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BASC理事長 原耕造のブログ

2015-03-23 信仰と理性

最近、キリスト教に関するブログを書いているが別に頭がおかしくなったわけでは無い。信仰というものが人間の理性的行動に対してどのような影響を与えるのかということに興味を抱いたからである。西欧人が環境に対する意識転換をした理由を調べていくうちに最後の審判に辿り着き、戦後70年の総括をしているうちに戦後の神道廃止令が日本人から信仰を奪ってしまったことに気づいた。

私たち団塊の世代は戦後教育のなかで歴史の表面部分だけを学び、その本質にせまることが殆どなかった。その結果、西洋史は学んだものの神学とは一体何かがこの歳まで分からなかった。キリスト教神学とギリシャ哲学がどのような関係性を持つのかということについても最近になってやっと理解した。西洋史だけではなく日本史についても、古代神話と天皇と現代史が欠落しており、私は30才過ぎに独自に学んだ。日本人は無神論者なのか、日本に哲学があるのかどうかについても深く考えてこなかった。

歴史とはその時代に生きていた人がどのような思いでいたのかを知ることであり、その思いのエネルギーが歴史を作ってきたのであり、英雄や政治家が作ってきたのではない。それでは現代まで生きてきた私たち団塊の世代はどんな思いを持って時代のエネルギーを作ってきたのか。残念ながら私は明確に答えられない。

現在、不安倍(ふあん倍)政権は様々な政策をゴリ押ししようとしているが、私たちはそれに対する明確な哲学を持って対処しきれていない。どうやらその原因は、現在の私たち日本人が「信じるもの」と「それを論理的に説明するもの」を持っていないからでは無いだろうか。つまり日本人としての「信仰」と「本当の理性」が欠落していることが、現在の日本の混乱を招いているのではないか。戦後70年の間、自由と平和と経済成長を三種の神器として信仰してきた日本人は、ここに来て特定秘密保護法や集団的自衛権や経済停滞で論理的破綻を生じているのではないだろうか。更に三種の神器の背景にある民主主義についても疑念を生じている。

それらの原因は何かを考えてみたが、それは現在の日本人が総てのことを理性で説明しようとしているからではないかと思っている。民主主義も既に形あるものとして論理的理性的に理解し、自由や平等や博愛の背景に神に対する信仰があることを理解していない。法の下の平等は神の前の平等であり、自由は国家権力からの銃だけでなく教会権力からの自由の歴史もあり、博愛は神との契約を前提としたものである。このように物事を論理的に理性的に説明する以前に、西欧人の歴史的な神との関係性を理解したうえで、それを日本人として咀嚼しなければならない。その上でもう一度、日本人としての信仰を再確認する必要がある。それは戦前の国家神道に復帰することではなく、キリスト教のような一神教を信仰することでもなく、日本の気候風土に根ざした私たちの信じてきたものを再確認することではないだろうか。

2015-03-18

日本の不安感

16:20

私たち日本人が漠然と抱いている不安感はどこから来ているのか。高度経済成長が終わり、デフレが長く続いたからだろうか。国の借金が1000兆円を超えて、先行きの経済破綻を恐れているのだろうか。消費税の先送りと年金財政の破綻による老後生活の不安から来ているのか。集団的自衛権の解釈変更による国際紛争に巻き込まれる不安なのか。私たちの不安を倍増する「不安倍政権」が倒れれば、この不安は解消されるのか。

答えはNOだと思う。私たちの不安の原因は、私達の寄って立つ考え方の基盤にあるのでは無いだろうか。戦後70年と言われているが、この間に私たちは何を基本的に信じて生きてきたのだろうか。私は「平和憲法」と「民主主義」と「経済成長」の三種の神器ではないかと思っている。しかしこの三種の神器が崩壊しつつあり、私たちは何を信じて生きるのかが分からないから不安になっている。

日本の70年間の平和は、日本が海に囲まれているという地理的条件と日米安保条約という親の庇護にも似たもので担保されてきた。所謂、安保タダ乗り論である。これはアメリカが可愛い日本の親としての使命を果たしているのではなく、アメリカの世界戦略としてやっていることは誰もが理解している。しかし中国の軍事力の増強により軍事バランスが崩れようとしており、この不安を立て直す力が日本には無い。だから憲法を改正して日本の軍事力を増強するという不安倍政権の考え方には納得出来ない。

平和とともに自由の権利を担保してきた日本国憲法がどうも機能していないというのが民主主義に対する不安である。選挙による代議制と議院内閣制に基いて不安倍政権は運営されているのだが、私たちの思っていることが反映されていない。私たちは総ての権限を不安倍政権に委託したのではないのに、三権分立が機能していない。これは現在の憲法が占領軍によって作られたからではなく、民主主義そのものが日本という国に適合していないからではないか。そもそも民主主義の仕組みは、西欧社会が歴史的に築きあげてきたもので、日本にはその歴史が無く仕組みとして導入されている。不安倍政権も9条改正だけを目指すのではなく、そもそも日本に憲法が必要なのかどうかという民主主義の根源的な議論から始めなければならない。

不安倍政権はアベノミクスという経済政策を掲げているが、殆どの人が阻害されていると感じている。更に高度経済成長という夢よもう一度と本当に思っている日本人はどれくらいいるのだろうか。物質的豊かさを追求していた高度経済成長時代の幸福感は二度と訪れない。ローマクラブが成長の限界の総括で書いているように、現在の大量消費社会の仕組みを根本的に変えない限り問題は解決しないのだ。これは経済政策ではなく日本人の基本的考え方の政策なのだ。

日本人の基本的考え方と書くと哲学の話になり、日本に哲学は存在するのかという問題になる。私が最近のブログでキリスト教関係の問題提議をしているが、これは私たち日本人に哲学が存在しないことを認識しなければならないという考えによる。3つの不安を突き詰めていくと、それぞれの課題の背景にある価値観が西欧文明から来ていることが分かる。更にその文明はキリスト教に起因する感性と悟性と理性から構成されている。しかし私たちは明治維新以降、西欧文明の技術や仕組みだけを導入し、文明の背景となるものを置き去りにしてきた。不安倍政権が取り組む課題はここにあり、この不安の原因となっている日本人の生きる基盤の考え方の方向性を示し、国民的議論をする時期ではないだろうか。このように書くと哲学の理論に議論をするかのようであるがそれは違う。生きる基盤の考え方とは私達自身の暮らしから考えることであり、行政サービスというタテ社会に慣れてしまった暮らしをもう一度、地域というヨコ社会から見直すことを意味している。地域創生では無い。

2015-03-09

原発と倫理

15:25

ドイツのメルケル首相が日本に来た。原発問題を安部首相と話し合うことは間違いない。ドイツは2022年までに原発を全廃することをきめているが、それは2002年のシュレーダー政権の時に決定されたものであり、メルケル政権はその後に原発の稼働期間を2034年まで延長した政権である。しかし2011年の福島の原発事故後、地方選挙で反原発を掲げる緑の党が大躍進した。危機を感じたメルケル政権は原発の是非を諮問する倫理委員会を立ち上げ、「10年以内に脱原発が可能」との提言を受けて、2012年までに全ての原発を停止することを決定した。この原発の是非を諮問する倫理委員会には、元環境相やドイツ研究振興協会の会長、カトリック司祭、財界人、消費者団体など17人の委員がいたが、原子力の研究者は1人もいなかった。

ここで私が注目をしたいのは、倫理委員会にカトリック司祭が入っていることである。日本の原子力学会倫理委員会は21人の委員がいるが、大学教授、財界人、官僚、原子力関連団体等で占められている。消費者やNPO団体、哲学者、宗教関係者は全く入っていない。一般的に日本の倫理委員会や倫理審査会の構成は(1)専門家、(2)専門家でない者(非専門家)、(3)外部委員から構成されているので、原子力学会倫理委員会が特別におかしい訳ではない。しかしドイツではカトリック司祭が入り日本では宗教家は入っていない理由は何か。

そこで倫理とは何かを調べてみると、「人として守り行うべき道。善悪・正邪の判断において普遍的な規準となるもの。道徳。モラル。」と書いてある。日本では儒教の考え方に相当する部分が多いと思われるが、なかなかうまく説明が出来ない。新渡戸稲造はこの日本人の道徳を説明するために「武士道」を英語で書いたと言われている。基本的に倫理の解釈に日本とドイツで大きな違いがあるわけではない。それでは何処が違うかというと「普遍的な基準」の中身に違いがあるのではないか。日本で特定の宗教家が倫理委員会に入ると「普遍的で無い」ということと、政教分離の原則上許されないと思われている。しかしドイツだけでなく、西欧社会ではキリスト教は普遍的であり、その教えに従って毎日暮らしている。その結果、倫理とキリスト教は切っても切り離せない関係にあるのだ。このことを殆どの日本人は理解していない。

私の解釈では原発問題は自然を創造した神に対する暴力の問題である。自然を修復不可能にする原発事故は神への冒涜であり、その原因を作った人間はダンテの神曲に書かれている第7層の罪となり、最後の審判の結果、間違いなく灼熱の砂と火の海に落されるのだ。そうして考えれば、原発を廃止しない人間は人として守り行うべき道から外れ、善悪・正邪の判断(最後の審判)において裁かれる運命にあると考えて間違いがない。

メルケルさんはキリスト教徒としての倫理で話すと思うが、聞く方の安部総理がメルケルさんの背景としての倫理を理解しない限り、話し合いは意味を持たないのではないかと思われる。ヨーロッパ各国では原発廃止を巡って国民投票がされているが、日本では憲法改正の国民投票ばかりが先行して議論されている。3.11が近づいてくると風化されてきたという話が持ち上がるが、毎日の暮らしに密着した自分たちの倫理が何かを確信できていない現在の日本人では致し方ないのではないか。アベノミックスや集団的自衛権の議論のなかからは日本人の倫理は取り戻せない。西欧諸国の人々は自分たちが信じるキリスト教の倫理から是非を判断している。いずれフランスも含め、大勢としては原発廃止の方向に向かうことは間違いが無い。私たち日本人にとって是非を判断する倫理を回復しない限り3.11は風化を続けるであろう。

2015-03-02

持続可能性と復活

12:27

持続可能性という言葉はハワードが有機農業の聖典のなかでsustainableという表現で使っていたものが現在では一般的に使われていると思っている。私はあまり疑問を持たずにこの言葉を使っていたが、分かったようで良く分からない言葉である。有機農業を語る場合には化学合成物質を使用しない農法が将来的に持続するという意味で使っており、それが食の安全性とつながり一般的になっている。しかし私は以前から農業や食の持続性を担保するものが有機農業ではないと思っている。私は有機農業とは地域の持続性を担保するものであり、そのために地域で単独で実施している有機農業は本来の有機農業の目的を実現していないという考えだ。そのために有機農業は地域全体で取り組まれなければならず、地域の農協や行政が取り組まなければならないという考えだ。有機農業者はその地域での取組展開にあたって指導する役割を担っている。私が全農で孤軍奮闘しながら有機農業問題に取り組んだのはそのような理由による。有機農業推進法はまさに私と同じ考え方で展開してきたが、実体としては殆ど国民に認知されていない。全農も殆どの人が有機農産物を差別化商品の一つだと思っている。

私は1980年代にヨーロッパで日本の野菜づくりをするためにヨーロッパの有機農家とも付き合ってきたが、当時のヨーロッパは現在の日本と同様に有機農業は殆ど認知されていなかった。それが1990年代以降、急速に有機農業が広まっていったが、未だにその原因が分からなかった。一般的には1992年のCAP改革で環境直接支払い政策の導入が転換点になったと言われている。しかし農業政策だけで国民が意識転換するのであれば、日本でも同様の意識転換が起こっても不思議ではない。日本では環境支払い政策が実施されても国民の意識転換は起こらず、国民は農家へのバラマキ政策だと思い、農家は補助金目当ての従来政策の延長線だと思っている。その結果、有機農業は未だに0.2%のレベルを超えることが出来ない。

最近のブログで1992年の謎について書いたが、その中でヨーロッパ人のキリスト教に基づく価値観について分かったことがある。それは修復不可能な自然破壊をした人間が最後の審判で間違いなく地獄に堕ちるという意識を持っていることだ。この自然の修復が可能であるか不可能であるかが審判の分かれ目であり、その意識が1980年代のヨーロッパ人に定着したと思われる。その意識転換の契機はチェルノブイリの原発事故であるが、意識転換とは直ぐに起きるのではなく時間をかけて起きるようだ。私がヨーロッパにいた時に明確にヨーロッパ人の意識転換が起きたわけではなく、時間をかけて起きていたので私には分からなかった。その潜在的な意識転換がCAP改革で顕在化し、環境直接支払い政策のなかで有機農業が明確に位置づけられ、更にそれは農業政策ではなく地域政策として位置づけられ、年々拡大している。有機農業だけでなく動物福祉についても直接支払いの対象となり、農産物輸出大国であるオランダでさえ大きくシフトしている。

ヨーロッパ人が大きく意識転換をしたのは最後の審判で地獄に堕ちることを恐れたわけだが、日本人も悪いことをすると地獄に堕ちるという意識はある。しかしヨーロッパ人は単に地獄に堕ちるだけでなく「復活」出来ないということがセットされている。その「復活」が何を意味するのかを理解しないとヨーロッパ人の意識転換を日本人は理解できない。キリスト教国では復活祭が大々的に行われているが、日本人の殆どはクリスマスと同様のお祭りだと思っている。各地の復活祭ではイースターパレードが行われ、キャンディーがばらまかれたりカラフルな玉子が準備されていた。このカラフルな玉子はイースターエッグと呼ばれ四旬節の間の節制(断食)が終わることを祝うためだそうだ。このようにイースター復活とはヨーロッパ人にとってクリスマスより大切な行事であり、最後の審判の日に死体から復活をして天国に向かうことを意味している。ヤハヴェが創った自然の修復が不可能にする行為をした人間は、間違いなく最後の審判の時に復活が出来ず地獄へ行くことになる。単に地獄へ行きたくないという思いだけではないのだ。

ここで本当の持続可能性という言葉の意味が理解できる。ヨーロッパ人は死んでも最後の審判で天国行きの切符を貰えれば、神とともに復活をして天国で永遠の命が保証されることを信じている。それは自分が生を受けて以降、死んでも自分の魂と肉体が連続することを意味し、それを持続可能性という言葉で表現をしている。一時期、有機農業を持続可能性農業と呼ぼうと思ったが、それは単に有機農法の持続可能性だけを意味しており、ヨーロッパ人の意識とは異なっている。キリスト教徒でない日本人に最後の審判と復活についての意識を持てというのは無理な話で、日本人の価値観に合致する「持続可能性」という言葉の意味を探し出さなければならないと思っている。

2015-02-25

道徳教育パブコメ

16:24

道徳教育というと儒教的側面をイメージしてしまうが、現在の日本人に欠落しているものは日本国民の自尊心の背景となる哲学と宗教である。これは戦後教育に問題があるのではなく、明治維新政府が目指した近代国家の枠組みに、それまでの日本人には無かった統一国家を意識させるために国家神道を新規導入したところから始まっている。維新政府は西洋の近代国家形成の過程で科学技術だけでなくキリスト教の果たしている役割を学び、それを真似るために国家神道を導入したが結果的には目的は果たせなかった。それは敗戦後に天皇人間宣言と神道廃止令が出ても、国民の反乱が起きなかったことで証明される。更に、戦後教育のなかでは近代史と古代史を教えずに、国民は豊葦原瑞穂の国の民であるという意識を喪失させられてしまった。国民は天皇陛下の宮中祭祀を知らず、新嘗祭の意味が分からず、伊勢神宮はパワースポットだと思っている。靖国神社の公式参拝に中国と韓国が何故、拘っているかの歴史的背景を知らずにヘイトスピーチをしている。平和憲法の下での経済成長だけが日本の「神話」となってしまい、成長が止まった現在、日本人は自尊心を喪失し精神は路頭に迷っている。

そこでもう一度、明治維新に立ち戻って本来の日本人の精神構造を思い起こし、西欧近代国家の背景となっているキリスト教の精神と哲学理性を再度、理解しなおさなければならない。現在の地球上の価値観の殆どは西欧文明であり、その背景にはキリスト教的価値観がある。ヤハヴェという絶対的権限を持った神によって自然が創造され、その管理をするために人間が存在する。その人間は生まれて後にキリストに救いを求め、最後の審判で神の裁きを受け、復活するという直線的時間の価値観のなかで生きている。その同じ神の下での価値観のぶつかり合いが十字軍であり、パレスチナ問題であり、イスラム国の問題である。更にデカルト以降の物心二元論が西欧の自然科学の発展を促し、それが行き着いた結果、現在の地球環境問題を引き起こしている。

このような状況のなかで西欧人のなかにも西欧文明の限界を感じ始めている人が多くいる。彼らは仏教の輪廻転生する循環的時間の価値観が今後の世界にとって必要なのではないかと思っている。更に時間的価値観だけでなく輪廻転生が人間と他の生きものとの境を無くし、人間が自然の管理人であるという傲慢な考え方を転換させると思っている。更に仏教の山川草木悉皆成仏の考え方に、自然神である多神教が入り、曼荼羅の世界を構成すると感じている。

このように近代国家を形成してきたキリスト教の弱点を認識し始めた西欧文明に対して、アジアと日本が持っている文明の価値観を提示することが私たち日本人の役割ではないだろうか。現在は既に近代国家になった国民に国家観を植え付ける必要のない時期であり、明治維新とは時代が異なる。更に近代国家の模範であつた西欧文明の概念にとらわれず、新たな文明の価値観を発見して、世界に語りかけることが求められている。これは西欧からのアジアの解放を目指した戦前の大東和共栄圏の思想と似ている部分もあるが、思想と価値体系の解放である点で全く異なる。更に西欧文明を構成している価値体系や論理手法にも拘泥する必要はない。

例えば、日本人が有史以来、持っていた価値観の「和」が対外戦争をしない原因であり、憲法9条があったからでは無いという発想。17条の憲法の第1条は外来の価値観ではなく、日本人のなかにあった本来的な価値観を聖徳太子が書いただけなのだ。仏教には神は存在しないが、仏教が日本に来ると本地垂迹という思想で神仏が一体となり、今日の日本人の生活様式に溶け込んでいる。維新政府の廃仏毀釈は国家神道を確立するために必要だったのであり、憲法20条で信教の自由を謳わなくても日本人は本来的に持っていたのだ。このように現在の憲法問題も過去からの日本の歴史の積み上げのなかで検討をしなければならない。

維新政府は西欧諸国の憲法を手本にして近代国家形成をしたが、そもそも西欧諸国の民主主義は国家権力に対する市民革命という歴史を経て作られたものである。しかし日本には西欧でいう国家権力が存在しなかったので、西欧の民主主義の概念そのものを日本に導入することに無理があった。西欧諸国と日本の国の風土と歴史は全く異なり、風土が社会の価値観を構成し社会規範を作ってきた。世界の国々にはそれぞれの気候と風土があるにも関わらず、それを自分たちに都合の良い一つの価値体系に無理やりしてきたのが現在の西洋文明なのだ。私たちが世界に発信する文明は新しい世界の道徳であり、地球が持続可能な発展をできるようにすることが目的なのだ。今回の道徳教育改革は日本国民だけの道徳教育ではなく、世界の道徳教育をどのような方向に向けてゆくかの試金石となる。