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BASC理事長 原耕造のブログ

2014-07-03

協同組合間提携

17:06

協同組合間提携事業という農協と生協の協同事業を長年やってきたが、協同組合という組織だから同じだと思うと大きな間違いである。農協は地縁による相互扶助の組織であるが、生協は地縁ではなく「食」という縁による相互扶助の組織である。生協は地縁組織ではないので「協同組合間提携」といっても、提携相手の地域問題にまでなかなか踏み込めない。それは生協の日常的活動が「食の安全」をテーマに集まった消費者運動であり、地域の生活者ではないからだ。生活協同組合という名前がついているが、地域の暮らし全般にわたる相互扶助運動ではない。だから協同組合間提携といっても商品経済という枠内での提携であり、農村部の地域問題にまで踏み込むことができない。

これまで産直提携米の交渉のなかで、生産原価補償方式といっても農家の暮らしを補償するかのような錯覚をした時期があった。特に食管法の時代には、生協との産直運動が日本の米の未来を切り開くように農家は思っていた。しかし米価が下がれば生協の提携加算金は同様に下がり、そこには提携農家との運命共同体という意識はない。市場相場と異なる米価設定をすれば、生協組合員は提携米を見向きもしなくなる。産地と提携してもそこには協同組合運動としての相互扶助精神は無く、福島原発の有機野菜農家が自殺した原因もここにある。

農業政策としてもその視点が欠落しており、地域政策としての農地水環境保全政策のなかで、畦や用水の補修活動に提携生協組合員が参加する図式があったが、私はこの構図が実現出来ている地域を知らない。

私の活動である田んぼの生きもの調査も、当初は産直提携の新しい側面を開発することを理想に掲げてスタートした。つまり商品経済の土俵での提携ではなく、地域環境という土俵での共通認識に基づく活動を目指していた。田んぼの生きものに対する共通の眼差しを通じて、田んぼの価値をお米の安全性や美味しさだけでなく、国土として持続する協同運動の展開を夢見ていた。残念ながら10年以上経過したがまだまだ道は遠い。

最近、その原因を考えているがどうも「地縁」にあるのでは無いかと思っている。つまり地域に根ざした暮らし方をしていない人に、提携相手の地域問題を持ち込んでも理解できない。私は自治会を含めた地域活動を20年以上しているが、地縁の活動は金銭的価値観ではなく生きる価値観がぶつかり合い、好き嫌い、気が合うか合わないかの世界だと思っている。いくら嫌いでも引っ越さない限り地域からは逃げられないし、そこの妥協点を探すのが地域活動なのだ。

TPP反対運動で農家と消費者があたかも提携しているようであるが、生協は食品の安全が優先であり、日本の農地と農家を守るという協同組合間地域提携活動には踏み込めない。更に、農協もこのことに気がついていない。

2014-06-27

協同組合と給料

17:07

私は全農在職中から異端児と言われ続けた。何故、異端児なのかというと普通の人が考えつかないようなことを企画して実践するからだと思う。

所沢のダイオキシン農家の事件を見て、農家の無実を証明する方法を研究するうちにトレーサビリティという仕組みの開発に至り、BSEで牛肉市場価格が低迷から脱却出来ないのを見て、個体識別情報と個体検査情報をドッキングしてスーパー店舗で情報検索が出来る仕組みの開発に至り、遺伝子組換食品の安全性に疑問を持つ消費者と農家がいるのを見て、遺伝子組換をしていない飼料を輸入する仕組みの開発に至り、産直農家が交流会で産直疲労を起こしているのを見て、生きもの調査という新しい産直の会話の仕組みの開発に至り、これらの開発の過程では総てに渡って私は周囲から変人扱いをされてきた。

何故、私は変人なのか。それは私の企画が殆ど全農の収益に貢献しないとか、農水省等の行政の意向に逆行するとかの理由であった。それは全農の職員だけでなく、農家でもそのように言う人間が多かった。普通の人間であれば、そこまで馬鹿にされれば企画そのものをやめてしまうのが普通である。しかし私は何故、馬鹿にされても続けたのか。その理由は「協同組合精神にあった。

協同組合精神とは「一人は万民のために、万民は一人のために」というライファイゼンの言葉だとか、ロッジデールの原則にあるように「相互扶助」の精神と一般的に言われている。私の協同組合精神はそれとは異なり「誰から給料をもらっているか」という認識から出発している。

私は若かりし頃、新潟の県担当をしていて経済連の機械部長から質問をされた。その部長は戦争で爆弾の破片が足に残っており、筋を通さないと会話をしてくれない人物であった。「原くんは誰から給料をもらっていると思う」私はじっくり考えてから「全農です」と答えたら部長からゲンコツが飛んできた。「原くんは協同組合に務めていることの意味を理解していない。君の給料を出しているのは農家組合員なのだ。農家組合員がNOと言った瞬間に君の職場は無くなるのだ。全農とはそのような職場なのだ。良く覚えておけ」

私は家に帰って妻に「全農は親方日の丸ではないのだ」と話した。そしてその時が来たら2人でラーメンの屋台をひくことを確認した。今はそんなことを妻は忘れ、多分一人で屋台をひくことを強要するであろう。

私の仕事哲学はそこから来ているので、周囲の人間がなんと言おうと、農家組合員にとって必要なことは徹底的に追求するのが全農での私の仕事だと思っている。しかし全農を始め殆どの全国連の農協職員にそのような考えは無い。全農という組織を維持するために経営を総てに優先し、農家組合員はその次にくるのが全国連農協職員の実態なのだ。

2014-06-26

協同組合と下町

16:42

私は全農に入って初めて協同組合という概念を知った。私は農学系ではないので農業経済学や協同組合論などという単位は無かった。

入った当初、宮城県の農協の婦人部の会議に出席した時のことを覚えている。私は東京出身なので何かの拍子に「東京者には協同組合の助け合い精神は分からないべ」と言われてカチンときた。私は協同組合精神は分からないが、助け合いとは何かを知っている。何故ならば、私の生まれ育ったところは東京でも下町で、助け合いを普通にしているところだったからだ。味噌や醤油の貸し借りはもちろんのこと、小学校の友達の住んでいる範囲は殆どが家業をしている。所謂、畳屋、額縁屋、桶屋、とんかつ屋、中華料理屋、お菓子屋、印刷屋、大工、旅館、ホテル、洗濯屋、本屋、メダル屋、自転車屋、はんこ屋、数え上げたらきりが無い。サラリーマン家庭は殆ど無く、クラスの入れ替わりは年間1人あるかないかである。だから殆どの家庭は知っているし、向こうの親は私が誰の子供であるか知っている。近所で悪いことをすれば親爺に殴られるのは当然であり、銭湯に行けば必ず知っている人に会い、背中を流すのは当たり前の世界。銭湯には近所に住んでいる落語家がきて、何か分からないが唸っていた。

近所の有名人といえばシクラメンの香りを作曲した小椋佳がおり、私は彼の弟2人といつも遊んでいた。家は中華料理屋であり、お姉さんは三味線をひいており、私はそのお姉さんから「お富さん」という歌を教わり「粋な黒塀、見越しの松よ」と意味もわからず歌っていた。当然、親からは叱られ、暫く出入り禁止になった。そんなところで育ったので助け合いは日常的であり、その話を会議で開き直ってしたところ婦人部の農家全員が納得し、それ以降、親しくお付き合いをさせて頂いた。

東京の下町は山の手と違って人の出入りが殆ど無く、家の鍵はかけないのが普通であった。だからムラと感覚は同じであり、不審者は直ぐに分かってしまう。ムラと同様に町内会の共同作業はあるし、普段、子供の面倒をみれる親がいないので町内会の行事が多い。海水浴、芋掘り、ザリガニ釣り、お絵かき大会、書道大会、ハエ取り大会、餅つき大会、それこそ数え上げたらきりが無い。大人のなかで手の空いた人間が、それぞれの行事の面倒を順番みるのである。私の住んでいたところは東京のムラであり、助け合いの協同組合精神は生まれながらに持っていた。この部分が身体で分からないと協同組合の本質がなかなか理解できない。協同組合もいろいろあるが地縁をベースにした農業協同組合は、ムラの協同作業「結」に端を発している。結とは将にムラの暮らしそのものであり、東京の山の手には殆ど残っていない。このことを理解して農協論を語らないと間違った方向に議論が展開してしまう。

2014-06-25

国民の自立

16:23

集団的自衛権の議論が進められている。国民の命に関わる重大な問題にも関わらず、内閣という非常に狭いなかで議論が進められている。国民が送り出した議会での議論ではなく、議員が所属する政党の与党という一部で議論され、更にその与党の一部である内閣という限定された中で議論されている。

議論のなかでは「国民の命を守るために集団的自衛権が必要だ」と言われているが、私達の命は内閣のメンバーに託しているのではない。内閣のメンバーや与党や国会議員に託しているのでも無い。私達の国民の命と健康と財産を守ることは国民の権利であり、それを「主権在民」といっている。これでは「主権在内閣」である。問題の本質は、中国や北朝鮮の脅威から国民を守る集団的自衛権のケーススタディには無い。憲法という最高法規によって国民の命と健康と財産が守られているにも関わらず、その憲法という本質の土俵で議論せずに、解釈という姑息な手段で変更しようとしている。今はケーススタディの議論ではない。本当に危険が迫っており、対処方法が必要ならば、その状況を国民に説明をし、憲法改正の議論をするのが真っ当な民主主義ではないだろうか。そうでなければ今回の改正の責任は誰が負うのか。国民投票で現在の国民が憲法改正の決断をして、その結果、戦争に巻き込まれてもその責任は投票した国民が負う。それが民主主義の基本だったはずだ。

このまま憲法解釈論で集団的自衛権が認められ、それに伴う法律改正がなされ、海外で自衛隊が戦い、日本にミサイルが飛んできて、テロリストに原発が襲われても自分たちが判断したのであれば納得ができる。それが「自己責任」ではないだろうか。日本は何時から自己責任をとれない社会になってしまったのか。様々な調査で殆どの国民が今回の件で不安を感じている。何故、不安を感じるのか。それは様々な情報提供に基づき、様々な議論が展開され、その行動のなかで国民一人ひとりが決断できる状況になっていないことが原因。自分で決断をして将来に責任を持てば、もしその決断が間違っていたとしても納得はできる。他人様に自分の重大な決断を任せた覚えはない。

私達は選挙という社会の仕組みのなかで国会議員を選んだが、これは国民に代わって議論をしてもらう代議制という仕組みであり、その仕組は憲法という枠内で行われている。それは憲法が国民の命と健康と財産を守る最高法規に位置づけられているからだ。その最高法規に抵触する事項について、一部の国会議員という代議制に則っただけの人間が決めることは出来ない。

そのような違憲の状況に対して、憲法を守る機関である最高裁判所が異議を唱えなければならない。更に、最高裁判所が内閣と国会に対して国民投票を義務付けるという仕組みが三権分立ではないのか。

2014-06-18

EU市民の意識

14:50

環境支払いや新政策の項目でも少し触れたが、EUの農業改革を目標にして農水省は農業構造改革を進めようとしている。私はEUモデルに固執しないほうが良いと思っている。それは私が1980年代のEC市民であった経験から肌で感じ取っている。

私がEC市民だった当時、EU統合などはまだまだ先のことだというのが一般的市民感覚だった。何故ならば、当時のEC予算の80%はCAPという共通農業政策に使われていたが、市民としての共通意識はなかなか醸成できないでいた。それは西ドイツとフランスの対立が激しく、更に新規にEC加盟したスペインとギリシャの農産物がEC市場で激しく競争していたからなのだ。フランス農家がスペインのトマトを満載したトラックを横転させたりしていた。競争の原因は価格であり、その原因は為替と農業労働賃金であった。当時のECも手をこまねいていたわけではなく、グリーンレートという農産物独自の為替レートを設定したりしていた。更にEC域内の農産物価格を維持する政策や過剰農産物の輸出補助金政策を展開していたが、その結果、EC農業予算が肥大化し、それがEC統合を妨げていた。そのような状況のなかで1988年の欧州理事会では、農産物価格支持制度の転換や財政負担の軽減等の画期的な政策転換に合意した。これがその後のEU統合への転機となり、更にマクシャリー改革への流れとなった。当時の西ドイツの新聞にも大きく取り上げられていたが、日本の新聞の記事は見当たらなかった。

このようにEC市民にとって農業問題は日本人とは比べ物にならないほど重要な問題であり、単なる消費者視点だけでは無かった。自分たちが納税した税金の使われ方に関心を抱くのは国民として当然のことであった。その当時から農業政策における価格政策の限界が国民的議論になっており、当時、並行して行われていたガットウルグァイラウンドの動向を見極めながら政策決定をしていた。当時の日本ではガットウルグァイラウンド交渉において「米を一粒たりとも入れない」という国会決議がなされたりしていた。それは国際動向を読みきれなかった政治家、官僚、農協、マスコミの責任が重大であるが、ECのような国民的議論を巻き起こせなかったところに最大の責任があったと思っている。ガット交渉の内容は日本のコメ問題ではなく、世界の農業保護政策の転換の議論だったのだ。的はずれな交渉の結果、日本の稲作農家の収入は激減し、稲作農家はどんなに規模拡大をしても将来展望が切り開けず、息子を後継者にしない状況が生まれてしまった。

日本型環境支払い

13:41

この言葉を聞いて何を意味するのかきちんと理解している国民は少ないと思う。農家そのものも理解していない場合が多い。具体的には「ふゆみずたんぼ」であるが、これまでの支払い対象は冬場の水田に水を張れば、それだけで対策費が支出された。農家にすれば冬場に用水が確保できれば支払いを受けられるので、そのことの意味を理解しようとしない。農水省のパンフにも鳥がふゆみずたんぼに来ることが目的のように書いてある。この対策費の効果測定の調査に同行したが、一所懸命に鳥の姿を追っていた。本来は水田の生物多様性を高めるのが目的なので、農家に生きもの調査を義務付けなければ意味がない。しかし、今回の対策にも調査は義務付けられていない。私のセンターが生きもの調査をしているから言っているのではない。冬場の水田に水を入れただけで国民の税金が環境対策費という形で支払われるという構図は国民に理解されない。

これは「ふゆみずたんぼ」だけではなく、用水や畦の補修を共同で実施した場合にも環境支払いがなされる。この問題では以前、全国新聞に「市民が草刈りをしても対策費は出ないのに、何故、農家が草刈りをすると対策費が出るのか」という記事が掲載された。この記事を書いた記者のレベルにも呆れるが、農水省は国民に対して農家の草刈りの意味を理解してもらう広報活動をしていない。もちろん、「ふゆみずたんぼ」の解説も広報も国民にしていないし、新聞もしていない。これでは国民が日本型環境支払いの意味を理解しないのも当然である。納税者に理解されない対策は長続きしない。

農水省のこれらの一連の対策は1992年から実施しているEUの農村環境対策をモデルにしているが、EU市民が何故、この対策を受け入れたかの背景を理解していない。更に近年では価格補填の直接支払い対策よりも農村環境対策に予算がシフトされている事実を日本国民は知らない。これは何も国民が悪いわけではない。直接支払いへの転換は1992年のガットウルグァイラウンド以降であるが、政治家も官僚も農協も新聞も殆ど国民に対してその意味を説明していない。国民は選挙対策としての農家への税金のバラマキだと思っている。環境支払いは農業政策ではなく地域政策であることを国民は理解していない。それはEUの政策を形だけ真似して「ふゆみずたんぼ」や草刈りが国民とどのような関係性を持つのかを説明していないからだ。地域政策とは将に国土政策であり環境政策であり教育政策なのだ。その意味を国民に説明せず理解を求めようとしないので、納税者である国民は納得しないし、その実施主体である農家という国民もその意味を理解しないで形だけを真似ているのだ。

総合農協の意味

12:06

総合農協というと一般的には農協が様々な事業を独占的に手がけているイメージである。だから独禁法適用除外団体の問題が出ているのだと理解されている。しかし総合農協の一番の特徴は様々な事業展開にあるのではなく、様々な事業の財布が一つであることなのだ。農家組合員の一つの口座にお米の仮渡金が入り、委託販売後の清算金がはいり、農業機械の購入代金がその口座から引き落とされ、肥料と農薬の代金もそこから引き落とされる。農協の生命保険や損害保険である共済代金もそこから引き落とされる。このように一つの口座で殆どの金銭の出入りが把握できる仕組みが総合農協なのだ。

昔ダイエーの社長の中内さんと話した時に彼はこのように言っていた。ダイエーは消費者の総合農協を目指している。そのために金融事業等消費者に関わる様々な事業を展開し、ダイエーコングロマリットと呼ばれた。しかしあまりに事業の多角化を進めた結果、倒産してしまったとも言われている。私は中内さんが消費者の財布の総合化を目指したことは間違っていないと思う。しかしムラとマチの違いを認識していなかったのではないかと思う。ムラは監視社会であり、更に夜逃げはなかなか出来ない。しかしマチは無関係社会であり、都合がわるくなれば引っ越しが出来る。そこには全く異なるマーケティングが必要となる。このことを殆どの人は理解していない。農協の人間もそのことを意識していない。

私の友人はマチの感覚でムラへの事業展開の方法を相談してきたが、私は「労多くして実りが少ない」から止めたほうが良いとアドバイスしてきた。今回の農協改革の背景には、国内で残された最後の市場を開拓したい企業の意図が見え隠れする。もしかしたら海外の企業にムラへの進出を手助けするために、進出の障害となる農協組織を崩壊させようとしているのかもしれない。全中の指導力を低下させ全農を株式会社化すれば、一般企業のムラ進出が可能となるという仮説を立てている可能性がある。しかしそれは間違いである。農協という組織は一般の組織とは異なり、上意下達の組織では無い。農協は全中や全農の指示命令で整然と行動しているわけでは無い。ムラに売り込みをかけたいメーカーが商品を全農に持ってきて、全農が取り扱いを決めても、その商品は即、農協で売れるわけでは無い。農協というのはそのような組織なのだ。ローマクラブが成長の限界の総括のなかで、現在の消費社会のマスマーケティングからの転換の必要性を訴えているが、もしかしたらムラのマーケティングがその答えかもしれない。