天皇とマッカーサー

大嘗祭憲法の項目でも書いたように戦後の歴史のなかで不思議に思うことを整理してみたい。その二つ目が天皇マッカーサーの写真である。
マッカーサーが厚木に到着して以降の経過を時系列で紹介してみたい。

8月30日にマッカーサーが厚木に飛来した。
当時のマッカーサーはこのようなコメントを出している。
「自分は日本国を破壊し国民を奴隷にする考えは全く無い。要するに政府と国民の出方一つでこの問題はいかようにもなる」占領軍による直接統治ではなく、間接統治を約束している。
9月10日に天皇を戦犯として裁く決議案がアメリカ議会に提出されている。
9月11日にGHQ東条英機等の戦争犯罪人を逮捕して拘留している。
GHQ内部では天皇は日本人の精神的な拠り所であり、天皇の意向を利用した統治を進言するグループがあった。
このような状況のなかで天皇マッカーサーとの対談を希望し、吉田茂天皇の意向をマッカーサーに伝えた。
マッカーサーは要望を受け、会談場所をGHQ本部ではなく、アメリカ大使公邸に設定した。
9月27日にアメリカ大使公邸において天皇マッカーサーの会談が実施された。
会談において天皇は今回の戦争の全責任を負うことを表明した。
その結果、GHQ天皇戦争犯罪人として裁判にかけられた場合には日本の統治機構は崩壊し、全国的な反乱が避けられないであろうとの判断に至った。
翌日の新聞は会見を一斉に報道したが、直立不動の天皇マッカーサーとの並んだ写真は不敬にあたるとして掲載が禁じられた。
しかしGHQは直ちに掲載禁止処分を撤回し写真の掲載を指示した。
この写真の構図は体格の違いと両者の位置取りの関係からして、マッカーサー天皇の上位にあるような印象を与えたのでは無いだろうか。国体の象徴としての天皇の上にマッカーサーが存在するという認識に陥ったとしても無理は無い。更に、この写真によって日本国民は8月15日以来の終戦ではなく敗戦を改めて実感させられたのでは無いだろうか。
GHQは日本の占領政策として天皇と国民との関係性を有効に活用し、その後の占領政策を進めた。占領政策の基本は日本の武装解除民主化であり、戦争の原因となったであろう戦前の体制を一つ一つ改革していった。
国際連合が開設された1945年10月には日本軍は解体され、12月15日には神道指令が出され、翌年の1月1日には天皇人間宣言が出され、教育勅語が廃止され、11月3日には新憲法が公布され、翌年の1947年5月には新憲法が発布され、象徴天皇としての第1条が明記された。その後に東京裁判が開始されたが天皇は勿論、戦争犯罪人として訴追されず、ポダム宣言受諾のときの最大課題であった「国体の維持」はなされた。国体の維持と書いてしまうと、何か右翼的な文章のような印象を与えるが、この間の経過を綿密に検証していくうちに当時の日本人の心の変化が分かってくるような気がする。日本人の社会は稲作中心の村社会が基本であり、家族制度と家父長制を基本とした村の掟がある。その掟が家族であり、村であり、国であったのでは無いだろうか。家族は家長が決めた最終判断に従い、従わないと家族も村も国も成り立たない。8月15日の終戦は日本国の家長である天皇の最終判断であり、その心は日本国民全体に伝わった。そのような日本人の心の状態のなかにマッカーサーが来て天皇戦争犯罪人にしなかった。しかし二人の写真を見ると、何やら私達の家長である天皇よりも偉そうに見える。たとえそれがGHQの占領統治政策の一貫であるとの解説があったとしても、当時の日本人としては不思議に思わなかったのではないだろうか。国体としての天皇を庇護する存在がマッカーサーであり、マッカーサー天皇が一体となって国体を形成していたのではないかと感じている。それがサンフランシスコ講和条約日米安保体制へと連なり、今日の国体を形成しているのではないかと思う。
戦後の昭和天皇は将に英国式の立憲君主制のモデルとして振る舞い、その子の平成天皇は日本人の心に寄り添い、それがアメリカから教えられた民主主義を体現することだという確信をもっているのではないかと考える。戦前は国体と呼ばれていたが、今や日本人の「心の象徴」としての天皇になっている。今回の退位問題に関して天皇は直接の発言をしないが、日本人の国体としての「心」に危機が迫っていることを国民に伝えたいのではないだろうか。天皇は「祈っているだけで良い」という暴言を吐いた人がいるそうだが、その人間には日本人の心が流れていないようだ。