ものがたり百科

 

2018-03-23 このエントリーを含むブックマーク

今日の記事はいつもよりいっそうとりとめがないです。

数日間、娘と風邪でこもっていたときのこと。眠れないし疲れはたまるし、肉体的にぎりぎりだったとはわかっていた。けれどそれ以上に今回は、精神的に追い詰められるものがあった。絶対に行動には出ないけど、あ、このままいくと、わたし虐待するな、と思った。どこでもいい、娘の顔も声も見えない遠くに行きたい(そしてもう帰って来たくない)と瞬間的に思ったり、泣いている娘をもっと泣かせる想像などしたりして、「こういうとき、もっと弱っているか、自分にその経験があれば、人は暴力に走るな」と感じた。そして、驚いたし、疲弊した。全身から力が抜けていくような感覚だった。自分が自分でなくなるような。無力だな、と思ったし、もう応えられないです、と思った。

これまでもよく風邪はひいてきたし、よく乗り切って来たと思う。ではなにが違うのか。それは、2歳の子はもう「赤ちゃんではない」のに、やる気になれば大人しくいうことを聞くことができるようになったのに、全力で甘えてきたからだと思う。抱っこして、ママ、抱っこして、ママ、と5秒に1回言わせているのは体調不良だとわかってはいるけれど、試されているようで辛かった。とにかく聞いているのがしんどかった。普段だったら気持ちを外にずらしたり、楽しい部分を見つけられるのに。


そうやって、何度目かの夜、冒頭の本をネットから知り、そのまま読みふけって、気づいたら、眠れるようになっていた。

この本は、副題にもあるように「虐待された人」のもつ独特な感覚に焦点をあて、彼らが自分自身を発見していく最中で獲得する一種独特な、でも不思議と希望に満ちた世界観や死生観、日々の味わい方に着目していく。著者によれば、虐待された人は、死を表現する時、「消えたい」と言う。そうでない人々が、何かの報復のように「死にたい」を口にするのとは異なり、まるで、自分の存在の痕跡丸ごとを最初から抹消したいかのようにーー。

読み終わって、すぐに著者の他の本も読み漁って、あ、わたしは虐待することはないな、と信じることができた。それでゆっくり眠れた。実はそれって、産んでから初めての感覚なんだよね。いつしてもおかしくないからこそ頑張ろう、と思っていたから。そうして、お母さんという役割を一歩深く受け入れられた気がする。

私自身は、「消えたい」の世界がよくわかる、気がする。正確に言うと、「わかった」。数年前から、そのほころびがどんどん出だして、ちょうどこのブログを書き始めて2008ぐらいから数年かけて、それまでと世界の見え方が一変するような出来事が起こった。それまでも、芸術と自然を通じて、人生は素晴らしいし世界は美しいって知ってはいたけれど、それが自分の存在にまで波及するとは思ってなかったから。食べものっておいしいものなんだと知ったり、そうか、見る聞くことがそれまでとは比べ物にならないぐらい素晴らしく鮮やかになったのもそのころ。人生の初期設定が変わってしまったから、正直、もうそれより前の感覚が、リアルには思い出し難いものになっている。でも、時々「そっち側」から発信する(ように思える)信号を聞いて、そういう世界があった、と思うことがある。そっち側にいたことのない人は受信が難しいのかなあ、とか。

上記の本では「消えたい」の原因を児童虐待に置いている。わたしの場合がそうであったといいたいわけではない。わたしの受け取り方にはフィルタがかかっているので。大事なのは、誰がどうだったか、ではなくって、そこで描かれたと似たような感覚を自分がかつて持っていたこと、そして抜け出したこと、それだけ。

2歳の育児は大変、ともとから聞いていたし、実際想像していなかったタイプの感情が訪れた。それは、自分は甘えられないのに、甘えてくる子どもが許せない! とか、甘えてくるこどもが生理的に受け付けられない、とかそんな感覚だった、わたしの場合は。その気持ちをもったことに罪悪感をもった。けれど、単に原因を内側に求めよとかそういうことではなくって、甘えるのが自然な人間なんだ、と深く納得できるための、必要なプロセスなんだと思う。そして、本当に大変な方は何か自分の中の心の癖を発見したら楽になると思うので、SOSは本当に大事だ。もしこの記事を読んだ方で、該当すると思った方は、同著者のこちら 

「母と子」という病 (ちくま新書1226)

「母と子」という病 (ちくま新書1226)

がおすすめです。


実は「抜け出した」と書いたけど、産後何回か、「自分さえいなければこの子はきっともっと幸せ」とか、「もういつ消えても大丈夫」と思うことがあった。その度に何かしら手当(話を聞いてもらう、夫に喋る、専門家の書いたものを読む)をしてきたのも、間違いじゃなかったんだな、と思った。そして今どれぐらい幸せで、どんなに日々楽しくっても、いやだからこそ、こうして昔いた世界がちらっと見えることがあるから、引き続きお手当をしていこう、それができる余裕を持ち続けよう、と思う。そうして、この本では、「消えたい」の世界を知っているからこその幸せのあり方が描かれているけれど、そんな自由をずっと自分は欲していたんだな、とわかった。立場やあり方に左右されない、関係の中の自由ではない、自然の中の、生命の営みとしての自由を。

虐待された人の心理を知りたい方はもちろん、人間なんてもういやだ、と思った方におすすめしたい一冊です。(それにしてもこのタイトルと副題、ばっちりだよ!)

2018-03-16

[]一人の仕事はもうしない

 ずっとお手伝い、というか、気がつけば(人から指摘された)制作の中枢、にいた、おこわ、という企画のvol.4が終わり、精算作業にかかるぞ! というところで、娘ちゃんの風邪が長引いた。正直焦った。作業のために本番まで休んだのに! 本番の翌日までお休みにしたのに! なんで!?わたしが何をした!?と頭の中は支離滅裂。お風呂に入る隙もない日がちょっと続き、肉体疲労がもろ精神にくる私は、朝からかなり殺気立っていた。そこで愚痴をひとしきり聞いた夫が一言。

「自分しかできないことを抱え込むからいけないのだよ。分担だよ、ワーキングマザー。遠慮しない」

 なによーー! と一瞬むっとした。けど、、そうなんです。そうなんですよ。数分咀嚼して、1日ゆっくり子どもと過ごしたあと、今後の方針がしっかりたった。

 

 つまりは、もう、一人前の仕事はしない、ということ。

 社会人になり、ましてやフリーランスに近い働き方をすると、「いかに自分しかできない仕事をするか」というところに焦点が行く時期がある。やっぱりあなたじゃなきゃ、あなたに頼んでよかった、ということばほど、自尊心をくすぐるものはない。ましてやそれがお金に直結する状況であれば。

 でも、違うんだよね。もう。母と妻と主婦、修論は私にしかできない。でも、それ以外の一切は、実は分業できる。そして分業したところで、頼った誰かは喜んでくれ、「楽しかった」「関われてよかった」と言ってくれ(内容の面白さはお墨付きですから)なんならちょっとしたお小遣いに化け、私の側には、人に伝えるスキルと、子どもに向き合う時間が残る。もともとこの企画は、制作の細かい作業のほとんどをわたしが持っていた。それを2人でわけ、3人でわけ、もうじき4人になるかもしれない。昔だったら、「他の人だって同じようにやってるのに」といじけてたと思う。(実際他の人も兼業ですから)。それより以上に、「できるわたし」でいたかったんだと思う、仕事ってそういうもの、と思いたかった。でも、、役割はそんなに一人の人が負えないよ、少なくともたっぷりの睡眠時間と、甘いおやつとお茶が人一倍必要な私には。

 というわけで、分業してくれそうな友人よありがとう、ということと、そうしてルーティン化していったところに残る最後のちょっとしたトピックスーーたとえば、お客様にいつもより丁寧にメールを書くことや、ちょっとした気の利いた対応をすること、そういうところにわたしは注力すればそれでいいんだと思った。ずっと、現場でだれよりも泥くさい仕事をすることがわたしの誇りだった。けど、もし、神様のようなものが、少し俯瞰して場を整えることをしなさいと言っているのならば、つつしんでそのポジションに移ろうかな、と。

 

 ちなみにその間、友達からこの本をもらって読んでました。会社員の方のエッセイがどれもわたしは腑に落ちました。処方箋をもらうときではなく、今までの自分を俯瞰したいときに、考える隙間をくれたかも。

女と仕事 「仕事文脈」セレクション (SERIES3/4 3)

女と仕事 「仕事文脈」セレクション (SERIES3/4 3)

 

2018-03-01

[]子どもと森羅万象

 最近地域のことをもう一つのブログに書いているのだけど、こっちは住み分けで、子どものことなど。

 民俗学の授業で先生が「なぜか、『死後の世界はない』と口ではいう学生でも、なんとなくお墓に手を合わせたり、草葉の陰という感覚があるんだよ」と話してくださった。それってどこから来るんだろう?  わたしたち世代だと、祖父母と同居してる人も少ないし、暮らしの中の風俗も失われつつあるから。

 

 その一つの答えが、絵本じゃないかな、と気づいた。

 きっかけは、『はらぺこあおむし』の英語併記版を読んだこと。最近はいろんなバージョンが出ていて、図書館で英語版を娘が引っ張り出してたので、のぞいてみたら驚いた。かなり翻訳が日本語としてこなれているの。

 最初のページでは、あおむしのたまごをお月様が眺めている様子が描かれている。日本語版だと、そのたまごをお月さまが発見したよ、というところからはじまる。英語版ではなんと、その記述がない。「たまごがあります」の一言のみ。「お月さまが空から見ていいました」という、お月さまを人格化するのは、日本語版オリジナルの表現だったのだ、なんと。

 次のページからも同じように、単純な叙述として描かれる英語版あおむしに対して、日本語版あおむしは、いろいろな人格が登場しいろんなところで喋る。最後のページなんて、誰がいってるんだかわからない「あっ、ちょうちょ!」という呼びかけが登場する。英語的な発想で考えたら、誰の発言だかさっぱりわからないし、唐突すぎて理解できない。でも日本語話者である私たちは、その呼びかけが、読者であり語り手であるわたしたち両方であること/もしくは、その間にある間主観的な存在が発していることを自然に知覚する。

 そっか、こうやってわたしたちは文化を身につけるのね、と思った。お月さまも猫も財布もしゃべるし歌う。2歳の娘にとっては、顔のかいてあるものすべてに命が宿っているのは当然なこと。そういえばアンパンマンだって、八百万の神の写し絵みたい。ひとつの言語世界に身を浸し、そのなかで生きていくことが、自然とその文化を身に付けることなんだ、とあらためて感じた出来事でした。

2017-12-24

[]子連れのタイムライン

 結婚して子どもがいて、となると、独身だったり大人だけの家庭の友だちが、なんとなく声をかけづらくなったりする。新婚ならば家庭生活優先だろうし、昨今は子育てが大変だとよく言うし。自分も後者だったときはそうだったから、その感じはすごくわかる。

 一方で、友だちにはやっぱり会いたいわけで、「子どもとの生活ってこんな感じだよ」とわかってたら、声をかけあいやすくなるのかも、と思ったりもする。というわけで、未体験の方向けに、「子どものいる生活の時間の使い方をどう説明するか」を考えてみた。

子づれのタイムライン

前提:子ども=手のかかる乳幼児期〜小学校卒業程度までを想定しています

(そのうち、体験したのは2歳まで、それ以降は観察)

専業主婦もしくは自宅でパート、家事育児を行う人です

都市生活者、非自営業者、核家族を想定しています

◉1 とにかく朝型、朝が命

 子どもはとにかく早起きです。日の出と共に目覚めることざら。そして夜は自分も「寝かしつけ」という作業のため、子どもと一緒に一旦寝たふり(や授乳等)行う都合上、寝てしまう可能性も高い。そのため、まとまった自分の時間がとれるのも、家事をまとめて片付けるのも、朝に行なっている方が比較的多い印象です。なので、夜のお誘いは行きたくても、、、ということは結構あります

◉2 自由時間は掛け値無し

 大人だけのお出かけや、ひとり時間をもつ場合は、当然その間子どもを預けておく段取りが必要です。それも何重にも防御策が必要です。家族・親・ご近所など友人・行政の託児サービス・学童や一時保育・ベビーシッターなどなど様々な策を打診して、必要に応じて予約の手配やお土産準備、連絡などの段取りをこなして、やっと出られる! という方が多数だと思います。たとえ親御さんと同居であっても、何かしらそのぶん労いをするとか、時間を少し調整するとか、細く長く預けられるような段取りを組んでいます。

 これは、もちろん親のためでもあるし、子どものためでもあります。一人一人の子どもにも相性や耐性があるので、その時々の子どもの心身の安定具合をみて、外出の頻度を調整する必要がある。あんまりいないばっかりだと結構わかりやすく荒れたりするし、子どものために犠牲になってる親をみることほど、子どもに辛い体験もありません。そして、そこまで準備しても、当日子どもに熱が出たら即自宅待機です。

 それだけの準備をするのですから、自由時間の貴重さも味わいも、それまでとは比較にならないほど重いです。

◉3 近所&当日は意外と融通がきく

 これも実感したこと。四六時中子どもは目が離せない、とはいえ、大人との会話がほしい子連れ親たち同士、偶然会うと意外と話に花が咲き。というのも、子どもが安定して遊んでる間は結構こちらものんびりできるし、意外ともてあます時間もあるのです。とはいえ、そのタイミングがいつくるか・どうくるかは子ども次第。なので、勢い、「近所」の有利さは圧倒的です。もし会いたいなって人がいて、その人が子どもがいる場合、近くまで行ってあげるとすごく感謝されるかもしれません!

◉4 「出やすい場所」はしょっちゅう変わる

 赤ちゃんの時は、わたしの用事にかなり娘を付き合わせてました。しょっちゅういろんなところに出入りしていたし、自分では動けない彼女にとっても、色々なものを背中で体験できるのは楽しかったんじゃないかな?と思います。変化が起きたのは1歳ごろ。自分で歩き、周囲を探索できるようになると、彼女自身にも「自分のペースで時間をつかう」ニーズがぐいっと増して、「これは合わせてあげないと」と思ったことを強烈に覚えています。産むまでは想像もしませんでしたが、赤ちゃん連れで素敵なカフェは余裕です。しかし、2歳とは挑戦です(お互いに不自由すぎて)。なので、会いたい人に子どもがいる場合、どういう場所がいいかは、相手とその子どものそのときの状況を直前に確かめて設定するのがおすすめです。

 もしかしたら(わたしもそうだったけど)「たまには、自分の知らない・でも素敵なところにいってみたい!」という可能性もありますから!

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 書いてて思ったのが、「子連れ」について考えることはすべてのマイノリティにつながることかなと。たとえば、高齢者、障害や病気がある方、移民、介護者、など。個人的にはでも、自分と異なる体験をしている人とつながる貴重さを日々感じているので、あまり遠慮せずどんどん声をかけあうのがいいと思います! そしてお互い「いまはこれがベスト、あなたどう?」とたずねあえる関係をもちたいと思います。関係は育てるものですから。

2017-12-13

[]「体調管理は仕事のうち」?

 知人にお仕事をお願いしたのだけれど、お互いに子どもがいるので、直前になって体調が、、! ということがあった。その方の恐縮具合を見て思い出したことなど。

 社会人だったとき、いくつかの職場では「体調管理も自己責任だから、風邪をひくなんて」と白い目で見られるものだった。その度に、「言っていることはわかります、でも」と言いたいことをぐっと飲み込んで、しばらくしたら逃げてきた。

 今は、子育てベースで生活している。ほんのちょっとでも「疲れがきている」「風邪ひきそう」なもんならすぐに授業も保育園も休んじゃうし、ご近所のお母さんとの打ち合わせも、子どもの状況次第でペンディングになるし、「ごめん寝ちゃった!」ということもしょっちゅう。

 でも、そのぐらいの感じがわたしは一番心地がよいのです。

 そもそも、体力と体調の乱れやすさのポテンシャルはものすごく個人差があるのです。男子諸君には生理もないでしょう。仕事するのにふさわしい健康が維持できる時間が月に強制的に2週間しかなくて、あとはやり過ごすしかない、とか、実感としてわかるかね? 大事なときに穴開けない方がいいとか、責任があるとかわかってます。体調管理だって人並みに気にしてます。しかし、熱あるのに鞭打って会社にいって、そこでどんな新しい発想が出るというのだ? 体の方が悲鳴をあげてるのは、「今の生活を変えなさいよ」とか、「何か無理がある」からなわけで。

 「体調管理も仕事のうち」を突き詰めていくと、(会社にとって都合のいい)壮年男子正社員だけが出世できる雇用システムになる。多様な人は(自己責任で)排除するしかない。人間はロボットではないので、「完全なる仕事人間」だけを求めていった結果、子ども、障害、老年、女性、、、あらゆる多様な人々が「正規ルート」から外れていき、残った人は酷使され、ついには誰も残らなくなる。老齢病死を避けられる人間なんていないから。

 というわけで! わたしと会う人に関しては、直前にキャンセルしようがなんだろうが全然気にしません! というのと、「体調管理は仕事のうち」という言説は気に入らない! という話でした。おしまい。