Hatena::ブログ(Diary)

BASC理事長 原耕造のブログ

2015-03-02

持続可能性と復活

12:27

持続可能性という言葉はハワードが有機農業の聖典のなかでsustainableという表現で使っていたものが現在では一般的に使われていると思っている。私はあまり疑問を持たずにこの言葉を使っていたが、分かったようで良く分からない言葉である。有機農業を語る場合には化学合成物質を使用しない農法が将来的に持続するという意味で使っており、それが食の安全性とつながり一般的になっている。しかし私は以前から農業や食の持続性を担保するものが有機農業ではないと思っている。私は有機農業とは地域の持続性を担保するものであり、そのために地域で単独で実施している有機農業は本来の有機農業の目的を実現していないという考えだ。そのために有機農業は地域全体で取り組まれなければならず、地域の農協や行政が取り組まなければならないという考えだ。有機農業者はその地域での取組展開にあたって指導する役割を担っている。私が全農で孤軍奮闘しながら有機農業問題に取り組んだのはそのような理由による。有機農業推進法はまさに私と同じ考え方で展開してきたが、実体としては殆ど国民に認知されていない。全農も殆どの人が有機農産物を差別化商品の一つだと思っている。

私は1980年代にヨーロッパで日本の野菜づくりをするためにヨーロッパの有機農家とも付き合ってきたが、当時のヨーロッパは現在の日本と同様に有機農業は殆ど認知されていなかった。それが1990年代以降、急速に有機農業が広まっていったが、未だにその原因が分からなかった。一般的には1992年のCAP改革で環境直接支払い政策の導入が転換点になったと言われている。しかし農業政策だけで国民が意識転換するのであれば、日本でも同様の意識転換が起こっても不思議ではない。日本では環境支払い政策が実施されても国民の意識転換は起こらず、国民は農家へのバラマキ政策だと思い、農家は補助金目当ての従来政策の延長線だと思っている。その結果、有機農業は未だに0.2%のレベルを超えることが出来ない。

最近のブログで1992年の謎について書いたが、その中でヨーロッパ人のキリスト教に基づく価値観について分かったことがある。それは修復不可能な自然破壊をした人間が最後の審判で間違いなく地獄に堕ちるという意識を持っていることだ。この自然の修復が可能であるか不可能であるかが審判の分かれ目であり、その意識が1980年代のヨーロッパ人に定着したと思われる。その意識転換の契機はチェルノブイリの原発事故であるが、意識転換とは直ぐに起きるのではなく時間をかけて起きるようだ。私がヨーロッパにいた時に明確にヨーロッパ人の意識転換が起きたわけではなく、時間をかけて起きていたので私には分からなかった。その潜在的な意識転換がCAP改革で顕在化し、環境直接支払い政策のなかで有機農業が明確に位置づけられ、更にそれは農業政策ではなく地域政策として位置づけられ、年々拡大している。有機農業だけでなく動物福祉についても直接支払いの対象となり、農産物輸出大国であるオランダでさえ大きくシフトしている。

ヨーロッパ人が大きく意識転換をしたのは最後の審判で地獄に堕ちることを恐れたわけだが、日本人も悪いことをすると地獄に堕ちるという意識はある。しかしヨーロッパ人は単に地獄に堕ちるだけでなく「復活」出来ないということがセットされている。その「復活」が何を意味するのかを理解しないとヨーロッパ人の意識転換を日本人は理解できない。キリスト教国では復活祭が大々的に行われているが、日本人の殆どはクリスマスと同様のお祭りだと思っている。各地の復活祭ではイースターパレードが行われ、キャンディーがばらまかれたりカラフルな玉子が準備されていた。このカラフルな玉子はイースターエッグと呼ばれ四旬節の間の節制(断食)が終わることを祝うためだそうだ。このようにイースター復活とはヨーロッパ人にとってクリスマスより大切な行事であり、最後の審判の日に死体から復活をして天国に向かうことを意味している。ヤハヴェが創った自然の修復が不可能にする行為をした人間は、間違いなく最後の審判の時に復活が出来ず地獄へ行くことになる。単に地獄へ行きたくないという思いだけではないのだ。

ここで本当の持続可能性という言葉の意味が理解できる。ヨーロッパ人は死んでも最後の審判で天国行きの切符を貰えれば、神とともに復活をして天国で永遠の命が保証されることを信じている。それは自分が生を受けて以降、死んでも自分の魂と肉体が連続することを意味し、それを持続可能性という言葉で表現をしている。一時期、有機農業を持続可能性農業と呼ぼうと思ったが、それは単に有機農法の持続可能性だけを意味しており、ヨーロッパ人の意識とは異なっている。キリスト教徒でない日本人に最後の審判と復活についての意識を持てというのは無理な話で、日本人の価値観に合致する「持続可能性」という言葉の意味を探し出さなければならないと思っている。

2015-02-25

道徳教育パブコメ

16:24

道徳教育というと儒教的側面をイメージしてしまうが、現在の日本人に欠落しているものは日本国民の自尊心の背景となる哲学と宗教である。これは戦後教育に問題があるのではなく、明治維新政府が目指した近代国家の枠組みに、それまでの日本人には無かった統一国家を意識させるために国家神道を新規導入したところから始まっている。維新政府は西洋の近代国家形成の過程で科学技術だけでなくキリスト教の果たしている役割を学び、それを真似るために国家神道を導入したが結果的には目的は果たせなかった。それは敗戦後に天皇人間宣言と神道廃止令が出ても、国民の反乱が起きなかったことで証明される。更に、戦後教育のなかでは近代史と古代史を教えずに、国民は豊葦原瑞穂の国の民であるという意識を喪失させられてしまった。国民は天皇陛下の宮中祭祀を知らず、新嘗祭の意味が分からず、伊勢神宮はパワースポットだと思っている。靖国神社の公式参拝に中国と韓国が何故、拘っているかの歴史的背景を知らずにヘイトスピーチをしている。平和憲法の下での経済成長だけが日本の「神話」となってしまい、成長が止まった現在、日本人は自尊心を喪失し精神は路頭に迷っている。

そこでもう一度、明治維新に立ち戻って本来の日本人の精神構造を思い起こし、西欧近代国家の背景となっているキリスト教の精神と哲学理性を再度、理解しなおさなければならない。現在の地球上の価値観の殆どは西欧文明であり、その背景にはキリスト教的価値観がある。ヤハヴェという絶対的権限を持った神によって自然が創造され、その管理をするために人間が存在する。その人間は生まれて後にキリストに救いを求め、最後の審判で神の裁きを受け、復活するという直線的時間の価値観のなかで生きている。その同じ神の下での価値観のぶつかり合いが十字軍であり、パレスチナ問題であり、イスラム国の問題である。更にデカルト以降の物心二元論が西欧の自然科学の発展を促し、それが行き着いた結果、現在の地球環境問題を引き起こしている。

このような状況のなかで西欧人のなかにも西欧文明の限界を感じ始めている人が多くいる。彼らは仏教の輪廻転生する循環的時間の価値観が今後の世界にとって必要なのではないかと思っている。更に時間的価値観だけでなく輪廻転生が人間と他の生きものとの境を無くし、人間が自然の管理人であるという傲慢な考え方を転換させると思っている。更に仏教の山川草木悉皆成仏の考え方に、自然神である多神教が入り、曼荼羅の世界を構成すると感じている。

このように近代国家を形成してきたキリスト教の弱点を認識し始めた西欧文明に対して、アジアと日本が持っている文明の価値観を提示することが私たち日本人の役割ではないだろうか。現在は既に近代国家になった国民に国家観を植え付ける必要のない時期であり、明治維新とは時代が異なる。更に近代国家の模範であつた西欧文明の概念にとらわれず、新たな文明の価値観を発見して、世界に語りかけることが求められている。これは西欧からのアジアの解放を目指した戦前の大東和共栄圏の思想と似ている部分もあるが、思想と価値体系の解放である点で全く異なる。更に西欧文明を構成している価値体系や論理手法にも拘泥する必要はない。

例えば、日本人が有史以来、持っていた価値観の「和」が対外戦争をしない原因であり、憲法9条があったからでは無いという発想。17条の憲法の第1条は外来の価値観ではなく、日本人のなかにあった本来的な価値観を聖徳太子が書いただけなのだ。仏教には神は存在しないが、仏教が日本に来ると本地垂迹という思想で神仏が一体となり、今日の日本人の生活様式に溶け込んでいる。維新政府の廃仏毀釈は国家神道を確立するために必要だったのであり、憲法20条で信教の自由を謳わなくても日本人は本来的に持っていたのだ。このように現在の憲法問題も過去からの日本の歴史の積み上げのなかで検討をしなければならない。

維新政府は西欧諸国の憲法を手本にして近代国家形成をしたが、そもそも西欧諸国の民主主義は国家権力に対する市民革命という歴史を経て作られたものである。しかし日本には西欧でいう国家権力が存在しなかったので、西欧の民主主義の概念そのものを日本に導入することに無理があった。西欧諸国と日本の国の風土と歴史は全く異なり、風土が社会の価値観を構成し社会規範を作ってきた。世界の国々にはそれぞれの気候と風土があるにも関わらず、それを自分たちに都合の良い一つの価値体系に無理やりしてきたのが現在の西洋文明なのだ。私たちが世界に発信する文明は新しい世界の道徳であり、地球が持続可能な発展をできるようにすることが目的なのだ。今回の道徳教育改革は日本国民だけの道徳教育ではなく、世界の道徳教育をどのような方向に向けてゆくかの試金石となる。

2015-02-24

ヨルダンのパイロットと輪廻転生

16:29

ヨルダンのパイロットが焼殺され、イスラム国に対する非難が各地で起きているという報道がなされている。私たち日本人はイスラム国が様々な捕虜を惨殺しているのに、何故、今回のパイロットの件で特別に怒っているのか分からない。報道もその点に関してはあまり解説をしていない。

私はブログのなかでキリスト教に関する様々なことを書いているが、そのなかで最後の審判とダンテの神曲の地獄篇について調べてきた。調べていくうちに今回のパイロットが「焼殺」されたことの意味を考えてみた。キリスト教の歴史のなかで火あぶりの刑に処せられた人物を思い起こすと、ジャンヌダルクや教改革のフス等がいるが、魔女や異端者の刑罰として火炙りにされている。これは伝統的なキリスト教の価値観では、最後の審判の時まで肉体が残っていなければならないという理由からきている。火刑は肉体を燃やし尽くしてしまうため、最後の審判の後に「復活」ができなくなってしまうからだ。だから死んだあとは土葬であり、日本のように火葬には絶対しない。イスラム教もキリスト教と共通の神であり、最後の審判と復活は同じ考え方なのだ。

私たち日本人にはキリスト教徒以外、最後の審判も復活もなく、殆どの人が生まれ変わる輪廻転生をなんとなく信じている。そこの違いは何処からくるかというと、時間に対する基本的な考え方ではないかと言われている。キリスト教やイスラム教には前世はなく、死後は私審判を経て最後の審判を受け、光に包まれながら天国に行くという、直線的に時間が流れていく。私たち日本人は前世があり、現世があり、死後は阿弥陀様が迎えに来て西方浄土に行き、そこで魂が再生されて現世に生まれ変わるという循環的に時間が流れていく。このような時間に対する観念がムスリムの義務であるジハード聖戦という考え方を生み、自爆テロが次から次へと起きている。キリスト教の十字軍も同様の考え方であり、歴史的に拭えない溝を生んでいる。

今回の邦人殺害に対して様々な意見が交わされているが、私たち日本人が中東問題に対して貢献できる点は実はここにあるのではないかと思う。人間は直線的時間のなかで生きているのではなく、循環的時間の流れで生きているという考え方を理解してもらう活動を展開することが大切であり、それができるのは日本人しかいないのである。積極的平和主義とは自衛隊を派遣することではなく、日本人が持っている輪廻転生の考え方を紹介し、もう一度、コーランの新しい解釈を一緒に考える活動ではないだろうか。

2015-02-21

原発再稼働とふるさと納税

12:09

原発の再稼働を容認する自治体に対して新しい交付金が至急される記事が掲載されていた。内容については呆れてコメントをするつもりはないが、やはり現在の民主主義の仕組みを変える時期にきていることを痛感した。私たちは選挙によって議員を選出しているが、どうも民意とはかけ離れたところで政治が行われている。政府は民意が反映された選挙によって選ばれた議院内閣制を盾に、原発再稼働を強行しようとしている。現在の民主主義のルールでは原発再稼働反対運動をするか裁判に訴えるかしか方法がないと思われている。しかし本当にそうなのだろうか。原発設置県と市が再稼働を了承しない限り、政府も強行はできない。そこで地方行政が了承しなくても良い方法を反対している市民がすれば良い。地方行政が了承する理由は地方交付税を含めた国からの税金である。お金が現代の民主主義をおかしくしているのだ。

税金は私たち国民が義務として負っているのが民主主義と教えられている。しかしその国民の税金を国民の意志とは違うところで使われているところに民主主義のルール問題がある。しかし用途を決めているのは国民が選出した議員であり、そこは民主主義のルールに則っていると強弁するのが権力者である。そうであればお金に左右されない民主主義のルールを作れば良いのではないか。そのヒントがふるさと納税に隠されている。現在の税金体系の中にも目的税というルールがあるが、その目的は国民の要望に基いて造られたものではなく、政府の予算確保を目的として作られている。そこで国民の要望に基づいた政策を実行する仕組みを作れはいいのだ。

具体的には今回の原発マネーが原因で福井県の原発が再稼働されようとしているが、福井県が原発再稼働をしない県条例を作れば良いだけだ。福井県は国からの交付金相当分をふるさと納税の仕組みを使って集めれば問題は解決するはずだ。国の顔色を見ないで正々堂々とやれば良いのだ。県条例の情報開示と広報は福井県民だけでなく全国民、全世界の市民を対象にすれば良いし、様々な副次的効果も期待できる。従来の民主主義のルールでは「納税は義務」であったが、今回の民主主義のルールでは「納税は権利」となる。この権利は国民の権利ではなく、県民や市民の権利であることを確認しておきたい。地方自治は市民により近い問題を解決する民主主義の場であり、本来であれば国が関与するものでは無い。しかし現在では原発再稼働だけでなく、辺野古問題に対しても国は圧力をかけている。そしてその圧力の屈する最大の原因が金なのである。民主主義の本質がお金にねじ曲げられてはならない。

今回の原発再稼働だけでなく、私は自分が住んでいる地域の課題にこの新しい民主主義のルールを導入しようと思っている。導入するに当って私は3つの約束を地域住民にしてもらう予定にしている。1つ目は課題の抽出と解決方法の知恵を住民自ら出すこと。2つ目は解決策に住民自ら参加して汗を出すこと。3つ目は解決するための予算を確保するために住民自ら金を出すこと。この新しい民主主義のルールは、日本人がお上意識から脱却して本当の日本型民主主義を実現する道筋ではないかと思っている。これまで25年間の地域活動の集大成として何とか死ぬまでには形を少しでも残せたらと思う。

2015-02-17

所沢の住民投票と民主主義

12:25

所沢のエアコン設置に関する住民投票について様々な意見が出されている。私は今回の結果を見て、これからの民主主義の手法を根本的に変えなければならないと確信した。それは未来を託する子どもたちの教育環境の問題なのに、投票率が31.54%という数字が何を意味するかということを問題にしている。ここで私は所沢市民の意識の低さを問題にしているのではない。現在行われている民主主義の手法に問題があると思っている。私は地域活動を20年以上しているなかで、今回の住民投票に対して所沢市民が自分たちの地域の暮らしとの関係性を認識できるような手法だったのかを問いたい。私の地域活動はブログにも書いているが広域であり、ほぼ中学校区のエリアを対象にしている。今回の住民投票が私の地域の問題と仮定して、私たちが認識している中学校を対象にしたエアコン設置の住民投票だとしたら、どの程度の投票率になるか。私のこれまでの経験からすると間違いなく60%以上、多分80%程度になるのではないかと想定している。何故ならば、自分たちの子どもや孫や近くに住んでいる子どもたちが通う問題だからである。所沢の住民投票もそれぞれの中学校区別に投票をしたら、多分私の地域と同じような結果になると思う。

マスコミは投票結果に対するコメントはしているが、投票の仕組みの問題点には言及していない。私はここで住民投票の手法論だけを問うつもりはない。私たちが認識している民主主義はどのような問題点を抱えているのか。選挙民の支持を受けたといって、一方的憲法解釈で国民の生命を危険に陥れる可能性のある法案を多数決の論理で強行しようとしている民主主義。代議制や多数決という民主主義の仕組みは本当に日本国民を幸せにしているのだろうか。今回の住民投票も所沢市という行政単位の問題として議論されているが、もっと細かい地域単位、例えば中学校区単位の問題として議論する手法が本来的な民主主義ではないだろうか。社会全体が効率化という名目の下に合併が行われてきたが、それを行政サービスという視点だけでなく、民主主義の視点で考えなおす必要があるのではないか。

民主主義の原点と言われるアテネの直接民主制は非常に狭い範囲で行われ、ソクラテスの裁判も殆どのアテネ市民は知っていたのではないか。私たちが何の疑問も持たない現在の民主主義は、欧州の市民社会が幾度かの革命を経て勝ち取ってきたもので、本当に日本人社会に適合している仕組みなのだろうか。日本は対外戦争をしてこなかった世界でも稀な国であり、欧州のように戦争に明け暮れてきた国とは風土も価値観も異なるはずである。明治維新以降、近代国家を目指して民主主義の形を導入し、戦後は占領軍によって造られた民主主義の形を守ってきた。そろそろこれまでの常識や考え方から離れ、自分の住んでいる地域から民主主義とは何かを考える時期ではないだろうか。そうすれば一部の国会議員だけで議論されようとしている憲法改正についても、地域からの視点で判断が可能となる。所沢の住民投票は結果を議論するのではなく、民主主義の仕組みをもう一度地域に取り戻すきっかけにしなければならない。