぼの生きものたちと「絆」を結び、田んぼの存続を支援する活動へとつながる。

 日本国民がなかなか理解できていない、農業政策のなかの地域政策、そして環境サービスという概念をこの運動を通じて理解して欲しいと思っている。田んぼ市民による相互支援は将に「絆」による民間型の環境直接支払いであり、このような関係性ができればTPPで関税が撤廃されても日本の国土である農地は守れる。TPP参加の議論と反対運動に向けるエネルギーがあるのであれば、田んぼ市民運動を積極的に展開するエネルギーに転換することをお勧めする。20年前に3度も国会決議をした米輸入自由化反対運動のその後を総括してみれば、今やるべきことが見えてくる。

2012-03-22

農地と国土と絆

11:58

 前回は農地が生む「絆」について書いたが、TPP参加交渉問題をこの視点から書いてみたい。

 エルサルバドルは1990年代にアメリカの要請に応じてコメの輸入自由化を実施した。その結果、アメリカからの輸入米が拡大し、価格的に対抗できないエルサルバドルのコメ農家は崩壊し、国内水田は4分の1となった。その後、2008年に起こった穀物相場の急騰により、エルサルバドルの農村部では子供の栄養失調が広がった。

 この話をすると、「アメリカの言うことを聞いて輸入自由化をすると大変なことになる。だからTPP参加に反対すべきである。」という論理展開になってしまうが、この話で一番重要な点は何か。それは「水田が4分の1になった」ことだ。エルサルバドルでも穀物高騰後に自国の水田でコメの生産を復活すれば、子供たちの栄養失調も広がらずに済んだのではないか。TPP参加問題は農業と輸出産業という産業政策の面だけで議論され、関税を撤廃しても直接支払いで農家を保護すれば良いという論理を展開している人もいる。その論理に対して、直接支払いをする財源が無いという論理で反対している人がいる。本当にそんな議論でいいのだろうか。

 エルサルバドルはアメリカの強い影響下にある国であるが主権国家である。国民は安い価格のアメリカ米を選択するときに、自分たちの選択が子供の栄養失調につながる結果を予想したのだろうか。国民はコメを目の前にして、安い方が自分の家庭が経済的に助かるという単純な考えでアメリカ米を選択しただけなのだ。この選択をした国民をエルサルバドルという国家は非難できるのだろうか。

 20年前のガット交渉の時と同じことがTPP参加問題でも行われている。TPPに参加して関税が撤廃されたら困るのは誰なのか。日本の農家だけなのか。エルサルバドルの例に従えば、困るのは日本国民全体であり、弱者である子供たちではないのか。眼前のコメという商品の議論しかしていないので、国民にはそのことが分からない。コメの相場が下がれば、いずれ農家は自分の家族の分以外のコメは作らない。慈善事業ではないのだから。作付けをしなくなった水田は耕作放棄地になる。耕作放棄が長く続くとエルサルバドルと同様に生産の復活は直ぐにできない。コメの国内生産が減少しても、国民は食の安全を脅かされない限り安い輸入米を選択する。ここでコメの国際相場の暴騰の話をすると、TPP参加による輸出産業の利益によって国民所得は向上しているので、コメの価格上昇分は吸収できるという議論になる。堂々巡りの議論展開となる。

 エルサルバドルという他国ではあるがこの歴史の教訓を活かすためには何をしなければならないのか。これが見つからないと悲劇の歴史は日本でも繰り返される。重要なポイントは国民がコメという商品だけで議論していることではないだろうか。コメを作る水田が自国にあるか他国にあるか。これを生産装置だけで考えると工場の海外移転と同じことになる。コメの国内生産工場が円安によって海外に移転するという構図である。しかしここで考えなければならないことは、自動車や家電製品の工場が海外に移転しても経営は日本人が行なっている。日本以外の国が日本より高く製品を買ってくれるから日本への輸出は後回しにするということが起こるのだろうか。たとえ起こったにしても、日本人は電力不足にも耐えるようにクルマや家電製品が無くても耐えていける。

しかしコメの生産工場を海外に移転するという話では、経営は日本人が行なっていない。この点がクルマや家電製品との根本的な違いである。日本へコメ輸出を優先的にしてくれるという約束はTPPのなかにあるのだろうか。更にコメは日本人の命をつないでいる基幹食料であることを忘れてはならない。将に水田という国土は移転できないのである。

 国民の命を守ることが国家としての最優先事項であるのは皆が知っている。自衛隊が憲法違反だから解散すべきだという人はもういない。自衛隊は国民の税金で成り立っている。国民は自分及び家族の命を守るために税金を払っている。そうであれば、国民の命を守っているコメを生産する農家は税金を払ってでも守るべきではないか。自衛隊の活動は経済行為ではなく無償行為である。しかし農家の活動は経済行為だから、税金を投入するのはおかしいという人に対しては農地のことを考えてもらいたい。農家は農地がなければ経済行為ができない。農地は国民の命を守る国土であるから農地法により守られている。経済行為として農地を勝手に売買できないようにしている農地法は国民の命を守るためであって、農家を守るための法律ではない。農家は農地法によって自由な経済行為を縛られているが、それは国土を守るための制限である。農地は民法上、農家の所有権であるが、所有だけでは維持できない。農地は農家によって耕作する経済行為が義務付けられているからである。農地とはこのような制限のなかで守られている国土なのだ。農家は将に国を守る自衛隊と同様に、国土を守る人間なのだ。その国土が守れないような状況に追い込む仕組みがTPP参加問題なのだ。

ここでTPP参加反対の議論を中止してまっては20年前に戻ってしまう。国土と農地、自衛隊と農家の関係をしっかり認識してもらう努力をしないと、同じ問題が何度も繰り返される。しかし頭の中だけの理解では、エルサルバドルのように眼前の商品選択の際に家庭内経済が優先してしまう。そのような行動をしないような国民全体の意識改革を進めなければならないが、一体誰がするのか。残念ながら、それは農家しかいない。農地を持った農家は耕作を義務付けられるように、農地という国土を持った農家は国民の意識改革の義務を負わなければならない。農家は非農家を見ると総て消費者だと思ってしまうが、これでは問題は解決しない。農家は耕作することにより国土を守り、非農家は税金を支払うことにより国土を守り、ともに日本人として日本の国土を守る。国土を守るという行為が共有化されて、始めて日本人としての「絆」が認識される。