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BASC理事長 原耕造のブログ

2016-06-15

都市農地減少の原因

14:56

都市農地を巡る情勢は大きく変化しようとしているが、私は根本的な原因にメスを入れないかぎり農地減少に歯止めはかからないと思う。根本的原因とは3つあり‥垰塲清鳩弍弔虜了酸の低さ高額な都市農地の相続税私有財産の処分権限である。

都市農業経営の採算性

都市農業だけでなく現在の日本では農業経営だけではなかなか採算が取れない。その結果、全国では耕作放棄地が増加し、今や40万haを超えている。しかし日本国民の殆どはTPPによって海外から安くて安全な農産物が輸入されれば良いと考えている。日本の消費者は農産物の向こう側の農地に関しては殆ど関心が無い。その結果、日本の農業経営は採算が取れず、兼業農家になることによって糊口を凌いている。都市農地を生産基盤とする都市農業は消費地に近いという利点はあるものの固定資産税や都市計画税等の負担が重く、殆どの農家はアパート経営と兼業することにより農業を続けている。そこには都市農業の産業としての将来展望は描けず、家族農業としての担い手は存在しない。

高額な相続税

このような状況のなかで都市農業の経営者に相続が発生すると、農業経営の存続よりも先に相続税の支払いを優先して考える。もし農業経営の存続を考えた場合は相続税の納税猶予措置があるので現在の法体系の仕組みでも何とかなる。しかし農家の自宅敷地は農地ではないので高額な相続税の支払いは免れない。農業の作業場としての農家の敷地に対して、一般の宅地と同様の相続税や固定資産税を課すのが現在の法体系である。

私有財産の処分権限

農地の所有権は農家が持っている。国民の私的財産は憲法29条で保障されているが、公共の福祉に反しない限り処分は自由である。都市農地に関しても同様であり、農業委員会の許可を得れば農地としても宅地転用して宅地としても売却は可能となる。その結果、周辺住民の知らないところで区画整理事業が行われ農地は減少を続けるのである。区画整理事業は該当する区域の土地権利者の同意があれば認可され、周辺住民に多大な迷惑をかけないかぎり一方的に進められる。

根本的原因の概要はこの3つであり、農家は自分一人で悩んでも解決策は無く周辺住民との連携など考えもつかない。更に都市農地の存続を願う周辺住民はこの3つの要因の外側に置かれており、いくら開発反対運動をしても相手にされない。行政も地域住民の要望は聴くものの、法律の壁を盾に何もしない。昨年、都市農業振興基本法ができたが3つの根本的原因に対処する法体系の整備はできていない。特にの私有財産の処分権限については全く触れられておらず、このままでは何も変わらない。

2016-06-10

格差社会

15:31

アメリカの大統領選挙でトランプが躍進を続けている理由として、現在のアメリカでは格差を生んでいる社会構造に不満を持つ人が多く、その殆どの人たちが既存の価値観をぶち壊す可能性をトランプに期待しているという報道がされている。日本でもアベノミクスに期待はしてみたものの格差は広がるばかりで出口が見えない状況だと言われている。ここで格差といわれているものとは一体何なのか考えてみたい。

格差という言葉はその言葉の前に様々な言葉を付けて言われている。現在は経済格差、所得格差、地域格差等が言われているが、人種や民族、学歴等は差別という言葉の前に付けられており、格差と差別の違いについて考えてみたい。

差別とは自分が価値観を転換すれば乗り越えられる道徳問題であるが、格差は自分が努力しても乗り越えられない社会構造問題ではないだろうか。現在、起きているヘイトスピーチ問題も半島の人間を差別することによって自分の溜飲を下げているだけである。日本列島の文化が半島経由で来たのか、大陸から直接来たのか、それによって国の文化の優位性が測れるものではない。人が行き来すれば様々な文化も行き来し、それが混ざり合ってその国独自の文明となる。従って文明に格差は無く、半島と列島の文化の比較のなかで自国の優位性を主張するヘイトスピーチは自分たちの道徳観のレベルの低さを内外に示しているだけである。

差別は個人の道徳観に起因するものであるが、格差は何処から生ずるのか。社会構造としての格差を人間が意識したのは、多分キリスト教と産業革命ではないだろうか。キリスト教はユダヤ教ナザレ派の流れを汲むものであるが、民族を超えた普遍的宗教となる過程でヤハベ以外の神は神とは認められなくなった。つまりヤハベとキリスト以外の神は神として認めず、そこには身分社会としての大きな格差が生ずるようになった。ローマカトリック協会はこの身分格差構造社会をつくり上げることによって、地域社会の人的管理システムを構築したのである。

一方、身分格差とは別に経済格差は産業革命以前には殆ど存在しなかった。何故ならば身分制社会の頂点にいる王や僧侶や貴族は非常に少数であり、商人を除く一般大衆はその経済格差を意識することがなかった。一般大衆とは殆どが農家であり、その生活に格差は無く、皆貧しかったのである。しかしノーフォーク革命により農村人口に余剰が生じ、都市へ流入して産業革命へと移行するのであるが産業革命前と後では何が違ったのか。それは革命前と較べて革命後は社会全体の富が著しく増大し、その富の蓄積と配分によって経済格差が生じたのである。産業革命によって従来は貴族層しか味わえなかったようなことが一般大衆も可能となったのである。ノーフォーク革命によって畜産動物の通年飼育が可能となり、従来は富裕層しか食べられなかった肉食が一般家庭でも食べられるようになったのだ。皆が貧乏でいる時代は貧乏を意識することが無かったが、社会全体が豊かになるとその豊かさのレベルに差が生じ、それを意識することによって格差が生じるのだ。

日本も高度経済成長の時代は冷蔵庫、テレビ、洗濯機などが家庭に普及し一億総中流と呼ばれ、あまり格差を意識することはなかった。しかしバブル崩壊以降はデフレが進行し、経済が停滞するなかで資産格差が顕在化し、今日に至っている。アベノミクスはもう一度経済成長をすることによって格差解消を目指すものであるが成功しているとは言えない。サミットで世界経済の危機を訴えて財政出動に対する大義名分を得ようとしたが失敗している。

私はここでもう一度自分たちの暮らしを考えなおす時期にきているのではないかと思う。暮らしの豊かさを考える時に、私は1980年代のヨーロッパの暮らしを思い出す。当時の日本はバブルの真っ最中でアメリカに追いつき追い越せという状況で、ヨーロッパは没落のヨーロッパと日本では呼ばれていた。そんな思いでヨーロッパに赴任してみて驚いたことは、彼らの暮らし方であった。日本のように便利さだけを追求するのではなく、従来からの暮らしを大切にし軽佻浮薄なところは殆ど見られなかった。電磁レンジの普及率は5%以下であり、何故普及しないのか尋ねると必要がないからだと応える。隣が買っても隣は隣、自分の暮らし方に自信を持っているのだ。そこには古くからの身分格差はあるものの経済格差はあまり感じられず、多分それが高福祉国家へ移行する前提としての社会状況だったのだと思われる。

日本人も自分たちの暮らしの足元を見つめなおし、豊かな暮らしの本質を見極める時ではないだろうか。豊かな暮らしは高度成長以前の時代のように政治家が実現するものではなく、私たちの暮らしの哲学を私たち自身がつくり上げることによって実現するのではないだろうか。

2016-05-25

原爆被害者への謝罪

13:53

伊勢志摩サミット後にオバマ大統領が広島を訪問するにあたり、アメリカ人の半数が原爆投下は正当であり原爆被害者に謝罪する必要はないと思っているという報道に対して日本人の殆どは違和感を持っている。しかしこの違和感の原因は何であるかについて解説している人はいない。

原爆投下の正当性を主張するアメリカ人は「パールハーバーを思い出せ」という合言葉を使っている。日本から売られた喧嘩を買い、その仕返しが原爆投下だという論理である。だからそこにはアメリカが謝罪をする理由が存在しない。日本人の殆どはその論理構成に対して何となく納得してしまい反論ができないでいる。反論のなかでは、原爆投下は非人道的であるとの主張はしているもののアメリカ人を納得させる論理構成にはなっていない。どうしてこうなっているかというと、日本人がアメリカ人の考え方の根底部分を理解していないからだ。

リメンバーパールハーバーの論理は「目には目を、歯に歯を」というハムラビ法典に由来する考え方であり、それはユダヤ教、キリスト教、イスラム教の宗教規範に影響を及ぼしてきた。しかし「目には目を、歯には歯を」の考え方は、そもそも、同害報復を要請するものではなく、無限な報復を禁じ同害程度までの報復に制限するという趣旨なのだ。ところが、ユダヤ教やイスラム教では同害報復を要請するようになり、一方、キリスト教では「赦す」ということに重点を起き、「右の頬を打たれたら左の頬を差し出せ」という規範が聖書のローマ人への手紙のなかに示されている。アメリカという国は歴史で習ったようにメイフラワー号に乗ったビルグリムファーザーズが興した国であり、国民の半数近くがプロテスタントであり、カソリックも含めて国民の8割近くがキリスト教徒である。そのキリスト教では同害報復を認めていないのに、何故、同害報復を要請するパールハーバーの論理が正当性を持つのだろうか。アメリカに一撃を与えた日本を赦すことが出来れば、キリスト教徒としての罪の贖いも可能なはずなのだが。

更に同害報復という視点でとらえた場合、パールハーバー襲撃と原爆投下では無差別殺人という点で同害では無く、更に、広島の後に長崎まで原爆を投下することは過剰報復ではないのだろうか。日本の同害報復は仇討という形で行われるが、赤穂浪士も曽我兄弟も決して過剰報復ではない。

日本政府はオバマ大統領に謝罪を求めないと言っているが、それでは原爆被害者に対しても失礼なのではないだろうか。オバマが気にしているアメリカ国内のリメンバーパールハーバーを主張する国民に原爆問題の考え方に対して問題提議をするのが日本政府の仕事であり、オバマのプラハ演説に対する日本としての行動なのではないだろうか。広島や長崎の原爆被害者もアメリカに謝罪を求めているのではなく、アメリカ人に自分の信仰の根底にあるものに気づいてもらい、ともに同害報復の無い世界を目指すことである。

2016-04-08

農地は誰のもの

16:25

現在、TPPの影響による耕作放棄地の増大や平成34年に期限を迎える改正生産緑地法等により、国内の農地は大きな転換点を迎えようとしている。一方、北朝鮮や南シナ海等での国際紛争が想定されるなかで平和安全法が施行され、軍靴の音が聞こえ始めている。更にシリア難民問題でヨーロッパ諸国はEU統合の理念が揺らぎ始めている。これらの3つの問題は、それぞれが独立して関係がないようであるが実は農地というキーワードでつながっている。

耕作放棄地や生産緑地については農地というキーワードそのものの問題であるが、殆どの国民は自分の問題として捉えていない。TPP締結で海外から安い農産物が入ってくるので家計が助かるという自己中心的な論理だ。更に市街化区域内農地については都市計画法の位置づけを見直す方向で検討がされている。耕作放棄地について固定資産税の見直しにより農地集約化の対象として議論されている。

国会審議に入ったTPPの国内農業対策として農地集約による大規模化と積極的海外輸出に活路を見出す方針が出されている。しかし耕作放棄地の殆どは中山間地に位置しており、農地集約の対象にならない。どちらかというと棚田の崩壊による治水機能が脆弱化し、国土の防災機能の問題に直結している。農地集約による大規模化の問題は欧米の畑作酪農を対象とした方程式であり、稲作という労働集約型農業を対象とした方程式には当てはまらない。机上の数字だけ見ていればいくらでも大規模化できるが、実際に40年以上構造改善事業をしてきても水田の大規模化は干拓地等の特殊な条件の下でしか実現できていない。更に海外輸出について将来展望は殆ど無い。米の輸出が1万トン実現できた暁にはベトナムから3期作のコシヒカリがそのマーケットに雪崩れ込むことは必定である。

改正生産緑地法は土地バブルの対処策生け贄として作られた制度であり、農業政策としては明確な位置づけがなされず、都市計画としても位置づけされず、更に固定資産税や相続税の税法の改正がなされていない。その後、特定農地の貸付制度や市民農園整備法によって市街化区域内農地の位置づけが多少は変わった。更に都市の住民の農地に対する意識が大きく変わり、市民農園から体験農園、コミュニティガーデン等、農地に対する市民の期待は高まってきた。しかし農地法や都市計画法、相続税の基本的な見直しがなされてこなかった。それは農地の所有権が農家にあり、その財産権を侵害するような法整備がなされなかったからである。地域における農家と市民の共有財産として農地を位置づける議論が展開されなかったことが原因である。

今回、平和安全法の施行により自衛隊の海外派遣が可能となったが、海外兵站基地への食料の確保については何も議論されていない。最近の国際紛争では兵器による直接交戦よりも経済封鎖という戦略が採られている。第2次対戦の戦没者のうち約60%強は餓死者といわれておるにもかかわらず、日本が経済封鎖をされた場合の平和安全法の中での食料確保政策は何処にも見当たらない。更に、北朝鮮の体制が崩壊した時に日本海を渡ってくる難民の食料の確保についても議論されていない。ヨーロッパの市民農園は普墺戦争時のウィーン市民の飢餓対策として提唱され位置づけられているが、日本の市民農園は都市住民の趣味としての位置づけしかない。ドイツでは毎年、各州でクラインナガルテンの展示会としてブンデスガルテンショーが開催され、市民農園の位置づけが明確にされている。更に東シナ海や南シナ海でのシーレーンが確保出来ない場合については石油の問題だけが議論されているが、第2次世界大戦時のロンドンはドイツのUボートで食糧船が撃沈され、一時は餓死寸前であったという。経済封鎖は島国を対象にした戦略としては非常に有効なのだ。

難民問題も単に難民の食糧問題では無い。日本の少子高齢化問題は第1次産業の労働力不足に拍車をかけ、既に一部の地域では研修生という名の海外労働者が多く働いている。少子高齢化は避けて通れない問題であり、欧米では海外労働者無くして農業は成立しない状態になっている。日本の農業が労働集約型であることを勘案すると、海外労働者の雇用は日本の農地のメンテナンスに必要となってくる。

このようにTPP問題、シリア難民問題、北朝鮮問題、シナ海問題等、全ての問題解決のためには農地の確保と食料生産労働力の確保という問題がある。単に平和安全法反対を唱えるのではなく、平和を持続的に維持するためには日本の国土としての農地をどのようにするのかという議論を避けて通れない。安くて美味しい食糧を海外から買える時は良いが、いつまでも買える状況が続くとは限らない。徳川幕府が300年間持続したのは250万町歩の農地と2500万人の日本人口のバランスがとれていたからなのだ。農業問題を食糧という商品として見ている日本人が農地を国土として見て、日本人の生命との関係性を認識できるような意識転換をしないと大変なことになる。

2016-03-14

エンゼルズ・シェア

14:13

先日、新聞にこの言葉の解説が掲載されていた。日本語では「天使の分け前」とか「天使の取り分」というそうだ。ウィスキーなどを長い期間、樽の中で熟成させていると、どうしても少しずつ蒸発していく。この減った分が「天使の分け前」なのだ。英国の人情コメディ映画「天使の分け前」では、天使の分け前とは優しさであると描いているそうだ。不良青年の主人公が自分を助けてくれた女性に尋ねる。「何故、親切にするのかい」すると「私も昔、誰かに親切にしてもらったことがあるから」と女性は答えたそうだ。

私はこの記事を読んでいて自分の地域活動についての話しを思い出した。私は平成4年に現在の日野市に引っ越してきてからずっと地域活動を続けている。地域活動を始めた理由について自分では義理と人情の世界だと思っていた。つまり引っ越しのきっかけとなった地域の人たちから、地域活動つまり自治会活動を手伝って欲しいという要望があったのだ。引っ越す前に住んでいたのは山の手の世田谷であり、地域活動とは殆ど縁のない地域であった。もしかしたら世田谷のその地域の雰囲気が私の気性に合わなかったのかもしれない。何故ならは、私の人格形成時期は下町の上野であり、町内会ではどの家も商売をしているような地域であった。その結果、町内会活動は暇な店の親父が順番に面倒をみていたのである。そんな雰囲気のなかで育った私に山の手の雰囲気は合わなかったのかもしれない。

引っ越しを機会に地域の自治会活動を17年、その後はずっと広域の活動を続けているが、最近では他の地域から私の活動について様々な質問を受けるようになった。それはあなたの地域活動の原動力は何ですかとか、後継者はどうするのですかという質問であった。そこで私は自分の地域活動について冷静に分析をしてみた。すると答えは「天使の分け前」であることに気がついた。つまり私は子供時代に町内会のおじさんやおばさん達に面倒を見てもらっていたのである。ラジオ体操は文房具屋の親父、海水浴は床屋の親父、芋掘りはどこどこの親父というように、町内会のイベントはそれぞれ町内会のおじさんやおばさんが順番に面倒を見ていたのである。あまり自分の親のことは思い出さない。コメディ映画の女性の答えと同じように「私も昔、だけかに親切にしてもらったことがあるから」というエンジェルズ・シェアの心が私に地域活動をさせていることに気がついた。更に地域活動に後継者の問題は存在せず、私たちの地域活動が地域の子どもたちのDNAに刻み込まれればそれで良いという結論になった。私が上野で刻み込まれたのと同じように。

私たちはホタル鑑賞会、ソーメン流し大会、ごみゼロ収穫祭、餅つき大会の主要イベントの他に炊き出し食事会や市民協働マルシェなどを子どもたちと一緒にしている。参加人数は年間で延べ2000人になり、そのうちの半数以上が子どもたちだ。その子どもたちが将来、大人になった時に私たちの活動の姿を思い出し、自分たちの地域の子どもたちに同じような思いさせてあげようと思い、地域活動をしてくれればそれで良いのだ。その活動の場所はそれぞれの人生のなかで決まってくる。私もあと何年地域活動ができるかどうか分からないが、おじさん天使として子どもたちに分け前を与え続けていきたい。