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阿部正行の「ベトナム私信B」

2011-03-29

彼らの尊い義捐金 / 復興革命!復興省は、孫さんで行こう!

彼らの尊い義捐金 / 復興革命!復興省は、孫さんで行こう!!

■またすぐにハノイに戻るのだが、2週間ぶりぐらいで、戻った。少し緊張気味に帰国した。ハノイも何故か今年はテトも終わって1ヶ月半も経とうとしているのに、異常に寒かったが、成田に着いて、こっちの寒さはただならない寒さで、本当に珍しく一気に風邪引いたようだ。熱が結構在るようだし、痰が際限なく出てくるし、おまけに肋膜の周りの筋肉が咳のたんびに大いに痛い。だから、当校のスタッフたちから預かった義捐金のこと、帰国して早速その日(25日)に書こうと思っていたがこの風邪の所為か、帰国して日本の被災の深刻さがハノイに居るときと全く桁が違いなので、書くことに往生してのことなのか、判然としないがまったくブログが書けずにいた。でも、日曜の内に書こうとPC開いていたら、NHKBS岩崎宏美35周年プラハ公演のドキュメントをやっていたので、35年前のフアンとして彼女の懐かしい声と品の良い話し方を見ていたら少し元気が出てきた。チェコの一流なアンサンブルとの共演でなかなか良い。51才にもなると容色は一定後退するし、透明な音声も変容を強いられているが、そこはフアンの僕だもの、昔の麗しいお顔と声が自然に被さってくるので、完璧に聞こえたよ。

■と言うことで、書き始めたが、昨日の「ハゲタカ 六部作」全部を偶然見た話しもせねばなるまい。このブログでは、既にシリーズを2度見た事は書いている。大体テレビドラマで3回も見るなどと言う労苦を甘受できる作品など在るわけ無い。僕も好きで3回見たわけでないのだが、偶然が付きまとって見る羽目になったに過ぎないと言いたい。昨日だって、まったくたまたまBSにチャンネル廻したら、第一作目が始まってところで、すぐテレビの地デジ番組表見たら一気に今から6本だという。一瞬、僕は多分困った様に「うっ」と言ったはずだが、結局作品の力に引っ張られて6時間テレビ前に座して見た。やっぱーいいね。この「ハゲタカ」。名作の部類に入るね。前にも触れたが麿赤児の息子の大森南朋とかいう主役の青年、いいねえ。また松田優作の息子も役者としてなかなかだね。で、音楽も良いね。エンヤのような、でももっと東洋系かなあと聞こえる女性の歌(というより音声と言った方が良いかも)が主役鷲津の屈折した心象に深みを与えている。ただ、これ見ていて、風邪が僕の体内で更に猛威をふるったのも事実さ。

■テレビ繋がりで、これも言っておこう。「白洲次郎」のドラマも今日BSでやっていて、これも一挙に全3回分見た。司馬遼ものとか、この白洲ものなど流行物が嫌いな僕は、この番組自体の在ったことは知っていたが、今年は大半がハノイに居たこともあったし、このタイトルを無視していたので忘れていたわけだが、今日たまたま、NHKBSでやっていたので、4時間ほど使って全部みた。原田芳雄吉田茂がいいねえ。正子役の中谷美紀も悪くない。白洲次郎という人物は予想通り鼻につく貴族趣味野郎で、うんざりだが、戦中から戦後にしかるべく存在した希代な自由人であったことは認めないわけにはいかない。被災に直面すると誰に言われるのであろうか、おそろいで作業ジャンバーを着て記者会見して(現場には行かず)深刻な顔を並べ曝している今時の俗世の代表挌である政府首脳部や東電幹部とは180度違う人種であることは明確だ。

■一日テレビばっかり見てるがばれてしまうが、深夜というか、朝まで「実録ドラマ・グリコ森永事件」をまたまたBSで見た。ドラマでここまで現実というか設定をリアルにした日本のドラマは見たことがない。読売と毎日のこの事件の担当記者が実名で、それ以外の警察幹部も実名で出て来たのだ。驚いた。警察の失態も新聞社の特ダネの「抜き」争いの実態も露わに描かれる。通常日本のドラマは新聞社名は「毎朝新聞」とかでわざとフィクション性を表に出し、作品の法的(名誉毀損など)な防衛線を張り、トラブルを避ける傾向が強い。権力に及び腰なのさ、テレビ屋は。ところで、この事件は早稲田の親しい先輩であった週刊誌記者の宮崎学が、その件で「キツネ目の男」としてマスコミの表舞台に登場し、さらに作家として打って出て開花したのが、僕にとっては事件であった。ヤクザなタイトル「突破者」がデビュー作だ。覚えていますか?

★ (■33の続き)僕の今回の帰国で一番重要な仕事は、実は当校の女性の部長であるゴックさんが呼びかけて、学生からベトナム人職員、日本人教員までの全員の賛同を得て、集めた義捐金を然るべき所に、お届けする事なのである。僕にとっては緊張するほどの大きな使命だ。僕や日本人教員の4名は当たり前としても、やっぱり当校に面接に来た学生始め当校の通学学生11名が厚い志を示してくれたんだからね。これ以上嬉しいことはないです。一生懸命の若者たちの優しい心に感銘を受けました。

更にベトナム人の職員の誠意がすごいので正直驚いている。一人は決して豊かではないのに貯金を下ろして家族と共に約1000ドルを出してくれたのだ。また、やはり家族として220ドルぐらい提供してくれたスタッフもいたのだ。本当に頭が下がる。そいう具体的な優しさはベトナム人の心の何処から出てくるのであろうか。だって、1000ドルはさあ、今の為替では8万円だがベトナムの社会では少なくとも約80万円以上の感覚(価値)なのだよ。ベトナムは工場労働者月給は100ドルの社会だからね。普通僕らはっきり言ってそこまで出せないよ。結果、今回のゴックさん中心に動いた志の合計は1827ドルとなった(+物資も少し)。学生11名と職員15名(ブオンの友人1名のも含む)の日本の復興を信じての総意の合計です。僕が言う立場ではないのも充分承知しているが、うれしいなあ、皆さん、本当にありがとう。日本の事を思ってくれてありがとう。

僕が仙台出身であること、仙台出身の教員もいることもあり、方向としては仙台石巻南三陸町あたりの子供たちに関係するところに寄付することになっています。で、仙台二高の同窓の幹事である庄子友康に相談したら、今すぐなら自治体に相談して提供可能だがグロスとして活用されるだろうし、個別の相手を探すなら、もうしばらく待っても良いんじゃあないかという仙台現地の意見ももらった。お届けしたい食品の物資も少しあるので、僕も体調がなおったら、仙台に行こうと思っている。このことはまた報告する。

★ 《復興革命だ》政治にはほとんど幻滅してるので、何も言いたくない。人間として情けないことをテレビやインターネットを通じて毎日知ることも多くて、本当に暗い気持ちだ。

1 福島原発の復旧とはなんだ。復旧はいらないんだぜ。終止、廃止、即「石棺」にするんじゃあないのか?直してまた使うつもりがある「復旧」は、論外だと思う。復旧して、冷却してから石棺なら仕方ないが・・・。本当か?奴らは信じられないからね。

2 週刊朝日によると保安院とかいう産経省の部局の福島の常駐者は7名いるらしいが、事故後避難してしまい、全員1週間は現場に不在であったと言う。本当に情けない。日本を信用してくれている世界の皆さん、済みません。恥ずかしいです。

3 「福島50」とか言われる「突撃隊」や作業の400人は誰なのか、足を被爆した3名は、誰なのか?氏名どころか、殺人者並に「青ビニール遮蔽」だ。長靴も履かない管理はなぜなのか。ここで働いている皆さんは、ほとんど下請けの下請けの作業員つまり、派遣日雇いの「原子力の知識を必要としない」労働者だと思われる。これも週刊朝日の情報だが、事故後すぐに作業員が当然のように激減したわけだが、日当を3倍つまり5万円にすると言うことで、作業員から突撃隊を募集して、作業を「させている」ということだ。本当に悲しい。そこには東電やメーカーの日立三菱の本社の正社員は誰一人いないはずだ。

テレビに作業服着て説明している副社長始め広報の幹部らは、この事故を誰も自分の事であると認識していないかのように感じられる。顔とか話し方がそれを表現している。危機管理の対応のマニュアルすら読んだことが無いようだ。日本の企業の組織の悪い側面が如実に表れている。恥ずかしいことだ。日本人の仕事に対する責任感は何処に行ったのだろうか。日雇いの常連の中高年や若い作業員たちに作業を押しつけている(ざるを得ない)システム。いざという時はこういう対処になる事は初めから解っていたはずである。たぶん暗黙の了解は前から合ったのだと思う、卑怯な大人たちの間でのアイコンタクトでね。悲惨です。差別が露骨で無惨です。強い放射能放射線物質が猛威をふるう現場で黙々と泊まり込みで指示通りに作業する彼らがあまりにも可哀想です。1億円とか数千万円の退職金を得て、さほど遠くないタイミングを見て退社するだろう社長とかテレビに出ている2名の副社長と引き替え、日雇いに近い雇用の大半の作業員たちは保険すらがままならない契約条件のもとで、数年後に何十人も死病を患うだろう。無惨だ。いま何を語ろうか。

4 未曾有の津波で親を失い、子を失い、家や職場を失った広範な三陸一帯には悲しさが、人間としての心底からの悲しみが見える。でも、被災したが未来を見つめる暮らしが幾分かは始まっている。一方、原発の構内には同じ悲しみが見あたらない。「想定できなかった」とかいう、信じがたい裏切り。東京の電力会社が何故、福島に作っていたのか。安全と言うなら東京湾内に作るべきであったのだ。いままで金のばらまきと政治力で、福井、石川、福島などの地方に押しつけてきた。このような事業を推進してきたと政治と東電のシステには、人間の暮らしや顔が見えない。見えるのは人間の顔を真似た鬼の顔だけである。

5 僕の萎えたこころでは、何も主張したくないのだが、力を振り絞って提案する。復興省を作るなら、ソフトバンク孫社長に大臣をお願いするしかないと思う。東北には自動車産業関係の大手企業工場だけでも1000社、年間の売り上げでも1兆円のすその産業網が広がっていて、言うまでも無く一大拠点であったのだ。そのネットワークがかなりズタズタにされた。従って、復旧ではなく新しい構想に基づいた復興でなくてはならない。世界基準であるSPEEDI基準では、安全なエリアは30キロの半径ではまったく収まっていない。宮城南部地域も含む蝶々の羽のように汚染が拡大しているようだ(西部の内陸部は、逆に20キロ半径で十分な様だ)。一言でいえば、政治と東電原発政策によって、福島の優良な漁場であり、美しい海岸もあった浜通り一帯をほぼすべてを失った。おそらく、数年から100年ぐらいは使用できないだろう。それだけではない、僕の故郷である宮城県、そして岩手県も海側は壊滅的な状況だ。「風評被害」も広がるだろうし農作物、海産物全体の産業を考えれば東北全体の復興の強くて大きな構想が必要だろう。その構想の大きさと迅速さに耐えられるリーダーは誰だ。誰が出来るか。

僕は若い天才的な実業家孫さんしかいないと思っている。いま、バランスが取れたリーダーは日本に他には居なそうだ。まあまあが得意の日本にふさわしく、まあまあの先鋒や中堅は強いが大将が見あたらない。もう、孫さんしか居ないんじゃあないか。孫氏の兵法を発揮してもらうのが確実で早い気がする。また、韓国籍の彼は多分大臣になるのは法的に無理だと思うが、超法規も含めて対処することで、”ついでに”日韓の距離も一気に縮める方策でも在る。確かにこれは思いつきだが、民主党の内部で人材は無理、問題外だからね。いま(29日)、テレビで津波被災地でアルバムを見つけて涙している家族を報じていた。もう、思い出は汚れて破損したアルバムにしかないんだ。本当にお気の毒です。こういう事態の細部も理解出来る苦労や貧困も経験している人物でしか解決し得ないように思える。復興省は東京に設置してはいけない。仙台あたりが良いだろう。現場に近いことが必須だ。僕はツイッターFACEbookも入っているが使って居ずできないが、誰か、若い人々よ!孫さんを中東革命ならぬ、日本の復興革命のリーダーとしてFACEbookで押し上げてくれないかなあ!

被災の皆さんの希望する新しい郷土はやがて出来ていきます。力強くじっくり行きましょう。ベトナムのちいさな個々人でさえ、あなた方に愛を発信しています。そして、世界からも愛がもっともっと届けられましょう。

僕のこちらもご高覧ください。 http://vciat.blogspot.com/

2011-03-24

大震災後にもかかわらず、セミナーにハノイ工科大学生300名出席!

ハノイ発■今回の大震災に突如被られた東北・関東の方々とご家族に誠心のお見舞いを申し上げます。私事ながらも私阿部は、仙台出身で在ります。

さて、このような大変な事態を迎えて、11日のハノイ第一農業大学での学生募集セミナー(開催時間中に震災が起きていた)、14日には、北部地方の理工系大学の名門フンイエン技術教育大学、17日は恒例ハノイ工科大学で当校の学生募集セミナーを実施した。既報だが農業大学は当校で初めての「日本の農業法人向けのエンジニア」の育成です。農業大学に女性の方が多い350名、フンイエン大は何と600名、ハノイ工科大は雪でも降りそうな異常な寒冷日で心配したが300名の出席があった。14日も17日も開会冒頭で、当方から地震の被害などに付いて説明した。当方はこの震災の事態を深刻に受け止めているので、彼ら学生の気持ちの有り様を心配したが、「日本企業に就職して、日本に行きたいかあ」と呼びかけると両校とも歓声を挙げて90%以上が元気よく挙手。本当に有り難いし、彼らの真剣さがストレートに当校スタッフに伝播して来た。でも、当校が入学許可するのは、4月クラス10名、7月の予約クラス10名の精鋭のみの少数。とても残念です。

abevci@vietnam-waeda.org 阿部

http://vciat.blogspot.com/

2011-03-23

僕ら17才の「風に吹かれて」1966年

僕らの、17才の僕らの「風に吹かれて」

エビスビールコマーシャルで、風の国ビールですと役所広司がつぶやいて、旨そうにビールを飲んでいた。風の名称がほんとに2000もあるのかいな、と思いつつ風という浪漫がもつ響きで、ボブ・ディラン「風に吹かれて」を思い起こした。そして45年前の僕たちの姿をもね。

How many roads must a man walk down

Before you call him a man?

Yes, 'n' how many seas must a white dove sail

Before she sleeps in the sand?

Yes, 'n' how many times must the cannon balls fly

Before they're forever banned?

The answer, my friend, is blowin' in the wind,

The answer is blowin' in the wind.

どれだけ遠くまで歩けば大人になれるの?

どれだけ金を払えば満足できるの?

どれだけミサイルが飛んだら戦争が終わるの?

その答えは風の中さ 風が知ってるだけさ

・・・・

翻訳は数々あるが、これは忌野清志郎の翻訳である。ディランは、当時の英語詩翻訳の代表格であった片桐ユズル氏の訳詞が気に入っていなかったという風評も強く、未だ定番の訳がない。特にもっとも大切なラスト2行のニュアンスが、微妙だね。

英語の苦手な僕ですが、僕なりの解釈はこうだ。

「(友よ!)答とは(昔から)風の中にあるものさ。答はいつも風の中で舞っている。」

この詩は解説するまでもなく、1960年代の全世界の若者の心象を現していたのであった。当時、ジョンバエズや、PPMとかの厭戦的なフォークは他にいくつもあったが、全世界的なベトナム反戦闘争の時代の若者の思いと声に応えていた歌はこの「風に吹かれて」であった。僕は特別に音楽少年ではなかったが、中学3年でビートルズの衝撃を受けていた僕は、ローリングストーンズも聞き始めていて、「洋楽」一辺倒の音楽ライフに浸っていた。小島正雄の9500万人のポピュラーリクエストくらいしか田舎の高校生に情報はなかったが、ニール・セダカ、ポールとポーラ、カスケーズ、シルビーバルタン、リトル・ペギー・マーチビージーズ、スコット・マッケンジー、フランス・ギャルとかのきら星が限りなく居て、ラジオや買った来たドーナッツ盤を通して僕たちに次々と新鮮な楽曲を提供していた。もちろんザ・タイガースカーナビーツ、オックスなどのGSも盛り上がっていた。

それを僕たちは魂と肉体にすり込むように毎日聞き入ったよね。また僕らは小学校の時から、「うちのママは世界一」「パパ大好き」「名犬リンチンチン」「名犬ラッシー」「サーフサイド6」「ルート66」「ビーバーちゃん」「陽気なネルソン」「ララミー牧場」「ローハイド」「幌馬車隊」「ハイウェイパトロール」「ライフルマン」などのアメリカ製テレビドラマの洪水の中で育った。だから僕たちのあこがれはアメリカだった。僕たちは価値感とか、正義感もそれで学んで高校生になった。

1966年秋だと思う。仙台二高の小さなサークルである映画愛好会(学校そばの河原で昼間から宴会して酔っぱらい、後日、学校に解散させたれた)の会長であった僕に音楽好きの後輩の小野寺が、頭ぼうぼうで髪が逆立ちしているような風貌だが、顔は憂いがあるようなハンサム男の写真を僕に見せてくれた。これが、噂のボブ・ディランだという。奴は、「彼は、朝起きて髪もとかさず、そのままレコーディングにいったり」「いつも風来坊で、レコード会社も困っているらしい」と、かなり低レベルの評論を校舎三階にある映画愛好会の狭い部室で、ぼくに言ったものだ。「スゲーナー」僕なんかそれだけで、ぱっと未来が見えた気がした。その相貌だけでね。日本の高校生はみんな「バイタリス」を頭に振りかけ櫛を入れていた時代にだ。そのとき僕は、本当に衝撃を受けた。これが、あのボブ・ディランか。そうか、あちらの文化は今そうなっているのか。ハリウッド製アメリカのテレビドラマの幸せな家族は幻想だったのだな。

その写真を見つめ、僕はビートルズストーンズとも違い、つまり音楽の革命性だけでない俺たちの時代の生き方を一瞬にして、予見できたような気がした。ああそういうことか、僕らには、もう一つの生き方があるんだ、とぼくはそう合点した。たかだか5分ぐらいのたわいない高校三年生の会話の中だったが、人生を変えた一瞬であったのかもしれない。「よし、東京へいって、どうしようもない大人たちに闘いを挑もう」と僕は決意した。

 

音楽は世界を変える、なんていうフレーズはきらいで、「へっ」何言ってんだよ、具体的な闘いだけが状況を突破するのだ、十代は真剣に思考していた。でもやはり、音楽は世界を変えうるパワーを持っている。それはいま、はっきりとしているね。若者が思うほどには世の中は急激に変化しない。そう、答はいつも風の中で舞(ま)っているだけだからね。

3月11日、二高の友人の一人をあの津波が奪った。さらに既にこの45年間に無念にも病死や事故の死、そして自死に至ってしまった僕たち二高の同期生の何人かの面影も今改めて思い起こす。青春という何にも代え難い最も大切な時間を共に歩んだ友人たちに僕はオマージュとしてその時代の一つの心象を捧げたいと思った。じゃあね、もう少し経ったら、僕たちも行くさ。

*去年7月にブログに記載した「僕の風に吹かれて」を加筆再編集した

2011-03-21

大震災VS,仙台二高のネットワーク

2011年3月21日月曜日

震災VS,仙台二高のネットワーク

■いま、狩野研二郎くんの死亡の情報が寄せられた。実に残念です。彼の16才か17才当時の顔と声が蘇ってくる。彼は石巻の市立病院に勤務医としており、院内かその近隣で巨大な壁のような津波を受けたようだ。途轍もない海水の洪水の中で自らを顧みず懸命に患者さんら多数を救助し遂には命尽きたと聞いた。本当に悲しい。早すぎたよ、狩野。次々に情報が入ってくるが、君が残念ながら僕たち二高(19回卒業者)の一人目の犠牲者となってしまったようだ。君の善意と強い意志はおそらく君の石巻の病院の医師看護師復興の志として受け継いでくれるはずだよ。見守っていてください。さようなら。

合掌。

現在、仙台二高(19回卒)地震安否情報のメイリングリストに、仙台地震津波に遭遇した体験、友人たちの安否情報、また、他県から仙台多賀城、また塩竃などにいる親や親戚の救助に向かった同窓生たちの行動や目視したことの生なメールがたくさん綴られて来ている。狩野研二郎くんの悲しい知らせもその一つである。この情報のネットワークは同窓会の幹事でもあった庄子友康くんが、19日から自発的に始めたネットワークだ。同窓生は400名位はいたと思う。彼の手元にある120名のメールアドレスを頼りに「あいつは無事だ」「昨日電話通じた。無事だ」「被害は相当だが、家族も生きていると聞いた」と言うようなメール登録のない友人情報が庄子の所にたくさん寄せられている。彼からまだ聞いてはいないが、同窓生の半分以上の現況情報があると思う。こういう時、まずは情報だ。その情報に従って人はより効率的で可能性の高い行動が取れる。そういう意味では、いま、困難時の重要な柱となっている。僕の弟は20回卒だし、僕のハノイの学校の教員に仙台二高の後輩同窓生(現在46才かな)がいるが、そういったネットワークは無いようだ。

僕たちは1964年四月に市内の上杉山中学や、二中、五橋、木町通りあたりの中学から、宮城県仙台第二高等学校に入学した。そして、狩野も含む僕たち15才、16才は輝くような希望の息吹を体中から発散させて、三年間を広瀬川ほとりの校舎で過ごした。その僕たちは現在62才となった。そして、大震災と向き合っている。

■この地震安否情報に寄せられた津田裕司くんと、ネットの中心の庄子友康くんの「仙台の被災のリアル」報告をお二人の許諾を得て転載した。

2011年3月16日3時22分

(庄子)津田裕司君から詳細なメールが来ました。

3Dというよりも補習科関本先生にお世話になった津田です。

庄子さん、幹事ご苦労様です。

小職は現在千葉県市川におりますが、母が仙台南光台に居るので、13日(日曜日)に車で仙台に行きました。本日朝4時30分に市川に戻ってきました。母も小職も無事で問題はありません。南光台での1週間の生活をご参考までに以下に記します。

日曜日の夜、仙台へ車で行きました。4号線を北上して10時間程かかりました。福島県との境の国見峠を越えた途端に真っ暗になりました。全く光のない世界に入った感じです。車の光だけで周りには光はありません。光があるのは、自家発電をしている病院だけのようです。仙台市内まで信号は大きな道路との交差点のみついていました。電源車でも使っているものと思いました。市内中心部には電気はきていましたが、周りは消えているところが多いように感じました。

小職の母の居る南光台も真っ暗でした。水道も出ません。ガスは自宅が古く、都市ガスができる前からのプロパンガスなので大丈夫でした。母は元気ですが、家の中を片付けるまではできませんので、一週間仙台にいることにしました。

この1週間の生活状況を報告します。

1.水

給水所に月曜日に行きました。4時間待ちましたが、あきらめました。夜遅くなったのと600人ほど並んでおり、小職は300人程のところにいたのですが、19時30分になっても給水車が来ないので、帰ることにしました。火曜は朝から並びました。それでも2時間待って一家族10リットルの配給でした。隣の独居老人から頼まれている、という人がいましたが、給水の係員から、確認できない、と言われて再度並ばされたといっていました。新聞報道で南光台は25日には回復する予定とのことですが、場所によってはもう少し早めに出ると思われます。

2.食品

食品を購入するにも行列です。近くの小さな地元スーパーに行きました。運がよく、早めに並ぶことができ、1時間ほどで一人5点の制限分を購入できました。火曜日は生協のスーパー、大型スーパー2軒に行きましたが、開いていたのは大型スーパーだけでした。しかし、行くのが遅かったためか、本日の営業はここまで、と並ぶことさえできませんでした。歩いて帰る途中に100円ローソンが開いていましたので並びました。小職の後5人ほどで本日は終了となりました。約1時間並びましたが、店の中に入るのではなく、入り口に店にある品物を数十種類並べてそれをお客が10個選ぶ形で対面販売をしていました。

16日頃に青果市場が開いた為、野菜も陳列されていました。しかし、値段は2倍から3倍になっていました。おそらく入荷が少ない為と思われました。来週にはもう少し潤沢になると思います。

3.電気

小職の実家は月曜日の朝10時に通電しました。しかし、数十メートル先には火曜日にも電気はきていませんでした。運が良いといえます。19日夜に仙台を出たときには、4号線の沿線は福島県との境まで全て電気がついていました。

4.ガソリン灯油

売っているお店がほとんどありません。それでもガソリンスタンドの前に車が100台以上並んで待っています。いつタンクローリーが来るか全く判らないまま、待っていると話していました。小職のインサイトは満タンにすると40リットル入るので

東京仙台間360kmの往復は可能でした。東京で満タンにしてきており、来る時は24.5km/?でした。帰りは万一ガス欠になったらと考え交通渋滞のない夜に仙台を出ることにしました。21時に南光台を出て、市川に4時30分に着きました。7時間30分で着いたことになります。帰りは渋滞がなかったこともあり、26Km/?走りました。往復720Kmですが、あと、100Kmは余裕で走れると思います。

なお、灯油も同様で売っているところはありません。水曜日から仙台は雪が降っておりますので、寒い中暖房なしで過ごす人がほとんどだと思います。

5.ガス

都市ガスからの発表では復旧に1ヶ月以上はかかるとの情報です。食品購入や水をもらうために行列で並んだ時に周りの人達と話したところ、電気で料理をしている人や、庭で木々を燃やしてバーベキューのようにして炊飯をしている、との話でした。

6.お店

95%以上のお店が閉まっています。開いている店には必ず行列になっています。床屋が開いていましたが、『断水のためシャンプーはできません』との張り紙が出ていました。

7.建物

自宅(南光台:仙台の北側の丘陵地)の近所を約1時間ほど歩きましたが、かなり建物がダメージを受けています。

 1)10分も歩けば5〜6ヶ所でブロック塀が倒れているのを見つけることができます。倒れているのは鉄筋が入っていないあるいは少ないブロック塀や大谷石の塀がほとんどです。方向での割合は東西方向が5対南北方向2位でした。

 2)瓦屋根で稜線に山のように瓦が数段載っているようなものは殆どがその部分が倒れています。その結果だと思いますが、屋根の瓦も一部剥がれています。スレートや軽量瓦は問題ないようです。

 3)ビルでも地盤が悪いものや、古い建物はヒビが入って立ち入り禁止になっている2〜4階建のビルがあります。壁がはがれ落ちているのも何軒か見られました。

8.道路

5cmから10cmずれて盛り上がっている道路があります。道路のヒビ割れは2cm位までならいたる所に見られます。但し、ヒビについては車が通るのに支障はあり ません。

9.液状化

この団地ではほとんどみられませんが、一番低いところでは若干の液状化現象がみられました。但し、泥や砂が少し出てきたという程度で、泥の量も2〜3cm厚位で広がりも2mx10m程度でした。  以上ご参考まで。津田裕司

■庄子友康くん報告

私(庄子友康)自身の状況をお話しします。

東京に住んでいる長女が仙台で痔の手術をするため生後8ヶ月の孫を連れて帰ってきており、3月11日の午後午後1:30から手術というので、終わったら泉区にある肛門科の病院に行こうと思っていました。

そこへ兄から電話があり、老人ホームに入居している92歳の母が肺炎になり、厚生病院に救急車で運ばれるので行ってくれと言われました。2時半頃厚生病院の1階に入ったところで地震に遭いました。

しばらくして母が着きましたが、停電で病室まで運べません。夕方になってやっとエレベーター1基が自家発電の電源で動き、病室に運びしばらく付き添ってから自宅に帰ったのは午後7時頃でした。33年前の宮城県沖地震では信号が消え、道路が車で溢れて身動きが取れなかったことを思い出し、多分今回も同じだろうと思っていたら、幹線道路は信号がついていて意外とスムーズに家に帰れました。

翌日以降は家内か私のどちらかは赤ん坊を見なければいけないので一人しか動けず、代わりばんこで水や食料の行列に並び、合間に二つの病院を回りました。そのうち、娘のいる肛門科の病院から1週間入院の予定だったが、食料がないので退院してくれと言われ、13日に引き取りました、また、厚生病院でも母の状態はほぼ回復したのでベッドを空けてくれと言われ、

14日に退院して老人ホームに連れていきました。

市の中心部にあるマンションの事務所では15日から従業員に出てきてもらい、書類や本、パソコン等が散乱した室内の片付けを始めましたが、電気は来ていたもののエレベーターは止まっており、水道もでないし、従業員も自宅の片付けや買出しが必要なので、18日までは午前中だけの勤務にしました。それでもなんとか室内は片付き、エレベーターも復旧し、水道も出るようになり、私はこの連休も仕事をしています。何ヶ月かしたらみんなで集まりましょう。庄子友康

■以上。

2011-03-14

大地震へのベトナム人の感想、コメント

■日本から飛行機で約5時間離れたハノイにいる僕。近親ではまだ、仙台の銀行員の弟から返事もないし連絡も入らない。仙台の母が元気であることは既に書いた。いま、このハノイから出来ることは何かだ。僕に少し可能なことは、ベトナム人のこの震災に対する思いとか衝撃とかの感想を聞く事だろうと思って、また、朝からここを書き始めた。BBCのニュースを始め海外メディアの放送ぶりも気づいたことがあれば書こうとおもう。BBCもCNBCニュース、NHK国際放送(何故か英語のみ)なども、繰り返し気仙沼三陸あたりの津波映像、火事の映像を流している。福島原発の建物上部破壊の写真も何度もテレビで流れている。だが、東京の画像はほとんど無い。

震災の起きた11日の2時頃はハノイの郊外にあるハノイ第一農業大学で初めての当校学生募集のためのセミナーの最中であった。女性が多い300名以上の学生が「日本の農業関係に就職したい」と熱い思いをもって参加していた。日本の農業の見直しの時代に対応した当校は「農業法人やバイオ、食品加工、獣医関係の就職を目的」とした大学生の募集に今回初めて踏み切った。広い意味の農業技術者の育成である。実は、本日は地方の理工系の有名大学フンイエン技術教育大で、今まで通りの恒例の「日本のメーカーで正社員エンジニアとして就職しよう」のセミナーがある。今日は不安で一杯だ。日本は怖い。地震が不安だ・・まだこれは良いとして「放射能が怖い。今後どうなりますか。」「親が日本に行くなと言い始めた」と質問などで言ってくることが予想される。僕のプレゼンも頭から「心配ないよ、日本は今後すぐ立ち直るよ」と言うつもりだけれど、本気で何処まで言えるのだろうか。

以下、土日はあんまり人に会っていないので、感想点数が少ないが、マスコミのコメントも思い出して並べてみた。この項コメントをずっと書き足す予定。

1 可哀想で悲しくて涙が止まらない・・・・・ブオン

2 津波は仕方ないが、地震による倒壊が少ないようだ。流石に日本の建築技術は凄い・・・「テレビのコメント」だとブオンから

3 「凄い、大災害なのに、日本人は冷静にお店で行列してる」・・・・・ブオンのコメントと、テレビのコメント

4 食品などの値上がりがない。価格をつり上げる悪質な商売人がいないようだ・・・・・テレビコメント

5 「あなたの家族大丈夫ですか」・・・・・鈴木先生が日曜に掛かったベトナム人医者

・・・・・・

11 地震があって親が日本行きに反対していますか?の当校教員からの質問に、苦笑と照れ笑いを交えながら30〜40%の学生挙手。

・・・・・・

■15 阿部さん  3月11日仙台を含む東北地方には大変な地震津波はあり、大きな被害は起こっています。この大被害にベトナム国民も大きなショックを受けております。阿部さんのご家族、ご親族、お知り合いの方々の状況は大丈夫でしょうか。心配しています。ご連絡をお待ちいたします。THU・・・・・運輸交通省国際局次長ツーさんからの日本語のお気遣いメール

・・・ http://vciat.blogspot.com/  の本体のブログに続きがたくさん出ています

2011-03-13

仙台の老母の大地震

仙台の老母の大地震

■11日金曜、僕はハノイ農業大学で300人規模の学生に「日本語を学んで、日本で農業法人に就職しよう」という当校のオリジナルの学生募集セミナーを実施していた(近々ハノイ工科大などでも恒例実施)。成果もまずまずで、学校に戻り簡単な総括済ませた後、日本教師3人と連れだって、近所の何時ものBIAHOIに行った。いつものように地生ビールと「ゆで豚」など頼んだりして、今日の疲れを癒して「ああだ、こおおだ」と雑談。良い夕べであったが、オフィスに8時過ぎ戻ってパソコン開いて緊張が走った。と、同時に教務室に一緒に戻って、事態を知ったらしい仙台出身の先生も、僕の部屋に飛び込んできた。仙台東京大地震で被災したという。それも6時間も前のようだ。酔いが一気に引いた。

僕のパソコンには東京の娘から、緊急の知らせメールが2,3本来ていた。無事らしい。すぐに、災害のなさそうな宮崎の息子に電話。彼は仙台の母を気遣って、世話している弟の家族に既に電話をいれれおり、母は無事らしいことはとりあえず解った。ありがとう。後は、所沢の僕の家にある亡くなった妻の祭壇と同居の2匹猫のことだ。地震の瞬間、部屋の中はどうだったのだろうか。娘が、西武線などの電車稼働状況見て、今日明日中に行ってくれるとのことで、とりあえずは安心。

こういう時って、人は慌てるよね。仮に若い妻と幼子が、仙台にいるとすれば、ハノイの僕は動転したのだろうと想像出来る。でも、今回多少血相を変えたが僕自身の内心はさして慌てることもなく、さめた状態で母親の安否を息子から聞いた。「ああそうか、良かった」とは言ったものの、僕の安堵感とはこんな程度なのかと思うほどだった。僕を生んで育ててくれたあの優しいそして美しく老いた母親の安否を確認しての喜びというか、安堵感ってものの自分の受け止めの表現が何故この程度なのか。解らない。そういえば、去年3月1日に94才で亡くなった父の時もそうであったが、父親の死を悲しいと思うという自然現象を自分で上手く組み立てが出来なかった気がした。亡くなったという事態は論理的に受け入れ、厳粛に遠いハノイから夜空を仰ぎ、天に祈ったが、慟哭には至らず、幾つかの僕の幼少時の思い出に浸っただけであった。僕はいつの間にそういう感情を枯渇させてきたのか。老齢になるとはこういう事なのか。

たったいま、オフィスにいる僕にちょっと離れたところにある自宅にいるブオンから、スカイプが入った「こちらに来る前にオフィスの神棚にお線香を上げて来てください、日本の被災のためのお祈りです。いま、家でも、同じ事を祈ってお線香をあげました。ニュース画像を見ていて涙がとまらない」という。有り難いなあ。ベトナム人の素直な感情に対して心から敬意を払うよ、ありがとう。事態への自然な理解と衒いのないヒューマンな思いに人間の希望を見る。眼球の深部と脳髄の交差する地点あたりから熱いものがこみあげてくる。

僕の母は1925年、大正14年生まれだ。今回の津波でも大きな被害が出たであろう宮城県志津川町で生まれ幼少をそこで過ごした。彼女は僕が小学校6年生であった1960年のチリ地震津波の時に仙台の家でとても印象深い話をした。彼女が小学校2年か3年生のある晩に母親と手をつないで、海岸に散歩に出た。母の実家は呉服屋で海岸まで4,5分の所にあった。実は僕が30才代のとき、妻と母と子供たちと訪れた事がある。8才の母と当時30才前後と思われる祖母は、散歩の途中に砂浜の小高いところに佇んで、暗い海と夜空を見たそうだ。多分何気なくね。そこには満天の星々が煌めきさんざめいていたという。

でも、その星々の輝きは美しすぎるほどで放つ光は暗い海を見渡せるほどに強く明るかった。「お母ちゃん、お星様がとっても明るいね」と手を引いている若い母に彼女は不思議さと不安もあって声を掛けたであろう。驚異の思いで見つめたであろうその光景が母の記憶から消えることはなかった。そして次の朝、昭和の三陸地震と巨大な津波がこの町や周辺のリアス式海岸を襲った。1933年、昭和8年の事だ。今度、来月でも母を訪ねたとき、このことを改めて聞いてみようと思う。「さあ、どうだったかしら、忘れたわ。ふふ」と老人ホームの一室でスマイルで応えそうだが。世話している弟によると、母は多分恐怖からだと思うが、精神的に興奮しているとメールに書いてきた。

2011-03-04

ハノイ(第一)農業大学でも、学生募集セミナー、3月続々、開催!

いよいよ、大学での公募セミナーの季節が始まった。

ハノイ発■日本の不景気はほとんど政治の「人災」に近い有様ですが、でも、僅かでも上昇の兆しが出てきたのでしょうか。別の見方をしますと、不景気の延長線上にベトナムの注目が増していると言えるのかも知れません。中小企業に於ける海外での活路の模索は、現実味を帯び出してきていると言うことでしょう。ともかく、問い合わせは、着実に増えつつあります。

さて、3月11日を皮切りに、第一農業大学、フンエン技術大学、ハノイ工科大学の学生募集セミナーが続きます。特に日本の「農の見直し」「ベトナム農業の有機化のスピード」に焦点をあて、当校では、初めて”農業技術者”の日本語育成を始めます。

当日は、バイオテクノロジー学部、畜産学部、獣医学部、食品加工学部農業技術学部など、700名の学生が参加予約したそうです。凄い注目度です。2008年春にハノイ工科大の当校のセミナーに300名が集まり、大学内で話題を集めましたが、それの倍以上。嬉しい限りです。今夏には、日本とハノイで、日本の農業法人を集めての「農業技術者採用戦略会議」を開催予定です。

abevci@vietnam-waseda.org

http://www.vietnam-waseda.org

vn携帯 084−90−7490−720

jp携帯 090−1767−7063

日本不在が多いので、上記メールにて、ご連絡ください。阿部

2011-03-02

エレン・ブロコビッチのハリウッド的

■いま、半藤一利さんの「あの戦争と日本人」を読んでいる。論旨が明快でさばきも痛快。以前読んだ彼の「昭和史」「昭和史 戦後編」もそうだが講演原稿に手を入れたものだから、取っつきやすい。その上、講演のトークなので、「受け狙い的な」サービスもあって、面白い。彼は、岩波でも、筑摩でも朝日でもなく菊池寛文藝春秋社といういわば「右」の出版社で編集長になった人だけれど、彼の客観性というか執拗な実証に基づいた記述は立派。個人的な依怙贔屓(えこひき)や毛嫌い感の混在も時としてあるし、官僚と軍人の責任に対する厳しさ不足に左翼上がりの僕としては戸惑う時もあるが、全体的に江戸っ子的であっけらかんとしていて、潔ぎいい。大佛次郎天皇の世紀 第五巻」(文春文庫全12巻)は、ちょとペースが落ちてるかも。まだ50ページだものね。ただ、ややうんざりしていた勤王攘夷の時代から倒幕が明確になってきた時代に移行しつつあり、全く知らなかった歴史にふれている新鮮感がある。面白さはまた隆起してきそうだ。

また、カリフォルニア大学教授で東大の「数物連携宇宙研究機構 IPMU」初代機構長の村山斉の「宇宙は何で出来ているか」も並行して読んでいる。驚く事に宇宙についての、宇宙物理学に付いての人類の到達している知識は、この数年で大幅に変わったらしい。宇宙空間は何で出来ているのか。ほぼ真空状態などと考える30年前、40年前に高校や大学で物理で習ったことなど、ほとんど捨てて良い知識のようだぜ。何と宇宙の全体の23%は暗黒物質というもので出来ているらしいのだ。更に73%は宇宙が膨張しても「薄くならない」暗黒エネルギーというお化けな「物」で構成されているというのだから解らない。その他の微少な%は星と銀河、さらにニュートリノなんだそうだ。ふむふむ。イメージ化出来ない物が多すぎるけれども、だんだん解ったような気分になれるとことが、何と言っても白眉の本だ。

東京外語大学学長の亀山郁夫さん翻訳のドストエフスキー悪霊1」(光文社文庫全三巻)がやっと出たので早速購入して末尾の「読書ガイド」だけ我慢できずに読んだ。一昨年、亀山翻訳ドストエフスキーカラマーゾフの兄弟」(光文社文庫全五巻)と同じく「罪と罰」(全三巻)も読み通したのは、どうしても40年前、つまり20才のころ没頭して読んだ作品を亀山訳で読みたく念じていたからだ。このブログの2008年11月18日にも書いた。当時「カラマーゾフの兄弟」を”塀の内側”にいる間に何とか読みこなそうと考えて、友人に差し入れてもらったが、有名「大審問官」章に届かぬ前の一巻の途中で撃沈させられていたのだ。でも、そのとき、一気に読めたのがこの「悪霊」であったのだ。借りた本であったので、江川卓訳か米川正夫訳か定かではない。けれども空恐ろしいそして美しい青年の人間としての磁力に魅せられた。人間の複雑さを多分初めて教えてくれた本だと思う。読んだ場所が場所だから、より身に染みた。

NHKBSで、先日ジュリア・ロバーツの「エレン・ブロコビッチ」を観た。やっぱり、ハリウッド的映画の最高傑作の中の一つじゃあないかな。劇場で、また、DVDで観ているので3回目のはず。3回見ても、良い物は良い。映画的な面白要素をふんだんに持ってるからだろうね。昔、「少年ジャンプ」誌が、老舗の少年サンデー少年マガジンを抜いて毎週650万冊販売に到達していた80年代、そのような天晴れなマーケティング的編集は、三つの要素に収斂して作家に書いてもらっていたと言う。それはね、「友情」と「努力」と「勝利」だそうで、言われてみれば身も蓋もなくサラリーマンの感性とおなじだ〜と思うが、当時の名物編集長が述懐した著作に詠ってあった。でもさあ、人はこういう標語に極めて弱い所があるね。多才で俊英な作家たちを奮い立たせて、新境地を開拓させる訳だが、友情、努力、勝利って、実はシンプルに捉えて目的化させられれば、これ以上解りやすいプロパガンダはない。この三要素が日本の80年代のお宅たちも巻き込んで毎週650万部発行という途轍もないハリケーンエネルギーを発生させたのであった。

では、ハリウッド的要素って何だろうか。ちょっと並べてみるか。1:アクション=暴力、2:セックス(セクシー)、3:ヒューマニティー(博愛)、4:愛=恋愛、5:冒険、6:ファンタジー、7:ミステリー、8:ユーモア=笑い、9:恐怖、10:勧善懲悪、11:ゴージャス=華麗、12:美男美女、13:ハッピーエンド、14:社会性=正義、15:母性=家庭、16:男の友情、17:戦争(戦闘)=革命・・あとなんだろうなあ〜。並べてみたが、同列に並べて良い要素なのかも解らない物もあるね。では、ちょっとはまり具合をテストしてみよう。

まず、大御所「007シリーズ」でテスト。やっぱー、「1」と「2」と「10」と「11」と「12」か・・。ハリウッド要素のオールスターだね。最近ので、見てみよう。J・キャメロンの「アバター」はどうかな。「3」「6」「14」と「4」もかな。さて、「エレン・ブロコビッチ」はどうだろうか。何と言っても僕大好きのジュリア・ロバーツの「2」。豊満なおっぱいと、ミニから飛び出た御御足(おみあし)だァ。「8」「14」と「15」。当然だね。「3」のヒューマニティーと「13」のハッピーエンドの扱い難しいね、基本的映画の構成要素といえるからね。まてよ、世界の映画ってハッピーエンドは、どうなのだろうかな。よく考えると意外に多くはないのかも知れない。アメリカ的楽観主義の権化がハリウッド的「ハッピーエンド」だとするとさ、実は「幸福な終わり方」は特殊なのかしら。

ハリウッドは今も昔も、泣かせるポイント、感動で身震いさせるポイントもその要素を何処でどのように組み合わせるか、どの順番で構成するか、シノプシスを書き出す段階で「感動の事業計画」を算出してる。いまでは、コンピュータ管理されているはずだ。観客の心理というだけでなく、皮膚の裏側あたりにある「生理」的な感情をも感動に昇華させるノウハウを確立させている。一種のマネージメントテクノロジーであり、マーケティングだ。もちろん「仕込みの計算」通りには行かないのが映画や演劇だし、頭からこういうことをしない世界の手作り映画人も多い。

ハリウッドの名作というと・・僕の評価で挙げれば「キングコング」「駅馬車」「シェーン」「博士の異常な愛情」「荒野の七人」「荒野の決闘」「市民ケーン」「真昼の決闘」「80日間世界一周」「イージーライダー」「狼たちの午後」「俺たちに明日はない」「真夜中のカーボーイ」「スケアクロウ」「明日に向かって撃て」「パララックスビュー」「カッコーの巣の上で」「逃亡地帯」「バットマン」・・・・あれれ、あとなんだっけなあ。すらすらっと50位は書き出さないとね〜。完全に記憶力失ってるね。映画事典みないと思い出さない・・さて、今から授業だ。土曜日(本日26日)だが特別授業って奴さ。と言うことで半日後、映画事典見ながら、「ハリウッド作品」の(僕の主観的)名画のみリストアップしてみた。順番とか、未整理。

チャップリン黄金時代」「ベンハー」「怒りの葡萄」「イブの総て」「エデンの東」「ウエストサイド物語」「マッシュ」「卒業」「サウンドオブミュージック」「ロッキー1」「ゴッドファーザー1」「タクシードライバー」「2001年宇宙の旅」「アニーホール」「ボギー、俺も男だ」「7月4日に生まれて」「ブレードランナー「レッズ」未知との遭遇」「スターウオーズシリーズ」「「ミシシッピーバーニング」「サルバドル」「ホテルニューハンプシャー」「フィールドオブドリーム」「アマデウス」「プラトーン」「シンドラーのリスト」「ロードオブザリング シリーズ」「ダンスオブウルブス」「JFK」「ザ・プレーヤー」「モーターサイクルダイアリーズ」・・・英米合作とかは、純粋ハリウッドでないので外し、また「ボーリングフォーコロンバイン」などマイケル・ムーアの作品もハリウッドと言えないので外したつもりだけれど、上記50本に、純粋ハリウッドでない作品が一部混在しているかもね。しかし、50本だと穴だらけで、名作の一部だけしか拾えない事もはっきりするね。

で、エレン・ブロコビッチ。上記に重要構成要素を書き出したが、やっぱし、スチーブン・ソダーバーグ監督の思想の御旗が屹立している映画だ。言うまでも無く彼は「セックスと嘘とビデオテープ」「チェ 28才の革命」などの今やアメリカを代表する監督だ。「エレン・・」映画としての完成度が高い名画だと思う。オリバー・ストーンプラトーンなどベトナム戦争三部作、JFKなど)も、アーサー・ペン小さな巨人、逃亡地帯、俺たちに明日はない、など)、ロバート・アルトマンパララックス・ビュー、マッシュ、ザ・プレイヤーなど)、製作やプロデューサーも多いウォーレン・ベイティレッズ)もそうだね。明確に己の思想を社会に問うている。ハリウッド的要素は技術の問題だが、その前にアメリカの自浄的チャレンジ精神が発揮されているものも少なくない。

アメリカの病巣を果敢に切開してきた監督やプロデューサーは彼ら以外にもたくさんいる。ハリウッドは国家に楯突く「反戦」や「革命」、そして「大統領の陰謀」まで堂々と製作して来た。それを考えると日本の映画会社の「小心ぶり」は本当に非道いなあ。ハリウッドは単に社会派とか言うような陳腐なことでなく、「売れるなら、革命も売る」精神だから嬉しくなる訳よ。娯楽として、プロパガンダとして、記録として、ハリウッドは名画を生産して来た。夢工場だね。「夢工場」は僕の尊敬する東映時代の先輩のやまさき十三が作った言葉だぜ。さてさて、これ書いている内に僕の見た名画1000本とか、まとめる作業も何時かしてみたくなってきた。そういえば、息子だったか娘が大学の頃、お節介であったが「僕のお奨め名画100選」リストを作って見せたことがあった。