Hatena::ブログ(Diary)

BASC理事長 原耕造のブログ

2015-04-20

Amazing grace

14:13

最近は宗教と哲学の本を読みあさっている。新約聖書も少しずつではあるが毎日読んでいる。そんな生活をするうちに、自分の周りで様々な発見をするようになった。その一つがこの歌である。今までは単に賛美歌のうちの一つかなとか本田美奈子が歌っていた程度の認識であった。ここに歌詞の1番を英語で書いてみる。

Amazing grace! How sweet the sound!

That saved a wretch like me!

I once was lost, but now I am found;

Was blind, but now I see.

この歌詞に書かれている” wretch”という単語の意味と背景を知り、この歌が世界中で歌われている理由が分かった。Wretchという単語を辞書でひくと、「不運な人、悪いやつ」と書かれている。歌詞を直訳すると「神はわたしのような悪いやつでも救ってくれた」神様はなんて慈悲深い方なんだと思うのが普通の日本人である。しかしこの作詞をしたニュートンは信仰心があまりない奴隷貿易船の船長であったこと。アフリカから奴隷をアメリカに運ぶ途中、大嵐に遭遇し、絶体絶命になったこと。その時に神様に必死に祈ったこと。アメリカに到着後、しばらくしてから奴隷貿易の仕事を辞めて牧師になったこと。その時にこの歌詞を作ったこと。Wretchという言葉はわたしのような悪い奴隷商人でも神様は救ってくれたという意味なのだ。

ここで状況を日本人に当てはめてみると、どんな話になるだろう。海が荒れるのは海神様(ワタツミ)が暴れているからで、子供かお姫様を人身御供として海神様に差し出して鎮めてもらうという話になる。私たちの海神様は自然の神様であり、ギリシャ神話ではポセイドンである。自然神はその自然の多様性により様々に存在するので多神教と呼ばれ、キリスト教の神ヤハヴェは人格神であり、唯一の神であり、自然界を創造した神である。海神様もポセイドンもヤハヴェも困った時に頼む神様なのだが、どうも違うようだ。日本人は絶対神とか創造神という概念をなかなか理解できないと言われているが、何が理解できないであろう。私は神様との契約の概念にあるのではないかと思う。その契約も双務契約ではなく、一方的な片務契約なのだ。この片務契約が「絶対」の概念であり、アブラハムは旅に出ろという一方的な神からの預言を受け、更に息子のイサクを生贄に出せという一方的な神からの預言を受け、そこには拒否する余地が無い。いわゆる拒否権のない契約であり、それがキリスト教信仰(旧約聖書)の基礎になっている。ヨブ記に出てくる神はヨブが罪を犯していないと訴えても答えず、神に論争をふっかけるのかと言って一蹴してしまう。日本の神様にはこのような無慈悲な神様はおらず、いたとしても日本人は誰も信じないであろう。しかしヨブは子どもも財産も失っても神への信仰を失わず、最後の最後になってやっと神はヨブを救うのである。

何故このような神になったのかの背景はユダヤ人社会の歴史的変遷にある。ユダヤ人の連戦連敗と民族離散の歴史のなかで、ヤハヴェの神はユダヤ人だけの神ではなく世界を支配する唯一の神となったことを理解しなければならない。自然神はそれぞれの文明の地域における気候と風土を背景にして成立しているので、属地的属人的な性格を持っている。和辻哲郎の文明風土論に民族としての歴史を加えないと唯一絶対の創造神は理解できない。日本の神様はニュートン船長のような悪人でも救ってくれる。親鸞の悪人正機説などは更にそのうえを行く仏様の慈悲の深さを物語っている。そこには神様と仏様との契約は無い。私たちの現在の社会はこのような絶対神を背景にしたキリスト教社会が作ってきた西欧的価値観の中にある。私たち日本人のDNAにある価値構造と絶対神を背景とした西欧的価値構造とのギャップが今、顕在化しているのではないだろうか。

2015-04-01 哲学と宗教

哲学といえばギリシャ。誰もが知っていることだが、何故、ギリシャで哲学が起こったのか最近まで知らなかった。理由は簡単であった。ギリシャは海洋都市国家で繁栄し、地中海沿岸の様々な国と交易をしていた。交易をするうちに自分たちが信じているオリンポスの神々の神話が普遍的で無いことを知った。つまりエジプトやメソポタミアにはそれぞれの神話があり、それぞれの神話はギリシャ神話と同様に太陽や月、山や海等の自然を創造し、愛や戦い、豊穣や多産の神々がいることを知ったのだ。それまでは自分たちのギリシャ神話だけを信じてきたが、真実は違うのではないかという疑問を持つようになった。「哲学とは疑うことであり、宗教とは信じることである」という言葉通りである。

その疑う哲学は宗教と全く関係ないと思っていたら、それも大間違いであった。プラトンの著書「ティマイオス」に「デミウルゴス」という世界の創造者が登場するのだ。それはイデア世界とは対極の物質的世界の存在を説明する為に、イデア世界を真似してデミウルゴスがこの物質世界を創造したという神話である。プラトンは「本当に実在するのはイデアであって、我々が肉体的に感覚している対象や世界というのはあくまでイデアの《似像》にすぎない」という私には理解出来ないことを言っている。どうもイデア論とは魂が存在する精神世界のことであり、その精神世界が優先することを説明するためにデミウルゴスがいる物質世界の説明をしたようだ。

デミウルゴスはユダヤ教のヤハヴェそのものであり、万物の創造主であり、国土や自然を作ってきた。そこで創造主はどのようにして国土や自然を作ってきたのか。実はその背景には哲学があり、万物の根源アルケーを説いたアナクシマンドロスピタゴラスの定理や輪廻転生を説いたピタゴラスが存在し、哲学とは数学や自然学の総称なのだ。つまりヤハヴェは日本のイザナミ・イザナギのように天の橋にたち矛で混沌をかき混ぜ島をつくるのではなく、コンパスを持って万物を創造したのである。そのヤハヴェのコンパスの使い方を知ることが自然学であり、創造主の方程式を解く作業が自然科学なのだ。プラトンの弟子であったアリストテレスがイデア論を否定して、物質世界をその形相(カタチ)と質料(原材料)が不可分に結合した「個物」こそが基本的実在であると説き、自然学の祖と言われた。更に、人間や動物には形相が無いが、人間を人間たらしめているのが「霊魂」だという。ここまで来ると頭が混乱してくるが、ギリシャ哲学に輪廻転生や霊魂という考え方があることを知った。

これらの哲学の流れを追ってゆくと旧約聖書とキリスト教神学に行き着くことが分かった。旧約聖書はメソポタミア文明にいたアブラハムから始まるが、ユーフラテス川の氾濫がノアの方舟の話になり、ユダヤ教の律法となるモーゼの十戒はエジプト文明からの脱出であり、ヘレニズム文明がヤハヴェの万物創造に哲学という科学的性格を加え、更にバビロンの捕囚時代にユダヤ人の選民思想が生まれた。そのユダヤ人だけを救う救世主(メシア)思想を変えたのがキリストであり、復活によって救世主であることを証明した。更にギリシャ人であるパウロがギリシャ語で新約聖書を書き、キリストがユダヤ人だけでなく万民を救うことをローマ帝国に広めた。

その後、キリスト教がローマ帝国内に広がってゆくためには、キリストが人間なのか神なのかの論理的整理が必要となり、在来の自然神との関係性の理論的整理も必要となった。そこに初めてキリスト教神学という哲学が起こり、アリストテレスの影響を受けたアウグスティヌスやトマスアクイナスがその後の世界に大きな影響を与えた。例えば神学大全を書いたトマスは、神の摂理が世界を支配しているという神学的な前提から「永久法の観念」を導きだし、そこから理性的被造物である人間が永久法を「分有」することによって把握する「自然法」を導き出し、その上で、人間社会の秩序付けるために必要なものとして、人間の一時的な便宜のために制定される「人定法」と神から啓示によって与えられた「神定法」という二つの観念を導きだした。私たち日本人が議論している憲法論議では「人定法」の議論だけであり、その憲法を定めたのが外国人だからけしからんという話である。憲法に定められた「平和」は「人定法」ではなく「自然法」であり、更に「永久法の観念」なのだ。残念ながら自然法の議論は国会では聞かれない。

このように現在の世界の価値観を規定している西洋文明の背景には哲学と宗教が存在していることを日本人は忘れている。私たちは学校で受験知識としてだけ学んできたが、内容は全く理解していない。私は今になってやっとヨーロッパで生活していた時の様々な彼らの行動様式に対する疑問が溶け始めた。そして私たち日本人が「信じてきたもの」とは一体何か、日本に哲学が生まれなかった気候と風土と地理的条件を見つめ直す必要があると感じている。私はここで日本に哲学が存在しなくて残念だと言っているのではない。哲学の基本である「疑うこと」をしなくても生きていけた日本という国の素晴らしさを認識しようというのである。そうした文明比較の中でもう一度、西洋文明が作り出した「民主主義の仕組み」の歴史と目的を認識し、それを日本の歴史と風土に照らして新たに作りなおすことが、現在の日本人の使命ではないだろうか。

2015-03-23 信仰と理性

最近、キリスト教に関するブログを書いているが別に頭がおかしくなったわけでは無い。信仰というものが人間の理性的行動に対してどのような影響を与えるのかということに興味を抱いたからである。西欧人が環境に対する意識転換をした理由を調べていくうちに最後の審判に辿り着き、戦後70年の総括をしているうちに戦後の神道廃止令が日本人から信仰を奪ってしまったことに気づいた。

私たち団塊の世代は戦後教育のなかで歴史の表面部分だけを学び、その本質にせまることが殆どなかった。その結果、西洋史は学んだものの神学とは一体何かがこの歳まで分からなかった。キリスト教神学とギリシャ哲学がどのような関係性を持つのかということについても最近になってやっと理解した。西洋史だけではなく日本史についても、古代神話と天皇と現代史が欠落しており、私は30才過ぎに独自に学んだ。日本人は無神論者なのか、日本に哲学があるのかどうかについても深く考えてこなかった。

歴史とはその時代に生きていた人がどのような思いでいたのかを知ることであり、その思いのエネルギーが歴史を作ってきたのであり、英雄や政治家が作ってきたのではない。それでは現代まで生きてきた私たち団塊の世代はどんな思いを持って時代のエネルギーを作ってきたのか。残念ながら私は明確に答えられない。

現在、不安倍(ふあん倍)政権は様々な政策をゴリ押ししようとしているが、私たちはそれに対する明確な哲学を持って対処しきれていない。どうやらその原因は、現在の私たち日本人が「信じるもの」と「それを論理的に説明するもの」を持っていないからでは無いだろうか。つまり日本人としての「信仰」と「本当の理性」が欠落していることが、現在の日本の混乱を招いているのではないか。戦後70年の間、自由と平和と経済成長を三種の神器として信仰してきた日本人は、ここに来て特定秘密保護法や集団的自衛権や経済停滞で論理的破綻を生じているのではないだろうか。更に三種の神器の背景にある民主主義についても疑念を生じている。

それらの原因は何かを考えてみたが、それは現在の日本人が総てのことを理性で説明しようとしているからではないかと思っている。民主主義も既に形あるものとして論理的理性的に理解し、自由や平等や博愛の背景に神に対する信仰があることを理解していない。法の下の平等は神の前の平等であり、自由は国家権力からの銃だけでなく教会権力からの自由の歴史もあり、博愛は神との契約を前提としたものである。このように物事を論理的に理性的に説明する以前に、西欧人の歴史的な神との関係性を理解したうえで、それを日本人として咀嚼しなければならない。その上でもう一度、日本人としての信仰を再確認する必要がある。それは戦前の国家神道に復帰することではなく、キリスト教のような一神教を信仰することでもなく、日本の気候風土に根ざした私たちの信じてきたものを再確認することではないだろうか。

2015-03-18

日本の不安感

16:20

私たち日本人が漠然と抱いている不安感はどこから来ているのか。高度経済成長が終わり、デフレが長く続いたからだろうか。国の借金が1000兆円を超えて、先行きの経済破綻を恐れているのだろうか。消費税の先送りと年金財政の破綻による老後生活の不安から来ているのか。集団的自衛権の解釈変更による国際紛争に巻き込まれる不安なのか。私たちの不安を倍増する「不安倍政権」が倒れれば、この不安は解消されるのか。

答えはNOだと思う。私たちの不安の原因は、私達の寄って立つ考え方の基盤にあるのでは無いだろうか。戦後70年と言われているが、この間に私たちは何を基本的に信じて生きてきたのだろうか。私は「平和憲法」と「民主主義」と「経済成長」の三種の神器ではないかと思っている。しかしこの三種の神器が崩壊しつつあり、私たちは何を信じて生きるのかが分からないから不安になっている。

日本の70年間の平和は、日本が海に囲まれているという地理的条件と日米安保条約という親の庇護にも似たもので担保されてきた。所謂、安保タダ乗り論である。これはアメリカが可愛い日本の親としての使命を果たしているのではなく、アメリカの世界戦略としてやっていることは誰もが理解している。しかし中国の軍事力の増強により軍事バランスが崩れようとしており、この不安を立て直す力が日本には無い。だから憲法を改正して日本の軍事力を増強するという不安倍政権の考え方には納得出来ない。

平和とともに自由の権利を担保してきた日本国憲法がどうも機能していないというのが民主主義に対する不安である。選挙による代議制と議院内閣制に基いて不安倍政権は運営されているのだが、私たちの思っていることが反映されていない。私たちは総ての権限を不安倍政権に委託したのではないのに、三権分立が機能していない。これは現在の憲法が占領軍によって作られたからではなく、民主主義そのものが日本という国に適合していないからではないか。そもそも民主主義の仕組みは、西欧社会が歴史的に築きあげてきたもので、日本にはその歴史が無く仕組みとして導入されている。不安倍政権も9条改正だけを目指すのではなく、そもそも日本に憲法が必要なのかどうかという民主主義の根源的な議論から始めなければならない。

不安倍政権はアベノミクスという経済政策を掲げているが、殆どの人が阻害されていると感じている。更に高度経済成長という夢よもう一度と本当に思っている日本人はどれくらいいるのだろうか。物質的豊かさを追求していた高度経済成長時代の幸福感は二度と訪れない。ローマクラブが成長の限界の総括で書いているように、現在の大量消費社会の仕組みを根本的に変えない限り問題は解決しないのだ。これは経済政策ではなく日本人の基本的考え方の政策なのだ。

日本人の基本的考え方と書くと哲学の話になり、日本に哲学は存在するのかという問題になる。私が最近のブログでキリスト教関係の問題提議をしているが、これは私たち日本人に哲学が存在しないことを認識しなければならないという考えによる。3つの不安を突き詰めていくと、それぞれの課題の背景にある価値観が西欧文明から来ていることが分かる。更にその文明はキリスト教に起因する感性と悟性と理性から構成されている。しかし私たちは明治維新以降、西欧文明の技術や仕組みだけを導入し、文明の背景となるものを置き去りにしてきた。不安倍政権が取り組む課題はここにあり、この不安の原因となっている日本人の生きる基盤の考え方の方向性を示し、国民的議論をする時期ではないだろうか。このように書くと哲学の理論に議論をするかのようであるがそれは違う。生きる基盤の考え方とは私達自身の暮らしから考えることであり、行政サービスというタテ社会に慣れてしまった暮らしをもう一度、地域というヨコ社会から見直すことを意味している。地域創生では無い。

2015-03-09

原発と倫理

15:25

ドイツのメルケル首相が日本に来た。原発問題を安部首相と話し合うことは間違いない。ドイツは2022年までに原発を全廃することをきめているが、それは2002年のシュレーダー政権の時に決定されたものであり、メルケル政権はその後に原発の稼働期間を2034年まで延長した政権である。しかし2011年の福島の原発事故後、地方選挙で反原発を掲げる緑の党が大躍進した。危機を感じたメルケル政権は原発の是非を諮問する倫理委員会を立ち上げ、「10年以内に脱原発が可能」との提言を受けて、2012年までに全ての原発を停止することを決定した。この原発の是非を諮問する倫理委員会には、元環境相やドイツ研究振興協会の会長、カトリック司祭、財界人、消費者団体など17人の委員がいたが、原子力の研究者は1人もいなかった。

ここで私が注目をしたいのは、倫理委員会にカトリック司祭が入っていることである。日本の原子力学会倫理委員会は21人の委員がいるが、大学教授、財界人、官僚、原子力関連団体等で占められている。消費者やNPO団体、哲学者、宗教関係者は全く入っていない。一般的に日本の倫理委員会や倫理審査会の構成は(1)専門家、(2)専門家でない者(非専門家)、(3)外部委員から構成されているので、原子力学会倫理委員会が特別におかしい訳ではない。しかしドイツではカトリック司祭が入り日本では宗教家は入っていない理由は何か。

そこで倫理とは何かを調べてみると、「人として守り行うべき道。善悪・正邪の判断において普遍的な規準となるもの。道徳。モラル。」と書いてある。日本では儒教の考え方に相当する部分が多いと思われるが、なかなかうまく説明が出来ない。新渡戸稲造はこの日本人の道徳を説明するために「武士道」を英語で書いたと言われている。基本的に倫理の解釈に日本とドイツで大きな違いがあるわけではない。それでは何処が違うかというと「普遍的な基準」の中身に違いがあるのではないか。日本で特定の宗教家が倫理委員会に入ると「普遍的で無い」ということと、政教分離の原則上許されないと思われている。しかしドイツだけでなく、西欧社会ではキリスト教は普遍的であり、その教えに従って毎日暮らしている。その結果、倫理とキリスト教は切っても切り離せない関係にあるのだ。このことを殆どの日本人は理解していない。

私の解釈では原発問題は自然を創造した神に対する暴力の問題である。自然を修復不可能にする原発事故は神への冒涜であり、その原因を作った人間はダンテの神曲に書かれている第7層の罪となり、最後の審判の結果、間違いなく灼熱の砂と火の海に落されるのだ。そうして考えれば、原発を廃止しない人間は人として守り行うべき道から外れ、善悪・正邪の判断(最後の審判)において裁かれる運命にあると考えて間違いがない。

メルケルさんはキリスト教徒としての倫理で話すと思うが、聞く方の安部総理がメルケルさんの背景としての倫理を理解しない限り、話し合いは意味を持たないのではないかと思われる。ヨーロッパ各国では原発廃止を巡って国民投票がされているが、日本では憲法改正の国民投票ばかりが先行して議論されている。3.11が近づいてくると風化されてきたという話が持ち上がるが、毎日の暮らしに密着した自分たちの倫理が何かを確信できていない現在の日本人では致し方ないのではないか。アベノミックスや集団的自衛権の議論のなかからは日本人の倫理は取り戻せない。西欧諸国の人々は自分たちが信じるキリスト教の倫理から是非を判断している。いずれフランスも含め、大勢としては原発廃止の方向に向かうことは間違いが無い。私たち日本人にとって是非を判断する倫理を回復しない限り3.11は風化を続けるであろう。