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2011-05-01
個別的なものを殺すこと - ホンマタカシ「ニュー・ドキュメンタリー」展
美術 | |
「なにも写っていない写真」なるものが果たして可能であるかどうか、という疑問に対して、では「なにかが写っている」とはいったいいかなる事態であるか定義せよ、と応答することもありうるのであって、ひいては多くの場合において写真とは「なにかを写す」ためのメディアであると規定されるのだけれど、写真には「かならずなにかが写り込んでしまう」というしばしば言及される一事はことそれほどに自明であるのかというと、それは必ずしも自明ではないし、少なくともホンマタカシは自身の写真作品においてその種の「当たり前」に対して否と断言しているように見える。本エントリーではその営為を「個別性からアンビエントなものへの推移的運動性」の相において捉えなおしてみる。
最初の準拠点として連作「TOKYO AND MY DAUGHTER」から始める。これはホンマタカシが自身の娘の成長記録のような写真を撮り続け、並行して東京の風景を撮った写真を、並列的に並べて展示するシリーズなのだけれど、ここでホンマタカシはまず「娘」という個別的なものの強度に否応なく写真を支配されつつ、同時に、風景における記号性・記名性がことごとくアンビエントなものになることを確認しており、さらに言うと、個別的なものの極限として屹立し写真を満たす「娘」がどうしてアンビエントなものになり得ないのか、という一点について、極めて論理的な思考実験を繰り返しながら自問を続けている。東京の風景を撮る際にホンマタカシがあえてモチーフとして選択するのは、たとえば交通標識のような記号性自体としての事物であり、或いは新宿のコクーンタワーなどの建築家による記名性が強く刻まれた建築物である。これらの記号性・記名性は、しかしながら、個別的なものとして写真に写りこむことがない。それはなぜなのか。或いはなぜ「一人の娘」でなければならないのか。仮にそれが「二人の人物」であったらどうか。或いはそれが少女ではなく犬だったらどうか。それは一台の自転車ではいけないのだろうか。このような置換を繰り返した結果として、ホンマタカシがこの連作で把握するのは、結局「娘」の個別性と風景のアンビエントのあいだには決定的な断絶がないのではないか、ということであり、「娘」の一項を上述のように様々に置換して変奏することによって、写真は推移的にアンビエントの方へと移行していく。
それでは、と改めて問いが生まれる。それではなぜ「娘」は個別的であり、コクーンタワーは個別的ならざるものであるのか。
写真を規定するのは被写体ではない。それは撮影者の眼差しであり、さらに言えば、プリントされた写真を鑑賞する者の眼差しである。個別的なものが写り込むのではない。写り込んだものを、写真を見る者が、個別的なものとして規定するのである。そしてその規定する眼差しとは、愛着の眼差しであり、または、欲望の眼差しである。「娘」とコクーンタワーが本質的に異なっているわけではなく、それを差異化するのは愛着或いは欲望の眼差しであり、したがってコクーンタワーを個別的なものとする鑑賞者がいたとしてもそれは不思議なことでもなんでもないのだ。
「娘」が個別的なのではなく、「娘」を個別的にする眼差しがあるだけだ。この事態を発見して、ホンマタカシの写真作品は次の段階へと進む。この展開も論理的である。つまり、本質的に個別的なものなどなく、ただ個別的なものを見出す眼差しがあるだけなのだとしたら、むしろ写真から個別的なものを排除しきることを志向するべきではないか、ということである。具体的には、写真を写真に撮る、という手法を積極的に採用すること、そして、同一の人物の写真を複数並列すること、この二点が挙げられる。
写真を写真に撮るとは、撮影者としての眼差しそのものの根源性を放棄し、他者の眼差しを追認することによって自身の眼差しが帯びてしまう愛着や欲望の属性をことごとく廃棄することである。これによって被写体を個別的なものとして差異化する/してしまうことから逃れながら写真を撮ることができる。そして、そのようにして撮影したある人物の過去のポートレイトの再撮影写真と、現在に近い時間に撮影した同一人物のポートレイトを併置することによって、被写体自身を重層化する。これによって被写体の唯一性をずらし、やはりそれが個別的なものとして眼差されることを拒絶することになる。ホンマタカシの写真作品は徹底的に個別性を排していわばアンビエントなものの方へと向かうことになる。
写真のアンビエント化とは、いわば「なにも写っていない写真」を撮ることであり、個別的なものを殺すことである。個別的なものと記号的・記名的なものが異なることは上に書いた。ホンマタカシは近作で、アンビエント化した表層に再度記号的なものを導入して画面を構成する、ということも行っているのだけれど、その作品はもはや「写真」である必要がない、すなわち、「写す」という営為自体が必然性を失ったような「写真」となっている。そのような画面をなおも「写真」と呼ぶことが果たして可能なのか、という疑問も浮かぶが、ホンマタカシが個別的なものを殺したあとに写真表現に託しているのは、いわば痕跡としての写真ということではないだろうか。
「trails」という作品群が展示されている。山の小道というほどの意味のタイトルだが、ここではあえてそれを「痕跡」と読み換えてみたい。その画面には、まさに個別的なものはなにも写っておらず、かつてそこにいたであろう存在の痕跡が写されている。さらに、その痕跡は「本物の」痕跡であるという保証がない。すなわち、それが血痕であるのか絵具を垂らした跡なのかは、判断できない。ホンマタカシは写真を痕跡として提示するとともに、それが痕跡であると誰にも言うことはできないと付言することによって、ついにアンビエント的なものさえも写真から排除しているように見える。それが「純粋な」写真なのか、或いはもはや写真ではないのか、それを決定することは、もはや不可能であるように思われる。
以上のように写真において個別性や現実性を切りとる眼差しを無化してきたホンマタカシが、唯一「殺せない」人物がいる。中平卓馬である。展示の最後に、中平卓馬がタバコに火をつけるシーンだけを捉えた「映像」があるのだけれど、そこに映し出される中平卓馬はまさに個別性そのものではないだろうか。これは今回の「ニュー・ドキュメンタリー」という展示自体が、中平卓馬への徹底したオマージュに貫かれていることの証左であり、ホンマタカシが論理的に突き詰めた果ての写真表現のひとつの極地が、中平卓馬の眼差しに多くを負っているのであることを示しているといえよう。
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東京オペラシティアートギャラリーにて6月26日まで